僕はひとりプールを後にした。
 後片付けの仕方もなんだか雑になっていて、髪もろくに乾かしていなかった。
 もうここからいなくなりたかったから。
 もしかしたら、すいが走って追いかけてくるんじゃないかと思ったけれど、実際はそんなことはなく。
 "西原のことをどう思っているの"
 その質問には回答を持ち合わせていないのに、それでいて答えを用意してほしいとせがまれている。
 言葉に詰まったまま、去年のことを思い出していた。

 ◇◇◇

「おはよう」
 駅のホームで声をかけた僕はすいと一緒に電車に乗って高校まで登校する。
 話すことがあっても何もなくても、ふたりで一緒に行動するのが僕たちの関係みたいなものだろう。
「昨日のテスト、なんとか赤点免れたよ」
「それはよかったね」
 すいが話す話題に当たり障りのない返答をしつつも、心の中で安堵のため息を漏らした。
 正直な話、自分のことよりも彼女の成績の方が気になってしょうがないのだ。
 高校生になり同じクラスになると色々と見えてくるもので、普段の様子からどことなく不安な様子をうかがわせてしまう。
 体調が悪いとか授業中に寝ている様子は見られないのになぜだろう。
 見せてもらったノートはあんなにきれいに書けているのになぜだろう。
 それなのに、色んな生徒に声をかけて周っていた。
 愛嬌のある性格はクラスに馴染んでいるけれど、どことなく自分のことは後回しにしてしまっている。
 おそらく自身の勉強が足りていないのも、自分では気づいていないだろう。
「これで夏休みの補習なくなるもん!
そうしたら、たくさんお出かけできるなあ」
 湊くん、どこ行きたい? 視線で質問されて思いついたことを即答で答えてみた。
「だいたいは村上の家だと思うけどね。
ほら、アニメとかゲームとかあいつたくさん持ってるし」
 自分の回答にすいは驚くような仕草をした。
「え、それだけなの。ずっとエアコンの中じゃん」
「いいんだよ、それでも。
夏は暑いからあんまり出たくないの」
 なんだかすいは頬を膨らませていた。
「なんだかもったいないじゃない。
だったら、わたしのお出かけに付き合ってよ」
 お出かけ、その言葉を頭の中で反芻する。すいと一緒だったら、別にデートじゃない気がしてしまう。そんな彼女は行きたい所をひとりで勝手に提案していた。
「お洋服欲しいでしょ、近所にかき氷のお店できたでしょ......」
 もちろん悪いことじゃない。じゃあ付き合うよ、と返そうと思っていると、すいが顔を上げた。そして自分が決して候補に出さないような驚きの場所を挙げてくる。
「......あとね、海に行きたい!!」

 教室に登校すると、クラスメイトから一斉に声をかけられた。
「成瀬、ちょっと!」
「すいちゃんおはよう!」
 僕たちは声をかけられた方向に向けて別れて行った。
 村上は数名のクラスメイトと話をしていた。そこに混ざって、何の話をしてたのか質問してみた。
「成瀬さ、オレプロジェクター買おうと思ってて。
良ければアニメに映画に、一日中フルコースでどうだい?」
「いいね、でも家族に迷惑じゃないかな」
 あ、と一瞬真顔になった村上はそれでも笑って答えた。
「まあ、ちゃんと話しておくよ。
そしたらオールだからな」
 覚悟しとけよ、と村上が言うと周りにいる数人も含めて大きな笑いが起きた。
 これは、絶対にイベントが発生しそうな雰囲気だ。
 すると、ちらりと遠くの方からすいの視線を感じた。
 あちらでは西原をはじめとしたメンバーが輪になって話しているようで、なんだか海とか水着というキーワードが聞こえてきた気もしなくはない。
「お前は女子の水着見たくないのか」
「見たくないなあ」
 村上が肘でつついて茶化してくる。
 すいは良いとしても、ほかの女子たちと一緒に海に行くなんて恥ずかしくて死にそうだ。

 ・・・

 時間がゆっくりと流れている。
 そんなことを考えながら、カウンター席に座っていた。
 放課後の図書室はいつもそうだけど、終業式の日はまた一段と違う気がした。
 少しエアコンの効いている部屋ではうたたねをしそうだ。そこに目覚まし時計のように扉が開く音がする。
 図書室に入ってきたのは西原だった。
「......これ、今日中に返さないと」
 彼女はバッグから小さな文庫本を取り出すと、こちらに差し出してくる。
 僕は彼女の手から受け取り返却手続きをする。そのぶっきらぼうな雰囲気になんだか違和感を感じるも、慣れた手つきで作業を済ませた。
「さすがだね、成瀬くん。
やっぱり最初に図書委員をやりたいって言っただけはあるんだね」
 なんだか褒められてしまってむずがゆい。
 それでもまだ西原はこちらを向いたままだ。不思議と心配するように、眉をひそめていた。
「......ちょっと聞こえてたらごめんね。
朝さ、女子たち何人かで海に行こうって話してたんだ。
でもすいちゃんはずっときみのことを見ててさ、私たちはそんなつもり全くないんだけど......。
やっぱり私たちと行くなんて迷惑だよね」
 ここで彼女は頭を下げた。しおれた食材みたいに、がくっと肩を落として。
 どうすればいいかわからない。
 無意識のうちに頬を指でかく。少しの沈黙は短かったけれど、とても長く感じた。
 ここで、西原はカウンターに両手をついて顔を上げた。
「お願いだから、ふたりで海に行ってくれないかな?」
 彼女の顔が、僕のすぐ近くにある。思わず頷いてしまいそうな力強さが、その黒くて茶色の瞳から溢れていた。
 そこに、新しい足音が響いてきた。
「えっ......」
 小さな声を上げたのはすいだった。彼女はバッグを落とすと、しばしばこちらを見つめる。
 そのままこちらを見つめていたと思ったが、彼女は勢いよく走りだした。
「すい!」
「待ってすいちゃん!」
 ふたりの驚きをよそに、すいは走ってどこかに行ってしまった。
 どうしようとつぶやく西原を手で制すると、僕は後を追いかけていった。
 教室にはいない。そしたらあの場所に行ってみよう。
 思った通り、すいは下駄箱のところにいた。彼女は体育座りに足を組んで、ひとり顔を伏せていた。
「すい......」
「湊くん......」
 すいはここで顔を上げる。
 瞳はまっすぐにこちらを見つめている。
 その上目遣いの視線は何かを訴えているようで、少し光るものが夕日に混ざっている気がした。
「ずっときみのことを待っていたのに......。
遅い、遅いよ」
 思わずごめんと謝った。でも、こちらも図書委員の当番がある訳なんだけど。そうすいに説明したところで、お互いに水をかけてしまうだけだろう。
 いつもは無言で待っていてくれていたのだから。
「ねえ、コーヒーおごってよ」
「きみってコーヒー飲めないじゃん」
「だ、だから、......カフェオレを飲みたいんだよ」
 なぜかカフェオレのあたりから小声になっていた。思わず苦笑しそうになる。
 別に誕生日でもないのにおごるのは気が引けたけど、彼女が落ち着くなら出してあげよう。
「湊くんのミルクもちょうだい」
 すいは僕のコーヒーについていたミルクも欲しがった。
 こちらはブラックでかまわないからと差し出すと、すいはミルクと一緒にシロップも入れてしまった。
 うわあ、あまそう。
 そんなこともお構いなしに、一口飲んだすいはゆっくりと語りだした。
「ねえ、西原さんのこと、どう思っているの?」
 あの顔を近づけたシーンだけを見られていたのだろう。
 でも、どう答えたらよいのかもわからない。だからつい口ごもってしまう。
「......湊くん!」
 ついとげがあるような言い方になるすい。
「別にどうってことないよ。だってただのクラスメイトだからさ」
 そう説明しても、彼女の頬は膨らませてしまったまましぼむ気配がない。
「......すい、よく聞いて。
ちょっと夏休みの相談をしてただけだよ」
「夏休みの?」
 ゆっくりと図書室での出来事を説明していった。すいに言い聞かせるようにするには、ひとつひとつ丁寧にするのが一番だ。
 やっと頬の風船がしぼんだ。
 すいは顔をうつむけると、ごめんなさいと謝った。耳をすまさないと聞こえてこない、鳥のさえずりみたいな声で。
「......だからさ、今度ふたりで海に行こうよ」
 ここに交差点があったのかもしれない。ふたりの会話はふとした方向に曲がっていく。
「海は行きたいよ。
でも、きみは泳げないじゃん」
「僕はビーチで見てるだけで楽しいよ」
 ......そりゃそうだけどさ。すいが小さくこぼした。
 先ほどから不満や不安を隠しきれない表情をしている。こんなすいは見たことがない。見たくもない。
「わたし思ったんだけどさ、もしかして夏休みに会わない方がいいのかも」
 えっ。思わずすいの顔をまじまじと見つめる。
「だから、お互いに好きなことやってさ。
それで満足したら、その時が来たんだなって......。
お互いに言いたいことあるよね? そしたらまた会おうよ」
 約束だよ! ここですいは立ち上がった。にこっと口角を上げて、形のよい微笑みを作る。
 その表情は、痛いくらいに切なかった。
 
 実は、この後一度だけ夏休みのうちに会っている。
 でもどうしてもそのことを思い出せなかった......。

 ◇◇◇