【それでも孤独はやってくる】

朝焼けか、夕焼けか、わからない太陽の光が、僕と病室を照らしていた。
僕はベランダになんとか首を向けた。僕の病室じゃない。木の枝が見える、僕の病室から見下ろしていた木とは種類が違うなと思った。 
栗の木?
「順平?」
 母さんの声。
「大丈夫?」
僕が訊きたいよ。僕はどうなったの?そんなことより可憐は?
「……彼女。もう、あなたの中にいるのよ」
 わかっていた。そうじゃなきゃ、僕が目を覚ますわけないたんだから。じゃなきゃ僕が死んでいたはずなんだから。
「意識がもっとはっきりしたらちゃんと話すけど、彼女、順平が目を覚ましたらすぐに言ってくれって言い残していったことがあるから、言うわよ」
 母さんは泣きながら僕に言った。「おはよう」と、たったの一言。
 それから僕はまた眠った。そして、何度も目覚め、眠り、目覚め、また眠る。そんな不規則な生活を繰り返し、自分の意識を保てる時間が長くなっていくのを感じ、母が傍に居てくれた時には「可憐は?」と「海斗は?」を二人のことを無意識に訊いていた。
「『かれん』って呼んでたって海斗君が教えてくれたわ。素敵な名前ね。順平がつけたんでしょ?カレンさんは順平と一緒にいるわ。安心して」とか「海斗君は最後の勝負で順平に負けたって笑ってたわ。とっても嬉しそうに」って、同じことを訊いた回数だけ同じ事を教えてくれた。
 そして一ヶ月もしたら、可憐が来る前の生活に限りなく近い生活リズムを取り戻していた。
 僕は母に可憐は?と訊かずに「可憐は自殺したの?」と訊いた。
 母はついにきたかって表情をしていた。本当のことを伝えようか伝えまいか、迷っているみたいだった。だから僕は「大丈夫」そう言って母の手を握りしめた。
 母はそうよねって感じで少しだけ微笑んで話し始めた。
「順平、『大丈夫』ってカレンさんに最後言われたの覚えてる?」
「うん。苦しかったけど、案外よく覚えてる。でも、頭突きされた先は殆ど覚えてないんだ」
「そうなの?そのあと順平は目をつぶったけど、そっか。覚えてないのに凄いわね」
「何が?」
 握りしめていた僕の手を母は、凄く強く握りしめてきた。ちょっと痛いくらい。
「こんな感じで、順平、カレンさんの腕をしばらく離さなかったの。彼女も驚いてたわ。両手であなたの手から腕を引っこ抜こうとして、グイグイ引っ張っていて、あなたの上半身もそれに合わせて浮いたり下がったりしてて、私も驚いたし心配したけど、カレンさん順平を引っ張って頭浮かせて、その隙に順平の枕、抜き取ってバンバンあなたの顔を叩いて、やっと手を引っこ抜いたの、医者も私も呆然としちゃった。なんだか、あの時はカレンさんと順平の二人きりの世界みたいだった感じがしたわ」
 僕は最終的に頭突きじゃなくて枕に負けたのか。
「順平が手を放した後、彼女、凄く安心したみたいな溜息ついたの。それに、やたら嬉しそうに笑っていたわ。それから私の耳元で『私のランドセルを順平が欲しがったらあげてください。あと手術が終わって順平が目を覚ましたらすぐに『おはよう』って私が言ってたって伝えてください』って」
「それで?」
 その先をもっと知りたい。じゃないと、僕が今こうやって生きている真実がわからない。知りたい。可憐のこと、今からでも、ほんの少しでも、もっと知りたい。
「突然着ていた服を脱ぎ始めて、お母さんも何が何だかわからなかったけど、クローゼットから出てきた水色のワンピースに着替えて、薄い白のレースを肩に巻いて、白くて可愛い靴に履き替えて……」
 全部僕があげたプレゼントだ。あげた時はあんなに不機嫌になったのに、結局とっていてくれたんだ。
「母親としては、ちょっと複雑な気持ちになったんだけど、順平の唇にキスして」
「キス?」
「そう、キス。別れの挨拶だったのか、ルームシェアしてる間、普段からしてたのか気になってたんだけど、年頃の息子にこんなこと訊くのはダメよね。答えなくていいから」
 顔を赤面させて照れている母に少し笑ってしまった。きっと家に帰ったら母に可憐との思い出をいっぱい話すと思うけど、ソウイウ話はしないようにしよう。
 でも僕のプレゼントを見に纏って、最後キスしてくれたってことは、可憐は僕をクソジジイと同じくらいには愛してくれていたのかな。
 愛の形はきっと決まったものじゃないはずだから、可憐なりの愛情表現だったって思いたい。
けど、母親に好きな子がバレちゃったみたいで、なんだか恥ずかしいな。どうしようもなく照れくさい。
「でもね、キスした後は、たったの十秒の出来事。ベランダに出て、順平を眺めるみたいに後ろ向きでベランダの手すりに座って、仰向けに倒れるみたいに落ちて行ったの。すぐに脳死確認されて、順平へ移植手術になって」
 母はとても寂しそうに見えた。案の定、すぐに寂しさが悲しみに変わって、涙をこぼした。
「ごめんね。私、順平が無意識に握りしめて離さなかった人を助けてあげられなかった」
 それは僕も一緒だ。出会った日は可憐を無意識にでも助けてあげられたのに。
「母さん。話してくれてありがとう。これからは僕が可憐との思い出いっぱい話すよ。何度も同じ思い出を語っちゃうかもしれないけど、聞いてほしいな」
「お母さんも、聞きたい。たくさん話して。何度でも聞かせて。聞き飽きたなんて絶対に思わないから」
「うん」
 次の日、木の見えない十一階にある僕の部屋に僕は移動した。
可憐のベッドや服はなくなっていたけど、ベッドの横には彼女のランドセルが置いたままだった。僕にとっては赤で、彼女にとっては朱色のランドセルだけが、彼女の唯一の遺品で、それ以外は何も見あたらなかった。 
しばらく僕はそのランドセルだけを眺める日々が続いた。抱きしめるように触りたかったし、中に何が入っているのか見たかったけど、出来なかった。身体が完全に回復してなかったとかそういうんじゃなくて、僕の知らない可憐の思い出がその中に詰まっている気がして、少し怖かった。
 もう可憐に何も訊けないんだって、自分の体調が良くなっていくにつれ、思い知ってしまった。だからって何も考えないようにするなんてことも出来なかった。
 健康になってきたはずなのに出来ないことだらけだ。
 後悔ばっかり残っている。
 出来たらこんな形で出会って、こんな形で一緒になりたくなかった。
 彼女には申し訳ないけど、生きていてよかったって今は全然思えない。
手術中、走馬灯の中にいるみたいな会話をしたのは僕の妄想だった?
 彼女の最後の言葉は『やっと私の居場所が見つかった気がする』であってる?
 教えてほしい。まだ訊きたり足りない。可憐を知りたい。
 なんで、毎日悲しいんだろう。馬鹿みたいに涙が止まらない。どうして、生きたいなんて思っていたんだろう。
 可憐に会えない。思い知れば思い知るほど、この法にルームシェア制度なんてものがあるか今ならその本意が理解できる。誰かの命じゃなくて、少しの間でも一緒に過ごした人の命をこの先、生きてる間、決して粗末にしないようにって国からの戒めだ。
 可憐を愛し失った人は、僕だけじゃない。可憐の家族、友人、海斗、母さん。他にも可憐に会えなくなって悲しんだり苦しんでる人が、僕が思っている以上にいるかもしれない。そう考えるだけで、罪悪感で生きていていいのか不安になる。可憐と僕が望んだ結果なのに、僕の中に可憐がいるのに、こんなにも孤独な気持ちになる。その孤独を感じている自分を浅ましく感じる。
 どうしたらいいんだ。どうやってこの気持ちと向き合いながら生きていけばいいんだ。
 何日もどうしたらいいのかわからない孤独な日々が続いた。
 海斗が部屋に来てくれても、僕は埋められない不安や罪悪感や孤独を一瞬も忘れられず、海斗を抱きしめながら泣くことしか出来なかった。海斗にそんなことしちゃいけないって心じゃわかってた。 
 だけど、海斗は笑って、僕の心臓の音を毎回聴いてから帰る。「可憐さんの音だ」って呟く日もある。そして必ず去り際に、よかったなって言うみたいに僕の頭を撫でてくれた。
 僕の施設退去の日程が決まったと、母が教えてくれた。今まで引越しのように施設内で部屋が変わることはあった。けど、可憐との思い出はココにしかない。
 もう、ココに戻ってこられないと思ったら、また涙が出て簡単に重力に負けて涙の粒がポタポタポタポタ情けないくらい目から落ちてきた。
 可憐と作りたかった思い出がいっぱいあるのに、もう叶わない。
 内臓をもらったってお互いの意識を体の中で共有なんて出来ない。
 提供を辞退してほしいって言った時に可憐に生きていて欲しくて勝負を受けちゃったけど、こんな命賭けの勝負なんてしなきゃ僕はあの日死んで、今も可憐は生きててくれてたのか?
 日々、生きる葛藤も強くなっていく。
 気持ちが少しでも晴れるように、よく晴れた昼下がりに、自分の部屋に戻ってから初めてベランダに出て流れていく雲を見つめた。
ねえ可憐、やっぱり勝手に死んだらダメなんだよ。生まれてきちゃったんだから仕方がないんだ。
どうしようもないんだ。生きてれば嬉しいも悲しいもあって当たり前だ。安らぎを感じることも、感情が乱れたり、死にたくなるのも、死にたくないのも、生きたいって思うことも、想像することも、忘れていくことも、忘れたくても忘れられないとか、生きていなきゃ、感じなきゃ、ダメなんだよ。
「可憐」
 そう呟いて、なんとなく僕は、僕が作れる中で一番複雑な折り方の立体折り紙を作ろうと思った。紙を床に四枚敷き、今まで作ったことない大きいサイズにした。立体になったら多分サッカーボールくらいの大きさになるはずだ。夢中で作った。完成させること以外のことは全部忘れていた。生きている実感が全神経に響き渡る。これが生きているってことかもしれない。
僕は可憐と一緒に生きていくけど、生まれ変わったりなんかしていない。生まれた時からずっと僕だ。死ぬまでずっと僕だ。
立体折り紙が出来上がった時には、夜空よりちょっと早く月が姿を見せていた。
僕は二次元の状態にした立体折り紙を、ベランダから落とした。風がなくてよかった。立体折り紙は、ほぼ真下に落ちて、駐輪所の屋根に当たった衝撃でちゃんと形を変えて膨らんだ。
 同じ紙が、形を変える。二次元から三次元に。でも、同じ紙だ。
 同じ人間同士でも、可憐とは考え方が違っただけだ。願っていたことが正反対だっただけだ。それなのに、愛せた。出会えたことよりも恋が出来たことを運命と言いたい。
 僕は、思い切って可憐がたった一つだけ残してくれた赤にしか見えなかった朱色のランドセルを抱きしめて、中を開いた。
――――……ランドセルって背負わなくなったら宝箱になるよね。 
 この言葉で、僕は未練がましくとっておいた自分のランドセルに可憐が作ってくれた歪な立体折り紙を入れていた。モノに執着しないようにして来たけど、このランドセルは宝物以外の何物でもない。
 だから可憐が、僕の作ってきた立体折り紙と、三枚しか描いていないラブレターのスケッチブックを宝箱のランドセルにしまっていてくれていたなんて知らなかった。
クローゼットの引き出しにでもしまい込んでいて服と一緒に処分されたと思っていたのに。
ランドセルは宝箱で宝物でもあり、ちゃんとその勤めを果たしていた。
僕はランドセルを床に少し強めにドンと置くと、二次元だった立体折り紙たちが、ポップコーンがはじけるみたいにランドセルの中いっぱいに膨れあがった。
 僕の宝箱も可憐の宝箱もランドセルで中身の宝物も一緒だったのが嬉しいのに、可憐とこの事実を共有できないのが悔しい。それなのにやっぱり喜びが止まらない。
 出会った頃、可憐が僕とは気が合いそうだって言っていたけど、本当だった。生きたいと死にたいじゃ全然考え方が違うけど、気は合っていたんだ。だから、仲良く出来た。可憐が僕に歩み寄ってくれていたんだ。
二度と可憐に会えなくなってしまったことは悲しいし、苦しくて、本当にどうしようもない感情だけど。向き合っていけそうな気がする。
 僕は自分の胸から下半身に向かっている長い一直線に伸びた腹の傷を撫でた。
僕の中に別の命がいる。僕の命の一部ではない。全く別の命。
自分の中で可憐が生きている。生きているなんてそんなきれいごとを言ったって、僕は可憐を生み出すことは出来ないし、彼女にはもう会えない。可憐に会いたいって夢はもう叶わないし、彼女との未来はいつも自分の中にしかない。
だけど、生きたいって昔からの夢は叶ったんだ。文句なんか言えない。理不尽だなんて思ったらいけない。
 僕は生きることをずっと望んでいた。それはこれからだって変わらない。可憐が最大級に僕の夢を応援してくれている。
 胸に手を当て、ゆっくり離し、手のひらを眺めた。自分の手とは思えないほど可愛いピンク色をしていた。
「夏の匂いがするね。アスファルトが焦げる匂いと、葉っぱが成人した匂いに、木陰から生まれた涼しい風の匂い。それから、大好きな女の人の鼓動が聞こえる」
 可憐の真似をしてポエムを読んだ。誰に言うでもなく、ただの独り言なのに、誰かが聞いている気がする。
 僕はその誰かが可憐だったらいいなと思った。
 僕も生きていたら死んでしまいたいなんて思う些細なのに嫌でたまらないことをいつかきっと経験する。
 そうだ。生きたいって願い続けてきた僕だって、いっそ死んでしまったら楽なのかもしれないって思ったことだってあった。自分の命を犠牲にしても守りたくなる存在が出来て死ぬって運命を受け入れようとした。でも、これからはもっと生きること以外は選んだりしない。やることがなくなるなんてこと、これからはない。歳を取って出来ることが少なくなっても、それでも許される範囲でいいから、なんでもやって生きてみよう。
 可憐は退屈とか暇に耐えられる人じゃなかったから。僕も真似して生きてみよう。
それが僕らしくなるように。