【明日がどうなるかなんてわからないんだから】

 怖がることも不安になる必要もない。もう大丈夫だ。
だって今朝もちゃんと目が覚めた。
「おはよう順平」
 可憐もちゃんといる。
「ピアノを弾きたいの。朝ご飯食べたら一緒に行ってくれる?」
「うん」
 朝食はまた僕だけ御粥で、可憐よりおかずの量も少なかった。
「可憐って好きな食べ物とかあるの?」
「好きな食べ物?岩塩」
「岩塩って、あの塩が石みたいなやつ?」
「うん。昔はよく飴玉感覚で食べてた。希死念慮者更生施設入ってからは全然食べてないけど」
 なんて丈夫な腎臓だ。よく身体検査で引っかからなかったな。
「順平の好物は?」
「僕?なんだろう。健康維持のために具合が悪い時以外は基本的に残さずなんでも食べるから、これと言って好きな食べ物ってないかも」
「じゃあ、社会に出たら今までの病院食とは違う美味しいものたくさんあるから、順平の本当の好物が見つかるといいね」
 可憐は昨日の喧嘩の内容と勝負の内容を寝ているうちに忘れたのかな?
「あのさ可憐、昨日の勝負のことちゃんと約束してくれるよね」
「もちろん。負ける気ないよ」
 体調は悪くない。今日を入れて四日。負けるつもりはない。僕は可憐に自分の未来を生きてもらう。母さんには申し訳ないけど、僕は可憐の命を奪いたくない。我儘言ってこの施設に入れてもらって、たくさん迷惑かけてきたけど、一生懸命やって出した僕の結論を母にも理解してほしい。
「可憐ってさ、ピアノ何分ぐらい弾けるの?」
「既存曲のメドレーでも、フィーリングで適当に弾いてるやつでも腕が疲れるまで弾けるから、休憩入れないで弾くなら多分二時間くらい?」
 二時間って、映画一本分くらいってことか。凄いな。まあ、僕も立体折り紙で複雑なものを作るのにそれくらいの時間かけているか。
「そもそも可憐はピアニストになろうとか思わなかったの?」
「独学だし。家にピアノがたまたまあっただけだし、今も自分が知ってる曲と、フィーリングで作った曲ばっかり弾いてるからなぁ。まあ、一回聴いたらだいたい弾けるけど、その分アレンジいっぱいいれちゃうし。プロには向いてないって自覚あるよ」
「あんなに上手いのに」
「それに五歳で賞取ってスピーチで早く死にたいなんて言ったこと、ネットですぐにバレちゃうだろうし」
 そう、調べればきっと可憐のことがわかる。でも、調べなかった。この先も、きっと本当の可憐のことを詮索しないでおこうと思っていた。
 教えてくれたことだけが思い出になればいいなと思ったからだ。
 けど、可憐のことを調べたら、死にたい以外の答えを見つけてあげられるのかな。今は、なんとか説得して提供辞退してほしいんだけど、流石希死念慮者更生施設を搔い潜って来ただけある。僕ごときじゃ可憐を口頭で説得するのは難しそうだ。あと四日でなんとか出来るのか?
 けど、負けるわけにはいかない。僕も可憐も命を賭けているんだ。
「可憐、曲のイメージリクエストしてもいい?」
「いいけど、珍しいね。いつもはぐらかす癖に」
「可憐に手紙を書きたいんだ。だから、可憐がピアノを弾いてる間に書きたいからなるべく長くピアノを弾いてほしいなって」
 可憐は、「ラブレターくれるの?」と僕をからかうように言って、笑いながら「いいよ」と付け加えてくれた。
 ラブレターっていうか、遺書のつもりなんだけど、まあいいか。ラブレターでも。
 この中庭で可憐のピアノを聴けるのはもう片手で数えられる回数しかない。
 けど、僕はピアノを弾く可憐が大好きだから、聴きながら思ったことを彼女に向けて書きたい。死にたいなんて、希死念慮なんて、そんな考えもう捨ててほしいから、一生懸命書こう。
「順平、曲のイメージは?」
 鍵盤に置いた可憐の手が楽しみにしているように見える。
「可憐が僕に出会う前と、僕に出会ってから今日まで一緒に過ごした日々と、可憐の想像してる未来」
 僕は膝に購買で買ったスケッチブックを乗せ、シャープペンと、懐かしくてなんとなく買ってしまったクレヨンを準備して、グランドピアノの脚に背を預けた。
「順平にしては具体的なリクエストだね。いいよ。二時間じゃ収まる曲じゃないかもしれないけど、順平が書き終わったら途中でも止めればいっか」
「そんな勿体ないことしないでよ。限界まで弾いて」
「はーい」
 可憐は困ったように一瞬笑ったあと、すぐに真剣な表情になって、指を泳がすようにピアノを弾き始めた。
 三拍子で随分ポップなはじまり方だった。僕に出会う前ってこんなに軽やかだったのか?僕は持っていたシャープペンを置いて、真新しい十二色のクレヨンから水色を選んで、紙全体を塗った。
 曲の三拍子はすぐに音の数を増やし複雑な四拍子に変わって、釈然としないメロディーになった。まるで同じことの繰り返しで、飽きが来るようなそんな感じで、希死念慮者更生施設にいた時の可憐かな?メロディーから可憐の過去を想像しつつ、紙には水色に染めるように塗った上から、白を軽く乗せるように薄く散りばめながらクレヨンをランダムにスイングさせた。
 そして突如、曲はまた明るく走り出したように音符が弾けていく。僕に出会ったのかな?それとも適合者に近い存在を見つけて可憐が体力造りをしている頃かな?わからないけどなんだかカッコいい。凄く前向きな感じで、嬉しくなる。
白に塗った部分に影をつけるように灰色のクレヨンを白よりもっと薄く紙に乗せると、随分リアルな雲が描けた。
 もっと。もっとだ。僕の好きな空になれ。
 ピーンと、鍵盤の一番端にあるくらい高い鍵盤が鳴り、世界が変わったような感じがした。僕は無意識に初めて可憐に会って話していたらすぐに彼女がベランダから落ちようとし
た映像を思い出した。その一音が消えかけた瞬間、溶けるような安心感のあるメロディーが復活するように流れ出した。可憐は一度も曲を止めていないのに新しい曲を弾き始めた
みたいに、生まれ変わったみたいに、何かから解放されるような音符を並べていく。
 僕は雲の隙間部分に野球ボールを二つに割ったようなサイズで白く透き通った昼間の月を描いた、夜に置いて行かれた月、あるいは夜より早く姿を見せた月。
 本当は文章で可憐に手紙を書くつもりだったのに、言葉は思いつかない。
 きっと彼女が僕に伝えたいことは全部この曲に詰まっているんだと思う。
 切ない夜が、特別な思い出に変わって、アレンジなのかレットイットビーの伴奏が微かに混じり、曲は人生を謳歌するようにどんどん大胆になっていく。
 僕は、ピアノから少し離れて、スケッチブックの二枚目に可憐がピアノを弾いている姿をシャープペンでスケッチをした。
 白くて短い髪。美人でも可愛いでもなく可憐な彼女を一生懸命模写した。
 今、可憐が僕に伝えようとしていること、僕が可憐に伝えたいことは、きっと一緒だ。
 出会えてよかった。
勝手な僕の思い込みだって笑われてもいい。僕らは命を賭ける喧嘩中だけど、今、可憐が弾いてるメロディーが、可憐の描いた未来で、何もかもが優しくて挑戦的で僕の初恋が勇気に変わっていく。
可憐。なんで死にたいの?ずっと理由が知りたかった。
でも、今はもう死にたい理由を知らないままでいいと思った。だって、僕が生きたい理由だってわからないんだから。
スケッチブックの三枚目に可憐の横顔をアップで描いた。だけど、髪の毛は短くて白い可憐じゃない。出会った時の長い黒髪の可憐。
とっちも好きだ。どんな可憐も好きだ。
 この曲にきっと終わりはない。
可憐は終わらせない。
新しいものに影響されて、世界が、メロディーが、変わっていく感覚。この曲が、もう可憐のいない僕の未来に変わってしまったんだと気がついて無条件で怖くなった。
演奏中の可憐を抱きしめ曲を無理矢理止めた。持っていたスケッチブックは床に落ちた。
「順平?もういいの?」
「うん」
「そっか。でも、確かにこうやって順平が止めてくれなきゃこの曲終わらなかったかも」
この曲みたいに僕が無理矢理可憐を止めるなんて嫌だ。やっぱり可憐の未来を終わりにさせたくない。可憐が僕の未来を弾き続けようとしたみたいに。僕だって可憐の未来が欲しいんだ。
 可憐は落ちたスケッチブックを拾って、昼間の月と、ピアノを弾く白いショートヘアの自分の絵と、出会った時の長い黒髪の自分の横顔の絵をゆっくり眺めて、愛しむように僕に笑いかけてくれた。
「もう私、二度とピアノは弾きたくない」
「なんで?」
「弾く理由がなくなった気がする」
「僕が明日弾いてって頼んでも?」
「そう。今の演奏が最後」
 可憐は安心したように溜息をついた。
「順平、このスケッチブックもらっていいんだよね?」
「うん。言葉には出来なかったけど、僕の一生懸命描いたラブレターだから、受け取ってくれないと結構ショック」
 可憐は前に自分のランドセルを大切そうに抱きしめた時と同じように、スケッチブックを抱きしめてくれた。
「宝物にする。順平って手先も器用だし絵もうまいんだね」
「そうなのかな?」
「そうだよ。この三枚は私の秘宝だけど、もっとたくさんの人に順平が描く絵とか折り紙を見せてあげたい」
「ありがとう」
 手術の日まで可憐のピアノはもう聴けない。寂しいなあと思ったけど、それ以上に納得もしていた。
 部屋に帰ってもすることがなくて、また試し合うような質問をしあった。個人情報のやり取りはルール上禁止だけど、提供者、つまり可憐の個人情報にあたる実家の住所とかを訊かなければ別にいくら質問しあったって大丈夫だ。今はルール違反をしてでも可憐からの提供を辞退させたかった。
 次の日も、次の日も、次の日も、ずっと他愛もない質問をしあい、時にはお互い思い出話をした。あっという間に過ぎてしまうと感じてもおかしくないくらい、楽しくて、可憐を知れる度嬉しくて、幸せなのに、なぜか時間がやたらとゆっくり感じる気もした。今まではすることもない日でも終わってしまうのを早く感じていた。このまま人生があっという間に終わってしまうんじゃないかって一日一日が不安で仕方がなかったのに。
 明日はいよいよ手術の日だ。
「おはよう」
「おはよう可憐」
 あ。なんか、胃が痛い。
「どこか痛いの?」
「胃がなんか重たい。二日酔いしたみたい」
「順平お酒飲んたことあるの?」
「ないけど?」
「じゃあ二日酔いじゃないと思う」
 まったくその通りだ。
 胃に違和感を感じながらも、朝食を完食した。可憐は完食した上にご飯をお代わりした。そうやってさりげなく僕との適合率を下げないように努力してくれている可憐が愛おしくてたまらない。
 だけど、負けてたまるか。明日の手術一時間前まで僕が危篤状態にならなかったら僕の勝ちだ。可憐はココを出て生きるんだ。
 さっき食べたばかりなのに。そう思うくらいベッドでウトウト眠気と戦っているうちに昼ご飯の時間が来た。
 完食したかったけど、胃がヒリヒリして、なんだか下っ腹も痛くなってきて半分くらいしか食べられなかった。そんな僕を見たら、可憐はいつもなら完食して終わりなのに、今日はご飯をお代わりした。こんなこと初めてだ。
「順平、私、下の自販機行って飲み物買ってくる。順平も何か飲む?」
「いや、今はいいや」
「わかった」
 可憐は裸足のまま部屋を出て行ってしまった。なんでそんなに急いで行く必要があるんだろう。可憐は死に急いでいるけど、明日からはそうはさせない。
 可憐のランドセルが凄くきれいな色に見える。これが赤じゃなくて朱色か、と初めて思った。中には何が入っているんだろう。
 部屋に可憐がいないうちに見ておきたいと思ってしまった。明日になったら可憐はこのランドセルを持ってココを出て行くんだから。チャンスは今しかない。まあ可憐なら言えば見せてくれるような気もするけど、それを言う勇気が湧いてこない。
 可憐のランドセルに手を伸ばそうとしたら、眠くてたまらなくなって、目が開けていられなくなった。
 おかしいな。昨日の夜は可憐とルームシェアを始めた時みた時と違って、ちゃんと寝たのに、起きてから午前中も眠かったしほとんど寝ていたみたいな気分だ。じゃあ、なんで今も眠いんだ?
 可憐、早く帰ってきて。なんかお喋りでもしてないと眠いよ。
 ねえ、本当に飲み物買いに行ったんだよね?海斗も飲み物買ってくるって言ったけど、つい最近そうじゃなかったことがあるんだよ。可憐は違うよね?
「走ってよ!」
 部屋の中にいてもわかるくらい、大きな声で可憐が言ったのが廊下から聞こえた。
走ってって、無理だよ可憐。今日は特に走れそうな気分じゃないし、そもそも僕はもう何年も走れないし、走っちゃいけないって言われてるんだよ。
「順平!」
 母さん?
「細谷君!」
 誰だ?医者?
「順平!順平!順平ッ!」
 母さん、そんな大きな声出さなくても聞こえてるよ。
 ん?僕声に出してるつもりなのに、声が出てない。
「順平。私が勝ったよ」
 可憐の勝ち?
 瞼を無理矢理こじ開けられて眩しいライトで照らされた。
 ああ、ちょっと待ってよ。嘘だろ。
「順平のお母さんと医者連れてきたよ」
 海斗といい、可憐といい、まともに飲み物だけ買ってくる奴はいないのか。
「あとほら、リンゴジュース」
 冷たい紙パックに入っているであろうリンゴジュースを可憐は僕のオデコにちょこんとつけた。
 少し眠いだけなのに、体がいうことを効かない。
 瞼がいつもの十倍くらいのスピード瞬きをするせいで、可憐の姿をとらえるのが難しかった。けど、何食わぬ顔で買ってきたリンゴジュースをストローで啜っている姿が見えた。
 勝者の笑みを浮かべながら僕を見降ろしている。
「順平は危篤ですか?」
 可憐が医者に訊かなくても自分でもわかる。自分が今、人生最大のピンチだってことくらい。
「先生!順平は!順平は……」
 母さんの不安そうな声を聞いたら、伝染するみたいに一気に僕は不安になって危機感で、体中が痛み出した。
 このままじゃ、死ぬ。明日の手術一時間前までなんて持ちこたえられる自信がない。
怖い。そう思わずにはいられないのに泣きながらその言葉を連呼することも僕は出来なかった。
 鼻水が上手くすすれなくて、肺が上手く膨らまない。
 大腸と小腸の場所がはっきりわかる。胃の位置も腎臓も形も全部わかって全部痛い。
 僕は今、死にたくない。まだ。もう少し。生きてたい。ちゃんと動いてくれ心臓。百歳までなんて贅沢は言わない、長い時間じゃなくていい。それでも、生きたいそう思っていたけど、あと一日でいいんだ。
 十年間で何本の注射をされた?薬を何千粒呑んだ?精神的に辛かった日々もなんとかやり過ごしてきた。だから、あと一日くらいおまけしてくれよ。
死ぬのが怖いって感情が体中から汗になって溢れてくる。でも、本当に怖いのはそれだけじゃない。
「なんで、僕が、危篤になる、って、わかったの」
「私の勘が外れないのは、私がそれだけ順平を観察してたから。それでね、もうそろそろなんじゃないかって、思ってた」
 女って怖い。いや、可憐を失う方が今は怖い。僕はもう可憐を恐れたりしない。
「勘、鋭、すぎ、だよ」
「当たり前だよ。自分を大切にして、自分を信じてる人間の方が頼りになる。順平は元々穏やかで、どこかそっけなさもあるけど、自分より私を大切にした。だから、私に勘じゃ勝てないよ。順平は賭け事にはとことん向いてないタイプだね。これから先、覚えておくといいよ」
「意地、悪」
「勝負ってのは甘くないの。逃げなかっただけ順平は偉いけど、経験が足りない。これからは気をつけてね」
「ははは」
 声を出して笑ったら、変な声で恥ずかしい。好きな人の前でこんなに無様に勝負に負けて終わるのか?可憐のいない未来が始まってしまうのか?
「私が守るよ。これからずっと」
 身体がこんなギリギリの状態でも僕は痛み以外にもう一つ我慢していることがあった。
僕は可憐の名前を、呼ばなかった。
 だって、さっきから母さんじゃなくてリンゴジュースの紙パックで冷えて湿っている、どこか暖かい可憐の手が、僕の手の上に両手を乗せているのが分かるから、優しさ以上のものが伝わってくるから。
僕が名前を呼んだりしたらすぐに彼女は逝こうとするだろう。そういう勝負なんだ。
 命がけの勝負中なんだ。
 可憐は僕がいいと言ってくれたけど、僕はやっぱり彼女の命を奪いたくない。そう思っていたのに、今は可憐が欲しい。
 内蔵じゃない。可憐との未来が欲しい。
 自分自身じゃない人間の気持ちは永遠に理解できなくても。人は好きな人のことを知りたいと思うものなんだ。
僕がこの瞬間に死んで、毎日電話もメールも出来なくたっていいから、彼女の考えを少しでも変えたい。生きていてほしい。少しでも長く。また希死念慮者更生施設に戻ってでも、生きてほしい。僕以外の適合者なんか可憐に現れなければいい。いや、海斗の心臓にだって彼女はなれる。ダメだ。可憐は可憐で生き抜いてもらいたいんだ。海斗は海斗で一生懸命やってほしい。
命は一人に一つだけ与えられた特別な贈り物で宝物。
 結局僕が一番我儘で自分勝手だけど、こんな時くらい願ったっていいだろう。
僕が今こうして苦しそうな姿を見て可憐に一緒に怖がってほしい、死ぬのは怖いことだって、思ってほしい。
 可憐に生きてほしい。
 だけど可憐はきっと、僕が名前を呼んだらきっと……
「順平。大丈夫だから。私は希死念慮者だよ?死ぬのが怖かったらココにはいない」
 嫌だ。わかっている。可憐ならそうするだろうって、僕はわかっている。
「待ってて。今度は私が助ける。順平に会うまでは死にたくてココに来たけど、初めて会った日、ベランダから落ちて死のうとした私を順平は迷いなく助けてくれたでしょ?あの時から順平は私の命の恩人になったんだよ。だから。私は、恩返ししたくて今も順平の隣にいるんだよ。勝負とか関係ない。でも負けて強くなる人だっている。順平は順平を強くしてくれる人にこれからたくさん出会える。たくさん勇気をもらえるし、誰かに勇気をたくさんあげられる人になるよ」
 僕を覗き込む彼女には決意の笑みが浮かんでいた。
「死ななくていいんだよ」
 僕の手から離れた可憐の手は僕の両頬を捕らえると「大丈夫」と、力強く言い放った。
「か、ぇん。」
 我慢していたのに、いざ呼んでみたらちゃんと名前を呼ぶことも出来なかった。
「かれ、ん。今まで、生きてて、何が一番楽しかった?……何が一番悲しかった?」
熱い。内臓が干からびてしまいそうなほど。苦しい。でも、これが可憐に会える最後なら、教えてほしい。
「最後に順平と本気で喧嘩したの凄く楽しかった」
喧嘩が楽しかったなんて、可憐は面白いな。
でも、実は僕も、自分はもうすぐ死ぬとか何も考えないほど、あの時の喧嘩は楽しかった。
「僕も」
僕のオデコに彼女の手が添えられた。冷たくて気持ちいい。その死体のような冷たさから彼女の緊張が伝わってくる。これから自分がしようとしていることを想像しているのかもしれない。
「けど、順平が私に提供辞退してほしいって言ったこと、悲しかった」
「ご、めん」
「ホントだよ。凄く悲しかったんだから」
「ねぇ、まだ死にたい?」
「うん」
 声出ろ。畜生。
「……もったいな」
 声帯が塞がれていく。喉の奥が潰れそうだ。でも、今思い出しちゃったんだから、訊いておきたい。僕と可憐の時間は、もう今しかないんだ。
「そう?私の体はリサイクルできるんだけど」
 なんてこと言うんだ。
「……ばーか」
「ひどぉ!でも、まぁ確かに馬鹿なのかもね」
 可憐は背筋を伸ばし、ゆっくり大きく深呼吸した。
「順平。この場所で十年も私を待っててくれたこと、本当に感謝してる」
彼女は出会った時から本気だった。セックスした後だって彼女は提供を諦めてないって言っていた。
でも、提供したら死んじゃうんだよ。そんなの嫌なんだよ。
可憐死ぬなよ。
声が出なかった。でも、察しのいい可憐にきっと届いたと思う。

「でもさ、順平。私もうちょっと生きることにした」
 ――――……そうだよ。生きてよ可憐。
「一緒に生きよう」

僕のオデコに可憐が自分のオデコを思いっ切りブチ当ててきた。その頭突きに悪意はなく、僕を楽にさせてくれた最後の一撃だった。
意識は失ったのに、僕の思考は確かに存在していた。
もう僕の負けだと思った。
 死なないでという僕の願いより、一緒に生きようという提案には勝てない。だってやっぱり僕はこれからも本当に生きたいんだ。
それに、理解できなかった可憐の死にたいって気持ちは今、僕と一緒に生きように変わった。
 僕の願いは可憐の意思に負けたけど、可憐のただ死にたいって気持ちを一緒に生きようって気持ちにまで持ってこられたことが嬉しい。
希死念慮。
その考え方を持った可憐が僕の命を救うことに繋がるんだろうけど、同時に僕は可憐から命を奪い、いつまでも僕は可憐に伝えられない言葉を抱えながら死が訪れる日まで生きていくことになる。
 僕はそんな未来に耐えられるのか?わかんない。だから凄く怖い。一秒先が怖い。
ねえ、可憐も怖かったんじゃないの?誰かの、愛する人の死を看取って残されていくことを本当は怖いって思っていたんじゃないの?だからクソジジィが好きなんじゃないの?
僕は怖いよ。僕の体の中に可憐がいても、目を覚ましたら笑顔の可憐がいない世界になっているなんて、死んでしまいたいくらい怖いよ。

可憐。君は大丈夫だと言ったけど、きっと大丈夫になるのは身体だけで、僕の心は全然大丈夫じゃなくなるよ。
――――……そんなことないって。
あるよ。
――――……順平は私を忘れるくらい毎日を夢中に生きなよ。
忘れるわけない。可憐がいなくなったら寂しいよ。
――――……なんかありがとう。嬉しい。
ううん。お礼を言わなきゃいけないのは結局僕の方だ。
――――……じゃあ、ごめんね。順平がそんなに私がいなくなったら寂しくなるなんて考えもしなかった。
嘘だ。知ってたでしょ?僕は可憐に生きてて欲しいって言ったし。僕はちゃんと死を受け入れようって思ってたんだからね。
――――……そうね。セックスだけして私のこと突き放そうとしたもんね。
皮肉にとらえないで。提供辞退してほしいくらい自分よりも可憐に生きていて欲しいって思って言ったんだから。
――――……わかってるよ。それくらい。
可憐、僕はね、君のことが本当に好きなんだよ。もっと一緒にいたかった。デートとかしてみたかったんだ。
―――……じゃあ、元気になったらたくさんデートに連れて行ってね。
うん。一緒に映画とか観て、おいしいもの食べに行って、いろんな場所に行こう。買い物も付き合ってね。女の買い物は長いなんて言うけど、僕もきっと買い物長い方だと思うから。
―――……いいよ。いくらでも付き合ってあげる。ずっと。
けど、やっぱり可憐と、もう一回くらいさ、一緒のベッドでさ、その、また、なんていうか、もっといろんなこと、してみたかったなって思っちゃうよ。ダブルベットが欲しい。
―――……ばーか。
ごめん。でも本音。
――――……ねぇ順平。
なに?
――――……私は私のために死にたかった。だから、移植相手は誰だっていいって思ってた時期もあった。でも今は、ううん、これからは、順平でよかったって思う。
ありがとう。
――――……ずっと本当のこと言えなかったけど、本当は死にたいなんて思ってなかったの。
え?
――――……でも、同じくらいどう生きたらいいのかわからなかった。だから、死んでもいいくらい好きになった順平に私の命を託したかったんだ。
ちょっと待って!
――――……私に新しい名前をくれてありがとう。出会えてよかった。形が変わっても私を好きていて。

掴んでいた可憐の手が離れて、僕等は向き合うと、彼女は「やっと私の居場所が見つかった気がする」と言い、達成感のある不敵な笑みを浮かべて、僕を弱々しく抱きしめると僕の中に暖かく溶け込むように姿を消した。

それでも腹の底から彼女の楽しそうな笑い声がずっと聞こえてきて、見えないのに、胸の奥に響き渡って、心地よかった。

無意識に人は、美しさを儚いと思うことはないだろうか。守りたいと、壊れないようにそっと抱きしめたくなったり、慈しみたいと思ったりしたことがないだろうか。
可憐、僕は君につけた名前を君が気に入ってくれて心底感じる。生きる喜びに匹敵するほど幸せだと。

まどろみの中、僕の記憶じゃない可憐の生きていた時の最後の記憶が見えた。ベランダの手すりに座って、そこからベッドで苦しむ僕を見て、ゆっくり視線が真上に移る。水色の空に、白い月が夜に置いていかれていて、半分その姿を残したままの月を、肉眼ではっきりととらえていたら、どんどん月が遠ざかっていった。
身体が落ちて行く。それなのに全然怖くない。
それから白い月に向かって白くて細い、可憐の両手が伸びていくのが見えて、両手で月を掴むように、願いや祈りをささげるみたいに指と指が絡み抱き合った。
 永遠に消すことの出来ない思い出になりそうな可憐な光景だった。
 可憐、君は最後にコレを見ながら、この世界から自分を切り離したんだね。
 
 初めてベランダから落ちようとした可憐のことはちゃんと助けられたのに。今度は助けてあげられなくてごめん。すごく悔しい。でも守り抜くよ。僕の命が尽きるまで、離れることも出来ないんだから僕と一緒に生きる覚悟をして。僕の中で一緒に生きて。
 一緒に生きようって言ってくれた可憐と、これからはずっと一緒なんだ。
 手術がいつ始まったか、いつ終わったのか、わからなかったけど、僕は、寝たらもう朝が来ないか心配しないで眠ることが出来るんだと、思った。
 あとは起きるだけだ。