翌日の放課後は、修一に話したとおり、図書委員の仕事があったので、図書室へと向かった。扉を開けて中に入ると、同じ図書委員の鏡野雫は既に本の整理を始めていた。

 長いストレートの黒髪。身長は、小学生の時から女の子の中では高い方だ。視力が悪く、眼鏡をかけている。基本的に無表情で、あまり笑わない。感情が読み取りにくく、初対面なら近寄り難いと感じる人がほとんどだろう。
 彼女も、修一と同じで小学生の時からの幼馴染だ。
 
 雫は、こちらを一瞥するが、またすぐに本棚に視線を戻し、作業を続ける。これも、いつものことだ。
 僕も反対側から本の整理を始めることにした。
 
 部屋には、作業の音だけが響く。時折、「この本、そっちの棚」と、彼女が本を持ってくる。「うん」と言って僕は本を受け取り棚に戻す。ただそれだけのやり取り。

 退屈な時間と思われるかもしれないが、僕はこの時間が割と好きだった。遠くから、吹奏楽部が練習をしている楽器の音や、運動部の掛け声が、決してうるさいとは思わない程度の音量で聞こえてくる。作業自体は三十分もあれば余裕で終わってしまうが、七時に図書室を閉めるまでに終えればいいので、途中で気になる本があれば、作業を中断して読んでいても、特に文句を言われることもない(ちなみに、これは雫が先にやり始めたことだ)。
 僕は、上の棚の本を整理しようと、脚立に足を掛けた。すると、その瞬間、足元がぐらついたような気がして、そのまま視界がブラックアウトした。



 波の音が聴こえる。
 気づくと、僕は、砂浜に立っていた。
 しばらく、砂浜を歩いていると、背後から肩を叩かれたので、振り返ると、白いワンピースを着た一人の女の子が立っていた。
 彼女は、にこっと笑って、僕の手を取り、少し遠くに見える灯台の方へ走りだした。
 僕は彼女に置いて行かれないように、必死に足を動かす。「ちょっと待ってよ」と声をあげるが、僕の声は風の音が掻き消してしまい、彼女には聞こえていない。
 やがて僕たちは、灯台のある防波堤に到着した。
 女の子は、防波堤の手前にあるテトラポットをよじ登り始めた。
「危ないよ」
 僕が声をかけるが、彼女は登るのを止めようとしない。
 次の瞬間、彼女は足を滑らせて——。



 ハッとして目を開けた先に見えたのは、心配そうに僕の顔を覗き込む雫の姿だった。
「大丈夫?」
 僕はゆっくり身体を起こした。どうやら、気を失って倒れたらしい。
 生身の体だったら、たんこぶの一つくらいできていたかもしれないが、人形なので痛みすら感じない。
 
 顔を上げると、雫はこちらを真っ直ぐに見つめながら、心配そうな表情をしていた。
「ごめん。たぶん、疲れていただけだよ。昨日、夜遅くまで勉強していたから」
「本当に?」
「本当だよ」
 そう言って、笑って誤魔化した。大分、引き攣った笑顔だったかもしれない。
「とにかく、廉はもう座っていて。後は私がやるから」
「大丈夫だって。ほら、このとおり——」
「また倒れられたら迷惑だから言っているの」
 雫はぴしゃりと言い放ち、僕を椅子に座らせた。仕方なく、僕はその辺の本を手に取り、読み始めた。
 
 時折、黙々と作業をしている彼女の様子を窺う。
 勝手に帰ったりしたら、怒られるんだろうな。彼女は「先に帰れ」ではなく「座っていて」と言っていたし。おそらく一緒に帰るつもりなのだろう。
 雫も修一も、僕が人形を使っていることを知っている。この学校でそれを知っているのは、二人以外には先生くらいだろう。だが、離人症になりかけていることは、誰にも言っていない。
 
 人形が実用化してから、問題になったことの一つに、人形使用者に対する差別やいじめがある。今に始まった事ではないけれど、人は、自分とは異なるものについて、本能的に排斥せずにはいられない生き物らしい。
 それ以降、人形であることは、出来るだけ隠す風潮になった。僕も基本的に口外はしないようにしている。だから、正直に言えば、倒れた時に図書室には僕と彼女しかいないようだったので、だいぶホッとしていた。
  
 
 一冊の本を読み終え、本から顔を上げると、雫も正面の椅子に座って本を読んでいた。「うおっ」と思わず漏れてしまった驚きの声にも、彼女は表情を変えることはなく、黙ったまま本を読み続けている。
「え、終わったの?」
「終わった」
「なら、声かけてくれよ」
「本に夢中だったから。邪魔したら悪いと思って」
 時計を見ると、針はもう六時半を回ろうとしていた。
 僕はため息を吐いて言った。
「暇つぶしに読んでいただけだよ。もう暗いし、帰ろう」
「うん」
 僕と雫は、本を元の場所へと戻し、図書室の明かりを消した。
 
 
 外に出ると、さすがに日は沈みかけていて、辺りは暗かった。
「ありがとうな、作業やってくれて」
 駅に向かう途中、雫にお礼を言うが、「別に、気にしてないから」と一蹴される。
「さっき、何の本を読んでいたんだ?」
「近くの棚にあった本」
「……面白かった?」
「特に感想は無い」
 僕が問いかけるのを止めると、会話が止まる。
 昔から、この調子だ。別に怒っているわけではなく、彼女は、会話を広げる気が無いだけなのだ。基本的に口数が少なく、静寂を好む。
 
 駅に到着したところで、僕は一つの疑問に気づき、雫に問いかけた。
「あれ、確かちょっと前から、一人暮らしだったよな。家、こっちじゃ無いだろ」
「今日は、元々実家に帰る予定だったから」
「…あー、そう」
 きっと、僕が倒れたからなのだろう。そんな風に心配してくれる人がいるのは幸せなことなのだろうが、反面放っておいてほしいという気持ちも無いではない。
 そんな話をしていると、電車が到着した。四人がけの向かい合わせの席を、二人で斜めに座る。電車に乗ってしまえば、話している方が迷惑なので、会話を繋ぐ必要はない。
 雫は、ぼーっと窓の外の景色を眺めている。人形を使っていない彼女なら、この見慣れた景色を見ても、何か思うことがあるのだろうか。

 人形は、伝達できる情報に限界がある。それは、嗅覚や味覚といった具体的な感覚だけでなく、言語化するのが難しい複雑な感情についても、伝達されていない気がしている。
 そこまで考えて、僕は人形を使っていることに、少なからずほっとした自分がいることに気づいた。
 あの日から、僕は自分が抱く感情が怖かった。準備をして、常に備えていないと、それらは隙間から入り込んで心を支配する。一瞬の思いが、身体を動かし、取り返しのつかない行動を選択してしまうのだ。

「野球部、勝ったみたい」
 不意に、雫はポツリと呟き、一枚の紙を差し出した。そこには、大会のトーナメント表が書かれていた。
 僕は雫から紙を受け取り、うちの高校を確認する。次の対戦相手は……。
「ああ……南高か」
 南高は、毎年県大会優勝候補の一つに挙げられているほどの強豪だ。この県で野球をやっている学生で、南高を知らない人はいないだろう。
「それは残念だな」
「どうして」
「さすがに南高には勝てないだろ」
「やる前から諦めるの?」
 そう言って、雫はむっとした表情を見せた。
 そういえば、珍しく、彼女がむきになるのを見た気がするな。
「現実を見てるだけだよ」
 僕はそう言って、この話は終わりだと言わんばかりに窓の方へ顔を向けた。 
 

 やがて、自宅の最寄り駅に到着し、僕たちは荷物を持って電車を降りた。
 改札を出た後、僕と雫はしばらくの間、同じ道を帰るのだ。
 
 何も話しかけずにいると、前を歩く雫が、振り返ることもせず、話し始めた。
「同じ図書委員として過ごしていて、気づいたことがある。廉、『離人症』になりかけているでしょう」
 僕は考える。果たして、離人症なんてフレーズを、普通に生活していて、知ることがあるだろうか。
「……調べたのか」
「うん」 
「さっきは、たまたま––––」
「さっきのだけじゃない。私の呼びかけに反応しないことが、以前から複数回あった。やっぱり、気づいてなかったのね」
「……」
「その症状は、定期的に自分の身体に戻っていれば、予防できる症状のはずでしょう。廉、最後に自分の身体に戻ったのはいつ? 自分自身をちゃんと認識して––––」
「医者にも言われたよ、それ」
 うんざりして、僕は雫の言葉を遮る。
「人形を動かせるようになった直後は、比較的なりやすいらしい。大丈夫だよ。そのうち治るさ」
「それは、廉が自分と人形が違うってことを、自覚できていないということでしょう」
 自分の身体と人形の身体の捉え方。線引き。
「人形を使うことの何が悪いんだよ。そもそも、日常的にどこからどこまでが自分なのかなんて、意識して生きている人間なんているのか?」
「別に人形を使うことが悪いだなんて言ってない」
「……だいたい、僕が離人症になったところで、雫には関係ないだろう」
「関係ある。また倒れられても困るし」
 こりゃ、引かないな。
 そう思ったところで、ちょうど交差点にたどり着いた。
 僕と雫の家は、ここから方向が異なるのだ。
 よかった。これで、この話は終わりだ。そう思ったのだが、前を歩いていた雫は足を止めた。
 
 信号は青に変わっている。
「渡らないのか」
 彼女は、固まったように動かなかったが、しばらくしてこちらを振り返った。
「廉」
「ん?」
 信号が点滅し、赤に変わる。
「前に、人形が使えるようになったら、『舞』のところに行くって、言ってたよね」
 その単語を聞いた僕は、思わず雫の顔をじっと見つめた。
 その表情の変化を観察するように。
「……ああ」
「今度の夏休み、行くの?」
「……なんで、そんなことを聞くんだよ」
 質問に質問で返し、僕は雫が答えるのを待った。だが、雫は、口を閉じたまま黙っている。仕方なく、僕は続けて言った。
「まぁ、うん。そのつもりでいる」
「……そう」
 雫は、小さく呟いて、もうそれ以上は何も言ってこなかった。
 沈黙の後、再び、信号が青に変わる。
「じゃあ、また明日な」 
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみなさい」
 雫の背中を見送り、僕は自分の家に向かって歩き出した。
 
 駅の周辺は、まだ明かりがあるが、駅から離れるにつれ、少しずつ減っていく。時折、通り過ぎる車のヘッドライトが、一瞬だけ辺りを照らす。
 雫の口から『彼女の名前』を最後に聞いたのは、もう随分昔のことだ。ずっと、僕たちの間では、彼女の話はしてこなかったのに。
 雫の表情からは、その真意を読み取ることはできなかった。

 そんなことを考えていると、もう少しで自宅に到着するというところで、タッタッ、と前から誰かが走ってくる足音が聞こえた。嫌な予感がした僕は、咄嗟に脇道へ隠れた。
 通り過ぎたのは、やはり弟の翔だった。足音が聞こえなくなって、ほっと息を吐く。
 時間帯が幸いした。街灯のない暗闇だから、恐らくバレていないだろう。
 しかし、何が悲しくて、自分の弟から隠れなければならないのか。
 
 ふと、小学生だったころのことを思い出す。あの頃だったら、競うように練習していただろうに、今ではそんな気持ちも湧いてこない。
「……ああ、くそ」
 本当に、どいつもこいつも。
 頼むから、これ以上僕の心を乱さないでくれ。