【奇跡】

 僕がこんなにも母さんを疑うなんて今までなかったことだった。
 まだ本当に喜んでいいのかわからないけど、興奮が抑えられなかった。
 この希死念慮者待機みたいな隔離型施設に、母は三日に一度は見舞いに来てくれる。父は僕がこんな体だったせいで、母とは随分前に離婚している。だけどココの住居費は父が払ってくれているらしい。
だからこそ僕はなるべく母の前では、元気そうにしていようと頑張っていた時期もあった。だけど、十歳くらいの時に僕は気が付いた。元気そうにしている僕を見ると母には僕が無理をしているように見えるのだという。
だからせめて平然を装うために穏やかな人間になろうとした。実際僕は無理を演じていたのかもしれない。十七歳になって自分って一体どんな人間なのだろうと、することのない、有り余っているようで、短く設定されている僕の人生的には余裕のない、限りある時間を使って考え込むことが増えた。    
僕は本質的にも争い事は好まないし、余計なお節介もやかないけど、怒りは抑え込み、他人に無理して合わせることが多くて、当たり障りのないように穏やかに毎日を過ごしてきた。
だから、忘れかけていた。生きる望みが自分にもちゃんとあったってことを思い出し興奮した。
 先月十七歳になったばかりだけど、気分は十歳若返って、一時しか通えなかったけど、初めてランドセルを背負って小学校に向かった、あの時以来のドキドキを背負い。施設の中庭から自分の部屋に向かっている間、母さんに「本当?内臓全部だよ?98%適合ってただの奇跡だよ?」と、何度も同じ言葉を繰り返して跳ねるように歩き、そんな僕に母さんも興奮気味で「本当に本当!それに本当じゃなかったらこんな残酷な嘘を貴方についたりしない!女の人だけど、体があまり成長しきっていないあなたにはピッタリのお相手で、お母さんは先週会ったけど明るくて前向きに提供を考えてくれてたの!そうしたらすぐにでもって言って、施設の前まで待ち合わせして、私と一緒に来たんだけど抗菌処理が終わったら、彼女先に行ってますね!って走って行っちゃって、さっき受付で確認したらもう病室にいるって,順平の部屋の内線で確認できたから、もう部屋にいるみたい!」と、今まで見たことのないくらい幸せそうに何一つ我慢してない笑顔で母さんは早口に言い、早まる僕の足取りと心に一生懸命高いヒールをカツカツいわせながらついてきてくれた。
今まで一度も提供者が見つからなかった僕に適合する人が現れたって奇跡が嬉しい。提供者に逃げられても、すぐに別の提供者が見つかって助かってココを出た人もいたのだが、本当はどれだけ羨ましかったか。何度嫉妬しないように我慢して、ただおめでとうと笑顔で言える自分でいようと、他人の幸せを喜ぶことを何度無理やり本心に変換してきたか。
そんな他人の数え切れないほどの生死のやり取りを見てきたけど、初めて自分自身が当事者になれたことが嬉しい。
母さんが仲介人の人と提供者の人に一生懸命掛け合ってくれた努力にも感謝したけど、やっぱりこれは奇跡だ!
毎晩、明日目が覚めなかったらどうしようと夜寝るのが怖くてたまらなかったけど、それもなくなる。朝起きた時いちいち今日、急に具合が悪くなって死んだりしないかな、なんて考えなくてもよくなる。僕は、もう誰かが死ぬことを望む罪悪感から解放される。と、涙を堪えながら自分の病室のドアを開けた。
昨日までベッドは僕の一つだけ窓際にあっただけだったのに、隣には同じベッドがもう一つ置かれていて、十畳くらいの部屋がいつも以上に窮屈になっていた。
 ああ、そうだった。難しいのはここからだ。少し喜び過ぎたかもしれない。
 やっぱり僕は期待しすぎちゃいけないんだ。
僕だけの部屋じゃなくなった。それは提供を受ける側にとっても、提供者側にとっても、最後の難関が今日から始まることを意味していた。
 提供手術は早くても三ヵ月後。
 それまでの間、提供者本人と部屋をシェアするのが、法で定められている。
 僕はこの十年間、手術目前で希死念慮者が提供を拒否して生きる選択をとっては、行方をくらましてしまうところを何度も見てきた。   
そしてその数以上に、この希死念慮待機施設で過ごした十年間で友人や知り合いが、何人も死んで病室という部屋の中が空になる光景を何度も見てきた。
 希死念慮者の提供者が見つかるだけでも奇跡だけど、糠喜びして終わることだってたくさんあるのだ。
「やっぱり。細谷順平って君だったんだ」
 逆光でもシルエットでも分かった。さっきエレベーターで会ったあの女の人だ。希死念慮者は元々若者が多いというけど、更生施設を卒業してまで死ぬことを選んだにしては、芸能人やモデルとまでいかなくても容姿に恵まれているような気がするし、よくいる希死念慮者と違って暗い印象が全くない。   
彼女はベランダの壁に寄りかかり、白地に紺の縦ストライプの入った長いスカートのワンピースをなびかせていた。
僕へ向ける笑顔が、勿体ないほど神々しくて、見れば見るほど、健康そうだ。まあ健康基準を満たしているのが前提なのだから当たり前か。
 ずっと待ち望んでいた僕の適合者が目の前にいる。けど、想像していた人物との違いが大き過ぎて、とにかく動揺が治まらない。
「順平君であってる?」
 そうだ。会話。質問に答えなきゃ。
「あ、え、っと、はい。僕が細谷順平、です。」
 希死念慮者の機嫌を損ねたら、一発で臓器提供の話が無くなったなんてことはよくあること。さっきまでの喜びと興奮がみるみる失せていく。この人にどこか服従しなければならないような上下関係みたいなものが、僕にはもう脳裏に刻まれてしまった。十年間嫌って程見てきた他人事が、自分の事となるとやっぱり違う。
僕はもうそう長くない。いや、まだ三年は大丈夫だと言われているから、もしかしたらまだチャンスはあるのかもしれないけど、十年待っていて初めて現れた適合者だ。次を待つ体力なんて僕にはないと断言できる。
彼女に気にいられないと。彼女が僕を自分の命を投げ打ってくれるほど僕に生きていてもいいって思ってくれないと、僕は死ぬんだ。
臓器移植の適合率、術後に拒否反応を起こさないか全部計算されたうえで彼女は僕に適合するのだ。僕が生き延びるラストチャンスだ。
「漢字は?」
「ほ、細い谷で細谷、順は順番の順、平らって書いてペイです」
「順番を平等に待ってた順平君か」
 悪気はなさそうだけど、皮肉か?
 事前に彼女は仲介人の人と僕のプロフィールカルテを読んで、最後に母さんと面会したはずなのに、なんで漢字まで改まって訊いたのだろう。記憶にも残ってないほど待機提供者なんかどうでもいいってことか?それとも自分が死ねるなら誰だっていいのか?
 彼女は寄りかかっていたベランダの壁に、こちらを向いたまま勢いよく上に跳ね、上手いこと手すりに座った。
「私の名前、順平君がつけて」
 危なかっしいことをする彼女に僕は自然と歩み寄り、ベランダの窓の縁まで来た。
「名前?あるでしょう?親からもらった本当の名前」
「順平君が呼びたいように呼んでほしいの。私に名前つけてみてよ」
 随分急だし、なんだか変な感じがする。名前?本名を教えてほしいくらいなのに、一体なんだというんだ?何の意味がある?
「ほら、だって希死念慮者って素性がバレないようにココに入ったら本当の名前は教えちゃいけない決まりになってるでしょう?」
 そう。ココに来た希死念慮者には名前がない。友達に『希死念慮者の人をどう呼んでいいかわからなくて、気まずいんだ』なんて相談を受けたことがあるけど、確かに。これは気まずいなんてレベルじゃない。このリクエストに上手く答えないといけない。もっと相談された時に、真剣に親身になって相談に乗ってればよかった。
「えーっと。だ、だとしても、せっかくだし、呼んでほしい名前は、自分で考えた方がいいんじゃないですか?今の名前気にくわないんでしょう?」
 もしも、僕がつけた名前が本名以上に気にくわなかったら、彼女は提供を辞めてしまうのだろうか、こんな風に彼女がこれから話すことすべてが、僕を試していく日々となって続くのだろうか。
言葉に詰まる僕と、その後ろで黙りつづけている母は呆然と立ちすくんだまま彼女を見つめていた。母の喜びも不安に変わっている。それは嫌だ。母さんの喜びまで奪わないでくれ。
「安心して。私は別に、順平君を試したりしてないよ。どんなことがあっても、私の中身は全部君にあげるから。私をこう呼びたいって思いついたものなんでもいいの」
「なんでもいいって、それが一番難しいんですよ」
「敬語も使わなくていいし、なんでもいいって言った後にやっぱり嫌だとか、私そういう面倒な女じゃないよ」
 彼女の長く柔らかそうな髪先が、彼女の肩に腰を下ろし休んでいるように見える。
「すみません。お母さんは帰ってもらえますか?」
 彼女は母に申し訳なさそうに微笑んだ。
「必ず息子さんを元気な姿でお返しします。安心してください」
 安心させようとしてくれているのかわからないけど、彼女の笑顔が優しすぎてなんだか怖い。本心なのか?
「それと順平君、お母さんとは手術当日までしばらく面会謝絶になっちゃうんでしょ?内臓フル取り替えの大移植手術んだし、時間が短くて悪いけど医者だって失敗するかもしれないんだから、しっかり挨拶してきて」
 提供者が見つかった人は手術の日まで家族や友人の見舞いが禁止になる。
 普通の十七歳だったら母親と抱き合うなんて恥ずかしいのかもしれないけど、僕は自分でも信じられないほど急いで母を抱きしめて「大丈夫」と言って、母の両頬に手を添えて怯えるような母の表情を見ながら、根拠もないのに「大丈夫」ともう一回言った。
 母はいつものように穏やかに笑ってくれた。僕と母が一番似ている部分は笑顔だってよく母に言われてきたけど、僕がこの母譲りの笑顔で、これから毎日彼女に接することが出来たら、本当に大丈夫な気がしてきた。
「順平。今まで貴方が大丈夫って言う度に無理しなくていいって言ってきたし、頑張らなくていいって言ってきちゃったけど、今日からは迷わずに一生懸命になってね」
 僕はとても簡単に頷いた。だってずっと一生懸命だったんだ。
 そして母は彼女には何も言わず深くお辞儀をし、病室のドアをゆっくりと閉め部屋を後にした。
「素敵なお母さんだよね。この前会った時、この人が支え続けてきた息子さんに会ってみたいって思った」
 母は僕を一番近くで支えてくれていた人だ。毎日会いたい人だ。母も僕と同じ気持ちでいてくれている。だから、ここまで具合が悪くなってもやって来られた。今日からしばらく会えなくなるけど、必ず生きて毎日母におはようって面と向かって言える日常を手に入れたい。
「だから大丈夫だよ。私は君から逃げたりしない」
 彼女の声に反射的に体に電気が流されたような痛みが走った。この人と上手くやらないと。そんな夢みたいな毎日は手に入らない。
「でもね、手術の日まで一緒に住むのに呼び名が、名前っぽくないのは嫌だなって思ってるの。だからあんまり深く考えないでいいから私には名前だけちょうだい」
「でも。名前って、親がせっかくつけてくれたのに、そんなに簡単に捨ててもいいの?」
 さっきまで神々しいと思った彼女の笑顔が、突然無邪気な悪魔みたいな笑顔に見えた。
 不安だ。今日から彼女と手術の日までルームシェアなんて、僕は精神的に耐えられるだろうか。
それでもさっき母に大丈夫だって言った。だから、一生懸命やりたいのに、気に入ってもらえるか自信がない。使わなくていいよと言われた敬語を自分の言葉から抜くのが精いっぱいだった。
 体が弱くたって、心はいつも前向きに強く生きてきたつもりだったけど、こんなに心細くなってしまうのは、彼女の言葉を信じ切れない証拠だろう。
 十年も待っていたくせに、いざ適合者が現れたらノープランだった自分を恥じた。そもそも死にたいと思っているだけの人から生きていたいと願っているからって人の命を奪っていいのか、最近の自問自答が今更思考の深いところまで堕ちてきて困惑している。とても名前なんて思いつかない。
 ペットだって飼ったことないんだから何かに名前を付けた経験もない。
生きることを望んでいたことがこんなにも残酷なことだったことに何故気が付かなかったんだ。僕は生まれつき内臓が弱いってことに甘んじて被害者ぶっていたのかもしれない。
 彼女との出会いは、ずっと会えなかった家族との待ちわびた再会でもないし、離れ離れになった恋人同士が再び巡り合えたとか、そういうのでもない。自分のために死んでくれる人を僕はひたすら待っていただけだ。最悪感がなかったわけじゃないのに。ダメだ.苦しい。胸が痛い。悲しみに近い痛みだ。
 僕は激しい運動も出来ないし、クラスメイトは転校して人か減っていったみたいに、気が付いたらみんな死んでいって、僕がココに入った時には年齢の誤差が二、三歳の年齢十五人のクラスメイトだった人も、もうこの施設にいる同級生って呼べる人は、数人しか残ってない。その人たちの病状も危ういと噂で耳に入ってくる。
ココはいくつかある国の希死念慮者待機施設の中でも大きい方だけど、結局まともな集団生活も送れず、一般常識を知るための術は、十六歳までの授業とネットくらいで、本当の世界は知らない。
生きているっていいことばかりじゃないのはわかっているつもりだった。だけど、それでもいいから外の世界に健康で生きてみたいと憧れている。
端末の画面越しか、部屋のベランダから眺めるだけだった世界の住人の僕が、命をくれようとするなんて、本当はおかしい。
だって僕はこんなに死ぬのが怖いのに、彼女は怖くないって言うのか?
 すぐに信じられないのだったら、もっと希死念慮者の心理学について調べておくんだった。
「そ、そりゃさ、名前は親からの一番最初の贈り物なんて言ったりするけど、案外成長すると気に入らなかったりすることもあるし、やっぱり、君が呼んでほしいって思う名前で呼びたいな」
「君がつけてくれた名前で死にたかったのに。残念」
 なんとか自分で決断を下さずにこの場を乗り切れないだろうかと僕は必死だった。取り繕うように、相手に意見を求め、逃げ回ろうとした。
けど、そんな僕を見て彼女は不敵な笑みを浮かべ、体重を何もない背中に預けようとした。
落ちたら死んじゃうだろ。十一階だぞ!そう思うより先に僕は叫んでいた。
「可憐!」
 彼女の細い腰に飛びついて右足で壁を強く蹴り、僕は自分の中に彼女を引き込むようにベランダの床に背中を打ち付けた。
 なんでだろう。本当に思いつきだった。だけど、彼女は間違いなく可憐って感じだ。可愛くて儚くて、守ってあげなきゃと思った。
「なんで可憐?」
 彼女は僕の胸から離れてそう言うと、横に小さく正座をしてとても不思議そうに僕を見降ろした。
 ほんと、なんでだろう。
「死んでほしくなかった。だから名前を呼ばなきゃって思って」
「かれんっていう仲の良い人がいるとか?」
「ううん」
「初恋の相手がかれんって子だったとか?」
「いや、可憐って名前があるのは知ってるけど、実際本物の可憐さんには会ったことがないよ。施設全体人数って言っても百五十人くらいだから。あ、でも、五年くらい前に研修医の人がエレンだったかも」
 あれ、なんか今ので敬語が抜けた。
「その人と仲良かったの?」
「全然。顔も覚えてないし、ケビンさんだったかも」
 彼女はなんとも思っていないのかもしれないけど、今、僕らは確かに生死の間を体感したばかりで、僕は放心状態に近かった。
彼女はためらいもなく、十一階から落ちて死のうとしていた。真下は駐輪場の屋根があるから他人を巻き込むことはなくても、駐輪場の屋根はクッションになったりなんかしない。  
確実に死ぬか脳死か、苦しみから自分を守る術など一つもないのに、落ちようとした。    
生き残る可能性が限りなく低いのに。どうしてこんなにどうでもよさそうにしているんだろう。
けれど、そんな状況を漠然と理解し切れないまま、僕のほんの数分前の記憶の中に、ベランダの手すりから後ろに落ちようとする彼女の姿が、穏やかな春風と一緒に蘇った。
彼女は重力にさえ逆らおうとはせずに、慌てて空を仰ぐでもなく、不敵に笑って、潔さ以上の何かを僕に伝えようとしていた気がする。
なんだろう。この清らかで永遠に似たような美しい映像は。
そして彼女を守りたいと強く思ったこの覚悟は、僕のどこから溢れてきているのだろう。
「それにしてもどうして、かれん?」
「ダメ?」
 さっき母さんに一生懸命やってって言われたことを思い出していた。
「僕は可憐って呼びたいってそう思った」
 僕のために死んでしまうこの人の美しさに凌駕され、勝手に憐れんで思いついたなんて、僕がつける名前の中で彼女にとって一番の侮辱になるかもしれないのに、どうしてもそう呼びたくなった。
「私が、かれん」
 彼女は天気のいい空を眺め穏やかに笑った。
「うん。どうだろう」
 穏やかな彼女の笑顔が不敵な笑みに変わって、万事休すと思った。
 だけど、そんな僕の想いとは裏腹に彼女は嬉しそうに声を弾ませて言った。
「かれん。なんかいい感じ!本当の名前より好き!」っと、なんかいいことありましたって感じの彼女のはしゃぎ方は、まるでさっきまでの僕みたいに少しアホに見えるくらいの喜び方で、僕は溜息をついて視線を空に移した。
「よかったね。可憐さん」
 皮肉じゃなく、自然と一緒に喜んでいた。人に喜んでもらえることが出来たら、なんだって無条件で嬉しい。
彼女は僕を試したりしないで提供者になってくれると言っていたけど、僕はその為の大きな初ミッションをクリアしたような達成感と安堵で、提供者が見つかったと母から聞かされた時の喜びと興奮を少しだけ思い出していた。
「あとさ順平」
 今度は何!
打ち付けた背中に冷や汗が湧き出た。
「助けてくれてありがとう」
「あ、うん」
そうか。僕は彼女を助けたのか。
「でもさぁ、今私が死んだら三時間以内に移植手術受けられたのに。なんで?内臓破裂しないように頭から落ちようとしたのに」
 確かに。見殺しにしていたら、そうなっていただろう。でも、
「なんでって言われても……」
 彼女の質問に僕は疑問を感じた。目の前で死ぬところなんか見たくなかったから?でも、僕はこの人から、命をもらおうとしている。だとしたら僕は何故助けた?でも、あの状況なら助けるのは人として当たり前だ。
「僕は人間です。人が人を助けることに理由なんていらないでしょう」
「人は必ず死んじゃうのに。順平、変わってるね」
 おっしゃるとおりだ。人は必ずいつか死ぬ。だけど、僕はまだ生きたいって思っている。それに変わり者は僕じゃなくてそっちだろう。死にたいなんて思考にいたったことを知りたい。
「希死念慮を抱いた人が来るのを、ずぅっと待ってたんでしょ?君は余命もうとっくに過ぎてるってきいてたんだけど」
 なんだって?
「知らなかった?ごめんごめん」
 僕が自分の余命過ぎているってことを知らないって知ってたって感じの謝り方だった。
 母さんはこの前の診察の後、三年は大丈夫なんて言っていたけど、僕はずっと騙されてたのか?思えば、毎年僕の誕生日に涙ぐむ母が、この前僕が十七歳になった時は異常に泣いて喜んでいた気がする。    
そういうことだったのか。
「それにしても、順平は運動神経いいんだね。あと結構力もあるんだね。私結構のけぞったのに、よく間に合って引っ張れたね」
「か、火事場の馬鹿力かな」
「火事でもないのに馬鹿力って本当に出るもんなんだね。生きたいって願ってる人って、やっぱり凄い」
 変な人。そう思った。でもそうか。希死念慮者、自殺願望者、死にたがりがまともなわけない。
目に異物が入るのを伏せくために考えるよりも先に反射的に瞼を閉じることが当たり前なくらい、体は生を求め自分を守ろうとするのに、この人にはそういうのが欠如している。
 やっと起き上がった時、背筋の冷や汗が風邪で更に冷たくなったのを感じた。
 そうだ。こうやって体は反応して生を感じる。それがたとえ不快感でも恐怖心でも。
「そんな怖い顔しないでよ。順平君は素直に喜んでよ。この先も生きていけるってことをさ。やりたかったこととか、我慢してたことたくさんできるようになるんだって、良いことだけ考えてさ、手術の日まで楽しみにしててよ」
 楽しみにしてろ?
「出来るわけないだろ!そんなこと!」
 人に怒鳴るなんてもしかしたら生まれて初めてかもしれない。こんなに喉がピリッと痛むものなのかと、驚いた。それと同時に怒鳴ってしまったことを後悔した。機嫌を損ねた?少しでも些細なことで機嫌を損ねて提供辞退されたら、僕が生きる望みが一瞬で奪われる。
「どうして?私は楽しみだよ。私は私の命の恩人に恩返しが出来るし、私だってずっと待ってたんだから」
 待ってた?
「何を?」
「奇跡」
 奇跡?
「そんなの、君が来てくれたからで、奇跡なんかじゃないよ」
「奇跡だよ。順平君は生きて私を待っててくれた」
 彼女に抱きしめられて、僕はもう訳が分からなくなっていた。
「私、やっと死ねるんだって思ったら嬉しくてたまらないの」
 なんでそんなことが言えるんだ。僕は彼女が怖い。でも、暖かい。この人をもっと知りたい。
「可憐さんは、なんでそんなに早く死にたいの?」
 訊いたところできっと理解は出来ないだろうけど、僕は知っておくべきだと思った。だけど彼女は更に僕を強く抱き寄せると「わかんない」とクスクス笑いながら語りだした。
「なんていうか、子供の頃から死にたいの。それしか基本興味がないみたいの」
 僕がどんな名前を付けるかとか、自分を見殺しにするかそうじゃないか、そんなこと、今を生きる好奇心旺盛な人間だってしないだろうに、彼女は死ぬことしか興味がないと言う。そんなことが本当にあるのか?
「でも、ずっと会いたかった。私を必要としてくれる誰かに。それが順平君だった。今日からよろしく」
 そんなこと言われても、素直にありがとうと言葉が出てこない。
「僕は……待ってました」
冷静になれないせいか敬語が戻って来た。
「それは会いたかったってことでいいのかな?」
 ほら、また僕を試すようなことを言う。
「会いたかった、です。それに、永遠に僕と一緒にいて欲しいと思って、ます」
 僕は少しだけ嫌味を混ぜた。プロポーズみたいな台詞でも、僕にとっては貴女の命を僕にくださいという意味になる。
 けど勝算もあった。彼女は無意識に僕を試している。その反応を楽しんでいる。そのお遊びに全力で付き合えばいい。
僕は彼女の実験台マウスみたいなもので、ストレスを与えたり試練を与えて、その先にある大きな実験結果を、僕を使って知ろうと待ち望んでいるように見える。
彼女は僕の何を知りたいのだろう。
 自分の守って来たこの命を賭け事に使うのは、生を求める僕には勿体なくて嫌だけど、これは余命という寿命をとっくに使い果たしていた僕の最後の大勝負だ。
 薬の副作用とか、メンタルが落ち込むとか、そういう次元じゃない。人の心と戦うのは生れて初めてだ。けど、絶対彼女に勝たなくちゃ。
 不敵な笑みで僕を見つめる彼女の名前は可憐。
「順平君とは、気が合いそうで嬉しい」
 反応良好。絶対生き抜く。僕はそのために生きてきた。彼女を怖がっていちゃダメだ。けど、怖い。不安で押しつぶされそうだ。でも、一所懸命やるって母さんと約束したんだ。
「あの、可憐って呼び捨てでもいいかな?あと女性に年齢を訊くのは失礼だって言うけど、僕よりは年上でしょ?よかったら、年齢だけでも教えてほしい」
 本当は年齢だってこの施設じゃ訊いちゃいけない。個人情報の交換や聞き込みは法的に許されてないけど、それじゃ会話だって成立していかない部分がある。彼女にもっと踏み込んでいきたい。移植手術が終わったら彼女の内臓の大半が僕に踏み込んでくるのだから。それたけでも教えてもらおう。
「私?二十三歳」
 二十三歳。希死念慮者待機施設に来るには若い。平均は三十代前半なのに。
「ねえ私も順平って呼び捨てでもいい?」
「うん」
 僕らはあだ名を決め合った小学生のように仲良くなりそうな感じで握手をした。
 僕の為に死のうとしている彼女と、僕は出会った。
細谷順平と可憐は出会ったんだ。
 生死のやり取りをするために。
僕らは七分丈のシャツの季節に出会った。
もう夕日が沈んで夜が来るけど、僕は可憐という奇跡と出会った。
だからもう怖がらない。