加茂井くんの自宅は、派出所から15分程度の距離にある。
 もう二度と来ることはないと思ってた。
 放射状の雨に包まれながら彼の自宅のインターフォンを押すと、開いた扉の奥から傷だらけの顔の彼が出てきた。


「早かったね。制服濡れちゃってるね。いまタオル持ってくるから、とりあえず家に上がって」

「あっ、あの……。どうして朝陽くんの顔に傷が出来てるんでしょうか。もしかしてメロンちゃんが?」

「いや……。部屋に入ればわかるよ」

「でも、私はもう偽恋人でも何でもないし……」

「この傷だらけの顔を見ても心配してくれないの?」

「うぅっ……」


 結局彼に負けて家にお邪魔することにした。
 玄関でタオルを受け取ってから彼の背中について行き部屋の扉を開けると、その隙間から足元にヒュンっと何かの影が見えた。と同時に、ハイソックスに何かがチクリと突き刺さる。目線を下ろすと、足元には4ヶ月前に行方不明になったフクちゃんがいる。


「えっ、ええええ!! うそっっ……、フクちゃん。どうしてここに……」

「さっき近所で見かけたから保護したんだ。最近この猫を見かけることが多くて、もしかしたらフクちゃんかなぁ〜と思っていたけど、やっぱりそうだったなんてね」

「見つけてくれてありがとうございます……。ねぇ、フクちゃん。長い間どこに行ってたの? いっぱい探したんだよ」


 私はフクちゃんの身体を両手で抱き上げてから胸の中でギュッと抱きしめた。
 4ヶ月ぶりの懐かしい香りに思わずじわっと涙が浮かび上がる。


「捕まえる時にあっちこっち引っかかれてさ。お陰で傷だらけになったよ」

「ごめんなさい。フクちゃんは怖がりで人見知りなんです。だから、警戒してたのかもしれません」

「いきなり知らない人に捕まったから不安だったんだろうな。でもさ、この街に来たってことは粋のことを探してたんじゃない?」

「えっ! ……フクちゃん、そうなの? もしかして、私の匂いを辿って学校まで探しに来たの?」

「ミャー……」

「……私もずっと探してたよ。ずっとずっとフクちゃんに会いたかったよ」


 家をでたあの日からもう二度と会えないと思っていた分、会えた喜びが身体中を駆け巡って嬉し涙が止まらなくなった。
 すると、彼はフクちゃんを抱いている私を正面から抱きしめてきた。
 私は彼の温もりと香りを身近に感じると、胸がドキンと鳴った。


「この間は話を聞かなくてごめん」

「えっっ!!」


 想定外の事態にビックリしてフクちゃんを手放すとどこかに走って行った。


「嫌だったんだ。粋が木原に抱きしめられているのが。あの時は偽恋人中だって言い訳をしたけど、本当は嘘。粋が俺以外の男に触れて欲しくなかった」

「……それ、どういう意味ですか?」


 彼の気持ちが伝わってくる度に私のハートビートは激しく波打っていく。
 次の言葉に期待するあまり、一語一句さえ聞き逃したくないほど神経が過敏になっていた。


「俺、粋に惚れてるみたい」

「えっ!!」

「最初は好きだと言われてもなんとも思わなかった。あの時は沙理のことで頭がいっぱいだったし、木原に挑発されて頭にキテて精神的に追い詰められていたし、他のことに目を向ける余裕がなかったから」

「……」

「でも、粋が偽彼女になってくれて、沙理のことを忘れようと努力していた俺に力を貸してくれたり、根性見せてくれたり、俺の為に変わろうと思ってくれたり、沙理との思い出を一緒に忘れさせてくれたり、大地との仲を取り持ってくれたりしているうちに、粋の想いが伝わってきた。そしたら、粋が隣りにいることが当たり前になって自信過剰になってた。粋はいつも俺を好きでいてくれるから何でも言うことを聞いてくれるだろうって過信してたよ」

「……」

「でも、それは間違いだった。粋が偽彼女を解消してきたら、頭ん中は粋のこと以外考えられなくなっていた。それはどうしてだろうと考えていたら、恋に辿りついた。粋のことを考えてる時間はいつも幸せだったから」

「えっ、私に恋?! ……だって、朝陽くんは赤城さんと上手く行ったんじゃ」


 いまから2時間ほど前、赤城さんは”ZIGGY”で加茂井くんに告白をしていた。
 私は二人の会話をそこまでしか聞かなかったけど、てっきり加茂井くんはその場でイエスの返事をしたんじゃないかと勝手に思い込んでいた。
 だから、『粋に惚れてるみたい』と言われても、どこか現実味帯びない。

 すると、彼は首を二回横に振った。


「粋がここに来るまで考えてたんだ。沙理と付き合い始めてから別れた時までのことと、粋が俺の偽恋人になってから今日までのことを。そしたら、粋の優しさやお節介な所が沙理との思い出を上書きしていた。それくらいお前との2ヶ月間が濃厚だったから、沙理とは復縁出来なくなったよ」

「朝陽くん……」

「……いまこうやって抱きしめてる瞬間だって、お前が好きだから不安で胸が押しつぶされそうになってる。俺、独占欲強めな方だから、好きって言い続けてくれてたのを勝手にやめられると無理」


 どうしよう……。
 フラれる準備が出来ていた分、好きと言われても気持ちが追いつけない。
 加茂井くんは、私のことが好き……? 赤城さんじゃなくて、私のことが……。
 信じられない。私、加茂井くんの気持ちに応えていいのかな…………。


「逆に聞くけど、粋は俺と沙理の幸せを願ってるの?」


 私は間髪入れずに無言で首を横に振った。
 もう胸がいっぱいで言葉が出てこないし、何から口にすればいいのかわからない。


「じゃあ、どうして願ってないの?」

「だって、赤城さんよりも私の方が朝陽くんのことが好きだからです。最初はこの想いが繋がらなくても朝陽くんが幸せになれればいいなと思ってました。でも、偽恋人を演じてるうちに自分の恋を優先したくなりました。朝陽くんに触れたいし、私だけを見ていて欲しいし、好きになってもらいたいと思ってしまいました。でも、朝陽くんは赤城さんの方がいいだろうから諦めることにしたんです」

「どうしてそう思ったの?」

「先日学校で二人で一緒に歩いてる姿を見てやっぱりお似合いだなって。二人には1年という長い思い出があるし、たった2か月間の偽彼女の私とは比べ物にならないから」

「どうして沙理と比べ物にならないの?」

「えっ……。どうして、どうしてって……。意地悪…………。だって、赤城さんとは思い出の数や思い入れが違……っっ!!」


 半分ふてくされながら反論している途中、彼は私に唇を重ねて言葉を塞いだ。
 彼の温もりが唇越しから伝わると、頭の中が真っ白になって恋の音が胸の中で響かせていた。
 

「沙理は沙理で、粋は粋だよ。思い出の数や思い入れが違くて当然だし、思い出なんてこれから上書していけばいい。それに、粋の幸せが俺の幸せだと言ったら、どういう返事をしてくれるの?」

「それは……」

「失恋男のくだらない提案を聞いて偽恋人になったり、校庭から校舎に向けてメガホンで好きと叫んだり、大地との仲をとりもつためにミキに会いに行ったり。自分には何一つメリットがないくせに、俺のことだけを想ってくれてるやつの隣が一番幸せなんだって気づいた。ただ、俺は嫉妬深い男だからテリトリーから出たら許さないけどね」


 彼はそう言うと、再び唇を重ねてきた。


 ――こうして私は、偽恋人から本物の恋人に昇格した。
 赤城さんが加茂井くんと復縁したいと言ってきた時は心が折れかかっていたけど、加茂井くんを好きな気持ちはやっぱり捨てることが出来なかった。
 ひたすら真っすぐで、ひとすじに想い続けた初めての恋。運命のあの日に感じた直感は間違っていなかった。
 彼の幸せが自分の幸せだなんて弱い自分への言い訳。本当は自分が彼と幸せになりたかった。大好きな人との恋は、二番手にも三番手にもしたくないから。