ふ、とため息をこぼす。
 最悪だ。
 昨日の体育祭のせいか足に少し残っていた鈍痛は、新たについた傷により上書きされた。右膝を擦りむいた上に軽く足を挫いてしまったらしい。必死に動かそうとするも痛みでうまく力が入らなかった。
 校舎に隣接する大きな図書館裏。
 ずる、ずると足を引きずり壁を伝い、不格好ながら一歩、一歩と歩を進める。校舎内にある医務室に行って手当てをしてもらわなければ。
 いや、待てよ。今日から数日間、体育祭の振替休日だ。校舎は開放されてはいるものの、医務室に誰かいるだろうか? 寮内の方にある医務室に行くべきだろうか。
 だとしたら、かなり遠い。
「あー、もう・・・・・・」
 運の悪いことに、軽く絶望したそのタイミングで力みすぎた右足が軽くつってしまって、煌はその場に座り込んだ。
 擦りむいた膝から滲む血は、傾いた橙の太陽が照らして金色にさえ見える。目線を下に移し、再びため息をこぼした。
 どん、と後ろから誰かに不意に押されたのがつい先ほど。たぶん、というか絶対同族のやつらだ。同じ、金烏(きんう)の血を引く者たち。嫌がらせの類だと思う。
 これだから普段は優牙とともに行動するのだ。
 狼の血が流れる獣人──いわゆる人狼である優牙は、マッチョでもないくせにそこそこに力が強い。しょっちゅう嫌がらせの標的になる煌を、小学生の頃から守ってくれている。しかし、小さな頃こそ助けられる頻度は多かったものの、中学生になり、ある程度体ができてきてからはお世話になることは減っていた、というのに。
 というのに、こんなことが起きる今日に限って・・・・・・っ。あいつ、気になってる子を体育祭終わったあとに映画に誘ったとか言って、不在とか、もうふざけてる。
 まあでも、正直、必要性がなくなっても一緒にいるのは・・・・・・まあ今日みたいな日の対策もあるけれど・・・・・・大いにあるけれど・・・・・・気が合うし、話してて楽しいしというのはある。だからなんだかんだ、今年で十年ほどの付き合いになるわけだ。
 ただ、俺に遠慮せずに堂々とデートをする神経は要改善だな、と思う。
 なんて愚痴ったり少し寂しく思ったりしながら痛みをはぐらかし、再びよろよろと立ち上がって歩き出す。
「っし、ふう」
 歩き出した途端、マシになっていたはずの痛みが再びつきつきと疼き出し、歩調を弱める。
 そうやってのろのろ、歩を進めていたときだった。
「あの、大丈夫ですか・・・・・・?」
 控えめにとんとん、と肩を叩かれて振り向く。女性の柔らかい声がかかった。
「あっ、ああ・・・・・・あれ?」
 お互いはっと目を見開いた。見覚えのある白銀の髪が日を照り返し金色に見えて眩しい。綺麗な色をしている、と心の隅で思う。
 確か、体育祭で隣に座っていた、同じクラスの──
「昨日の子?」
「やっぱり、ですよね。あの、大丈夫ですか?」
「あー、いや。大丈夫じゃない」
 心の底から助けて欲しかったので、すかさずヘルプを出した。すぐに女の子は困ったような顔をした。あー、しくじったかな。
「ですよね・・・・・・えと、どうしましょう。えーっと」
 ごそごそと制服のポケットを漁り、ハンカチを取り出し、遠慮する間もなく傷口から垂れる血にあてがってくれる。
「あっ、ありがとう。助かる。えっと、T・・・・・・?」
 ハンカチに刺繍されたアルファベットが目に入り、つい口からこぼれてしまった。
 女子ははっと顔を上げて、それからぱっとすぐに目をそらして答えてくれた。
「あ、はい・・・・・・な、名前・・・・・・が、つくし、と言います」
「つくし?」
 なかなか珍しい名前の持ち主だ。漢字の想像がうまくつかない。ひらがななのかもしれない。
「はい。えと、玉兎(ぎょくと)、です」
「玉兎か、なるほど」
 種族の補足説明を聞いて納得する。白い肌、白銀の髪、赤みの混ざった瞳、そして長身。なるほどそういうことか。
「俺は金烏だ」
 つい名ではなく自分に混ざる獣の名前を教えてしまったのは、玉兎と金烏という種が、並列ながら他の種族より飛び抜けて特別だからだ。
 玉兎はウサギ、金烏はカラスの分類に入る。まったく違うように見えて、この二種はかつてそれぞれ月、太陽を守護していたという異質な存在だった。ともに小動物にも関わらず人型をとると長身であったり、顔立ちが整っていたりというような特徴を持つ。
 今目の前にいる彼女もおとなしげながら可憐な顔立ちだし、煌もまあ悪くはない方だ。ただ、他の金烏の獣人にはもっとイケメンな奴もいたりする。
 ここ彩羽学園は全寮制なのだが、基本は数種族で使うのに対して金烏玉兎の二種は、独立した寮を与えられている。そこからも、その二種の特異さがわかるというもの。
「あ、存じ上げております。あの、ええと・・・・・・」
 鮮やかな金髪と漆黒の瞳、上背がある煌の風貌をちらちらと遠慮がちに見ながら、玉兎の彼女はうなずいた。
「ああ、そうか・・・・・・」
 ふっと苦笑が浮かぶ。
 感謝すべきか──煌は金烏の血が少し濃い。そのせいで金烏の特徴が強く現れ、そのせいか周りには常に女子が寄ってくる。ちょっとした有名人である。
 そのため一部のプライドが高い同族からの子供じみた嫌がらせが絶えないのだ。他の一族とはなんとなくうまくやれているのだが。
 傲慢だとは思うけど、さすがに気疲れする。その点、気の置けない優牙は癒し剤でもあった。
「えっと、医務室・・・・・・行きましょうか? ええと、肩、を」
 自分がすべきことに少しだけ逡巡を見せたが、すぐに、ハンカチで膝を庇って立つ煌の右に回り込んでぐっと力を込めた。
 煌よりも小柄ながら、しっかりと支えてくれる。少し頼りないが、懸命に歩調を合わせてくれるその様子に、いじらしささえ感じた。
 片脇には、文庫本が挟まれているのにも関わらず。