今日は朝から雲が多かった。
空模様は風に誘われてあれこれと形を変える。あの雲は群れている羊たちのように、あっという間に流されてしまった。
午後からは雨が降るからと何度もやめた方がいいと言われた。しかしながら、雨のしずくはもう天から降ってきた。
広げた傘を握る手に力がこもる。
コンクリートに跳ね返る雨脚にも気にせず歩いていく。
それでも構わなかった。どうしても、今日行きたくて仕方なかった。
すいに会いたい。......その一心だけを心に握って。
何食わぬ顔で体育棟に入り、着替えもせずそのままプールサイドまで上がっていく。
少しは小降りになった雨が水面を叩きつけるだけの、殺風景な空間だった。でも、違うんだ。ここにはひとりだけ、大切な人がいるんだ......。
僕は息を吸い込むと、大きな声を出して呼びかけた。
「すい。......いるんでしょう」
自分の声に反応するように、プールの水面がきらめいた。
待ちわびていた公演のはじまりのよう。真っ暗な舞台に天井からの照明が一点だけを照らす。その光はじわりじわりと強くなり、やがて舞台女優が現れるのだ。
......水面に浮かぶ光がひときわ強くなると、そこにすいの姿があった。
彼女はワンピースを着た姿で、プールの上に立っている。
「やあ、湊くん。......この姿で出てくるのははじめてだね」
そのまますいはこちらに向けてやってくる。泳がないで、裸足のまま水面を踏みしめて。プールの縁まで来ると、僕の方を見上げて顔を上げた。
すいははにかんでいながらも、どこか硬い表情にも見える。瞳はこちらを向きながらも、どこか遠い先を向いているみたいだ。
ある程度は想像していたことだ。だけども、実際目にすると息を?んでしまう。
「......すい」
「......駄目だよ、湊くん。今日は晴れてなんかいないんだから」
どうして来たの? 瞳はそう訴えかけている。それでも、僕は自分の意志でここに来た。
「僕は、きみのことが知りたい。
あの交差点で出会ってから、毎週塾で顔を合わせて。それから同じ高校になるなんて思いもしなくてさ。
それから、毎日一緒に居たよね。一緒に登校して、一緒に帰ったりもして......。
......でも、どうして急にいなくなった?」
しっかりとすいの方を見て話す。
「よく考えたら訳の分からないことばかりだった。
きみはいつの間にかここに現れてさ。いや、ここにしか居ないんだ。
そしてさ、僕がだれかと一緒にいるときには、消えてしまったりもして」
すいもこちらに向けている視線を離さずに聞いてくれる。
「......きみのことを、想像上の友だちなんていう人がいたとしても。
僕はきみを信じたいんだ、だから教えてほしい」
僕はここまで一息に言うと、軽く息を吐いた。それからしばらく何も言わない時間が流れた。わずかな風が、沈黙に効果音を鳴らす。
「ねえ、人魚姫の最後ってどうなるか知ってる......?」
すいが力なくはにかんで話を切り出した。
なぜ人魚姫の話題が出るのだろう。これから何がはじまるのか分からないから、つい口を噤んでしまう。
不思議なおとぎ話に連れていかれそうだった......。
・・・
人魚姫はアンデルセンによって書かれた有名な童話作品だ。
やさしい心を持つ人魚姫が人間の王子に恋をする物語で、瑞々しくも儚い恋模様のストーリーが描かれている。
15歳を迎えた人魚姫は海の上へ昇り、人間の世界にやってくる。
王子様に恋をした彼女は彼からの愛を欲しがった。人間と同じような足を手に入れるために、自身の声を失ってまで。
しかしながら、運命は上手くいかない。なんとあろうことか、王子様は人間の女性と婚約をしてしまうのだった。
人魚姫は悲しみに暮れる。
元の姿に戻るためには、ナイフで王子様を刺しその返り血を浴びる必要があるという。だがしかし人魚姫は王子様を刺すことができず、ナイフを海に投げ捨て、海に身を投げる。
最後には人魚姫は泡となって消えてしまう。
「......そう。恋に焦がれて、恋に泣いて終わるの。それが人魚姫だよ。
でも、実際はそうじゃないんだ」
どういうことだろう。つい話の続きが気になってしまう。。
「人魚姫は死んでいないんだよ」
......え? この子は何を言っているんだろう。
「泡になって消えた人魚姫は、それから王子様の近くだったり遠いところに居たりするんだ。だから、決めつけて話しちゃうのってよくないよ」
絵本で読んだ人魚姫は命を投げたという。
でも、すいの言い方だとまだ生きているように感じてしまう。
......何が正しいのか、もう見えなくなっていた。
「今のわたしは、人魚姫になったような気分なんだ。
ずっと大切な人のために生きているんだよ」
さっきから、話のつかみどころがわからない。手を伸ばしてつかんだ泡はつぶれてしまうように、何も得られないような話が続いていた。
生きていると言われても、今感じてしまう人魚姫の後先みたいで、いまいち実感が湧かない。
それでも、記憶は身体なしに成立しないはずだ。
きみが覚えていることも、僕が覚えていることも。生きているから実感できるんだ。いくら、きみが不思議な身体になったとしても。
すいがゆっくりと首を横に振る。
まさか、僕が想像していることよりも、裏返しのように違うのだろうか。そしたら僕は、何を見ている?。
「......そんなこと、ありえないでしょう」
少しずつ雨脚が強くなってきた。
お互い雨に濡れるのも構わなかった。僕はプールサイドの縁に、すいは水面の上に立ったまま、それぞれの瞳を離すことができない。
「......わたしは、イマジナリーフレンドなんかじゃないよ。
もちろん幽霊なんかでもない」
そろそろお盆の時期だ。ご先祖様の魂が家に戻ってくる大切なイベントに合わせて、すいも皆と合わせて還ってきたとでもいうのか。
そんなこと、あり得るのだろうか。
そんなこと、あってほしくはない。
実在する単語だったらどれくらい良かっただろうか。だって、すいの温かさを今まで何度も感じていたのだから。
「きみっていったい......」
「だからさ。
わたしの願いが、わたしの魂をここに連れてきたんだよ」
......自分が願ったことだから。そう告げるすいの言葉は、しんみりとしながらもどこか納得してしまう雰囲気があった。
もう何も自分の口から告げることができなかった。
「湊くん。覚えてる?
わたしたち、去年の最後にひとつだけ交わしたじゃない。それを叶えるときなんだよ」
僕たちが交わしたもの。心の中に隠れたその言葉を探す。
やがて見つけたのは、たったひとつの言葉。
――約束。
また会おうと約束を交わして、僕たちはカフェで別れた。
お互いに認めたい言葉を残したまま。また出会ったときに、きちんと伝えられるようにって。
なぜか心が震えてしまった。
この子は何を言っているんだろう。
約束を交わしたのは事実かもしれない。でも、いくら何でも去年のことだ。
とても大切なことなら、今になって言わなくても良いのに。今年のはじまりに言ってほしかったのに。
......そして、こんな姿になってしまうなんて。
つい、すいを責めてしまいたくなった。少し前に踏み出すようにして、彼女の肩を掴む。
すいは潤んだ瞳をこちらに向けると、たったひとつだけ告げる。
「あの日に、学校のプールで待ってるから」
この言葉だけを言い残して、すいは消えてしまった。支えるものがなくなった僕は、大きな音を立ててプールに落下してしまった。
またしても、水の中へ堕ちて、終わる。
・・・
その日の夜は夏の季節とは思えないくらいにひんやりとしていた。
エアコンを止めても気持ちよいのは、ベランダから入ってくる夜風の仕業なのかもしれない。
誰の言うことが正しいんだろう。
図書室での会話から、プールでの会話から、僕は学校に行けない気がしていた。
西原の言うことは事実だったとしても、にわかに信じられない。今まで経験した授業が、すいが支えてくれた温かみがあるから。
もしこれ以上すいと出会ってしまったら、問いただしてしまいそうな気がして。
そこに、スマートフォンが震える音がする。
西原から届いたメッセージの文章はただひとつ。
"大切な話です、折り返しお電話ください。"
空模様は風に誘われてあれこれと形を変える。あの雲は群れている羊たちのように、あっという間に流されてしまった。
午後からは雨が降るからと何度もやめた方がいいと言われた。しかしながら、雨のしずくはもう天から降ってきた。
広げた傘を握る手に力がこもる。
コンクリートに跳ね返る雨脚にも気にせず歩いていく。
それでも構わなかった。どうしても、今日行きたくて仕方なかった。
すいに会いたい。......その一心だけを心に握って。
何食わぬ顔で体育棟に入り、着替えもせずそのままプールサイドまで上がっていく。
少しは小降りになった雨が水面を叩きつけるだけの、殺風景な空間だった。でも、違うんだ。ここにはひとりだけ、大切な人がいるんだ......。
僕は息を吸い込むと、大きな声を出して呼びかけた。
「すい。......いるんでしょう」
自分の声に反応するように、プールの水面がきらめいた。
待ちわびていた公演のはじまりのよう。真っ暗な舞台に天井からの照明が一点だけを照らす。その光はじわりじわりと強くなり、やがて舞台女優が現れるのだ。
......水面に浮かぶ光がひときわ強くなると、そこにすいの姿があった。
彼女はワンピースを着た姿で、プールの上に立っている。
「やあ、湊くん。......この姿で出てくるのははじめてだね」
そのまますいはこちらに向けてやってくる。泳がないで、裸足のまま水面を踏みしめて。プールの縁まで来ると、僕の方を見上げて顔を上げた。
すいははにかんでいながらも、どこか硬い表情にも見える。瞳はこちらを向きながらも、どこか遠い先を向いているみたいだ。
ある程度は想像していたことだ。だけども、実際目にすると息を?んでしまう。
「......すい」
「......駄目だよ、湊くん。今日は晴れてなんかいないんだから」
どうして来たの? 瞳はそう訴えかけている。それでも、僕は自分の意志でここに来た。
「僕は、きみのことが知りたい。
あの交差点で出会ってから、毎週塾で顔を合わせて。それから同じ高校になるなんて思いもしなくてさ。
それから、毎日一緒に居たよね。一緒に登校して、一緒に帰ったりもして......。
......でも、どうして急にいなくなった?」
しっかりとすいの方を見て話す。
「よく考えたら訳の分からないことばかりだった。
きみはいつの間にかここに現れてさ。いや、ここにしか居ないんだ。
そしてさ、僕がだれかと一緒にいるときには、消えてしまったりもして」
すいもこちらに向けている視線を離さずに聞いてくれる。
「......きみのことを、想像上の友だちなんていう人がいたとしても。
僕はきみを信じたいんだ、だから教えてほしい」
僕はここまで一息に言うと、軽く息を吐いた。それからしばらく何も言わない時間が流れた。わずかな風が、沈黙に効果音を鳴らす。
「ねえ、人魚姫の最後ってどうなるか知ってる......?」
すいが力なくはにかんで話を切り出した。
なぜ人魚姫の話題が出るのだろう。これから何がはじまるのか分からないから、つい口を噤んでしまう。
不思議なおとぎ話に連れていかれそうだった......。
・・・
人魚姫はアンデルセンによって書かれた有名な童話作品だ。
やさしい心を持つ人魚姫が人間の王子に恋をする物語で、瑞々しくも儚い恋模様のストーリーが描かれている。
15歳を迎えた人魚姫は海の上へ昇り、人間の世界にやってくる。
王子様に恋をした彼女は彼からの愛を欲しがった。人間と同じような足を手に入れるために、自身の声を失ってまで。
しかしながら、運命は上手くいかない。なんとあろうことか、王子様は人間の女性と婚約をしてしまうのだった。
人魚姫は悲しみに暮れる。
元の姿に戻るためには、ナイフで王子様を刺しその返り血を浴びる必要があるという。だがしかし人魚姫は王子様を刺すことができず、ナイフを海に投げ捨て、海に身を投げる。
最後には人魚姫は泡となって消えてしまう。
「......そう。恋に焦がれて、恋に泣いて終わるの。それが人魚姫だよ。
でも、実際はそうじゃないんだ」
どういうことだろう。つい話の続きが気になってしまう。。
「人魚姫は死んでいないんだよ」
......え? この子は何を言っているんだろう。
「泡になって消えた人魚姫は、それから王子様の近くだったり遠いところに居たりするんだ。だから、決めつけて話しちゃうのってよくないよ」
絵本で読んだ人魚姫は命を投げたという。
でも、すいの言い方だとまだ生きているように感じてしまう。
......何が正しいのか、もう見えなくなっていた。
「今のわたしは、人魚姫になったような気分なんだ。
ずっと大切な人のために生きているんだよ」
さっきから、話のつかみどころがわからない。手を伸ばしてつかんだ泡はつぶれてしまうように、何も得られないような話が続いていた。
生きていると言われても、今感じてしまう人魚姫の後先みたいで、いまいち実感が湧かない。
それでも、記憶は身体なしに成立しないはずだ。
きみが覚えていることも、僕が覚えていることも。生きているから実感できるんだ。いくら、きみが不思議な身体になったとしても。
すいがゆっくりと首を横に振る。
まさか、僕が想像していることよりも、裏返しのように違うのだろうか。そしたら僕は、何を見ている?。
「......そんなこと、ありえないでしょう」
少しずつ雨脚が強くなってきた。
お互い雨に濡れるのも構わなかった。僕はプールサイドの縁に、すいは水面の上に立ったまま、それぞれの瞳を離すことができない。
「......わたしは、イマジナリーフレンドなんかじゃないよ。
もちろん幽霊なんかでもない」
そろそろお盆の時期だ。ご先祖様の魂が家に戻ってくる大切なイベントに合わせて、すいも皆と合わせて還ってきたとでもいうのか。
そんなこと、あり得るのだろうか。
そんなこと、あってほしくはない。
実在する単語だったらどれくらい良かっただろうか。だって、すいの温かさを今まで何度も感じていたのだから。
「きみっていったい......」
「だからさ。
わたしの願いが、わたしの魂をここに連れてきたんだよ」
......自分が願ったことだから。そう告げるすいの言葉は、しんみりとしながらもどこか納得してしまう雰囲気があった。
もう何も自分の口から告げることができなかった。
「湊くん。覚えてる?
わたしたち、去年の最後にひとつだけ交わしたじゃない。それを叶えるときなんだよ」
僕たちが交わしたもの。心の中に隠れたその言葉を探す。
やがて見つけたのは、たったひとつの言葉。
――約束。
また会おうと約束を交わして、僕たちはカフェで別れた。
お互いに認めたい言葉を残したまま。また出会ったときに、きちんと伝えられるようにって。
なぜか心が震えてしまった。
この子は何を言っているんだろう。
約束を交わしたのは事実かもしれない。でも、いくら何でも去年のことだ。
とても大切なことなら、今になって言わなくても良いのに。今年のはじまりに言ってほしかったのに。
......そして、こんな姿になってしまうなんて。
つい、すいを責めてしまいたくなった。少し前に踏み出すようにして、彼女の肩を掴む。
すいは潤んだ瞳をこちらに向けると、たったひとつだけ告げる。
「あの日に、学校のプールで待ってるから」
この言葉だけを言い残して、すいは消えてしまった。支えるものがなくなった僕は、大きな音を立ててプールに落下してしまった。
またしても、水の中へ堕ちて、終わる。
・・・
その日の夜は夏の季節とは思えないくらいにひんやりとしていた。
エアコンを止めても気持ちよいのは、ベランダから入ってくる夜風の仕業なのかもしれない。
誰の言うことが正しいんだろう。
図書室での会話から、プールでの会話から、僕は学校に行けない気がしていた。
西原の言うことは事実だったとしても、にわかに信じられない。今まで経験した授業が、すいが支えてくれた温かみがあるから。
もしこれ以上すいと出会ってしまったら、問いただしてしまいそうな気がして。
そこに、スマートフォンが震える音がする。
西原から届いたメッセージの文章はただひとつ。
"大切な話です、折り返しお電話ください。"