家に帰ると、玄関に茶色のローファーとお母さんの靴が並べてあった。この茶色のローファーは私のものではない。誰かがお客さんとして来ているのだろうか。
 あまり疑問には思わずリビングへ足を運ぶと、お母さんと共に信じられない人物がそこに座っていた。

 『あんたなんか消えちゃえばいいのに』

 忘れもしない、あの日の出来事。私の声を奪った張本人――澤部 更さんだったから。

 「……奏真さん!!」

 澤部さんは目を輝かせていて、私に会えたことが嬉しいという気持ちが痛いほど伝わってくる。
 けれど今はそんなことどうでもいい。あの日の苦しい出来事が脳裏に焼き付いて離れない。

 「奏真さん聞いて、私、あなたにあんなことしちゃってほんとに悪いと思ってるの、だから謝りたくて」

 澤部さんが私の肩を掴んで一生懸命何かを伝えようとしている。でも今は話が耳に入ってこない。
 『何か奏真さん見てるとイライラするんだよね』『あんたなんか消えちゃえばいいのに』あの日の言葉を鮮明に思い出す。

 「澤部さん、ちょっと落ち着いて」

 「だって、ずっとずっと奏真さんに謝りたかったんです!!」

 お母さんが何とかなだめてくれているけれど、澤部さんの勢いは止まらなかった。私の肩がぐぐっと強く握られている。

 怖い。怖い。怖い。澤部さんの顔、声、あの日の言葉。何も聞きたくない。何も見たくない。何も言いたくないの――。

 ねぇ誰か助けて。怖いって、助けてって叫べない。叫びたくても叫べない。自分の声で自分の気持ちを言いたいのに言えないのがとてつもなく辛い。

 わたし、澤部さんのことが怖い。あの日の出来事を思い出すと胸が締め付けられる。何も考えられなくなって、お腹から気持ち悪さが込み上げてくる。

 私ずっと、誰かに手を差し伸べてもらいたかったんだ――。

 「……や、めて」

 「音葉!? 音葉、声出るようになったの!?」

 「……どういうこと? もしかして奏真さんが学校来なくなったのって、声が関係してるの……?」

 もうこんな苦しくて辛い思いはしたくない。そう思ったらいま、三年間出なかった声が枯れてはいるけれど、出るようになった。

 信じられないという気持ちよりも、いま澤部さんとお母さんに想いを伝えないと。強く拳を握りしめて口を開いた。

 「わたし、澤部さんの、こと、どうしても許せない」

 「……っ! ごめん、ごめんね奏真さん。本当にごめんなさい」

 「……ずっと、声が出なくなって、から辛かった。気持ち、とか思いを、言葉にできないなんて、こんなに苦しいと、思わなかった。澤部さんのこと、許す気はないけど、でも」
 
 私は深く呼吸をし、整えた。

 「当たり前に話せる日常が、当たり前じゃないってこと。気づかせてくれて、ありがとう」

 「……奏真さん……!」

 「音葉、伝えてくれてありがとうね。音葉が辛い思いをしてたことに気づけなくてごめんね」

 澤部さんは泣きじゃくる子どものように、お母さんは嗚咽を漏らしながら静かに涙を流している。二人とも私のために泣いてくれているのかな、そう思うと私まで目頭が熱くなった。

 気持ちや思いを自分の言葉で伝えられるのは、当たり前じゃない。いつかその日常が崩れてしまうこともある。澤部さんのことは許せないけれど、それに気づかせてくれた大切な存在だ。

 私がこの日から声が出るようになったのは、きっと谷岡さんが私に勇気を与えてくれたのだろう。心の底からそう思った。