【希死念慮者の彼女】
僕が住むこの施設は病院とは違う。根本は似ているけど、社会との接触が殆どない。と、いうより、出会いようがない。感染症なんかが広がるといけないからって、一時退院制度もない。
ココは怪我や病気で体の一部を優先的に提供される施設。僕みたいに先天的な病気の人間には少しだけど国から補助金もでる。そんな場所に僕はもう十年もいる。
中央にある外気に触れないようになっている人工中庭から、自分の部屋という名の病室に向かって、ガラス張りのエレベーターに乗った。行先は十一階。この施設の最上階だ。
噂だけど、この施設じゃ部屋の階が上がるごとに死が近いと言う人もいる。本当かどうかは知らないけど、僕は一昨年からこの最上階にいる。
僕はエレベーターのドアの閉めるボタンを押そうとした。けど何故か手を止めた。誰の姿も見えなかったし、声がしたわけでもないのに人の気配を感じ取った。エレベーターは四台もある。いつもならそのまま無視して閉めてしまうけど、なんとなくそのままエレベーターのドアの開くボタンを押していた。
今日は天気がいい。それに暖かい。春だからって単純な理由じゃない。夏みたいに暑い春でもなく、冬みたいな春もない。一年に何日あるだろうってくらい僕にとって気持ちのいい陽気の春らしい春。
僕はあと何回そんな日に巡り合えるのだろう。
「ありがと」
たった十数秒待っていただけだった。けど、実際乗って来たのは僕と同じくらいの身長の女性で、息を切らしながら乗り込んできた。
彼女は宝物を抱えるように赤いランドセルを抱えていた。
七分丈の袖に白地に紺のストライプの模様が入った清楚なワンピースに、真っ黒で腰まで伸びた素人でもよくわかるほど手入れの行き届いた艶のある髪の毛をしていて、彼女はその髪を揺らしながら少し息を切らせていた。どこから来たのだろう。足音なんかしなかったのに。
彼女の足元を見ると靴はおろか靴下も履いていなかった。
ああ、裸足だったから足音がしなかったのか。……裸足?
「えっと、何階ですか?」
「君は何階に行くの?」
気持ちがいいくらい涼しく凛とした喋り方をする人だった。
「十一階ですけど」
「じゃあ、私も」
僕はやっとエレベーターのドアの閉めるボタンを押した。
彼女の立ち姿は、後姿でも一見しただけでわかる一般の人って感じだ。この希死念慮待機者の持病を抱えた人とは違って、健康そうで、清楚に見えるデザインのワンピースのせいだろうか、なんだか品がある感じがする。
僕を含めこの施設じゃ車椅子や猫背の人が多いから、見ていて違和感を覚えた。
それに、行先を訊いて僕と同じ階でいいってことは、この人は行き先が決まってないのにエレベーターに乗って来たのか?裸足だし、誰かの見舞いに来たわけでもなさそうだ。
じゃあ誰かに追われているとか?もしも、不法侵入者だったらどうしよう。
いや、この希死念慮者待機施設の新しい職員かもしれない。春だし新人が来てもいいだろうけど職員課は四階。それにいくらなんでもやっぱり裸足ってことはないだろう。いくら清楚な格好をしていても、この人は職員じゃないのがわかる。
でも、新しい入居者にしては、雰囲気が明るすぎる。余命が短くて開き直って明るくなっちゃったタイプか?なにか気になるというか、引っかかる点が多すぎて、無意識に警戒してしまう。
僕はそんなに社交的じゃないし、知らない人と世間話なんて自分からは無理だ。
でも、脚も腕も僕の好きな白と同じ昼間の月みたいに透き通るような白い肌。綺麗だなと思った。
「ねえ、この希死念慮待機施設に入ったのっていつ?」
振り返った彼女は、雑誌やネットで見かける美人とはちょっと違うけど、全体的にバランスのいい容姿をしている。それに、凛とした雰囲気で優しく微笑みかけてくれた。だけど、口調はどこか荒っぽい。
二つ年上くらいに見える。けどやっぱり僕よりも年上で二十代前半だと思った。
どこか子供っぽくて、なんだか馴染みにくい周波数が出ている感じだ。女性も子供もこの施設にいるけど、正体不明の彼女とどう接したらいいかわからず、愛想笑いもろくに出来なかった。
「僕は、丁度十年くらい前ですけど」
「へえ。ココでの生活にはもう慣れた?」
十年だぞ。慣れない奴の方が珍しいだろう。
悪気はなさそうに見えるけど、僕は法に従い、自分の体に合う移殖相手を待つ身なのだから、もっと気を使った言い方くらいしてもいいじゃないかと思った。でもきっと、これが彼女らしさなんだ。
僕が我慢すれば済む。もうすぐ十一階に着く。
それにしてもこの独特な雰囲気。なんかわかっちゃった。多分彼女は希死念慮者だ。
この施設に来てこのマイペースな態度。きっと提供者になろうとしている人だ。
希死念慮って言うのは、自殺願望が生活していくにつれて死にたくなったと言うのとは少し違う。ただ生まれつきの病気のように漠然と死にたいと思っている人のことで、最近じゃそう珍しくはない存在だと言われている。
だけど、この施設までたどり着いたってことは、結局は安楽死を求めた自殺志願者ってことだ。希死念慮者だろうと自殺志願者と大差ないという人もいるけど、僕は違うと思っている。
自殺する人よりも、常識人か異常者のどちらかだ。
「慣れたというか、今、僕は十七歳で七歳からこの施設で過ごしていたから社会っていうか外の世界のことはネットとか授業で習ったことくらいしかわからないんです。この施設での生活が今のところ僕の人生の基盤です。慣れてますよ。とってもね」
希死念慮者だろうと自殺願望者だろうと、いざ移植手術ってなると自分から死を望んでこの希死念慮者待機施設まで国が定めた法の通りに来ても土壇場で逃げてくことが多い。
そんな卑怯者に振り回された施設の待機者たちを僕はたくさん見てきたし、ある意味そういう命や人間同士の理不尽にも慣れた。
でも、十年待ったって僕には適合率を満たした自殺者さえ現れない。
年齢を重ねるごとに、どんどん病状は悪化して結局、今じゃ内臓の大半が痛みを忘れなくなって体に染みついている。
けど、毎日をポーカーフェイスで穏やかに生きる。それが僕の性格で、ポリシーだ。でも、なんだか彼女に試されているような、おちょくられているような感じがして、嫌な気分がおさまらない。
「でもさ、慣れてないことすると、疲れるよね」
彼女は僕が顔色一つ変えないのに平気で話しかけてくる。
そろそろ話しかけてほしくないって顔をした方がいいかな。
「まあ、そうですね。疲れると思います」
今、実際この状況下が疲れる。
「けど、普段しないことすると楽しいこともあると思うよ?」
「そうなんですか?」
「わかんないけど」
わからないのかよ。
悪気のない笑顔は嫌いだ。なのに、彼女の晴々しい笑顔は案外嫌じゃないかもしれない。どこか魅力的な笑顔だ。
普段できないこと、健康な人が出来て僕には出来ないことが年々出来ないことも増えていくストレスをどこにもぶつけることの出来ない強いメンタルと弱い体、そんな自分の人生が楽しいわけない。
十一階に着いたので「どうぞ」と言うと彼女は「ありがとう。じゃあ、またね!」と言って軽く手を振り降りて行った。
僕はエレベーターから降りるのを忘れて、釈然としない気持ちを抱えたまま気がついたらまた一階に戻ってしまっていた。
またね。そんな言葉大嫌いだ。そう言って死んでいった友達の幼いままの何人かの笑顔がよみがえって、悔しくなった。
内臓全部が悪いだけで僕の脳は正常なはずなのに。今会った彼女の話し方や、質問に腹を立ててこんなボケたことをするなんて、今までの僕には考えられないミスだ。
彼女は急いでいるみたいだったけど、彼女の適合者になる奴は大変そうだな。裸足で行先はどこでもいいなんて、本当に死に急いでいるみたいだった。
でも、今まで自分が見てきた他の移植待機者の相手の希死念慮者は案外あんな感じの明るい人こそ、土壇場で逃げる人が多い。ああいうのは一番信用できない。あの人の命をもらうのは大変だろうな。
せっかく一階まで戻って来たんだ。まだ日は高いし、また中庭を少し歩くことにした。
僕はさっき彼女に話した通り、内臓を提供してくれる希死念慮者か自殺してしまった人が来るのを待っていて、この希死念慮者施設に十年間もいる。
僕がまだ母のお腹の中にもいない頃、母と父の住んでいた場所の近所で毒ガス自殺をしようとした人がいた。その影響は、両親ではなく、後々結婚した二人の間に出来た僕に影響がでた。
内臓奇形で僕の内臓は通常の人よりも早く劣化する体質として生まれてきてしまった。
自殺する人が多いこの国じゃたまにある話だ。自殺の副流煙なんて呼ばれている。
でも、僕はその自殺志願者や、自殺に失敗して脳死が確定してしまった人にまで、この十年自分の未来を託して生きている。
死にたい人から内臓をもらっていい世界と時代に生まれたおかげで、僕はまだ生に執着している。
浅ましいと罵りたければ、言えばいい。でも、僕の聞こえない場所でやってほしい。ネット主流の世界じゃ、見たくなかったことも、読みたくなかったことも知りたくなかったことも偶然知ってしまうことはある。けど、もう、なるべく放っていて欲しいのが本音だ。
さっきのエレベーターで一緒になった人は女性だったし、提供されるのも基本的に女の人だ。確か僕の三つ年上の女性が一緒の十一階に住んでいるし、その人の適合者なのだろう。
いいなぁ。適合者か。手術まで上手くこぎつければ、こんな監獄みたいなルールの付いたマンションっぽい施設から出られて晴れて普通の世界いで生きていける。
自殺したい人の命を臓器提供に使える法を創ってくれたのには感謝しているけど、なんで手術の日まで希死念慮者の人と最低でも三ヶ月はルームシェアしなきゃいけないなんて残酷なルールを設けたんだろう。それさえなければ心まで傷つかないで済むことがいっぱいあるのに。
恵まれた嫌な時代だ。
僕が住むこの施設は病院とは違う。根本は似ているけど、社会との接触が殆どない。と、いうより、出会いようがない。感染症なんかが広がるといけないからって、一時退院制度もない。
ココは怪我や病気で体の一部を優先的に提供される施設。僕みたいに先天的な病気の人間には少しだけど国から補助金もでる。そんな場所に僕はもう十年もいる。
中央にある外気に触れないようになっている人工中庭から、自分の部屋という名の病室に向かって、ガラス張りのエレベーターに乗った。行先は十一階。この施設の最上階だ。
噂だけど、この施設じゃ部屋の階が上がるごとに死が近いと言う人もいる。本当かどうかは知らないけど、僕は一昨年からこの最上階にいる。
僕はエレベーターのドアの閉めるボタンを押そうとした。けど何故か手を止めた。誰の姿も見えなかったし、声がしたわけでもないのに人の気配を感じ取った。エレベーターは四台もある。いつもならそのまま無視して閉めてしまうけど、なんとなくそのままエレベーターのドアの開くボタンを押していた。
今日は天気がいい。それに暖かい。春だからって単純な理由じゃない。夏みたいに暑い春でもなく、冬みたいな春もない。一年に何日あるだろうってくらい僕にとって気持ちのいい陽気の春らしい春。
僕はあと何回そんな日に巡り合えるのだろう。
「ありがと」
たった十数秒待っていただけだった。けど、実際乗って来たのは僕と同じくらいの身長の女性で、息を切らしながら乗り込んできた。
彼女は宝物を抱えるように赤いランドセルを抱えていた。
七分丈の袖に白地に紺のストライプの模様が入った清楚なワンピースに、真っ黒で腰まで伸びた素人でもよくわかるほど手入れの行き届いた艶のある髪の毛をしていて、彼女はその髪を揺らしながら少し息を切らせていた。どこから来たのだろう。足音なんかしなかったのに。
彼女の足元を見ると靴はおろか靴下も履いていなかった。
ああ、裸足だったから足音がしなかったのか。……裸足?
「えっと、何階ですか?」
「君は何階に行くの?」
気持ちがいいくらい涼しく凛とした喋り方をする人だった。
「十一階ですけど」
「じゃあ、私も」
僕はやっとエレベーターのドアの閉めるボタンを押した。
彼女の立ち姿は、後姿でも一見しただけでわかる一般の人って感じだ。この希死念慮待機者の持病を抱えた人とは違って、健康そうで、清楚に見えるデザインのワンピースのせいだろうか、なんだか品がある感じがする。
僕を含めこの施設じゃ車椅子や猫背の人が多いから、見ていて違和感を覚えた。
それに、行先を訊いて僕と同じ階でいいってことは、この人は行き先が決まってないのにエレベーターに乗って来たのか?裸足だし、誰かの見舞いに来たわけでもなさそうだ。
じゃあ誰かに追われているとか?もしも、不法侵入者だったらどうしよう。
いや、この希死念慮者待機施設の新しい職員かもしれない。春だし新人が来てもいいだろうけど職員課は四階。それにいくらなんでもやっぱり裸足ってことはないだろう。いくら清楚な格好をしていても、この人は職員じゃないのがわかる。
でも、新しい入居者にしては、雰囲気が明るすぎる。余命が短くて開き直って明るくなっちゃったタイプか?なにか気になるというか、引っかかる点が多すぎて、無意識に警戒してしまう。
僕はそんなに社交的じゃないし、知らない人と世間話なんて自分からは無理だ。
でも、脚も腕も僕の好きな白と同じ昼間の月みたいに透き通るような白い肌。綺麗だなと思った。
「ねえ、この希死念慮待機施設に入ったのっていつ?」
振り返った彼女は、雑誌やネットで見かける美人とはちょっと違うけど、全体的にバランスのいい容姿をしている。それに、凛とした雰囲気で優しく微笑みかけてくれた。だけど、口調はどこか荒っぽい。
二つ年上くらいに見える。けどやっぱり僕よりも年上で二十代前半だと思った。
どこか子供っぽくて、なんだか馴染みにくい周波数が出ている感じだ。女性も子供もこの施設にいるけど、正体不明の彼女とどう接したらいいかわからず、愛想笑いもろくに出来なかった。
「僕は、丁度十年くらい前ですけど」
「へえ。ココでの生活にはもう慣れた?」
十年だぞ。慣れない奴の方が珍しいだろう。
悪気はなさそうに見えるけど、僕は法に従い、自分の体に合う移殖相手を待つ身なのだから、もっと気を使った言い方くらいしてもいいじゃないかと思った。でもきっと、これが彼女らしさなんだ。
僕が我慢すれば済む。もうすぐ十一階に着く。
それにしてもこの独特な雰囲気。なんかわかっちゃった。多分彼女は希死念慮者だ。
この施設に来てこのマイペースな態度。きっと提供者になろうとしている人だ。
希死念慮って言うのは、自殺願望が生活していくにつれて死にたくなったと言うのとは少し違う。ただ生まれつきの病気のように漠然と死にたいと思っている人のことで、最近じゃそう珍しくはない存在だと言われている。
だけど、この施設までたどり着いたってことは、結局は安楽死を求めた自殺志願者ってことだ。希死念慮者だろうと自殺志願者と大差ないという人もいるけど、僕は違うと思っている。
自殺する人よりも、常識人か異常者のどちらかだ。
「慣れたというか、今、僕は十七歳で七歳からこの施設で過ごしていたから社会っていうか外の世界のことはネットとか授業で習ったことくらいしかわからないんです。この施設での生活が今のところ僕の人生の基盤です。慣れてますよ。とってもね」
希死念慮者だろうと自殺願望者だろうと、いざ移植手術ってなると自分から死を望んでこの希死念慮者待機施設まで国が定めた法の通りに来ても土壇場で逃げてくことが多い。
そんな卑怯者に振り回された施設の待機者たちを僕はたくさん見てきたし、ある意味そういう命や人間同士の理不尽にも慣れた。
でも、十年待ったって僕には適合率を満たした自殺者さえ現れない。
年齢を重ねるごとに、どんどん病状は悪化して結局、今じゃ内臓の大半が痛みを忘れなくなって体に染みついている。
けど、毎日をポーカーフェイスで穏やかに生きる。それが僕の性格で、ポリシーだ。でも、なんだか彼女に試されているような、おちょくられているような感じがして、嫌な気分がおさまらない。
「でもさ、慣れてないことすると、疲れるよね」
彼女は僕が顔色一つ変えないのに平気で話しかけてくる。
そろそろ話しかけてほしくないって顔をした方がいいかな。
「まあ、そうですね。疲れると思います」
今、実際この状況下が疲れる。
「けど、普段しないことすると楽しいこともあると思うよ?」
「そうなんですか?」
「わかんないけど」
わからないのかよ。
悪気のない笑顔は嫌いだ。なのに、彼女の晴々しい笑顔は案外嫌じゃないかもしれない。どこか魅力的な笑顔だ。
普段できないこと、健康な人が出来て僕には出来ないことが年々出来ないことも増えていくストレスをどこにもぶつけることの出来ない強いメンタルと弱い体、そんな自分の人生が楽しいわけない。
十一階に着いたので「どうぞ」と言うと彼女は「ありがとう。じゃあ、またね!」と言って軽く手を振り降りて行った。
僕はエレベーターから降りるのを忘れて、釈然としない気持ちを抱えたまま気がついたらまた一階に戻ってしまっていた。
またね。そんな言葉大嫌いだ。そう言って死んでいった友達の幼いままの何人かの笑顔がよみがえって、悔しくなった。
内臓全部が悪いだけで僕の脳は正常なはずなのに。今会った彼女の話し方や、質問に腹を立ててこんなボケたことをするなんて、今までの僕には考えられないミスだ。
彼女は急いでいるみたいだったけど、彼女の適合者になる奴は大変そうだな。裸足で行先はどこでもいいなんて、本当に死に急いでいるみたいだった。
でも、今まで自分が見てきた他の移植待機者の相手の希死念慮者は案外あんな感じの明るい人こそ、土壇場で逃げる人が多い。ああいうのは一番信用できない。あの人の命をもらうのは大変だろうな。
せっかく一階まで戻って来たんだ。まだ日は高いし、また中庭を少し歩くことにした。
僕はさっき彼女に話した通り、内臓を提供してくれる希死念慮者か自殺してしまった人が来るのを待っていて、この希死念慮者施設に十年間もいる。
僕がまだ母のお腹の中にもいない頃、母と父の住んでいた場所の近所で毒ガス自殺をしようとした人がいた。その影響は、両親ではなく、後々結婚した二人の間に出来た僕に影響がでた。
内臓奇形で僕の内臓は通常の人よりも早く劣化する体質として生まれてきてしまった。
自殺する人が多いこの国じゃたまにある話だ。自殺の副流煙なんて呼ばれている。
でも、僕はその自殺志願者や、自殺に失敗して脳死が確定してしまった人にまで、この十年自分の未来を託して生きている。
死にたい人から内臓をもらっていい世界と時代に生まれたおかげで、僕はまだ生に執着している。
浅ましいと罵りたければ、言えばいい。でも、僕の聞こえない場所でやってほしい。ネット主流の世界じゃ、見たくなかったことも、読みたくなかったことも知りたくなかったことも偶然知ってしまうことはある。けど、もう、なるべく放っていて欲しいのが本音だ。
さっきのエレベーターで一緒になった人は女性だったし、提供されるのも基本的に女の人だ。確か僕の三つ年上の女性が一緒の十一階に住んでいるし、その人の適合者なのだろう。
いいなぁ。適合者か。手術まで上手くこぎつければ、こんな監獄みたいなルールの付いたマンションっぽい施設から出られて晴れて普通の世界いで生きていける。
自殺したい人の命を臓器提供に使える法を創ってくれたのには感謝しているけど、なんで手術の日まで希死念慮者の人と最低でも三ヶ月はルームシェアしなきゃいけないなんて残酷なルールを設けたんだろう。それさえなければ心まで傷つかないで済むことがいっぱいあるのに。
恵まれた嫌な時代だ。