【迷うことないよ】
もう、可憐との生活が三週間経とうとしていた。
僕はあれから毎日立体折り紙を折って、可憐にプレゼントするようになったら、可憐もその日を境に毎日、中庭の中央にある白いグランドピアノに僕を連れて行ってくれるようになった。このグランドピアノは、たまに来るボランティア演奏してくれる小楽団のステージ用だけど、受付に声をかければ施設内の人は誰でも弾くことが出来る。
「順平、今日は何がいい?」
「どうしようかな。晴れてて気持ちがいいけど、身体検査終わったばっかりで御昼ごはんもこれからだし。僕が知らない曲でもいいから、可憐が一番優しいって感じてる曲がいいかな」
僕は初めてピアノを弾いてくれると言った可憐に「可憐が弾きたいもの」と、相変わらずはぐらかすようなことしか言えなくて、つまんないのって顔した可憐がしっとりと《戦場のメリークリスマス》をジャズ調にアレンジして弾き始めたと思ったら曲の中盤の盛り上がる部分になった途端、中庭のガラスの天井が割れるんじゃないかってくらい激しいくピアノを叩くように弾き、曲が力強くなって、傍で立っているだけで音符の銃弾にあたるかと思うほど驚かされて、それからは曲をリクエストしてみたり抽象的でもなるべく答えるようにすることにした。
「わかった。優しい感じね」
あえて録音はしなかったけど、可憐はピアニストだったのかな?と思うほどピアノが上手だった。少なくとも動画サイトでピアノ弾いてみたの上位に食い込んでくるくらいの技術があると思う。両利きなのも合点がいく。
可憐のピアノの音は、花の香を求める森の蝶々のように施設内の人をたくさん引き寄せた。みんなが可憐のピアノを求めている。昨日なんか廊下で知らない施設の住民っぽい男の人に、明日は何時から聴けるのかな?と訊かれて「彼女の気まぐれなんです。今のところ毎日弾いてくれてるけど、お願いして弾いてもらってるわけじゃないんです」と答えたらとてもがっかりした表情をされた。
けど、たまたまなのか、待ってたのか、昨日話しかけてきたその男の人が僕の視界に入った。聴きたいならもっと近くにくればいいのに、十五メートルは離れたところにある柱に寄りかかるように立っていた。
「可憐、ちょっと待ってて」
「え、トイレ?」
「いや、あの人、可憐のファンみたいなんだ。今日はあの人のリクエストを弾いてもらってもいい?」
「いいけど」
僕は、彼に事情を説明して彼の手をゆっくり引いて歩き、可憐の元へ連れてきた。
彼は三十代後半にみえるけど、背が高く、異常に痩せていてさっき掴んだ彼の手首を自分の手首周りを無意識に比べていた。
彼は体も心も弱っている。施設内にいる希死念慮者に拒食症の人はまずいない。弱った内臓は適合率を98%まで持ってこられないからだ。鬱で希死念慮者として入ってくる人も比較的痩せている人が多い。でも、健康だけど死にたい人がこの施設の希死念慮者に求められているんだと、なんだか改めて実感させられたら、やっぱり死というモノが恐ろしくて仕方がなかった。
可憐は彼をジッと見つめていたけど、彼は可憐から目をそらして鍵盤をボーっと見ていた。
「曲、何か聴きたいものあるの?」
僕の母にはちゃんと敬語だったのに、明らかに年上で初対面の彼に、可憐は敬語を使わなかった。なんというか、子供に話しかけるような優しい口調だ。
「聴きたいんじゃなくて、本当は弾きたいんだ」
「そうなんだ。じゃあ弾けばいいのに」
「二年前から、鍵盤が重くて弾けないんだ。きっと指もブランクで動かない」
それを聞いて僕は驚いた。この施設に入った頃から、ずっとピアノを弾く男の人の入居者がいたことを思い出した。でも、いつのまにかピアノを弾く彼の姿がなくなって、移植が成功して出て行ったか、亡くなったのかどっちだろうって思っていたけど、あの人だ。痩せているけど、面影がある。
僕はもしかしたら凄く余計なことをしたのかもしれない。酷い罪悪感だ。
「いつもジャズだったり、アレンジが多いけど、できたら譜面に近い感じで《レットイットビー》をお願いできるかな?ビートルズの。知ってる?」
「いいけど、メロディーは自分で弾いてみて」
「だから、無理なんだ」
「無理じゃないよ。私、絶対合わせるから。どんなにゆっくりでも。弾きたいなら聴くより絶対楽しい」
可憐は立ち上がって、彼にピアノの椅子を譲った。
彼はゆっくり体を動かし、椅子に座って、細い指を鍵盤に乗せた。
その手の上に可憐が手を乗せると彼は何も言ってないのに「わかった」と彼女は言った。一体何が分かったって言うんだろう。
けど、可憐は信じられないくらいゆっくり前奏を弾き始めた。
そして彼がメロディーを押すようにゆっくり弾いた。可憐の『わかった。』は多分彼がメロディーを弾ける速度だったんだろう。
相変わらず察しがいい。
その演奏は、まるで大人と子供がピアノを一緒に練習しているみたいだった。
「あなたが思うように生きればいい」
弾き終わってすぐに、可憐がそう言った。
「聞きたかったんじゃなくて、弾きたかったんでしょ?得意だったこととか、好きだったことも、いつか思うようにできなくなる時なんて誰だって歳を取ったら必ず来ちゃうからさ。弾くの諦めるんじゃなくて、辞めるの諦めちゃいなよ」
彼は頷くと、自分だけでまたゆっくりと《レットイットビー》を弾き始めた。
「迷うことないよ」そう彼に可憐はつぶやいて、僕の手を引いてピアノから離れた。
確かこの曲は、日本語訳すると、素直に生きたらいいとか、迷うことないよって女の人が言う歌詞だった気がする。
その日の夜、彼が死んでしまうことになるなんて想像もしてなかったけど、次の日の朝亡くなったと知っても僕はあまり驚かなかった。この施設で死んでいく人が今までもいっぱいいたからじゃなくて、なんだか、可憐が彼の手の上に手を乗せて「わかった」と言った時、彼の弾ける速度以上の何かを僕も分かった気がしたからだ。
だから僕は、最後に彼を可憐に出会わせることが出来てよかったと思うことにした。
そうでも思わないと、僕は彼が死んだって事実だけを知るだけで、死に対してもっと恐怖心を持ったはずだ。
今まで友達や隣の部屋の人が亡くなったと聞いては怖がって泣いていたけど、初めて涙が出なかった。
それなのに、可憐は彼が亡くなったと知った途端にボロボロ泣きだして、その日一日中、思い出しては泣くのを繰り返していた。
昨日出会ったばかりの人が亡くなったことを想って、そんなに悲しむことが出来るのに、なんで彼女は希死念慮者なんだろう。僕は可憐を少しずつ理解してきたつもりでいたし、彼女にも僕のことを少しずつ知ってもらっているはずなのに。
もう、可憐との生活が三週間経とうとしていた。
僕はあれから毎日立体折り紙を折って、可憐にプレゼントするようになったら、可憐もその日を境に毎日、中庭の中央にある白いグランドピアノに僕を連れて行ってくれるようになった。このグランドピアノは、たまに来るボランティア演奏してくれる小楽団のステージ用だけど、受付に声をかければ施設内の人は誰でも弾くことが出来る。
「順平、今日は何がいい?」
「どうしようかな。晴れてて気持ちがいいけど、身体検査終わったばっかりで御昼ごはんもこれからだし。僕が知らない曲でもいいから、可憐が一番優しいって感じてる曲がいいかな」
僕は初めてピアノを弾いてくれると言った可憐に「可憐が弾きたいもの」と、相変わらずはぐらかすようなことしか言えなくて、つまんないのって顔した可憐がしっとりと《戦場のメリークリスマス》をジャズ調にアレンジして弾き始めたと思ったら曲の中盤の盛り上がる部分になった途端、中庭のガラスの天井が割れるんじゃないかってくらい激しいくピアノを叩くように弾き、曲が力強くなって、傍で立っているだけで音符の銃弾にあたるかと思うほど驚かされて、それからは曲をリクエストしてみたり抽象的でもなるべく答えるようにすることにした。
「わかった。優しい感じね」
あえて録音はしなかったけど、可憐はピアニストだったのかな?と思うほどピアノが上手だった。少なくとも動画サイトでピアノ弾いてみたの上位に食い込んでくるくらいの技術があると思う。両利きなのも合点がいく。
可憐のピアノの音は、花の香を求める森の蝶々のように施設内の人をたくさん引き寄せた。みんなが可憐のピアノを求めている。昨日なんか廊下で知らない施設の住民っぽい男の人に、明日は何時から聴けるのかな?と訊かれて「彼女の気まぐれなんです。今のところ毎日弾いてくれてるけど、お願いして弾いてもらってるわけじゃないんです」と答えたらとてもがっかりした表情をされた。
けど、たまたまなのか、待ってたのか、昨日話しかけてきたその男の人が僕の視界に入った。聴きたいならもっと近くにくればいいのに、十五メートルは離れたところにある柱に寄りかかるように立っていた。
「可憐、ちょっと待ってて」
「え、トイレ?」
「いや、あの人、可憐のファンみたいなんだ。今日はあの人のリクエストを弾いてもらってもいい?」
「いいけど」
僕は、彼に事情を説明して彼の手をゆっくり引いて歩き、可憐の元へ連れてきた。
彼は三十代後半にみえるけど、背が高く、異常に痩せていてさっき掴んだ彼の手首を自分の手首周りを無意識に比べていた。
彼は体も心も弱っている。施設内にいる希死念慮者に拒食症の人はまずいない。弱った内臓は適合率を98%まで持ってこられないからだ。鬱で希死念慮者として入ってくる人も比較的痩せている人が多い。でも、健康だけど死にたい人がこの施設の希死念慮者に求められているんだと、なんだか改めて実感させられたら、やっぱり死というモノが恐ろしくて仕方がなかった。
可憐は彼をジッと見つめていたけど、彼は可憐から目をそらして鍵盤をボーっと見ていた。
「曲、何か聴きたいものあるの?」
僕の母にはちゃんと敬語だったのに、明らかに年上で初対面の彼に、可憐は敬語を使わなかった。なんというか、子供に話しかけるような優しい口調だ。
「聴きたいんじゃなくて、本当は弾きたいんだ」
「そうなんだ。じゃあ弾けばいいのに」
「二年前から、鍵盤が重くて弾けないんだ。きっと指もブランクで動かない」
それを聞いて僕は驚いた。この施設に入った頃から、ずっとピアノを弾く男の人の入居者がいたことを思い出した。でも、いつのまにかピアノを弾く彼の姿がなくなって、移植が成功して出て行ったか、亡くなったのかどっちだろうって思っていたけど、あの人だ。痩せているけど、面影がある。
僕はもしかしたら凄く余計なことをしたのかもしれない。酷い罪悪感だ。
「いつもジャズだったり、アレンジが多いけど、できたら譜面に近い感じで《レットイットビー》をお願いできるかな?ビートルズの。知ってる?」
「いいけど、メロディーは自分で弾いてみて」
「だから、無理なんだ」
「無理じゃないよ。私、絶対合わせるから。どんなにゆっくりでも。弾きたいなら聴くより絶対楽しい」
可憐は立ち上がって、彼にピアノの椅子を譲った。
彼はゆっくり体を動かし、椅子に座って、細い指を鍵盤に乗せた。
その手の上に可憐が手を乗せると彼は何も言ってないのに「わかった」と彼女は言った。一体何が分かったって言うんだろう。
けど、可憐は信じられないくらいゆっくり前奏を弾き始めた。
そして彼がメロディーを押すようにゆっくり弾いた。可憐の『わかった。』は多分彼がメロディーを弾ける速度だったんだろう。
相変わらず察しがいい。
その演奏は、まるで大人と子供がピアノを一緒に練習しているみたいだった。
「あなたが思うように生きればいい」
弾き終わってすぐに、可憐がそう言った。
「聞きたかったんじゃなくて、弾きたかったんでしょ?得意だったこととか、好きだったことも、いつか思うようにできなくなる時なんて誰だって歳を取ったら必ず来ちゃうからさ。弾くの諦めるんじゃなくて、辞めるの諦めちゃいなよ」
彼は頷くと、自分だけでまたゆっくりと《レットイットビー》を弾き始めた。
「迷うことないよ」そう彼に可憐はつぶやいて、僕の手を引いてピアノから離れた。
確かこの曲は、日本語訳すると、素直に生きたらいいとか、迷うことないよって女の人が言う歌詞だった気がする。
その日の夜、彼が死んでしまうことになるなんて想像もしてなかったけど、次の日の朝亡くなったと知っても僕はあまり驚かなかった。この施設で死んでいく人が今までもいっぱいいたからじゃなくて、なんだか、可憐が彼の手の上に手を乗せて「わかった」と言った時、彼の弾ける速度以上の何かを僕も分かった気がしたからだ。
だから僕は、最後に彼を可憐に出会わせることが出来てよかったと思うことにした。
そうでも思わないと、僕は彼が死んだって事実だけを知るだけで、死に対してもっと恐怖心を持ったはずだ。
今まで友達や隣の部屋の人が亡くなったと聞いては怖がって泣いていたけど、初めて涙が出なかった。
それなのに、可憐は彼が亡くなったと知った途端にボロボロ泣きだして、その日一日中、思い出しては泣くのを繰り返していた。
昨日出会ったばかりの人が亡くなったことを想って、そんなに悲しむことが出来るのに、なんで彼女は希死念慮者なんだろう。僕は可憐を少しずつ理解してきたつもりでいたし、彼女にも僕のことを少しずつ知ってもらっているはずなのに。