「ねーもう本当に行かなきゃダメ? ・・・・・・あ、鈴! 熊避けの鈴もいる」
 ちりちり、と軽やかな音。どこから取り出したのか大振りな鈴を取り出して、震える手で素早くキャリーケースにつけ始める優牙、そしてそろそろ本気で心配し始める煌。
「お、おいおい、お前大丈夫か? なんで人間界に行くのに鈴つけんだ、そこそこ都会だぞ。熊出たら大騒ぎだわ」
「えっ? で、でも、人間界怖い・・・・・・」
「大丈夫だって、大丈夫、俺慣れてるから、安心しろ。ああ、ああ、お前登山じゃないんだぞ、なんで非常食入れてんだ。みかんの缶詰と乾パンと・・・・・・? ああっ、レトルトカレーまで!」
 イヌ科の獣人たちが暮らす寮内──千尋寮、優牙の部屋。いよいよ明日の早朝に出発ということで、荷造りは完璧──というわけではなかった。
 というのも、ぎりぎりまで弱音を吐き散らかす優牙がめちゃくちゃなものをあちこちから引っ張り出してキャリーケースやリュックに詰めるのである。だからこうして必死に煌がブレーキとなっているのだ。
 ずるずると引きずられるように、彼の勢いは止まらないのだが。
 次いで出てきたのはライフジャケットと、どこで手に入れたのか赤と白の救命用浮き輪。
「おま、これっ・・・・・・」
 笑いも通り越して呆気に取られてしまう。
 勝手に彼の荷物をひっくり返してぽいぽいと放る煌に、優牙は珍しくキレ気味である。
「なんで出すんだよ! 遭難したらどうするの、煌考えたことある?」
 どうやら煌の方が考え足らずとか思われているようだが。
 ・・・・・・だから行くのは都会だ。雪山ではないし、大海原でもない。
「いや、だってお前、缶切り入ってないし、湯煎もレンジもどこでするつもりだ」
「えっ・・・・・・、あっほんとだ、缶切り入れてなかった! えっと、どこにあったかな」
「違うだろって・・・・・・お前ほんと、一回落ち着け。大丈夫だから。安心しろ」
 あちこちを探す優牙を、ずるずると部屋に備え付けのベッドまで引きずって座らせる。
 すぐに優牙は落ち着いて、はあっとため息をついた。
「んん〜っ、ごめん、ちょっと取り乱した」
「乱しすぎ。お前、わかってはいたけどとんでもない怖がりだな。大丈夫かそんな調子で。大学、人間界だぞ」
 確かに、もとから彼はお化け屋敷が苦手で、物陰から虫が飛び出せば肩を震わせるし、社交的ながら陰では嫌われないように必死に努力する節がある。
 毎夜のスキンケアや爽やかに笑う方法、口調を柔らかくしたり髪の手入れをしたり。
 でも、だからこそ何度も疑問に思う。なぜここにいるのか、と。
「大丈夫じゃないかも。怖くてしょうがないんだ」
 長息して、優牙は憂鬱そうな顔をする。やはり馴染みのない人からすると、人間界というのは未知であふれているのだ。それはときに興味、そしてときには激しい恐怖の対象となる。
「なんで彩羽学園入ったんだ・・・・・・、大丈夫そうか、明日」
「なんとかやる。煌がいるしね。──僕、実家嫌いだからさ」
「え?」
 急な言葉に、煌は目を見開く。実家・・・・・・彼の親人狼たちがいる、実家だろうか?
 確かに彼は、休みも実家には帰らず寮にいることが多かった。
 種によって実家は、山奥、海の底、そして銀桂商店街などあちこちにある。確か人狼の里──特に彼の出身地はそう遠くない寒冷な山だっただろう。
 煌だって、長期休みには金烏が群れて暮らす村に帰っているというのに。
「やっぱり強面の人多いんだよねー人狼って。苦手で、戻りたくないからさ。うん。だから、ここに入ったの」
 情けなさそうに、眉尻を下げながら優牙は言葉を紡ぐ。突然の吐露に、煌は少なからずショックを受ける。彼と十年も前、ともに泣き、慰め合い立ち上がったことを思い出したから。
 あの、ホームシックで慰め合った美しき友情の思い出はどこへ行くのだ。がらがらと音を立てて崩れていく十年前の記憶・・・・・・。
「そう、だったのか。じゃあ、ホームシックだった、って」
「本当半分、嘘半分。ごめんね。本当に、環境が変わったのは嫌だったし、ホームシック的な感じにはなってたの」
 少し申し訳なさそうに、それでもじっと視線をそらすことなく、優牙は謝罪する。
「あとは、十年後、二十年後、僕はどうなってるんだろうって思ったからね。勢いで入学したけれど、人間界なんて怖くてたまらなかった」
「変わってねんだ、十年前からお前」
 呆れたような笑みがついつい浮かんだ。もう昔の彼の姿や言葉は朧げだけど、明晰に想像できてしまう。
「うん、そうだね。よく考えればそうなのかも。ううん、でも」
 僕は自立したい、と言い正面を見つめた優牙の目は、覚悟を浮かべている。
「ちゃんと人間界で、一人で生きていけるようにならなきゃ。よしっ、頑張ろ」
「おお」
 それからまたこっちを見て、笑った。
「煌、ごめん、ありがとう。決心ついた。明日、ぜひ二夏ちゃんのところにも連れて行ってね」
 彼の笑顔に、がつんと煌は頭を殴られた気持ちになった。
 臆病? ビビり? そんなの嘘っぱちだ。
 こいつは強い。
 ずっと、ずっと昔から、俺がどれだけ人狼っぽくないといじっても、“僕は僕”と言い返す強さを、こいつは持っている。