深夜十二時。
 二階のベランダから眺める星空は綺麗だった。澄んだ寒空には無数の光の粒が敷き詰められている。対して、ベランダに付いている鉄の柵から見下ろした先には一本の大きな道があって、たまに車が通っていく。ライトとテールランプが人工的な輝きを演出していた。

「さっむ」

 体をひんやりと撫でる空気と白い吐く息が本格的な冬の訪れを感じさせる。パジャマ姿ではあるが冷気で肌がピリつく。それによって、わずかにでもあった眠気が消え去った。
 しばらく部屋に戻る気はなかった。感傷に浸るには暖かな部屋には相応しくないと思えたから。
 今日、十二月十三日は俺の姉が死んでしまった日だ。三年前のあの日の夜空もこんな風に綺麗だった。
 姉の、「明星志穂」は七時頃に近くのコンビニに買いに行った時に、交通事故にあって死んだ。志穂は飛び出してしまったペットの犬を追いかけた少年を救うために、身を投げだして、その子を救った代わりに犠牲となった。
 その子の両親にはすごく謝られたし感謝もされた。志穂の通っていた学校では表彰もされたらしい。まさしく英雄的に。でも、そんなことのために命が失われるなんて、対等じゃない。
 自己犠牲なんて馬鹿げている。それを称賛する人間はもっと馬鹿だ。当事者じゃないから安易に拍手を送る。どんな素晴らしい行為だとしても命より価値があるものなんて存在しない。
 ぎりっと奥歯を強く噛み締めてしまう。手には力がこもって、頭の中が少し熱い。
「やめよ」

 風が吹きその寒さに意識が逸らされて高ぶる感情が抑えつけられる。やはり、ここにいて正解だった。

「しーちゃん」

 姉のことは家族間でしーちゃんと呼んでいた。小さな頃から呼んでいたのだが、彼女が死んだあの時期の俺は中学二年生でしーちゃんは高校二年生。俺は反抗期だったし思春期だったから少し恥ずかしくて呼び方を変えようと試行錯誤していた。反対に俺は光輝でこーくんと呼ばれていて、同じく変えて欲しいなと感じてもいて。
 ただ、その途中でそれも終わってしまったけど。
 もし、生きていたら俺は彼女をなんと呼んでいたのだろうか。そんな気休めにもならない想像が膨らみそうになった。
 そんなことはありえない。すぐに被りを振って払う。
 でも――ちょっとでも会いたいな。
 そう心で呟くと同時に流れ星が一瞬駆けるのも見た。

「ま、叶うわけないか」

 そう肩をすくめて、そろそろ戻ろうと振り返った。

「え」
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん! 久しぶりだねこーくん」

 そこにいたのは当時と変わらない制服姿の明星志穂、その人だった。

「はは、俺もとうとうおかしくなったかな」
「おかしくなっていないよ。あたしはここにいるでしょ」

 優しく包み込む柔らかな声が心地よく耳を震わせる。するとぽっかり空いた胸の中にしみてきて、目の奥が熱くなってきた。

「……どうなってんだ」

 信じたい気持ちと信じられない気持ちがぶつかり合う。何度も目をこすってみるが姉の姿は依然として存在している。

「驚いたでしょー。こーくんが強く願ってくれたから来ちゃった」
「来ちゃったって、そんな」

 あまりにも軽すぎる言動に面食らうが、姉らしいとも思えて一層リアリティが高まる。しかし、現実とは思えない。いつの間にか倒れていて夢を見ている可能性も捨てきれない。

「……よし」

 俺は柵に近づくと思いっきり頭をぶつけた。

「がっ――っ痛ぁ!」

 おでこに強烈な衝撃が走りその鈍い音と痛みが脳全体を揺るがした。思わず体をまるめてしまい額を手で覆う。しかし、額の痛みの余波が残っている。

「うわわ、大丈夫こーくん⁉」
「だ、大丈夫……」
「もう、危ないよ。本当に頭がおかしくなっちゃうよ」

 志穂は座り込むと頭をなでてきた。少しくすぐったくて温かくて、意識が痛みから逸れていく。さらに熱いものがこみ上げてきて。

「ほらおでこ見せて」
「う、うん」

 ゆっくり顔を上げると至近距離に心配そうに覗き込む志穂の顔があった。

「ちょっと赤くなっちゃってる。どうして突然こんなことを」

 志穂の顔をぼーっと見つめながら答える。。

「いや、夢かどうか確かめたくてさ」
「そこはほっぺたをつねるんじゃないの? やり過ぎだよ!」

 とんでもなく痛いが、だからこそこれが現実なのだと思えてくる。
 目の前にいる志穂はやっぱりあの頃と変わらない。目鼻立ちがはっきりしてる整った顔立ちに肩まで真っすぐ伸びた黒色の髪。真っ直ぐな瞳を持っていて、右目の目元にあるホクロに、キラキラした笑顔とそれに伴って作られるえくぼもそのままで。

「……っ」

 こみ上げていた熱いものが溢れ出す。視界がぼやけてポツポツと涙がこぼれ落ちた。

「わわっ、やっぱり泣くほど痛かったんだね」
「ち、違……くて。会え……たのが、嬉しく……て」

 泣くことは止められなくて言葉が途切れ途切れになる。

「……ごめんね。こーくんを悲しませちゃったね」

 頭から感じる撫でる手の温かさがさらに涙のダムを決壊させる。

「……ひっ……く。え……っぐ」

 ただ泣くことしか出来なくなり、その間には志穂の慰めの言葉と撫でる手のぬくもりが途切れることはなく、それは昔に戻ったようだった。

「落ち着いた?」

 俺は目元を拭って頷く。しばらく涙が止まらなくて抑えるのに必死だった。

「ふふっ、大きくなってもまだまだ子どもだねぇ」

 立ち上がった俺を見上げつつも、大人びた余裕な笑みを向ける。

「うっさい」
「可愛くないなぁ」

 志穂の前でわんわん泣いたのだから手遅れだけど、子ども扱いに反抗したくなってしまった。それに、冷えた環境下によってすぐに冷静になったことでさっきの醜態を思い返すと、彼女を直視できない。

「そういえばさ、こーくん彼女とか出来た?」
「え、いや……いたことないけど」

 突然浮ついたような話をされて、冷えそうだった頬がまた少し熱くなった。

「ふーん。好きな子とかいないの?」

 そう聞かれて脳内にクラスのある女の子の姿が浮かんだ。

「い、いない」
「本当かなー? こーくんって嘘つく時よく頬を弄くるよね。それに」

 志穂はニヤニヤしながら接近してきて、俺の頬をつんつんとつついてきた。

「ほっぺたも赤くなって熱いよ」
「あーもう、いるよ。いますよ」

 俺は軽く腕を凪いで志穂を振り払い、距離を取らせた。

「えへへー、こーくんもそんなお年頃かー」

 また志穂は俺との距離を詰めて頭を撫でてくる。柔らかさとくすぐったさに強くは抵抗できず、変わりに口で抵抗。

「俺の保護者かよ」
「またそんな可愛げのないことを言ってー。でもあたしにとってこーくんは可愛い弟だからね」
「……」

 多少ブラコンじみた発言だったが、すごく心が和らいだ。けれど同時にささくれた傷にも触れるのを感じた。

「だったら……いや」
「どうかした?」
「なんでも無い」

 喉から出そうだった言葉を留める。それはどこか無意識的で。心の傷を隠そうとした。ふと、一陣の風が吹く。すると木々の葉が揺れる音が静けさの中に穏やかに響き渡る。
ざわめきはすぐに止んで再び静寂になると、どこか寂寞を感じた。

「さっむ」

 あまりの出来事に認識できていなかったが、流石に相当体が冷えていることに気づく。
 部屋に戻らないかと伝えようと志穂の目を見ると、彼女はゆるりと顔を振った。

「ごめん。私はここにしかいられないみたい。それにもう」

 そう言葉を切ると、彼女の体が淡い水色に光って薄まっていた。それはすぐに別れの合図なのだと理解してしまう。

「もう、行っちゃうのかよ。また俺のことを置いていくのかよ……」
 さっき飲み込んだ言葉がつい口から出てしまう。すぐにはっとして、口を噤んだ。
「ごめんねこーくん」

 志穂は悲しげに瞼を閉じた。

「こちこそごめん。もっと辛いのに」

 胸の中には志穂が死んで苦しかったことが暴れだしそうになっていた。

「ううん。謝らないで。わかるよ。こーくんがずっと苦しんでいたこと。だからさ、その思いをぶつけていいんだよ。受け止めるから」

 志穂は慈愛の表情で俺をまっすぐ見据えた。
 その姿と俺の姿はまるで大人と子どものようだ。そんな状態の自分に嫌悪感があって、それに感情をぶつけるということにひどく抵抗感もあって。
「……世話が焼けるなぁ」
「……っ」

 志穂にぎゅっと抱きしめられる。彼女の胸の中はとても柔らかくて温かくて、冷えていた体も固めていた心も溶かしてきて。

「……行かないでしーちゃん。もう一人にしないでよ」

 摩擦もなく自然に涙と言葉が流れ出た。もう頭が真っ白になって裸の感情をしーちゃんにぶつけた。

「やっとしーちゃんって呼んでくれた」

 俺は寒空の下また子供みたいに泣いてしまう。でもさっきとは違って、しーちゃんにくるまれた安心感で抑制することなくひたすら開放し続けた。

            *
 
「……ありがとうしーちゃん。受け止めてくれて」

 あれから数十分が経って俺の涙は止まった。そして後ろ髪を引かれながら、俺はしーちゃんから離れる。

「どういたしまして。ふふっ、でも弟の愛が大きくて受け止めるのが大変だったよー」
「仕方ないだろ、好きだったんだから」

 出し切ったせいか、夜の静謐な空気のように清々しい気持でいて、恥ずかしげもなくそう言えた。

「そ、そんな素直に言われると照れちゃうよ」

 ずっと俺の弱い姿ばかり見られていたから、何だか少しやり返せたような気がして嬉しかった。

「……しーちゃん、もう行っちゃうのか?」

 さっきよりも薄くなりつつあって今にも消えてしまいそうだった。触ろうと手を伸ばすとすり抜けてしまって。

「ううん、どこにも行かないよ。私はずっとこーくんの近くにいる。見えないだけ」
「……そっか。けど、また会いたいよ。だって俺はまだ子供みたいだから」

 俺はずっと大人ぶっていた。けれど、本質の部分は未熟で誰かに頼らないと立っていられない。

「安心して、こーくんが私を必要としてこの星空に願えばきっとまた会える。だからそこまでのお別れ」
「わかった」

 しーちゃんの言葉は、ただの慰めの言葉じゃなくて本当にそうなのだという説得力があって。だから寂しさが軽減した。

 そう会話している間に、しーちゃんの姿は消えつつあって、とうとう下から徐々に光の粒子になっていっている。もう時間はないようだ。

「こーくん、またね」

 寂しさを含ませない真っ直ぐな笑顔で手を振る。

「またね、しーちゃん」

 だから俺も最大限の笑顔でまた会おうと手を振り返した。彼女の姿が光となるまでずっと。

「……」

 しーちゃんの体全てが粒子となって空へと昇っていく。それが星達の中にいくまで見送った。

「俺はしーちゃんみたく命をかけるほどの優しくはなれない。けど、今日俺にしてくれたような優しさは向けられると思うんだ。だから見ていて」

 俺は夜空を見据えてそう決意を口にする。まだ完全に切り替えられている訳じゃないけど、後ろばかり見ていたらしーちゃんを安心させられない。
 夜の中に咲き誇る星々は力強く輝いていた。