「おぉ・・・・・・、すごいな」
ぴょん、と真っ白なウサギが目の前を横切る。見渡せば玉兎たちはあちらこちらで集い、喧しく昼食を摂っている。聞こえるのは黄色い女子の声ばかりで、これはもう大したわけもなく、金烏はオスが、玉兎はメスが生まれやすいらしいのだ。
ちなみに、玉兎とウサギの容姿に大した違いはほとんどない。
女子特有の華やかさに圧倒され小さくうめいたのは煌と優牙、どちらだったか。
昼時、多くの玉兎たちが自身の寮の庭に出て笑い合いながらランチにしている光景は、なかなか月虹寮に立ち入らない煌たちにとっては圧巻の一言。
「すごい量だなぁ。飛輪寮は男臭いからねえ」
イヌ科の男子寮、男子千尋寮に所属する優牙が心底感心したように言う。煌は苦笑いを浮かべて突っ込んだ。
「お前、飛輪寮ほとんど入ったことないだろ。誰だよ」
と戯れながらもしかし、同感である。明るく高い声が飛び交い、あちらこちらで笑い・・・・・・。迫力というか、なんというか・・・・・・ついきょろきょろと辺りを見まわしてしまう。
玉兎の毛皮の色は、白で統一されている。灰色や、茶色などの色は見当たらない。そこが普通のウサギとは違う点である。
そのとき、はっと煌はある一匹に目を止める。真っ白なウサギが一際大きな集団にいるのを見つけた。他のウサギは、白に若干ピンクだったり緑だったりが混じっていて、とくすんでいるものが多いのに対して、目にも鮮やかな真っ白のウサギがいた。
優牙にそれを話してみたが、不思議そうな顔で首を傾げられた。狼は色彩感覚があまり鋭くないらしい。一方目のいい金烏である煌、自然と彼の目線はその一匹に惹かれていた。周りと少し違うだけで、こんなにも浮くものらしい。
しかし、誰も彼もがウサギの姿である。人型を取ってくれないと煌の目的は果たせない。さてどうしようか、とため息をもらしたときだった。
「きゃっ、金烏さま──それも、煌さまじゃなくて? まあ、優牙さままでっ。どうなさったのですか?」
煌は金烏特有の長身であり、優牙も煌と変わらないくらいの身長を持つ。ウサギだらけの月虹寮では、目立っても余りある。
一匹の声を皮切りに、わらわらと人型を取った玉兎たちが群がってくる。人の姿の煌たちに合わせてくれたのだろう。
これで彼女──月紫を見つけられるだろうか。
しかしよく見ると、当然のことながら煌たちに興味を持たないウサギたちも結構な数いる。隅でウサギの姿のまま、読書をしたりランチを食べているものたちだ。目当ての彼女はどうやらその中にいるのではないかと見当をつけるが、ウサギの姿のせいか、なかなか見つけることができない。
うーん・・・・・・どうしようか。
「煌さま、お久しぶりです! お元気でしたか?」
「今度銀桂商店街で新しくオープンするカフェがあるんですよ。煌さま、どうですか?」
「明日公開の映画があるのです、煌さま。人間界と同時に公開、って初めてなんですって!」
ものすごい勢いで話しかけられる。横で立つ優牙も同様だが、彼は適当にうなずきあしらい、それでいて粗略ではない反応の仕方を知っている。
「すごい人気だね、煌さま。で、なんのために月虹寮に来たの〜? 女子の匂い吸いたかった?」
「やめろ。お前は女慣れしすぎなんだよ」
「違うって、僕のはコミュ力! それは負け惜しみだよ煌さま〜」
「煌さまって呼ぶな」
こそこそと合間を縫って言い合う。
煌さま煌さま、としきりに呼び掛けられるが、それはもちろん強要したものではない。ただなぜだか浸透してしまった呼び名である。玉兎と金烏という種族の違いはあれど、ただのクラスメイト、ただの同級生なのに。種族の血に守られた地位に、ほとほと嫌気がさす。
もし俺が金烏でなければ、別の金烏に群がっていただろうに。・・・・・・たらればなんて、考えてもどうしようもないのはわかっているけれど、そんな仮初の人気なんか、正直嫌でしかないから。
小さくため息をついた。
「いいじゃん。煌さまぁ」
「やめろって尻軽狼」
「尻軽じゃないってばー。負け犬く〜ん」
「あ? お前、犬犬言うけど俺はカラス・・・・・・って、あ」
悪口の応酬を始めようとした二人だったが、唐突に煌が口を閉じたことにより未遂に終わる。
己を取り囲む輪の外側で、寮の中に戻ろうとしたのかあの真っ白なウサギが変化した。目線が引き寄せられる。月紫だ、とすぐにわかった。
彼女は遠慮がちに輪の外側で立っていた。すぐ隣に立つ子になにかを話しかけられているようだ。そんな端でいると話しかけにくい、と思ってしまう。ついじっと見ていると、目が合った気がした。が、彼女は相変わらず声をかけられた子に柔らかな笑みを浮かべて応じている。楚々とした、相手に不快感を与えない笑顔だ。
一瞬交わったように感じた視線はすぐに外れてしまった。
「煌? ちょっと大丈夫?」
「あ、ああ」
黙ってしまった煌を気にかけるように優牙が顔をのぞきこんできた。慌てて視線を戻す。
そんな二人に、さすがに不審に思ったのか、玉兎の一人が不思議そうな顔で訝しむ。
「どうかなさったのですか?」
「ん? ん、あ〜、いや、時間。大丈夫?」
長居できそうにないことを故意に匂わせてくれたらしい。そうだ、この後予定が入っている。なんの理由も告げずに優牙に頼み込んで月虹寮に寄ったのだった。
え〜、と不満の声がどこからともなく漏れる。
彼の言葉に、煌自身も気付かされる。そうだ、長居はできない。行動に起こさないと。
「えと、ちょっといいか」
「ん? どーした?」
図らずも、なにも知らない優牙に急かされる形になり、煌は輪の外側へ向かう。なんでしょう、とこそこそ言い合いながらも道を開けてくれるのはありがたいことだ。
急に動き出した煌に、優牙が不思議そうな顔をする。
「ちょ、煌、どうしたの、急に」
「・・・・・・うん」
うまく答えられずに大した言葉は返さず、月紫に近づく。はっとこちらの気配に気づいた彼女が、こちらを戸惑いを隠せない顔をし、身を引いている。
月紫の前に立ち、なんと言えばいいか決めないまま口を開いた。そして閉じた。
月紫さん? 月紫ちゃん? 月紫殿? どれも自分が口にしたらちょっと寒気を覚えたり滑稽だったりするので、結局なにもつけることができなかった。
「あ〜・・・・・・つ、月紫」
「ひぇ・・・・・・」
狼狽をダイレクトに顔に出して、月紫は一歩、身を引いた。
「これ、あの、この前の」
Tの文字が刺繍されたハンカチ。彼女に助けられた日から明日まで、ずっと体育祭の代休だ。だからわざわざ、寮まで渡しに来たのだ。
月紫はそこでようやく少し戸惑いを落として、ああ、とうなずいてちょこん、と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます・・・・・・わざわざすみません」
「手紙も・・・・・・その、ありがとう」
「いえ。こちらこそ、わがままを言ってしまい」
ぺこぺこと控えめに頭を下げる。硬い表情と遠慮がちな低姿勢は崩さないまま。
「字、すごく綺麗だなって。思って」
「ぁ、字、ですか? あ、ありがとうございます」
あの、流れるように書かれた『こう』を思い出す。彼女は一瞬ふわりと柔らかい笑みを見せた。強張ってはいるけれど、少し安心する。
そのときになってやっと、とんでもない量の視線が束になって向けられているのに気づいた。その中には信じられないようなものを見る優牙の目線も含まれていた。
しん、とあたりは静まり返り、隣接する他の寮からの話し声が微かに聞こえるほど。
あ、目立ってる。すごく目立ってる。そうだ、そんなに時間があるわけでもないのだ。早く引き上げないと。
「あっ、ごめん。ちょっと急いでて・・・・・・」
「はい」
「また・・・・・・会えたらいい、な」
女子と一対一、久しぶりだ。変に緊張している。
なんとかそれだけ言い切って、煌は彼女に背を向けた。ひっそりと深呼吸を何度か繰り返して、優牙の元に戻る。
「・・・・・・行くか」
すごくもの言いたそうな目をする優牙になにも言わないまま、連れ立って歩き出す。後ろに先ほどと同じような賑やかさが戻り始め、十分に遠ざかったところでやっと、優牙の奇異の目に応えることにした。
「言っただろ。あのときの。ハンカチ、大事なものだからってさ」
優牙には、恨み言とともに助けてもらったことは伝えてあった。優牙が途端に面白そうな顔になって、思わせぶりに息を吐く。
「はーん。ああいうことにとんと関わってこなかったお前がなにかと思ったら。そういうこと」
玉兎が女家系であることは、誰もが知る事実。月虹寮に寄ってもいいだろうかという煌の提案に、彼はなにも言わず了承してくれたが、うずうずと気になってはいたらしい。
「はーんってなんだ。別に礼を言っただけだから。下心なんて、断じて、持ってない」
思わせぶりな相槌に、ぴくりと眉を跳ね上げ、強い語調で返す。
「いや? 下心のしの字も僕は言ってないけどね? まあまあ、わかってます。僕は煌のこと、応援したいんだから。邪魔しないから」
なにもかも分かり切ったようなその言い草にかちんと来て、はぁあ、とため息をもらす。
「なんだよ・・・・・・なにが僕だ。人狼なら俺様キャラだろーが・・・・・・」
「いちいちそれいじってくるのやめてくれる? それ初対面から言われたけど、僕は僕なんだから」
「はっ、ホームシックになって慰めてやったの誰だと思ってんだ」
「お互い様でしょ? だいたい何年前の話?」
八つ当たりのように突っかかっていたら、重ねるように言い返されてむっと押し黙る。
彩羽学園は全寮制だ。小、中、高まで一貫だが、やはり入った頃は皆不安げだった。
全寮共通のラウンジで、夜な夜な泣いていた彼。慰めようと近づいたが、派手に泣きじゃくる優牙に推された煌も泣いてしまった。
まったく新しい環境で、しかも当時から同族のプライド高い民の悪意に晒されてなお強がり必死に表面を取り繕ってきた煌も、堰を切ったように泣いたのだ。
二人は互いに慰め、支え合い、庇いあい、そして今年、無事に寮生活十年目に突入する。
彩羽学園は、これまで自然で暮らしてきた半獣人が人間社会に馴染めるよう設立された学校であるため、自立させるよう、と小学校からずっと全寮制なのである。
「人間界、か。どんなところなんだろうね」
優牙がふっと独りごちる。
獣人の暮らすここより少し離れた場所にある、人間の暮らす場所。
小学生は危険なため人間界に出ることは許されず、中学生になると許可制にはなるが行くことはできる。高校に入ってやっと完全フリーとなるわけだが、やはり少し恐怖心があるのか自ら出ていく者は少ない。優牙もその一人である。
不安げな表情を隠しきれていない。
「あ〜、まさか僕が選ばれるなんて」
人狼のくせして、彼は臆病だ。とんでもなくビビり。そして保守的。こんなこと言ったら、また文句言われるけど。人狼でくくるなって。
「いいじゃん。選ばれでもしないと、お前出ないだろ、ここから」
「いや、別に行かなくても行きていけるし・・・・・・人間界って、危ないんでしょ? 怖いんでしょ?」
「じゃ、なんで彩羽学園入ったんだよ」
いずれは人間界に出ることを目的として設立された、ここに。
歩きながら、優牙は唇を尖らせる。
「えー、別にいいじゃん。ふつーに体裁保つため? でも人間界怖い」
「言うほど危なくねーよ、人間界」
はっと小さく笑い声をもらしながら、優牙に言い返す。
「でも煌が初めて抜け出して人間界行ったのって小学生んときだよね? しかも無断。格違いすぎ」
確かに、肝座ってたよなあ、あんときの俺。寮に帰りゃホームシックで泣いてたくせして。
だからこそ、だろうか。くだらない嫉妬にまみれた場所から──この、彩羽学園から、飛輪寮から抜け出そうと思ったのかもしれない。
「格ってなんだよ。だってつまんないだろ、彩羽っていう小さな世界で完結させんの」
「んんん・・・・・・うん。あ、着いた」
納得の行かなそうな優牙が顔を上げた先は、職員室である。
ぴょん、と真っ白なウサギが目の前を横切る。見渡せば玉兎たちはあちらこちらで集い、喧しく昼食を摂っている。聞こえるのは黄色い女子の声ばかりで、これはもう大したわけもなく、金烏はオスが、玉兎はメスが生まれやすいらしいのだ。
ちなみに、玉兎とウサギの容姿に大した違いはほとんどない。
女子特有の華やかさに圧倒され小さくうめいたのは煌と優牙、どちらだったか。
昼時、多くの玉兎たちが自身の寮の庭に出て笑い合いながらランチにしている光景は、なかなか月虹寮に立ち入らない煌たちにとっては圧巻の一言。
「すごい量だなぁ。飛輪寮は男臭いからねえ」
イヌ科の男子寮、男子千尋寮に所属する優牙が心底感心したように言う。煌は苦笑いを浮かべて突っ込んだ。
「お前、飛輪寮ほとんど入ったことないだろ。誰だよ」
と戯れながらもしかし、同感である。明るく高い声が飛び交い、あちらこちらで笑い・・・・・・。迫力というか、なんというか・・・・・・ついきょろきょろと辺りを見まわしてしまう。
玉兎の毛皮の色は、白で統一されている。灰色や、茶色などの色は見当たらない。そこが普通のウサギとは違う点である。
そのとき、はっと煌はある一匹に目を止める。真っ白なウサギが一際大きな集団にいるのを見つけた。他のウサギは、白に若干ピンクだったり緑だったりが混じっていて、とくすんでいるものが多いのに対して、目にも鮮やかな真っ白のウサギがいた。
優牙にそれを話してみたが、不思議そうな顔で首を傾げられた。狼は色彩感覚があまり鋭くないらしい。一方目のいい金烏である煌、自然と彼の目線はその一匹に惹かれていた。周りと少し違うだけで、こんなにも浮くものらしい。
しかし、誰も彼もがウサギの姿である。人型を取ってくれないと煌の目的は果たせない。さてどうしようか、とため息をもらしたときだった。
「きゃっ、金烏さま──それも、煌さまじゃなくて? まあ、優牙さままでっ。どうなさったのですか?」
煌は金烏特有の長身であり、優牙も煌と変わらないくらいの身長を持つ。ウサギだらけの月虹寮では、目立っても余りある。
一匹の声を皮切りに、わらわらと人型を取った玉兎たちが群がってくる。人の姿の煌たちに合わせてくれたのだろう。
これで彼女──月紫を見つけられるだろうか。
しかしよく見ると、当然のことながら煌たちに興味を持たないウサギたちも結構な数いる。隅でウサギの姿のまま、読書をしたりランチを食べているものたちだ。目当ての彼女はどうやらその中にいるのではないかと見当をつけるが、ウサギの姿のせいか、なかなか見つけることができない。
うーん・・・・・・どうしようか。
「煌さま、お久しぶりです! お元気でしたか?」
「今度銀桂商店街で新しくオープンするカフェがあるんですよ。煌さま、どうですか?」
「明日公開の映画があるのです、煌さま。人間界と同時に公開、って初めてなんですって!」
ものすごい勢いで話しかけられる。横で立つ優牙も同様だが、彼は適当にうなずきあしらい、それでいて粗略ではない反応の仕方を知っている。
「すごい人気だね、煌さま。で、なんのために月虹寮に来たの〜? 女子の匂い吸いたかった?」
「やめろ。お前は女慣れしすぎなんだよ」
「違うって、僕のはコミュ力! それは負け惜しみだよ煌さま〜」
「煌さまって呼ぶな」
こそこそと合間を縫って言い合う。
煌さま煌さま、としきりに呼び掛けられるが、それはもちろん強要したものではない。ただなぜだか浸透してしまった呼び名である。玉兎と金烏という種族の違いはあれど、ただのクラスメイト、ただの同級生なのに。種族の血に守られた地位に、ほとほと嫌気がさす。
もし俺が金烏でなければ、別の金烏に群がっていただろうに。・・・・・・たらればなんて、考えてもどうしようもないのはわかっているけれど、そんな仮初の人気なんか、正直嫌でしかないから。
小さくため息をついた。
「いいじゃん。煌さまぁ」
「やめろって尻軽狼」
「尻軽じゃないってばー。負け犬く〜ん」
「あ? お前、犬犬言うけど俺はカラス・・・・・・って、あ」
悪口の応酬を始めようとした二人だったが、唐突に煌が口を閉じたことにより未遂に終わる。
己を取り囲む輪の外側で、寮の中に戻ろうとしたのかあの真っ白なウサギが変化した。目線が引き寄せられる。月紫だ、とすぐにわかった。
彼女は遠慮がちに輪の外側で立っていた。すぐ隣に立つ子になにかを話しかけられているようだ。そんな端でいると話しかけにくい、と思ってしまう。ついじっと見ていると、目が合った気がした。が、彼女は相変わらず声をかけられた子に柔らかな笑みを浮かべて応じている。楚々とした、相手に不快感を与えない笑顔だ。
一瞬交わったように感じた視線はすぐに外れてしまった。
「煌? ちょっと大丈夫?」
「あ、ああ」
黙ってしまった煌を気にかけるように優牙が顔をのぞきこんできた。慌てて視線を戻す。
そんな二人に、さすがに不審に思ったのか、玉兎の一人が不思議そうな顔で訝しむ。
「どうかなさったのですか?」
「ん? ん、あ〜、いや、時間。大丈夫?」
長居できそうにないことを故意に匂わせてくれたらしい。そうだ、この後予定が入っている。なんの理由も告げずに優牙に頼み込んで月虹寮に寄ったのだった。
え〜、と不満の声がどこからともなく漏れる。
彼の言葉に、煌自身も気付かされる。そうだ、長居はできない。行動に起こさないと。
「えと、ちょっといいか」
「ん? どーした?」
図らずも、なにも知らない優牙に急かされる形になり、煌は輪の外側へ向かう。なんでしょう、とこそこそ言い合いながらも道を開けてくれるのはありがたいことだ。
急に動き出した煌に、優牙が不思議そうな顔をする。
「ちょ、煌、どうしたの、急に」
「・・・・・・うん」
うまく答えられずに大した言葉は返さず、月紫に近づく。はっとこちらの気配に気づいた彼女が、こちらを戸惑いを隠せない顔をし、身を引いている。
月紫の前に立ち、なんと言えばいいか決めないまま口を開いた。そして閉じた。
月紫さん? 月紫ちゃん? 月紫殿? どれも自分が口にしたらちょっと寒気を覚えたり滑稽だったりするので、結局なにもつけることができなかった。
「あ〜・・・・・・つ、月紫」
「ひぇ・・・・・・」
狼狽をダイレクトに顔に出して、月紫は一歩、身を引いた。
「これ、あの、この前の」
Tの文字が刺繍されたハンカチ。彼女に助けられた日から明日まで、ずっと体育祭の代休だ。だからわざわざ、寮まで渡しに来たのだ。
月紫はそこでようやく少し戸惑いを落として、ああ、とうなずいてちょこん、と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます・・・・・・わざわざすみません」
「手紙も・・・・・・その、ありがとう」
「いえ。こちらこそ、わがままを言ってしまい」
ぺこぺこと控えめに頭を下げる。硬い表情と遠慮がちな低姿勢は崩さないまま。
「字、すごく綺麗だなって。思って」
「ぁ、字、ですか? あ、ありがとうございます」
あの、流れるように書かれた『こう』を思い出す。彼女は一瞬ふわりと柔らかい笑みを見せた。強張ってはいるけれど、少し安心する。
そのときになってやっと、とんでもない量の視線が束になって向けられているのに気づいた。その中には信じられないようなものを見る優牙の目線も含まれていた。
しん、とあたりは静まり返り、隣接する他の寮からの話し声が微かに聞こえるほど。
あ、目立ってる。すごく目立ってる。そうだ、そんなに時間があるわけでもないのだ。早く引き上げないと。
「あっ、ごめん。ちょっと急いでて・・・・・・」
「はい」
「また・・・・・・会えたらいい、な」
女子と一対一、久しぶりだ。変に緊張している。
なんとかそれだけ言い切って、煌は彼女に背を向けた。ひっそりと深呼吸を何度か繰り返して、優牙の元に戻る。
「・・・・・・行くか」
すごくもの言いたそうな目をする優牙になにも言わないまま、連れ立って歩き出す。後ろに先ほどと同じような賑やかさが戻り始め、十分に遠ざかったところでやっと、優牙の奇異の目に応えることにした。
「言っただろ。あのときの。ハンカチ、大事なものだからってさ」
優牙には、恨み言とともに助けてもらったことは伝えてあった。優牙が途端に面白そうな顔になって、思わせぶりに息を吐く。
「はーん。ああいうことにとんと関わってこなかったお前がなにかと思ったら。そういうこと」
玉兎が女家系であることは、誰もが知る事実。月虹寮に寄ってもいいだろうかという煌の提案に、彼はなにも言わず了承してくれたが、うずうずと気になってはいたらしい。
「はーんってなんだ。別に礼を言っただけだから。下心なんて、断じて、持ってない」
思わせぶりな相槌に、ぴくりと眉を跳ね上げ、強い語調で返す。
「いや? 下心のしの字も僕は言ってないけどね? まあまあ、わかってます。僕は煌のこと、応援したいんだから。邪魔しないから」
なにもかも分かり切ったようなその言い草にかちんと来て、はぁあ、とため息をもらす。
「なんだよ・・・・・・なにが僕だ。人狼なら俺様キャラだろーが・・・・・・」
「いちいちそれいじってくるのやめてくれる? それ初対面から言われたけど、僕は僕なんだから」
「はっ、ホームシックになって慰めてやったの誰だと思ってんだ」
「お互い様でしょ? だいたい何年前の話?」
八つ当たりのように突っかかっていたら、重ねるように言い返されてむっと押し黙る。
彩羽学園は全寮制だ。小、中、高まで一貫だが、やはり入った頃は皆不安げだった。
全寮共通のラウンジで、夜な夜な泣いていた彼。慰めようと近づいたが、派手に泣きじゃくる優牙に推された煌も泣いてしまった。
まったく新しい環境で、しかも当時から同族のプライド高い民の悪意に晒されてなお強がり必死に表面を取り繕ってきた煌も、堰を切ったように泣いたのだ。
二人は互いに慰め、支え合い、庇いあい、そして今年、無事に寮生活十年目に突入する。
彩羽学園は、これまで自然で暮らしてきた半獣人が人間社会に馴染めるよう設立された学校であるため、自立させるよう、と小学校からずっと全寮制なのである。
「人間界、か。どんなところなんだろうね」
優牙がふっと独りごちる。
獣人の暮らすここより少し離れた場所にある、人間の暮らす場所。
小学生は危険なため人間界に出ることは許されず、中学生になると許可制にはなるが行くことはできる。高校に入ってやっと完全フリーとなるわけだが、やはり少し恐怖心があるのか自ら出ていく者は少ない。優牙もその一人である。
不安げな表情を隠しきれていない。
「あ〜、まさか僕が選ばれるなんて」
人狼のくせして、彼は臆病だ。とんでもなくビビり。そして保守的。こんなこと言ったら、また文句言われるけど。人狼でくくるなって。
「いいじゃん。選ばれでもしないと、お前出ないだろ、ここから」
「いや、別に行かなくても行きていけるし・・・・・・人間界って、危ないんでしょ? 怖いんでしょ?」
「じゃ、なんで彩羽学園入ったんだよ」
いずれは人間界に出ることを目的として設立された、ここに。
歩きながら、優牙は唇を尖らせる。
「えー、別にいいじゃん。ふつーに体裁保つため? でも人間界怖い」
「言うほど危なくねーよ、人間界」
はっと小さく笑い声をもらしながら、優牙に言い返す。
「でも煌が初めて抜け出して人間界行ったのって小学生んときだよね? しかも無断。格違いすぎ」
確かに、肝座ってたよなあ、あんときの俺。寮に帰りゃホームシックで泣いてたくせして。
だからこそ、だろうか。くだらない嫉妬にまみれた場所から──この、彩羽学園から、飛輪寮から抜け出そうと思ったのかもしれない。
「格ってなんだよ。だってつまんないだろ、彩羽っていう小さな世界で完結させんの」
「んんん・・・・・・うん。あ、着いた」
納得の行かなそうな優牙が顔を上げた先は、職員室である。