夏休みが目前に迫った7月。
わたしが教室に入るなり、こちらに向けて視線を投げかけてくる瞳があった。灯里さんはわたしが席に着くなり、こちらに向けてあいさつをしてくれた。
「すいちゃんおはよう。
なんか不機嫌な顔をしてるのね」
「灯里さんおはよう」
どうしたのとこちらの表情をうかがう灯里さんに、わたしは小さな愚痴をこぼした。
「お日様が暑くてさあ、なんかもう痛いくらい」
「そうねえ、すいちゃんもう腕とか赤いよ。
ちゃんと日焼け止め塗ってるの?」
もちろん、と頷いて答える。わたしは人一倍肌が白いから、日焼け止めはぜったい必要なんだ。
「夏って本当に嫌いだよねえ」
と、となりに座っている里美さんも会話に入ってくる。
「すぐ汗かくからさあ、お化粧できないし。
何着たらいいか分からないもん」
「たしかに、こういうとき制服があって助かるよね」
え? 何気に発せられた言葉にわたしはつい目を丸くした。
「お化粧って、里美さんしてるの?」
「してるの? ......って、逆にすいちゃん興味ないの?」
自然と顔を合わせるわたしたち。近くで見てやっと、彼女がうっすらとメイクしてるのがわかる。
なんだかじっと見つめてしまう。女の子たちの顔だとわかっているのに、なんだか恥ずかしくなって慌てて体ごと離した。
火照ってしまったわたしは顔を手で仰いだ。
それでも熱いのは収まらないから、無意識に制服のボタンに手を伸ばす。一番上のところは外してもだいじょうぶだろう。でも、もうひとつ外していたら、灯里さんが慌てて手を伸ばした。
「あー! すいちゃんストップ!」
彼女の大声に反応した生徒たちがこちらに顔を向けている。
何が起きているのかわからないまま、そのまま硬直してしまう。
恥ずかしい非常事態だと気づいたわたしは、慌てて席を立ちあがってお手洗いに走っていった。
「すいちゃんってさ、......もしかして男子を意識したことないの」
里美さんはわたしが戻ってくると、耳元に向けて小声で話しかける。
わたしは返事の代わりにこくんと頷いた。まだ別の意味で顔が真っ赤だった。
つい言葉を失ってしまう。校庭のどこかで鳴いているであろう蝉時雨が流れてくる。
わたしはやっと灯里さんが持っていた紙袋に気づいた。
「どうしたの、それ」
「チョコだよ。つい話が盛り上がって忘れてたわ」
母親がどこかでたくさんもらって食べきれないから、クラス中に配っているのだという。
まさか男子に? わたしの早とちりに彼女は笑って答えた。
「違うよ、女子だけだよ」
私、男子苦手だもん。そう言う彼女に意味深な影を感じたのは気のせいだっただろうか......。
里美さんはここぞとばかりに話題を変えてくれた。
「まあ、夏はほんと嫌だねえ。
冬の方がオシャレできるんじゃない? マフラー巻くのかわいいし」
たしかにそうだね。冬はマフラーに手袋に、かわいい小物がいっぱいある。
みんなの私服姿を想像してみたい。学校の遠足も制服だったし、そういえば休日にだれかと出かけたこともなかったし。
ちょうど、湊くんが教室に入ってきた。わたしはまた無意識に彼のことを目で追ってしまう。
そういえば、お気に入りのワンピース出してなかったな。ふとそんなことが頭に浮かんだ。
・・・
午後は全校生徒が体育館に集まって集会をしている。
「教室で話してくれればいいじゃんね」
里美さんが小声でつぶやきながらわたしを肘でつつく。そうだねとこちらからもひそひそ声で返した。
バイトをしないように。遅くまで遊ばないように。
わかりきっている夏休みの生活態度の話題なんて、だれが真剣に耳を傾けるのかな。誰かしらちょっとは破るのかもしれないけれど、わたしの周りの子たちはそんなことはしないと思っている。
それにしても蒸し暑い。
ドアや窓は開けているのに、まったく空気が流れる感じはしなかった。そんな中に皆が集合しているから、体育座りをしているだけでも誰もが辛そう。
誰かしら倒れてしまうんじゃないかと思う。
わたしは先生の話を半分くらいしか聞いていなくて、里美さんの言葉が脳裏を駆け巡っていた。
男の子。それはわたしが今まで意識したことのない響き。
別に小学校とかでも普通に話したりはしていた。
でも、だれかのおうちに遊びに行くとか付き合ってほしいとか言われたことはなくて。教室に行けば居る存在、それがわたしにとっての男の子という存在。
それは高校生になっても、自分の中では変わらない。はずだった。
きみがこのクラスに居るから。いつの頃から湊くんのことを目で追うようになったのだろう。
その気持ちが何か、わたしが知らないだけかもしれない。
自分の知らないところで、みんなは誰かと付き合ったことあるのかな。
異変が起きたのはその時だった。
列の前の方で誰かが倒れてしまった。ふらふらと身体を起こしたところを、近くの生徒に支えらている。
ああ、気分悪くしちゃったんだ。
慌てて駆けつけた先生によって、その子は列を離れていく。
あまり見てちゃいけないな。そう思うながらも、その様子をちらりと覗いてみる。
え!と小さな声を上げそうだった。運ばれているのは、なんと灯里さんだった。
もうそこからは先生の話を聞いていなかった。彼女はだいじょうぶかな、そんなことしか考えられなかった。
体育棟の入り口なら少しは風が当たるかもしれない、ちょっと飲み物でも飲めば回復するかもしれない。
灯里さんが休まる方法を、永遠と考え続けていた。
すると、視界の縁で誰かがこそこそと動いていた。湊くんだった。
品がないけれどお手洗いに行きたくなったのだろうか、それでも何か彼なりの理由があるのだろうか。
集会が解散してぞろぞろと教室に戻るとき、わたしはあちこちに首を振り彼のことを探してみる。
でも、彼はそこにはいなかった。
仕方なくわたしも教室に戻ろう。そう思って体育棟を出るところだった。
「あ、すいちゃん」
「すい」
湊くんは体育棟の入り口にいて、灯里さんと話しているではないか。
しかも彼女の手にはスポーツ飲料のペットボトルがあった。何気ない理由を付けて集会を抜け出した湊くんが渡したのだろう。
わたしはしばしふたりの姿を見つめていた。知らない間に、お目目を細く狭めて。
「だいじょうぶだったんだね、良かったよ」
これだけ告げて、もう教室に向けて戻ろうとする。
なぜかこれだけの言葉しか生まれなかった。
もっと心配するセリフは思い浮かぶはずなのに、みんなに明るく接してあげるのが自分なのに。
わたしたちは仲の良い関係だったはずなのに。
頬を膨らませながら、わたしはひとり教室に向けて歩いていく。
・・・
帰宅したわたしは、ボフンと音を立てるベッドに勢いよく飛び込んだ。
制服もろくに脱がないまま、そのまま枕に顔をうずめる。
あのふたりに感じた違和感はなんだったんだろう。まるで寄り添うように見えてしまった。
もし好き合っていたらどうしよう。
......でも、湊くんの近くにはわたしがいたはずなのに。
「お姉ちゃんだったらどうするんだろう」
わたしは小さくつぶやきながら、もらったチョコを口に放り投げる。なんと、これは今まで食べたことのないチョコ。ウイスキーが入っていた。
ひとくちで酔ってしまい、悲しみの気持ちがこみ上げる。
幼い頃、お母さんに"恋ってなあに"って聞いたことがあった。お母さんは笑って、ひとりでいるときでもその子のことを思い出すことって答えてくれたっけ。
"あのかたが海の上を、船に乗ってお通りになっているのだわ。おとうさまよりもおかあさまよりももっと好きなあのかたが。あたしがいつも思っているあのかたが。"
人魚姫は王子様と一緒になりたかった。
大人になるたびふくらんでいた、本当の願いにやっと気づくことができたんだ。湊くんと一緒にいたいって。これがわたしのはじめての気持ち。
でも、恋はきれいなものだと思っていたのに......。
恋をすれば、悲しみに濡れちゃうんだな。はじめて味わう味はこんな感じなのかなあ。
小さな涙を流しながら、そのまま眠ってしまった。
◇◇◇
いつの間にか空から雫が落ちてきた。
空はまるで鉛のような色が一面に広がり、そこから落ちてくるのは銀色の雨だった。
降り出した夕立はプールに、ここに居るみんなに容赦なくぶつかってくる。
湊くんも、西原さん......灯里さんも慌ててプールから帰っていく。
姿の見えないわたしは、その場所に置いて行かれてしまった。
「まるで、去年のわたしたちみたい」
そうつぶやいたわたしを、突然冷たくなった風が撫でていく。
これは水の中に入った方が温まりそうだ。それに、彼らのことを見ているのはなんだか辛くて。
人魚姫の姿になったわたしは、勢いよくプールに飛び込んだ。
どこまでも、どこまでも深く行けるだろうか。
わたしは好きだと伝えたかったのに、好きだと言ってほしかったのに。
人魚姫になった今、生きている意味はここにあるんだから。
わたしの身体は水の中へ堕ちていく......。
わたしが教室に入るなり、こちらに向けて視線を投げかけてくる瞳があった。灯里さんはわたしが席に着くなり、こちらに向けてあいさつをしてくれた。
「すいちゃんおはよう。
なんか不機嫌な顔をしてるのね」
「灯里さんおはよう」
どうしたのとこちらの表情をうかがう灯里さんに、わたしは小さな愚痴をこぼした。
「お日様が暑くてさあ、なんかもう痛いくらい」
「そうねえ、すいちゃんもう腕とか赤いよ。
ちゃんと日焼け止め塗ってるの?」
もちろん、と頷いて答える。わたしは人一倍肌が白いから、日焼け止めはぜったい必要なんだ。
「夏って本当に嫌いだよねえ」
と、となりに座っている里美さんも会話に入ってくる。
「すぐ汗かくからさあ、お化粧できないし。
何着たらいいか分からないもん」
「たしかに、こういうとき制服があって助かるよね」
え? 何気に発せられた言葉にわたしはつい目を丸くした。
「お化粧って、里美さんしてるの?」
「してるの? ......って、逆にすいちゃん興味ないの?」
自然と顔を合わせるわたしたち。近くで見てやっと、彼女がうっすらとメイクしてるのがわかる。
なんだかじっと見つめてしまう。女の子たちの顔だとわかっているのに、なんだか恥ずかしくなって慌てて体ごと離した。
火照ってしまったわたしは顔を手で仰いだ。
それでも熱いのは収まらないから、無意識に制服のボタンに手を伸ばす。一番上のところは外してもだいじょうぶだろう。でも、もうひとつ外していたら、灯里さんが慌てて手を伸ばした。
「あー! すいちゃんストップ!」
彼女の大声に反応した生徒たちがこちらに顔を向けている。
何が起きているのかわからないまま、そのまま硬直してしまう。
恥ずかしい非常事態だと気づいたわたしは、慌てて席を立ちあがってお手洗いに走っていった。
「すいちゃんってさ、......もしかして男子を意識したことないの」
里美さんはわたしが戻ってくると、耳元に向けて小声で話しかける。
わたしは返事の代わりにこくんと頷いた。まだ別の意味で顔が真っ赤だった。
つい言葉を失ってしまう。校庭のどこかで鳴いているであろう蝉時雨が流れてくる。
わたしはやっと灯里さんが持っていた紙袋に気づいた。
「どうしたの、それ」
「チョコだよ。つい話が盛り上がって忘れてたわ」
母親がどこかでたくさんもらって食べきれないから、クラス中に配っているのだという。
まさか男子に? わたしの早とちりに彼女は笑って答えた。
「違うよ、女子だけだよ」
私、男子苦手だもん。そう言う彼女に意味深な影を感じたのは気のせいだっただろうか......。
里美さんはここぞとばかりに話題を変えてくれた。
「まあ、夏はほんと嫌だねえ。
冬の方がオシャレできるんじゃない? マフラー巻くのかわいいし」
たしかにそうだね。冬はマフラーに手袋に、かわいい小物がいっぱいある。
みんなの私服姿を想像してみたい。学校の遠足も制服だったし、そういえば休日にだれかと出かけたこともなかったし。
ちょうど、湊くんが教室に入ってきた。わたしはまた無意識に彼のことを目で追ってしまう。
そういえば、お気に入りのワンピース出してなかったな。ふとそんなことが頭に浮かんだ。
・・・
午後は全校生徒が体育館に集まって集会をしている。
「教室で話してくれればいいじゃんね」
里美さんが小声でつぶやきながらわたしを肘でつつく。そうだねとこちらからもひそひそ声で返した。
バイトをしないように。遅くまで遊ばないように。
わかりきっている夏休みの生活態度の話題なんて、だれが真剣に耳を傾けるのかな。誰かしらちょっとは破るのかもしれないけれど、わたしの周りの子たちはそんなことはしないと思っている。
それにしても蒸し暑い。
ドアや窓は開けているのに、まったく空気が流れる感じはしなかった。そんな中に皆が集合しているから、体育座りをしているだけでも誰もが辛そう。
誰かしら倒れてしまうんじゃないかと思う。
わたしは先生の話を半分くらいしか聞いていなくて、里美さんの言葉が脳裏を駆け巡っていた。
男の子。それはわたしが今まで意識したことのない響き。
別に小学校とかでも普通に話したりはしていた。
でも、だれかのおうちに遊びに行くとか付き合ってほしいとか言われたことはなくて。教室に行けば居る存在、それがわたしにとっての男の子という存在。
それは高校生になっても、自分の中では変わらない。はずだった。
きみがこのクラスに居るから。いつの頃から湊くんのことを目で追うようになったのだろう。
その気持ちが何か、わたしが知らないだけかもしれない。
自分の知らないところで、みんなは誰かと付き合ったことあるのかな。
異変が起きたのはその時だった。
列の前の方で誰かが倒れてしまった。ふらふらと身体を起こしたところを、近くの生徒に支えらている。
ああ、気分悪くしちゃったんだ。
慌てて駆けつけた先生によって、その子は列を離れていく。
あまり見てちゃいけないな。そう思うながらも、その様子をちらりと覗いてみる。
え!と小さな声を上げそうだった。運ばれているのは、なんと灯里さんだった。
もうそこからは先生の話を聞いていなかった。彼女はだいじょうぶかな、そんなことしか考えられなかった。
体育棟の入り口なら少しは風が当たるかもしれない、ちょっと飲み物でも飲めば回復するかもしれない。
灯里さんが休まる方法を、永遠と考え続けていた。
すると、視界の縁で誰かがこそこそと動いていた。湊くんだった。
品がないけれどお手洗いに行きたくなったのだろうか、それでも何か彼なりの理由があるのだろうか。
集会が解散してぞろぞろと教室に戻るとき、わたしはあちこちに首を振り彼のことを探してみる。
でも、彼はそこにはいなかった。
仕方なくわたしも教室に戻ろう。そう思って体育棟を出るところだった。
「あ、すいちゃん」
「すい」
湊くんは体育棟の入り口にいて、灯里さんと話しているではないか。
しかも彼女の手にはスポーツ飲料のペットボトルがあった。何気ない理由を付けて集会を抜け出した湊くんが渡したのだろう。
わたしはしばしふたりの姿を見つめていた。知らない間に、お目目を細く狭めて。
「だいじょうぶだったんだね、良かったよ」
これだけ告げて、もう教室に向けて戻ろうとする。
なぜかこれだけの言葉しか生まれなかった。
もっと心配するセリフは思い浮かぶはずなのに、みんなに明るく接してあげるのが自分なのに。
わたしたちは仲の良い関係だったはずなのに。
頬を膨らませながら、わたしはひとり教室に向けて歩いていく。
・・・
帰宅したわたしは、ボフンと音を立てるベッドに勢いよく飛び込んだ。
制服もろくに脱がないまま、そのまま枕に顔をうずめる。
あのふたりに感じた違和感はなんだったんだろう。まるで寄り添うように見えてしまった。
もし好き合っていたらどうしよう。
......でも、湊くんの近くにはわたしがいたはずなのに。
「お姉ちゃんだったらどうするんだろう」
わたしは小さくつぶやきながら、もらったチョコを口に放り投げる。なんと、これは今まで食べたことのないチョコ。ウイスキーが入っていた。
ひとくちで酔ってしまい、悲しみの気持ちがこみ上げる。
幼い頃、お母さんに"恋ってなあに"って聞いたことがあった。お母さんは笑って、ひとりでいるときでもその子のことを思い出すことって答えてくれたっけ。
"あのかたが海の上を、船に乗ってお通りになっているのだわ。おとうさまよりもおかあさまよりももっと好きなあのかたが。あたしがいつも思っているあのかたが。"
人魚姫は王子様と一緒になりたかった。
大人になるたびふくらんでいた、本当の願いにやっと気づくことができたんだ。湊くんと一緒にいたいって。これがわたしのはじめての気持ち。
でも、恋はきれいなものだと思っていたのに......。
恋をすれば、悲しみに濡れちゃうんだな。はじめて味わう味はこんな感じなのかなあ。
小さな涙を流しながら、そのまま眠ってしまった。
◇◇◇
いつの間にか空から雫が落ちてきた。
空はまるで鉛のような色が一面に広がり、そこから落ちてくるのは銀色の雨だった。
降り出した夕立はプールに、ここに居るみんなに容赦なくぶつかってくる。
湊くんも、西原さん......灯里さんも慌ててプールから帰っていく。
姿の見えないわたしは、その場所に置いて行かれてしまった。
「まるで、去年のわたしたちみたい」
そうつぶやいたわたしを、突然冷たくなった風が撫でていく。
これは水の中に入った方が温まりそうだ。それに、彼らのことを見ているのはなんだか辛くて。
人魚姫の姿になったわたしは、勢いよくプールに飛び込んだ。
どこまでも、どこまでも深く行けるだろうか。
わたしは好きだと伝えたかったのに、好きだと言ってほしかったのに。
人魚姫になった今、生きている意味はここにあるんだから。
わたしの身体は水の中へ堕ちていく......。