きみがもう一度、「私の名前」を呼んでくれたから。



 「──ねぇ、お姉ちゃん。明日、取り替えっこしない?」

 両親ですら見分けがつかない双子の私と妹だけにできる、秘密の遊びだった。お互いの制服を交換して、別々の学校に潜入し、私は妹の『玲奈』になりすまし、妹は『私』になって一日を過ごしていた。

 けれど、その日の帰り道。

 玲奈はトラックに撥ねられて帰らぬ人となった。『私』の私物を持って、私の制服を身にまとって、私の姿をしたまま、妹の玲奈はこの世を去っていった。

 その日から、私は『仁花』ではなく『玲奈』として生きていくことを余儀なくされた。


 《――違うよお母さん!私は仁花だよ!『玲奈』じゃない!》

 《いやよ!事故に遭ったのは仁花なの!玲奈ちゃんは……生きてる。だってほら、今だってお母さんの目の前にいるじゃない》

 《だから、私は――……》

 《お母さんには玲奈ちゃんが必要なの。玲奈ちゃんは生きてる。死んだのは……仁花のほうよ》



 『私』はこうしてちゃんと生きているのに、仁花は世間から消し去られてしまった。

 高校二年生の春、私の存在が消えた日――。




*****

 「おはよう、玲奈ちゃん。朝ごはん用意したから食べてね」

 「……うん、ありがとう」

 朝の忙しい時間帯にはそぐわない、お母さんのゆったりとした言葉に相槌を打ちながら、姿鏡に映して制服を纏った。

 淡いブルーのワイシャツに、濃いネイビーブルーの制服。襟に巻く真っ赤なリボンが特徴的な制服は、今日も私に馴染んではくれない。

 《桜も満開になり、入学式や進学にピッタリの季節となりましたね》
 《今日も素敵な一日をお過ごしください》

 築三十年超えの木造2LDKのこのアパートは、自分の部屋にいてもリビングから流れるテレビの音が筒抜けてくる。

 襖で仕切られてできた六畳半の畳のこの部屋は、とにかく物であふれていた。

 名前も分からないキャラクターのぬいぐるみに、たくさんの雑誌。
 コスメに服に、バッグにアクセサリー。

 それらをぐるりと見渡して、私は小さなため息を一つ落とした。


 「そうだ、今日から三年生になるんだね」

 「……うん」

 「おめでとう、『玲奈』ちゃん。お祝いしなくちゃね」

 お母さんはそう言って、私の顔を見て微笑みながら妹の名前を呼ぶ。

 「……ありがとう」
 そして、私もそれが当然であるかのように微笑み返してお礼を言った。




 私の双子の妹である玲奈は、一年前にこの世を去った。彼女がいなくなって、今日でちょうど一年になる。

 それなのに、お母さんは未だにその事実を受け入れられずにいる。

 ただ受け入れないだけじゃない。お母さんは『私』のことを玲奈だと思い込んで、私に玲奈として生きることを強要した。


 《嫌よ、ちがう……っ!死んだのは玲奈ちゃんじゃない!仁花よ!》

 《私には玲奈ちゃんが必要なの!あの子が必要なのよ……っ》

 《事故でいなくなったのは、『仁花』よね?そうよね?ねぇ?》


 お母さんはあの日、ここにいるはずの私を殺して、事故で死んだはずの玲奈を生き返らせた。

 玲奈の死を悲しむ余裕さえ与えられないまま、私は『玲奈』の人生を歩むことになった。


 「(もう、思い出したく、ない……っ)」

 隙あらば顔を覗かせようとするこの最悪の記憶を振り払うように首を振って、無理やり心の中に閉じ込めた。

 いつものように着替えを済ませて食卓机に向かうと、そこにはいちごのジャムがのった菓子パンと、牛乳が満タンに入ったコップが用意されていた。


 お母さんは滅多に料理をしない。いつもスーパーでお惣菜を買ってくるか、冷凍食品やレトルト食品がほとんどだ。

 料理が得意だった玲奈は生前、そんなお母さんに代わってよく家事をこなしていたらしい。玲奈と離れて暮らすようになって、私は彼女がどんな生活を送ってきていたのかまったく把握していなかった。




 「行ってきます」

 「気をつけてね、玲奈ちゃん。帰ったら一緒にスーパーに行こうね」

 「……うん」

 古びた玄関の扉は、開けると油の足りていない音を軋ませる。

 外に出た瞬間、少しだけ息がしやすくなるのが分かった。



 お父さんとお母さんの離婚が決まったのは、私と玲奈が中学二年のときだった。

 お母さんは家を出て行くとき、一番に玲奈を連れていきたがった。『玲奈ちゃんはママと一緒に来てくれるよね?』と言って玲奈の手を握りしめてそう言ったことを、私は今でも鮮明に覚えている。

 結果、残りものとなった私はお父さんと一緒に家に残ることになった。

 昔から精神的に不安定なお母さんには、きっと玲奈のあのとびっきりの笑顔と、どんなときでも場を明るくするあの性格が必要だったのだと思う。

 同じ顔、同じ背丈、顔のホクロの位置まで同じだった私と玲奈は、両親でさえすぐに見分けがつけられないほどそっくりだった。

 それでも玲奈には、私が持っていないものをたくさん持っていた。

 誰とでも仲良くなれるコミュニケーション力に、おしゃれのセンス。玲奈の周りにはいつの間にかたくさんの人が集まっていて、その誰もが笑顔だった。

 それは全部、私にはないものばかり。

 『仁花は勉強が得意なんだね』『絵も上手なのね』だなんて褒められたことがあったけれど、そんなものいらない。私はずっと、玲奈が持っているものが欲しかった。

 だからお母さんが玲奈を連れて出て行ったことは理解できる。

 だけど、それでも本当は言いたかった。

 “どうして私のことは引き取ってくれなかったの?”って。

 “私もお母さんの子供なんだよ?”っと。


 あのときはっきりと分かってしまったんだ。
 私はお母さんに必要とされていないのだと。

 そんなお母さんが、今は私のことを必要としてくれている。たとえそれが『仁花()』ではなく、玲奈として生きる『私』だったとしても、心の片隅で喜んでいる私がいた。





 ──ブーッ、ブーッ。

 アパートを出てすぐ、ポケットの中に入れていたスマホがバイブする。学校へ向かいながら画面をのぞくと、玲奈と特に仲のいい和佳とみのりのグループトークに大量のメッセージが届いていた。

 《みのり:おはよー!春休みも終わっちゃったねー!》

 《和佳:学校しんどい、だるい、リモート希望》

 《みのり:リモートは嫌だよ!和佳と玲奈に会いたいもん!》

 玲奈が通っていた私立三葉学園は、とにかく自由な校風で有名なところで、たくさんの科があり、授業も単位制という珍しい学校だった。

 その中で玲奈は流通販売・経営科を選んでいた。将来は自分のカフェを持つことが夢なのだと、和佳とみのりに話していたらしい。

 両親の離婚によって、玲奈と会う日は多くて月に三回から四回程度のものになった。

 同じ容姿でもまるで性格が違う二人だから、あまり共通の話題や盛り上がるようなネタもなかったけれど、それでも玲奈は私と楽しそうに話をし続けてくれていた。

 学校であったこと、お母さんの話、演劇部に所属していて主演を勝ち取ったこと。何を聞いても単純な相槌しか打てないこんな私と一緒にいて何が楽しいのだろうといつも思いながら、それでも玲奈は私と会う日を楽しみにしてくれていた、心まできれいで優しい子だった。


 《みのり:ってか、私達もとうとう受験生だね》

 《和佳:やめてよ、考えただけで気が重くなるでしょ?》

 《みのり:大丈夫!来週は親睦会があるから、とりあえず楽しも!》

 《和佳:でも山の中でキャンプでしょ?正直あたしは行きたくないんだけど》

 《みのり:もう!なんで和佳はそうインドアなわけ!?楽しもうよ!》
 
 《和佳:山の中じゃ楽しめない。清潔な室内希望》

 《みのり:最低ー!(怒)》

 常に学年トップの成績を残す頭のいい和佳と、将来は美容師になるという夢を持っているみのりとのやりとりは、昼夜を問わず永遠と続く。

 とくに朗らかで明るい性格のみのりは、何かあるたびにこのグループトークで会話をしたがるから、少し目を話すと次々と話題が飛び交ってしまい、どこから話せばいいのか分からなくなってしまう。

 私はすばやくメッセージアプリに『今日も一日頑張ろうね』と入力したところで、その指を止めた。

 「(……違う。間違えた)」

 玲奈はこんな返信しない。
 これは『玲奈』じゃなくて、『仁花()』の言葉だ。

 私は足を止めて、打ち込んだ文字を全部消しながら心の中で何度もつぶやく。
 “私は玲奈。『仁花』じゃない、玲奈なんだ”、と──。


 《玲奈:みんなおはよっ!来週の親睦会、全力で楽しもー!》

 私が『仁花』として生きていた頃には一度だって使ったことのない可愛いスタンプと一緒に送信した。

 するとすぐに既読がついて、そのあとも一切違和感を持たれることなく進んでいく会話にホッとする。私は玲奈のスクール鞄を握りしめながら、学校までの道のりを足取り重く進み続けた。






*****


 「お母さんは元気か?」

 月に数回、お父さんの仕事が休みになる休日は決まってカフェかレストランで会うことになっている。

 私はいつものようにアイスカフェラテを飲みながら、春限定の桜スイーツが来るのを待っていた。お父さんは夏だろうと冬だろうと、必ずブラックのホットコーヒーを頼む。

 「お母さん、たまに夜中に起きて一人で泣いてたり、体調が良くない日はベッドから一歩も出られない日もあるけど、元気なときは部屋の掃除とかしてくれるし、昨日も朝ごはんの用意もしてくれたから、今のところは大丈夫だと思う」

 「そっか。ごめんな、母さんのこと任せっきりにして」

 「……」


 お母さんが玲奈を連れて家を出てから、私は一年前までお父さんと二人で暮らしてきた。お父さんは美術品や絵画などを海外から取り寄せて販売したり、日本の美術館や展覧会に飾ったりする美術商として働いている。

 仕事柄、日本全国だけにとどまらず、海外にも出張へ行く日が多くて一人で家にいることがほとんどだったけれど、それでもお父さんとの関係はうまくいっていたと思う。

 けれど事故で玲奈を亡くしたあの日、お母さんが私を強引に『玲奈』として引き取ると言い出したとき、お父さんはそれに賛成した。


 『お母さんが精神的に安定するまで、そばにいてやってくれないか?』

 『お父さんも協力するから』


 あのとき、私は目の前が真っ暗になった。きっとお父さんなら、こんな馬鹿げたことはできないと反対してくれるものだとばかり思っていたから。

 私は一生懸命に『私は仁花だよ』『玲奈じゃないよ』とお母さんに訴え続けていたけれど、お父さんのあの言葉を聞いて、それ以上自分が仁花であることを言い出せなくなった。

 お父さんもお母さんも、私が『玲奈』であることを望むんだ。

 私は仁花なのに。玲奈じゃないのに。
 私はここに、ちゃんと生きているのに──。



 「そうだ、お土産があるんだ。こっちが仁花の分で、こっちが母さんの分。渡してやってくれるか?」

 「分かった」

 手渡されたのは、薄ピンク色のラッピングに包まれた海外ブランドのリップと、スタイリッシュな腕時計だった。お母さんのお土産は白檀のかおりがするおしゃれな匂い袋だ。

 


 「ちょっと早いけど、仁花の分は誕生日プレゼントのつもりだよ」

 「……ありが、とう」

 お礼を言いながら、自分のトートバッグの中にそれらをすばやく詰め込んだ。

 ベルトの部分が黒革でできていた腕時計は、きっと使えそうにない。あんな落ち着き払ったもの、『仁花』にはお似合いだけれど、おしゃれで派手好きな『玲奈』には不釣り合いだ。

 「……っ」

 “お父さんはどうしてそんなもの贈るの?”

 “私が玲奈として生きることに賛成したのは、お父さんでしょ?”

 “私は毎日、自分が仁花であることがバレないように神経を削りながら過ごしているのに”


 もう少しで喉から出てきそうになった言葉たちを、グッと無理やり押し込んだ。

 今さらこんなこと言ったって、お父さんを困らせてしまうだけ。どうにもならないんだから、と自分に言い聞かせて、アイスカフェラテを思いきり口に含んだ。


 「……じゃあ、またな。母さんに何かあったらいつでも連絡するんだぞ」

 「うん、また」

 お父さんと別れて、カフェからお母さんが待っているアパートまで歩いて帰ることにした。車で送ると言ってくれたお父さんの誘いを断って、桜の花びらが散らばったアスファルトの上をゆっくりと歩いていく。


 「帰りたく、ないなぁ」

 たまに、このままどこかへ逃げ出してしまいたいという衝動に駆られるときがある。

 私のことも、玲奈のことも、誰一人として知らない土地に行って、堂々と『仁花』として生きていきたい。

 毎日お母さんの体調のことを心配しなくていい、玲奈だとバレないように怯えて過ごさなくてもいい、私は私のことだけを考えて生きていけたのならどんなに幸せなんだろうと、頭の中でそんな空想を繰り広げた。



 「……ま、無理な話なんだけど。そんなこと」

 玲奈を失って、お母さんは自ら命を断とうとした。昔から精神的に揺らぎのあったお母さんは、それでも玲奈と二人で暮らし始めてからは比較的に安定していたらしい。

 けれど玲奈の死を目の当たりにしたあの日、お母さんはその現実を受け入れられずに入院を余儀なくされるほど心を壊した。病院を抜け出して、『玲奈の元へ行きます』と書かれた置き手紙を見つけたとき、私は心底恐怖を覚えた。

 すぐに看護師さんに伝えてなんとか事なきを得たけれど、私はあの日から完璧な『玲奈』になることを決めた。本当はお母さんと面会して、やっぱり玲奈にはなれそうにないと伝えて逃げ出すつもりだった。

 だけど、そんなことをしてしまえばまたいつかお母さんがいなくなってしまうかもしれない。自分のせいでお母さんを失うという恐怖心を植え付けられた私には、逃げるという選択肢さえ閉ざされてしまっていた。

 決して『仁花()』の存在を認めようとしないお母さんだけど、それでもこれ以上家族を失いたくなかった。
 
 だから私は、今日もそんな自分の思いを押し殺してアパートへと戻り、『玲奈』として生きるんだ。





*****


 「やばー!山の中だー!最高ー!」

 「うるさいよ、みのり。ちょっと静かにして」

 「だってキャンプだよ!?テント張るんだよ!?カレーも作るんだよ!?」

 「まずはそのカレーを作るために、何キロも歩かされて材料を見つけるんだよ?分かってんの?」

 「玲奈と和佳が一緒のチームだから全然平気!楽しみー!」

 玲奈が通っていた三葉学園は、毎年『親睦会』と称して山の中で一泊二日のキャンプを行うというのが恒例行事になっている。

 私が以前通っていた学校は、県内でも屈指の進学校だったから、こういったアクティブな行事は滅多に行われなかった。




 「玲奈、顔真っ青だけど平気?」

 「ごめん、バスで酔っちゃった……かも」

 「珍しいね。玲奈って乗り物酔いしないって言ってたのに」
 
 「あたし酔い止めあるよ?いる?」

 「……うん。ありがとう」

 朝早くバスに揺られて自然に囲まれたこの場所で、和佳やみのりたちと一夜を共に過ごさなければならないという不安のせいで、普段は滅多にしない乗り物酔いに襲われている真っ最中。



 「(やっぱり来るんじゃなかった)」

 本当はこのキャンプは欠席する予定だった。けれど、みのりと和佳が『玲奈』と高校最後の思い出を作りたがっていたから、結局ギリギリまで悩んだ挙句、こうして一緒に来てしまって今に至る。

 和佳はリュックの中から酔い止め薬を取って、私の手のひらに一錠出してくれた。しっかり者の彼女は特に玲奈のことを好きでいてくれているのか、どんなときでも一番に気にかけてくれる優しい人だった。

 玲奈に入れ替わったばかりのころは、そんな彼女たちのことを騙していることにものすごく罪悪感を感じていた。けれど時が経つのは恐ろしいもので、今では罪悪感よりもいかに完璧に玲奈を演じられるかという方向に考え方がシフトしてしまっている。




 「とりあえずあっちのほうで休憩しよっか」

 「そうだね!私たち以外のメンバーが頑張ってくれるっしょ!」

 「最悪カレーの具なしでもあたしは平気だけど」

 「それは嫌!ジャガイモとにんじんと玉ねぎはマストでしょ!」



 『玲奈』として生きていくようになって、私は徹底的に玲奈の真似をするようになった。かつて彼女が使っていたノートを見て文字の書き方を覚えて、玲奈のスマホのメッセージアプリを何度も読み込んで、友達の名前や言葉の返し方を頭の中に詰め込んだ。

 最初のころはうまくできなくて、黒板の文字を写すことにも苦労したし、知らない場所で、知らない人達と会話をするというのが怖くてたまらなかった。

 中でも常に一緒にいる和佳とみのりには絶対に怪しまれないように、玲奈の好きなこと、嫌いなこと、好みのお菓子や苦手なものまで全部把握して、その代わり、『私』が好きだったもの、やりたかったことは一つ残らず放棄した。

 私が玲奈じゃないとバレてしまったらどうしようって、今でも常に怯えている。玲奈がこれまで作り上げてきたものを、私が壊してしまったらどうしようって、そう考えただけで不安でたまらない。

 けれど、努力の甲斐あってか、『玲奈』として生きてきて一年が経った今も、こうして何事もなく過ごせている。


 ……それだけじゃない。

 学校の中で、『玲奈』がどんなにもたついて、ドジを踏んで失敗したとしても、誰一人それを咎める人なんていなかった。

 黒板を写すのが遅れたら、必ず他の誰かがノートを貸して見せてくれた。休み時間になると『玲奈』の机の周りには和佳やみのりが来てくれて、他愛もない話で盛り上がる。

 『仁花()』のときとは全く違う周りの反応に驚きつつも、これが玲奈の日常だということに初めて気づいたとき、彼女に嫉妬心を抱かずにはいられなかった。

 私が宿題を写させてあげなくても、掃除当番を代わってあげなくても、一人ぼっちになることなんてない。何かの授業でグループ分けになるとお腹が痛くなるほど悩まなくても、玲奈はいろんな人たちから一緒のグループになろうよと誘われる。

 思えば幼稚園のときから、玲奈の周りにはいつもたくさんの友達がいた。『仁花も一緒に遊ぼうよ!』と彼女が声をかけてくれるまでずっと一人ぼっちだった私は、あの頃からずっと──……玲奈になりたいと思っていた。


 「ねぇ、ところで演劇部の山下さんとwebデザイン科の大塚くんって付き合ったらしいよ!」

 「あぁ、知ってる。二年のときから噂されてたもんね」

 「でも大塚くんって、一年のとき玲奈に告ったんだよね?」

 「え?」

 心臓の鼓動が急激に早くなった。

 私が玲奈として過ごすことになったのは二年生のときからだ。だから一年のときのことはほとんど知らない。

 「あ、えっと……」

 玲奈は生前、自分専用の家計簿は丁寧につけていたけれど、日記帳やスケジュール帳は持っていなかった。情報源は玲奈が持っていたスマホで見たメッセージトークのやりとりだけ。

 「(大塚くんに告白されたことなんて、書いてあった?)」

 記憶力には自信があるほうだった。だけどこればかりはどうやっても思い出せない。

 どうしよう、何か言わなくちゃ。
 えっと、こんなとき玲奈ならどうやって……言葉を返すんだっけ。

 
 「あ、思い出した。顔がタイプじゃないからって言ってたような?」

 「確かそう言ってた気がする。あとチャラい人は好きじゃない、とかも言ってた」

 「そ、そうだったかな!もう忘れちゃったよー!」

 「玲奈はモテるもんねぇ!……いいなぁ」

 「みのり、鬱陶しいからそんなことで羨ましがんないの」

 「そんなことって何!?しかも今、親友に対して鬱陶しいって言った!?」

 二人の記憶に乗っかるように思い出すフリをしながら、たらりと頬を伝う冷や汗を隠して同じように笑ってみせた。

 こんなことは今に始まったことじゃない。大丈夫だ。
 本当に何も分からなくて、誤魔化してみたりそれとなく話を逸らして難を逃れてきたのだから。

 それでも、私のことを『玲奈』だと思っている二人はなんら私に疑いをかけることなく、自然と会話が流れていく。そんな場面に遭遇するたびに、私は自分のやっていることがとんでもなく罪深いものだと思い知らされる。

 『玲奈』のことが大好きな二人にだからこそ、本当のことを言うべきじゃないのか。

 そんなことを何度も思っては諦めて、いつもどおり『玲奈』を演じてきた。


 「玲奈、そろそろ歩ける?」

 「あ、うん。もう平気。二人ともありがとう!」

 「じゃあ具材探しに戻ろっか!」

 「行こ、玲奈」

 そう言って差し出された和佳の手を、ゆっくりと握る。

 私が『仁花』だったときは、友達に手を差し伸べられるなんてことは一度もなかった。和佳もみのりも、お母さんも、私が『玲奈』でいる限り必要としてくれる。

 ずっと、羨ましかった。

 努力しなくても友達ができることが。愛される努力をしなくても、お母さんに必要とされる玲奈のことが。

 誰にも言ったことはなかったけれど、私はずっと玲奈になりたかった。同じ顔なら別に私だっていいじゃないって、そんなことを本気で思っていた時期もあった。

 だからあの日、玲奈の突拍子もない『取り替えっこ』の提案にのったんだ。

 『そんなことしたらダメだよ』『バレちゃったらどうするの?』と言って否定はしてみたけれど、実際に玲奈の制服を着て、玲奈と同じメイクをしてもらって、はじめて玲奈になった日は心が躍った。ワクワクしていた。

 これまで玲奈が作り上げてきた彼女の世界は、とてもあたたかくて、笑顔が絶えなくて、とにかく楽しくて仕方がなかった。一度でもそれに触れてしまった私は、今度は手放したくなくなった。

 「……玲奈に、なりたい」
 そう口にしたあと、玲奈はこの世からいなくなってしまった。

 玲奈がいなくなることを望んだわけじゃない。
 そんなこと思うはずがない。

 でも──。



 「……玲奈?ボーッとしてるけど平気?やっぱりもうちょっと休む?」

 「無理しないで、玲奈。テントに戻ってもいいよ?私たちも一緒にいてあげるから」

 今、計らずとも望んだどおりの状況になっている。

 玲奈の人生を歩むなんていやだ、お母さんのせいで逃げられない。ずっとそう思いながら過ごしてきたけれど、それって本当に?

 玲奈の世界が手に入って、私は少しも喜ばなかった?こうして心の底から心配してくれる人がいて、家に帰るとお母さんがいて、私を必要としてくれる。

 ずっと思い描いていた、理想の高校生活。私はほんの少しも、『玲奈』として生きていけることを嬉しく思ったことはないの?

 「……うっ」
 心の中で、そんな疑問が飛び交った。

 ……違う、違うよ。
 私はちゃんと『仁花』として生きていきたかった。

 県内でも上位の進学校に入学して、その中でも特に難関だと言われている特進クラスに入れたことが誇りだった。部員はあまりいなかったけれど、美術部に入部して絵画コンテストで賞が取れたときは本当に嬉しかったのだから。

 「違う、違う……っ」
 意地の悪い自分自身への問いかけに、必死に抗った。

 私は、玲奈じゃない。

 私は『仁花』だから。


 「──玲奈、どうしたの?おーい!」

 「玲奈、おぶってあげようか?」

 私は『片瀬 仁花』だから。



 「……ううん、なんでもないよ!ちょっと考えごとしてた!行こっか!」

 「にんじんかジャガイモか玉ねぎで言ったら、ジャガイモが一番大事な気がするからそっちのエリアに行こ!」

 「玉ねぎが一番大事だよね、玲奈?」

 「──どっちも、大事だよ」



 私は──……片瀬、仁花……だよね?




*****

 「いらっしゃいませ」

 カランッ、と扉が開いたことを知らせる鈴の音が店内に鳴り響く。



 「お席にご案内します、何名様ですか?」

 玲奈が高校生になってすぐに始めたという、カフェのバイト。それまでアルバイトをしたことがなかった私は、玲奈として生きるようになって一番に辞めることを店長に伝えた。

 そもそも友達もうまく作れないような私が、こんなお洒落なところで接客の仕事なんてできるはずもないと思っていたけれど、すぐに新しい人を雇えないからもう少しの間だけ働いてほしいとお願いされて、もうすぐ一年が経とうとしている。

 やっぱり今でも接客は苦手だけれど、一年も続けていればなんとか熟せるようにはなってきている……と、信じたい。休日のお昼は一番忙しい時間帯で、私は今日も忙しなくテーブルとキッチンを何度も行き来していた。



 「いつもありがとね、玲奈ちゃん。ご苦労様」

 「いえ、ちゃんとお給料いただいているので!」

 夫婦で営んでいるこのカフェ『LinLin』の店長をしている須磨さんは、顎髭が特徴の気さくな人だった。いつもは奥さんの志織さんと二人でキッチンに入っているけれど、今日はお腹の中にいる子供の検診がある日だといって休んでいる。



 「アッハハ!そういえば玲奈ちゃん、面接のときに時給を百円あげてくれるなら今すぐにでも即戦力として入れますって言ってたの、思い出しちゃったなぁ」

 「……っ!」

 「あ、そうだ。もうここで働いてくれて三年目になるし、時給もアップしてあげなくちゃね」

 「ありがとうございます!」

 「玲奈ちゃん、お金をためる目標があるって言ってたもんね。頑張ってね、僕も応援してるから」


 ……お金を貯める、目標?

 確かに玲奈は、毎日どこで何を、何円分買ったのかを詳しくノートに書いて自分の家計簿を作っていた。そんなノートの一頁目には、大きなマジックペンで『目標額は一五〇万円!』と書かれている。



 「(玲奈がお金を貯めていた理由って、なんだったんだろう)」

 中学二年のときに離れて暮らすようになって、玲奈のことは彼女自身の言葉で話してくれる内容以外のことは知り得なかった。

 昔、高校を卒業したら調理師やパティシエを目指せる専門学校に行きたいと言っていたことは微かに覚えている。その学費を貯めていたのだろうか。

だけど、そういうお金は全部お父さんが用意してくれるはずだ。いくら別々に暮らすようになったとはいえ、学校や好きな習いごとのお金はお父さんが出すから心配しなくていいと、玲奈とお父さんの三人で会ったときにそう言ってくれていたはずだから。



 「あ、玲奈ちゃんそろそろ休憩に入っても大丈夫っぽいから、賄いを持って二階でゆっくり食べておいで」

 「ありがとうございます!今日はハンバーグだ!」

 「玲奈ちゃんの好物だもんね」


 “『私』も大好きだよ、ハンバーグ。”

 “一番の大好物、ではないけれど。”

 決して表には出ることのない『私』の言葉を心の中でつぶやきながら、店長からワンプレートの賄いを受け取って、二階の休憩室へ行こうとした。そのときだった。





「──仁花?」

 程よい低音の、やけに耳に馴染む声が『私』を呼んだ。

 玲奈じゃない、本当の『私』の名前が呼ばれた。



 ──どうして?なんで?

 ガシャン、と手に持っていたハンバーグの賄いが、無残にも床に散らばった。

 急激な焦りと動揺に、うまく呼吸ができない。恐怖に満ち足りながら恐る恐る目の前にいる彼を見上げた。



 「……やっぱり仁花、だよな!」

 「楓、くん?」

 そこにいたのは、幼馴染の楓くんだった。

 彼はお父さんと一緒に住んでいた家の近所の子で、同い年ということもあってか、幼稚園のときから玲奈と楓くんの三人でいつも一緒に遊んでいた。

 けれど楓くんは中学校一年生のとき、両親の仕事の都合でカナダへ行ってしまった。それ以来、こうして会うのは五年ぶりだろうか。

 制服姿の楓くんは、私の記憶の中にある彼の姿とは打って変わっていて、背も高くなって大人っぽくなっていた。まさかこんなタイミングで再会するなんて思ってもいなかった。



 「久しぶりだね、仁花!あとで片瀬家に行こうと思ってたんだよ」

 「……違う。私は仁花じゃ、ないよ」

 「え?」

 「私、『玲奈』だから」


 目を合わせないように視線を逸らしながら、私はペーパーを手に取って落ちた賄いを拾っていく。せっかく店長が作ってくれたのに、残念でならない。

 だけど、久しぶりにお父さん以外の人から自分の名前を呼ばれて驚いてしまった。店長や『玲奈』のことを知る人たちに聞かれてないといいけど。



 「いやいや、どう見てもお前が仁花じゃん。え、なに、もしかしてそういう遊びでもやってんの?」

 「ち、違うから。本当に、私は玲奈だし」

 「えー、何それ。俺今試されてる?それとも騙してる?あ、揶揄ってんでしょ!」

 「違うって」

 私はすばやく床の掃除を終えて、その場を去ろうと立ち上がった。

 これ以上、楓くんと話していたくない。

 昔から楓くんは頭が冴える男の子だった。きっと彼に、玲奈のフリは長くは通用しない。




 「ごめん、私今バイト中だからまた今後ね」

 一切目を合わせることなく、淡々とそんな言葉だけを置いて逃げるように二階の休憩室へ上がろうとしたとき。



 「──じゃあ、仁花は? 仁花は今どこにいんの?」

 楓くんのその質問に、体がピタリと動かなくなった。

 彼は私たちの事情を何も知らないまま遠くへ行ってしまったから、それは至極真っ当な質問だと思う。


 「……っ」

 できることなら、自分の口からこんなことは言いたくなかった。

 特に楓くんだけには、知られたくなかった。




 「死んだよ」

 「……は?」

 「仁花は、もういないの」

 こんな嘘をついて、ごめんなさい。

 ごめんなさい──……私の初恋の人。




 「なんの冗談か知らないけど、あんまりふざけたこと言ってるといくら仁花だからって……」

 「だから、仁花はもういないんだって!」

 無意識に出てきた予想以上の大きな声に、自分でもハッとさせられるほど驚いた。

 けれど、勢いよく出てきた言葉はすぐに止まることを知らない。



 「高校二年のとき、事故でトラックに撥ねられて仁花はもういなくなっちゃったんだよ」

 「……」

 「気になるなら当時の新聞とかネットニュースで見てみたらどう?ちゃんと片瀬仁花って名前が出てくるはずだから」


 そうだ、あながち嘘でもないじゃない。

 世間では『片瀬 仁花』は死んだことになっているのだから。



 「……そういうことだから、私もう行くね」

 自分の口からそう言うたびに、本当の私がすり減っていくような感覚に襲われる。

 悲しいのか、つらいのか、苦しいのか。はたまたその全部が混ざり合ったかのような負の感情が沸々と湧き出てくる。


 「なんだよ、それ」

 「……」

 「でも、なんでだろうね。俺の目にはお前が仁花にしか見えない」

 「え?」

 「バイト、何時まで?久しぶりに会ったんだしちょっと話そうよ」

 「い、いや、私は別に」

 「俺、それまで待ってるから」

 楓くんはそれ以上私の返事を聞かずに、元いたカフェのテーブル席へ戻って行った。

 友達と来ていたのか、数人の男子たちの輪の中に混ざって談笑する楓くんを見て、私はゆっくりと二階の階段を登っていく。




 「(会いたく、なかったな)」

 今日のバイトのシフトは十六時までだったはず。楓くんは本当に待っているのだろうか。

 空っぽになったプレートを机の上に置いて、ため息を落としながら休憩室にある椅子に腰掛けた。きっと店長にいえばもう一度新しい賄いを作ってくれるだろうけれど、なんだか申し訳なくて言い出せない。

 それに、私のことを『仁花』と呼ぶ人が現れたせいで、ご飯を食べる気力さえなくなってしまった。





 「楓くん、大きくなってたなぁ」

 幼いころから玲奈と三人で登園して、一緒に遊んで、家に帰ってからもお母さんが迎えにくるまでずっと遊んでいた。気の強かった玲奈と、負けず嫌いだった楓くんはいつも何かしらの勝負や競い合うことばかりしていて、特に仲がよかったはず。

 それでも彼は、必ず私をその輪の中に入れてくれていた。人見知りで、引っ込み思案で、なかなか友達が作れずにいた私に、いつも一番に名前を呼んでくれて、私のことを気にかけてくれていたのが楓くんだった。


 『おいで、仁花!あっちで一緒に遊ぼうよ!』

 『仁花は玲奈より俺と遊ぶほうが楽しいよなー!』

 『つらいことがあったら俺に一番に言うこと。いい?分かった?』

 そんな楓くんのことを、物心ついたときから好きになっていた。小学校も高学年になるにつれて頻繁に一緒にいることはなくなったけれど、それでも楓くんは変わらず私との接点を持ち続けてくれていた。

 そんな私の初恋の人に、自分の口から『仁花はいなくなった』なんて言いたくなかった。再会できて嬉しいはずなのに、今はそれよりも不安のほうが大きく上回っている。



 “なんで俺の目にはお前が仁花にしか見えないんだろうね”

 楓くんのあの言葉が、私の頭から離れない。

 この上ないほど嬉しい言葉のはずなのに、素直に喜べない今の状況が余計に私の心を押し潰してくる。


 本当は言いたいよ。

 『私が仁花だよ』って。
 『もう一度会えて嬉しい』って。

 玲奈のこと、今の状況のこと、お母さんのこと、全部楓くんに言ってしまえたなら少しはラクになるだろうか。

 本当のことを伝えたとしたら、楓くんはどう思うだろう。



 「……なんて、ね」

 言えるわけないって、分かっている。

 こんなこと伝えたら、きっと楓くんは私のことを軽蔑してしまうかな。玲奈とは全く違う私なのに、それでも玲奈として生きているだなんて知られたら、恥ずかしくてたまらない。


 「バレないように、しないと」

 無意識のうちに握りしめていた拳は、手のひらに爪が食い込んで痕になっている。

 私はそんな爪痕を眺めながら、残りの休憩時間を過ごしていた。






*****


 「バイトお疲れ」

 「……楓くん」

 『LinLin』のバイトを終えて裏口から外へ出ると、そこには楓くんが一人で私を待っていた。バイト中、楓くんと友人たちは途中でお会計を済ませてカフェを出て行ったから、てっきりもういないものだとばかり思っていた。

 手に持っているトートバッグのハンドルを、ギュッと握りしめる。



 「とりあえず場所変えよっか。どこがいい?店に入る?それともその辺にある公園でも行く?」

 「……じゃあ、公園で」

 「分かった。こっちおいで」

 昔と同じように、楓くんはヒョイヒョイと手招きして私を呼ぶ。

 なんだかその仕草に照れてしまって、私は俯いたまま小走りに彼との距離を詰めた。

 空はオレンジ色のきれいな夕焼け空に染まっている。春ならではのあたたかい風が、私と楓くんの間を通り抜けた。

 「もう絵は描いてないの?」

 「え?だ、だから私は仁花じゃないって……」

 「ううん。俺、ずっと考えてたんだけど、やっぱりお前は仁花だよ」

 「……!」


 はっきりとそう言い切った楓くんの言葉に、私の心臓はドクリと不穏な音を立てはじめる。


 なんで楓くんは騙されてくれないの?

 お父さんやお母さんでさえ、すぐには見分けがつかないほどそっくりな私たちなのに。似てないところなんて、目には見えない内面や性格だけのはずなのに。




 「俺と玲奈は仲が悪かったから、玲奈はそんなふうに俺のことを『楓くん』なんて呼んだりしないはずなんだよね」

 「仲が、悪かった?そんなはずは……っ」

 「小さい頃から仁花と一緒に遊びたくて、玲奈と毎日のように取り合いになってたから、俺たちは仲が悪かったんだよ」

 「そんなっ」

 「知るわけないよね、だってきみは仁花なんだから」


 何か言わなくちゃ。違う、私は『玲奈』だって……反論しなくちゃ。

 黙っているのが一番良くないと分かっていても、これ以上なにか喋るたびに嘘がバレてしまいそうで怖くなる。



 「どんな事情があってきみが玲奈のフリをしてるのか知らないけど、俺の前では演じなくていいよ」

 「……めて」

 「あれだけ上手だった絵も描いてないんでしょ?また描きなよ、やめるのはもったいない」

 「もうやめてってば!!」

 どうして?なんで、そんなふうに容易く演じなくていいって言うの?私がこの一年、どんな思いで玲奈の人生を歩んできたのか……楓くんは何も知らないくせに。

 悔しいのか、悲しいのか、どの感情のものなのか分からない涙が次々にこぼれ落ちていく。

 こんな姿、見られたくないのに。反論もできなくて代わりに涙を流すだなんて、それを認めてしまったも同然だ。『止まれ、止まれ』と言い聞かせながら、それでも止まってくれない涙を服の袖で雑に拭いとった。





 「……ごめん。俺が悪かった」

 少しの間を空けて、楓くんはそう言いながらこちらへ歩み寄って、ゴシゴシと涙を拭う私の手を掴んでやめさせた。

 代わりにそっと彼の人差し指は私の目尻に当てがわれて、溢れる涙を優しく拭き取ってくれる。



 「もう何も言わないから、泣かないで」

 「……」

 「でもさ、俺も数年ぶりに日本に帰ってきて、お前に会いたかったってのは本当だから」

 「……」

 「だからまた、俺と会ってくれる──?」







*****


 「いよいよ始まっちゃうねぇ!高校生最後の大イベント!」

 「あたし今年は勉強に集中するつもりだから、ほとんどパスだけどね」

 「ねぇ、ちょっと!そんなしらけたこと言わないでよ和佳!」


 親睦会を終えて、ゴールデンウィークも終わった五月。朝のホームルームで担任の先生から伝えられたのは、この学校大一番のイベント『文化祭』についてだった。

 三葉高校の文化祭は全国的にとても有名で、『文化祭ウィーク』と呼ばれる一週間もの間、さまざまな学科や部活動が惜しみなく催し物を行う一大イベントだ。

 玲奈が専攻していた流通販売・経営科は、初日に行われるクラスの催し物で、仕入れから販売までを手がけて、その利益やデータを分析し、一年を通して改善策やこれらを活かして次に繋げるための勉強を行なっていくことになっている。

 みのりのファッションデザイン科は、毎年この文化祭ウィークに開催されるファッションショーに向けて制作を行うらしく、そこには有名なデザイナーや企業の人たちも見学に来るから、自分の名前を売り込む絶好のチャンスなのだとか。



 「私たち、今年は演劇やんなくちゃ、だよね!主役はもちろん……?」

 「あたしはパスで」

 「ねぇ!和佳はもうちょっと文化祭に積極的になって!」


 文化祭は毎年、一年生は学年全体でダンスを披露して、二年生はクラスごとのショートムービーを作成し、そして私たち三年生はクラスごとの演劇をすることが決まっている。

 中でも三年生は最高学年ということもあって、どの学年よりも主役として規模のでかい催しを開催することになっていた。




 「(そういえば、玲奈は演劇部に所属していたんだっけ)」

 一年生のとき、地区の演劇大会ではじめて主役を勝ち取ったことを嬉しそうに話していたのを思い出した。

 けれど、私が『玲奈』になってから演劇部はすぐにやめてしまった。元から人前に出ることが苦手だったし、そうじゃなくても目立たないように過ごす必要がある私には、演劇部は重荷でしかなかったから。

 演劇部の部長や副部長からは何度も『やめないでくれ』『次の公演だって決まっているのに』と散々言われたけれど、『姉の“仁花”を亡くしてそれどころではない』と言うと、それ以上お願いされることはなくなった。



 「ってかあたしたち、受験生だってこと忘れてないよね?」

 「うわっ、和佳って楽しい雰囲気を壊す天才だね」
 
 「現実を言ったまででしょ」

 「和佳は東京の大学志望なんだよね?玲奈は?」

 「え?」

 「そういえば、玲奈の進学希望ってまだ聞いたことない気がする。調理師の免許が取れる専門学校に行きたいんだったよね?」

 「玲奈の将来の夢って自分のカフェのお店を持つことだったもんね!一年生のときから将来が決まっててすごいって思ってたもん!」

 「あー、うん!そうそう!でもまだどこの専門にしようか決めかねてるんだよねぇ!」


 これも、全部嘘だ。

 私はこの学校を卒業したらどうすればいいのか、それすらも分からない。


 玲奈のように料理はあまり得意ではないし、調理師になりたいとは思っていない。そもそも、高校を卒業しても私はまだ『玲奈』で居続けなければならないのだろうか。

 世間から死んだことになっている『仁花』に、もう一度戻ることなんてできるのかな。



───……

 《先日未明、高校二年生の女子生徒がトラックに撥ねられ死亡しました》

 《見晴らしのいい交差点で、トラックの運転手が赤信号の交差点に突っ込み、高校二年生の片瀬仁花さんが亡くなりました》

 《警察の調べによると、トラックの運転手は脇見運転をしており、一瞬目を離した隙に起きた事故だと供述しているとのことです》


───……


 ニュースや新聞、ネット記事にはしっかりと私の名前が書かれてあった。

 当時はそんなニュースや記事を目にするたびに、『仁花』は生きている。死んだのは『私』じゃないと訴えたくてたまらなかった。私はこうして生きているのに、世の中から消されていく感覚が怖くてたまらなかった。

 けれど、あれだけ騒ぎ立てていたニュースや記事も、十日もすればすっかり忘れ去られていた。結局は他人のことなんてその程度のことで、片瀬『仁花』だろうと『玲奈』だろうと、大半の人は覚えてすらいないんだということが分かった。

 深く抉られるような傷を追うのは、今を生きている当事者たち。私と、お母さんとお父さん、それから『玲奈』のことを知る人たちだけ。

 私の心の中にできたこの傷は、きっと一生癒えることはないだろう。



 「(高校を卒業したら、『玲奈』として生きることも一緒に卒業できたらいいのに)」


 私が『仁花』に戻れたら、何がしたいだろう。

 まずは思いきり絵を描いてみたい。いろんな場所へ足を運んで、見たもの、感じたものをそのままキャンバスに閉じ込めたい。

 それから、『仁花』は高校を中退している扱いになっているはずだから、もう一度ちゃんと勉強して大学生にもなってみたい。大学生活は中学や高校とは違って、うんと自由で楽しいキャンパスライフを送れるのだと聞いたことがあるから。

 日本や外国の有名な美術館にも行ってみたいし、陶芸制作にもチャレンジしてみたい。玲奈のように華やかには生きられなくても、『私』にだってちゃんとやりたいことがあった。

 そんな『やってみたいリスト』を絵空事のように頭の中で作りあげて、小さく微笑んだ。



 「そうだ、玲奈は演劇の主役に立候補しないの?」

 「え?どうして?」

 そのとき、みのりの何気ない問いかけに一気に現実へ引き戻された。

 私が演劇の主役に?どうして?



 「だって玲奈、ずっと言ってたじゃん。この文化祭にかけてるって」

 「あぁ、言ってたね。高校最後のこの文化祭で、絶対主役張って見せるんだって」

 「い、いや私はもう別に……」

 「自分以外の誰かを演じることって素敵だってあれだけ言ってたのに、チャレンジしなくていいの?最高の思い出を作るってずっと言ってたのに」



 自分以外の誰かを演じることが、素敵なこと?

 そんなはず、ないよ。そんなわけない。少なくとも私は、『玲奈』を演じて生きること自分の今を素敵だとは微塵も思っていない。



 「……やらない。演劇なんて、もうしないよ」

 「ふぅん、そっか」

 「玲奈がまたやりたくなったら、でいいんだよ。急がなくていいし」

 「ありがとう、和佳」

 「なんか、玲奈って変わったね」

 「……え?」


 ──キーンコーンカーンコーン。

 みのりの最後の言葉と、授業がはじまるチャイムの音が重なって、その意味を聞くことができなかった。

 先生が教室に入ってきて、みんなは一斉に自分の席に戻っていく。



 「それじゃあ授業を始めるぞー。教科書はこの前の続きから……」

 一人になった私は、授業中もずっとみのりのあの言葉が頭から離れなかった。『玲奈って変わったね』って、どのあたりを見てそう思ったんだろう。

 演劇の主役をしなかったから?断ったから?そうじゃないとしたら、普段の態度や喋りかた?

 少し気を緩めすぎたかもしれない。高校を卒業してみのりや和佳たちと離れるまであと一年だからって、油断しちゃダメだ。




 「(もっと、『玲奈』にならなくちゃ……っ)」

 もっともっと、あの子に近づけるようにしないと……気付かれてしまう。


 私はギュッと目を瞑って、心の中で唱え続ける。

 私は『玲奈』だ、『仁花』じゃないんだと──。






*****


 それから私たちは、それぞれの進路対策や資格の勉強と両立して、文化祭に向けての準備で学校全体が慌ただしくなっていた。和佳やみのりたちとは同じクラスとはいえ、選択している科がみんな違うから、必須科目以外で授業が被ることはない。

 とはいえ、和佳とみのりは時間さえあればいつも私のところへやって来て、他愛もない話で盛り上がる。

 けれど、今日はお昼休みは少し雰囲気が違っていた。



 「和佳、元気ないけどお腹でも下してんの?」

 「うるさい、みのり。今あたし機嫌悪いから放っておいて」

 「あ、この前の定期テストの結果が思わしくなかったんでしょ」

 「……うるさいってば」


 私たち三人の中で一番大人っぽくて、艶のあるロングヘアが特徴の和佳は、私の机に項垂れるように顔を突っ伏した。

 「和佳、大丈夫?」

 「んー……」


 和佳の家族はお父さんが医者で、お母さんが税理士、上に二人いるお兄さんはどちらも弁護士というハイスペックな家庭なのだとみのりが言っていた。

 そのせいか、両親からの勉強に対するプレッシャーがすごくて、和佳はいつもそんな家族を嫌いながらも、期待に応えるように定期テストでは常に学年一位をキープし続けている。

 私もみのりもそんな彼女のことを褒めると、和佳は決まって『こんな学校で一位になっても仕方ないんだけど』と返すのが常だった。

 どうやら彼女は本命の高校受験に失敗していて、滑り止めで受けたこの私立三葉学園に入学せざるを得なかったのだと、自分を嘲笑うように話していた。



 「(和佳の顔、真っ青だ……)」

 二年生のころも少しの空き時間を見つけては教科書やワークを開いてひたすら問題を解いていたイメージがあったけれど、受験生と呼ばれる三年生に進級した今、和佳は切羽詰まったように勉強に齧り付いている。


 「あのさ、和佳。塾はどこに通ってるの?」

 「え?……あぁ、両親の友達が経営している家庭教師と、あとは明和塾ってところだけど……」


 私の質問に、和佳は途端に顔をあげて驚いたような表情を見せた。そんな和佳の顔を見て少し疑問に思いながらも、過去に私が通っていた塾を紹介してあげようとスマホを取り出す。


 「あのね、ここ天馬塾って言って個人でやってる小さい塾なんだけど、志望校が決まってるならここがおすすめだよ。志望校に特化した過去問とか、先生が手作りで作ってくれるから」

 「……」

 「名前のとおり、天馬先生が講師として教えてくれるから、よかったら一度……って、和佳?聞いてる?」

 「あ、あぁ、ごめん。なんか意外すぎて」

 「意外?なにが?」

 「だって玲奈があたしに勉強のことを教えてくれるなんて、初めてだったから」

 「あっ」

 目を丸くして驚いたといわんばかりの和佳を見て、ハッとした。

 そうだ、玲奈はあまり勉強が得意じゃなかったんだ。むしろいつも『数学と理科なんて滅んじゃえ』と叫ぶような子だった。




 「あ、えっと、ほら、私のお姉ちゃん……『仁花』が通ってたんだよ!すごくいいって聞いてたから、和佳にどうかなぁって思っただけ!」

 「そっか。そう、だよね。玲奈のお姉さん、県内で一番頭のいい高校に通ってたんだったね」

 ──また、失敗した。

 いくら和佳の力になりたかったとはいえ、塾のことは言うべきじゃなかった。





 「なになにー?なんの話してんの?」

 「あ、ううん?それよりみのり、文化祭に出展する洋服はもうできそう?」

 「玲奈までそれ聞いちゃう?超ギリギリどころか、一日でも風邪引いて休んだらアウトなスケジュールでやっておりまぁす!」

 「アッハハ!それかなり危ない橋渡ってない?」

 「玲奈も暇なら手伝ってよぉ」

 嫌な空気感を消したくて、お手洗いから帰ってきたみのりの話題に強引にすり替えた。

 お昼休み、早く終わってくれないかな。未だに何か腑に落ちていない様子の和佳を横目に、教室の壁にかけられてある時計を見た……そのとき。




 「ねぇ、片瀬さん!」

 「いきなりなんだけど、うちら三年二組の演劇、主演やってくれない!?」

 「……え?」

 体を前のめりにさせる勢いでそう言ってきたのは、普段は滅多に会話をすることのない同じクラスの笹原さんと大島さんだった。





 「片瀬さん、演劇部だったでしょ?うちらのクラス、あたしと大島以外に演劇部がいなくて」

 「しかも二人とも演者じゃなくて裏方とシナリオ担当だから、実質舞台に立てる人がいないの!」

 「い、いや私は……っ」

 「お願い片瀬さん!このままだとうちらのクラスは最下位になっちゃうよ!」

 「もう頼れるのは片瀬さんしかいないんです!」

 深く頭を下げる笹原さんと大島さん。

 その勢いに呑まれそうになりながらも、私は首を横に振る。





 「ごめん、私にはできない」

 「なんで!?演劇部にいたころ、あれだけ一生懸命だったじゃん!」

 「主役のオーディション、満場一致で片瀬さんになるくらい才能あるのにもったいないよ」

 それは、『玲奈』だからだよ。

 私は玲奈みたいに、大勢の人の前で何かを喋ったり、演じたりなんてできない。




 「本当にごめん。私は……」

 「部を辞めた理由って、お姉さんが事故で亡くなったから、だったよね」
 
 「そう、だけど」

 「でもそれって、もう一年も前のことだよね!?」
 
 「……っ?」

 「もうそろそろ、立ち直れない?」

 笹原さんのそんな一言に、心臓が大きく跳ねた。

 となりにいた大島さんは、肘で彼女のことを突きながら「言い過ぎだよ」と小さな声で牽制する。





 「(なんなの、この人)」

 『玲奈』を必要としてくれていることは分かっている。きっと本気で文化祭の劇のことを考えてそう言っているということも理解できる。

 だけど、笹原さんのその言葉がすごく嫌味のように突き刺さってくるのは、私の心が狭いせいだろうか。





 「ちょっと、玲奈はやらないって……」

 「──あたしは賛成だよ」


 困り果てた私に手を差し出すように止めに入ろうした和佳を遮ってそう言ったのは、みのりだった。

 どうしてみのりは、そうも私に演劇の演者を務めさせようとするの?



 「私も玲奈が演劇に出ることは賛成だよ」

 「なん、で?」

 「だって玲奈、あれだけ頑張るって言ってたじゃん。お姉さんの事故のことで演劇部を辞めちゃったのは仕方ないけど、この高校生最後の大舞台でまだ逃げ続けてると、いつか後悔するんじゃないかって思うんだよね」

 「……っ」

 「それに、玲奈ならここまで断ってる人たちのお願いを断ったりしないでしょ?玲奈って昔から困ってる人を放っておけないタチだってのは知ってるし。……これだけ玲奈を必要としてくれてるんだから、さ?」

 「!?」


 ──ダメだ、何を言われても断らなくちゃ。

 人前で何かを演じるなんて、小学生の学芸会以来やったことのない私ができるはずないんだから。

 だけど、みのりの含みのある言い方が私の判断を鈍らせていく。



 「お願い、片瀬さん!」

 「シナリオのほうも片瀬さんの意見を反映させるようにするし、文化祭の他の仕事はあたしたちがカバーするから!」

 「で、でもっ」

 「あたしも応援するよ、玲奈?」

 「和佳まで……っ」


 みんなの視線が、痛い。

 絶対に引き受けないほうがいいに決まっているのに。できないことを引き受けるわけにはいかないのに。



 《だって玲奈、ずっとこの文化祭を楽しみにしてたんでしょ?》

 《高校最後の文化祭、絶対主役の座を勝ち取るって言ってたじゃん?》



 私は、『玲奈』じゃないんだよ。
 だから、だから───。
 

───……

 『あのね、仁花!あたし演劇部の主演オーディションに合格したんだよ!』

 『今、猛特訓中なんだよね!』

 『小さいハコだけどさ、今度観に来てよ!』

───……


 けれど、心の底から嬉しそうに話していた玲奈の記憶が蘇ってきたとには……言葉が先走ってしまっていた。

「……分かった。やるよ」



 笹原さんと大島さんの顔が、パァッと明るくなっていく。

 みのりや和佳も同じような表情を浮かべながら『練習ならいくらでも付き合うからね!』と言った。





 「……っ」

 いいな、玲奈は。こういうとき、本当に妹は友達に恵まれていたのだと、改めて思い知らされる。

 いろんな人から必要とされて、玲奈自身も必要とされるだけのスキルを持っていた。

 自分でカフェを経営するという夢を持ちながら、そのために最適な学校を選んで、背中を押してくれる友達がいて、周りから懇願されるほどの才能を持っていて。

 同じ姿をしたそっくりな双子の姉妹なのに、ここまで雲泥の差を見せつけられると、こう思わずにはいられなくなるんだ。

 “あのとき、玲奈じゃなくて私が事故に遭っていればよかったのに”って。



 そうしたらもっとみんなが幸せになれたのに。

 お母さんは玲奈と離れずに済むから、今のように精神的な揺らぎをぶり返すこともなかったはず。私が突然この世を去って学校からいなくなったとしても、それすら気付かない人がほとんどだろう。

 だけど、玲奈がもうこの世からいなくなったと知ってしまったとき、いったいどれだけの人が悲しむだろうか。




 「(あぁ、私、ここにいちゃいけない気がする……)」

 『玲奈』として生きるようになって、お母さんも、友達も、楽しい学校生活も、すべて手に入った。

 だけど、私は満たされない。 それどころか、どんどん空っぽになっていって、自分の存在が透明になっていくような気がして苦しくなる。


 当たり前だ。だって私は、玲奈じゃない。

 「(私はどんなに頑張っても、『玲奈』にはなれないんだ──)」






*****


 「──仁花?」

 「……あ」

 「あ、やべっ。また名前呼んじゃったな」

 家の近くにあるカフェの店内で、向かい合って座っているのは楓くんだ。

 彼と久しぶりに再会したあの日に交換していた連絡先から、『また学校が休みの日、会わない?』とメッセージをもらって今に至る。



 「日本の学校って宿題多すぎない?頭痛くなりそうなんだけど」

 「……」

 「ってか、案外日本語ペラペラ喋れて感動してんだよね俺。どう?違和感ないでしょ?」

 「あ、うん。そうだね」

 「……何か悩みごとでもあんの?」

 だらりと姿勢を崩して肘をつきながら、上目遣いで私を覗き見る楓くん。

 机の上に広げている現社の宿題であろうプリントは、まだ一文字も埋まっていない。





 「ほら、その手に持ってるの……それなに?」

 「あ、えっと、これは夏休み明けにある文化祭の演劇でやることになったシナリオだよ」


 注文していた私のアイスカフェラテが、カランッと氷の音を立てた。楓くんが頼んだアイスブラックコーヒーは、もうほとんど飲み干されている。

 最近、この演劇を引き受けることになってしまったストレスのせいか、お腹の調子があまりよくない。昔からストレスを抱えるとお腹にくる体質のようで、久しぶりに胃がギュッと締め付けられるような痛みに襲われる。

 一番酷かった時期は、玲奈としての人生を強要されたときだった。

 不安で、怖くて、玲奈になんてなれるわけがないと思いながらも、逃げることさえ許されなかったあのとき、何度も意識が霞んでしまうほど露骨に胃が大荒れだった。

 今はあのときほどではないけれど、やっぱりかなり負担になっていることは確かなようだ。




 「演劇に出るの!?すごいじゃん!」

 「……の、予定だけどやっぱり断ろうかなって」

 「なんで?やりたいならやればいいのに」

 「や、やりたくないよ!大勢の人前で……って」


 ──私のバカ!

 それは仁花の台詞だ。玲奈はそんなこと絶対に言わない。

 楓くんはあの日以来、かなり疑いながらも私のことを『玲奈』として見てくれているようだ。たまに『仁花()』の名前を間違えて呼ぶこともあるけれど。



 「れ、練習してるの!今、猛特訓中だよ」

 「やりたくないなら、無理してやらなくていいんじゃない?」

 「……へ?」

 楓くんは淡々と、一直線に私を見ながらそう言った。

 どうして楓くんの言葉は、こんなにもダイレクトに私に突き刺さってくるんだろう。




 「今さ、お腹痛いでしょ?」

 「な、なんで?」

 「アッハハ!やっぱり昔から変わってないね、『仁花』。小学生のときさ、学芸会の発表の一週間くらい前から、いつも緊張とか不安でお腹が痛いって言ってたもんね。くちびるも真っ青になってて、あのときは玲奈と二人でかなり心配してたんだよ?『仁花』のこと」

 「だ、だから私は……」

 「あぁ、ごめん。きみは今、『玲奈』だったね」


 きっと、もう楓くんにこれ以上嘘はつけない。私が『仁花』であることを分かっている。

 だけど、無理に問い詰めようとしたり、強引に正体を暴こうとしたりしてこないのは、きっと彼なりの優しさなんだろう。今だって、カフェの店員さんにホットゆず茶を注文して、それを私に差し出した。



 「お腹を休めるにはホットがいいらしいよ、飲んで?」

 「あり、がとう」

 どうして楓くんは、私が『仁花』だということを知っていてもなお、こんなふうに優しく接してくれるんだろう。

 玲奈じゃない私になんて、何の価値もないのに。




 「劇の話に戻るけどさ、どうしてもやりたくないなら無理しなくていいんだよ?」

 「でも」
 
 「もっと自由でいいんだよ、『仁花』」

 「……!」

 「聞いて?でもさ、それを一度でも引き受けたってことは、心のどこかでイエスと応えてしまうようなキッカケがあったんじゃない?」



 そうだ、私は完璧に断るつもりだった。演技なんてできるわけがないと今でも思っているし、目立って私が玲奈じゃないとバレてしまうかもしれないというリスクしかなかったからだ。

 だけど、あのときふと脳裏に浮かんだのは、玲奈の顔だった。月に数回会うだけだった私に、とびっきりの笑顔を見せながら演劇部の主演を掴んだのだと語ってくれたあの言葉たちが蘇って、気づけば『やります』と答えてしまっていた。

 何より和佳やみのりから『玲奈はずっとこの文化祭を楽しみにしていた』と何度も聞かされていたから、あのときはあれ以上断ることができなくなってしまったんだ。


 
 「何が言いたいかっていうとね、一番大事なのは『仁花』の気持ちなんだよってこと」

 「玲奈、だってば」

 「自分を最初に守ってあげられるのは、自分なんだから」

 「……っ」

 「だからさ、頑張ってみるのも、諦めて辞退するのも、どっちもアリなんだよ。『仁花』の自由だ」






*****


 「……お待たせ、仁花。ごめんな、ちょっと仕事でバタバタしちゃって」

 「ううん、大丈夫だよ。でもお腹空いてたから先に注文しちゃったけど」

 「もちろん、どんどん食べなさい」

 狭いカフェの店内を小走りでやってきたのは、息を切らせたお父さんだった。ハンカチで汗を拭いながら、店員さんが持ってきてくれたお冷をグイッと飲み干す。

 本格的に夏のはじまりを伝えているかのように蝉は鳴き続け、気温は毎日上昇の一途を辿っている。特に七月は茹だるような暑さで、今日も平気で三十五度を超えると今朝のニュースで言っていたことをふと思い出した。



 「外は暑いな。体調とか平気か?」

 「うん、まぁそこそこ頑張ってるよ」

 今日はお父さんと会う土曜日。

 私は夏休みに入ってはいるけれど、文化祭の準備や演劇の練習、それから進路相談のせいで結局毎日のように学校へ登校している。




 「ところで、相談したいことがあるって言ってたけど……なにかあったのか?」

 「あぁ、えっと……進路のことで」

 三年生になって、毎月のように『進路希望調査』というものが行われるようになった。

 調査票には提出期限があって、何かしらを書いて出さなければ進路指導の先生から永遠と問い詰められるため、『玲奈』らしく調理師の資格が取れる専門学校と書いて逃れているけれど、いよいよこの時期になると誤魔化しがきかなくなってしまっていた。

 オープンキャンパスには行ったのか、受験対策はできているのか、将来は何を目指しているのか。目が合えば毎日のように、いろんな先生たちからそんなことを言われるようになった。




 「ねぇ、お父さん。私、高校を卒業したら……どうしたらいい?」

 「……っ!」

 自分のことが、まるで分からない。

 私が『仁花』だったときも、玲奈のように的確な夢は持っていなかったけれど、文系の大学に進んで語学の勉強をして、本にまつわる職に就くのもいいかもしれないと思っていた。

 けれど、三葉学園は和佳が専攻している『進学科』以外は、あまり受験対策に力を入れていない。どちらかといえば専門的な分野を突き詰めるためのカリキュラムになっていた。

 それに、もしも仮に『仁花()』が行きたい分野の大学に進んだとしても、まだ『玲奈』として生きていかなければならないのかどうかも分からない。

 お母さんの心の病はすぐに治るものではないと主治医の先生は言っていたし、私が『仁花』に戻ったせいでまた以前のようにおかしくなってしまったら……と考えると、怖くて何も考えられなくなる。

 こうなると、もう自分一人では将来のことを決めることができない。だから今日、お父さんを呼んで相談しようと思っていた。お父さんの意見を、聞いてみたかった。

 けれど、お父さんの意見は私が予想していたものとは全く違っていた。




 「これは提案なんだけどな、仁花。高校を卒業したら、お父さんと一緒に海外に行ってみないか?」

 「海外?」

 「仁花が昔、言ってただろ?いろんな国に言って、いろんな風景を見ながら絵を描きたいって」

 「それは……小さかったころの話だよ」

 まだ将来の夢も毎日コロコロ変わるような、そんな小さいときの話だ。家にはいろんな絵が飾られていて、はじめてお父さんの仕事に興味を持ったときに思ったことだった。

 あのときは家族にだけならなんでも言いたいことを言えていた。

 ケーキ屋さんになるんだ、獣医さんになるんだ、絵描きさんになるんだ。幼稚園で友達が作れなかったことも、玲奈と間違えられて悲しかったことも、なんでもお父さんとお母さんに打ち明けていた。

 小さかったころは思ったことをそのまま口に出せていたのに、歳を重ねるに連れて言いたいことが言えなくなっていた。

 私はそれが大人になるということなのだと信じていた。けれど今の私は、自分の気持ちさえ分からなくなってきていて、将来のことでさえお父さんに『どうしたらいい?』と聞く有様だ。



 「ごめんな、仁花」

 「え?」

 そんな私を見て、お父さんは唐突に謝罪の言葉を口にした。

 いったい何に対しての謝罪なのかと首を傾げると、お父さんは徐に口を開いた。





 「お前に『玲奈』として生きていくことを選択させてしまって、本当に申し訳ないと思っている」

 「急に、どうしたの?」

 「あのとき、玲奈を失って母さんまで失ってしまいそうで、正しい判断ができなかったんだと思う」

 「なに、言って……っ」

 「いくらどうしようもない状況だったからといって、仁花を『玲奈』として母さんの側に居させるなんて、本当にどうかしていたと思う」

 やめて、いきなりどうしちゃったの?

 今さらそんな謝罪が聞きたくてお父さんを呼んだわけじゃない。




 「母さんのことは、お父さんたち大人が解決しないといけないことだった」

 「……っ!?」

 「それを仁花に押し付けた。本当にすまないことをしたと後悔している」

 やめて、やめてよ。

 今さらそんなふうに言われたって、『仁花()』が失われた一年はもう戻ってこない。


 元居た学校に戻れるわけでもない。
 世間に私が事故死として扱われた事実は変わらない。

 お母さんは当時、事故の取調べにやってきた警察の人に何度も『亡くなったのは仁花です』と証言していた。私の制服、私の私物、私の名札を付けていた玲奈を、『仁花』と呼んでも全く違和感はなかったのだろう。

 事故の次の日、いつも見ていたニュース番組で私の名前がテレビに載ったとき、どんな気持ちだったか想像できる?

 私はちゃんと生きているのに、お母さんの手によって死んだことにされた気持ちなんて……っ、ごめんなさいの一言で片付けられるようなものじゃないんだよ!




 「……っ」

 でも、そんなこと言ったって無駄だ。ここでお父さんを問い詰めたところで、その事実は一ミリも変わってはくれない。

 だから言わない。いつもみたいに溢れ出てきそうになる言葉を飲み込んで、飲み込んで、飲み込みまくれば解決できる。

 ──はずだった。




 「なに、今さら?」

 「……仁花?」

 「私を『玲奈』として生かして、仁花を殺したくせに……っ」

 「……」

 「お母さんのこと、玲奈のこと、苦しいこと全部私に押し付けたくせにっ」

 「そのとおりだ、本当にすまない」

 ずっと、まるで両親から『死んだのが仁花だったらよかったのに』と言われているような気持ちだった。

 こんな意味不明な人生から逃げ出したかったけれど、お母さんがまた自殺するようなことになったらどうしようって、逃げることすら許されなかった。

 このことを誰か一人でもいいから相談したかったけれど、玲奈に入れ替わっていることがバレるわけにもいかなかったから、誰にも相談できずにずっと一人で抱え込んできたんだ。


 許せるわけないよ。
 絶対に許してなんてあげない。

 だけど、『玲奈』として生きてきたことで得られたことがあったのもまた事実だ。

 学校という場所がはじめて楽しいところなんだって思えた。『友情』というものが、どれだけあたたかいのか初めて知れた。

 どれもこれも『玲奈』としてのものだけれど、『玲奈』として生きていかなければ絶対に『仁花』では味わえなかったような濃い時間を味わうことができている。

 だから、揺らいでしまう。仁花に戻りたい気持ちと、いっそ完全に玲奈のまま生きていたほうがこれから先の人生は楽しんじゃないかって。

 そんな馬鹿みたいなことを本気で思ってしまう自分にも、腹が立って、悔しくて、惨めでたまらない。




 「ごめん、お父さん。今日は私、もう帰るね」

 「あぁ、そうだな。仁花、本当にごめんな」

 「……別に謝ってほしいなんて言ってないよ」

 「卒業したら、仁花の好きなことをしていいんだ。お父さん、仁花のために何でもするから」

 私を引き止めるように言葉を投げるお父さんに、それ以上何も言わずにカフェをあとにした。


 あぁ、お腹が痛い。キリキリと痛みがひどくなっている。
 大好きなカフェラテも、もう少し控えたほうがいいかもしれない。

 夏の暑さに辟易しながら、それでも私はお母さんが待っているアパートへ『玲奈』として帰宅する。

 昨日からお母さんの調子が良くなくて、ここ数日ずっと寝室から出られずにいる。料理はあまり得意ではないけれど、今日は私が夜ご飯を作ってあげよう。





 「ただいま、お母さん」

 「うぅっ、玲奈、玲奈ちゃんがいないっ」

 「お母さん?」

 「玲奈ちゃんが、いなくなっちゃったっ」

 「……っ」

 「玲奈ちゃんに会いたい……っ、うぅっ」

 襖で仕切られたお母さんの寝室から、啜り泣く声が止まらない。

 その言葉を聞いて、私は目の前が真っ暗になっていく。




 「(私は……っ、『玲奈』じゃないの?)」

 お母さんが望んだとおり、私は『玲奈』としてここにいるよ?

 それなのに、玲奈がいないなんて言われたら……私はなんのために今ここにいるの?



 これ以上お母さんの声を聞きたくなくて、私はキッチンに戻って夜ご飯の準備に取り掛かった。

 お米を三合入れて、わざと水音を立てるようにバシャバシャと研いでいく。何度も何度もお米を洗いながら、私もお母さんと同じように涙が止まらなかった。







*****



 「和佳の家っていつ来ても最高だね!豪邸だし、何より廊下まで涼しいし!」

 「ちょっとみのり、あんまり騒がないで。今玲奈の演劇練習してるんだから」

 夏休みも中盤に差し掛かったころ。今日は学校の全校舎で消防点検が入る日で、珍しく一日休みが取れる日だった。

 必須科目と専門科目の二つの宿題も終えて、今日はお昼まで眠ってしまおうと思っていたとき、みのりと和佳からのお誘いで、私のアパートから四駅跨いだ先にある和佳の家に集まることになった。




 「主役、どんな感じ?できそう?」

 「そうだね。やっぱり久しぶりに演じるから緊張しちゃうなぁ。私、うまくできてる?」

 文化祭の演劇で主役をすることになって以来、毎日毎日、私はお腹を壊しながら家で猛練習を積んでいる。

 今ではすっかり使い慣れた姿鏡の前で、台詞と一緒に身振り手振りを付けながら必死に研究しているけれど、他の人から見て『仁花()』の演技がどう映っているのか気になっていた。




 「できてるできてる!自信持ちなって、玲奈!」

 「大丈夫だよ、玲奈は上手いから」
 
「そうそう!主人公のこと、ちゃんと分かってるなぁって見てて思うし、笹原さんに言われてた『もう少し感情を込めて!』ってところも、もうバッチリだと思うよ!」

 「……そっか。なら安心だね」

 演劇部のシナリオを担当しているという大島さんから受け取った今回の台本を読んで、まずは台詞を全部暗記した。

 あとは玲奈が高校一年のときに演じた舞台の録画を何十回も見漁って、とにかく玲奈が演じている姿を徹底的に真似したあと、プロの舞台役者が解説している動画配信を見て勉強している。




 「(それに、この舞台の物語ってすごく共感できるんだよなぁ)」

 大島さんからもらった台本は、私が演じる主人公のヒナコという女の子が、ある日病の治療の際に副作用を起こし、病気が治るのと引き換えにこれまでの記憶のすべてを失ってしまうところからはじまる。

 自分が誰なのか、かつてどんなふうに生きていたのかさえ分からないヒナコは、それまで関わりの深かった友人や家族、恋人から支えられ、ときに衝突しながら必死に自分を探し求めていくという物語だった。

 結局最後までヒナコが記憶を取り戻すことはないのだけれど、過去に固執することをやめて、新しく生きていこうとする前向きなこのシナリオは、どこか私にも響くところがあるように思えた。




 「あー!もう宿題が終わんないよー!一生かかっても終わらない気がしてきた!」

 「そんなわけないでしょ。ウダウダ言ってないで早く手を動かして」

 「和佳は私に愛ってものがないわけ!?ちょっとは手伝ってくれたっていいじゃん!」

 「そんなことしたって、みのりのためにならないでしょ」

 「和佳のマジメ。大マジメちゃんめ」

 「……怒られたい?」

 和佳の部屋で、彼女はとうの昔に学校から出された宿題を終えて、今は受験対策の勉強をしていた。みのりは文化祭に出す衣装をひたすら縫いながら、合間に宿題を終わらせるというハードなことをやっている。

 私は劇の練習をして、三人とも各々のやりたいことをしながら、それでも楽しいと思えることが不思議だった。

 この二人といるといつも楽しくて、人と話すということに苦手意識を持っていた私でも、それを知らず知らずのうちに克服できるほどくだらない話題で盛り上がって、笑えて、思えば三人が揃えば常に笑顔でいられた。

 去年、高校二年の春に初めて『玲奈』として二人の前に立ったときから今日まで、みのりと和佳が軽い言い合いをすることは多々あっても、一度だって大きく拗れるような喧嘩をしたことはない。


 真面目で、曲がったことが大嫌いな頭のいい和佳と、お茶目で可愛いくて、思ったことを何でも口に出してしまうみのり。

 最初は玲奈のフリをしていることがバレないように、極力距離を置いて必要最低限近づかないでおこうと思っていたあのころとは打って変わって、私は今、彼女たちと離れたくないとさえ思ってしまっている。





 「あ、そうだ。おやつがあるんだった。ちょっと待ってて、取りに行ってくるから」

 「わーい!和佳の家のおやつって豪華だから好き!早く取ってきて!」

 「みのりは遠慮って言葉を覚えるべきよね」

 和佳はみのりを見てグルリと目を回しながら呆れたような表情を浮かべて、この日当たりのいい大きな部屋をあとにする。

 学校も徒歩圏内で、近くには大きな商業施設もあるこの最高な立地にこんな豪華な家を建てられる和佳の家族って、やっぱりすごいんだと思い知らされる。

 今、私がお母さんと住んでいる古めかしいアパートがなんだか恥ずかしくなった。




 「あ、てかさ!玲奈があんなに絵が上手だったなんて知らなかったんだけど!」

 「え?あ、あぁ、いうほど上手くないよ……!普通だよ、普通!」

 「いやいや、クラスのみんなが驚いてたからね!?未だに衝撃だよー!」

 和佳がいなくなって、みのりと二人きりになったとき、彼女は突然思い出したかのようにそう声を張った。

 昨日はお昼から学校へ登校して、教室の入り口に飾る看板を作る手伝いをしていたとき、つい無意識に『仁花()』の癖のまま絵を描いてしまったせいで、みのりをはじめとする数人のクラスメイトから褒められて目立ってしまった。

 確か玲奈は絵がまったく描けなくて、中学のときの美術の成績は三年間ずっと低評価だったはずだ。気をつけなくちゃと思っていたけれど、みのりの中ではまだ忘れられていなかったらしく、その話題を出されて私は苦笑いで誤魔化した。




 「お待たせ……って、何?なんの話してるの?」

 「あ、おかえり和佳!あれだよ、昨日玲奈が描いた看板の絵がプロ級だったって話」

 「あぁ、すごかったらしいね。あたしは昨日学校行ってないから知らなかったけど、みのりが写メ送ってくれたの見たよ」

 「なっ!みのり、写真なんて撮らなくていいよ!消してよ!」

 「なんで、いいじゃん!玲奈ってばもう調理師やめて絵を描いて生きていきなよ!」

 「そ、そんなことできるわけないよ!」

 おやつを持って戻ってきた和佳は、スマホの電源を入れてみのりから送られてきたという看板の絵を開いた。

 改めて見入っている和佳に、みのりが『ね!?すごいでしょ?』と乗っかっていく。




 「本当にすごいね、これ……。一から玲奈が描いたの?」

 「うん、描いてた!だからクラスが騒然としちゃってさ!?」
 
 「これはみんな驚くだろうね。高校生のレベルじゃないし」

 「でしょー!?それなのに玲奈ってば、あんな感じで恥ずかしがんの。もっと堂々と自慢していいのにさぁ?」

 「そ、そんな大袈裟だよ。スマホで参考になりそうな画像見つけて真似しただけだから」

 私たちのクラスが文化祭初日にオープンする出店は、『この暑さの厳しい夏に癒しを』をいうコンセプトのもと、貝殻の形をしたアイスサンドと、色付きのシロップでグラデーションにしたレモンスカッシュを販売することになっている。

 だから看板もそれらしいモノでお願いと言われていたけれど、クラスメイトは自分たちの作業に追われていて誰も看板制作まで手が回っていなかったから、代わりに私がやってしまったのが悪かった。

 絵を褒められることは嬉しいけれど、それは『玲奈』には必要のないものだ。

 最近の私は、そういうヘマばかりしてしまう。




 「(変に疑われていないといいけど……)」

 「あ、そうだ。みんな一旦休憩して、コレ食べない?」

 一人で悶々と不安に駆られていると、和佳がその空気を切り替えるようにそう言って見せたたのは、少し前に持ってきてくれたものだった。




 「うわぁ!すごっ、フルーツの盛り合わせじゃん!」

 「昨日お母さんの友人が手土産に持ってきてくれたんだって。食べきれないからみんなでどうぞ、だってさ」

 大きなガラス食器には、夏みかんやスイカ、メロンに林檎にパイナップルと、たくさんのフルーツがきれいにカットされて所せましと乗っていた。

 和佳はそれを部屋の中央にあるローテーブルに置いて、私とみのりを呼んだ。




 「いっただっきまぁす!」

 「こんな豪華なフルーツの盛り合わせ、見たことないや。和佳のお母さんにあとでお礼言わなくちゃ」

 「言わなくていいよ。……あの人はあたしが勉強してるときだけ優しい人だから」

 和佳は家族のことが嫌いだと公言している。

 医者である和佳のお父さんは、数年前に独立して開業医となってからは家に帰ってこないことが増えて、ちゃんと会話をしたのはいつだったか覚えてないと言っていた。



 「それなのに毎日のように勉強しろ、受験対策しろって連絡がくるの。笑えるよね」

 「……そっか」
 
 「浪人してもいいから医学部以外は認めないんだってさ。いったいあたしがいつ医者になりたいって言ったんだろうね」

 そのあとも、和佳は『上の兄二人が弁護士になったから、医者になるのはお前だって言うの。呆れるでしょ?』『お母さんはお父さんには何も逆らわないし、自分には関係ないみたいな顔するの』と次々と愚痴をこぼしていた。




 「家族って、なんなんだろうね」

 「……本当だね。家族って、なんなんだろう」

 私も和佳と同じようなことを、何度も考えてきた。

 それまでの私は、家族というものは私の唯一の帰る場所であり、何かあったときは一番に守ってくれる安心できる存在だと思っていた。

 だけど、両親が離婚したとき、その考えが間違っていたことに気づいた。そしてお母さんが私のことを『玲奈』だと言ったあの瞬間、家族というものが決して安心できる場所ではないのだと悟った。

 結局、頼れるのは自分だけ。苦しくても、つらくても、痛くても、『家族』だからと言ってそれを共有することも、軽減することもできない。

 それでも、どうしてか、家族を見捨てることができないのはなんでだろう。

 私を『仁花』だと認めてくれないお母さんのことなんて見放して、自分のことだけを考えて生きようと思ったことなんて本当は何度もある。

 だけど、どうしてもそれを実行するには至らなかった。どれだけ酷い仕打ちを受けようと、自分という存在をかき消されようと、見捨てることはできない。

 私はあとどれだけ、家族に縛られながら『玲奈』として生きていけばいいんだろう。

 幾度となく考えては、一度も答えは出なかった。

 きっとこれからも、正しい答えなんて見つからないような気がする。




 「それより、玲奈も食べなよ。はい、林檎」

 「うん、ありがとう」

 和佳から手渡された、林檎が一欠片刺さっているフルーツピックを受け取る。

 そしてそのままそれを口に放りこんだ。


 

 「ちょっ、玲奈!?」

 その瞬間、みのりが心配そうな顔をしてこちらへやってくる。


 「大丈夫なの!?」

 「大丈夫って、何が?」

 「何がって……」

 未だにみのりがそんなふうに言う意味が理解できないまま、和佳と二人で顔を見合わせている様子を見て首を傾げた。



 「いや、ううん。なんともないならいいよ」

 「……?」

 それから私たちは、夕方ごろまで和佳の家で過ごして解散した。

 文化祭まで、残り一ヶ月──。







*****


 「この飾りってどこにあるんだっけ!?」

 「それ第二準備室に置いてあった気がする!」



 「演劇で使う体育館、照明のチェックがまだできてなくない?」

 「それが他のクラスがまだ使っててウチらの番はまだ先らしいよ」

 夏休みも終盤に差し掛かると、クラスメイトたちの慌てっぷりも顕著に現れるようになった。みんなはクラスの優勝のために、自分の専門科目のために一生懸命に活動している。

 私がかつて通っていた高校は、一応文化祭というものはあったけれど、ここまで真剣にやっている人は一人もいなかったと思う。

 三葉学園の自由な校風がそうさせているのか、ここの生徒たちはみんなが一致団結して取り組んでいて、私もその一員になれているのか思うと、少しだけ心が躍ってしまう。




 「ねぇ、玲奈ごめん!申し訳ないんだけど、教室のこの飾り、あと十個くらい倉庫に取りに行ってくれない?」

 「うん、全然いいよ!任せて!」

 「助かる、ありがとう!確かこれはグラウンドの倉庫にあるはずだから」

 「分かった、取ってくるから待ってて!」

 私はクラスメイトからのお願いに、駆け足で教室を出た。

 ここ数日ずっと猛暑が続いていて、廊下に出た瞬間汗ばんでしまうほど熱で蒸されていた。




 「玲奈ー!私も一緒に行くー!」

 「あたしも。暑くて死にそうだけど」

 「あ、二人ともありがとう!今日は和佳も学校来てるんだ」

 「……まぁね。みのりに毎日うるさいくらい電話で催促されるの。本当迷惑なんだけど」

 「和佳だけサボろうったって、そうはさせないんだからね!」

 「サボってないし。受験勉強してるだけ」

 和佳は文化祭の準備がはじまる当初から今年はあまり参加しないと宣言していたとおり、夏休みはあまり登校せず、ひたすら家と塾の往復を繰り返しているそうだ。

 きっと受験勉強に集中したいのだろう。どうか大学は無事に志望校に受かって、自分の進みたい道に行けるといいんだけど。





 「ってかグラウンド出るの!?あっつー!」

 「自分でついて行くって言っておいて何言ってんだか」

 「外だとは思わなかったんだもん」

 「アハハ!みのりは暑さに弱いもんね。ここで待ってていいよ?私一人で取ってくるから」

 「いや、甘やかしたらダメだよ玲奈。みのりも引っ張って連れてくから」

 なんだかんだ言いながら二人とも私と一緒に来てくれる、その気持ちがとても嬉しかった。下駄箱で靴を履き替えて、グラウンドの一番端っこにあるコンクリートでできた倉庫へ向かう。

 そして重たい扉を開けて、薄暗いそこへ一歩足を踏み入れた──……そのとき。







「──ねぇ、あんた……誰なの?」

 今まで聞いたことのないような、和佳の冷たい言葉が私の耳を劈いた。



 「……え?」

 慌てて振り返って、和佳とみのりの姿を見たとき。

 私は瞬時に悟った。





 「あんた、『玲奈』じゃないでしょ」

 この関係が、今日で終わりを迎えるということを。


 茹だるような暑さの中にいるのに、一気に体が冷めていく。

 一定の距離を保ちながら私を疑いの目で睨みつけてくる和佳と、俯いて何も言わないみのりの姿に、指先の感覚がなくなっていくのが分かった。




 「和佳、何言って……っ」

 「玲奈は暗いところが苦手だったはずだよね?」

 「え?い、いや、別に苦手っていうほどでは……」

 和佳の突き抜けるような鋭い言葉と声のトーンに、出てくる声が震えてしまう。そんな中でも必死に頭をフル回転させて、これまでの玲奈の記憶を手繰り寄せた。

 玲奈が暗闇で怖がっていたことなんてあった?

 ……いいや、ないはず。むしろ小学生のときに家族四人で行った遊園地のお化け屋敷には、玲奈が率先して入っていったくらいだ。




 「一年のとき、体育の教師に間違えてここに閉じ込められたときから、二度と倉庫には近づかないって散々言ってたじゃん。だからあたし、一緒についてきたんだけど」

 「……っ!」

 知らなかった。

 そんなことがあったなんて、玲奈は一度も言わなかった。




 「……」

 それも、そうだよね。

 学校であったことを全部知るには、私と玲奈の距離は離れすぎていたから。



 「それに、玲奈は林檎を食べると喉が痒くなってしまうから食べないって言ってたはずだけど?なのになんであんたはあたしの家にきたとき、平気な顔して食べてたわけ?」

 「……っ」

 「あとさ、あんなに『勉強なんてやっても無駄。!好きなことして生きてくのが一番じゃん?』って豪語してた玲奈が、なんで突然あたしの勉強のことに興味を持って、わざわざご丁寧に塾や夏期講習のことまでアドバイスしてくれんの?」

 「それはっ」

 「しかもまるで自分が通っていたみたいに詳しく説明してたじゃん?ずっとおかしいと思ってたんだよね」

 和佳が挙げていく一つ一つの疑問は、私がこれまでに犯してきた罪のすべて。いつか、私が『玲奈』のフリをしているということがバレるときが来るのだろうとは思っていた。


 だけど、それが今だとは予想もしていなかった。

 今じゃない、今はまだ、心の準備ができていない。





 「もう一度聞く。あんた、誰なのよ」

 「……っ」
 
 「それで、本物の玲奈はどこ?」

 「……和佳、もうやめなよ」

 「玲奈はどこだって聞いてんの!」

 倉庫中に響くほどの和佳の声に、心拍数が上がっていく。

 視界は一気に狭まって、少しずつ目の前が真っ暗になった。




 逃げなくちゃ。今、この場にいてはダメだ。

 でも、体に力が入らない──。

 ふらつく足で、どうにか倉庫から出ようとした。




 「……どこ行く気?」

 けれど、それを和佳が許してくれるはずもない。彼女の真っ直ぐに伸びた腕が、私の行く手を阻んだ。

 極度の緊張と焦りのせいで、呼吸が浅くなってきてうまく息ができなくなった。

 お腹も急激に痛みを増していく。今、こうして立っているのがやっとの状態だ。




 「ごめん、なさい……っ」

 「質問の答えになってない。あんたは誰だって聞いてんの」

 「私は──……」

 ついに、この日が来てしまったみたいだ。

 だけど私は、心のどこかで早くこんな日が来ればいいと思っていた。

 正体を騙し続けることに日々罪悪感を感じながら、それでも和佳やみのりと友達で居続けたいだなんてありえないことを本気で思っていたりもした。



 早く私が『仁花』であることを言いたかった。

 だけど、『玲奈』でいるときは私の見る世界がキラキラして見えていたから、ずっとこのままでもいいかもしれないだなんて思っていたりもした。



 『仁花』でいたいのか、『玲奈』でいたいのか。

 自分でも分からなくなっていたんだ。







「私は──……玲奈じゃ、ない、です」

 絞り出すようにそう白状した途端、バチンッという弾く音とともに左側の頬に鈍い痛みが走った。

 これが私の、罰だった。








*****



 「あら、おかえり玲奈ちゃん。今日は早かったんだね」

 「……」

 「玲奈ちゃん?」

 「あぁ、うん。ちょっと体調悪いから部屋にいるね」

 あれから、どうやって家まで帰ってきたのか覚えていない。

 ただ、和佳に叩かれた頬の痛みだけが染み渡って、そのたびに少し前のあの出来事が脳裏をよぎる。



 『玲奈のフリって、どういう意味よ!』

 『……ごめん、なさい』

 『謝ってばかりいないでちゃんと説明したらどうなの!?』

 『和佳!もうやめなってば!そんなふうに問い詰めたって意味ないでしょ!?』

 『みのりは許せるわけ?コイツは玲奈じゃないのに、ずっと玲奈のフリをしたてんだよ?』

 『そうだけど、今は話せる状況じゃないじゃん!見てよ、具合悪そうじゃん!』

 『……体調がなによっ』

 『それに、なんの理由もないのに玲奈のフリなんてすると思う?きっと何かあるからなんだよ』


 怒りに任せて怒鳴る和佳とは違って、みのりが間に入ってくれたおかげで、私はまだ何も説明しないまま家に帰ることができた。

 だけど、私以上に和佳は傷ついた顔をしていた。私が、傷つけてしまったんだ。




 和佳は特に玲奈のことを好いてくれていた。

 演劇の主役を断ろうとしていたときも、みのりと意見が食い違ってしまったときも、和佳はいつだって『玲奈』の味方をしてくれるほど親友だと思ってくれていた。

 体調が良くないと言えば、背中をさすってくれて、薬を手渡してくれたのも和佳だった。


 そんな彼女の大切な『親友(玲奈)』のフリを、私は一年以上してきたんだ。ずっと和佳とみのりを騙し続けてきたんだから。

 怒って当たり前だ。叩かれても当然の報いだと思っている。

 二人に対する罪悪感で、心が押し潰れてしまいそうだ。





「(もう、学校にはいけない……よね)」

 演劇の主役、自分なりに頑張って練習していたんだけどな。文化祭、柄にもなく楽しみにしていたのにな。

 何一つ、『仁花()』では得られなかったことばかり。

 全部『玲奈』だったからこそできたことなのに、それをさも自分のものかのように振る舞っていたバチが当たったんだ。



 もう、終わりなんだ。

 全部、全部、終わってしまうんだ──。




 「うぅ……っ、つっ」

 何に対しての涙なのか分からない。

 だけど、悲しくてたまらなかった。心が痛くてしかたない。



 「ごめん、なさい……っ」

 次の日から、私は学校へ行かなくなった。

 夏休みが終わるまで、残り五日となった日の出来事だった。








*****



 「久しぶりだね」

 「楓、くん?どうしてこの家が分かったの?」

 三日間一歩も外へ出ず、ずっと家に引きこもっていると、アパートのインターフォンが鳴り響いた。

 お母さんに対応してもらおうと思ったけれど、今日もお母さんはベッドから出られそうにないらしく、仕方なく玄関を開けると、そこにいたのは楓くんだった。




 「ちょっと行きたいところがあるんだけど、一緒に来ない?」

 「え?」

 「ほら、行くよ!」

 「ちょっ、待って!ど、どこに行くのか知らないけど私まだ何も準備が……っ」

 「じゃあ仁花の準備ができるまでここで待ってる」

 楓くんは私が以前お父さんと一緒に住んでいた家は知っているはずだけれど、お母さんと玲奈が住みはじめたこのアパートの場所は知らないはずだ。いったいどうやって知ったんだろう。

 それに、行きたい場所ってどこ?

 頭の中でグルグルとそんなことを考えるけれど、どれも上手くまとまらずに、『どうでもいっか』とすぐに諦めた。

 行きたくないと抵抗するのも、外へ出るための準備をするのも億劫でたまらない。

 このままずっと家にいたい。




 「(あぁ、そっか。このアパートも、この部屋も、このベッドも、私のものじゃないんだっけ)」

 そうは思いながらも、ここには私のものは一切ないから、いつものようにクローゼットを開けて玲奈の服を取り出した。


 楓くんが待っているから急がなくちゃと思うのに、体がいうことを聞かない。

 まるで心と体がチグハグになっているようだ。




 「ごめん、お待たせ」

 「ううん、全然。じゃあ出発……の、前に。お前、ほらこれ飲んで」

 楓くんから手渡されたのは、コンビニの袋に入っていた冷たいゆず茶だった。『どうして?』と問う代わりに彼の顔を見上げると、心配そうな表情で私を見ていた。


 「どっか具合悪いの?今日体調悪い?」

 自分でも分かるくらいに、今の私は窶れている。それを楓くんに見られたくなくて、グッと下を向いた。




 「体調が悪いとかじゃないから、平気……」

 「本当に?」

 「本当、だよ」

 私は楓くんにも嘘をついている。

 きっと彼は私が『玲奈』じゃないことはもう分かっている。だけど自分から本当のことはまだどうやっても言い出せない。



 だって、誰にも知られたくないんだ。

 お母さんから『玲奈』として生きることを強要されてしまったことなんて。

 いやいやそれに従ったくせに、『玲奈』としての人生を少なからず楽しんでしまった自分のことも、『玲奈』として生きるに比例して、『仁花()』は友情も、夢も、何も持っていなかったのだと思い知らされて絶望したことも、そんなこと誰にも知られたくない。

 情けなくて、惨めで、消えてしまいたい。

 でも、本当は言いたいんだ。



 『私は仁花です』と。

 あの日からずっと、言い出せずにいるんだ。




 「分かった。でも今日は暑いから、これ、貸しておくね」

 「え?」

 そう言ってスポッと頭に乗せられたのは、それまで楓くんが被っていた帽子だった。

 ブリムの長いそれが、私の顔を隠すように覆ってくれる。




 「いいの?でも楓くんが暑いんじゃ……」

 「大丈夫、俺は海外の暑さで鍛えられてるからね……ってのは嘘。日本のほうが断然暑い。本気でこの暑さ無理。本当は今にもぶっ倒れそうだからもう行くよ、今すぐ出発します。突っ立ってるとマジで危ない」

 楓くんはそう言って笑いながら、私の手を掴みながら一歩先を歩いていく。

 どこへ行くんだろう。……まぁ、ついてみれば分かるか。

 あと少しで夏休みが終わる。

 夏休みが終わったら、文化祭本番までわずかだ。




 「(って、もう私には関係ないじゃん)」

 小さく首を振って、これ以上考えることを放棄した。

 それでも演劇の主演の代わりは見つかるかな、だとか、準備はできているのかな、だとか、そんなことをすぐに考えてしまう自分がすごく情けなくてしかたなかった。






 「ここって、絵画教室?」

 「そう。昔、俺が週二で通ってた教室。……あぁ、あと『仁花』もね」

 「……っ」

 楓くんに連れてこられた場所は、『仁花()』が幼稚園のころから通っていた小さな絵画教室だった。

 年代を感じる古民家のような作りの家で、当時、絵の先生をしてくれていた佐々木おばあちゃんはまだ元気だろうか。




 「俺、こっちに帰ってきてたまにここへ遊びに来てるんだよね」

 「そ、そう……なんだ」

 「ま、月謝はもう払ってないけど、いつでも遊びに来ていいって佐々木のおばあちゃんが言ってくれたからね」

 何も変わっていなかった絵画教室を見て、懐かしさが込み上げてくる。


 お父さんが海外から取り寄せた絵を初めて見て、興味を持った。

 最初は書き方や色の作り方をお父さんから教わっていたけれど、『自分が教えるのは限界だ』と言って代わりに連れてこられた場所がここだった。まだ幼稚園のころの話だ。

 当時、玲奈も一緒に行かないかと誘ってみたけれど、絵を描くことよりもお人形遊びや友達とお化粧ごっこをするほうが楽しいからと言って断られてしまった。

 けれど、代わりに一緒に通うようになったのが楓くんだった。

 それから小学校六年生までの六年間、週に二度、火曜日と木曜日は決まって彼と一緒に放課後ここへ通うのが習慣となっていた。





 「(懐かしいな)」
 決して言葉には出してはいけない感想だ。

 玲奈にはここにきたという記憶はないのだから。




 「──あら、仁花ちゃん?」

 「……っ!」

 グッと口を噤んで、心の中でそう囁いたとき。

 うんと懐かしい声が『私』の名前を呼んだ。

 あのときと変わらず元気そうな佐々木のおばあちゃんだった。



 「まぁ、大きくなったねぇ!楓くんが連れてきてくれたのかい?」

 「そうだよ。おばあちゃん、ずっと『仁花』に会いたがってたでしょ?」

 「あぁ、会いたかったとも。もちろんさ。ささ、暑いだろう?中へお入り?」
 
 「今日は教室の日じゃないけど入って大丈夫?」

 「当たり前だよ、せっかく仁花ちゃんが来てくれたんだからねぇ。そうだ、赤紫蘇のジュースを作ったんだよ。二人に用意しないとねぇ」

 佐々木のおばあちゃんはそう言って、丸まった腰を上げて台所へ向かっていく。

 それにならって楓くんも同じように中へ入ろうとしていたところを、私は思わず呼び止めてしまった。




 「楓くん、どういうつもり?」

 「うん?」

 「どうして私のことを『仁花』だって言うの?」

 以前会ったときは、たまに間違えながらも最後は『玲奈』と訂正してくれていた。

 なのに今は、堂々と私のことを『仁花』と呼ぶ。



 「だってお前は『仁花』だから」

 「……っ!」

 「この際、はっきりさせておこうと思って」

 「やめてよ!」

 私が『玲奈』であろと『仁花』であろうと、それを決めるのは私自身だ。

 今はまだ、誰にも本当のことを言いたくない。




 「私は『玲奈』なの!私は、まだ……」

 「──お前は玲奈じゃない。『仁花』だ」

 「いい加減にして!」

 どうして分かってくれないの!?どうして今までどおり、騙されたフリもしてくれなくなったわけ!?

 いつか、ちゃんと自分の口から言うから。『玲奈』としての人生を終わらせるから。

 もう少し、もう少しだけ時間をちょうだいよ──。





 「ごめん、帰る」

 楓くんの言葉を待たずに、少し前に通った道を戻ろうと背を向けたとき。




 「──ずっと、好きだったんだよ。『仁花』のことが」

 彼のその一言に、私の体はその場でピタリと動きを止めた。








 「(……楓くん、今、なんて?)」

 「お前がどんなに上手に『玲奈』のフリして周りを騙せたとしても、俺には通用しないよ」

 「……っ」

 「だって幼稚園のときからずっと片想いしてた女の子の姿、間違えるわけがないでしょ」


 私のことが、好きだった?幼稚園のときから?

 『玲奈』じゃなくて、『私』のことを?


 そんなのあり得ない。小さいときから男の子にも女の子にも大人気で、玲奈と同じように楓くんの周りには常にたくさんの友達がいた。

 それなのに、友達作りが下手でいつも一人ぼっちだった私なんかを……好きになるはずがない。

 むしろ楓くんに片想いをしていたのは私のほうだ。

 でも、この想いが表に出ることは一生ないと思っていた。

 私とはまるで正反対で、いつも明るくて、歳を重ねるごとにどんどん格好良くなっていって、友達が多くて、勉強も運動も両立できてしまう楓くんと釣り合うわけがなかったから。


 それに、玲奈と楓くんが二人で一緒にいるところ見たとき、とてもお似合いだと思った。

 中学生になったばかりで、途端に男子と女子がお互いに意識し合いはじめたころ、玲奈と楓くんは付き合っているんじゃないかという噂が絶えず流れ続けていたくらいに、誰が見ても私と同じようなことを思う人ばかりだった。



 「(それなのに、どうやったら私のことなんて好きになるわけ?)」


 信じられない。そんなの嘘に決まっている。
 
 心の中で何度もそうやって否定し続けた。




 「玲奈は知ってたよ。俺が仁花のことを好きだってこと」

 「え?」

 「だから玲奈は俺に仁花を取られないように独り占めしはじめたものだから、ある時を境に仁花の取り合いが始まって、俺たちはライバルになっていったんだよ」

 「……っ」

 どこか懐かしそうに遠くのほうを見ながら、楓くんはかすかに微笑んでいた。

 玲奈と楓くんの間に、そんなことがあったなんて知りもしなかった。二人はずっと、私よりも仲がいいとばかり思っていた。





 「去年、仁花と玲奈に何があったのか……、少し前に仁花のお父さんからある程度のことは聞いたんだ。今、仁花が住んでいる場所も、きみのお父さんから全部聞いたんだよ」

 「なんで、お父さんが……っ?」

 「いくら俺と玲奈が毎日のように喧嘩をしていた仲だったとはいえ、トラックに撥ねられてこの世からいなくなったって聞いたときは……っ、悔しくてたまらなかった」

 「……」

 「でもね、最後に仁花のお父さんに言われたんだよ。あの子(仁花)が今、“どっちなのか”本人に直接聞いてくれって」

 「お父さんっ、なんでそんなことを楓くんに……っ」

 どうしてお父さんは楓くんにバラしたのだろう。

 私が一年間、一生懸命に隠してきたことを、どうして……っ。





 「ねぇ、仁花。このままだと、いつか本当に自分を見失ってしまうよ」

 「……」
 
 「仁花が玲奈のフリをする必要なんてないんだよ。仁花は仁花だ」

 「やめて」
  
 「やめない。俺はこれから何度だって仁花の名前を呼び続けるから」

 「やめてったら!だいたい、楓くんには関係ないでしょ!?もう放っておいてよ、私のことなんて!」


 やめてよ、やめて、やめて。楓くんは何も知らないくせに。お母さんのことも、今の現状も、何も知らないくせに、簡単にそんなこと言わないでよ。



 私がそれだけ苦しい思いをしてここまできたと思ってるの?

 “いつか本当の自分を見失ってしまう”?

 もう十分見失ってるよ。


 仁花に戻りたいと思いながら、玲奈としての人生を捨てきれないでいる。

 もう夏休みも終わろうとしているのに、いまだに自分の将来さえ見つけられていない。






 「何も、知らないくせに!」

 「あぁ、知らないよ」

 「だったら……っ!」

 「──だから、教えて?仁花のこと、全部」

 「……っ」

 「今までずっと仁花が一人で苦しんでたこと、言えずにいたこと、全部俺に言ってよ」


 多分、私はこの言葉をずっと待ち続けていたのだと思う。

 たった一人でいい、味方がほしかった。

 『玲奈』として生きるという危ない橋をずっと一人で歩き続けてきた。その道は細くて、長くて、いつまで経ってもゴールが見えないから余計に不安を煽られた。


 それでも誰にも相談できなかった。むしろ話せば『そんなことをしている私が悪い』と非難されるとさえ思っていて、不安も、戸惑いも、恐怖も、全部一人で抱え込んできた。

 誰か一人でいいから、支えてくれる人がほしかったんだ。

 楓くんのその言葉を聞いた途端、大粒の涙がこれでもかというほど溢れ出てきた。

 しゃくり上げる呼吸のせいでうまく息が吸えなくて苦しくなった。

 それでも涙は止まることを知らない。



 楓くんは本当にそんな私の味方でいてくれるの?

 私がこれまでずっと抱えてきたこと、誰にも言えなかったことを話してもいいの?


 非難しない?怒らない?

 私を──……軽蔑しない?



 「──大丈夫だよ、仁花」

 肩を揺らしながら泣き続ける私に向けられていた夏の日差しが、楓くんによって遮られた。

 彼はその大きな両手で私を丸ごと包み込むように、そっと抱きしめてくれた。




 「きみは『仁花』だよ。俺の大好きな女の子」

 「……っ!」

 「そんな大事なきみを、絶対に見失わせたりはしないから」



 大粒の涙の痕が、楓くんの服に染みていく。

 彼の腕の中に包まれて、私ははじめて安心感というものを知ったんだ。










*****


 ──ブーッ、ブーッ、ブーッ。

 スマホは小刻みにバイブしながら、今日も朝から大量のメッセージを受信していた。

 人気者の玲奈が突然なんの連絡もなく登校日をサボったり、夏休みが明けて本格的に学校がはじまっても三日も休んだりしていることを、たくさんの人たちが心配して連絡を送ってくれている。

 けれど、私はそれらに目を通すことさえできずにいた。


 「『玲奈』ちゃん。今日も学校に行かないの?まだ具合が悪いの?」

 「うん、ごめんなさい」

 「そっか。じゃあお昼ご飯はお母さんと一緒にお素麺食べようね」

 「あ、あのねお母さん……!」

 「なぁに?」

 「……ううん、なんでもない」

 部屋の襖越しに心配そうな声で話しかけてくれたお母さんは、小さなため息を落としながらいつものゆったりとした動きで再び自分の部屋へ戻っていく。

 玲奈はこれまで学校をずる休みしたことなんて一度もないのだろう。微かに聞こえたあのため息が、お母さんの記憶の中にある『玲奈』とは違う行動をしている『仁花()』に対する不満のようにも聞こえた。



 「……っ」

 “でもね、お母さん。
 私、玲奈じゃないんだよ。

 いくら見た目がそっくりでも、心の中まで『玲奈』になることはできなかったんだ。

 努力はしたよ、少しでもお母さんが元気になってくれますようにって願いながら。いつか、お母さんの心に不安定な揺らぎがなくなったら、そのときは私のことを『仁花』として受け入れてくれることを期待したりもしたよ。


 でも、私のほうが先に限界がきちゃったみたい。

 『玲奈』と一番仲が良かった友達二人にも気づかれてしまった。彼女たちには本当のことを言わなくちゃいけないと分かってはいるけど、怖くてまた学校を休んでしまった。

 ごめんね、『玲奈』になりきれなくて。
 ごめんね、となりにいるのが『仁花』で──。”

 口には出せないことを、代わりに心の中で吐き出した。



 楓くんが『仁花は仁花のままでいい』と言ってくれてから、私は少しだけ強くなれた。

 もう『玲奈』のフリはしない。これから時間をかけて、少しずつ私は『仁花』に戻ることを決意した。

 玲奈の人生は私にとって憧れそのもので、彼女の学校生活も、友達関係も、全部が楽しくてたまらなかった。

 でも、それらは決して『私』のものにはならないのだと知った。楽しい学校生活も、はじめて手放したくないと思えた友情も、これまでの思い出も、全部『私』のものじゃなかった。

 こうして『玲奈』としての人生に終わりが見えたとき、『仁花』の手元には何一つ残っていないのだということを、今身に染みて実感している真っ最中だ。

 だから、もう終わりにしなくちゃいけない。
 ずっとこのままではいられないから。



 けれど、どうしてもそれを口に出すことができずにいる。

 まずはお母さんに、そのあと和佳とみのりに、そしてお父さんに、私は『仁花』でいたいと伝えようと決心したはいいけれど、声に出そうとすると、喉の奥が痞えるように苦しくなった。

 そうしてズルズルと時間ばかりが過ぎていって、カーテンを閉めきった薄暗い部屋の中に籠る日々が続いている。


 

 そのとき、スマホの画面に『みのり 着信』の文字が浮かび上がった。無意識に手を伸ばしそうになって、それを止めた。

 今電話を取ったところで、彼女になんと言えばいいのか分からない。『玲奈のフリをしていて、騙してごめんなさい』以外の言葉がまだ見つからない。



 「……ごめんね、みのり」

 グラウンドの倉庫で和佳に正体を見破られたあの日から、みのりだけはこうして何度も連絡をくれている。

 和佳からは一切、音沙汰がなくなってしまった。

 あれだけ活発に動いていた三人のグループメッセージは、もうずっと静まり返っている。最後の会話は一週間も前のまま、みのりのブサかわいいスタンプで終わっていた。

 偽りの関係で、和佳とみのりには何度謝っても許されないことをしてきたと思う。

 それでも私は、二人のことが今もずっと大好きだから。



 「だからこそ、二人には本当のことを言わなくちゃ……っ」

 分かっている。十分すぎるくらい、分かっている。

 だけど、それでも、私が未だに躊躇ってしまうのは……二人と縁が切れることを恐れているから。心の準備がいつまで経っても整わない。

 『玲奈』の仮面を外した私は、とんでもない臆病者だ。

 ベッドの上で丸まりながら、いつまで経っても次の行動に移せない自分に嫌気がさした。

 そのとき、アパートのインターフォンが鳴り響いた。



 「……楓くんかな?」

 いいや、彼ももう学校がはじまっているはずだ。

 五年ぶりにカナダから帰国してきた楓くんは、帰国子女の編入生として家の近くにある男子校に通っている。カナダと日本の文化の違いに戸惑ったり、こちらの宿題の多さに驚いたりしていた楓くんの姿を思い出しながら、玄関の扉を開けた。





 「──久しぶり、だね」

 「……みのりっ」

 けれど、そこにいたのはみのりだった。

 彼女の姿を捉えた途端、一気に頭の中はたくさんの言葉で埋め尽くされる。

 なんで彼女がここへ?どうして私の家を訪ねてきたの?もしかして糾弾される?私のことを聞きにきたの?それとも玲奈のこと?

 どうして、なんで──。




 「えっと、『仁花』ちゃん……だよね?」

 「え?」

 「玲奈からよく話は聞いてたから」

 「……っ」

 「よかったら、ちょっとだけ二人で話さない?」


 いつものみのりの笑顔だった。だけどそこに、和佳はいない。

 私は戸惑いながらも、みのりを家に招いた。

 何を言われるんだろう、何を言えばいいのだろう。

 頭の中はそんな不安ですぐにいっぱいになった。





 「……あら、お友達?」

 そんな悶々とした思いを募らせながらみのりを部屋へ連れて行こうとしたとき、自分の部屋から顔をのぞかせたお母さん。

 いつもは誰がインターフォンを押しても出てくることなんてなかったのに、私の話し声が聞こえたからだろうか、それとも『玲奈』の友達を見たかったのだろうか。


 私は今まで一度も和佳やみのりをこの家に招待したことはなかった。常に家にいるお母さんにストレスを与えたくなかったのと、それからもう一つ。




 「あ、お邪魔します!私、みのりって言います!」

 「どうぞいらっしゃい、お茶とお菓子を用意するわね。あとで取りにきてくれる?──……『玲奈』ちゃん」

 「え?」

 この違和感を、誰にも知られたくなかったから。

 私のことを虚ろな目で見ながら『玲奈』と呼ぶお母さんのことを、見られたくなかった。



 「えっと……、え?」

 そういって台所へ向かうお母さんを見ながら、みのりは大きく目を見開いて驚いていた。

 無理もない。私が本当は『玲奈』じゃないと知っている今、先ほどのお母さんのやりとりは、みのりにとっては違和感でしかないと思う。



 「ごめん、えっと、確認なんだけど、あなたは仁花ちゃん……なんだよね?」

 「……はい」

 「なのに、なんで仁花ちゃんのお母さんは──……仁花ちゃんのことを『玲奈』って呼んでいるの?」

 「……」

 「それに、どうして仁花ちゃんも何も言わないの?」

 全く理解ができていないと言いたげなみのりの表情に、いつもの笑顔はなくなっていた。

 ただ混乱している様子で、私とお母さんの姿を何度も目で追っている。



 もう、隠せない。ここが潮時なのかもしれない。

 自分の母親が、『私』のことを亡くなった『玲奈』として見ていることも、それを受け入れているバカな『私』のことも、できることなら一生隠し通して、いつか葬り去ってやりたい事実だ。

 だけど、もう私一人では抱えきれない。
 これ以上、逃げるのは無しだ。



 「全部話すから、ひとまず部屋にいてくれる?」

 私は覚悟を決めて、改めてみのりを部屋に招き入れた。






*****


 一年前のあの日のことから、今日に至るまでの全てをみのりに打ち明けた。

 あれだけお喋りが好きな彼女も、このときばかりは何も言葉が出てこないようで、ただ茫然としていた。

 本当は和佳にもここにいてほしかったけれど、きっと和佳はもう私には会いたくないだろう。私が和佳の立場だったとしても、きっとそう思うだろうから。




 「そんなことが、あったんだね」

 「……」

 「ごめん、えっと、なんていうか、予想よりも何倍も斜め上をきたっていうか」

 「予想、してたの?」

 「あー、うん。和佳はどうか知らないけど、私はなんとなく気づいてたから」


 気づいていた?いったいいつから?みのりはどの時期から私が『玲奈』じゃないことを知っていたというの?

 明らかに動揺している私を見て、みのりは『あ、えっとね?』と言葉を続けた。




 「私がなんかちょっとおかしいなって違和感を持ったのは、文化祭の準備がはじまったばかりのころ……かな?」

 「そんなに前から?」

 「うん。そのときはまだ確信は持てなかったんだけど、ほら、私以上に目立ちたがり屋の玲奈がさ?文化祭で演劇すら立候補せずに、準備も裏方に徹していたから、あれって思ってて」

 「……」

 「あと、玲奈は困ってる人を絶対に放っておけないタチだったんだよね。文化祭の役決めをしていたとき、どうしても衣装係と演劇の小物作成の係が決まらずに学級委員の小山内さんが困ってたじゃん?」

 「あぁ、あのとき」

 「昔からなんだけど、玲奈ってあんな場面のときに絶対『私がやる!』って言っちゃうような子だったんだよね。自分はもう大量に仕事を抱えてんのに、それでも引き受けちゃうような子だったから」

 みのりは続けざまに『それでね、いつも和佳に叱られてたんだよね。あんたは他人のことばかりじゃなくて、もう少し自分のことを考えなよ!って』と言いながら笑った。

 その表情はまるで、本物の『玲奈』との思い出を思い浮かべているようだった。


 そんなみのりの様子を、傍で見ているだけで分かった。玲奈とみのり、それから和佳の三人の絆は絶対に途切れることはないのだと。

 私はその絆が本当に眩しくて、羨ましく思った。




 「あぁ、そうだ。頬はもう大丈夫?和佳ってば、いくら怒ってるからとはいえあんなふうにビンタするなんて最低だよね。ごめんね、私があのあとしっかり叱ったから!」

 「……ううん。叩かれて当然、だから」

 「和佳はさ、本当に玲奈のことが大好きだったんだよね。私は中学のときから和佳と友達だったんだけど、玲奈と出会って、本当に和佳は変わったから」


 一年生のとき、受験に失敗して両親との関係も拗れてしまっていた和佳は、今よりももっと刺々しかったところがあって、勉強嫌いで毎日楽しいことだけをしようとする同じクラスの玲奈のことが気に食わなかったそうだ。

 けれど、玲奈はそんな和佳に寄り添い続けて、放課後は勉強するために図書館に引きこもっていた和佳を強引にカフェに連れていったり、ときには映画に行ったり、ひたすら自分の将来の夢について聞かせたりしていると、和佳は次第に勉強がすべてじゃない、親の言いなりになる必要はない、もっと高校生を楽しんでいいんだと思えるようになって、今の三人ができあがったのだと教えてくれた。




 「だからって叩くのはやっぱりダメ!」

 「ううん、平気だから」

 「でも、和佳は口が酸っぱくなるほど言ってた。玲奈のおかげで世界が明るくなったって。死にたいって思わなくなったって」

 「……」

 「他にもね、困ってる人を放っておけない玲奈の性格に助けられた人っていっぱいいると思う」



 みのりの言う『玲奈の性格に助けられた人』の中には、私も入っている。両親が離婚して離れ離れになったとき、玲奈は一時期毎日のようにお父さんと私が住んでいる家まで足を運んでくれていた。

 困ったことはないか、ご飯はちゃんと作れているか、ぐっすり眠れているか。

 それまでお父さんも私もほとんど料理をしてこなかったから、最初は出前ばかり頼んでいたけれど、それを見た玲奈は毎日作り置きのおかずが入ったタッパを持ってきてくれるようになった。


 玲奈とお母さんは今私が住んでいるアパートに引っ越したから、玲奈は新しい中学校に通うことになって、環境も一変していた。

 思えば玲奈のほうが何倍も大変だったはずなのに、それでも私とお父さんのことをずっと心配してくれていた。玲奈はそういう子だった。




 「実はね、玲奈から一日だけ仁花ちゃんと入れ替わって学校に潜入するって話、私聞いてたの」

 「──え?」


 それは、私が知らなかった玲奈のはなし。

 玲奈がどれだけ私のことを想っていてくれたのか、知るはずもなかったはなしだった。




 「玲奈ね、仁花ちゃんが学校であまりうまく行ってないことをどこかで知ったみたい」

 「そ、そんなっ」

 「それで玲奈がね?『仁花の学校に忍び込んで、仁花のことを便利扱いしてる奴らをシメてくる』って言ってたの」



 どうして玲奈は、私の学校のことを知ったのだろう。顔が広い子だったから、どこかで私の噂を聞いたのだろうか。

 私は玲奈に、自分の学校で起こった出来事はほとんど話さなかった。玲奈と会うときはいつも聞き役に徹していた。

 たまに玲奈から問いかけられたとき、無難な言葉を選んで一言二言話すくらいのものだった。だって玲奈とは違って、あんなふうに屈託のない笑みで話せるほどのネタを私は持っていなかったから。

 私は玲奈のように学校生活を楽しいと思ったことなんて一度もない。親友と呼べる人なんていなければ、友達と呼べる相手さえいなかった。

 ただ、宿題を見せてあげればそのときは優しくされた。

 掃除当番を代わってあげればありがとうと感謝された。

 学年で一番良い成績を取ると、先生にだって褒められた。

 友達とは、何かをしてあげた分に見合った『友情』をもらえるのだと本気で思っていた。

 だから喜んでクラスメイトの要求を受け入れていたし、ひとりぼっちになってしまうくらいならそんなお願いは容易いものだった。

 だけど、たまに、ほんのたまにだけ、それがとてつもなく虚しくなるときがあった。自分が影で『便利屋』と呼ばれていることを知ったとき、まさしくピッタリなあだ名だと思った。



 玲奈から楽しそうに聞かされる学校生活とはかけ離れていた自分の日常に、少しずつ、うんざりしはじめていた。だから『玲奈』として三葉学園に通うことになって、みのりと和佳に出会ったばかりのころは驚きの連続だった。

 私が何かをしてあげなくても、みのりと和佳は当たり前のように一緒にいてくれた。

 宿題を見せてあげなくても、優しく接してくれる。

 むしろ体調が良くないときは二人が率先して掃除当番を代わってくれる有様だった。



 「玲奈ってば仁花ちゃんのことばっかり話してたからさ、なんだか私、仁花ちゃんと会うのはじめてじゃない気分なんだよね」

 「……っ」

 「あ、あとね。玲奈って入学してすぐにカフェのバイトを始めたの知ってる?理由はもちろん調理の専門学校にいくための資金でもあったんだけど、それとは別に、卒業したら仁花ちゃんと一緒に住むんだって言ってたんだよ」

 「え?」

 「玲奈はなんでか、自分のお母さんの話だけはあまりしたがらなかったんだけど、そのお母さんの面倒を見るのは高校卒業までだってずっと言ってて、そのあとは仁花ちゃんと一緒に住むんだって。仁花ちゃんのお父さんとお母さん、離婚しちゃったんだよね?親のせいで仁花ちゃんと離れ離れになったことが許せないってよく言ってたの。あ、そういえば学校に家計簿持ってきて、油性ペンで大きく『目標一五〇万円貯める!』って書いてたんだよ!?和佳が無理じゃない?って横槍を入れて喧嘩してたの、懐かしいなぁ」



 玲奈がそんなことを言っていたなんて、全く知らなかった。

 だから玲奈は、カフェ『LinLin』であんなにも一生懸命に働いていたんだ。




 「……玲奈っ」

 私はいつも玲奈を羨ましがって、自分の殻に閉じこもって、現状を変える努力もしないで、勉強しかしてこなかった。

 なのに玲奈は、そんな私のことをここまで考えてくれていたなんて。

 私、一度でも玲奈にありがとうって言ったかな?いつからか、玲奈と会うともっと自分が惨めになるような気がして、何度か会うことを断ったときもあった。



 「……つっ」

 ごめんね、玲奈。いつも無愛想で、素っ気ない返事しかできなくて。

 心が塞がっていたあのときの私は、お母さんからも愛されて、友達にも恵まれて、何不自由ない暮らしをしていた玲奈にずっと嫉妬していたんだ。



 「ごめんっ、玲奈……っ」

 玲奈に会いたい。もう一度会って、これまでのことをちゃんと謝って、そして最後に『ありがとう』って言いたい。

 玲奈がここまで人から愛されるのには、ちゃんと理由があった。

 運や周りの環境だけの力じゃなかった。



 そんなことに今さら気付くなんて、私はやっぱり玲奈には遠く及ばない。

 こんな私のことを、どう思っているかな。




 「玲奈の話ばっかりしちゃうと、なんだか会いたくなっちゃうね」

 みのりは小さく微笑みながら、涙を流していた。

 私もそんなみのりを見て、それまで堪えていた涙を同じように流した。








*****


 すっかりと日が落ちて、気づけば辺りはオレンジ色の夕焼け空になっていた。

 夏は長い時間明るいおかげで、外は未だ活発に蝉の鳴き声が鳴り響いている。




 「遅くまで居座っちゃってごめんね」

 「ううん。来てくれて、嬉しかった」

 私が『玲奈』じゃないと知りながら、こうして『私』に会いに来てくれたことが嬉しかった。

 例えそれが玲奈と私についてのことを聞きに来たのだとしても、あの日から謝罪すらできずに縁が切れてしまうことが一番怖かった。

 だからこうして、みのりだけにでも本当のことが伝えられてよかったと思っている。



 みのりも私も最後はずっと泣きっぱなしで、二人とも目が赤く腫れている。

 これで彼女に会えるのは最後になるのだろうか。胸を締め付けられるような寂しさに、ギュッと心臓を掴まれる。

 そんな思いを必死でかき消しながら、最後の見送りをしようと近くまで二人並んで歩いていた。



 「あ、そうだあのね──」
 何かを思い出したかのように、みのりが私のほうを向いて言葉を紡いだそのとき。



 「……みのり?」

 遠くのほうから聞こえた声。

 それは今、私がずっと会いたいと思っていた人で、そして今は一番会いたくない人だった。




 「(……和佳っ)」

 和佳はみのりの次に私を目で捉えた瞬間、ものすごい剣幕でこちらへやってくる。



 「あれ、和佳?」

 「みのり、あんた学校サボってなんでコイツと一緒にいんの!?」

 みのりの腕を力強く引いて、私から引き離しながら声を荒げた。玲奈じゃない私を見る和佳の目つきは、とても冷たくて怖かった。

 けれど、これが本来私に向けられるべきものだった。和佳の親友である玲奈のフリを一年以上してきた私が受けるべき視線そのものだった。




 「ちょっと落ち着いてよ和佳!声が大きいよ!なんで和佳がここにいるの?」

 「玲奈のこと、まだちゃんと説明されてないから問いただしてやろうと思ったの」

 「それなら私がまたちゃん教えるから!今日はもう帰ろうよ、ね!?」

 怒りを隠しきれずにこちらへやってくる和佳を止めに入るみのり。

 私はその場から動けなくなってしまった。



 「みのり、あんたおかしいよ。この女はずっとあたしたちの親友のフリをし続けて一緒にいたんだよ?」

 「あのね、和佳。それには事情があるんだよ」

 「いったいどんな事情があってそんなことしたっていうわけ!?それを聞きに来たんだよ。それから玲奈はどこなの!?」

 「──玲奈は、もうこの世にいないよ!一年前、事故で死んじゃったのは玲奈なんだって!」

 「……っ」

 「和佳だって薄々気づいてたことでしょ?だからワザと『仁花』ちゃんに林檎を渡して確認しようとしたりしてたんでしょ?もうやめようよ……この話、つらいよ」

 みのりの苦しそうに吐き出した言葉が、宙を舞う。

 玲奈の真相を知った和佳は、脱力したように体をふらつかせながら、ゆっくりと私と目を合わせた。





 「……どういうこと?だって、ニュースにだってちゃんとあんたの名前が載ってたはずよね?あんた、仁花でしょ?玲奈の双子の姉でしょ?」

 「……」

 「あたしだってネットニュースで読んだし、あのとき『玲奈』だって“姉の仁花が死んだ”って言ってたはず……って、え?待って、じゃあなに?あんたは二年の春からずっと玲奈になりすましてたってこと?」


 “なりすましていた”。
 最もな言葉のはずなのに、和佳のその言葉がグサリと私の心を刺す。

 和佳はもともと大きな瞳をこれでもかというほど見開きながら、一直線に私を見た。まるで、それは違うと否定してほしいと言いたげに。





 「なんとか言ったらどうなのよ!なんで!?どうして一年も何も教えてくれなかったの!?」

 「和佳!仁花ちゃんにだって事情があったんだってば!」

 「うるさい!どんな事情があったって、玲奈の死を伝えるタイミングはいくらでもあったじゃん!」

 鋭く尖った言葉とともに、和佳は私の服の袖を掴んで思いきり引き寄せた。

 けれど、彼女の怒気とは正反対に、その表情はとても寂しそうで、こぼれ落ちる涙を見た瞬間、これまでに感じてきたすべての罪悪感が私を襲った。

 和佳はどんなに家でつらいことがあったときも、体調が悪くて思うような成績を残せなかったときも、私たちに涙を見せることは決してなかった。


 そんな和佳が、今、泣いている。
 それだけのことを、私はしてきたんだ。




 「ごめん、なさい……っ、ごめんなさい」

 「だって、一年だよ?あたしは親友の死を弔うことも、お墓に手を合わすことすらできてないんだよ……っ?」

 「ごめん、なさい」

 「謝ってばかりいないでちゃんと説明しなさいよ!」

 頭の中で、『ごめんなさい』以外の言葉を必死で探した。

 けれど、どんな言葉を述べたとしても、その全部が和佳を傷つけてしまう。



 「和佳!もうやめてよ!」

 

 「──ちょっと、あなた?さっきから何を大きな声で言っているの?」

 「……!?」

 そのとき、アパートの油の足りていない玄関がギリリッと音を立てて開かれた。

 そこにはお母さんが顔をひどく青白くさせながら立っていた。



 「お母さん!部屋に戻ってて!」

 ──まずい。
 そう思ったときには、もう遅かった。




 「ねぇ、あなたは……『玲奈』ちゃんのお友達?玲奈ちゃんが死んだって、なぁに?」

 「は、はぁ?」

 「『玲奈』ちゃんなら、今あなたの目の前にいるじゃない」

 「なに、言って……」 

 「あぁ、勘違いしちゃってるのねぇ。事故でいなくなっちゃったのは、『仁花』のほうよ?」

 「……!?」

 「お顔がそっくりだから見分けがつかないのでしょ?そこにいるのは、『玲奈』ちゃんよ」

 「ちょっと、いくら玲奈のお母さんだからって……」

 「だって、玲奈ちゃんが死ぬはずないじゃないの。玲奈ちゃんはお母さんのところにいるの!玲奈ちゃんは、死んでなんかない!」


 ダメだ、これ以上この場にお母さんをいさせられない。

 またおかしくなってしまう。


 お母さんは自分に言い聞かせるように、玲奈の名前を連呼している。

 そして何度も何度も、『いなくなったのは仁花のほう』と繰り返した。





 「うん。そうだね、いなくなったのは……っ、『仁花』のほうだよね」

 「あたしには玲奈ちゃんが必要なのよ。玲奈ちゃんとずっと一緒に生きてきたんだからっ」

 「……そう、だね」

 この状況を見て呆気に取られている和佳の傍を離れて、私は走ってお母さんの元へ歩み寄った。

 力なくその場に崩れていくお母さんを必死で支えながら、大粒の涙をこぼして『仁花は死んだ』と吐き出すその言葉の分だけ、私は『そうだね』と言って頷いた。




 「ねぇ、和佳?仁花ちゃんの事情、少しは分かったでしょ?」

 「……っ」

 「仁花ちゃんは玲奈になりたくて私たちを騙してたんじゃないんだよ?」

 「でもっ」

 「和佳の許せない気持ちもすごく分かるよ?でも、仁花ちゃんや彼女のお母さんのことを少しは理解してあげてもいいと思う」


 お母さんを支えながら、うしろから聞こえた和佳とみのりの会話。

 ううん、私のことは許さなくていい。理解もしてもらえなくていい。ただ、『(仁花)』と一緒に過ごした一年を、忘れてほしくなかった。そんな図々しいことを、心の片隅で願ってしまう。




 「お母さん、一旦部屋に戻って薬飲もう?私、手伝うから」

 「ねぇ、どうしてあの子は玲奈ちゃんが死んだなんて言ったの?」

 「それは……っ」

 「事故で亡くなったのは『仁花』よねぇ?お医者さんもときどき言うの。ここにいるのは、玲奈ちゃんじゃなくて仁花ちゃんですよって」

 「……っ」

 「みんな、あなたたちがそっくりな双子だから見分けがつかないのよね?」

 お母さんは体調がよくないとき、いつも私にそう問いかけてきた。最初はその言葉に何日も傷ついて、一人部屋の隅っこで泣いていた。

 でも、慣れとは恐ろしいもので、お母さんのその質問に、いつしか私は平気で相槌を打つことができていた。

 たまにうんざりするときもあったけれど、涙を流すことも、悔しい思う気持ちもなくなっていた。



 「……」

 今だって、いつもと変わらない。

 この質問はお母さんが自身の不調を告げる合図に他ならない。


 なのに、なんでだろう。
 今、ものすごく心が痛い。

 後ろでみのりと和佳が聞いているから?
 私自身が弱っているから?

 どうしよう、分からない。それでも、これまでどうにか保ってきた『私』という形が、足元からガタガタと激しい音を立てて崩れていくような感覚に陥っていく。



 息を吸っているのか、吐いているのか分からなくなった。

 指先が冷たくなって、感覚がなくなった。

 グッと視界が暗くなって、体が傾いていく。



 あぁ、もう、今日はダメな日だ。
 この名前のつけられない不安定に、抗うことをやめた。

 視界が真っ暗になるまで、あと───。






 「仁花」

 そのとき、耳に馴染む低音が私の元へ届いた。覚えのある匂いが鼻をかすめて、背中いっぱいにふわりとあたたかみを感じた。

 あぁ、私、この声、この匂い、このあたたかさを知っている。

 ──楓くんだ。




 「仁花、落ち着いて息吸って」

 「かえ、で……くん」

 「大丈夫、もう大丈夫だから」

 「私っ、ごめんなさい……っ」

 「大丈夫だよ、仁花。大丈夫、もう謝らなくていいから」

 楓くんがくれるたくさんの『大丈夫』の言葉が、一つずつ私の心の中へ浸透していく。

 思えば楓くんは再会してからずっと、私の味方で居続けてくれていた。

 いつだって『仁花()』に優しい言葉を与え続けてくれていた。誰もが私のことを『玲奈』だと思い込んでいたときに、たった一人だけ、騙されてはくれなかった人。





 「一旦家に入ろう、仁花。それから少し、話がしたい」

 楓くんはそう言って、私を抱えながらアパートの中へと入っていく。

 楓くんがここにいてくれてよかった。
 心の中で、何度も彼に感謝した。






*****


 「お母さんの調子はどう?」

 「薬が効いてきたみたいで、やっと眠ったよ」

 「そっか、よかった」

 「目が覚めたら病院に連れて行かなくちゃ」

 それから楓くんは、私のお母さんのことまで一緒に面倒をみてくれた。

 楓くんがカナダへ行く中学一年のときまで、玲奈と私の三人でよく一緒に遊んでいたから、お母さんと顔見知りだったことが功を成したのか、薬を飲むことを嫌がるお母さんを宥めてくれて、雑談をしながら眠りにつくまでそばにいてくれた。




 「仁花はどうなの?もう平気?」

 「うん、ありがとう楓くん」

 「外にいるあの二人は、仁花の友達?」

 「……ううん、『玲奈』の友達」

 「仁花とも友達じゃないの?」

 「なれるわけないよ。私は和佳とみのりの『親友(玲奈)』のフリをした最低な人間なんだから」


 少し前の、和佳の口から放たれた言葉が何度も頭の中で再生されていく。



 “あたしは親友の死を弔うことも、お墓に手を合わすことすらできてないんだよ……っ?”

 “どんな事情があったって、玲奈の死を伝えるタイミングはいくらでもあったじゃん!”



 そのとおりだと思った。本当に、和佳の言うとおりだった。

 二人に真実を伝えられずにいたのは、あのとき私自身が『玲奈』でいることを望んでいたからだ。『仁花』に戻ってしまえば、和佳とみのりとの関係が途切れてしまうと恐れていたから。

 『玲奈』として生きてきた中で手に入れたものを、失いたくなかった。玲奈の学校生活も、友達も、文化祭も、全部……もっともっと味わっていたい思った私のせい。
 



 「仁花はさ、『玲奈』として過ごした一年はどうだったの?」

 「え?どうって……」

 「つらいことばっかりだった?」

 そう聞かれて、初めに思ったことは『つらい』ことなんかじゃなかった。

 確かにずっとこんな生活から逃げ出したいと思っていたし、玲奈として生きることに不安を抱かなかった日は一日もない。


 だけど、それ以上に……たくさんの感情を知ることができた。勉強と絵を描くことしかしてこなかった『仁花()』では、絶対に味わえない経験をたくさんさせてもらったように思う。



 「そんなこと、ないっ」

 その中でも、やっぱり和佳とみのりに出会えたことが何よりも私の宝物になった。本当の友達ではないけれど、それでも本来『友情』というものがどういうことなのかを教えてもらうことができた。

 たくさん笑いあって、くだらないことで言い合いをして、ずっと三人で一緒にいた。




 「つらかったし、毎日正体がバレるんじゃないかって怖かったけど……でも、楽しいこともあった」

 「……」

 「玲奈の人生は、すっごく楽しかったっ」

 「うん」

 これほどまでに濃い一年を過ごしたことは一度もなかった。

 友達と一緒に学校行事を楽しんで、共に笑って、たくさんの思い出を作った。

 仁花だった頃は一日が終わるのがとても遅いと思っていたけれど、『玲奈』として生きてきた一年は自分でも驚くほどあっという間だった。




 「俺ね、思うんだけど。それって、きっと玲奈からのプレゼントなんだよ」

 「……へ?」

 「仁花がこれから先、もっともっと人生を豊かに生きられますようにっていう、玲奈からのプレゼント」


 楓くんの予想もしていなかったその発想に、お母さんを病院へつれていくために準備していたお薬手帳を床に落とした。

 『玲奈』として生きてきた時間が、あの子からのプレゼント?



 「……っ」

 そんなはず、ないよ。
 玲奈は私のことを怒っているに違いないとさえ思っているくらいだ。



 “あたしの真似なんてしないでよ”

 “あたしの親友をとらないで”


 そう言うに違いない。

 一年前の春、入れ替わりの日があの日じゃなかったら、玲奈は今も生きていて、こんな楽しい人生の続きを謳歌しているはずだった。それを横取りしている私を見て、いくら優しい玲奈でも怒るに決まっている。




 「玲奈は私のこと、怒ってるんだよ。もしかしたら恨んでるかもしれない。こんなふうに真似して、玲奈として生きてることをよく思うはずがないんだから」

 「あっはは!あの仁花大好き人間の玲奈が、仁花のことを恨むわけがないでしょ」

 「でもっ!」

 「玲奈、言ってたよ。仁花はちょっとだけ不器用な子だから、あたしがずっと守っていくんだって」

 「……え?」

 「双子っていうのは、友達や恋人、血のつながった両親ともまた違った特別な絆があるんだってずっと自慢してた。だから例え俺が仁花と恋人になったとしても、あたしのほうが仁花との絆は深いんだって常に言われてたんだから、俺」


 ──また私の知らない玲奈の話だ。

 どうして玲奈は、そこまで私のことを思ってくれていたんだろう。

 私は何一つとして、玲奈にしてあげられなかったのに。





 「だからね、仁花。これからは仁花自身が幸せになる番だよ」

 「うぅっ、玲奈に会いたいっ」

 「仁花がしなくちゃいけないことは、玲奈やその周りに謝り続けることなんかじゃない。玲奈として生きてきた時間も、全部『仁花』のものにして、仁花が玲奈の分まで幸せに生きることなんだよ」


 楓くんのその言葉は、私がずっと探し求めてきた『答え』だと思った。

 こんなにも心が軽くなったのは、はじめてのことだった。





 「私っ、ちゃんと『仁花』に戻らなくちゃいけないんだね」

 「うん、そうだね」

 「みんなにも……っ、自分の口から言わなくちゃ」
 

 一年以上、ずっと誰にも言えなかったこと。

 どんなことをしてでも隠し通してきたこと。

 やっと、この日が来たんだ──。





 「二人に話してくるから、楓くんも一緒に聞いていてくれる?」

 「もちろん」

 私はアパートの玄関を勢いよく開いた。相変わらず油の足りていない嫌な音を立てて開かれた先には、木陰で涼んでいる和佳とみのりがそこにいた。

 私は走って二人の元へ駆けつけた。




 「あ、仁花ちゃん!お母さんはもう大丈……」

 「二人とも、今までずっと黙っていてごめんなさい」

 「……」
 
 「……」

 「私は──……玲奈じゃないです」

 「……」

 「うん」

 「私は……玲奈の姉の『仁花』、です」

 地に足がついていないんじゃないかと思うくらい、体がふわふわしている。これまでずっと言えなかったことを、今、大切な人に向かって伝えられているからだろうか。

 「今までっ、ずっと黙っていて……本当にごめんなさいっ」


 和佳とみのりの正面に立って、深く頭を下げた。

 楓くんはそんな私を後ろから黙って見守ってくれていた。


 みのりは『もう大丈夫だから、謝らないで?』と優しく声をかけてくれた。和佳は何も言わずにその場を去っていく。

 ──それが二人出した答えだった。




 二人がこの場からいなくなっても、当分の間私はその場から動くことができなかった。

 これで和佳とみのりとの縁が切れたことへの寂しさや、玲奈としての人生にピリオドを打つことができたことへのなんとも言えない複雑な気持ちが、止め処なく流れ込んでくる。




 「よく言えたね、仁花」

 「……楓、くん」

 「帰ろう、仁花。お母さんが目を覚ましたみたいだよ」



 その日、私は決意した。

 今日から『仁花』として生きること。

 玲奈が通っていた学校を辞めること。

 そして──……お母さんにもすべてを打ち明けることを。







 「──もしもし、お父さん?」

 《どうしたんだ?何かあったか?》

 「あのね、まずはお母さんのことなんだけど。今、ものすごく不安定な状態になっちゃって、このまま入院することになったよ」

 《そうか、明日お父さんも病院に言って話を聞くよ》

 「それからね?私、もう『玲奈』として生きることはやめた。私は『仁花』として生きていきたい」

 《……あぁ、もちろんだ》

「あと、もう一つ──……」














*****



 「私の荷物はこれで全部、だよね」

 たくさんの物で溢れていた玲奈の部屋が、一年前と同じように元に戻った。

 玲奈としてお母さんと二人で過ごしてきたこのアパートとも、もうすぐお別れだ。私はお父さんと一緒にすごしてきた家に戻ることにした。

 とはいえこのアパートで一年という月日を過ごしてきたのだから、それなりに自分の荷物だってあるだろうと思って用意しておいた段ボールは、結局一つしか使わなかった。

 ここにあった『仁花』としての物は、Mサイズの段ボール一つにまとめられてしまうほど本当に何もなかったのだと改めて思い知らされた。



 「仁花、これ、どうする?」

 そして、あの日から毎日のように、楓くんは学校が終わるとそのまま私の元へ来てくれるようになった。

 お母さんが入院して一人で暮らしている今、実は少しだけ彼の存在が心強かったりしている。



 「うん?なに、それ」

 今日も一緒に引っ越しの準備をしてくれていた楓くんが手渡してきたのは、玲奈と私が映った写真だった。写真の中に映し出されている私たちはまだどこか幼くて、写真立てもすっかり色褪せている。

 この写真は確か、昔家族四人で行ったテーマパークで撮ってもらったもの、のような気がする。

 今ではもう細かいことを思い出すことができないくらいに、遠い思い出の一つだった。



 「これ、どこにあったの?」

 「リビングのテレビ台の裏に落ちてた。どうせなら仁花が持っておいたらいいのになって思って」

 生前、玲奈がここへ引っ越してきたときに飾っていたのだろうか。

 私は小さいころから写真を撮られるのが苦手だったから、自分の手元にはそういった思い出の写真が一枚もない。




 「そうだね、私がもらうよ」

 テレビ台の裏側に落ちていたのなら、きっと私がもらっても問題はないだろう。ずっと、玲奈の写真を持ち歩くことはおろか、お父さんが保管しているアルバムも私は見返すことができなかった。

 玲奈は私のことを恨んでいると思っていたから、見るのが怖かった。だけど、あの日楓くんが言ってくれた言葉のおかげで、心の底から救われた気がしたんだ。



 “『玲奈』として過ごしてきた時間は、玲奈からのプレゼントなんだよ”

 “ あの仁花大好き人間の玲奈が、仁花のことを恨むわけがないでしょ”

 “ 仁花がしなくちゃいけないことは、玲奈やその周りに謝り続けることなんかじゃない。玲奈として生きてきた時間も、全部『仁花』のものにして、仁花が玲奈の分まで幸せに生きることなんだよ”



 「……ありがとう、楓くん」

 「うん、どういたしまして」

 「それから、楓くんにもずっと嘘をついていてごめんね」

 楓くんと再会していなければ、多分私はこんなふうに『仁花』に戻ることを決心することも、それを誰かに伝えることもできていなかったと思う。

 カフェのバイト先で再会したあのとき、彼が私の名前を呼んでくれなければ……きっと私は、今も苦しみながら『玲奈』として生きいたに違いない。

 楓くんには助けてもらいっぱなしだ。
 いつか、私もどこかで彼を助けてあげられたらいいんだけど。



 「……許してほしい?」

 「え?あ、う、うん。できることなら」

 悪戯っぽい表情を浮かべながら、片方の口角をクッと上げて笑う楓くん。

 『許してほしい?』と尋ねられたあとに出てくる言葉が気になって、グッと身構えた。



 「じゃあ告白の返事、聞かせてもらおっかなぁ」

 「!?」

 「ねぇ、仁花絶対忘れてたでしょ?俺、めちゃくちゃ勇気振り絞って仁花のこと好きだって伝えたのに」

 「ち、違うよ忘れてなんかないよ!?ほ、本当に……」

 ただ、あのときはとにかく自分のことで精一杯だった。

 玲奈のフリをしていることが知られないように、周りの人に気を遣う余裕がなかった。それに、中学のときに諦めていた初恋相手の楓くんから気持ちを伝えられるなんて思ってもいなかったから。



 「あ、あの、返事……だよね。えっと」

 「え、聞かせてくれんの?」

 「えっと、だから、その」

 「ぷっ!アッハハ!冗談だよ、そんなに焦んないでいいよ」

 私が挙動不審になって焦っている様子をお腹を抱えながら笑う楓くんを見て、気張っていた力が少しずつ抜けていく。

 『なんだ、やめてよもう』と安堵する私とは正反対に、彼は未だにケラケラと笑い続けた。



 「いやいや、本当は今すぐにだって仁花から返事をもらいたいに決まってるよ。でもさ、仁花はもう『自由』だもんね」

 「え?私が、自由?」

 「そうだよ。だから今はまだ、俺に縛られてちゃダメなんだよ」

 楓くんのその言葉に、私はまた一つ気付かされた。

 そうか、今の私はもう『自由』なんだ。誰のフリをしなくてもいい、本来の自分の名前で、好きなことができる。

 でも、いったい何をすればいいんだろう。


 『仁花』に戻ったらやりたいことリストを作っていた。

 たくさんの美術館に行ってみたい、うんと絵を描いてみたい。勉強もやり直したいし、陶芸にチャレンジもしてみたい。そんないろんなことを思い描いていたはずなのに、今は何をすればいいのかまったく思いつかない。



 「俺ね、今の日本の高校を卒業したら、また海外に戻ってあっちの大学に行くことになってるんだけど」

 それは突然の知らせだった。

 予想もしていなかった、再び楓くんとのお別れを告げられるものだった。




 「え?楓くん、またカナダに戻っちゃうの?」

 「……うん」

 「そんなっ」

 やっと再会できたばかりなのに?五年間も離れ離れだったのに?

 楓くんとはこれからもずっと、こうして隣にいられるものだとばかり思っていた。





 「いつ、向こうに行っちゃうの?」

 「親の仕事の都合もあって、卒業式が終わったらすぐ……かな」

 「そう、なんだ」

 卒業式を終えてすぐということは、一緒にいられる時間はあと半年くらいのものだろうか。頭の中でそういう計算はすぐにできてしまうのに、私にはこの心の奥底から込み上げてくる寂しさというものにどう対応していいのか分からない。

 行ってほしくない。でも、そんなこと言えない。私にはそんなことをいう資格なんてない。




 「でね、ずっと仁花に言いたかったんだけど。仁花も一緒に来ない?」

 「え?私も、一緒に?……海外に?」

 「仁花、昔からいろんな国に行っていろんな風景を描いてみたいって言ってたの覚えてる?あと海外の美術館にも行ってみたいって」

 「うん。いつか行けたらいいなぁとは思ってた、けど」

 「だからさ、仁花もおいでよ」
 
 「で、でも」

 「今までずっと『仁花(自分)』を押し殺してきたんだから。もう思う存分自由でいいんだよ」

 「……っ」

 「海外の風景って日本とは全然違うから、そこで好きな絵を描いてもいいし、英語の勉強をしながらバイトして、仁花が食べたいものを買って、描きたい絵を描いて、行きたい美術館にいけばいいんだよ。高卒認定を取って、どこかの国の大学で学び直すのだってありだと思う」

 『俺より何倍も頭がいい仁花なら余裕だよね』と付け加えながら楓くんが話してくれる、私のたくさんの未来の道に、これまでで一番心が躍った。ワクワクした。

 『仁花』でいる、と決心はしたけれど、今後のことで私はずっと悩んでいた。

 私は高校も中退したことになっていて、これから編入するなんて希望がないに等しかった。ましてや器用な人間でもないから、きっとこんな私を受け入れてくれる会社も少ないはずだと思っていた。

 玲奈としてじゃない、これからの『私』の人生はどうなってしまうのだろうと不安のほうが大きかった。




 「とにかく仁花はもう自由なんだよ。どこへだって行ける」

 「……っ!」

 「言ったでしょ?仁花はこれからどんどん幸せにならなくちゃいけないって。だから今は仁花がしたいことを、全部やっていこうよ。俺は仁花のその幸せの、一部になれたら嬉しい」

 「楓、くん」

 「その手始めに、まずは俺と一緒に“幸せ”に触れてみない?」

 「……っ」

 そう言って、楓くんは私の頭を二度撫でてくれた。

 ずっと心の中にあった霧が、一気に晴れていくのが分かった。





 「──行きたい。私、いろんなこと……やってみたい」

 そうか、私は自由なんだ。

 必ずしも日本にいなくちゃいけないわけじゃない。やりたかったこと、頑張ってみたいこと、全部、叶えていってもいいんだ。

 「うん、じゃあ約束ね」

 「うん、約束!」




 その日の夜は、夏の暑さが少しだけ和らいでいて、きれいに星が光る夜空を一人で見上げた。

 「星ってこんなにきれいだったっけ」

 少し前までの私には、こんなふうにベランダに出て空を見上げるだけの心の余裕はなかった。

 そんな星たちを見ながら、楓くんがくれたたくさんの私の未来の話を思い出していた。頭の中で想像するだけで楽しくてたまらない。


 これまで海を渡ったことは一度もなかった。だからお父さんが各地を回ってきた土産話を聞くのが昔から好きだった。




 「(……そうだ、あのとき)」

 そのとき、ふとお父さんとのとある会話を思い出した。



 “これは提案なんだけどな、仁花。高校を卒業したらお父さんと一緒に海外に行ってみないか?”

 この時期に玲奈でいることをやめた今、高校を卒業することはできないけれど、お父さんと一緒に海を渡ることはできるかもしれない。

 私は勢いよくスマホをスマホを取りに部屋へ戻って、そしてお父さんに電話をかけようとしたところで……その手に待ったをかけた。



 ふと頭をよぎったのは、お母さんの顔だった。

 もしもお父さんと一緒に海外へ行ってしまったら、お母さんはどうなってしまうんだろう。今も精神的に不安定で入院を余儀なくされているお母さんを、一人日本に残してはおけない。

 それに加えて、未だに玲奈の私を受け入れられていないお母さんが、例え退院したとしても、このアパートに玲奈がいないと知ったら、きっとまたおかしくなってしまうに違いない。

 明日はお母さんがいる病院に荷物を届けに行くことになっている。そのときは仁花として生きていくことを伝えようと思っていたけれど、そのせいでまた不安定になってしまったらどうしよう。



 「……っ」

 やっぱり不安はどこまでも底なしだ。

 私はそっとベランダの扉をしめて、誰もいない家で一人眠りについた。




*****


 「お母さん、頼まれてた荷物持ってきたよ」

 「あぁ、ありがとう。『玲奈』ちゃん」

 「……」

 弾むような明るい挨拶を返してくれたお母さんに、『玲奈』と呼ばれて思わず俯いていた顔を上げた。一般病棟に移ったお母さんは、顔色もよくて、順調に回復しているかのように思えた。

 お医者さんもこの調子であればもうすぐ退院できると教えてくれた。

 ……もしかしたら、この勢いでお母さんに打ち明けられるかもしれない。



 「あのね、お母さん」

 そんなことを思ったのが、間違いだった。



 「……あなたは『玲奈』ちゃん、よね?」

 「え?」

 「私の目の前にいるのは、『玲奈』ちゃんだよね?」

 もう玲奈のフリをしていないことを悟られたのだろうか。お母さんはこれまで『玲奈()』に見せていた表情とは打って変わって、まるで先手を打つかのようにそう言って鋭い視線をこちらに向けた。

 その目を見た瞬間、怒りと悲しみ、これまでの不満やわだかまりが一気に込み上げた。



 「なん、で?」

 玲奈を失って、悲しいのは分かるよ?寂しい気持ちだってもちろん理解できる。だけど、みんないつかはそれらを乗り越えていかなくちゃいけないんだよ?

 私だって悲しかったよ。今だって、ふと玲奈の笑顔やこれまでの玲奈の言葉や表情が蘇ってきては泣きそうになるときだってある。それはきっとお父さんだって同じ気持ちだと思う。


 だけど、それでも私たちは生きていかなくちゃいけない。

 玲奈の分まで幸せにならなくちゃって、楓くんが教えてくれたんだ。

 なのに、どうしてお母さんはいつまで経ってもあの日から抜け出せずにいるの?いったいいつまでそうやって泣いていれば乗り越えられるの?



 「……お母さん、私、『玲奈』じゃないよ」

 玲奈を失って、お母さんもつらかったよね。家族がバラバラになったとき、一番に玲奈の手を取るくらいに好きだったもんね。

 でもそれは私だって同じなんだよ?だけどお母さんはそんな私になにをした?

 私を『玲奈』だと言い張って、現実逃避をしたよね。事故で亡くなったのは『仁花』のほうだって、みんなに言って回ったよね。


 『仁花()』の人生をめちゃくちゃにした、だなんて言わない。それまでの私の人生は、取るに足らないような変わり映えのしないものだったから。

 むしろ『玲奈』としての人生を経験したこの一年間は、本当にいろんな経験をすることができたから、今はそれを心から玲奈に感謝することだってできている。


 だけどお母さんは、少しずつでも前に進もうとしている『私』に向かって、まだそんなふうに私のことを『玲奈』って呼んで、引き留め続けるつもりなの?

 いったい何をすれば、いつになればお母さんは玲奈の死を乗り越えて前を向いてくれるようになるの?

 私、そのために頑張ったんだよ?一生懸命、お母さんが少しでも安定するよう玲奈になりすました。たった一年のことだったけれど、慣れない家事も、料理も、お母さんの体調のこともぜんぶやってきたんだよ。

 それなのに、どうして……っ!?




 「何言ってるの?あなたは『玲奈』でしょう?」

 「──ちがう!私は玲奈じゃない!私はずっと、仁花なの!」

 「……っ!!」

「私はもう、玲奈のフリはしない!私は仁花!事故に遭ったのは私じゃない!玲奈なんだから!」



 これまでずっと押さえてきた言葉たちが、次々と喉を通って溢れ出てきてしまう。

 ダメだ、これ以上言っちゃダメだ。そう思っていても、もう押さえることができなかった。


 「お母さんは玲奈が事故に遭ったあの日、私を殺したんだよ!?私は生きているのに!お母さんの目の前にいたのに!お母さんは私を玲奈だと言って、仁花を殺したの!!」

 「や、めてっ」

 「自分の母親にそんなこと言われて、私がどんな気持ちだったか想像したことはあるの!?」

 「聞きたく、ない」

 「ずっと私を否定されているみたいで、どれだけ苦しかったのか、私の気持ちを考えてくれたことはある!?」

 「──もう聞きたくない!!」

 ベッドの布団を頭まで被って、お母さんは涙を流しながら耳を塞いで隠れた。

 私も無意識のうちに、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちていく。ポタリ、ポタリと病室の床を弾く涙は、これまでの私のありったけの思いの丈だった。



 「片瀬さん!?いったいなにをしているの!?」

 病室から私の大きな声が聞こえたのか、看護師さん二人が急いでこの場へ駆けつけた。私はすぐにお母さんの元から離されて、お母さんは状況を尋ねている看護師さんを無視して、頑なに布団の中から出てこようとしない。



 「ほら、仁花ちゃん。とりあえず病室か出て落ち着こっか」

 「……はい」

 こんなふうにお母さんに伝えるつもりじゃなかった。でも、もうこれ以我慢ができなかった。

 これでもしもまたお母さんの体調が悪くなってしまったら、どうしよう。怒りに任せて吐き出したあとに生まれてきた感情は『後悔』そのものだった。

 せっかくお母さんの体調が回復していたのに。私の、せいだ──。激しい後悔に襲われながら、看護師さんに付き添われて病室をあとにしようとしたとき。







 「──ごめんね、『仁花』」

 「……!?」

 お母さんのくぐもった声が、私の耳元に届いた。


 慌てて振り向くと、お母さんは布団を被ったまま微かに体を震わせている。でも、今ちゃんと私のことを『仁花』と呼んでくれた。いつぶりに私の本当の名前を呼ばれたんだろう。

 両親が離婚して離れ離れになったときから、私は一度もお母さんに会えずにいた。

 お母さんは何度も『今日こそ会いにきてね』とメッセージを送ってきてくれていたけれど、それでもどうしても、玲奈の手を取って出ていってしまったあの光景が忘れられなかった私には、二人で会うことが怖くてたまらなかった。

 『あなたは要らない子』って面と向かって言われたらどうしようって、そんな不安が拭えずにいた。例えお母さんに会いに行ったとしても、玲奈のことを可愛がる姿なんて見たくなかった。




 「大丈夫?仁花ちゃん?」

 「今、お母さんが私のことを『仁花』って……っ」

 「うん、呼んでたね。多分だけどさ、仁花ちゃんのお母さんも本当は分かってるんじゃないかな。いなくなっちゃったのは玲奈ちゃんのほうだって。でもきっとまだ心が追いついていないだけ。だから、大丈夫だよ仁花ちゃん」


 となりにいた看護師さんにそう言われて、余計に涙は止まらなくなってしまった。

 でも、それはもう悲しいだけの涙じゃなくなっていた。





*****


 「──じゃあ、一緒に行こうか。海外」

 「え、いいの?」

 「もちろんだ、仁花。仁花が本当に望むこと、もうなんでもやっていいんだ」

 見慣れたカフェの店内で、テーブルの上には同じく見慣れたアイスカフェラテと、向かい側にはホットコーヒーが置かれている。

 今日はお父さんと会う日ではなかったけれど、どうしても話したいことがあると連絡を入れると、お父さんは仕事を差し置いてすぐに会う日を設けてくれた。

 そして一緒に海外へ行ってみたいと伝えると、お父さんは快くそれを応諾してくれた。




 「でも、お母さんを一人残してはいけない、よ」

 それが一番の懸念点だった。昨日の私との面会のせいで、お母さんはまた病院のベッドから出られなくなってしまったのだと、一緒にいてくれた看護師さんから連絡があった。

 お母さんが落ち着くまで面会もできなくなってしまったから、きっとまた相当不安定になってしまったのだと思う。



 「それなら大丈夫だ。お父さんも日本と海外を行ったり来たりするから、そのときは母さんの様子を見に行くし、それに普段は母さんの妹家族が面倒を見てくれることになったから」

 「そう、なの?」

 「あぁ、だから心配はいらないよ。仁花」

 それなら少しだけ、安心できるかもしれない。どのみち『仁花』に戻った私がお母さんのそばにいたところで、きっともう以前のように支えてあげることはできない。

 むしろ玲奈と瓜二つの私の姿を見て、余計に悲しませてしまうだけのような気さえするから。




 「だから、仁花。仁花はもう、自分のことだけを考えていたらいいんだよ」

 「え?」

 「玲奈がいなくなってから今まで、本当にお父さんたち大人が不甲斐ないせいで、仁花にはたくさん迷惑をかけてしまったと反省しているんだ。だからお父さんは、これから仁花がやりたいこと、叶えたい夢、その全部を応援させてほしい」

 「別に、そんな……っ」

 「本当にごめんな、仁花」

 俯きながらそう言ったお父さんを見て、思わず泣きそうになるのをどうにかグッと堪えた。最近の私はよく涙を流してしまう。

 お父さんのことを許すだとか、許さないだとか、そんな感情はもうどこにもなかったただ、お父さんがちゃんと『仁花()』と向き合ってくれていることが、何よりも嬉しかった。





 「──仁花ちゃん」

 「え?」

 「はいこれ」

 そんな嬉し涙を堪えていると、横からスッと私たちのテーブルに置かれたのは、このお店の一番人気を誇っているキャロットケーキだった。それを差し出してくれたのは、他でもない……ここ、カフェ『LinLin』の店長と奥さんの志織さんだった。

 玲奈が生前、アルバイトをしていたこのお店。私が玲奈として生きていたときも、週に三回のペースで働きにきていたお世話になったカフェだった。今日はそんな二人に本当のことを話して改めて謝罪をしようと、お店が落ち着く時間帯になるまでお父さんと待っているところだった。



 「あの、今私のことを『仁花』って……」

 「ふふっ、なんとなくだけど分かってたのよ?玲奈ちゃんからよく仁花ちゃんの話は聞いていたしね」

 「!?」

 「何か事情があるのかなって思ってたから、話を切り出してくれるまでは待っていようって二人で話し合っていたんだよ」

 「そう、だったんですか」

 「いろいろ苦労したんだね、仁花ちゃん」

 店長も志織さんも、最後まで『仁花()』にもいい人だった。和佳やみのりに話したことと同じように、玲奈と私のこれまでの経緯を伝えると、二人は玲奈の死をとても悲しんだ。

 そして私にも『これ以上謝らなくていい』『これからは仁花ちゃんの思いのまま楽しく生きてね』と言葉をかけてくれた。

 私はこれまでずっと、自分に優しくしてくれる人なんていないと本気で思っていた。『玲奈』じゃない私には誰も用はない、和佳やみのりのような友達もいなければ、知り合いすらも滅多にいないような狭い世界で生きていた私には、手を差し伸べてくれる人も、優しい声をかけてくれる人もいなかった。

 だけど、今は『玲奈』を通して優しい笑顔と言葉を向けられている。それがこんなにも嬉しいことだと初めて知った。
 



 「またいつでもきてね、仁花ちゃん」

 「仁花ちゃんの大好きなカフェラテ、用意するからね!」

 ずっと『玲奈』として働きにきていたお店を、今は『仁花』として帰っている。

 なんだか少しずつ私が認められているみたいで、心が満たされていくのを染み染みと感じていた。




 「送ってくれてありがとう、お父さん」

 「明後日、お父さんの家に戻ってくるんだったよな?荷物はまた取りに来るから、玄関の近くに寄せておいてくれるか?」

 「うん、分かった」

 「じゃあ、また明後日な」

 「うん、またね」

 すっかりと日も暮れて、蝉の鳴き声も落ち着いていた夕方。

 私はお父さんの車でアパートまで送ってもらって、今日も誰もいない部屋へ入っていく。今ではすっかり聞き慣れた玄関のギギギと鳴る嫌な音を耳で捉えたとき。


 「──仁花ちゃん!」

 「……!?」

 突然ひょいっと現れたのは、私服姿のみのりだった。

 そして、そのとなりには和佳もいる。



 「え?あの、どうしてここに……?」

 予想もしていなかった状況に、思わず手に持っていたアパートの鍵を落とした。だって、もう二人には二度と会えないと思っていたから。

 要件はいったいなんだろう。また何か言われるだろうか。玲奈のこと?それとも私のこと?頭の中はそんな疑問で一気に埋め尽くされていく。



 「仁花ちゃんに質問です!明日はなんの日でしょーか!」

 けれど、そんな私の元へ届いたみのりの声はとびきり明るく跳ね上がっていた。


 「え?あ、明日?えっと、明日、明日はなにか……」

 久しぶりに聞いたみのりの声に、込み上げてくる感情を抑えながらも、彼女の質問に頭をフル回転させて考える。

 けれど、明日がなんの日かさっぱり分からない。和佳とみのりの誕生日はまだ先だし、誰かの記念日でもないはずだ。

 と、なると──。
 そこで思いついたのは、ただ一つ。




 「──あんた、あれだけ練習してきた文化祭の演劇まで放り投げる気?」

 腕を組んで、チラリと横目に私を見ながらそう言ったのは和佳だった。



 「あ、ちょっと和佳!仁花ちゃんに答えてもらう質問横取りしないでくれない!?」

 「きっと忘れてたんだよ、文化祭のことなんて」

 「わ、忘れてないよ。ちゃんと覚えてたよ……」

 「さぁ、どうだか?」

 「ちょっと、もう!和佳ってばやめてよね!」

 和佳とみのりのそんな些細なやり取りでさえ、ずいぶんと懐かしく感じてしまう。でも、私の元へ来てくれた理由が文化祭のことだなんて、学校で何かあったのだろうか。

 私はもう、夏休みが終わってからずっと玲奈の学校には行っていない。お父さんに玲奈のフリをしていたことがバレて学校に通えなくなったと話すと、『お父さんが学校側に説明するから、あとは任せなさい』とだけ言って、そのあとのことは何も聞いていない。

 きっと校長先生にこれまでの経緯を話した上で、きちんと玲奈の名前で除籍してもらったのだと思う。



 「クラスのみんなはまだ何も事情を知らないから、ずっと玲奈のこと心配してるんだよね」

 「え?誰にも言ってないの?」

 「うん。和佳と二人で相談してね?玲奈と仁花ちゃんのことはしばらくの間、黙っておこうって決めたの」

 みのりも和佳も、すでに私がこれまで玲奈のフリをしていたことを説明しているものとばかり思っていた。

 そういえば、私が仁花として生きていくと決めた日から、玲奈のスマホはもうずっと電源を入れていない。あのスマホの中を見てしまうと、きっとまた未練が残ってしまうと思ったから。

 和佳やみのりとのグループトーク、クラスメイトたちとの何気ない会話。どれも私が『仁花』に戻るためには捨てなくてはならないものだった。




 「言うわけないでしょ、混乱させるだけだし。クラスメイト全員が全員、今回のことをすぐに受け入れられるわけじゃないし」

 「和佳ってば、言葉がきついよ!」

 「だから、あの学校ではまだあんたは『玲奈』なの。これまで一年以上も玲奈のフリを続けてきたんだから、最後はきれいに玲奈としてケジメをつけるべきじゃないの?」

 「……!」

 和佳のその声は、私に対する怒りでも、嫌悪でもなかった。

 それは彼女が最後まで『玲奈』のことを思って言っている言葉なのだとすぐに理解できた。




 「あのね!前も言ったと思うんだけど、玲奈ってこの文化祭に本気でかけてたの!一年のときからずっと『三年の文化祭の大舞台は絶対主役を勝ち取って成功させてみせる』って言ってて。だからせめて、この演劇に『玲奈』として出てもらえないかなっていうお願いをね、今日は仁花ちゃんにしに来たの」

 少し気まずそうにキュッとくちびるを締めながら私の様子を伺うみのり。
 
 それは和佳とみのりがはじめて『私』に何かを打ったえかけるものだった。『玲奈』のために、『仁花』自身にお願いをしに来たんだ。



 「で、でも私、もう学校にはいけないかもしれない。お父さんがきっとこれまでのことを学校に説明してるはずだから」

 「あ、それなら大丈夫!私たち、校長先生にちゃんと事情は説明して納得してもらえたから!」

 「え?」

 「でも説得するのに時間がかかっちゃってね!だから仁花ちゃんに言いにくるのも、文化祭の前日になっちゃったの!」

 「そう、なんだ」

 「最後は和佳がゴリ押しでさ!外部から一人演劇の助手を手配するっていう形でオッケーを出してもらえたの!」

「別にあんたのためじゃないんだからね」

 「(私がもう一度、『玲奈』として……あの学校に?)」

 二人がこうしてわざわざ私にお願いをしに来てくれたのだから、できることなら引き受けてあげたい。なにより玲奈が一番楽しみにしていたという文化祭の舞台を完成させてあげたいとも強く思う。

 けれど、私はもう何日も役の練習をしてきていない。セリフは頭の中に入ってはいるけれど、大きな舞台に立って主役を張れるほどの準備ができていない。



 「……役を演じられない、なんて言わないでよね」

 どうしよう、どうしたらいいだろうと悶々と考えていたとき、まるで私の心の中を見透かしたように和佳の声が飛んだ。



 「あれだけ完璧に玲奈を演じてきておいて、演劇の役を演じることができないとは言わせないから」

 「……っ」

 「どうかな、仁花ちゃん。もう一度だけ、『玲奈』として舞台に上がってくれないかな?」

 「──っ」

 玲奈がずっと、楽しみにしていたという舞台。

 ……ねぇ、玲奈。
 私、最後にもう一度だけ玲奈になってみてもいいかな?

きっと玲奈のように、うまく役に入り込んで演じることはできないと思うけど。でも、『玲奈』としての最後をきれいに締めくくってくることくらいはできると思うから。

 玲奈は今までいろんな話をしてくれたよね。

 いったいどこからそんなにもネタが出てくるんだと不思議に思っていたけど、実際に私が『玲奈』になってみて、その理由が分かったような気がするよ。

 私は今まで、ほとんど人に話せるような面白い話題も、楽しいネタもなかったけど、もしもまた、玲奈と再会することができたら、そのときはうんと盛り上がれるような話ができるように準備しておくね。



 だから──。

 「分かった、出るよ。演劇」
 どうか、私のことを見守っていてね。玲奈。





*****

 久しぶりに袖を通した、玲奈の制服。淡いブルーのワイシャツに、濃いネイビーブルーの制服。襟に巻く真っ赤なリボンが特徴的な制服は、今日は少しだけ私に馴染んでくれているような気がする。


 「──玲奈ぁ!今まで何やってたの!?」

 「ウチらがどれだけ心配したと思ってんの!?」

 「来てくれて本当によかった!本番、いけそう!?」

 文化祭当日。

 久しぶりの、クラスメイトの顔ぶれを見ただけで涙がこぼれ落ちそうになった。

 みんなはすでに崩壊寸前の多忙を極めていて、忙しなくバタバタしている中でも、決して止むことのない『玲奈』を心配する声に、私は大きく頷いた。



 「よっし!演劇部隊、体育館に行くよ!みんな準備してね!」

 今回三年二組の演劇総監督になっている笹原さんの掛け声で、演者や照明担当、道具係になっている人たちが一斉に教室をあとにする。

 その掛け声に、私の緊張や不安はより一層濃くなっていく。



 「うわぁ、私は出演しないのにドキドキしてきた!頑張ってね、仁花ちゃん!」

 「ちょっとみのり?名前、『玲奈』でしょ?」

 「あ、そうだった!ごめん!」

 三年の劇が一組から順番にはじまっている頃。舞台裏では次の出番を待つ私たちのクラスが忙しく準備に努めている。

 いつの間にか用意されていた衣装を着終えて、ファッション科の人たちにヘアメイクもしてもらった私は、あとは本番を待つのみ。舞台袖から観客席をこっそり覗くと、予想以上にたくさんの人たちで賑わっていた。



 「す、すごい人。演劇ってこんなに人気なんだ」

 「うちの学校の文化祭は昔から有名だし、特に三年の演目はすごく注目されちゃうんだよね。文化祭ウィーク期間はいろんな人が取材にもくるよ」

 「そんなことよりあんた、セリフはちゃんと覚えているんでしょうね」

 「うん、大丈夫だよ」

 和佳の問いかけに、小さく息を吐いて目を瞑った。本当は緊張と不安に襲われ続けている私は全然大丈夫ではないけれど、みのりと和佳がずっとそばにいてくれているおかげで、なんとか持ち堪えられそうだ。

 夏休み、毎日のように和佳とみのりの三人で練習していたあの頃を思い出した。『玲奈』として生きることに不安を抱えながらも、それに勝るほど楽しかった……あの日々。密かに思い出して、小さく微笑んだ。

 いつか、私と玲奈の入れ替わりのことはクラスメイトにも伝わるだろう。時期を見て和佳とみのりが話せるタイミングで話すと言っていたから。

 だから、これは私が吐く最後の嘘──。『玲奈』として生きる、最後の日。



 「もうすぐ一組の劇終わるよ!そろそろあたしたちの出番だからね!」

 笹原さんの呼びかけに、みんなは一斉にざわつき始めた。私も同じようについて行こうとしたとき、ポケットに入れたままだったスマホがバイブした。画面を確認すると、そこには楓くんから一件のメッセージが入っていた。


 「(楓くん?どうしたんだろう)」

 集団から抜けてひっそりとメッセージを確認する。

 《楓:今日、文化祭の演劇頑張ってね。俺も実はどこかで見てるカモ…?》

 「え!?」

 「うん?片瀬さん、どうかした?」

 「あ、いや、なにも……」

 楓くんがきている……?だけど今日は平日で、他の学校の人たちは普通に授業があるはずだ。それに文化祭が一般公開されるのは文化祭ウィークの後半だけだと聞いていた。この演劇は卒業生や関係者、それから保護者だけが見られると先生が言っていたのに。



 「(いったいどうやって来たんだろう)」

 「片瀬さん!早くこっち来て!最終確認するから!」

 「あ、うん!」

 慌ててスマホをカバンの中にしまって、劇に集中する。


 玲奈、見ててね。

 玲奈のために、私、頑張るから──。




 真っ暗な舞台に立って、幕が上がるのを待った。不思議と緊張や不安はもうなくて、頭の中はこれまで『玲奈』として過ごして来た一年間の思い出だった。

 最初はまったく分からなかった、玲奈が取っていた専門科目の勉強。

 和佳とみのりに対する接し方にも戸惑って、手探りの毎日だった。

 玲奈はみんなと仲が良かったから、クラスメイトの名前を全員覚えて、喋り方や動作の一つ一つに気が抜けなかった。玲奈が使っていたメイク道具で、それまでやったことのなかった化粧というものに、何度戸惑って家で練習し続けただろう。

 自分がいたころの学校とは正反対で、親睦会に球技大会、マラソン大会に百人一首大会、ことあるごとに『大会』と名をつけて学校全体で盛り上がる行事の多さに戸惑いながらも、それでも少しずつ時間が経つにつれて楽しいと思えるようになっていた。



 きっと、私の人生で一生忘れることのできない一年になることは間違いない。

 ありがとう、玲奈。
 私にこんな時間を与えてくれて。


 玲奈、聞こえてるかな。

 私、幸せになってみせるよ。
 玲奈の分まで、ちゃんと幸せになるからね。



 これまでの思い出を一つずつ思い出し終えたときには、大きな拍手に包まれながらゆっくりと幕が下ろされていた。

 他の演者たちと手を繋いで、この大きな舞台の真ん中で深々とお辞儀をしながら、私は一つでは意味付けできない涙を流していた。






*****



 「──お疲れ、仁花。めちゃくちゃ良かったよ!俺ちょっと感動したんだけど」

 「楓くん!いったいどうやって来たの!?」

 どうにか最後まで舞台をやり切った私は、クラスメイトたちとその喜びと達成感を存分に味わった。そして着替えや準備を終わらせて、今は他のクラスの演劇を鑑賞している。

 けれどそのあと再び楓くんから『ちょっとだけ会えない?』とメッセージが届いていたから、私は誰もいない昇降口の付近で彼と待ち合わせをすることにした。



 「実は仁花のお父さんにお願いして、同伴させてもらったんだよね。保護者の同伴なら入場を認めてもらえるらしくて」

 「そ、そうだったんだ。確かお父さんは今日観に来るって言ってたから……って、楓くんって私のお父さんと結構仲良いよね。よく話してるみたいだし」

 「まぁね。こっちは好きな子の晴れ舞台を見ようと必死ですから」

 「……っ!」

 堂々と私に向けてそう言った楓くんに、ドキッとせずにはいられない。赤くなっているであろう顔を隠すように、グッと下を向いて視線を逸らした。

 楓くんから告白されて、驚いたけれどすごく嬉しかった。返事はまだいらないと言われているけれど、本当にそれでいいのだろうかとずっと考えていた。こんな状態のまま、それでも変わらず私に優しく接してくれる彼に申し訳ないとさえ思っている。



 「……いいんだよ、仁花。このままで」

 「え?」

 ときどき、彼はエスパーか何かじゃないだろうかと疑ってしまうときがある。それくらい楓くんはいつも私が欲していた言葉やずっと探していた言葉を差し出してくれる。

 そんな彼に、いったいどれだけ救われてきただろう。



 「告白の返事、したほうがいいんじゃないかって思ってるでしょ?」

 「ど、どうして分かるの?」

 「ふっ、仁花は思ったことが全部顔に出ちゃうんだよ。かわいいね」

 「なっ、ちょっ、やめてよ!かわいくないから……っ」

 突拍子もないことを突然言い出す楓くんに、慌てて止めに入った。そんな私を見て彼はまたお腹を抱えながら笑う。

 私と接する時間が増えるにつれて、楓くんはどんどん私に甘くなっているような気がする。こんなふうに真っ直ぐすぎるくらいの言葉を向けてくるのは、海外生活が長かったせいなのかな。



 「中学のときさ、海外行きが決まって仁花と離れるとき、好きだって言えなかったことをずっと後悔してたんだよね」

 「え?」

 「あのときは恥ずかしさとか、もしも振られたら嫌われたまま一生会えなくなるんじゃないか、とか、そんなことばっかり頭をよぎらせていて、それならいっそ友達として離れたほうが無難でいいやって思っちゃってて」

 私が楓くんのことを嫌うなんてありえないよ。

 でも、当時の私は今より何倍も人見知りを拗らせていて、友達がいないことや玲奈に対しての嫉妬心で心が埋め尽くされていたから、きっと楓くんの告白にも素直に頷けなかったかもしれない。

 玲奈のほうが仲がいいのに?って。他にもたくさん女の子がいるのに、もしかして私のことを揶揄っているの?って。そんなふうに卑屈な捉え方しかできなかったかもしれない。

 


 「それからはずっと俺の中に後悔だけが残ってた。もしもあのとき仁花にちゃんと気持ちを伝えていたら、そのあとに起こる玲奈の一件のことも、もしかしたら俺に相談することだってできてたんじゃないのか、とかね」

 「……」

 「俺はもうそんな後悔はしたくない。だから思ったことはなんでも伝えるようにしてんの」

 「そう、なんだ」

 どんなことでも器用でそつなくこなしていく楓くんにも、そんな後悔があるなんて知らなかった。きっとどんな人にだって、後悔や、つらいことや、不安なこと、誰にも言えないことはあって、それを乗り越えるために日々努力している。

 私が演じたヒナコという役も、記憶を失ってどうすることもできない境遇の中で、過去に囚われず上を向いて生きていくことを決意した。そう決意するまでにはたくさんの困難や苦しい出来事があって、心が折れてしまいそうなシーンもあった。

 それでもヒナコは、周りの人たちに支えられながらどうにか立ち直ったんだ。



 「(だから私、ずっとこの役に魅せられてたんだ)」

 共感、というよりは羨ましかったのかもしれない。

 ヒナコがちゃんと未来に向かって走り出せたことが、羨ましかったんだ。



 「だから仁花も、ここから先の人生はなるべく後悔しないように、自分の心に素直に従ってほしい」

 「……うん」

 「もう、仁花の人生はきみだけのものなんだからね」

 まるで私に言い聞かせるようにそう言いながら、楓くんはまた私の頭をポンポンと二度撫でた。



 「おーい、そこにいるのは誰だぁ?今日は他校の生徒は入場禁止だぞ?」

 そのとき、タイミング悪くこの場を通りかかった先生の注意が飛んでくる。

 私と楓くんは同じように肩をビクつかせて、慌てて階段を降りてその場をあとにした。



 「やっば!俺帰るね、仁花!」

 「あ、う、うん!観に来てくれてありがとう、楓くん!」

 下駄箱まで猛ダッシュで降りて来た私たちは、そのまま嵐のようにお別れを告げる。

 なんだかその姿が妙におかしくて、私たちは気が抜けたように笑い合った。


 「もうこれで、『玲奈』を演じるのも終わりだね。仁花」

 「……うん」

 「寂しい?」

 「うん、少しね。でも、もう大丈夫」

 私は私でいることにしたから。

 玲奈のように器用には生きられなくても、後悔のない人生を送ると決めたから。




 「──今までお疲れ、仁花」

 楓くんは最後にそう言葉を残して、手を振りながら走って校舎を去っていった。


 「……お疲れ、私」



*****


 「もう帰っちゃうの、仁花ちゃん?」

 「あ、うん。私、明後日にはお父さんと一緒に海外に行くことになってるから、その準備をしなくちゃいけなくて」

 三年生のすべての演劇を鑑賞し終えたクラスメイトは、それから各自、明日の日程に向けて準備をしていた。

 私は楓くんと別れてすぐ、誰もいない教室へ戻って帰り支度をはじめていると、あとから和佳とみのりがやって来て声をかけてくれた。



 「そっかぁ。じゃあ演劇の順位発表のときはもういないんだね」

 「そうだね。順位は少し気になるけど、でも無事にやり切れたから私はそれで満足だよ」

 演劇の順位発表は文化祭ウィークの最終日に行われることになっている。だから結果を知ることはできないけれど、私の中で順位はあまり関係なかった。

 クラスメイトが、和佳とみのりが、そして玲奈が喜んでくれたらそれだけでもう十分だった。




 「海外かぁ!いいなぁ、どこの国に行くの?」

 「えっと、まずはオーストラリア、だったかな。そのあとヨーロッパのほうにも行くって言ってたような」

 「え、すごいね!羨ましい!!私も行ってみたいんだよねー!また三人でどこかの国でご飯食べようね!」

 「……っ」

 みのりの何気ない発言に、心臓が大きく跳ね上がった。

 また、三人で……?玲奈じゃない、私と?例えそれがみのりの気遣いの言葉だったとしても、私にとってはまた泣いてしまいそうになるくらい嬉しい言葉だった。



 「うん、そう……だね」

 「ところでさ。『仁花』ってパスポート取れんの?」

 「え?あの、今名前……」

 「そんなところ反応しないでよ、恥ずかしいヤツ。ただみのりに言われただけだから、あんた呼びは可哀想だって」

 和佳がはじめて私の名前を呼んでくれた。

 どうやら二人は確実に私を泣かせにきているらしい。



 「だって仁花って世間から死んだことになってるんでしょ?」

 「ちょっと和佳!?言い方ってものがあるでしょ!?」

 「だ、大丈夫だよ。えっとね、お父さんがあの報道をみたあとに警察とかお医者さんに申告してくれてたみたいで……。でもニュースや新聞はいちいち訂正の記事を書いてはくれなかったらしいんだけど」

 和佳は私のことを絶対に許さないと言っていた。私もそう言われて当然のことをしたから、和佳とこうして普通に会話ができている今が、なんだか奇跡のように思えて仕方ない。

 みのりと一緒に今もそばにいてくれるということは、少しは喜んでもいいのだろうか。



 「……じゃあ、私もう行くね」

 「あ、もう行っちゃうの!?また絶対会おうね!連絡もするからね!」

 「うん、ありがとう。みのり」

 大袈裟に大きく手を振ってくれるみのりと、それを呆れたように見る和佳。彼女たちにまた会えることがあったとしても、それはきっと何年も先のことになるだろう。

 胸が張り裂けそうなくらい、寂しくて仕方ない。私たちは決して普通の友達ではないけれど、それでも私は、和佳とみのりのことを何よりも大切な存在だと思っている。離れていても、それはずっと変わらない。

 だから最後にこうして一緒に話せて本当によかった。最後のお別れも言えないまま縁が切れなくて、本当によかった。

 私は荷物を持って、教室をあとにする。

 この学校とも、本当に今日でお別れだ。

 ここを卒業するとき、私はどんな未来を歩んでいるんだろうといつも思っていた。あのときは明るい未来なんて一つも想像できなくて、自分の将来さえお父さんに尋ねなければならないほどだった。

 けれど、卒業はできなかったけれどこうしてこんなにも明るい気持ちでこの学校を離れることができるだなんて、いったい誰が想像できただろう。


 「──仁花ぁ!」

 「え?……和佳?」

 「仁花が教えてくれた塾、あたし今通ってるから!」

 「!?」

 突然うしろから聞こえた、和佳の大きな声。

 振り向くと、和佳もみのりはなぜか涙を流していた。



 「あんたが教えてくれた勉強法も、全部実践してるから!」

 「……和佳っ」

 「あたし、大学に入ったらオーストラリアに留学するつもりだから、そのときは案内してよね!」

 「う、うん!もちろん!」

 「じゃあ、またね!!」

 こんなに嬉しいことがあっていいのだろうか。今、私は心から幸せだと断言できる。

 『玲奈』じゃない『私』とは友達になれないとばかり思っていた。実際にまだ、友達と呼べるには烏滸がましいかもしれない。でも、こうして『またね』と言って次に繋げてくれるその言葉は、私の未来を輝かせてくれる。

 二人に釣られて、私も同じように手を振った。その分だけ、ここを去るのが名残惜しくてたまらなかった。

 この学校を出たら、私は『仁花』に戻る。
 そしてもう二度と、『玲奈』と名前を呼ばれることはないだろう。

 でも、それでいい。それが正解だから。

 ローファーに履き替えて、学校を出た。
 それと同時に、私は『玲奈』としての人生を終えた──。






*****



 「お疲れさま、仁花」

 「ただいま、お父さんと……え?お母さん?」

 学校を出てすぐ、お父さんが車で待ってくれている場所まで向かうと、そこにはお父さんの他に、車椅子に乗っているお母さんがいた。状況がまったく分からない私に、お父さんは説明を続ける。



 「母さんがな、仁花の舞台を見たいって連絡をくれて一緒にみようってなったんだ」

 「どうして、舞台のことを?」

 「お父さんが誘ったんだ。玲奈が楽しみにしていた舞台を、代わりに仁花が出てくれるぞって。そしたら見に行きたいっていうから、病院の許可をとって一緒にきたんだ」

 あの舞台の観客席にお母さんもいただなんて知らなかった。たまにアパートで一人小声でセリフの練習をしたり演劇の勉強をしたりしていたけれど、お母さんがそれに興味を示すことは一度もなかった。



 「上手だったね、仁花」

 「……!」

 「それから、ずっと玲奈のフリをさせてしまって……ごめんなさい」

 「お母さん……」

 「お母さんね、すごく心が弱いから……玲奈がいなくなったことを、受け入れられなかったの」

 お母さんが『私』と二人で会話をするのは、もう何年ぶりだろう。

 もう平気なのだろうか。お母さんが抱えていた心の病は、もう治ったの?



 「(そんなわけ、ないよね。今だってお母さんの顔、真っ青だし)」

 お父さんは何かを察したように、そっとその場から去っていく。

 お母さんと二人きりなるのは、なんだか少し緊張した。



 「玲奈ちゃんがいなくなって、一人になるのが耐えられなかった。寂しさとか、喪失感とか、どうやって気持ちを整理すればいいのか分からなくなっちゃったの」
 「……うん」

 「するとだんだんね、仁花が玲奈ちゃんに見えてきたの。仁花を見るたびに、玲奈ちゃんがいるんだって安心できて、そのときだけは苦しまずに済んだの。でも、そのせいで仁花を傷つけてしまったよね」

 車椅子に乗ったお母さんは、どんどん俯いていく。これ以上無理をさせるわけにはいかないと、『もう何も言わなくていいよ』と声をかけたけれど、お母さんは首を振って言葉を続けた。



 「ごめんね、仁花。本当に、ごめんなさいっ」

 「私のほうこそ、ごめんね。ちゃんと玲奈の真似ができなくて。玲奈になりきれなくて」

 「違うのよ、仁花」

 「あの日事故に遭ったのが私じゃなくて、ごめん。あの日はたまたま玲奈と“入れ替えっこ”っていう遊びをしちゃったせいで、お母さんの大好きな玲奈を失うことになって、本当にごめんなさい」

 「──違うのよ、仁花!」

 「何も違わないよ!お母さんは私より玲奈のほうが好きだった。それだけのことだよ。別に隠さなくても私は平気。だから嘘はつかないでよ」

 私のことも同じように好きだというなら、どうして家を出ていくことが決まったあの日、一番に玲奈の手を取ったの?

 私だって一緒に行こうと言ってくれたらよかったじゃない。



 「違うの、仁花。お父さんと離婚するときに、子供は一人ずつ面倒を見ましょうって協議したの。お母さんが玲奈ちゃんをつれていくことにしたのは……あの子がお母さんにそっくりだったから」

 「え?」

 「玲奈はわたしの性格とそっくりだったでしょ?感情の起伏が激しくて、思ったことはなんでもやってみなくちゃ気が済まなくて、ケラケラ笑うときもあれば、怒ると手がつけられなくなるときもある。昔のお母さんとそっくりだったの」

 そうだ。確かに玲奈は一度怒ると徹底的に相手を問い詰めるところがあった。

 私が小学三年のとき、私のことを「玲奈のそっくりさん」と言って揶揄ってきた男子のことを思い切り蹴飛ばして大問題になったことがあった。そのほかにも玲奈は負けず嫌いで、楓くんともいつも勝負をし合っていた。



 「だから、あの子のことはお母さんが守ってあげなくちゃって思っていたの。その点、仁花はお父さんに似ていつも冷静で、お勉強ができて、芸術性のある頭のいい子だったから、お父さんと一緒にいたほうが絶対にいいって、思ったの」

 「……」

 「絶対に仁花を嫌いだったからつれて行かなかったんじゃないの」

 「……っ」

 「ごめんね、ずっと言えなくて」

 「……!」

 「ごめんね、こんな弱い母親で」

 「おかあ、さんっ」

 心の中にあったもうひとつの大きなわだかまりが、少しずつ溶けていくのが分かった。もしかしたら私は、もっとお母さんとの時間を作るべきだったのかもしれない。

 ずっと、お母さんには愛されていないと思っていた。お母さんには玲奈さえいればいいんだって、ずっとそう思っていた。

 でも、違ったんだ───。
 私、ちゃんとお母さんに認められていたんだ。



 「お母さんはもう一人で大丈夫だから。これからは仁花のやりたいことを思う存分やってね」

 「──お母さんは一人じゃないよっ。私だって、お母さんの子供だよ?私がいるじゃん」

 「仁花……っ」

 「お母さんは一人じゃない!私がいる!だから、だから……っ」

 もう泣かないでよ、お母さん。

 玲奈はいなくなってしまったかもしれないけれど、私はまだこうしてお母さんの目の前にいる。私がこれからどこにいても、私のお母さんはこの世でたった一人しかいないんだから。

 正直、お母さんのことなんて大嫌いだと思うこともたくさんあった。私のことを『玲奈』と呼ばれるたびに、小さな『嫌い』がたくさん積み重なっていた。

 でも、不思議だ。

時間にすればたった数分のこの会話で、すべて許せてしまった。きっとそれは、私とお母さんが『家族』だからだよ。

 だからこれからは、もっとお母さんとの絆を深めていきたい。別に直接話すだけじゃない。どこにいても手紙を書こう。行った先々で、お母さんが喜びそうなお土産を送るよ。私たちにはそういう時間が必要だと思った。



 「ありがとう、仁花」

 「……ううん」

 「体には、気をつけてね」

 お母さんを病院へ送って、そのままお父さんと家に帰った。一年ぶりの本当の私の部屋は、なんだかとても殺風景に思えた。

 きっと玲奈の部屋を見て来たせいだろう。ベッドと勉強机とたくさんの教材と絵を描く画材。クローゼットの中には必要最低限の服だけが七着かけられているだけだった。

 「(そうだ、パッキングしないと)」

 自分の部屋に荷物を置いてベッドの脇に座ると、あらためて私が『仁花』なのだと思い知った。

 玲奈としてお母さんたちが済んでいたアパートに住み始めたころ、予想以上に古びたその建物に嫌悪感を隠せずにはいられなかった。けれど、今はあのアパートが懐かしく思えてしまう。



 「私はもう、仁花だもんね。私は、仁花……」

 太陽が落ちて薄暗くなった部屋で一人、何度も自分の名前を呼び続けた。

 明日、私は日本を離れる。海外では『私』を知る人なんてきっと一人もいないし、玲奈のことを知る人もいない。

 もちろん和佳やみのりもいなければ、楓くんもいない。頼れる人はお父さんだけになる。ゼロからはじまる、新しい生活。いくらお父さんが一緒にいてくれるとはいえ、それでも怖くないと言えば嘘になる。

 私の新たな人生のはじまりなのに、今はまだ実感が湧かないのか、それとも何も知らない土地に行くのが怖いのか。気持ちがなかなか上を向いてくれない。

 明日は早起きして空港に行かなければならない。私は無心になって大きな旅行バッグの中に必要なものを詰めていった。

 大丈夫だよね、私──。