*****

 「おはよう、玲奈ちゃん。朝ごはん用意したから食べてね」

 「……うん、ありがとう」

 朝の忙しい時間帯にはそぐわない、お母さんのゆったりとした言葉に相槌を打ちながら、姿鏡に映して制服を纏った。

 淡いブルーのワイシャツに、濃いネイビーブルーの制服。襟に巻く真っ赤なリボンが特徴的な制服は、今日も私に馴染んではくれない。

 《桜も満開になり、入学式や進学にピッタリの季節となりましたね》
 《今日も素敵な一日をお過ごしください》

 築三十年超えの木造2LDKのこのアパートは、自分の部屋にいてもリビングから流れるテレビの音が筒抜けてくる。

 襖で仕切られてできた六畳半の畳のこの部屋は、とにかく物であふれていた。

 名前も分からないキャラクターのぬいぐるみに、たくさんの雑誌。
 コスメに服に、バッグにアクセサリー。

 それらをぐるりと見渡して、私は小さなため息を一つ落とした。


 「そうだ、今日から三年生になるんだね」

 「……うん」

 「おめでとう、『玲奈』ちゃん。お祝いしなくちゃね」

 お母さんはそう言って、私の顔を見て微笑みながら妹の名前を呼ぶ。

 「……ありがとう」
 そして、私もそれが当然であるかのように微笑み返してお礼を言った。




 私の双子の妹である玲奈は、一年前にこの世を去った。彼女がいなくなって、今日でちょうど一年になる。

 それなのに、お母さんは未だにその事実を受け入れられずにいる。

 ただ受け入れないだけじゃない。お母さんは『私』のことを玲奈だと思い込んで、私に玲奈として生きることを強要した。


 《嫌よ、ちがう……っ!死んだのは玲奈ちゃんじゃない!仁花よ!》

 《私には玲奈ちゃんが必要なの!あの子が必要なのよ……っ》

 《事故でいなくなったのは、『仁花』よね?そうよね?ねぇ?》


 お母さんはあの日、ここにいるはずの私を殺して、事故で死んだはずの玲奈を生き返らせた。

 玲奈の死を悲しむ余裕さえ与えられないまま、私は『玲奈』の人生を歩むことになった。


 「(もう、思い出したく、ない……っ)」

 隙あらば顔を覗かせようとするこの最悪の記憶を振り払うように首を振って、無理やり心の中に閉じ込めた。

 いつものように着替えを済ませて食卓机に向かうと、そこにはいちごのジャムがのった菓子パンと、牛乳が満タンに入ったコップが用意されていた。


 お母さんは滅多に料理をしない。いつもスーパーでお惣菜を買ってくるか、冷凍食品やレトルト食品がほとんどだ。

 料理が得意だった玲奈は生前、そんなお母さんに代わってよく家事をこなしていたらしい。玲奈と離れて暮らすようになって、私は彼女がどんな生活を送ってきていたのかまったく把握していなかった。




 「行ってきます」

 「気をつけてね、玲奈ちゃん。帰ったら一緒にスーパーに行こうね」

 「……うん」

 古びた玄関の扉は、開けると油の足りていない音を軋ませる。

 外に出た瞬間、少しだけ息がしやすくなるのが分かった。



 お父さんとお母さんの離婚が決まったのは、私と玲奈が中学二年のときだった。

 お母さんは家を出て行くとき、一番に玲奈を連れていきたがった。『玲奈ちゃんはママと一緒に来てくれるよね?』と言って玲奈の手を握りしめてそう言ったことを、私は今でも鮮明に覚えている。

 結果、残りものとなった私はお父さんと一緒に家に残ることになった。

 昔から精神的に不安定なお母さんには、きっと玲奈のあのとびっきりの笑顔と、どんなときでも場を明るくするあの性格が必要だったのだと思う。

 同じ顔、同じ背丈、顔のホクロの位置まで同じだった私と玲奈は、両親でさえすぐに見分けがつけられないほどそっくりだった。

 それでも玲奈には、私が持っていないものをたくさん持っていた。

 誰とでも仲良くなれるコミュニケーション力に、おしゃれのセンス。玲奈の周りにはいつの間にかたくさんの人が集まっていて、その誰もが笑顔だった。

 それは全部、私にはないものばかり。

 『仁花は勉強が得意なんだね』『絵も上手なのね』だなんて褒められたことがあったけれど、そんなものいらない。私はずっと、玲奈が持っているものが欲しかった。

 だからお母さんが玲奈を連れて出て行ったことは理解できる。

 だけど、それでも本当は言いたかった。

 “どうして私のことは引き取ってくれなかったの?”って。

 “私もお母さんの子供なんだよ?”っと。


 あのときはっきりと分かってしまったんだ。
 私はお母さんに必要とされていないのだと。

 そんなお母さんが、今は私のことを必要としてくれている。たとえそれが『仁花()』ではなく、玲奈として生きる『私』だったとしても、心の片隅で喜んでいる私がいた。





 ──ブーッ、ブーッ。

 アパートを出てすぐ、ポケットの中に入れていたスマホがバイブする。学校へ向かいながら画面をのぞくと、玲奈と特に仲のいい和佳とみのりのグループトークに大量のメッセージが届いていた。

 《みのり:おはよー!春休みも終わっちゃったねー!》

 《和佳:学校しんどい、だるい、リモート希望》

 《みのり:リモートは嫌だよ!和佳と玲奈に会いたいもん!》

 玲奈が通っていた私立三葉学園は、とにかく自由な校風で有名なところで、たくさんの科があり、授業も単位制という珍しい学校だった。

 その中で玲奈は流通販売・経営科を選んでいた。将来は自分のカフェを持つことが夢なのだと、和佳とみのりに話していたらしい。

 両親の離婚によって、玲奈と会う日は多くて月に三回から四回程度のものになった。

 同じ容姿でもまるで性格が違う二人だから、あまり共通の話題や盛り上がるようなネタもなかったけれど、それでも玲奈は私と楽しそうに話をし続けてくれていた。

 学校であったこと、お母さんの話、演劇部に所属していて主演を勝ち取ったこと。何を聞いても単純な相槌しか打てないこんな私と一緒にいて何が楽しいのだろうといつも思いながら、それでも玲奈は私と会う日を楽しみにしてくれていた、心まできれいで優しい子だった。


 《みのり:ってか、私達もとうとう受験生だね》

 《和佳:やめてよ、考えただけで気が重くなるでしょ?》

 《みのり:大丈夫!来週は親睦会があるから、とりあえず楽しも!》

 《和佳:でも山の中でキャンプでしょ?正直あたしは行きたくないんだけど》

 《みのり:もう!なんで和佳はそうインドアなわけ!?楽しもうよ!》
 
 《和佳:山の中じゃ楽しめない。清潔な室内希望》

 《みのり:最低ー!(怒)》

 常に学年トップの成績を残す頭のいい和佳と、将来は美容師になるという夢を持っているみのりとのやりとりは、昼夜を問わず永遠と続く。

 とくに朗らかで明るい性格のみのりは、何かあるたびにこのグループトークで会話をしたがるから、少し目を話すと次々と話題が飛び交ってしまい、どこから話せばいいのか分からなくなってしまう。

 私はすばやくメッセージアプリに『今日も一日頑張ろうね』と入力したところで、その指を止めた。

 「(……違う。間違えた)」

 玲奈はこんな返信しない。
 これは『玲奈』じゃなくて、『仁花()』の言葉だ。

 私は足を止めて、打ち込んだ文字を全部消しながら心の中で何度もつぶやく。
 “私は玲奈。『仁花』じゃない、玲奈なんだ”、と──。


 《玲奈:みんなおはよっ!来週の親睦会、全力で楽しもー!》

 私が『仁花』として生きていた頃には一度だって使ったことのない可愛いスタンプと一緒に送信した。

 するとすぐに既読がついて、そのあとも一切違和感を持たれることなく進んでいく会話にホッとする。私は玲奈のスクール鞄を握りしめながら、学校までの道のりを足取り重く進み続けた。






*****


 「お母さんは元気か?」

 月に数回、お父さんの仕事が休みになる休日は決まってカフェかレストランで会うことになっている。

 私はいつものようにアイスカフェラテを飲みながら、春限定の桜スイーツが来るのを待っていた。お父さんは夏だろうと冬だろうと、必ずブラックのホットコーヒーを頼む。

 「お母さん、たまに夜中に起きて一人で泣いてたり、体調が良くない日はベッドから一歩も出られない日もあるけど、元気なときは部屋の掃除とかしてくれるし、昨日も朝ごはんの用意もしてくれたから、今のところは大丈夫だと思う」

 「そっか。ごめんな、母さんのこと任せっきりにして」

 「……」


 お母さんが玲奈を連れて家を出てから、私は一年前までお父さんと二人で暮らしてきた。お父さんは美術品や絵画などを海外から取り寄せて販売したり、日本の美術館や展覧会に飾ったりする美術商として働いている。

 仕事柄、日本全国だけにとどまらず、海外にも出張へ行く日が多くて一人で家にいることがほとんどだったけれど、それでもお父さんとの関係はうまくいっていたと思う。

 けれど事故で玲奈を亡くしたあの日、お母さんが私を強引に『玲奈』として引き取ると言い出したとき、お父さんはそれに賛成した。


 『お母さんが精神的に安定するまで、そばにいてやってくれないか?』

 『お父さんも協力するから』


 あのとき、私は目の前が真っ暗になった。きっとお父さんなら、こんな馬鹿げたことはできないと反対してくれるものだとばかり思っていたから。

 私は一生懸命に『私は仁花だよ』『玲奈じゃないよ』とお母さんに訴え続けていたけれど、お父さんのあの言葉を聞いて、それ以上自分が仁花であることを言い出せなくなった。

 お父さんもお母さんも、私が『玲奈』であることを望むんだ。

 私は仁花なのに。玲奈じゃないのに。
 私はここに、ちゃんと生きているのに──。



 「そうだ、お土産があるんだ。こっちが仁花の分で、こっちが母さんの分。渡してやってくれるか?」

 「分かった」

 手渡されたのは、薄ピンク色のラッピングに包まれた海外ブランドのリップと、スタイリッシュな腕時計だった。お母さんのお土産は白檀のかおりがするおしゃれな匂い袋だ。

 


 「ちょっと早いけど、仁花の分は誕生日プレゼントのつもりだよ」

 「……ありが、とう」

 お礼を言いながら、自分のトートバッグの中にそれらをすばやく詰め込んだ。

 ベルトの部分が黒革でできていた腕時計は、きっと使えそうにない。あんな落ち着き払ったもの、『仁花』にはお似合いだけれど、おしゃれで派手好きな『玲奈』には不釣り合いだ。

 「……っ」

 “お父さんはどうしてそんなもの贈るの?”

 “私が玲奈として生きることに賛成したのは、お父さんでしょ?”

 “私は毎日、自分が仁花であることがバレないように神経を削りながら過ごしているのに”


 もう少しで喉から出てきそうになった言葉たちを、グッと無理やり押し込んだ。

 今さらこんなこと言ったって、お父さんを困らせてしまうだけ。どうにもならないんだから、と自分に言い聞かせて、アイスカフェラテを思いきり口に含んだ。


 「……じゃあ、またな。母さんに何かあったらいつでも連絡するんだぞ」

 「うん、また」

 お父さんと別れて、カフェからお母さんが待っているアパートまで歩いて帰ることにした。車で送ると言ってくれたお父さんの誘いを断って、桜の花びらが散らばったアスファルトの上をゆっくりと歩いていく。


 「帰りたく、ないなぁ」

 たまに、このままどこかへ逃げ出してしまいたいという衝動に駆られるときがある。

 私のことも、玲奈のことも、誰一人として知らない土地に行って、堂々と『仁花』として生きていきたい。

 毎日お母さんの体調のことを心配しなくていい、玲奈だとバレないように怯えて過ごさなくてもいい、私は私のことだけを考えて生きていけたのならどんなに幸せなんだろうと、頭の中でそんな空想を繰り広げた。



 「……ま、無理な話なんだけど。そんなこと」

 玲奈を失って、お母さんは自ら命を断とうとした。昔から精神的に揺らぎのあったお母さんは、それでも玲奈と二人で暮らし始めてからは比較的に安定していたらしい。

 けれど玲奈の死を目の当たりにしたあの日、お母さんはその現実を受け入れられずに入院を余儀なくされるほど心を壊した。病院を抜け出して、『玲奈の元へ行きます』と書かれた置き手紙を見つけたとき、私は心底恐怖を覚えた。

 すぐに看護師さんに伝えてなんとか事なきを得たけれど、私はあの日から完璧な『玲奈』になることを決めた。本当はお母さんと面会して、やっぱり玲奈にはなれそうにないと伝えて逃げ出すつもりだった。

 だけど、そんなことをしてしまえばまたいつかお母さんがいなくなってしまうかもしれない。自分のせいでお母さんを失うという恐怖心を植え付けられた私には、逃げるという選択肢さえ閉ざされてしまっていた。

 決して『仁花()』の存在を認めようとしないお母さんだけど、それでもこれ以上家族を失いたくなかった。
 
 だから私は、今日もそんな自分の思いを押し殺してアパートへと戻り、『玲奈』として生きるんだ。





*****


 「やばー!山の中だー!最高ー!」

 「うるさいよ、みのり。ちょっと静かにして」

 「だってキャンプだよ!?テント張るんだよ!?カレーも作るんだよ!?」

 「まずはそのカレーを作るために、何キロも歩かされて材料を見つけるんだよ?分かってんの?」

 「玲奈と和佳が一緒のチームだから全然平気!楽しみー!」

 玲奈が通っていた三葉学園は、毎年『親睦会』と称して山の中で一泊二日のキャンプを行うというのが恒例行事になっている。

 私が以前通っていた学校は、県内でも屈指の進学校だったから、こういったアクティブな行事は滅多に行われなかった。




 「玲奈、顔真っ青だけど平気?」

 「ごめん、バスで酔っちゃった……かも」

 「珍しいね。玲奈って乗り物酔いしないって言ってたのに」
 
 「あたし酔い止めあるよ?いる?」

 「……うん。ありがとう」

 朝早くバスに揺られて自然に囲まれたこの場所で、和佳やみのりたちと一夜を共に過ごさなければならないという不安のせいで、普段は滅多にしない乗り物酔いに襲われている真っ最中。



 「(やっぱり来るんじゃなかった)」

 本当はこのキャンプは欠席する予定だった。けれど、みのりと和佳が『玲奈』と高校最後の思い出を作りたがっていたから、結局ギリギリまで悩んだ挙句、こうして一緒に来てしまって今に至る。

 和佳はリュックの中から酔い止め薬を取って、私の手のひらに一錠出してくれた。しっかり者の彼女は特に玲奈のことを好きでいてくれているのか、どんなときでも一番に気にかけてくれる優しい人だった。

 玲奈に入れ替わったばかりのころは、そんな彼女たちのことを騙していることにものすごく罪悪感を感じていた。けれど時が経つのは恐ろしいもので、今では罪悪感よりもいかに完璧に玲奈を演じられるかという方向に考え方がシフトしてしまっている。




 「とりあえずあっちのほうで休憩しよっか」

 「そうだね!私たち以外のメンバーが頑張ってくれるっしょ!」

 「最悪カレーの具なしでもあたしは平気だけど」

 「それは嫌!ジャガイモとにんじんと玉ねぎはマストでしょ!」



 『玲奈』として生きていくようになって、私は徹底的に玲奈の真似をするようになった。かつて彼女が使っていたノートを見て文字の書き方を覚えて、玲奈のスマホのメッセージアプリを何度も読み込んで、友達の名前や言葉の返し方を頭の中に詰め込んだ。

 最初のころはうまくできなくて、黒板の文字を写すことにも苦労したし、知らない場所で、知らない人達と会話をするというのが怖くてたまらなかった。

 中でも常に一緒にいる和佳とみのりには絶対に怪しまれないように、玲奈の好きなこと、嫌いなこと、好みのお菓子や苦手なものまで全部把握して、その代わり、『私』が好きだったもの、やりたかったことは一つ残らず放棄した。

 私が玲奈じゃないとバレてしまったらどうしようって、今でも常に怯えている。玲奈がこれまで作り上げてきたものを、私が壊してしまったらどうしようって、そう考えただけで不安でたまらない。

 けれど、努力の甲斐あってか、『玲奈』として生きてきて一年が経った今も、こうして何事もなく過ごせている。


 ……それだけじゃない。

 学校の中で、『玲奈』がどんなにもたついて、ドジを踏んで失敗したとしても、誰一人それを咎める人なんていなかった。

 黒板を写すのが遅れたら、必ず他の誰かがノートを貸して見せてくれた。休み時間になると『玲奈』の机の周りには和佳やみのりが来てくれて、他愛もない話で盛り上がる。

 『仁花()』のときとは全く違う周りの反応に驚きつつも、これが玲奈の日常だということに初めて気づいたとき、彼女に嫉妬心を抱かずにはいられなかった。

 私が宿題を写させてあげなくても、掃除当番を代わってあげなくても、一人ぼっちになることなんてない。何かの授業でグループ分けになるとお腹が痛くなるほど悩まなくても、玲奈はいろんな人たちから一緒のグループになろうよと誘われる。

 思えば幼稚園のときから、玲奈の周りにはいつもたくさんの友達がいた。『仁花も一緒に遊ぼうよ!』と彼女が声をかけてくれるまでずっと一人ぼっちだった私は、あの頃からずっと──……玲奈になりたいと思っていた。


 「ねぇ、ところで演劇部の山下さんとwebデザイン科の大塚くんって付き合ったらしいよ!」

 「あぁ、知ってる。二年のときから噂されてたもんね」

 「でも大塚くんって、一年のとき玲奈に告ったんだよね?」

 「え?」

 心臓の鼓動が急激に早くなった。

 私が玲奈として過ごすことになったのは二年生のときからだ。だから一年のときのことはほとんど知らない。

 「あ、えっと……」

 玲奈は生前、自分専用の家計簿は丁寧につけていたけれど、日記帳やスケジュール帳は持っていなかった。情報源は玲奈が持っていたスマホで見たメッセージトークのやりとりだけ。

 「(大塚くんに告白されたことなんて、書いてあった?)」

 記憶力には自信があるほうだった。だけどこればかりはどうやっても思い出せない。

 どうしよう、何か言わなくちゃ。
 えっと、こんなとき玲奈ならどうやって……言葉を返すんだっけ。

 
 「あ、思い出した。顔がタイプじゃないからって言ってたような?」

 「確かそう言ってた気がする。あとチャラい人は好きじゃない、とかも言ってた」

 「そ、そうだったかな!もう忘れちゃったよー!」

 「玲奈はモテるもんねぇ!……いいなぁ」

 「みのり、鬱陶しいからそんなことで羨ましがんないの」

 「そんなことって何!?しかも今、親友に対して鬱陶しいって言った!?」

 二人の記憶に乗っかるように思い出すフリをしながら、たらりと頬を伝う冷や汗を隠して同じように笑ってみせた。

 こんなことは今に始まったことじゃない。大丈夫だ。
 本当に何も分からなくて、誤魔化してみたりそれとなく話を逸らして難を逃れてきたのだから。

 それでも、私のことを『玲奈』だと思っている二人はなんら私に疑いをかけることなく、自然と会話が流れていく。そんな場面に遭遇するたびに、私は自分のやっていることがとんでもなく罪深いものだと思い知らされる。

 『玲奈』のことが大好きな二人にだからこそ、本当のことを言うべきじゃないのか。

 そんなことを何度も思っては諦めて、いつもどおり『玲奈』を演じてきた。


 「玲奈、そろそろ歩ける?」

 「あ、うん。もう平気。二人ともありがとう!」

 「じゃあ具材探しに戻ろっか!」

 「行こ、玲奈」

 そう言って差し出された和佳の手を、ゆっくりと握る。

 私が『仁花』だったときは、友達に手を差し伸べられるなんてことは一度もなかった。和佳もみのりも、お母さんも、私が『玲奈』でいる限り必要としてくれる。

 ずっと、羨ましかった。

 努力しなくても友達ができることが。愛される努力をしなくても、お母さんに必要とされる玲奈のことが。

 誰にも言ったことはなかったけれど、私はずっと玲奈になりたかった。同じ顔なら別に私だっていいじゃないって、そんなことを本気で思っていた時期もあった。

 だからあの日、玲奈の突拍子もない『取り替えっこ』の提案にのったんだ。

 『そんなことしたらダメだよ』『バレちゃったらどうするの?』と言って否定はしてみたけれど、実際に玲奈の制服を着て、玲奈と同じメイクをしてもらって、はじめて玲奈になった日は心が躍った。ワクワクしていた。

 これまで玲奈が作り上げてきた彼女の世界は、とてもあたたかくて、笑顔が絶えなくて、とにかく楽しくて仕方がなかった。一度でもそれに触れてしまった私は、今度は手放したくなくなった。

 「……玲奈に、なりたい」
 そう口にしたあと、玲奈はこの世からいなくなってしまった。

 玲奈がいなくなることを望んだわけじゃない。
 そんなこと思うはずがない。

 でも──。



 「……玲奈?ボーッとしてるけど平気?やっぱりもうちょっと休む?」

 「無理しないで、玲奈。テントに戻ってもいいよ?私たちも一緒にいてあげるから」

 今、計らずとも望んだどおりの状況になっている。

 玲奈の人生を歩むなんていやだ、お母さんのせいで逃げられない。ずっとそう思いながら過ごしてきたけれど、それって本当に?

 玲奈の世界が手に入って、私は少しも喜ばなかった?こうして心の底から心配してくれる人がいて、家に帰るとお母さんがいて、私を必要としてくれる。

 ずっと思い描いていた、理想の高校生活。私はほんの少しも、『玲奈』として生きていけることを嬉しく思ったことはないの?

 「……うっ」
 心の中で、そんな疑問が飛び交った。

 ……違う、違うよ。
 私はちゃんと『仁花』として生きていきたかった。

 県内でも上位の進学校に入学して、その中でも特に難関だと言われている特進クラスに入れたことが誇りだった。部員はあまりいなかったけれど、美術部に入部して絵画コンテストで賞が取れたときは本当に嬉しかったのだから。

 「違う、違う……っ」
 意地の悪い自分自身への問いかけに、必死に抗った。

 私は、玲奈じゃない。

 私は『仁花』だから。


 「──玲奈、どうしたの?おーい!」

 「玲奈、おぶってあげようか?」

 私は『片瀬 仁花』だから。



 「……ううん、なんでもないよ!ちょっと考えごとしてた!行こっか!」

 「にんじんかジャガイモか玉ねぎで言ったら、ジャガイモが一番大事な気がするからそっちのエリアに行こ!」

 「玉ねぎが一番大事だよね、玲奈?」

 「──どっちも、大事だよ」



 私は──……片瀬、仁花……だよね?