【どこまでも】

 あの夏の始まりから、十五年経った。
嫌なことがあったからとか、そんなんじゃなくて、たまに漠然と死にたいと思うことがあった。
 とても不思議な感覚だけど、当たり前のことでもある。
 誰だっていつかは死ぬ。
「あー。可憐に会いたい」
「なんだよ。いつも一緒のくせに」
「海斗社長には一生わかんない気持ちでしょうね」
「やめろよ。海斗社長なんて本当のことそんな小さな声で。もっと大きな声で言えよ」
「相変わらずだな」
 海斗は親の会社を買収するほど出世して、今じゃゲーム以外に手広く事業を開拓して、今日はなんと僕を月に連れていきたいという海斗の提案を詳しく訊くために、たまに会う居酒屋まで来いと言ってきた。
 海斗は僕があの希死念慮者待機施設を僕より二年遅れで出てきた。
提供者は突発自殺をした男性だったらしく、僕と可憐みたいにルームシェアはなく、即手術だったらしい。
大物は違うな。ほんと、対等なんて海斗には通用しないんじゃないかってくらい才能も運も平等じゃない
僕も海斗も二年間社会復帰施設でも真面目に過ごして、今も生きている。ちなみに初めに僕が就いた仕事は博物館の受付、それから飲食店や、食品工場、芸能人のマネージャーや、眼鏡屋と、仕事を転々としながら英会話教室に行って、ここ何年かは海外を年に二回か三回のペースで旅行に行っている。
 全部一人旅のような気分に一度もなったことがないのは、可憐が僕と一緒にいてくれている気がするからかもしれない。
 そして、今はこうして僕と海斗は居酒屋だけどジュースで年に一度、可憐がいなくなった日に必ず会うようにしている。正確には可憐が死んでしまった日なのかもしれないけど、献杯なんてしたことない。僕らにとって可憐は僕が死ぬまで死なないと信じているから、僕たちは可憐がいなくなった日と言っている。
「ところで月ってどうしたんだよ。急に行こうって言われても宇宙だぞ?そんな簡単に行けるのか?」
「順平、お前ねぇ、月にホテルがある時代だぞ?行こうとか今まで思ったことないわけ?」
「海斗と違って物事をそんなに大きく見る視野が僕にはないんだよ。安い給料貯めてちょっと旅行に行ったりできれば幸せなの」
「けど、カレンさんに一緒に月に行こうって言ったら行くって即答するぜ?」
 そうだろうな。だって海斗から電話で月行きの話を聞いたとたんに心臓がバクバクしたんだ。僕も月は好きだけど、行けるのか?って疑問の方が大きかった。でも可憐は死ぬ直前に昼間の月を掴もうとするくらい月が好きだったから。僕の意思よりもずっと盛大に反応していた。だからもう、実は色々準備している。と言ってもカメラとか月のホテルで着たい服をちょっと買い足したくらいだ。
「行きたいよ。僕も可憐も、月が好きなんだ」
 本当に月が好きだ。
「そう思ってさ。俺のやってる宇宙ビジネスも上手く行ってるし、そろそろ俺もって思って二人分三年前に予約入れたんだ。まあ正確には可憐さんと、名前も知らない俺に心臓をくれた四人だけど、お前と可憐さんは同じベッドでいいもんな」
「変な言い方すんなよ」
「実際そうだろ。俺より早く童貞卒業しやがって。あの時は本当に……」
「悪かったって。でもいいじゃん。海斗は新しい恋人がすぐに出来て、結婚して、今は子供が三人もいるし。出生率の低い世の中で、本当に大したもんだよ」
 僕は、今のところ最初で最後の恋を可憐にしたままだから、結婚とか恋愛自体に興味が持てないでいる。
「まあな。俺も今幸せだよ」
 誰もが常に人の幸せの恩恵をもらいながら生きている。
 僕のストレスは誰かの幸せで、誰かの不満は僕の幸せで、案外それに気が付かないで生きている人が多いってこと。
色んなことをあの施設から出て体験させてもらったけど、命とか、お金とか、時間とか、とにかく人間関係って不平等だなと思う瞬間が、最近は一番生きているという実感につながているきがする。
 僕は社会に出た時、本当にこんなにたくさん人間がいて、一人一人それぞれが別々の考えをもっていたり共感したり、いがみ合あっている世界に触れて、完全に浦島太郎の気分だった。
だから可憐と過ごした日々が少しずつ鮮明じゃなくなっていっても、最後の可憐の笑い声は曖昧なのに鮮明で一生ものの思い出だと思っている。会った途端に名前が欲しいだとか、ベランダから落ちようとしたりとか、対等でいたいって言ってくれていたこととか、一緒に生きようって頭突きされて気を失ったこととか、お互いのランドセルに立体折り紙が入ってたこととか、可憐が毎日違う服を着てたこととか、わざわざ髪を白く染めていたとか、ピアノが上手だったとか、最後は僕のプレゼントした服を着て身投げした彼女が最後に見たであろう昼間の月の映像の思い出を、あれから十五年たった今も、全部が僕の一番の思い出で、可憐がいなくなる前に彼女を抱いたあの夜と馬鹿馬鹿言い合って真剣に枕を投げ合った夜が僕の一番の宝物だ。
「順平、俺さ、実は最近医療関係のビジネスにも手を出してて、希死念慮者をどう減らすかをコンセプトにプロジェクトを進めてたけど、それ……辞めたんだ」
「なんで?」
 海斗はコーラをグッと飲み干すと、若い店員に「コーラ」と言った。新しいコーラのグラスが届くと海斗はやたらとコーラをストローでガラガラとかき混ぜ続けた。
「順平、あの夜言ったよな。俺もお前もカレンさんもみんな、生きたいだの、死にたくないだの、死にたいだのって自分勝手だって。妙にその言葉が忘れられなくてさ、最近はどうでもいいかって思うこと増えちゃったんだ」
「どういうこと?」
「みんな自分勝手で当たり前なんだよ。自分の命だ。誰かがなんか言ったりするのは不自然だ。俺は、カレンさんと初めて喋った日、カレンさんがお前を救う救世主みたいに見えてたんだけど、実際カレンさんを救ったのはお前かもしれないって思ったんだ」
「そんなことないよ。98%可憐が僕を救ってくれた」
「でも残りの2%はお前とカレンさんが埋めた努力だろ」
「うん」
 そうだ。二人で1%ずつ全力を出し合った。
「実は、独自で希死念慮者数の統計をとったり色々調べてたら、不思議な結果っていうか、俺なりの変な結論が出たんだよ」
 海斗の持っていたコーラのグラスが、アイスコーヒーに見えてなんだか海斗が自分よりも大人に見えた。僕は移植手術が成功してからコーヒーが飲めなくなった。正確には不味いと感じるようになってしまった。可憐がコーヒー嫌いだったのかはわからないけど、もしかして可憐の味覚の感覚が影響してるんじゃないかって思いた。でも、もうわからない。
 訊くことはもう出来ないんだ。
「変な結論って?」
「希死念慮者ってさ、勝手に鬱病とかそういう人があの施設に、ある意味自殺じゃなくて安楽死を求めに来てたんだって俺は思い込んでたんだ。実際提供成功例ってそれが一番多い感じしただろ?けど、希死念慮者には『希死念慮』っていう考え方自体が生きてるうえで漠然と生まれちまうんだよ。生きることから逃げるってよりも生きてることに対して疑問を持ってるんだと思う」
「疑問に思った時点で誰かに相談したりして生きることを選んでほしいもんだな」
「ああ。俺の提供者にも生きててほしかったよ。死にたくなかったけど、生きててほしかったよ。けど、少なくとも、人間に元々あるんだよ。死にたいって欲が。凄く嫌なことがあって耐えられなくて自殺したいとは違うんだ。恵まれた環境下で幸せに過ごしてきた人でも人間の思考回路の中に必ずあるんだろうな。『いつか死ぬんだ』って分かった上で生きることを。反射的に死を恐れながら生きてる。その恐れの部分が少ない人がデータ上で増えて来てる」
 嫌なデータ結果だな。
「社員じゃなくて俺が独自で収集したデータ上で分かったことだ。死にたきゃ勝手に死んでくれって施設にいた時は自分が死にたくなかったからそう思ってたけど、順平とカレンさんと過ごした頃を思い出したら、なんか改めてどうしようもないって思った。今も少しずつ希死念慮を抱いた人間がどこかに存在してる。本当は、そんな気持ちにさせないような世界を作りたいって思ったけど普通に難しいなって。地球上の生物は気が付けないほどゆっくり進化して変化し続けてる。生きたいも死にたいも死にたくないも結局は自分の意思だったり気分だったり曖昧なものだから。俺たちは延命を求めたけど、カレンさんは求めなかった。それだけだって気がついたら、やっぱり希死念慮者を減らすなんてプロジェクトは進めるべきじゃないって思ったんだ。希死念慮って一つの考え方だ。希死念慮って考えを病気にしたくないんだ。だから研究はやめた。でも、やっぱりさ、俺たちは誰かが死にたくならないような楽しい未来を作っていこうぜ」
「うん」
僕は当然のように海斗の考えを受け入れることが出来た。海斗がそう思ったならそれでいい。  
誰かが死にたくなって、助けを求めてなくても生きたいと思える世界を自分自身で創り出せるように応援がしたい。
何かを愛せる自分にしてあげたい。
希死念慮は漠然とただ死にたくなることだ。素直に生きながら死ぬ選択を選んで可憐は落ちて行った。
それが可憐の決めたことで、大切な想いだったんだ。
死にたいのは僕のためじゃないって、出会った頃は誰でもいいんだろうなんて思ってたけど、最後に僕を選んでくれた可憐のことを僕はどんなに忙しい毎日だって忘れたりしない。
「順平、お前は今幸せ?」
「うん」
 素直に思える。生きていてよかったって。
「僕は生きてることに感謝してる。生まれてきたことにも。それだけで充分幸せなのかもしれない」
「相変わらず穏やかというか欲がないと言うか、変わってんな。でもまあ順平、幸せって感じる瞬間が少しでもあるならなら、カレンさんもきっと順平を愛したままなんだろうな」
 可憐は幸せなのかな。僕のこと愛してくれているのかな。こんなハイスペックな海斗と比べると、やっぱり平凡の僕じゃ可憐は退屈って思ったりしているんじゃないか?可憐が生きていたら、きっと彼女は僕以上に楽しくて面白い日常を送っていたんじゃないだろうか。
「うーん。僕はきっと幸せなんだろうけど、実際可憐は違うかも。可憐だって僕ってフィルター越しじゃなくて、自分の目で見て体感して感動した方がいいに決まって……痛ッ!」
「どうした!」
 全身に電気みたいなバチッという痛みが走ったけど、なんだか可憐に頬だけバチッとビンタされた気分になった。
「可憐、僕の言葉とか誰かの言葉にたまに反応するんだ。月に行こうって言われたら僕はそんな興奮するほど行きたいって思ってなかったのに心臓バクバクさせるし、今みたいに可憐の意思が僕の考えと違うことを言おうとすると怒ったのかな?内臓全部に電気が走るみたいな感覚があるんだ」
「ああ、なんか毎年そんなこと言ってると思ってたけど、マジなんだな。でもまぁ、支配力強い感じしたよなカレンさんって。けど、なんかそれファンタジーすぎねえ?」
 この話をすると、胡散臭そうに毎年海斗は首をかしげるけど、あれから十五年、偶然でこんなことがあるんだろうか?
「僕もはじめは体に異常があるのかと思って何度も病院に行ったんだけど、全然異常はなくてさ、だから、もう可憐が僕に何か伝えようとしてるって思うことにしたよ」
 そう思わないと寂しくなるから、こんな風に痛くなったりするのかな。結局、可憐は僕の体になじまなかったんだろうか。
 十五年経った今も、可憐に訊きたいことは、この世に漂うウイルスの数より多いけど、いつだって決断をして生きてきたのは僕だ。僕がしたいことには特に痛みや心臓が高鳴ったりしないけど、僕が弱気な時、そう『死んでしまいたい』って思うようなミスを仕事でした時や人間関係で上手くいかずに悩んで考え込んでいたりすると、思い切り体中にビリッっと刺激が走る。ストレスって便利な言葉で片づけることも出来るけど、医学は人類にとって永遠に発展途上中の革命だ。この痛みはストレスなんて言葉じゃ片づけられない。
「可憐に出会った時、彼女に対等でいたいって言われて、初めは提供者の人と対等なんて無理だって思ってた。でも最後の方は枕を投げ合う口喧嘩もする仲になれたんだ」
「枕投げ合ったらそれもう口喧嘩じゃないだろ。ってかどうして喧嘩になったんだよ」
「忘れた、可憐には自分の人生を生きてほしいって言ったからかな」
 本当は鮮明に覚えてる。実際は可憐に提供を辞退してほしいって僕が言ったからだ。
 この時、僕と海斗は自分の中にあるそれぞれの思い出の可憐を思い出して笑ったんだと思う。
 僕や海斗、会ったことはないけど可憐の家族や友人、そんな人たちが息絶えた時が可憐の本当に死となると、僕は思いたい。
 だから、人が死ぬって―――……本当は誰も僕らを思い出したり語ってくれなくなった時、僕らはやっと死ぬのかもしれないね。
「ふははっ!」
「急にどうしたんだよ順平。ジュースでそこまで酔えるか?」
「わかんないけど、多分、可憐が笑った」
 僕は笑い声を無理矢理止めて、不敵な笑みで店員にリンゴジュースを頼んだ。
 本当はコーラが呑みたかったのに。
変だな。いや、変とはまた別のような気もする。なんでだろう。これも可憐のせいなのかな?