『千春』
その名前を呼んだ十四度目の春。
振り向いた君の横顔と、桜の散りゆく瞬間が僕には奇妙なほどに重なってみえた。
まだ変わり映えもしない学生服を纏う僕の視線の先で、君は見慣れない病衣に身を包みながら僕がよく知っている微笑み方をしている。
目を瞑って、僕はその影を瞳の裏に閉じ込めた。
__ 君がいなくなったら、僕は春を迎える度に何を思って桜を観るのだろう
と、漠然とした問いが脳裏を過ぎる。きっと君がいなくなった春に咲いた桜はただ、僕にとって過ぎ去っていく時間の背景の一部となって散っていくだけ。そう直感で、僕は問いへの答えに辿り着いた。
『文弥』
君がいる、今はまだ君が隣にいてくれる。
僕はあと何度、君に名前を呼ばれる春を迎えることができるだろう。そんな幼い期待ばかりが僕の隙間を埋めていく。
僕を呼ぶ声は、いつもと変わらない声だった。春風の忙しさも、揺られ触れ合う木々の音も掻き分けて、僕の耳を伝う声。それでもその声には寂しさと恐怖と諦めが隠されているような気がして、その隠された感情はどこか僕が抱えているものと似ているような気がした。
この春が、僕達にとっての最後になる予感すら器用に否定できずにいる。
儚いなんて言葉を着せた瞬間に消えてしまいそうな君。
陶器のように白い肌と少しだけ色づいた頬、冷たさを感じさせる睫毛と視線、言葉を紡ぐ度に動く唇。僕は、その全てに見惚れてしまっている。
桜が散っていく、急かされる。
触れられなくなる前に、君が僕の前からいなくなる前に、僕は君へ伝えなければいけないことがある。
だからこれは、そんな僕からの序章として。
『二人の十八歳が終わる春、一緒に桜を観に行こう』
右肩に薄く積もった雪を払って、自動ドアを通り抜ける。広すぎるホールにも、迷ってしまうほどに分岐した通路にも自然と慣れてしまった僕は、たったひとつの部屋への行き道を辿って進む。
手摺に身を委ねながら歩く人、待合席で退屈そうな表情をしている子供、面会室から聞こえる弾んだ言葉達と声。異様に清潔な空間と、無機質な匂いに嫌な懐かしさを感じる。
重々しい雰囲気を漂わせている真っ白な扉を開けた先には、その重苦しさを全て取り払ったような千春が待っていた。
「いつも通り、文弥が私のお見舞い一番乗りだね!」
僕の存在に気がついた彼女はベッドの少し傾いた背もたれに身を預けたまま、それでも少し身体を起こし僕に向かってまっすぐ上に立てた人差し指を突き出す。
表情は疑ってしまうほどに晴れていて、その彼女の変わらない様子に五月蝿く鳴っていた動悸が静まっていくのを感じる。
「一ヶ月ぶりに会うから心配してたけど、千春が相変わらずで安心したよ」
「私は良くも悪くも変わらないよ? それに、文弥が来てくれるって看護師さんから教えてもらって今日は朝から気分もいいんだ」
一ヶ月前の夜。普段なら考えられない時間に、彼女からの通話がかかってきた。
異常なほどの静寂が漂う深夜三時。僕の耳を伝ったのは、彼女の弱々しく途切れてしまいそうなほどに掠れた声だった。
なにがあったのかという僕の問いに彼女はただ一言『もしかしたら、話せるの最後かも』と言い残し、そのまま彼女の言葉を追求する隙すら与えられずに通話が途切れた。
そんな声とは結びつかないほどの生気に満ちた彼女が今、僕の前にいる。
あの夜の彼女からの言葉が『千春との最期』かもしれないと覚悟していた僕には、彼女が表情の一つを動かす瞬間すら奇跡のように思えてしまう。
「でも文弥も心配性だよね、看護師さんに対して通話越しに私の状態を質問責めしちゃうなんてさ」
「あんな言葉で通話が切れて気が気じゃなかったんだよ」
「私だって、あの通話がその時にできる最大限の伝え方だったんだよ? 本当になにも言えないで死んじゃうなんて嫌だったからさ。でもいいじゃん? 事実、今こうやって話せてるわけだし!」
どこか呑気な声色で、彼女は僕を宥めるように笑いかける。
笑い方は何も変わらない、うっすら頬にできる笑窪も上がった口角の隙間から覗ける八重歯も柔らかく下がっていく目尻も全て。僕が十八年間みてきた彼女の笑顔は、何ひとつ変わっていない。
それでも目線を移した先の白い肌は青白さを増していて、華奢な身体の関節部分はこころなしか少し以前より骨ばってみえた。
頼りない、そんな言葉が似合ってしまうような姿をしていることに改めて気づいてしまう。
「文弥」
「なに」
「心配しすぎちゃダメだよ」
「千春にそんなこと言われなくても、僕は平気だよ」
「隠すのが下手だね『心配でたまらないです』って、言葉にされなくても伝わってくるような表情してるよ?」
衰弱していく彼女をみることに、僕はきっとよくない慣れ方をしている。
きっとそう思っていないと、彼女が変わっていってしまう姿をみることを恐れて今の距離感でいることを避けてしまうような気がするから。だから彼女の顔色が極端に悪い日も、新たな治療法に身体が追いつかずにやつれている日も、その様子に僕はできる限り動じないことを心がけてきた。
そんな僕が今、初めて彼女の変わりゆく姿に怖さを感じている。
今までに感じたことのない強さで、彼女に対する危機感を抱いている。
彼女がこのまま消えてしまうと、その笑う顔をみても僕の中には不安が溢れていく。
「千春」
「どうしたの」
「千春」
「だからどうしたの」
「大丈夫だからね、千春は絶対大丈夫だから」
「そんなこと言われたら私まで私のこと大丈夫か疑うようになっちゃうよ」
「言い聞かせることって大事でしょ、もし千春の中に不安があるなら少しでも軽くしてあげたいから」
「大丈夫! 私は今ちゃんと生きてるから。それに文弥が一番わかってるでしょ? 私はなかなか病気に負けないって、だから大丈夫ってことくらいわかってるよ」
否定する隙を与えないように、彼女は僕へ言葉を向ける。そしてそれは紛れもない事実。
彼女を蝕み続ける病の名前。
__ 大脳圧迫腫瘍
この世界の全てを包み込んでしまえそうなほどの笑顔をみせる彼女は、五年間この病を抱えながら息をしている。
僕より小さな身体で、負けないように、折れないように生きている。
*
中学一年の冬、異変に気づいたきっかけは本当に些細なことだった。
登下校中の彼女が頻繁になにもないところで躓くようになったこと。会話中、言葉に詰まる場面が多くみられたこと。体調を崩すことがほとんどない彼女が自ら頭痛を訴えたこと。
僕が心配するような素振りをみせる度に、大袈裟だよと彼女は笑った。
彼女はその違和感を『偶然』と言って片付けたけれど、僕にはその違和感を見過ごすことができなかった。
「私が病気なんてありえないよ、文弥が心配性なだけ」
僕の勧めに折れ、半ば強制的に受診を受け入れた彼女は受診前日、僕を揶揄うようにそう言った。
いつもと何も変わらない中学校からの帰り道。彼女自身の身体に異常などなく、いたって健康だと主張するように軽快なステップを踏みながら彼女は僕にはにかんだ表情をみせている。
その笑顔に嘘がないことはわかっている、それでもなお彼女の身体に安心しきれていない僕がいた。
身体に異常があるかもしれないという緊張感のある事案を前にも、彼女は『笑う』という表情以外知らないとでも言うように上がった口角を崩さない。
「千春」
「なに、どうしたの」
「明日の病院、一人で大丈夫?」
「大丈夫! 私は文弥の心配性を安心させるために、仕方なく病院に行くだけだから! どうせ『ほら! 健康だったでしょ?』で済む話になるよ」
そうだった、彼女は僕の心配性を安心に変える証明のために病院へ行く。
彼女の身体に対して抱いている恐怖も不安も、そこから想像してしまっている最悪の結果も全て僕の妄想。きっと明日、それが証明される。どうか、そうであってほしい。
翌日、診察が終わった後に登校すると言っていた彼女の姿を学校でみることはなかった。
それがなにを表しているのか、わかってしまっていた僕の都合の悪い賢さを抑えつけるように、僕は最終下校時刻を迎えるまで誰もいなくなった教室に居続けた。彼女が廊下を騒がしく駆けてくる足音を待っていた。
しばらくして鞄の奥底からスマートフォンの着信が聞こえた。
着信元は他でもない『卯月千春』、僕が待っている彼女だった。
応答する瞬間、指先が震えた。彼女の声を聴いて安心したいはずなのに、ただ僕の心配性だったと思いたいはずなのに、彼女からの着信を受けた瞬間にその全てが変わってしまいそうで怖かった。
「千春、病院お疲れ様。今日は疲れてるだろうからゆっくり__」
「文弥、ごめんね」
通話相手である彼女からの言葉を聴かないように隙間なく言葉を詰めた僕を、彼女の一言が遮った。
たったの一言でしかない。確信するには早すぎる瞬間的な言葉には、核心をつくには充分すぎるほどの重さがあるように感じた。
「ごめんって、なんのこと? 千春、悪いことなんてしてないじゃん」
「……文弥の心配性、安心に変えれなかった。だから、ごめん」
深刻さを含んだ彼女の声を、僕は初めて聴いた。
僕の都合の悪い賢さも、冴えてしまった勘も、彼女の一言から感じ取った重さも、間違っていなかった。
間違いであってほしい、心からそう思った。
彼女の言葉へ返す言葉もみつからないまま、僕は通話を切ってしまった。
五年前の冬。僕の心配性から、彼女の闘病は始まった。
*
「文弥」
「どうしたの」
「ちょっと伝えないといけないことがあるの、聴いてくれる?」
「改まって言われると怖いよ、でもちゃんと聴かせて」
ベッドの背にもたれていた彼女は、自身の腕を支えにして身体を起こす。
そして深く息を吸って、溜め込まれた緊張感を溢すようにその息を吐く。彼女自身に何かを問い掛け、頷き、僕へ視線を移す。
彼女に似合わない冷静さを含んだ視線に僕自身も息を呑む。
「今日から、私の人生四度目の入院生活が始まる」
「そうだね、僕は今日その連絡を受けてここに来たんだけど……」
「きっと、この入院が私の人生最後の入院になる」
「……人生最後」
「そうだよ、人生最後。そしてもう一つ伝えておかないといけないことは、私の病気が治ることはないってこと」
「それって、千春が……でも、治るかどうかなんて誰にも本当のことはわからないよ」
「腫瘍が大きくなってたんだって」
「え……」
「治療を続けてきたけど、腫瘍が大きくなって私の脳を前よりも圧迫してる」
彼女の口調は奇妙なほどに穏やかで、自身の状態を受け入れているような余裕すら感じた。
彼女の本心を確かめたかったけれど、そこに触れるほどの勇気と心の余白を今の僕は持ち合わせていない。それよりも遥かに僕自身の動揺を隠し通すことに必死になっている。
「千春は___」
「え?」
「千春は、大丈夫だよ。千春はここまで強く生きてきたんだから、今もこれから先も大丈夫に決まってる」
「大丈夫って言えたらいいんだけどね。私は文弥に嘘をつくことのほうが嫌だから、思ってもない大丈夫は言いたくないんだ。だから本当に思ってることを伝えたいんだけど、それはきっと文弥を傷つけちゃうと思う」
「受け止めるよ、傷ついたっていい。だから聴かせてほしい」
「文弥が『大丈夫』って言ってくれることは心強いよ、信じたいとも思う。でもね私自身、大丈夫かはわからない。今の私には言い切れない。それでも、私は生きるよ」
「そっか、それが千春の大丈夫への答えなんだね」
「でもごめん、ひとつだけ伝えておくね」
「……なに」
「私はきっと長くない。文弥より、きっと遥かに早く死んじゃう」
彼女の引き攣った表情が僕の内側を抉る。
わかっていたはずのことを、彼女が誰よりも悔やんでいるはずのことを、僕は知らないふりをして改めて彼女に言葉として口に出させてしまった。それが、どうしようもなく不甲斐なかった。僕からの大丈夫なんて言葉で、その残酷は拭えない。
彼女から告げられた否定することのできない事実に、僕自身が酷く無力に思えた。
「だから、一緒にいてほしいの」
「……僕に?」
「最後までひとりなんて、いくら仲の良い看護師さんがいっぱいいても寂しいよ。幼馴染として、最後まで私の隣で笑ってて! これが私が文弥に伝えたかったこと」
彼女の現状を悲観しているのは、僕だけなのかもしれない。
引き攣っていた表情は気づいたら解れていて、彼女によく似合う全ての恐怖を取り払ったような、光に溢れたような表情をしている。
彼女からのお願いを受け入れる以外の選択肢は、僕の中にない。
そして僕は、僕よりも早く命を使い切ってしまう彼女へ最後まで片想いのままでいることを決めた。
*
七年前の春、当時小学五年生の僕は彼女への恋を自覚した。
僕より少し背が高くて、運動神経のいい、誰とでもすぐに友達になって、常に笑顔が眩しい。幼馴染でありながら僕とは正反対の彼女に密かに惹かれている僕がいた。
家の近い僕達は毎年どちらかの家で誕生日パーティーを開いていたけれど、彼女を幼馴染とは違う意味で意識してしまっていた僕は何事もなかったように、その恒例を無くそうとしていた。
普通の友達より少し距離感が近いだけだと思っていた彼女を好きになっているかもしれないという違和感に、僕自身の幼さが邪魔をして追いつけずにいた。そしてきっと僕と同じ気持ちを、彼女は僕に対して抱いていない。何かの手違いでこの気持ちが伝わってしまった時に彼女との距離感が崩れてしまうことが怖かった。
近づきたいはずなのに、近くにいることが怖い。それが、僕が彼女に抱いていた感覚。
「文弥!」
「……千春、急にどうしたの」
「今年の誕生日パーティーどうする?私の家は当日誰もいないから、文弥の家の……」
「今年はいいよ、別に誕生日パーティーなんてやっても意味ないし」
誕生日前日、彼女からの誘いを断った僕は僕自身の冷たさに言葉を口にした瞬間から後悔した。
四月二十日は彼女の、二十一日は僕の誕生日。その二日間は僕達にとって欠かすことのない特別がある日だったはずなのに、僕はそれを身勝手な気持ちから拒絶してしまった。
彼女は少し返答に困った後、大袈裟に頷き口を開いた。
「そっか、わかった! でも文弥の誕生日はお祝いしたいから当日『おめでとう』ってちゃんと言わせて、それじゃあ!」
そうして彼女は数メートル先で待つクラスメイトの元へ駆けていった。それも、冷たく拒んだ僕へ手を振りながら。
どこまでもまっすぐで、底なしに明るい。それを改めて感じ取った瞬間、僕は幼いながらに彼女には敵わないと思った。
きっと彼女は誕生日当日、僕とのパーティーがなくなってもたくさんの友達に囲まれながら特別な日を過ごすに違いない。数え切れないほどの『おめでとう』に心から『ありがとう』を返していく日になる。
ただそんな僕の安直な想像は、彼女の素敵さによって塗り替えられる。
彼女の誕生日当日、帰り道。
「……千春?」
「文弥! まだ帰ってなかったんだ、偶然会っちゃったね」
学校までの坂道を導くように並ぶ桜道で、彼女はひとり立っていた。
手にはなにも持っておらず、ただまっすぐ桜をみていた彼女の瞳が僕へ向く。
「なにしてるの、千春、今日誕生日なのに」
「誕生日だからだよ」
「どういう意味?」
「文弥にとっては意味のないパーティーだったのかもしれないけど、私は結構好きだったからさ」
「なんで」
「だって奇跡じゃない? ほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれてきたんだよ、私達」
「そんなの偶然だよ」
「偶然だとしてもすごいことだよ。それに私達、偶然だけじゃないことだってあるんだよ?」
「偶然だけじゃないこと?」
「赤ちゃんの頃からずっと仲良しなこと、これって偶然だけを理由にするのは難しいと思わない?」
騒がしく手を動かしながら、彼女は無邪気にそして必死に僕へ『ふたりの偶然にあるすごさ』を説得する。
僕が瞬きをする間にも変わっていくほどに多様な表情で、彼女はあるだけの言葉を並べていく。
そんな健気な彼女をみていると、素直になれずに彼女を突き放そうとしている僕が惨めなほどに幼く思えてきてしまった。
「ねぇ」
「ごめん! 私、話しすぎたよね、文弥の話も聴かないまま……」
「なんでパーティーが無くなったからって桜を観にきたの?千春、花なんて興味なかったじゃん」
「桜はね、四月二十一日の誕生花なんだよ」
「え……」
「文弥の誕生花が桜なの、だからちょっとでも一緒にいる気分……一緒にパーティーして誕生日お祝いしあってる気分になれるかなって思ったんだよね」
彼女の考えていることはどこまでも素直でまっすぐだった。
そしてそれを隠すことなく、少しだけ恥じらいながら僕へ伝えてくれている。
僕が彼女にしてあげられること、きっと気の利いたことなんて一つもできないけれど僕が考えられるだけの何かを渡したい。
「桜___」
偶然という言葉では片付けたくないけれど、これは確かな偶然だと思う。僕達がほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれてきたことと同じような意味のある偶然。
彼女だけをみつめていた僕の視界の端に、目を奪われてしまうほどに綺麗な桜の花びらが映った。桃色の欠片。
桜を見上げている彼女と僕の間を舞い落ちていく桜の中で、ただひとつだけ他とは違う美しさを放っている桜をみつけた。それが彼女のようだった、他の誰とも違う美しさを持つ様子が僕の中の彼女と重なった。
スローモーションで落ちていく。僕は手を伸ばした。掴まえようなんて気はなく、ただ触れてみたかった。その感覚もまた、彼女と重なった。彼女を好きな人として特別と思いきれない僕が、幼馴染として離れたくないという曖昧な距離感の中で抱いた感覚と似ている。
そしてその桜が僕の掌に乗った時、僕の中の何かが突き動かされた。
「千春、これ」
「なに」
「ちゃんとした理由はわからないけど、千春に似合うから、だからあげる」
僕の掌に舞い落ちてきた桜を、僕は彼女の掌に乗せた。
たった一枚の花びらを手渡して僕が手を離した時、彼女との間に数秒の沈黙が生まれた。
彼女が大切に思っていたものを無くして、埋め合わせるように手渡した行為に嫌われてしまっても仕方がないと僕自身に言い聞かせる。
「いいの……? こんな綺麗な桜、文弥にしかみつけられないよ」
「喜んでくれてるの……?」
「喜んでるなんて言葉じゃ足りないよ……私、文弥に嫌われちゃったのかと思ってたから……だからこの桜は文弥からの誕生日プレゼントみたいに感じちゃってさ、今すごく安心してる」
少しだけ目を潤ませながら、彼女の丸い瞳が細くなっていくのがわかる。
その花びらの端を人差し指と親指で摘んで、まだ散っていない桜の隙間から差す光に照らす。まっすぐに伸びた彼女の腕と、綺麗と呟いて微笑み続ける横顔が綺麗で僕は目を奪われてしまった。
彼女の指先で摘まれた桜は確かに綺麗だけれど、僕にはそれより遥かに彼女を美しいと思った。桜より、千春の方が幾分も綺麗に咲いている。
そして僕の中で確信する。
僕はこの笑顔の虜になっていて、整った言葉では表せないけれど彼女の素敵さに惹かれている。
この曖昧な感覚がきっと、誰かを好きになるということなのだと知った。
七年前の彼女の誕生日。
僕はその日、初恋と出逢った。
*
当時は僕の中の恥ずかしさが邪魔をして、抱いた気持ちを伝えられずにいるだけだった。
同じクラスになった小学校最後の一年も、隣の席になった中学校最初の一年も、僕の言葉によって彼女との距離ができてしまうことを恐れて言えないままだった。
そして彼女の闘病生活が始まってからの僕は、彼女への好意を隠すことを決めた。
慣れない入院生活に、負担の大きい薬物療法。僕の身勝手な好意を伝えてしまうことで、彼女を壊してしまうことが怖かった。
きっと優しい彼女は、僕の好意を拒絶しないから。きっと僕のことをどう思っていたとしても『ありがとう』と笑ってくれるから、僕は彼女からの信頼を裏切らないために好意を隠すことを選んだ。
それが、幼馴染の僕がやるべきことだと思った。
僕が彼女を異性として意識していることに彼女が窮屈な思いを抱いてしまったら、彼女はきっと無意識のうちに僕に本当をみせなくなっていくと思う。弱っている姿を隠して、僕が描いている彼女を想像しながら過ごしてしまう。唯一全てを話せる仲であったはずの僕に心を閉ざしてしまう、そうしたらきっと彼女の心が壊れてしまう。
だからこれからも、僕が彼女を好きでいることも、それを秘密にしていくことも変わらない。
彼女にとっての僕はただの幼馴染、僕にとっての彼女は幼馴染であり好きな人。
その差に寂しさを覚えてしまうこともあるけれど、全て彼女のためだと考えてしまえば僕は好意を隠すことを苦だと感じない。
それに今、この瞬間も彼女と誰よりも近くで言葉を交わして、時間を共にしているのは紛れもない僕だ。
七年間抱き続けた好意を秘めたまま、僕は誰よりも近くで彼女を支えることを選んだのだから。
「文弥も忙しいと思うし、付きっきりで一緒にいてなんてことは言わないよ。ただ、たまにでいいから今日みたいに来てくれたら嬉しいなって思って」
「いや、そんなことしないよ」
「やっぱり難しいよね……我儘言って困らせちゃった」
「違くて、忙しいなんて言わないよ。千春の体調も考えながらだけど、会える日は毎日でも会いにくる」
「それなら私は最期まで笑って過ごせちゃいそうだね。本当に、素敵な幼馴染を持ったよ」
照れ隠しのように笑う、どこか寂しそうに、隠していた不安の欠片が隙間からみえたような気がした。
彼女にはあるだけの時間、残された時間、叶うのならずっと心から笑っていてほしい。きっとそれが彼女に一番似合う表情だから。
そしてその笑顔のために僕にできることがあるのならば、躊躇わずに手を差し伸べたい。
「薬のケース、ここの棚にしまっていいよね」
「そこにお願い、もし既に私物が入ってたら私に渡してほしい」
ベッド横の背の低い棚の扉を開ける、記憶を辿っていくように僕は彼女の荷物をしまう。
入院生活初日、僕と彼女にとって四度目の病室整理。
最初の頃は入院に必要なものから収納場所まで手探りだったけれど、今はお互いにその作業にも慣れてきた。
放課後に彼女から頼まれた日用品を買ってきたり、こっそりお菓子を持ち込んだり。この慣れはそんな密かな楽しみを積み重ねて日々を超えてきたふたりの証拠だと思っている。
「ねぇ、文弥」
「なに?」
「私、もうこの病室にはお世話にならないって思ってたよ」
「……それは、確かに千春からしたら戻ってきたくない場所だもんね」
「一ヶ月前、体調が急に悪くなる前までは調子も良かったし。もしかしたらこのまま普通の生活に戻れるかもしれないって思ってたんだけどね」
彼女が珍しく弱音を溢す、その声色から表情を察する。
僕は彼女の顔をみないように彼女に背を向けて、それが不自然だと思われないように、整えた棚にしまった物の配列を繰り返す。
彼女の気持ちの全てを僕がわかることはできないけれど、彼女が普通の生活を取り戻すことを願っている僕としても今回の再入院は胸が苦しくなるところがある。
だからこそ、僕は僕のままでいる。彼女が望んでいる普通の生活に近づけるように、僕は僕のまま飾らない幼馴染で居続けることは今日ここに来るまでに僕自身の心に誓ってきた。
「私、守れないのかな。文弥との約束」
背後で、彼女が力のない声で呟く。
僕は振り向かずに、その呟きへ返す言葉を探す。ただの呟きなら言葉を探す必要なんてない、でもこの呟きはきっと彼女なりに僕からの答えを待っているような意図が込められているような気がする。
僕はそんな彼女の小さな期待に、時間の許す限り応え続けたい。
「約束、千春なら守ってくれるよ。僕と千春なら守れるさ」
「中学二年生の時だっけ、素敵な約束を文弥が私にしてくれた。私が守れなかったら……」
「千春が守れないなんてことない、必ず、守ってもらわないと」
「私だって、ちゃんと守りたいよ。そんなのそうに決まってるじゃん」
その後に続く言葉を呑み込むように、彼女は口を噤んだ。
少しだけ顔を横に向けて覗いた彼女は俯いていて、それでも何かを言い聞かせるように彼女自身の手を強く握りしめていた。気づかれないうちに視線を戻す、返す言葉は見当たらなかった。
約束を守ってほしい。それは、彼女に生きていてほしいということと同じ意味の言葉になるのだから。
*
中学二年、春。
僕と彼女にとって、十四度目の春の日。
病名を告げられて一ヶ月と少し、彼女にとって初めての入院期間。僕は躊躇いながら、下校途中に彼女のいる病院を訪れた。
そして昨晩、通話越しの彼女に言われた通りの通路を辿り中庭へ出る。
無邪気に駆ける子供も、車椅子に腰掛ける患者と目線を合わせながら言葉を交わす看護師も、ベンチで文庫本を開く女性も。そこには忙しい院内とはかけ離れた温和な空間が広がっていた。
その中でも一際目を惹く桜の木が、暖かい春の光と耳に馴染む自然の音に包まれるように立っている。
そしてその桜の下に、僕が探していた姿があった。
「千春」
僕が名前を呼ぶ声に、彼女は柔らかい雰囲気を纏って振り向いた。
見慣れない病衣に身を包んだ彼女は僕がよく知っている表情をしている、春の光にも負けないほどの明るい表情。
穏やかな空の色とは結びつかない風に、桜が散って、舞っていく。
彼女は降りてくる桜を掴もうと腕を伸ばすけれど、やがてその腕を下ろして落ちていく桜を見送っていた。
少し遠くからみている僕の頭の中で、散っていく桜と彼女の姿が重なっていく。
「文弥」
彼女の声に、意識が引き戻される。
彼女は僕に手を振った後、小さく手招きをして微笑む。
相変わらず整った容姿に目を奪われて、消えてしまいそうな雰囲気から不安に駆られ、僕の頭の中が彼女で埋め尽くされていく。
「昨日の夜いきなり来てって言ったのに来てくれるなんて、文弥はやっぱり私の幼馴染だね。いつも誰よりも近くにいてくれる、それが『桜庭 文弥』私の唯一の幼馴染」
「改まって僕の名前を呼ぶなんて不自然だよ、それも誰かに紹介するみたいに」
「映画のワンシーンみたいじゃない? こんなに綺麗な桜を幼馴染と一緒に観てるの、それも片方は病気を患ってる。感動系の映画のワンシーンによくあるじゃん?」
「嫌だよ、そんなワンシーンにはさせたくない」
「どうして?私は素敵だと思うけどな……」
「死んじゃうから」
「え?」
「素敵な映画になるのかもしれないけど、そういう映画って……ヒロインが死んじゃうこと、多いから」
「そうだね、そこまで私達にピッタリ重なっちゃうね」
「千春は嫌じゃないの?」
「なにが?」
「死ぬこと、怖いとか嫌だなって思わないの?」
「私だって死にたくないよ、でもいつ死んじゃうかわからないからさ。余命すら断定できないって言われちゃったし、もしかしたら今年で文弥の隣で桜を観るの最後かもね」
笑えない想定を彼女は揶揄うような口調で並べていく。その全て、冗談で済んでしまえばいい。
こんなことを言っている今を数十年後に思い出して、笑い話にできればいい。
そんな未来が来ないことは、僕が、彼女が一番よくわかっている。
それでも僕は、彼女が僕の隣からいなくなってしまうことを受け入れられないままでいる。
「だから最後くらい、綺麗な映画のワンシーンみたいに桜を観てみたかったんだ。だから文弥をここに呼び出したの」
「千春にとっての春は、今日が最後なの?」
「どうだろうね、まだ続いてほしいけど……私の身体、きっと言うこと聴いてくれないからさ」
何かを諦めたように言葉を吐いた後、彼女は自身の頭を指で触れる。
物心ついた頃から、気づいたら隣で笑い合っていた彼女が僕の前からいなくなる。
その事実を受け入れているような言葉ばかりが彼女の口から伝って僕の耳へ届く。耳を塞ぎたくなってしまうほど、僕はその言葉が怖かった。受け入れなければいけない事実なのに、僕にはあまりに単純すぎるその事実を呑み込めない。
「でも文弥、ひとつだけ覚えててほしいんだ」
「なに?」
「私は私が死ぬことを受け入れてるし、仕方のないことだって思ってるけど……でも本当は、まだ生きていたいって思ってるから」
「そんなこと、言われる前からわかってるよ」
「そっか、それなら私の心配性だったね。忘れないでね、そのことだけは」
まるで明日にでもいなくなってしまうような、彼女の言葉にはそんな危うさが添えられている。
大丈夫、彼女はまだ僕が知っている彼女のままだから。
その陶器のように白い肌も、可愛らしく薄い桃色に色付いている頬も、少しだけ冷たさを感じる睫毛と視線も、言葉を紡ぐ度に小さく動く艶のある唇も。
僕が隣で見続けてきた彼女がそこにはいて、その全てに僕は相変わらず見惚れてしまっている。
僕達の春は、きっとここでは終わらない。終わらせたくない。
「千春」
「ん?」
「僕は、千春に生きていてほしい」
「今ちゃんと生きてるじゃん」
「そうだけど、違うよ」
「どういう意味?」
「何年後の春も、一緒に生きていてほしいって思ってる」
「それはどうかな……ちょっと自信ないよ」
僕の願いを、彼女は震えた声で柔らかく拒む。
受け入れてほしかった。いつもと変わらない明るさで『もちろん』なんて単純な言葉で、僕の根拠のない願い事すら受け入れてほしかった。
「僕とひとつ、約束してくれないかな」
「約束?」
「二人が十八歳が終わる春、一緒に桜を観に行こう」
「十八歳、どうして十八歳なの?」
「ほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれてきた僕達が高校を卒業して大人になる春だから。そんな特別な季節を千春と一緒に観てみたいんだよ」
まっすぐに、彼女の目をみつめて僕は言葉を口にした。
『十九歳が始まる春』と言わなかったのは、ひとつの『終わり』を区切りとしたほうが途方のない未来を考えるより彼女にとって生きることを望みやすいと思ったから。
彼女は少しはにかみながら頷いて、そして僕の手を取った。
少し冷たいその手が僕だけには暖かいように感じて、潤んだ瞳で僕をみつめながら彼女は僕に向かって言葉を紡ぐ。
僕達が生きる約束を交わしたほんの数分の春の隙間だった。
*
「諦めるなんて千春らしくないよ。いつどうなるかわからないから、だからこそ僕達は僕達のままでいたい」
「今、思い出したでしょ? 約束したあの日のこと」
「え……どうして」
「私も思い出したから、あの瞬間の文弥が私にとってどれだけ心強かったか」
「そんなこと……覚えててくれたんだね、ちょっと照れるけどありがと」
「あんなに大切なこと忘れるわけないでしょ。私はあの日の約束、死ぬまで忘れてあげないから」
やけに強気な口調で、彼女は僕に微笑みかける。
可愛らしく挑発的な視線で、まっすぐ立てた小指を僕の前へ突き出す。その小指に僕の少し弱々しい小指を交える。
『約束』それは、僕達が生きていくために欠かせないこと。
きっとただの口約束に過ぎないけれど、その言葉の中に僕は僕の、彼女は彼女の覚悟を宿している。
人生最後の入院生活、僕達は僕達の時間を重ねていく。
たとえ本当に彼女の最期が訪れたとしても、その最後に遺す言葉と抱く感情は彼女の全てを表しているような、光のようなものであってほしい。
「私、生きるからね」
この小指を結んだまま、明日も彼女が生きていくことを誓う。
そして解いた僕の小指には、彼女の感触と温度が残っている。
今を生きている彼女の証明、ひとつも取りこぼさないように僕はその感覚を隠している好意と同じ場所へしまった。
「文弥、こっち向いてよ」
ふたりきりの病室、僕が振り向いた先で彼女がカメラを構えていた。
僕へ『笑って』と訴えかけるように口角を上げながら、その細い人差し指でシャッターを切る。撮れた写真を目を細めながらみつめ、その画面を僕へ向ける。
彼女の笑顔とはかけ離れた、ぎこちなく笑う僕が写っていた。
「どうして急に写真? 僕の写真なんて撮ってどうするの?」
「その制服、あと数える程しか着れないでしょ? だから制服姿の文弥をみれなくなる前に写真に残しておこうと思ってね」
高校三年生の僕達は、一週間後に卒業式を控えている。
三年間、ほぼ毎日着続けて袖の辺りが少しくたびれている僕の制服とは対照的な真新しい様子の制服が、クローゼットへ彼女の私服の隣にさりげなく掛けられている。
「写真に残すべきは千春が制服を着た姿のような気がするけど……僕の制服姿なんて見飽きるくらいにみてきたでしょ?」
「それはたくさんみてきたけど……でもちゃんと写真っていう形に残すって大事なことだと思うんだよね。それに、私はもう次に制服を着る予定ができてるから」
「次に制服を着る予定?」
「卒業式、特別に外出許可が出たんだよね」
「え……それって」
「そうだよ、文弥と一緒に卒業式に出席できる! 高校生活最後、最高の思い出になると思わない?」
少し前のめりになりながら、彼女は僕へ得意げな顔をしてみせる。
彼女ともう一度校内を歩きたい、同じ制服を着たい、彼女の制服姿がみたい、お互いの卒業証書をみせあって高校生活が過ぎたことを確かめ合いたい。それらは僕が密かに、彼女との思い出として願っていたこと。
叶わないことだと諦めていた僕の思い描く青春が叶おうとしている。
「久しぶりにクラスの子に会えるね。久しぶりが最後になっちゃうのはちょっと寂しいけど」
「卒業しても会えるよ、千春のことを待ってる人はたくさんいる」
「そっか、本当にそうだったら嬉しいな……友達って自信持って呼べるほど仲良くなれなかったのが私の高校生活で一番の心残りかも」
彼女は口角を上げながらも、どこか不安の残る表情で呟く。
数秒前まで目を輝かせてみつめていた制服から目を逸らし、少し俯いて自身が纏っている病衣の袖を小さく揺らしている。
高校入学前から持病を抱えている彼女にとっての三年間は、常に治療の都合を軸として在るものだった。
唯一出席できた行事は入学式のみ。体育祭も文化祭も彼女にとっては現実感のないイベントなまま。僕にとって退屈な授業を彼女は退屈という感覚すら感じられないまま、高校生の日常すら日常と感じられないまま終わりを迎えようとしている。
「何回かしか会ったことないけど、誰か一人でも私のこと覚えててくれてたらいいな」
「覚えてるよ、少なくとも一人はね」
「文弥が覚えててくれることは私の中で当たり前だよ、文弥以外の子の話」
「忘れてるのは案外千春なのかもよ」
「どういう意味?」
「千春が登校した日にみんな嬉しそうに千春が座る席の周り囲んでたこととか、一緒に移動教室に行ったこととか、中庭でお弁当食べてたこととか。千春はちゃんと高校生活の楽しさも経験してるってこと」
「忘れるわけないでしょ、そんな大切なこと。忘れたくない」
三年間での彼女の登校日数は数えられるほどしかなかったけれど、彼女はその中で感じられる限りの青春を感じて、触れられる限りの高校生らしさに触れてきた。
僕はそれを遠くから見守っていた。クラスメイトに無邪気な笑顔をみせている彼女の姿が小学生の頃の姿と重なって僕はそれがすごく懐かしく、そして嬉しかった。
彼女のためにつくられたと言っても不思議ではないほどにセーラー服が似合う彼女を、僕は何も言わず気づかれないようにみつめていた。それがいつの日か、みつめるに留まらなくなる。
教室の窓の外をみつめる彼女の普段とは違う感情を含んだ瞳、教科書を抱えながら廊下を歩いている後ろ姿、問題集へ向ける難しそうな横顔。僕は彼女の学校での瞬間にシャッターを切り続けた。
それが今日、ふたりの手によって形になる。
「ねぇ、昨日文弥が言ってた『みせたい物』って何?」
「なんだと思う? きっと千春が少し恥ずかしがる物だと思うよ」
答えさせる気などない僕の曖昧すぎるヒントから、彼女は真剣に答えを探している。
眉間に皺を寄せながら、今までで一番難しそうな顔をしながら、それでも最後には開き直った声で『わかんない!』と笑った。
その彼女らしい声と言葉を期待していた僕がいる、彼女の可愛らしさを再確認する。
「写真だよ、千春が学校に来た日に僕が撮り溜めた写真を現像してきたんだ」
「文弥が撮った……私ってこと⁉︎ 全然気づいてなかったよ」
「運がいいことに僕の席から撮りやすい位置に千春の席があったからね、全部で何枚になるだろう」
僕の言葉に彼女はわかりやすく頬を赤ながら、左右に首を振る。
思っていた通りの反応だけれど、僕が思っていたよりもその反応が可愛かった。
この瞬間すら写真に収めてしまいたいけれど、きっと今は僕の目に焼き付ることの方が遥かに可愛く記憶に残しておける。
「その写真使って何するの……? 目的によっては今後の付き合い方を考え直しちゃう……」
「不審がる必要はない、僕がそんないやらしい目的で千春の写真を撮るわけないからね」
「じゃあなんのため? いくら幼馴染だからって私の写真を何枚も撮る必要なんてないよ?」
「卒業アルバム」
「え?」
「千春だけの、僕達だけの卒業アルバムを作りたくて。だからずっと学校に来た日の千春を写真に撮ってた」
先日配られた卒業アルバムに、彼女の姿が映った写真は個人撮影の写真以外一枚も載っていなかった。
唯一の個人撮影の写真は確かに綺麗だった。彼女の整った顔立ちがプロの手によって切り抜かれるのだから、素人の僕が趣味程度で撮る写真とは比にならないほど美しい写真だということは間違いない。
それでも僕は、彼女の気取らない、時間が流れるままに映っている彼女の高校生活が残っていないことに寂しさを感じた。
確かにそこにいたのに。制限された登校日数の中で誰かと笑う、女子高校生らしく騒ぐ、普通の女子高校生と何も変わらない彼女がそこにいたのに、その存在を証明する形が残っていないことへの違和感に僕は目を瞑ることができなかった。
最初はただ好きな人を撮りたいという一心だった。病によって変わっていってしまう彼女の姿を、写真を撮るという行為で離さずにみていたいという好き故の動機だったと思う。
だからこそ僕がみた彼女を形に残せたら、ただ撮りたいという欲に沿っていた僕が純粋に映し出した彼女を繋ぎ合わせていったら、彼女が高校三年間を生き抜いたことを証明できるような気がした。
『卯月 千春の卒業アルバム』は、きっと彼女が僕の隣で生きていた証になる。
「そのために写真、撮っててくれてたの?」
「最初の理由は不純だったけどね、でも最終的にはそういうことだよ」
「そっか、その答えの方が文弥らしくて安心するよ」
立派なカメラを持っているわけでもなく、彼女の写真は全て空き容量の少ない僕のスマートフォンで撮影してきた。
撮る度に埋まっていく僕の空き容量分、彼女が生きてくれたらいいなんて空想めいたことを願いながら僕はシャッターを切り続けた。気づかれないように、離れた場所から彼女への隙間をたどるように彼女をとらえ続けた。
「自分の写真をみるなんてちょっと恥ずかしいけど、せっかく文弥が撮ってくれたんだもん。みせてほしいな」
「ところどころブレてるのもあるけど、これ全部僕が撮った千春だよ」
数十枚の写真を僕が封筒から取り出してベッドに取り付けられた机上へ乗せる。
その写真の量に驚きながらも、彼女の細い指先が一番上の写真へ伸びていく。入学式に立て看板の前で撮った彼女の一番最初の写真。
律儀に膝まで整えられたスカート丈と掌の半分あたりまで掛かった袖からあどけない当時の雰囲気が記憶に蘇る。きっとこの写真を撮っている僕も、彼女と同じ三年を経ての変化がある。
同じ時間を過ごしてきたことを、僕は数十枚ある写真のたった最初の一枚で深く感じてしまっている。
「入学式か……懐かしい、というか幼い。今と全然違うじゃん!」
「今の千春みると本当に大人っぽくなったってわかるよね、その変化もこの中の写真でわかるさ」
「もしかして時間が進むように並べ替えたりしてくれてる?」
「現像する順番がそうだったからね、一年生から順番に並んでるはずだよ」
彼女の口角が左右非対称に上がっていく。意図してつくられた表情じゃない、自然と溢れ出ていくような、そんな笑い方。
一枚ずつ、彼女は僕が切り取った思い出を捲っていく。僕はそれを何も言わずに目で追っている。
ただの写真なのに、彼女は小説を読んでいるかのように、切り取られた日常を撫でるようにみつめていく。
「この写真、よく撮ってくれてたね」
彼女が差し出した写真は、いつかの休み時間に彼女がクラスメイトの肩にふざけてもたれているところをとらえた写真だった。
偶然にもそれは僕にとっても印象深い一枚。わかりやすく言うのなら、病を抱える前の彼女の無邪気さに最も近しい雰囲気を放っている一枚。
「この写真、僕も結構好きなんだよね」
「そうなの?」
「千春が一番千春らしいから」
「その理由文弥らしいね、変なの」
照れ隠しのように笑いながら、彼女は再びその写真をみた。
何度もその写真をみては隠しきれない笑みを溢して、そして何故か少しだけ目を潤ませている姿を前に、変なの、は彼女の方だとすら思ってしまう。
そんな気持ちを隠しながら、僕は彼女の手から離れた写真達をアルバムのページに留めていく。時間の経過がわかるように、その瞬間を生きている彼女を溢さないように、彼女の好きな桜色のマスキングテープで思い出を閉じ込めていく。
「写真貼っててくれてるの?」
「まだ仮止めの状態だけどね、順番が入れ替わらないように。最後に固定する作業は一緒にしよっか」
「いいね、思い出せる限りのことは言葉にして写真の横に添えて書き残したりしたいな」
彼女は少し見切れているクラスメイトの姿を指でなぞる。たった数日間しか顔を合わせていないクラスメイトも、彼女の記憶の中には大切に保管されている。弱っていく身体の内側に、彼女の大切が重なっている。
そんな彼女は写真の隣にどんな言葉を添えていくのだろう、きっと彼女の心がそのまま映し出されたような澄んだ言葉が並んでいく。僕が撮った写真の隣に、彼女の心が添えられる。
彼女の手に乗った残り数枚の写真が捲られていく感覚はどこか寂しくて、まだまだ彼女を撮っていればよかったと充分すぎるほどの枚数の写真を前に思ってしまう。
「私ってこんなふうに笑ってるんだね、なんか不思議」
「不思議?」
「よく笑う子だねって言われるけどさ、自分の笑ってる顔とかみないじゃん? だから文弥の写真で初めて知った、私が笑った顔」
「そう言ってもらえると撮った甲斐があったって思えるよ。千春だけの卒業アルバム、千春の表情は一冊の収まりきらないだろうけど特別な一冊になるだろうね」
「私だけの卒業アルバムね、みんなの卒業アルバムもみてみたかったよ。文弥、みんなの卒業アルバムの感想教えてよ」
「感想って言われても難しいけど……僕が撮った写真とは比べ物にならないくらい綺麗だったよ、プロが撮った写真だったし……僕達生徒も、撮られるってわかって表情意識してる部分があるからアルバムとして完成してる雰囲気はあるかな」
「アルバムとして完成してる雰囲気か……実物をみてない私にはやっぱりよくわからないかも」
「行事とか……修学旅行、体育祭、文化祭、普段以上に思い出を残そうとする瞬間が切り取られてるって言ったらちょっとは千春にも伝わるかな」
彼女が望んでも叶わなかった瞬間が切り取られていることを、僕は改めて言葉にしてしまった。
修学旅行の一ヶ月前からスーツケースに荷造りをしていた姿も、買ったままのジャージが開封されずに卒業を迎えようとしていることも、文化祭のクラスムービーを一人病室でみていたことも。彼女が何かを楽しみにするたびに諦める選択を受け入れてきた事実を、誰よりも知っているはずなのに。僕はそれを改めて彼女に突きつけてしまった。数秒前の後悔が襲う。
「特別なんてないんだろうね、きっと普通の高校生からみたら文弥が撮ってくれた日常って特別でもなんでもない日常なんだろうね」
「千春ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ」
「えっ、なんで文弥が謝るの?」
彼女からの問いは妙に軽く弾んでいて、心の底から僕が謝っている理由をわかっていないようだった。
少し首を傾げながら、勘の鋭い彼女が僕の謝罪へ純粋な疑問を抱いている。わからないままでいてほしい、答えを告げてしまったら彼女はきっと笑って許すことしかしてくれないから。
わからないまま、僕の謝罪ごとなかったことにしてほしい。
「特別じゃないことを特別に感じられる方が日常は幸せなはずでしょ?」
彼女の問いへ答えも言えぬまま不甲斐なく目を逸らしていた僕に、彼女は日常への正解を言い渡した。
何ひとつ疑うことなく『これ以外の答えなんてあるの?』と訴えかけるような視線が真っ直ぐ僕へ向けられる。
そしてもう一度机上に広げられた写真を見渡して頷く、彼女の口元が緩んで目尻が柔らかく下がっていく。その姿をみて僕は、彼女の問いが僕達の日常へのたったひとつの答えなのだと確信した。
「私全部特別だって言えるよ。きっといつか忘れちゃうことなんだろうけどさ、でも今の私にとっての特別だったことに変わりはないからね!」
自信に満ちたその声で、彼女は僕の手元に置かれたアルバムに写真を留めていく。
写真の左右の端を両手の指先で丁寧に持って慎重に貼っていく、彼女がたまにみせる生真面目さが滲み出ている。
時々僕が既に写真を貼り合わせたページを遡りながら、彼女の思い出が形になる過程を辿っていく。彼女の写真をこれから先も撮り続ければ、彼女は僕と同じだけの時間を生きられるのかもしれない。そんなことが本当に起きてしまえばいい。
そんな魔法のような妄想をしている僕の前で、彼女がベッドから身を乗り出し不安定な姿勢をとっているのがみえた。片手で自身を支えながら、もう片方の手で何かを手繰り寄せているような動きを繰り返している。
「……千春、なにしてるの?」
「あ……ごめん、びっくりさせちゃったよね。マスキングテープが落ちちゃってさ、拾おうと思って」
「落ちたなら教えてくれればいいのに、いくら位置が低くてもベッドから千春が落ちたら危ないよ」
「自分でできそうなことはしておきたいんだよね、まだまだ生きてるって私自身が実感できるから」
そう言いながら身体を捻り、床に手をついて支えながら落ちたマスキングテープを拾う。
彼女の身体が酷く痩せ細っていることを改めて痛感させられる。首の細さも、折れそうな手首の頼りなさも、ただでさえ軽い彼女自身の重さが掛かり震えている床についた指先も。普段の様子から彼女が病に抱えているを忘れそうになってしまうけれど、どうしても彼女の身体だけはその勘違いを僕にさせてくれない。
病名を告げられて五年、彼女は絶えることなく生きてきたけれど、今この瞬間僕の頭に彼女のいない明日が過ぎってしまった。
「私また廊下走れるかな」
「どこだって走れるさ、ここまで生きてきた千春にできないことなんてないよ」
「文弥もやっぱりそう思う? それなら間違いないね、だって私が私自身と同じくらい信じてる人が言ってくれたことだもん」
明日彼女が僕の前からいなくなっても、きっと僕が思い出すのは彼女の笑った顔だと思う。
だから僕は床に落ちたものを拾うだけで少し息が上がっている彼女だけれど、最後まで心配よりも信頼を強く持っていたいと思った。
彼女が最後に思い出す僕の顔も不安げな顔でも心配そうな顔でもない、なんの憂いもないような笑顔であってほしいから。
「ねぇ文弥、この子って中学校から一緒だった子だっけ」
「その子は……三年生で初めて仲良くなった子だよ。ほら、千春と席が隣だった子」
「席……そうだったっけ。あんまり喋ったことない子かな、一緒に写真に映ってたから気になっちゃった」
「そうなのかな、千春と結構仲良いイメージだったけど」
「それじゃあ私の勘違いか、確かに仲良くしてたかもね!」
彼女が誤魔化したように笑う。限られた登校日を思い出しながら、ひとつずつを思い出すように並べていく。
彼女にとって瞬間的に過ぎ去っていった学校内での時間は、写真でも映し出せないほど色濃いものだったのだろう。ところどころ途切れている彼女の記憶が、その情報量の多さを表している。
「この写真好きだから言葉でも残しておきたいな、なんて書こう……」
「その写真、ブレてるじゃん。それなのに言葉で残しておきたいほど好きなの?」
「ブレてるからいいんだよ? このアルバムに唯一足りないものが、この写真にはちゃんと入ってる」
「唯一足りないもの?」
「笑ってる顔も走ってる私もクラスの子との姿も映ってるこの一見完璧なアルバムの、唯一足りないもの。なにかわかる?」
強く確信を持った瞳で僕へ問う。
彼女の言う通り、僕は彼女の笑う顔も気の抜けた顔も撮ってきたし、クラスメイトとの姿も収められるだけ形にしてきた。それが詰まったアルバムに足りないもの、きっと僕がどれだけ考えても彼女の頭の中にある答えには辿り着けない。
正解を求めるように彼女をみつめる、言葉を発することなくみつめ続ける僕へ彼女は仕方ないなと言うように息をつき、そしてまっすぐに僕を指差した。
「文弥、このアルバムには文弥の姿がないんだよ」
「僕……それは僕が撮影者なんだから映ってないのが普通だよ」
「私もそれはわかってるよ? だからこのブレた写真が好きなの。ちゃんと文弥がいるってわかるからね」
「僕の指が写り込んでるとか?」
「違うよ。ブレてるってことは、文弥がこの写真を撮った瞬間に動いてたってことでしょ? それってどんなにピントの合った綺麗な写真よりも二人が同じ空間で生きてたことを証明してるように思えない?」
僕の思った通りだった。こんなにも素敵な答え、僕には何年考えても辿り着けない。
それをさも当然かのように、そしてなんの疑いもなく言葉にしてしまう彼女がどこか遠くの存在のように思えた。
特別の感じ方も、日常の切り抜き方も、生きていたことを証明する形の捉え方も、彼女は同じ年数を生きてきた僕よりも遥かに大人びた考えを持っている。普段みせる無邪気すぎる笑顔とは結びつかない言葉が不意に彼女の口から溢れる時、僕はそのみえない彼女との距離に怯えてしまいそうになる。
気恥ずかしさから隠していた一枚の写真を僕は鞄から取り出す。彼女とのみえない距離感を埋めたいと、せめて形だけでも彼女の隣にいたことを形だけでも証明したくなった。
「実はさ、一枚まだ千春にみせてない写真があるんだよね」
「え、なにそれすごい気になるんだけど」
「これ、隣の席の子が撮っててくれてさ。ちょっとみせるの躊躇ってたけど、やっぱりみせたくて」
現像すらせず僕のスマートフォンに眠ったままの写真、僕にとって高校生活のどの瞬間よりも大切な一瞬を切り取った写真。
僕の席に来た彼女が、机の端を持ちながら僕を無邪気に突いている瞬間。揶揄うように、それでいて可愛らしさに溢れた表情の彼女に同じように笑っている僕の顔。
ふたりが確かに同じ時間を、隣で過ごしてことを証明してくれる。
僕にとってはこれが高校生活で唯一、好きな人の隣で映っている写真。
「これ、いつ撮られたんだろうね。本当に楽しそうに笑ってる、文弥の顔すごい笑ってる」
「千春も負けてないよ、すごく楽しそうにしてる」
「なんとなくさ、小学生の頃のこと思い出さない? なにも余計なことなんて考えずに休み時間喋ってた時のこと」
彼女の言葉で気がついた、僕がこの写真を異様に好んでいる理由。
小学生の頃の記憶と重なるから、僕が彼女への好意を覚えた時の様子と重なるから僕はこの写真を手放せずにいる。
彼女の病気がみつかってからずっと思っていたこと。それは病気がみつかる前の彼女にもう一度戻ってほしい、そしてなんの憂いもなく隣で笑ってみたいということ。僕は知らぬ間に、そんな叶うはずもない願い事の半分を叶えてしまっていた。
「文弥、この写真は現像してないの?」
「……してない、ちょっと僕が映ってる写真を現像するのは恥ずかしくてさ」
「これこそ現像してよ! 一緒に映ってる写真なんて私のアルバムには必要不可欠なんだから!」
「ごめん……! でも、もうこの写真を貼るページは残ってないよ」
「それならちょうどいい、この写真を表紙にしよう! これは勝手に写真を撮られた私からのお願いだからね? 拒否権なんて与えてあげない!」
彼女がスマートフォンの画面を指差しながら僕へ訴える。そして『約束してくれないとスマホ返してあげないから!』という見事な力技で僕との表紙を決定事項へと持ち込んだ。
きっとこの少し強引なところにすら、僕は特別な好意を抱いているのだと思う。
「でもありがと、こうやって形に残してくれたら未来の私もきっと困らないね」
「千春、それどういう意味?」
「ちょっと最近忘れっぽくってさ、ちょっと前のこととか思い出せないことが多いんだよね」
「忘れっぽい……久しぶりの入院だったからストレスとか溜まってるのかな」
「というより……病気のせいだと思う。脳の病気だからさ、頭の中のことは私には詳しくわからないけどそんな気がするんだ」
その名残惜しそうに写真をみる目から、彼女があれほど僕との表紙にこだわった理由がわかった気がする。
十八年間隣にいた僕との写真が表紙なら、きっと彼女の記憶から消えることはなくなるから。そうして消えていってしまうものを形に残していくことが、彼女なりの準備なのかもしれない。
彼女の記憶が、身体が、いつ消えてしまうか。それは僕にも彼女にもわからない。
彼女がひとつずつ準備をしていくことと同じように、僕は彼女のことを時間の許す限り知っていきたい。彼女との日々を更新していきたい。そんな思いに駆られ、僕はアルバムを作っている最中、何度も呑み込んできた問いを彼女へ向ける。
「千春はさ、三年間の高校生活……どう感じたの」
「ちゃんとした感想言えるほど高校生活送れなかったからね、なんて答えるのが正解なんだろう」
「高校生としてじゃなくていいよ。三年間、千春がひとつの節目を迎えるまで生きた感想を聴かせてほしいんだ」
「そっか、私三年間生きたんだもんね。そんなこと気に留める隙がないことの連続だったけど、強いて感想として言葉にするなら……」
斜め上をみながら彼女は三年間を表すに相応しい言葉を探す。
高校入学当時から今まで、もっと遡るのなら物心ついてから今まで、僕は誰よりも彼女の近くにいた。その中でくだらない話は数えきれないほどしてきたけれど、思い返せば彼女から改まった言葉を聴いたことは一度もなかった。
数秒後、彼女から告げられる言葉は僕にとって生まれて初めて聴く彼女からの言葉になる。
明日を迎えられる可能性を手繰り寄せ続けた彼女は、三年間の最後にどんな言葉を残すのだろう。
「ずっと今、かな。それが私の三年間」
「ずっと今……?」
「明日どころか数分後、私の身体がどうなってるかわからないような時期もあったからね。最初はそれがすごく怖かったけど、でもその怖さに怯える前に心から笑えてる今を生きたいって思えるようになった三年間だったから」
「だからずっと千春は千春のままだったの?」
「そうなのかもね。ずっと言ってなかったけど、病気だってわかった時に私自身に誓ったひとつのことがあるんだ」
「千春自身に誓ったこと? 教えてもらってもいいかな」
「私が私でい続けること。私はよく笑う子だし、誰かとふざけることも大好きだし、美味しいものは美味しいまま食べたいし、楽しいことを心から楽しめる人でいたいって思ってるの。だから病気になってもそこは曲げない、ずっと千春のままでいる! それが私が完治しない病気に唯一勝つ方法だと思ったから」
「それなら、千春はこの三年間で病気に勝ったね」
「これから先も負けることなんてないよ、ずっとずっと私が勝ち続けるんだから」
彼女が生き抜いた三年間、それは彼女が勝ち抜いた三年間。
ずっと今。彼女は未来を望みながらまっすぐに今を感じ続けた。隣で過ごす人との時間を抱えながら、そして感じられるだけの感情と思い出の全てを繋ぎ合わせて最終的に今の彼女がつくられている。
「文弥の三年間も言葉にして教えてよ」
「僕はそんな綺麗にまとめられるような三年間にできなかったよ、考えたこともなかったからね」
「綺麗な言葉なんか要らないよ、直感でいいからさ。私みたいに、初めて聴くような言葉でもいい」
「それなら……ずっと未来、になっちゃうかも」
可笑しそうに、それでもどこか納得したように笑う。
明日の朝、彼女から連絡が来ていたらいい。来週こそは彼女の席に彼女の姿があったらいい。来月には外出許可が出て一緒に外を散歩できたらいい。来年には彼女の病状が少しでも軽くなっていればいい。僕にとっての三年間は今をみつめる彼女とは対照的な、ずっと彼女との未来を見続けた時間だった。
「でも可笑しいね、やっぱり文弥はちょっと変だよ」
「なにが変だって言うの?」
「ずっと未来をみてきたのに、こうやってずっと私の『今』を撮ってきたでしょ?」
「それは……」
「だから文弥の三年間は『ずっと未来』でも『ずっと今』でもない『ずっと千春』が正しいんじゃない?」
揶揄うように、彼女は僕へそんな言葉を投げる。
間違いない。彼女の冗談めいた言葉が、僕にとっての三年間を表すに相応しい言葉の正解だった。その言葉が正解だということは絶対に言えないけれど。
三年間撮り続けた今と願い続けた未来、そのどちらにも当てはまることは彼女を追いかけていたということだと思うから。
「そうだ! 三年間の最後に文弥に確かめておきたいことがあったんだ」
「確かめたいこと、いいけどなに?」
「文弥さ、好きな人とかいないの?」
「三年間の最後がそんな質問でいいの? それともなにか企んでる?」
「違うよ、この質問がいいの。嘘つくの禁止だから! 正直に答えてよね」
彼女のことが好きだと、言えてしまえたらいいのに。
僕が彼女のように、確かに生きている今をみて生きられる人間だったらこの気持ちも隠さずに告げられていたはずなのに。
どうしても僕には、僕の気持ちを受け取った彼女が本当の気持ちを抑えて微笑みながら僕の気持ちを聞き入れる未来がみえてしまう。きっと僕の気持ちが一方通行であることがわかった次の日からも、変わらず彼女は僕へ接してくれる。何事もなかったように、僕を傷つけないように、僕の好意を受け入れてくれる。そんな彼女の自身の脆さを自覚せずに抱え込むような優しさが、僕の本心の邪魔をしている。
「いないよ、好きな人。三年かけても僕にはできなかった」
「嘘っぽい……それなりに高校生活を満喫してそうな文弥には好きな人がいると思う」
「いないよ。好きな人どころか気になってる人すら思い当たらない」
僕の答えへ彼女は不信感を少し残しつつ、それでも受け入れたように小刻みに頷いた。
隠していたはずの動揺が伝わって僕の本当の答えが彼女に見透かされしまっているかもしれない。気づかないフリをして頷いているのかはわからないけれど、余計な弁解は余計な怪しさを加えてしまうような気がして僕はただ彼女からの相槌の後の返事を待つ。
「安心した、教えてくれてありがとね」
「え?」
「三年間ほぼ毎日私に付きっきりだったでしょう?もし文弥に好きな人がいたら、その人と過ごす時間を私が奪っちゃってたことになるからさ」
「そんなこと心配する必要ないよ、僕は千春のそばにいたくて一緒にい続けたんだから」
「文弥は優しいからさ、たまに心配になるんだよね。でもそんな心配もないみたい、やっぱり文弥は『ずっと千春』だね」
冗談混じりで言い切った後の彼女の表情は和やかで、安心感に満ちたような柔らかさを含んでいた。
優しさと冗談を半分ずつ取り込んだ気の利いた言葉をかけてあげたいけれど、僕にはなにひとつその条件を満たす言葉が思い浮かばなかった。ただ沈黙を避けるように、そうなのかもねと笑うだけ。
普通の女子高校生になりたいと呟いた三年前の彼女の姿を、彼女の手によって完成に近づけられるアルバムをみつめて不意に思い出した。きっと思い描くような普通を辿れなかった彼女へ僕が最後にできること、僕は彼女を追いかけ続けた三年間の最後に、彼女に訪れるはずだった普通を渡したい。
「千春、そのアルバムちょっと預かってもいい?」
「いいけど……どうして?」
「それは内緒、卒業式の前日に返しにくるよ。だからその日まで楽しみに待ってて」
彼女から手渡されたアルバムは綴じた写真で厚くなっていて、その感覚に少し微笑ましくなった。
本来ならアルバムを作ることなんてしない。彼女が病気を抱えていない普通の女子高校生だったら、学校で同じアルバムを開きながら行事ごとの思い出を振り返っている頃だと思う。それでもその形に当てはまれなかった彼女は、僕が収められただけの思い出を形にすることを選んだ。
だから最後に僕がその特別に普通を添えて彼女へ手渡す。僕が意図的に空けていた最後の一ページは、そんな普通を詰め込むための一ページになる。
「文弥、ちょっとお願いしたいことがあるんだけどいい?」
「いいよ、僕にできることならなんでも」
「そのアルバムを渡しにきてくれる卒業式前日までに、便箋と封筒を二組買ってきてほしいんだ」
「便箋と封筒……わかった、けどどうして?」
「三年間お世話になった担任の先生とずっと診てくれてる主治医の先生に卒業の節目に手紙を書きたくて」
よかった、彼女も普通の女子高校生と同じくらい卒業を実感できている。
寂しさはあまり感じられていないのかもしれないけれど、誰かに感謝を伝える節目として卒業をとらえている彼女の気持ちが垣間見れて少し安心した。
そんな頼み事とアルバムを抱えて、僕は病室を出る。
*
卒業式前日、彼女の病室へ向かう。
数日前彼女から預かったアルバムの最後の一ページはクラス全員分からの寄せ書きで埋まっている。
これが僕から最後に彼女に感じさせることのできる普通。きっと満足に友人関係を築くには時間が少なすぎたけれど、そんな中でも写真の中のクラスメイトを楽しげにみつめる彼女にとって、この一ページ分の言葉が無駄になることはないと思う。
そして僕が制服を着て彼女の病室を訪れることは、今日で最後。
「千春、今日の調子はどう?」
扉を閉めて、視線の先にはいつもと変わらない彼女の姿がある。
僕もいつも通りの場所に荷物を置いて、少しだけ窓を開ける。いつもなら彼女から始まる僕達の会話が今日は始まる気配がない、妙に静かで、どこか緊張感すら感じてしまう。
そこにいるのは、いつもとなにも変わらない彼女のはずなのに。
「千春、なにかあった?」
そう問う僕へ、彼女は首を傾げたまま言葉を発しない。
初めてみる反応に困惑してしまいそうになる、返す言葉を探している。
そんな彼女は僕をみる度に不思議そうに視線を動かす。そして怯えるように小さく唇を動かして一言呟く。
「……誰?」
卒業式前日、十八年間隣で時間を重ねた彼女と僕は『初めまして』に戻った。
「誰……って、冗談でしょ」
怯えたように、本当になにも知らないような様子で、彼女は僕をみつめている。
数秒前病室に響いていた僕の声が消えていく、彼女が言葉を返さないことで沈黙が生み出される。彼女が夜によく眠れるように買い替えた、秒針の静かな時計の音すらはっきり聞こえてしまうほどの沈黙。
僕が彼女を間違えるなんてことはあるがない、僕と目が合っている相手は確かに彼女なのだから。それなのに、僕と彼女の間を理由のわからない距離と違和感が隔てている。
「千春……? 僕だよ、もう冗談はいいよ」
机上に置かれていた彼女の手に向かって、僕の手を近づける。
「……辞めて、触らないで」
そのまま彼女の手に触れようとした。彼女が治療に対して不安を抱いた時、僕は何度も彼女の手を握ってきたから。
再入院という突然の事態に錯乱しているのだと思った、そんな彼女を今回も同じように手を握って安心させたかった。その僕の意図と反するように、彼女は容赦無く僕の手を振り払った。
それと同時に僕へ向けられた言葉は冷たく鋭利で、視線の奥底からは誰かわからない人へ向けた恐怖からくる抵抗すら感じた。きっと彼女は本当に、僕のことを『文弥』だと認識していない。
そしてそれが何故なのか、今の僕の頭の中にひとつだけ心当たりがある。これこそ、僕の心配性であってほしい。僕の勘はこういう時に限って冴えていて、よく当たる。
『忘れっぽい』先週の彼女が呟いた一言が、僕の中で繰り返される。
きっとこれは彼女の悪ふざけだと言い聞かせる、明るい彼女の行き過ぎた冗談だと思いたかったから。
「どうしてそんな嘘つくの? わからないフリなんて、知らないフリなんてしなくても話すことなんてあるでしょ?」
「嘘じゃない、わからないフリでも、知らないフリでもない……私は本当に貴方を知らない」
「そんなわけない、ついこの間一緒にここでアルバムだって作ったんだよ? その後に通話だってした、そんな僕のことを忘れるわけがない」
「アルバムなんて作ってない、通話も……貴方と話した記憶はない。本当にわからないの、今初めて、私は貴方のことを知った」
「もういいよ……僕の名前、呼べるでしょ。知ってるでしょ? お願いだから呼んでよ……」
「だから、私は貴方のことを知らない。初めて会う相手の名前なんて言えるわけがないでしょう?」
「いつもの千春じゃないよ、おかしい。今日の千春は千春じゃないよ」
吐き捨てるように、そう言ってしまった。幼馴染という距離の近さが裏目に出たような乱暴な口調を、僕は初めて使ってしまった。
彼女の『わからない』『知らない』に嘘がないことなんてわかっていたのに、それでも僕はその言葉を受け入れたくなかった。
覇気のない彼女の声が僕の耳には残っている。力のないその声で、彼女は僕に『知らない』と言い続けている。
僕を初めて『貴方』と呼んだその声が、耳に残って剥がれてくれない。
「ごめん……すみません、人違いでした。隣の病室の方と勘違いしてました」
ただ何事もなかったように、目すら合わせられず、他人のように病室を出ること。今の僕にとれる最善の行動は、それだけだと思った。人違いなはずがない、隣の病室には知り合いどころか最初から入院患者すらいない。何度も名前を呼んで、知っているはずだと問い詰めた僕が『人違い』なんて無理のある理由で通用わけがない。それでも混乱しきった僕の頭では、そんなわかりきった嘘しか思いつくことができなかった。
僕は逃げるように病室の扉に手を掛ける。
「待って」
「え……」
「さっき、私の名前呼んでましたよね」
「名前、ですか」
「千春って、呼んでくれてましたよね。もし私の聞き間違いじゃなかったら、病室を出るの待ってください……少し貴方と話がしたい、確かめたいことがあるんです」
生まれて初めて、彼女から敬語で話しかけられた。似合わない、と思った。
他人行儀な声も、聞きなれない敬語も、僕をみる疑ったように怯えた目も、僕が知っている彼女ではない。僕が彼女に対して『誰』と問いたくなってしまうほど、その姿は別人に映る。
それでも彼女が引き留めている理由を僕は知りたい。名前を呼んだだけで僕を引き留めた理由を知ればきっと、彼女に起きている違和感の答えも知れるはずだから。
「呼びましたよ、千春って。貴女の名前、僕はちゃんと呼びました」
「よかった、聞き間違いじゃなかった。最初にひとつ、私に教えてほしいことがあるんです」
「教えてほしいこと……?僕に答えられることなら、なんでも教えますけど」
「お名前、教えてほしいです」
「僕の名前ですか?」
「フルネームで、私にお兄さんの名前を教えてほしいんです」
辿々しく僕へ頼んだ後、堅くなった雰囲気を砕くように彼女はベッド横の椅子の背を軽く叩き、僕を呼ぶ。
ここまで緊張感に包まれた病室は僕にとって今日が初めて。彼女の怯えた表情が微笑みに変わっている、それでもいつもの笑った顔とは違う。違和感を埋めるために用意されたような表情、その表情がより僕の中の違和感を積み上げていく。
「……桜庭 文弥、それが僕の名前です」
「さくらば ふみや……ごめん、ちょっと待っててくださいね。あと敬語、違和感あったら外して大丈夫ですからね」
そう言って僕の名前を呟きながら、掌ほどの大きさのノートを指で追って読んでいる。
時々難しそうな顔をしながら、僕の容姿を凝視して頷きながら。彼女がなにをしているのか僕にはわからないけれど、なにかを照らし合わせているということだけはよくわかった。
「桜庭 文弥君……私と幼稚園から一緒にいる、っていうことは幼馴染。話し方はタメ口、高校三年間は同じクラスだった、家がほぼ隣で誕生日が隣の日付、ほぼ毎日お見舞いに来てくれる優しい人……」
そのノートと僕を何度も見返して、他人事のように僕の存在を認識していく。
彼女の声で、僕からみた彼女が読み上げられていく。僕の特徴、彼女からみた性格、彼女との関係性、きっとその全てがその手に握られたノートの中に明記されている。
「文弥君のことちょっとわかったよ、よくわからないけどわかった。この人なら私の話をしても大丈夫って、少し前までの私が言ってる気がする」
「少し前までの千春……それ、どういう意味?」
「すごくわかりやすい言い方もできるけど、それはきっと文弥君のことを傷つけちゃう。そして、きっと私にとっての文弥君は傷つけたくない人だから……だから今すごく、伝え方を迷ってる」
「僕はなにを言われても傷つかないよ、約束する。だから教えてほしい、その、わかりやすい言い方で」
彼女が躊躇っていることがよくわかる。開きかけた唇を何度も閉じて、過剰なほどに瞬きを繰り返している。
数秒後に告げられることへ大体の想像がついてしまっているからこそ、彼女からの確信的な言葉がほしい。正直なにを言われても動じずにいられる心なんて持ち合わせていないけれど、僕は『傷つかない』という単純すぎる言葉で覚悟を持った気でいるしかなかった。
「思い出せないの、文弥君のこと。私……今、文弥君がどういう人なのか、全くわかってない」
彼女が震えた声で僕へあるままの事実を告げる、僕の頭はその言葉の意味を受け入れようとしない。
申し訳なさそうに背を丸めながら僕へ謝る彼女の姿をみても、彼女がなにを言っているのか僕には理解できなかった。
一週間前まで僕の前で笑っていた彼女が、三年間を振り返りながら過去を懐かしんでいた彼女が、誰よりも同じ時間を過ごしてきた僕のことを思い出せない。
なにかのフィクションであってほしい、それこそ授業の居眠り中にみる中途半端な悪夢であってほしい。
「それって、つまりさ……」
この僕からの問いは彼女からの言葉を理解するための問いではない、彼女からの言葉を受けた僕の嫌な解釈を否定するための問い。
僕が待っている言葉は『そんなわけないじゃん!』という彼女らしい一言だけ。そこに希望を託している。
言葉が喉に詰まっていく、言葉にすることを躊躇っている。数秒前の彼女の気持ちが痛いほどわかってしまう。
「僕のこと、忘れてるってことなのかな」
その問いに対して、彼女から言葉が返ってくることはなかった。ただ小さく上下に動いた彼女の頭が、その答えを表しているだけ。
十八年間隣にいた、誰よりも彼女を知ってきた僕が、彼女の記憶の中から消えた。
一週間前の彼女の言葉の影が、今はっきりとみえてしまった。『最近忘れっぽい』そう言っていた彼女に、この結末がこんなにも早く訪れてしまうことを僕は想像できていなかった。
忘れっぽいという言葉は薬を飲み忘れるだとか、置いたものの場所がわからなくなるだとか、そういう単純な日常の中の話だと思っていたから。
__彼女の記憶から僕が消えた。
何度もその事実が言葉になって頭の中を動き回る。一向に受け入れようとしていなかった僕の心が、その事実を理解し始めてしまっている。反応してはいけないと思っていた心が動いてしまっている。目の奥が鈍く痛くて、身体が強張って、呼吸が浅くなっていく。
「文弥君は、私が病気だってこと……知ってくれてるの?」
「……知ってるよ、きっと誰よりも千春のことは知ってるよ」
「そっかそっか、それじゃあ少し前までの私はずっと隠してきたんだね……こんなに大事なこと、隠したままでいたんだね」
「大事なこと、隠してるって……どういう意味」
「私の病状が悪化したら起こる変化を、ずっと伝えてなかったって意味だよ」
彼女の声は妙に落ち着いていて、表情も数分前より遥かに穏やかだった。
それでもその落ち着きすぎた雰囲気に僕は違和感を感じていて、今まで感じたことのない壁を感じている。みえない何かに隔てられているような感覚に襲われて、彼女が本当に遠くの存在のように感じた。
誰よりもみてきたはずなのに、本当に初めて顔を合わせる人であるような感覚。誰より知っているはずなのに、知らない。そんなもどかしさを抱えながら、僕は彼女からの言葉を待ち続ける。彼女の言うずっと伝えてこたかったこと、を受け入れるために。
「初めにちゃんと謝らせてほしいんだ、こんなに大事なこと隠したままでごめんなさい」
俯いたまま、彼女は顔をあげてくれない。
彼女が謝罪する申し訳なさそうな姿も、俯いたまま戻らない姿勢もみたくない。僕はただ、僕が知っている彼女の姿と声と、聞き流せてしまうような言葉がほしい。
今の僕には彼女が隠していたことを受け入れられる自信がない、傷つかないという取ってつけたような言葉が一瞬にして崩れ落ちそうになる。
彼女が顔を上げると同時に僕も逸らしていた目を彼女へ戻す。受け入れられる自信がなくても、最後まで僕は彼女を受け入れたいと思ったから。
「記憶がなくなっていくの、病状が悪化するごとに」
「病状が悪化……それは、今の体調はどう? 頭が痛いとか、手が動かしづらいとか、そういうことはない?」
「足の感覚がほとんどなくて、移動に車椅子が必要になったくらい。他はなにも問題ないよ」
「問題ないなんてわけがない……話すことも辛かったら休むことを優先していいからね」
「ありがとう、文弥君は本当に優しい人みたいだね。でも大丈夫だよ、今はちょっと調子いいからさ」
「そっか、ごめん話を遮っちゃったね。続き、聴かせてくれないかな」
「腫瘍が大きくなって脳を圧迫することで、過去の記憶を整理する場所が機能しづらくなっていくんだよね」
「過去の記憶、それなら字を書いたり言葉を口に出したりすることも難しくなっていくんじゃ……」
「私の症状はちょっと特殊なんだよね、きっとこの紙に書いてあることを読んでもらった方がよくわかると思う」
彼女が引き出しから一枚の紙を取り出し、僕へ差し出す。彼女の主治医の名前と印鑑の押された紙、ただの紙のはずなのにその一枚が僕には言い表せないほど重く感じた。
そこには彼女の言葉の通りのことが記されていて、残酷なほどに間違いが見当たらない。
腫瘍が脳を圧迫することによって過去の記憶が失われていくこと、それが彼女が患う大脳圧迫腫瘍という病に稀にみられる症状らしい。
そして彼女の場合は人に関する記憶が局所的に抜け落ちていき、その人に関連した記憶も同時に失われてしまうという特徴を持っている。その人とどれだけ親密な関係であっても記憶から消し去られてしまう。
そして、失われた記憶が戻ることはない。
「それじゃあ……ここに書いてある通り、一度忘れた人の記憶は無くなったままなの……?」
「一時的になくなるわけじゃなくて、そもそもの記憶から消えちゃうみたいなの。だから、文弥君のことも__」
「待って、それ以上は……それ以上は言わないでほしいな。きっと、理解できてると思うから」
わかっている事実を、改めて彼女の口から突きつけられることは今の僕には受け止められそうにない。
何度も聴いてきた彼女の声から『初めまして』のような口調で言葉が並べられていくたびに心が抉られるような感覚になる。
彼女の中から僕との記憶が消えたという事実の反動からか、僕の頭の中には彼女との思い出が五月蝿いほどに鮮明に浮かび上がってくる。
小学校の入学式前日、僕のランドセルについていたキーホルダーを羨ましいと泣いたこと。近道をしようと草の生えた狭い道を通って帰ったこと。中学生の頃、あまりの仲のよさに『付き合ってる』と冷やかされたこと。その冷やかしを否定しながらも、僕は少し嬉しさを感じていたこと。テストの点数を競ってアイスを奢りあったこと。彼女の通院日に合わせて一緒に高校の制服採寸に行った日のこと。いつか忘れてしまっても気づかないようなことばかりが、僕の頭の中に映し出されていく。苦しい、どうしようもなく。彼女の姿を、僕は初めてみたくないと思ってしまった。
そしてもうひとつ、きっと『忘れてはいけないこと』に分類されるであろう言葉を思い出す。その言葉に僕は酷く申し訳なさを覚えた。
「ごめん千春、僕は僕が伝えた言葉に嘘をついてしまうかもしれない」
「それは……どういう意味?」
「知らないままでいいよ、知らないままでいてほしい。ただ、この僕からの『ごめん』だけは受け取ってほしい」
今の彼女にとって何者でもない僕が言葉を押し付けている、とても無責任なことをしている。
ただ僕の頭の中には謝るための言葉が溢れていて、彼女に向けた言葉が嘘になってしまったことへの罪悪感に駆られている。
__生きてさえいてくれたら、僕は幸せだよ。
彼女の病気がわかって初めての誕生日に、僕が彼女に告げた言葉。
紛れもない本心だったその言葉が、嘘に変わってしまう。目の前の彼女は確かに生きているのに、それなのに今の僕の心は『病状が悪化してもなお生きてくれている彼女』を喜ぶ気持ちより先に『僕との記憶を失ってしまった彼女』への悲しみで埋まってしまっている。
幸せなんて言葉を言える余裕は、残っていない。
「文弥君は、私の幼馴染なんだよね。だからきっと私にとっても、文弥君にとってもお互いが大切な存在だったのかな」
「大切なんて言葉じゃ足りないよ、僕にとって千春は__」
「千春は……?」
「ごめん、そうだね。僕にとって千春は大切な存在だったよ」
大切だった、失いたくなかった。そこに間違いはないけれど僕の心が少しだけ嘘をついていることがわかる。
僕にとっての千春は、好きな人だから。この世界でただひとり、僕が好意を抱いた人間だったから。ただそれは僕の中に隠されたままの気持ちで、彼女は思い出す以前に僕の気持ちを知らない。
だから僕はなにも知らない彼女は空想で語ってしまえるような『大切』という言葉に全てを込めることしかできない。
「私が持ってるこのノートにね、いくつか文弥君のことが書いてあるんだ。ひとつずつ確認していってもいいかな」
「怖くないの?」
「え、なにを怖がる必要があるの?」
「急に手に触れようとした知らない僕が、ふたりきりで病室にいること。怖がってもおかしくないでしょ」
「怖くなんてないよ、知らないことは自分から知っていかないと。それに、文弥君がどんな人か私にはまだわからないけどすごくいい人だっていうことはなんとなく感じ取ってるからさ」
ちょっと大雑把な考え方も、なぜか自信に満ちた声も、僕が知っている彼女と重なる。
小さな頃からそうだった。一緒に公園に行って遊んでいても彼女は知らぬ間に数人の友達を作っていた。その日限りで次に会うことはないけれど、その瞬間を楽しむ相手を彼女は引き寄せていた。
彼女が僕のことを忘れたとしても、彼女は彼女のままなのかもしれない。
「確認していこう。そして千春が感じてくれてる『すごくいい人』って印象が本当かどうか、今の千春が確かめてほしい」
「ありがとう、確かめさせてもらうね。私の勘は間違ってないと思うけど」
冗談まじりに笑う彼女の表情が僕の記憶と結びつけられていく度に、心が苦しい。素直に懐かしむことができない、それがまっすぐな彼女に申し訳なくて心の奥が窮屈になっていくのを感じる。
ベッド横にある引き出しの一段からペンを取り出した後、僕のことが書かれているページを広げる。幼い頃からの癖が残っている少し丸み帯びた彼女の字で、僕が記されている。十八年間の千春がみてきた桜庭 文弥がそこにはいた。
「なにから教えてもらおうかな……幼稚園も小学校も中学校も同じだったんだもんね、確かめたいことが多すぎてちょっと戸惑っちゃうよ」
「それほど長い時間の中で関わってきたってことだよ、少しずつ辿っていこう。焦る必要はないよ」
「そうだよね、私もそう思うんだ。ただ文弥君の性格はできるだけ早く知っておきたいって思うの」
「そのノートに僕の性格がわかるようなこと、なにか書いてないの?」
「書いてないわけじゃないんだけど……あまりにも頼りにならないんだよね、本当に少し前の私は能天気すぎて自分でも困っちゃう」
そう言って少し呆れた表情の彼女は僕へノートを向ける。僕自身の情報が書かれているノートをみることに抵抗を感じながらも、彼女の文字に焦点を合わせていく。
並べられている出来事の順序がバラバラなことから思い出す度に書き足してきたことがよくわかる。それでもそこに書かれていることに間違いはひとつもなく、すぐに僕の頭の中でその時の景色や会話が映像として流れていく。
ただ見開き一ページにわたって書き記されたことの中に、僕の性格を書いているであろう場所が見当たらない。
「ねぇ、僕の性格ってどこに書いてある? ちょっとみつけられなくてさ」
「それがね、本当に一言しか書いてないんだ。ここ、こんな一言で語り切れるような人じゃないはずなのにね」
僕の顔色を伺いながら、それでも笑いを堪えながら、彼女は再び僕へノートを差し出しそのひと部分を指先で示した。彼女が笑いを堪えている理由がよくわかった、本当にどこまでも彼女は可愛らしい性格をしている。
いずれ記憶がなくなってしまうことを知っていた彼女が書き残した僕の性格、それは__。
__ 桜庭 文弥は優しい! とにかく優しい、だから信じて、頼って、一緒にいて大丈夫。本当に優しいから!
記憶をなくした状態でこの一言をみた時なにがわかるかと言われたら、きっとなにもわからない。
この人は優しい人だ! となにもわからない状態で押し通されるのだから、受け入れることに時間がかかる。少し前の彼女はなにを自信にここまで大雑把な言葉だけを残したのだろう。
「ふふ、おかしいね、本当に不思議だよ」
「文弥君、怒らないの……? もっとちゃんと書いておいてよ、知れるために書き残しておいてよ! って怒ってもいいくらいなのに、なんで笑ってくれるの?」
「千春らしくてね、その気持ちと感覚を大切にしている感じが千春らしくて。ちょっとそれが、僕は嬉しかったから」
確かに彼女が僕の性格を細かく書いてくれていたのなら、それはそれで嬉しかったのだと思う。
それほど僕のことをみてくれていたのだと実感できる言葉が並べられているノート、それもそれでみてみたい。ただ今の僕は、彼女の取り繕わない言葉が残されていた事実がたまらなく嬉しい。
怒るなんて感情は欠片も僕の中にない。きっとそれほど、僕は彼女のことが好きだから。
「千春は僕の性格よりも、思い出をたくさん書き残してくれてたんだね」
「そうみたいだね、このノートをみて私もそう思ったよ。もう少し性格も書いておけばよかったって後悔してるけど、思い出だけは取りこぼさずに書けてるね」
「それだけ思い出が書いてあれば、僕がどんな人だったかわかるんじゃないかな」
「どうして? 思い出から性格を知る方法、私は知らないよ」
「きっと人は、苦手な人との思い出を残そうとなんてしないと思うんだ。特別だったり大切だったり、そういう人との思い出を重ねていきたいと思う生き物なんだよね」
「思い出から文弥君が私にとっての特別だって、大切だってわかったとしても、性格までわかるのは難しい気がするけど……」
「その人となにをしたかの思い出があれば、きっとその人が好んでいたものがわかる。そうやってひとつずつ紐解いていけばいいんだよ。そうしたら最後には性格にたどり着けるはずだから」
難しそうな彼女の顔が晴れていく、そしてノートの中の思い出を読み込んでいく。
僕が言ったことは曖昧だけれど、我ながら割と正しい持論だと思っている。僕と彼女の趣味や性格は正反対で、残っているふたりの写真は大抵彼女の反対側にある表情を僕がしている。
きっとそれは、言葉でも同じことが言える。
「例えばここ『一緒に美術館に行った。文弥は絵画に夢中だったけど、私は少し退屈でその近くにある体験型のオブジェで遊んでた』って書いてあるよね。ここで僕と千春の好きなものが違うってわかる、とか」
「本当だ……もしかして、文弥君って穏やかな性格なのかな? ってわかるね。本当かどうかは直接確かめればいいし、なにより少しずつ探っていくような感覚が新鮮で楽しい」
ありがとう、と彼女は僕に言うけれどこの楽しさを感じられているのは、他でもない彼女が僕との記憶を鮮明に書き残していたからだと思う。
当時の年齢、季節、天気、ふたりの服装、行った場所、食べたもの、交わした会話、その時の表情。意識すらできない間に過ぎ去ってしまうような一瞬を、彼女は言葉に起こしてきた。その一瞬をどこまでも続いていく時間にするために。僕が写真を撮っていたように、彼女なりの方法で僕達の日常を切り取り続けてきた。
「それに私、もうひとつ気づいちゃったよ。文弥君の性格を知る方法、というより唯一書いてた『優しい人』を確かめる方法」
「どんな方法か聴かせてほしいな」
「今だよ、今。話してる時の声色とか、私のことをみる目とか、それだけでも少し文弥君がどんな人かわかりそうなんだよね」
「なかなか難しい方法を思いついたね。声色とか目か、それを通して『僕はこんな人ですよ』ってわかりやすく伝えられたらいいんだけどね」
「確かに難しいけど……でも私、もうひとつわかっちゃったよ。文弥君がどんな人か、どんな優しさを持った人か」
得意げなその声と視線に、僕は自然と意識を持っていかれてしまっている。
彼女が僕のなにをみつけたのか、今の彼女が感じ取った一番最初の僕を知りたい。
「文弥君は、自然と一緒にいたいって思える優しさを持ってる人だと思った」
自然と一緒にいたいと思える優しさ、そんな言葉が彼女から聴けるとは思っていなかった。
実質初めて出会った僕に向けた言葉だから、きっと僕が思っているほど彼女はこの言葉を深く捉えていない。それでも嬉しかった、手を振り払われるというひとつの拒絶の形に触れた僕だからこそ、その直感的な一言に僕は過剰なほど安心している。
「ねぇ、文弥君。ちゃんと確かめたいことがひとつあるんだけど、訊いてもいい?」
安心感に浸っていた僕へ、彼女の少し沈んだ声が届く。
嘘みたいに泳いでいる目から、僕への問いを躊躇っていることがよくわかる。彼女の中の動揺が痛いほど伝わってくる。
「いいよ、なんでも。僕に答えられることならなんでも答えるからさ」
僕の言葉でなにかを決意したように、彼女は開いていたノートを閉じる。
深呼吸をして、一度目を瞑り、ゆっくり開いて僕をみつめる。今から僕は、それほど重大なことを尋ねられるらしい。
「私と文弥君、お付き合いはしてないよね」
どうしてその問いが彼女の頭を過ったのか、僕はそこに行き着くまでの経緯が気になってしかたがないけれど今は事実をそのまま伝えることが僕の求められていることだとその疑問を押さえつけた。
「お付き合いはしてないよ。僕にも、千春にも、恋人はいない」
「そうだよね、ちょっと曖昧な書き方が……『ずっと隣にいてくれる人』って書いてあったから。もしお付き合いでもしていたら忘れてるなんて申し訳ないから、だから確認しておこうと思ってね」
そっか、と一言呟いた僕の声でその会話は途絶えた。
ここで『僕達は付き合っている』と嘘をついたら、僕と彼女の関係はどうなっていたのだろう。そんな不純な想像が僕の中で止まない。
その嘘を彼女が答えとして受け入れた先で、恋人として接していく中で、僕は彼女の恋人らしくなっていけるのだろうか。
きっと僕との記憶がなくなっている彼女に今どんな嘘をついたとしても、その嘘がバレることはない。彼女は全てを受け入れて、その嘘に従って本当を創り出していくことになる。
それなら、彼女が僕の恋人になる未来が、僕の恋が叶う未来が自動的に訪れる。
「千春」
「なに?」
「さっきのことだけどさ、やっぱり__」
そこから先の言葉が、僕の声になることはなかった。
唇の動きが止まって、僕の口は開いたまま。彼女の状況を理由に未来を動かそうとした僕自身の欲を、彼女の純粋すぎる視線が断ち切った。
僕が好意を隠し続けてきた理由に、僕自身が背くわけにはいかない。彼女の心を壊したくない、明日の保証がない彼女だからこそ一日でも長く心から僕にその笑顔をみせてほしい。
記憶がなくなっても、彼女は彼女だから。僕はただの幼馴染で、これは叶わないままの、言えないままの片思い。
そんなことは誰よりも、僕がわかっているはずだから。
「なんでもない、なに言おうとしたか忘れちゃったよ」
「そっか、忘れっぽいのはお互い様なのかもね」
そう笑ってくれることが彼女の優しさであることもよくわかっている。
優しいから、まっすぐだから、可愛らしいから、僕のことを忘れても変わらない彼女だったから。だから僕は、身勝手に好意を伝えてしまいそうになるほど彼女への好意を諦めきれずにいる。
生きていてくれたらいいと思っていた。忘れられた数時間前は思い出してくれたいいと思った。思い出すことが不可能だと知ってからは新たに確かめていけばいいと思った。
全てを受け入れたはずなのに、僕はまだ『好きになってほしい』という抑えていたはずの願い事を持ったままでいる。
「この後、少し用事があるから僕はここで帰るね。千春もゆっくり休むんだよ」
「ありがとう文弥君、またね」
僕が僕の心を抑えきれなくなる前に、彼女に今日の別れを告げた。
また明日も会えるはず、明日は僕達の卒業式だから。
手には渡せずにしまったままのアルバムが残されている、これも明日渡せたらいい。
彼女と時間を重ねていく度に僕の中の願い事が増えていく、だから今日はただひとつだけを願って病室の扉を閉めることにする。きっと僕達が、ずっと変わらずに願い続けているたったひとつのこと。
__ 明日も千春が生きていますように。
*
翌日の卒業式、埋まるはずだった僕の隣の席だけが空いたまま式が始まった。
『卯月 千春』
担任教師が彼女の名前を呼ぶ、返ってくる声はない。
そしてなにひとつの違和感もなかったように、彼女の次の名前が呼ばれる。式が続いていく。
普段涙とは結びつかないほど冷静な担任教師ですら涙を浮かべている空間で、僕だけがその埋まらない席に気を取られているままだった。
最後の一年を過ごした教室の景色。
在校生による装飾が施された非日常感に包まれた教室の中で、彼女の席だけが変わらない空席のまま終わったことに僕はその日初めて涙の感覚を覚えた。
卒業式。僕はクラスメイトとも、担任教師とも違う意味を持つ涙を流して終わりを迎えた。
車椅子を使わずに歩こうとした彼女が転倒したと、僕は昨晩病院から連絡を受けていた。彼女が僕に伝えるよう看護師に頼み込んだらしい。正直『転倒』という情報だけで僕が想像できることには限りがあったけれど、僕は曖昧にも彼女の最悪の場合を考えてしまって『わかりました』としか返すことができなかった。
彼女がいない一日にこんなにも不安を覚えたことは初めてだった。そして今までにないほどの虚しさを抱いたのは『卒業式』の場に彼女の姿があることを期待している僕がいたからだった。
式典後、家が近いからという理由で彼女の分の卒業記念品を受け取り、僕はいつも通りひとりで最後の通学路を歩いた。
「ただいま」
先に帰宅していた家族と親戚の賑やかな声を浴びて、取り繕えるだけの笑顔で『ありがとう』と応えた。その時、昨日の彼女がぎこちなく笑っている時の気持ちが少しだけわかった気がした。誰かが創り出す雰囲気に合わせて、笑うという方法でしかやり過ごすことができないことの苦しさが痛いほどわかった。
ある程度の言葉を交わした後、自室へ入った僕は気が抜けたように崩れ落ちてしまった。
彼女のいない学校なんて慣れていたはずなのに、ひとりだけの通学路が日常だったはずなのに、一緒に卒業式へ出席できるという希望が絶たれた衝撃を僕はまだ器用に消化しきれていない。
卒業記念品に刻まれた彼女の名前を指でなぞる、彼女に触れたくなった。記憶から消されてしまった僕が彼女に触れることはきっともうないけれど、それでももう一度だけ僕は彼女の温度を感じたいと思った。
「ん……?」
ポケットの奥底からスマートフォンの振動が伝う。
通話に応じる気分にもなれずそのまま相手が切るのを待とうと無視していたけれど、その着信はなかなか途切れる気配がない。後から折り返して掛け直す手間を考えても今済ませてしまった方がいい。
僕はポケットからしつこく振動するそれを取り出し、背を向けていた画面を裏返す。
「……千春?」
僕はその名前を二度見した、そして一呼吸ついて音の出る場所を耳に当てる。
彼女の声が聴こえるまでの沈黙が異様に長く感じた。
「看護師さんから『本当なら今日が卒業式だったんだよ』って聞いたんだ。文弥君、式も終わった頃かなと思って……高校生活最後の一日はどうだった?」
「最後の一日……そうだね、あんまり高校生活が終わるっていう実感は持てないままだったかな」
「そっかそっか、やっぱりそういうものなのかな。それでも泣いちゃったりした?」
「そうだね、ちょっと堪えきれない部分はあったよ」
「素直でいいね、その涙もきっといい思い出になるよ。私もそういう気持ち、その場所で味わってみたかったな」
どこか他人事のような口調で彼女はそう呟いた。
泣いてしまったかという問いに、僕は違和感を持ちながら答えられるままの言葉を返した。嘘ではない、高校生活の最後に彼女と時間を共にできなかった事実に耐えられなかったのだから。
そもそも一緒に卒業の日を迎えることすら、諦めていたはずだった。だから今日、彼女が生きていること自体に喜ぶことが僕の抱くべき正しい感情。それなのに僕はいつの間にか彼女に対して欲張りになっている。
「文弥君」
「どうしたの?」
「私からひとつお願いしたいことがあるって言ったら、聴いてくれる?」
「聴くよ、僕にできることだったらいくらでも叶えさせてよ」
「やっぱり優しい、私はその優しさに甘えさせてもらうね。幼馴染の特権として」
不意に口に出る揶揄うような口調も、器用な甘え方も僕が知っている彼女と重なる。
幼馴染の特権、その言葉を彼女はあと何度僕に使えるだろう。
「明日、私の病室に来てほしいんだ。そしてその時に、ふたりで過ごした過去がわかるようなものを持ってきて欲しいの」
「過去がわかるようなもの……いいけど、それをみて千春はどうするの」
「忘れちゃったことは、もう思い出せないから……だから、新しく知りたいんだ。私と文弥君がどんな時間を過ごしてきたか、時間はかかるかもしれないけどちゃんと知っていきたいの」
通話越しにも意思の強さが伝わってくる、彼女は今を生きながら誰よりも未来をみて過去を知ろうとしている。
彼女が書き残してきた言葉以上のことを伝えられるなにかを、僕はみせたい。失った記憶を辿るように、僕の隣にいた彼女を思い出せるような瞬間を捉えたものを今を生きる彼女に届けたい。
だからこの彼女からの『お願い』を、僕が断る理由はない。
「わかった、それじゃあ明日僕が伝えられる限りの過去を持って千春の病室に行くね」
「ありがとう、楽しみに待ってるよ」
その言葉で通話が切れる、音のしない向こう側にいる彼女の笑っている顔が想像できてしまう。
その顔を僕が崩すわけにはいかない。
僕はしばらく開けていなかったベッドの下の引き出しからみつけられるだけの思い出を探す、明日の僕と彼女が少しでも過去に触れられるように。
*
言われた通り、僕は鞄に過去を詰め込んで家を出た。
幸いなことに一昨日の転倒による怪我や身体への影響はなっかたらしい。それでも彼女の体調面を考慮し、病院から許可が降りた面会時間は一時間。彼女はそのすぐにでも過ぎ去ってしまうような時間を『一緒にいられる時間があるだけで嬉しい』と捉えた。そんな一面に励まされている僕がいる。
病室の扉を開ける。すぐにみえた時計から予定より三十分以上早く着いてしまったことに気づく。
「千春、少し早く着きすぎちゃったけど大丈夫?」
「大丈夫! 私はいつでも迎え入れる準備ができてる!」
心なしか二日前より、彼女の表情に嘘がないような気がする。嘘がないというより、僕が知っている彼女に近いと言った方が正しいのかもしれない。
整えられた髪や律儀に用意されていた椅子から僕がここへ来ることを早くから待っていたことが伝わる。彼女がどう捉えたとしても、僕の中での一時間へ覚える感覚は変わらない。本当ならもっと長く一緒にいたいというわがままが残ってしまう時間、だからこそ僕は彼女と早く話がしたい。
「ちゃんと持ってきてくれたよね? 私と文弥の過去が知れるもの」
「もちろん、十分すぎるくらいには持ってきたよ」
数日前まで教科書を詰め込んでいた鞄から四冊のアルバムを取り出す。
生まれてから数年間で僕と彼女の両親が撮った写真で創られた一冊、幼稚園、小学校、中学校がそれぞれ一冊ずつ。目立った劣化も見当たらず、僕達の思い出が最も綺麗に残っているものとしては最適だと思った。それに、彼女が書き残している言葉と写真を重ね合わせればより鮮明に過去を映し出せると思う。
彼女が目を輝かせながら一冊目のアルバムを手に取る。開いて一番最初の写真は、生まれたての僕と彼女の写真。四月二十日に生まれた彼女と、二十一日に生まれた僕。紅い頬を膨らませたふたりの写真の横にはそれぞれの名前に込められた想いが母の字で綴られていた。千度もの春を迎えられるほど逞しく、そして美しい人で在れるように、それが彼女の名前『千春』。
「私、逞しく生きるために生まれてきたんだね、きっと。そしてその目的を果たせるように素敵な人に出逢い続けてる」
「どうしてそう思うの?」
「身体はきっと人より脆いけど、それでも生きていたいって願っちゃうのは一緒にいてくれる人のおかげだと思うんだ。だから私の心は逞しく生きてる、ちょっと傲慢なくらいね」
「傲慢か……逞しさと傲慢、言われてみたら重なる部分もあるのかもね」
「でもその傲慢さも私は大事にしたいの。もしもいつか私が私自身のことを忘れちゃってわからなくなった時が来たら、この逞しさは忘れた先の私を助けてくれると思うんだよね。こんな身体になっても生きたがってる私がいた! って思い出せるでしょ? だから私が千春でいるために、この逞しさも傲慢さも捨てたくないの」
彼女の珍しく真面目な声のトーンに胸の奥を掴まれたまま離されないような感覚を覚えた。
何度も呼んできたその名前の意味を改めて知った今日、その名前がいかに彼女を象徴しているかわかった。
春は始まりの季節で、僕達はきっと十八年間で数えきれないほどの始まりを迎えてきた。入学式はいつだって彼女が隣にいて、一番初めの入院も病室には僕がいた。ここまでの人生においての大切な始まりには間違いなくお互いがいる。
物心ついた頃から一緒にいた僕は、彼女と初めて会った日の記憶を持ち合わせていないけれど、それはきっと数日前に交わした『初めまして』が追体験させてくれていたのだと思う。
同じ春に生まれ、何度もふたりにとっての春を迎えてきた。彼女が病気へ負けることなく生きている逞しさも、絶えることなく笑ってきた強さも僕はよく知っている。慣れない治療で衰弱している彼女の元へ僕が行くと必ず『文弥は元気?』と問う優しさは、彼女の美しさだと思う。そしてその綺麗に整った容姿も彼女の美しさ。
変な表現になってしまうけれど『千春』は、彼女そのものだと思う。
「千春は千春だよ、誰よりもね」
「そう、私は私だよ。誰よりも逞しく、美しく生きてあげなきゃ」
真面目な話なんて似合わないね、と笑いながら彼女は再びアルバムへ視線を戻す。
そんなことない素敵だよ、と彼女へ伝えようとした言葉を呑み込む。できるなら今は彼女が思うままに過去に触れてほしい。遡っていく中で自然と溢れる彼女からの言葉を聴いていたい、彼女の創り出すペースで僕達の時間をなぞってほしい。
「赤ちゃんの頃の写真多いね。さすがにこの頃の記憶は文弥君もないでしょ?」
「そうだね、僕も思い出すことすら難しいくらい遠い記憶だよ」
「それじゃあ一緒だね、知っていこう、私達がこれくらい小さかった頃のこと」
ページを捲っても、そこに残されている写真に大した変化はない。
僕か彼女が眠っているか、何かを食べているか、泣いているか、笑っているかの四択。変わり映えのしない顔が同じ動作を繰り返している瞬間が切り取られて残されている。
それでもその変わらなさが愛おしくて、僕達が生きてきた時間を証明してくれているような気がして気を惹かれてしまっていた。彼女が言葉も発さずにページを捲る理由が僕と同じだったらどれだけ素敵なのだろうと身勝手な妄想をしてみる。
「千春、ここまでの写真をみてなにを思った?」
「同じことを繰り返してる、って思った。寝て、泣いて、食べて、笑っての繰り返しだね」
「そうだよね、それなのにこの写真の数だよ」
「生きてきたんだよ私達。写真に撮った同じような時間を繰り返しながら」
身勝手な妄想が叶った。彼女が見惚れている理由は僕の頭の中と重なっていた。
たったの一冊目、時間に直したら数分間で僕は過去に触れては少し感傷的になる予感すら感じている。彼女の記憶から僕が消えても、生きていたという事実が残っているという当たり前に感動している僕がいる。
「そろそろ二冊目に行こうかな。ここから先はきっと文弥君の記憶に残ってる場面もあるだろうから、私はそれを教えてもらいながら写真と重ねていきたいな」
「わかった、千春に教えられるだけの過去を教えていくよ」
僕にとっては懐かしい、彼女にとっては初めて目にする幼稚園の制服姿がそこには並べられている。
可愛らしい形に型どられた名札と、服に着せられていると言っても過言ではないように余白のある制服。当時は彼女の方が高く伸びていた背、当時と変わらない彼女の自信に満ちた利き手のピース。
幼稚園という言葉通り、その姿はどちらも幼い。
「ちっちゃい……! 文弥君、私より身長小さい!」
「千春は周りの子の中でも背が高い方だったからね、僕は逆に小さい方だったから当時は結構差があったんだよ」
「可愛い! でも雰囲気は今の文弥君のままだね、目元の柔らかい感じとか全然変わってないよ」
今の僕と写真を見比べて無邪気に笑う彼女をみていると、記憶を失っているという前提を忘れてしまいそうになる。ただ十数年前の写真を懐かしんでいるだけの会話のようにすら思えてしまう。
彼女の物分かりの良さと能天気さ、僕の『そうであってほしい』という強すぎる理想がきっとそう思わせているのだと思う。
「バス通園だった? 一緒に歩いて行ってた?」
「そうそうバス通園だったよ、何ヶ所か幼稚園バスが迎えにきてくれる場所があったからそこまでは一緒に歩いて通ってたよ」
「そっかそっか、私のことだからずっとバスの席は文弥君の隣だったんだろうなぁ。私の予想、合ってる?」
「びっくりするくらい合ってる、正解! ずっと僕の袖を離してくれなかったくらいだよ」
「やっぱりそうだったんだ! 私一回『これは大丈夫』って思った物とか人のことをなかなか手放せないの。だからきっとそうなんだろうなって思ったんだ」
彼女の言葉で思い出した、彼女との通園中のバスでの雰囲気。
毎朝起きることが苦手な彼女を玄関まで迎えに行って、泣いた跡の残った顔をして部屋の奥から歩いてくる姿が脳裏をよぎる。そして僕の袖を掴んで離さず、身長差の大きさもあり彼女が低すぎる僕の袖を掴みづらそうにしていたことまで。
バスに乗ってからは一緒に窓の外をみて散歩中の犬に手を振ったり、前日に作って鞄から出し忘れた折り紙で遊んだりして彼女の気を晴らしていた。彼女の素直さはきっとその頃から変わっていない。
「文弥君、もしかして運動苦手?」
「僕が苦手だっていうこともあるけど……それ以上に千春が極端に得意だからさ、追いつこうとしても追いつけなくて」
「だからか! 屋外で走ったあととかの写真に写ってる文弥君、ずっと大変そうな顔してるからさ」
確かに彼女は運動が異様に得意で、僕は人より苦手だった。屋外で撮られた正反対の表情をするふたりの写真が、それを逃すことなくとらえていた。数年間、入退院を繰り返す彼女の姿をみてきた僕だからこそ忘れかけていた彼女の幼少期に触れている。
過ぎてしまえば思い出すことなんてなかったはずの一瞬が今、僕達を繋ぎ止めようとしている。
彼女の手が三冊目のアルバムへ伸びる、集合写真を凝視する。難しそうな表情で、三十数名の顔を指で追う。
「文弥君、この子でしょ! たぶんだけど、私の勘が合ってたらこの子!」
「え……正解! どうしてわかったの? 小学校入学当初の写真だし、今とかなり顔も変わってると思うけど」
「笑い方だよ、笑った時の口の形。文弥君が笑う時って左の口角が右よりも上がるんだよね、気づいた時『可愛いなぁ』って思って」
「そんな小さなことでわかったの?」
「文弥君本人は無意識だろうから言っても難しいかもしれないけど印象的だったんだよね、この頃から変わってないみたいだし。そういう面影があるって素敵だよ」
数日前に知った僕と、今初めてみる僕を見比べて彼女はそんな言葉を呟く。
小学生の記憶は僕にとって割と鮮明に残っているもので、その残り方が彼女を傷つけてしまわないか怖かった。
僕が無意識のうちに懐かしさに浸ってしまうことに彼女が追いつけず『記憶を失った』ことへの引け目を感じてしまうのではないかと。そんな僕の心配を奪い去るように彼女は彼女らしい表情を僕にみせてくれる。これは僕の勘違いかもしれないけれど今の僕と彼女は同じ懐かしい感覚を抱いていて、その感覚に喜びを覚えているのだとすら思った。
「この辺りから身長が同じくらいになってきたね、小学……六年生くらいかな?」
「そうだね、ここから僕の背がよく伸びるようになってさ。千春に身長を教える度に『私だってまだ伸びてるから!』って意地になってるのが可愛かったんだよ」
「そんなところで競ってたなんて可笑しいね、でもいい思い出になってる。こうやってみていくと写真に残ってることが嬉しく思えてくるね」
彼女からみた小学六年生の頃に撮られた写真は、きっと普通の幼馴染同士の写真にみえている。それ以前のふたりと変わらない距離感で幼いままのふたりが写っている写真。
ただ僕からみた写真には、彼女を意識しているからこそ抱くぎこちなさが写っているようにみえる。好意を自覚した彼女への接し方を、小学六年生という幼さの中で探っていたことがよくわかる。
触れようとして引っ込めたであろうランドセルへ伸びる指先、少しそっけないような視線をしているツーショット、それでも不意を撮られた写真には『一緒にいれて楽しい』という気持ちが溢れたような笑顔が映っている。僕の当時の心情が、時を経て蘇ってくる。彼女へ好意を伝えられない理由が純粋な気恥ずかしさだった頃の記憶が溢れてくる。楽しかった、それが僕の中の素直な気持ち。
彼女の指先が四冊目のアルバムに触れても僕はまだ、閉じられた三冊目の表紙を眺めている。
小学校の卒業式のツーショットが貼り付けられた表紙。カメラすらみずに彼女へ視線を向けている僕をみて改めて強く感じる、この頃から僕は彼女のことが大好きだったんだ。
「中学校……早いね、もうここまで来ちゃったよ。入学式、この私の隣にいるのが文弥君だね」
「すぐわかってくれたね、そうだよ。誕生日の順に並んでたからね、だから僕と隣だったんだ」
「すごいね。生まれたばっかりの写真も隣で、十数年経った写真でまた隣に並んでる」
「感動的なことを言うね。千春が言う通り僕達は隣にいることが多いよ、偶然なのかもしれないけどさ」
「偶然なんかじゃないと思うよ? 確かに生まれた場所とか日は偶然だけど、でもずっと仲良くい続けられてるのは私達の力だと思う」
「千春、その言葉__」
「私、なにか変なこと言っちゃった?」
それは、僕が初恋と出逢った彼女の誕生日に告げられた言葉。
僕が冷たく突き放したふたりの『偶然』を、意味のある『偶然』へと塗り替えた彼女の言葉が七年越しに僕の耳を伝った。そんなことに気づいているはずがない彼女は、動揺を隠しきれない僕を不思議そうにみつめるている。
覚えていないはず、彼女が『忘れているフリ』なんてするはずがないからこそ、僕はその言葉が彼女の心の奥底から生まれたものだと確信した。そしてそれが、言葉にできないほど嬉しかった。
「なんでもないよ。ただ、僕はその言葉……偶然を偶然のままにしない千春の考え方が好きだなって思ってね」
「だって本当のことだからね、私と文弥君はきっとただの偶然なんかじゃない」
偶然なんて言葉では終わらせない、それは僕の中にある意地。
彼女の言葉の奥深さに浸っている僕とは正反対に、彼女は何事もなかったような様子でアルバムを見続ける。あの日、その言葉を口にした後の彼女がそのまま桜を見続けた時と同じ雰囲気を纏っている。
僕には到底思い付かないような言葉を、さも当然のように呟く。そんな彼女の言葉を、僕は永遠に記憶していたい。
そして何年後かに思い出して、僕がその言葉に浸って、彼女が変わらない様子でいる未来が訪れてほしい。
「中学生の頃の写真にもなると今と顔とか雰囲気が似てるね。私は背も越されちゃってるし、ふたりの後ろ姿なんて今とほとんど変わらないんじゃないかな」
「そうなのかもね、確かに今にかなり近いよ。それでももう五年も前の話になることが不思議だよね」
「そっか、五年前か……中学一年生の冬頃まではこんな身体になるなんて思ってもなかっただろうなぁ」
中学一年生、彼女が最後に登校した日の日付の下にふたりと当時の担任教師が一緒に写った写真が三枚留められている。そこで、アルバムの写真は途切れた。まっさらなページを寂しそうに彼女が撫でる、僕はそれをなにもできずにみつめている。
その写真から数週間後、彼女の入院が決まった。
最後に留められた写真の中の彼女は相変わらず無邪気に笑っていて、自らの異変の重大さに欠片も気づいていないような表情をしている。
「この先生、私の記憶が間違ってなかったら体育専門の先生だったよね。優しくてすごく好きだったからまた会いたい気持ちはあるけど……今の私のままだったら情けなくて会えないよ」
彼女の言う通り、当時の担任教師は体育を専門的に指導する人で僕達生徒には事あるごとに『健やかでいること!』と口にしていた。同級生の誰かが深夜徘徊で補導を受けた翌日の朝会でも、雨でグラウンドが使えなくなった授業日でも、僕達へ向けた話の最後には必ずと言っていいほどその言葉が付けられていた。
そして当時運動能力の高さから人数の足りない運動部のサポートメンバーとして参加していた彼女へは『千春は僕の言う健やかの象徴のような生徒だ!』と練習中によく伝えていたらしく、彼女はそのことを嬉しそうに僕へ教えてくれた。
「会えるよ、会うまでに時間が掛かってもいい。会うために、千春が『健やか』になればいいんだよ」
「そんな不可能に近いこと……それに私は、先生のこともいつか忘れちゃうかもしれない」
「忘れたらまた知っていけばいいよ。ここまで頑張ってきた千春が今更なにかを諦める選択肢なんて考える必要ないんだから」
再入院期間が始まった頃から気になっていたことが僕の中で確信に変わった。彼女に対して抱いていた違和感、特に僕との記憶を失ってからの彼女へ感じていたこと。
それは、こうしてたまに弱気になること。
以前が極端に楽観的すぎたのかもしれない。何があっても全て笑ってやり過ごしてしまうような人だったから、大丈夫という言葉で乗り切ってしまうような人だったからこそ、彼女のみせる少しだけ後ろ向きな脆さが最近は目立つ。だからこそ、僕はこのアルバムを彼女にみせることを少しだけ躊躇う気持ちがあった。新たに過去を知る、それは忘れてしまったという現状を受け入れるということ。それが、これから僕以外の誰かを忘れてしまう可能性を彼女に強く感じさせてしまうかもしれないと思ったから。
それでも彼女が知ることを望んでいるのならと、その躊躇いを僕の行き過ぎた心配性だろうと片付けて今日ここへ来たけれど、目の前にある彼女の表情をみて少しだけ持ってきたことを後悔してしまいそうになっている。
笑顔の似合う彼女が、切り取られた過去を前に切なさで潰れてしまいそうな表情をしているのだから。
「文弥君が覚えててね、私の分まで」
「え……」
「このアルバムをみたいって言ったのは私だし、知りたかったことは本当だけど、それでもやっぱり『この人のことも忘れちゃうのかな』って思う度に寂しくなっちゃう気持ちもあるんだよね」
「ごめん、僕、一緒にアルバムをみたら千春が知りたい過去を知れるって思って……だから寂しくなったりすることより先に『知ってほしい』っていう思いが強くなちゃって」
「いいの、だから私は文弥君に覚えててほしいって言ったから」
「僕が覚えていたとしても、千春が思う寂しさを埋めることはできないよ」
「そうだよ、埋めることなんてできない。でもそれは、私が忘れちゃう限り抱えていかないといけないからしょうがないことなんだよ」
「それなら__」
言葉を呑んだ。もしかしたらこの言葉が、僕の考えが彼女を傷つけてしまうかもしれないと思ったから。
一度忘れてしまったことなら、忘れたままでいればいい。僕は彼女の寂しさを埋める唯一の方法にそんなことを思いついた。
思い出そうとするから苦しくて、また思い出さなければいけないことが増えてしまう未来に寂しさを覚えるのなら、彼女の中から忘れられた人の存在をなくしてしまえばいい。残酷なほどに単純な話。
「忘れたままでいれば寂しくなることもないって、そんなこと私だってわかってるよ」
口を噤んだ僕へ、彼女が呟く。そしてアルバムを閉じる。
微笑んでいる彼女の口角は少し苦しくて、それでもいつも通りの柔らかい優しさが感じられる。僕の頭で考えていたことを、彼女の声で聴いてしまったことに胸の内側が締め付けられるような感覚に陥る。返す言葉がみつからない。彼女の言葉を肯定することは僕にとってあまりに酷で、それでも否定する理由に相応しい言葉を今の僕には並べられない。
「もし僕が、その忘れたままでいれば寂しくないっていう言葉を肯定したら、千春はなにを思うの?」
口をついたのは、あまりに卑怯な問いだった。
その答えによって、僕の返答を決められるように。
これは、彼女を傷つけない言葉を選ぶために必要な問い。
「仮に文弥君から『そうだね、僕も忘れたままでいたほうがいいと思う』って言葉をかけられたら、きっと『覚えていて』なんてお願いをすることはなくなると思う」
「それは、そうだよね」
「それでも、私は思い出したいって我儘をなくせないままでいると思うんだよね」
「……どうして?」
「その人を思い出せずに残りの人生を生きていくことは、私にとって思い出す中で抱く寂しさとは比べものにならないくらいの寂しさを感じることだと思うから」
記憶が消えていくということは、彼女の中からその人の存在自体が消えてしまうということ。
その事実を誰よりも深く知っているはずの僕が見失いかけていた。
「一度忘れちゃったとしても、私の人生の最後までその人には消えないで一緒にいてほしいって思っちゃうから」
その一言が、彼女の本心だと思う。
記憶から消えてしまった人との過去を振り返らない彼女の人生はきっと『忘れてしまった』という喪失感に触れることのない時間となる。思い出せないことの寂しさを感じる必要もなくて、記憶の中に残っている人との時間を精一杯楽しんで過ごすことができる。
ただそれを繰り返していく中で彼女の中に、知らぬ間に誰かを失っていく時間が積み重なっていく。その失った人の存在に気付いた時、彼女はきっと僕の想像を遥かに超えるほど忘れてしまったことを寂しく思い、そして忘れたことに気づけなかった事実に傷つく。
彼女が失くした過去を知る理由は、本当の意味でその人を失わないためだと知った。
「消えさせないよ、だから僕がいるんだから。これから先で千春が何人のことを忘れても、僕が全部教えるよ」
「本当に頼もしい幼馴染だね。まぁ私も、忘れないって気持ちだけは十分すぎるほどあるから!」
頼もしい幼馴染、という言葉はきっと僕に似合わない。
彼女の笑う顔をみてもなお『忘れたままでいればいい』なんて考えが頭に浮かんでしまった僕自身を許せないでいる。返す言葉すら、彼女の答えを聴いてから口に出した卑怯さに落胆している。
彼女が前を向いて生きているから、僕は僕でいることができている。
忘れていくことを彼女自身が受け入れているのか、それとも忘れないでいることを諦めているのか僕にはその微妙な気持ちの差を知ることはできないけれど『一緒にいてほしい』という揺らがない願いを彼女の言葉で聴いた時、僕に覚悟が宿された。
彼女にとって『頼もしい幼馴染』の僕は、『脆さ故の逞しさを持つ幼馴染』の彼女によって成り立っている。
「千春が生きている最後の最後まで、僕は頼もしくいられるのかな」
「そういてもらわないと困るよ、文弥君は頼もしい。これは私が感じたことだからね、揺らがないでいてほしい」
四冊のアルバムで過去に触れた彼女は、きっと新たな記憶と共に忘れてしまうことへの覚悟を抱いたのだとその表情をみて思った。
笑っているのに、どこか晴れきれないような表情。新たに知ることができても、思い出すことができないということを実感したような表情。彼女は必死に震えそうな声を抑えている、そして僕に言葉を向ける。
「私、先が長くなくてよかったのかもね」
その言葉が彼女から発されたものだということが、僕には一瞬受け入れられなかった。
受け入れられなかった、というより受け入れたくなかった。彼女には長く生きていくことを望んでいてほしかったから。
「どうして、どうしてそう思うの」
「先が長くないってことは、きっと忘れちゃう人もそんなに多くならなくて済むと思うんだ。最近は毎朝目が覚める度に『今日はここの調子が悪い』って思うような身体にもなっちゃったし、そう考えたらさ私に残された時間が長く生きないことも都合よく思えてくる気がしてね」
彼女が僕の前でここまでわかりやすい弱音を吐いたことは初めてだったけれど、もしかしたらこれはずっと言えないまま隠していた彼女の本心なのかもしれない。
記憶をなくす前の彼女からみた僕には言えなかったことを、記憶をなくして新たに出逢った『頼もしい幼馴染』である僕に溢しているようにも思える。不意に彼女が自身の死を受け入れるような言葉を口にしたことが、過去に一度だけあることを思い出した。
*
「だから最後くらい、綺麗な映画のワンシーンみたいに桜を観てみたかったんだ」
「千春にとっての春は、今日が最後なの?」
「どうだろうね、まだ続いてほしいけど……私の身体、きっと言うこと聴いてくれないからさ」
*
あの日、僕達が生きる約束を交わした日のこと。
僕が『十八歳が終わる春』への約束を口にした最終的なきっかけは、彼女が生きることを諦めてしまいそうな危うさを感じたからだった。彼女と生きていたかったから、これから先も好きな人を失いたくなかったから、その理由の奥底には『千春に生きたいと思いながら生きていてほしい』なんて願いがあった。それが叶わないような気がして、僕は咄嗟少しだけ身勝手な約束を彼女へ提案した。
そして僕はもう一度、彼女との約束を交わしたくなった。
彼女が、生きることを望みながら残された時間を生きられるように。
「千春」
「どうしたの? 文弥君、急に真剣な顔されちゃうと怖いよ」
「僕からもうひとつだけ、知ってほしいことがあるんだ」
「知ってほしいこと……わかった、アルバムの何冊目を開けばいい?」
「アルバムは、開かなくていいよ。これは千春と僕の口約束だから」
「口約束……?」
僕と彼女がなくさないように守り続けてきた約束は、ただの口約束に過ぎない。
それを証明できるものがあるわけでもなく、ただ記憶の中で想い続けてきたこと。彼女がそれを忘れてしまった今、僕はその約束の中でさえも片想いをしている。
「僕達が中学二年生の時にね、ふたりでした約束があるんだけど__」
あの日のことを彼女へ伝えれば、僕達はまた同じ未来を抱えられる。
約束という形で、彼女を繋ぎ止めることができる。ただそれは記憶を失くした今の彼女にとって、数日前に知った人と過去に交わしていたらしい約束を覚えるだけのことになってしまう。
「……千春、今から言うことは僕の気持ちの押し付けになっちゃうかもしれない」
「それでもいいよ。私が忘れちゃった約束、きっと忘れる前の私にとっても大事なことだったと思うから、だから教えて?」
彼女が僕からの続きの言葉を待っている。
まっすぐみつめて、決して急かさないような穏やかな雰囲気で僕を待つ。
きっと彼女なら受け入れてくれる。
「千春の病気がみつかった中学二年生の春、ここの病院の中庭で一緒に桜を観たんだよ」
「そんなことがあったんだ、確かにここの桜綺麗だもんね。一緒に観たくなる気持ちもわかる」
「その時にね、僕が千春に言ったんだ」
「その言ってくれたことが、文弥君がさっき言ってた約束?」
「そうだよ、僕と千春の間の約束」
ふたりの間に緊張感が生まれている。
彼女が身構えるように、もたれていたベッドの背から離して身体を起こす。僕は無意識に力が入って握りしめていた手の力を抜く。
そして彼女の名前を呼ぶ『聴かせて』と答えが返ってくる。そんな単純なやりとりに心が静まっていく、約束を口にする準備ができた。
「二人の十八歳が終わる春、一緒に桜を観に行こう」
「桜……それに、どうして十八歳?」
「ほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれた僕達が高校を卒業してひとつ大人になる春だから。そんな特別な季節を千春と一緒に観てみたいって思ったんだ」
台本なんてないのに、僕はあの日、あの瞬間と同じことを迷う隙もなく言えてしまった。
彼女が僕へ向けた問いも、僕の記憶が間違っていなければ全くと言っていいほど同じことだった。
「文弥君、なかなかにロマンチックなこと言うね。果たそうよふたりで、その約束。そしたら十九度目の春の始まりも一緒にいられることになる」
少し揶揄うように笑いながらも、その瞳は潤んでいた。
あの日の彼女と重なる。僕の手を取って、なにも言わずに頷いた彼女の表情が頭に浮かぶ。
病室の窓から覗ける桜の木の花は、まだ一輪も咲いていない。この木に桜の色が宿される時間を一緒に生きられたら、その色を隣でみることができたら、僕と彼女はひとつの約束を果たしたことになる。
それがきっと、僕が生きている中で唯一叶う両想いになるのかもしれない。
「文弥君が勇気を出して言葉を、約束をくれたから……私からもひとついいかな」
「なんでも聴かせてよ、叶えられることなら叶えたい」
「私ね、ひとつだけ高校生活に心残りがあるんだ。それが、このアルバムをみてもっと強くなっちゃったの」
「心残り?」
「学校に思うように行けなかったことでも、行事に参加できなかったことでもないんだ。私が少しだけ期待してたこと、それでもその期待が叶わなかったことがあってね」
彼女が高校生活への心残りと言ってしまうほど期待していたこと。
彼女へ伝えた通り『叶えられることなら叶えたい』それが僕の本心、それでも既に卒業生である僕にできることはかなり限られているような気がした。
僕はなにも言わずに彼女の言葉の続きを待つ、言葉にすることを躊躇う彼女を急かさないようにと不器用に目を逸らしてしまう。
「……卒業式」
「え?」
「私、卒業式に出席したかったんだ。高校生活、ろくに登校もできなかったけど……だからこそ最後の日くらいちゃんと『普通の高校生』になってみたかったんだよね」
申し訳なさそうに彼女は僕へそう告げた。
卒業式へ出席したかったという希望を彼女は『心残り』という言葉にしたけれど、死を受け入れながら生きている彼女にとってそれはきっと大きな『未練』として残ってしまう。
僕は彼女に最期、そんな酷なものを背負わせたくない。
「それにね、さっきも言ったけどアルバムをみてたらより強く思ったんだ」
「それは、どうして?」
「文弥君から溢れちゃうくらいの過去を教えてもらった。それを私がちゃんと覚えた時に、きっと初めて『思い出』になれると思うんだよね」
「そうだね、いつかはそうなっていけるよ」
「その思い出も素敵だけど、でも私は自分で感じたままの思い出も欲しくなっちゃったんだ」
「自分で感じたままの思い出……?」
「誰かから教わる記憶じゃなくて、私自身がその時に感じたことで記憶を重ねたいの。だから高校の卒業式に出席にして、文弥君と『今』の記憶をつくりたいって思ったんだ」
心の奥底で膨らんだ願いを口にした彼女の表情は、少しだけ晴れているようにみえる。
卒業式に出たかった彼女。偶然か必然か、僕も卒業式への未練を抱えたままだった。
晴れているようにみえていた表情に不安が掛かっているようにみえた。その表情をみた僕は呆れてしまうくらい単純に、彼女の願いを叶えなければいけないという使命感に駆られた。
「こんな身体じゃ難しいことはわかってるよ、よくわかってる。移動には車椅子が欠かせなくなっちゃったし、きっと外出許可なんて出ない……それでも『私はこんなこと思ってるよ』って伝えたかったの! 文弥君なら受け入れてくれる、聴いてくれるって思ったから」
彼女は違和感を詰め合わせたような笑顔をつくってみせる。
本当は叶えたくてしかたがないのに、伝えただけで満足するはずがないのに。仮に彼女が本当に僕へ打ち明けるだけで心残りがなくなったとして、僕の中に卒業式への心残りがあることは変わらない。
「千春」
「なに?」
「諦めないでいて、その心残りを晴らさないまま持っててほしい」
「そんなこと言われたら私、期待しちゃうよ?」
面談終了時刻、彼女の言葉に頷いて病室を出た。
最後の彼女の疑問符の語尾は少しだけ寂しくて、それでいてなにか確信を持てる僕からの言葉を待っているようだった。病室にひとりになった彼女が今、僕にみせない表情をしていることは容易に想像がつく。だからこそ僕は、その願いを叶えたい。
彼女が僕の前でどんなに笑おうと、大丈夫なふりをしようと、僕が取る行動は変わらない。
きっとこのふたりの中の心残りを晴らして初めて、僕は彼女に取っての『頼もしい幼馴染』になれる。
僕達の約束を交わして、彼女からの願いを聴いてから約二週間が経った。
既に学校を卒業している僕は、もう二度と着ることはないと思っていた制服を纏っている。向かう場所は学校、ではなく彼女の病室。
「千春、おはよう。今日の体調はどう?」
「おはよう文弥君、今日は『超』がつくほど元気な日! 気持ちの問題かな、それくらい楽しみにしてたの」
病室の扉の先で、彼女はここ数日間で最高の笑顔をして待っていた。
青白い肌はいつもより少しだけ健康的な色にみえて、その色を映させるように唇に薄い赤が塗られている。肩のあたりまで伸ばされた髪は毛先が少しだけ巻かれていて、顔を動かすことでできる髪の隙間からは彼女の綺麗な輪郭が覗ける。
十八年間彼女そのものをみてきたからこそ霞んでしまっていた、僕は改めてその美しい顔の造形に見惚れてしまいそうになる。
「それならよかった、荷物はその鞄にまとめてあるもので全部?」
「私が持っていくのはこれが全部だよ、あとは付き添ってくれる看護師さんが緊急時用の道具を車に積んでくれるって」
「わかった、それじゃあ行こうか。車椅子は僕が押すよ、一緒にあの通学路を辿っていこう」
彼女の身体を支えて車椅子への移動を手伝う、遠慮がちに『重いでしょ? ごめんね』と呟く。少しくらい彼女を『重い』と思えるような身体であってほしかったなと、僕の腕にかかる重さを感じて思う。ただ『そんなこと気にしないの』と笑って言ってみる、これが今の最適解だった。
病室を出て、ロビーで僕達を待っていた看護師から最終確認事項の説明を受ける。昨晩と今朝の彼女の体調、なにかが起きてしまった時の連絡先、最悪の場合の応急処置。そして最後に『千春の最後の青春を味合わせてあげてね』という優しさを託され送り出された。
ここから、僕と彼女にとって高校生活最後の一日が始まる。
「私が学校に行ける日は一緒にこの道を歩いてたんだっけ、この間あの四冊の後にみせてくれた高校三年間分のアルバムの中に写真があったよね」
「そうだね、それに千春はよく走ってたよ。僕がその後ろ姿が好きでね、それが写真に残ってる」
「そっかそっか、残しててくれてありがとう。記憶はないけど、それでも懐かしいに似てる感覚を抱いてる」
「それなら僕が写真を撮った意味があったね」
「文弥君が私のためにしてくれたことに意味がないことなんてひとつもないよ。今日だって、いろいろ考えて私を連れ出してくれたんでしょ?」
彼女の言う通り、この二週間は僕の人生全てでみても最も頭を使った期間だったと思う。
*
あの日、高校生活での心残りを打ち明けられた僕はすぐに家へ帰ったふりをして彼女の主治医を訪ねた。彼女の病気がみつかってから五年間お世話になっている人で僕自身も何度か顔を合わせたことはあったけれど、自ら彼を訪ねたのはこれが初めて。医療知識なんてない僕からの提案はあまりに無謀なものと思われてしまうかもしれないと、案内された部屋の中で怯みそうになる。それでも僕へ打ち明けた瞬間の彼女の表情が何度も頭へちらつき、彼へ頭を下げた後にあるだけの誠意と共に僕と彼女の願いを口にした。
『彼女と一日だけ、一緒に学校へ行かせていただけませんか』
頼りない姿勢だったと思う。目を合わせることなんてできず、震えないように保つことで必死になっている臆病な声。彼女の病状をわかっているからこそ、この提案を口にすることが怖かった。
病室内での面会でさえも一時間に制限されている現状の中で、彼女を一日外に連れ出すことがどれだけリスクを伴うことか。それはきっと僕が、そして僕以上に彼女がよくわかっている。
「文弥君からの願いを了承したい気持ちは僕にだってあるよ。それでも僕は医師として、そのリスクを躊躇わずに許可を出すわけにはいかないんだ」
彼からは、穏やかな声でそう告げられた。
その返答に抵抗する言葉がみつからなかった、彼の言葉を理解できてしまったから。彼女の中の未練を拭いきれないことへの不甲斐なさを感じながら、僕はその言葉を呑むことしかできない。『お時間取らせてしまって申し訳ないです、聴いてくださってありがとうございました』と、そんな簡易的な言葉しか言えなくなってしまった。また日を改めて、今度は現実的な提案をしようと僕が席を立とうとした時、僕の手首を掴み呼び止めたのは他でもない彼だった。
「だから僕はひとりの人間として、心を持つ人間として、その願いを聴き入れたいと思うんだ」
信じられなかった。この願いに希望と可能性を授けられたことが、僕は信じられないほど嬉しかった。
彼の目は優しくて、それでいて覚悟を感じられるような視線を受けた。僕はもう一度席に着いて、彼の話の続きを聴く。
「今の千春を一日外へ連れ出すことは確かにリスクを伴う、それでも不可能ではない。僕や看護師、それに文弥君が力を尽くせばできないなんてことはない」
「どうしてそこまで、力を尽くそうとしてくださるんですか」
「文弥君もわかっていると思うけど、千春にはきっと思っている以上に時間が残されていない。僕は医師として、千春を生かしたい。ただそれ以上に千春をそばでみてきた人間として、この世に未練を残してほしくないという願いが強くあるんだよ」
彼の言うことと僕が内側で思っていることが、奇妙なほどに重なる。
彼女の時間が長くないことを知っているからこそ、受け入れなければいけないからこそ望んでしまうこと。きっとこの人なら、僕と彼女の願いを諦めずに叶えるための手を差し伸べてくれる。
彼へ感謝を伝えたい、それでもその感謝を『ありがとう』で表してしまうことは与えられた希望と釣り合わないような気がした。僕は立ち上がって頭を下げる、言葉は出てこなかった。そんな僕の手を彼が取る、顔をあげると彼がなにかを告げようとしていることがわかった。
「文弥君。僕は、何度も千春に光を見せてもらってきたんだ」
「光、ですか」
「明日どうなっているかすらわからないような千春は、何度も僕へ生きていることで光をくれた。それこそ不可能な話だけれど完治しない大脳圧迫腫瘍という病を患っている千春へ『この子なら完治するかもしれない』と、思ってしまうほどにね」
「先生がそんなことを思うくらい、なんですね」
「千春は僕の中の当たり前を壊し続けてくれた、それでも最後は死という当たり前に従ってしまう。僕はそれがあまりにも悔しくてね」
「死という当たり前……」
「でもそんな段階になった今でも千春は当たり前を壊そうとしてる。ただその時を穏やかに待つという当たり前を壊して、僕や文弥君と未練をなくしていく……千春は最後まで『今』を生きることに必死なんだよ」
「今を生きることが、千春にとって一番大切なことだと僕は思います」
「そうだね、医師としても人間としてもそう思うよ。だから文弥君、最後まで諦めずに千春のそばにいて欲しいんだ。僕と約束してくれるかな」
取られた手に力が入る、彼の力と温度が伝う。
僕が必ず、彼女の願いを叶える。そして未練を残させない。
そこからの二週間は病院と学校を行き来して彼女との高校生活最後の日へ向けた話を重ねた。主治医の彼を筆頭に病院側は快く話を受け入れてくれて、学校側は少し恐れながらも『千春のためなら』と最大限のことを尽くしてくれた。
その二週間で彼女は担任教師と、養護教諭、そしてひとりの看護師の記憶をなくした。そして忘れられた三人は口を揃えてこう言う。
『千春が私を忘れたとしても、千春は千春のままだから。私が千春の願いを叶えたいって思いは変わらない』
その言葉からも、彼女の人望が垣間見える。
彼女の記憶から誰かが消えても、その人の記憶に『千春』という人間が素敵に残っている。
言葉を借りるのなら、彼女が与え続けてきた『光』が今の彼女へ向けられている。僕はこんなにも愛され、素敵な人を好きになれたことが誇らしくなった。そしてそんな人のために、人生最高の一日を創ることを心に決めた。
*
「千春、学校のことは少し覚えてたりする? 教室の雰囲気とか、些細なことでもいいんだけど」
「クラスの子の顔とかはぼんやりとしか思い出せないけど、それこそ雰囲気とかはちゃんと覚えてるよ」
「それなら少し、本当の意味で懐かしくなれるね」
「そうだね、私もその感覚に触れられることが嬉しい」
ゆっくり進んでいたはずの通学路の終わりがみえてくる、彼女が校門を指差す。
まっすぐ前を向いて車椅子に乗っていた彼女が顔を上へ向けて、僕へ嬉しさを散りばめた表情をみせる。遊園地のゲートを潜るように、校門を通り抜け昇降口へ入る。
僕と彼女の上靴だけが、まだ靴箱に取り残されている。
「ここから最初はどこに行くの?」
「教室に行こうと思ってたよ、靴を履き替えたらそのままね」
運よく僕達の教室は一階にあり、車椅子での移動を考えても問題なく辿り着くことができる。
誰もいなくなった校舎には、数週間前の卒業の雰囲気が残っていた。昇降口のすぐそばにある掲示板には出身中学や進路先からの祝辞が貼られていて、柱や窓ガラスには在校生が施したであろう花を模った装飾品で色が添えられている。
「誰もいないはずなのに、みんないるみたい。文弥君がいてくれてるからっていうのもあるけど、雰囲気が全然寂しくないね」
「そうだね、ここでにぎやかな時間が流れてたことがちゃんとわかるように残ってる」
僕にとってのただの日常は、彼女にとっての紛れもない非日常。
卒業式後の最後のホームルームからなにも変わっていない教室へ入る。黒板には『祝卒業』と大きく凝られた字体で書かれていて、その下には担任教師からのメッセージが添えられている。教卓の花瓶にあった花は少し色褪せていて、下の方からは新たな蕾が開こうとしている。確かに流れている時間の中で、思い出だけが変わらずに浮遊している空間。それが今の教室だった。
「私の席、どこだっけ」
「この列の前から四番目の席だよ、座ってみる?」
頷く彼女を抱えて、体勢を崩さないように椅子へ移動させる。
机に優しく触れて、まっすぐ黒板をみつめている彼女はあるだけの記憶を辿っているのだと思う。なにを思い出したのかはわからないけれど、時々懐かしむように微笑む横顔に安心している僕がいる。
「文弥君の席はどこ?」
「僕の席はここ、一列挟んだ斜め後ろの席だね」
「座ってみてほしいな、どんな距離に感じるんだろうって気になっちゃった」
久しぶりにみる、僕の席からみた彼女。
彼女が登校してきた日は、座っている彼女の周りをクラスメイトの女子を中心に囲む構図がよく出来上がっていた。にぎやかな集団が去ったかと思えば、入れ替わるように落ち着いた雰囲気の数人が彼女に声を掛けるのだ。その全員と彼女は笑って言葉を交わす。制限された登校日数の中で出会った数えるほどしか言葉を交わしていない相手の名前を、彼女はしっかり覚えて呼んでいた。そういう優しさが形に表れている構図が僕は好きで、クラスメイトの間を覗くようにして彼女をみつめていた。
今、ふたりだけになった教室で僕は彼女だけをみつめている。
僕の視界に割り込む存在もなく、まっすぐに彼女が映っている。『近いのに遠いね』と彼女は無邪気に僕の机の方へ手を伸ばす。
「そうだよね、僕もそう思う。近いのに遠いよ」
同じ言葉なのに、僕と彼女ではきっとその言葉に込めた意味が違う。
僕は机の位置に対して言葉を向けたわけではない。長い歳月の中を隣で生きてきたはずなのに、数十センチ先にいる彼女の手にすら触れられない距離感が遠く感じて僕はその言葉を返した。
「ねぇ、手、なんで伸ばしてくれないの?」
「え」
「文弥君の手だよ。私の手はここまでしか伸ばせないから」
差し出された手に、僕の手を重ねる。
久しぶりに彼女の手の感覚と温度に触れる、不思議な気持ちの動き方をしていることがわかる。
なにも言えないまま彼女をみる『なんだ届いたじゃん』と、繋いだままの手を揺らしながら笑う。そんな彼女の表情と、手に触れているという事実に溢れ落ちそうになる感情の形を目の奥へ押し込む僕がいた。彼女の前では、笑っていたい。
席を立ち、手を繋いだまま彼女の席の隣へしゃがむ。もっと近くで彼女を感じたいと思ってしまったから。
「文弥君にとっての教室ってさ、どんな場所?」
「僕にとって……考えたこともなかったよ、日常そのものなのかもね」
「そっか、そもそも考えないくらい当たり前にあるものなんだよね。教室って」
僕の言葉に彼女の表情が曇る、寂しそうに影がかかる。
その表情の理由はわからないけれど、彼女が必死になにかを抑え込もうとしていることだけはわかった。言葉を、気持ちを、隠すようにしまい込んでいく彼女の横顔は苦しかった。
「千春?」
「ごめんね、わかりきってたはずのことに改めて感じてちょっと悲しくなっちゃってさ」
「わかりきってたはずのこと……?」
「私はみんなが当たり前に過ごしてきた日常を、当たり前って感じられなかったこと。この教室、私にとっては非日常的で特別な場所だけど文弥君にとってはどんな場所か考えることもないくらい当たり前な場所ってこと……私の中で再認識しちゃって、それがちょっと寂しく感じたんだ」
その表情の説明を彼女にさせてしまった僕自身の情けなさに嫌気がさす。
せめて優しさでその寂しさを包めるような言葉を渡してあげたかった、俯いた彼女に少しだけ前を向いてほしい。考えても僕の中から気の利いた言葉なんて出てこなかった。
ただひとつ僕の中の記憶が言葉になって溢れてくる予感がして、その感覚のまま僕は口を開く。
「僕の大好きな人が言ってたんだ『特別じゃないことを特別に感じられる方が日常は幸せなはずでしょ』って」
思い出した、この状況になっても僕はまだ彼女の言葉に支えられている。
僕の大好きな人が言っていた言葉、今鮮明に思い出した言葉。
まだ僕との記憶を失っていない頃の彼女が、何気なく、当たり前のように呟いたこと。彼女の表情をみて、その言葉を本人が覚えていないことがわかった。でもそれでよかった、もし覚えられてしまったいたら僕のもうひとつの本心も同時に伝わってしまうことになるから。
「確かに、その人が言うことも一理あるね。それに……」
「それに?」
「こんなにも素敵な文弥君が好きになった人からの言葉なら信じられるって思った。本当に、文弥君は好きになる人すら素敵な人を選んじゃうんだね!」
戸惑う心を隠しながら『そうだね、素敵な人だよ。ずっと』と返す。
彼女の口角が上がる『いいなぁ! 私もそんな素敵な人を好きになってみたいよ』と呑気なふりをして僕からの言葉を咀嚼している。全てじゃなくていい、ほんの一部でもいいから言葉の意味に彼女自身を重ねてもう一度、彼女の中にある日常の特別に触れてほしい。
「文弥君の好きな人が言ってた言葉、勝手に私に当てはめて考えちゃったよ」
「いいんだよ、僕だって勝手に言葉を借りてるわけだし。それで、当てはめた時に千春はなにを思った?」
「私の日常は特別だらけ! ってとんでもなく都合のいいことを考えちゃったよ」
「それはどんでもないね、でもいいと思うよ。きっと彼女もそう思ったからその言葉を発したんだと思うから」
満足そうに笑いながら、彼女はもう一度教室を見渡す。
あの日も同じだった。僕の切り取った日常をみて、それを特別だと受け取った。記憶がなくなったとしても、やっぱり彼女は彼女のまま変わらない。
「体調に変わりはない? そろそろ次の場所に移動しようかと思ってるんだけど」
「問題なし! 次はどこに連れてってもらえるのかなぁ」
再び車椅子へ移った彼女と共にまだ肌寒さの残る風が吹き込む渡り廊下を通る。
車椅子での移動には適していない段差の多い渡り廊下を選んだのは、完全に僕のエゴだ。彼女が登校してきた日、久しぶりの学校に張り切りすぎたことで移動教室の間に身体の異変を感じることが何度かあった。その時に一緒に立ち止まって、座りながら彼女が落ち着くまで話をした思い出が僕の中にある。彼女はそんなこと覚えているはずがないけれど、僕達の高校生活には欠かせない場所だと思う。それが次の目的地への行き道の選択肢が複数ある中で、僕がこの道を選んだ理由。
「次はどこに行くの?」
「この渡り廊下をまっすぐ言って曲がった先に体育館があるんだ、その中に今日のメインがあるよ」
待ちきれない様子で彼女の弾んだ声の相槌が返ってくる。
今日のための準備は全てこのためといっても過言ではないほど、僕はここからの時間に懸けている。
角を曲がる、彼女に目を瞑るよう言う。体育館の扉を開いて、改めてその空気感を感じる。息を吸って、彼女の肩に手を乗せる。
「千春。目、開けて」
「これ……これって、嘘でしょ」
体育館を囲むように垂らされた紅白幕、進む道を示すように敷かれたレッドカーペット、壇上に向かって規則正しく並べられる鮮やかな花、そして中央にふたつ並んだパイプ椅子。
「千春の卒業式を僕にさせてくれないかな」
卒業式に出席したかったという彼女の願いを叶える方法、それはこのひとつしかないと思った。
時間を巻き戻すように、取り戻すように、ふたりだけの卒業式を思い出として記憶に保管したい。しゃがんで少しだけ覗き込むような姿勢で彼女の表情を確かめる。なにかを堪えるように唇に力が入っていて、丸くて大きい瞳が少しだけ細くなっている。僕と目が合う、声に出ていないけれど唇の動きでわかった『ありがとう』と、まっすぐに僕からのサプライズを受け入れてくれた。
「鞄の中に制服持ってきてくれたでしょ? ステージの横の幕が降りてるところで着替えてきてほしいんだ、手伝ってくれる人もいるし時間は気にしなくていいから最後の制服、一緒に着ようよ」
頷く彼女をステージ袖へ連れて行き、見送る。
ちなみに『手伝ってくれる人』は僕達の三年目の高校生活を担任として見守ってくれていた教師。数日前彼女の記憶からは消えてしまったけれど、なにか最後の思い出作りに力を貸せることはないかと『担任教師』という肩書きを伏せて式を支えてくれることとなった。
幕越しに緊張まじりにも彼女の楽しげな声が聞こえてくる。教室内でのふたりの会話が蘇る、はっきりとした言葉は覚えていないけれど当時と似た雰囲気が流れている。
数分して、幕の内側から僕を呼ぶ声がした。
「どう? 制服、ちゃんと似合ってる?」
以前より痩せてしまったことで余白の目立つセーラー服の裾と、器用に動かすことが難しい中でも健気に頑張った跡のわかる不恰好に結ばれた胸元のリボン。着た回数の少なさから目立った汚れがない。それでも周囲と同じように高校生活を楽しめた瞬間が形として残っているスカートを折った線の跡。
彼女の抱えられるだけの青春と、僕の中の女子高校生である彼女の要素が全て詰め込まれたような制服姿に目を奪われる。
卒業式という言葉が誰よりも似合っている、そして誰よりも美しくて消えてしまいそうに儚い。
「綺麗だよ、この制服が千春のためにつくられたって言われても不思議じゃないくらい似合ってる」
「それは大袈裟だよ、でも嬉しい。ありがとう」
久しぶりの制服に少し強張った様子で僕に微笑む。
そんな彼女に視線を合わせて『ちょっとごめんね』と言葉を添え、胸ポケットのあたりに桃色の花のコサージュをつける。これでやっと、僕と彼女の卒業式への準備が整った。
といって時間は限られていて、当然ながら本来の式と全く同じことを再現することは叶わなかった。彼女の記憶上での混乱を防ぐために参加者も僕と彼女のふたりだけ、少し寂しいような気もするけれどこれが今の僕達にできる精一杯の願いの形だった。
中央に並んだパイプ椅子の片方に僕が座り、その隣に彼女の車椅子を停めた。準備の段階から不安定なパイプ椅子に彼女を座らせないことは決まっていたけれど、それでも椅子をふたつ並べたのは演出、かっこいい言葉で飾るのなら少しでも『彼女の描く卒業式』を創るため。並んで席についた僕達は、目すら合わせずに言葉を交わし始める。
「卒業式、本当は長くて難しい話がいっぱいあるんだよ。千春、知ってた?」
「それは知ってるよ、校長先生からの話でしょ? 式辞だっけ、あれ最後までちゃんと聴いたことある人いるのかな」
「どうだろうね、僕は少なくとも聞き流しちゃうな」
「私も。でもきっと、大切な人からの話ならちゃんと全部聴けちゃうんだろうね。聴けちゃうというより、聴いちゃうのかもね」
卒業式という特別な場所でも僕達は、そんな他愛の無い話をしている。
その話が僕達にとっては大切なのだろうと思う。同じ記憶をつくっていくこと、時間を重ねていくこと、それがどれだけ奇跡的なことかを痛感している僕達だからこそ手放せない。
きっと彼女がいなくなった先でも、僕が思い出すのはこんな他愛の無い瞬間の連続なのだと思う。
「でも私、卒業式っぽい話聴きたいな」
「卒業式っぽい話?」
「長くて小難しいような……でもちゃんと意味があるような話! そういう話が聴きたいの」
「それはつまり……」
「文弥校長! お願いします!」
急な無茶振りに困惑する、それでも期待に満ちた彼女の視線を拒むわけにはいかなかった。
僕の小さすぎる頭を回す。小さいのなら『意味のある話』のひとつやふたつ、探す間もなくみつかりそうだけれど僕の頭にはそもそも『意味のある話』なんて便利なものは内蔵されていなかった。
彼女を前に、僕が伝えたいこと。僕だから伝えられること、卒業式という特別に身を任せて吐き出してしまいたいこと。
「それじゃあ僕から『秘密』についての話をしようかな」
「秘密……?」
「これは僕の友人の話なんだけどね、その人には好きな人がいたんだよ」
僕の話を素直に受け取っている彼女には申し訳ないけれど、ここから先の話は紛れもない僕の実話だ。
大抵『友人の話』と切り込まれた話は本人の話とバレてしまうのだけれど、純粋すぎる彼女にはその嘘がバレそうにない。その性質に頼りながら僕自身の本当と、少しの嘘を交えながら高校生活最後の話をする。
「でもその好きな人は重い病気を患っていてね、残された余命が五年だったんだ。それでもその人のことが好きで、隣にいたいと心から思っていたんだって」
「まっすぐで素敵な人だね、そういう恋こそ報われてほしい」
「僕もそう思うよ。でもその子は好きな子に『好き』を伝えないことを選んでる、秘密にしてるんだよ」
「それはどうして?好きな人に時間が迫っているなら、待っている余裕なんて……隠している時間なんてないように思えるけど」
「好きだから隠してるんだって。その人のことが好きだから治療の負担にならないように、そして残されている時間の短さを知っているからこそ好きな人に『先に死んでしまう』っていう罪悪感を背負わせないために隠してるって言ってたよ」
「みえない優しさだね、すごく素敵だけど残酷だよ」
「そうだよね、僕もそう思う。もし自分のことだったら、って想像しただけでちょっと胸が痛いよ」
嘘と本当をいい具合に混ぜながら、彼女へ言葉を注いでいく。相変わらず、お互い目を合わせないままで。
見切り発車で始めた話だけれど、意外にも僕の中でこの話の終着点がみえてきてような気がした。
「その友人の好きな人の余命が迫ってきたんだって。今年の夏って言ってたよ、十九歳の夏がその人の余命」
「今が三月の終わり際だから……その通りに進んじゃったら、あと半年も残されてないよ。そのお友達は、その子に『好き』って伝えられたの……?」
「いい質問だね、今からその話をしようとしてたよ。結果から言うと、その子は好きな人が自分の前からいなくなってしまうまで『好き』を伝えないままでいることを心に決めたんだ」
「それは、やっぱりその好きな人の身体とか心が大切だから……?」
「僕もあえて詳しくは聴いてないけど、きっとそんな理由だと思うよ。ここまでの話を聴いた千春に、僕からひとつ質問をしようと思う」
この質問に返ってくる彼女の言葉で、僕の中の決心が揺らぐことはない。
友人の話と題をつけた僕の話の結末の通り、僕の彼女への好意は隠したままで終わる気持ち。今からの質問はただ、彼女へ好意を伝えられない僕が最大限伝えられる未来へ向けた言葉のために必要なこと。
「千春は『誰かを想ったまま秘密を隠し通す結末』か『全ての想いを伝えようと秘密を打ち明けられる結末』、どっちが幸せな結末だと思う?」
少し難しそうな顔をして、彼女は選択肢を繰り返し呟く。
秘密を明かすか、明かさないか、その二択のどちらが幸せか。彼女が感じるままに出した答えを僕は待っている。
彼女が僕の肩を叩く『答え、出たよ』と、またもや目を合わせずに言う。僕は頷いた後に『聴かせて』とだけ返す。彼女の手が肩から離れていく、答えを告げられる瞬間が迫っているのを感じる。
「私は、どっちも幸せな結末だと思う。でも同時に不幸だとも思う」
「理由を聴いてもいいかな」
「まず、報われない気持ちが残ったままなんて悲しいから不幸だと思った。でも隠し通すことも、打ち明けることも、それほど誰かのことを想ってひとつのことを抱えられるなんて素敵なことだと思うし限られた人しか抱けない感情だよ。だから過程も含めて、幸せな結末だって答えを出した」
彼女の言葉が、僕の中にある模範解答に重なった。
こんな準備もしていない即席の小話を『意味のある話』と言えたのはきっと、僕の中にその模範解答が無意識のうちに芽生えていたからだと思う。
僕にとって彼女を好きでいることは幸せなことで、それでいて伝えられずにいることは残酷で言葉を変えるのなら不幸なことだった。それでもその気持ちを抱き続けることを選んだのは、彼女を好きでいるという事実が伝えられない時間すらも愛おしく感じてしまうほど幸せなことだったから。
だから僕はこの話の最後に、彼女へ僕らしくない真面目なメッセージを送る。
「そうだね、僕もそう思うよ。だからこの話で伝えたいことは『秘密』の結末をどう選択するかじゃなくて、そんな秘密を抱えてしまうほどに素敵な相手に今後千春が生きていく中で出逢っていってほしい。そこで抱いた秘密を愛でるように大切にしていてほしいっていうことなんだ。未来を生きていく千春にとって、少しは意味のある話だったと思わない?」
「らしくないね、文弥君らしくない。でも、その言葉の優しさは文弥君の温度が通っている気がして私にまっすぐ響いたよ。素敵な話をありがとう」
目を合わせていなくてよかった、と心から思った。彼女の声の震え方、そして僕の目元の違和感、きっと今はお互いに顔を合わせることができない。
気づかれないように視線だけ彼女の方を向く。横顔に髪が掛かってよくみえなかったけれど、小刻みに上下している彼女の細い肩の動きからみえないはずの表情がみえた。普段彼女がみせる表情とは正反対の表情。残された期限が迫っている彼女へ、僕はあえて未来を生きることを前提とした話をした。きっと彼女自身の中で現状と未来の間に意識する部分があったのだろう。
僕はそれに気づかないふりをして目を瞑る。この卒業式が彼女にとって、意味のあるものになれたらいいと願いを込めながら。
*
数分して、僕は卒業式最後の心の準備を整える。
落ち着いた様子の彼女をみて僕自身の緊張を鎮める。幼馴染だからこそ意識したことがなかった、今から僕は生まれて初めて彼女の名前をフルネームで呼ぶ。
『卯月 千春』
マイクすら通していない、彼女の隣で僕の声がふたりきりの体育館へ響く。
僕の行動を察したのか、彼女は僕と同じくらいの声量で『はい』と応える。あの日、僕が聴くことのできなかった声。彼女は無意識のうちに僕の未練まで塗り替えてしまった。
僕が席を立ち、彼女を壇横の階段まで連れていく。そこから彼女の腕を僕の肩へ回し、預けられるだけの体重を僕へ委ねて一緒に三段の階段を登り壇上に用意された椅子へ腰掛ける。
そして手を離し、僕は向かい合うように彼女の前へ立つ。彼女の卒業を証明する瞬間が訪れる。
「卒業証書、卯月 千春 殿」
この台詞を僕が言うことになる未来は僕自身も、そして受け取る彼女自身もきっと想像していなかった。
僕らにとってイレギュラーと未知で続いてきた三年間を象徴したような最後の瞬間だと思う。そう考えるだけで、よりこの瞬間が感動的なことに思えてきた。
そして彼女の卒業という僕達にとって奇跡のような事実を前に、僕は証書に書かれているテンプレートな言葉を全て取り払いたくなった。形式的な言葉では語りきれないほどの功績を彼女は『生きる』という形で残し続けてきたのだから。
***
卒業証書 卯月 千春 殿
貴女は三年間の高校生活の中で、そしてこの瞬間十八年間の人生の中で出逢った人の光となり続けました。
その笑った顔や弾んだ声には貴女の優しさや暖かさが込められていて、それに励まされた人、救われた人は数えきれないほどいるでしょう。
明日の行方すら不確かな貴女は、常に『今』を見続け決して生きることを諦めませんでした。
その姿勢でもまた、貴女は誰かの光になっています。
日常を特別と感じながら、きっと最大限貴女にとっての高校生活を過ごしてきたことは今の貴女の表情が証明していることと思います。
綺麗ですよ、誰よりも。
十八歳が終わる春を目指していた中で、千度の春すらも超えてしまうのではないかと可能性を感じさせてしまうほど、貴女は逞しく、そして美しく生き続けましたことをここに証します。
生きていてくれてありがとう、そして。
卒業おめでとう、千春。
***
彼女の細い腕が僕の方へ伸びる。証書を両手で受け取った後、彼女の華奢な身体が僕の身体と重なる。
彼女の体温が伝わる、溢れてしまいそうな鼓動が聴こえる、彼女が生きていることを今までで一番強く深く感じている。僕を抱きしめて離さない彼女を僕がそれより強い力で包む。誰もいない、ふたりきりの卒業式の特別。
彼女の名前を呼ぶと『まだこのままでいて』と返ってくる、そして『文弥君と一緒に卒業できてよかった』と振り絞ったような声で呟かれた言葉が僕の中へ響いた。僕も同じことを思っていたよと、不器用に告げる。
お互いの身体が離れて、おそらく今までで一番近くでみた彼女の潤んだ瞳の綺麗さに息を呑む。その瞳は彼女が与える続けてきた光の全てを詰め込んだような輝き方をしていた。
「私の夢、叶えてくれてありがとう」
泣きながら、笑う。儚くも逞しい。彼女はそんな矛盾だらけの表情をしてみせる。
僕がこの十八年間でもらったものを並べたら、この卒業式ひとつでは返しきれないほどの数になると思う。それでも残された時間の中で彼女の中の夢を叶えられたことが嬉しかった。ただ少しだけ、未練がなくなったことで彼女が遠くへいってしまうことが現実味を帯びたようにみえて素直に喜びきれない僕がいた。彼女の中の未練がなくなっていく度に、きっと僕の中の名残惜しさが積もっていく。
「文弥君」
「どうしたの?」
「私、高校は卒業するけどまだ人生を卒業する気はないからね」
そうだ、そうだった、彼女は底なしに生きることを望んでいるのだった。
忘れていたわけではないけれど、きっと僕は心のどこかで彼女が生き続けるという可能性に諦めたふりをしてしまっていたのかもしれない。明日、彼女がいなくなった時の悲しさを少しでも軽くするために最初から彼女の死を受け入れたふりをしようとしていた。
今、彼女の体温と泣いて乱れた息遣いを感じて思う。僕が最期まで、一番近くで、彼女が生きていることを望んで、それを彼女と同じくらい喜んでいたい。それが僕にできる最大限の光返しなのかもしれない。きっと恩返しという言葉を使うと『私はそんなにすごいことなんてしてないよ』と返されてしまうから、あえて『恩』という言葉は使わない。
「文弥君、私ね、伝えないといけないことがあるんだ」
落ち着いた様子で、彼女が僕の全感覚を独占する一言を発した。
寂しそうに、それでいてどこか希望に満ちたような雰囲気の彼女がなにを僕に伝えるのか声を聴けるまでの間がもどかしい。
大丈夫だよ、と言うように僕の手に触れて包み込むように握る。
「一週間後の今日、私は人生最後の手術を受けることを決めたよ」
「人生最後の手術__」
その最後が示しているのが希望か絶望か、言葉を濁さずに言うのなら生か死か。
彼女の表情から探ろうとしてみるけれど、僕には難しすぎた。笑っていられるような状況にない今でも彼女は笑顔のままだから、それなのに瞳からは絶えずに滴が溢れているから。言いかけた言葉を押し込んで、彼女からの説明を待つ。
「記憶が失われてるっていうことは、腫瘍が大きくなってる……つまり、病状が悪化してるってことなんだよね。そして、私の病気は完治しない、腫瘍が小さくなることも無くなることもない」
「それは……僕もよく理解してるよ」
「それでも私は、この世界でまだ生きていたい。まだまだ卯月 千春として笑っていられる時間がほしい……十八年間も生きてこられたのに欲張りだよね」
「そんなことない、もっと欲張ってよ。千春がいなくなるなんて考えたくもないからさ」
「私も考えたくないよ。眠る前にいつも思うの、ちゃんと明日が来てくれるかなって……最近はそんなことを考えて夜は不安でいっぱいになる」
彼女からの告白に息が詰まる。
言葉に詰まる彼女の背をさすることしかできない僕を無力だと思った。どれだけ日中に彼女と時間を過ごしても、夜の彼女を救うことはできない。そんな当たり前のことにどうしようもない悔しさを抱く。
「前にも少し話したけど、日に日に身体が動かなくなって誰かのことを忘れていくの。こんなこと言いたくないけど、私はいつ死んじゃっても全然不思議じゃないんだ」
「……」
「でもね、私はそんなに諦めがいいタイプじゃないみたいで、こんな状態になっても『生きたい』って思ってる」
「そんなの、僕が一番よくわかってるよ……」
「そうだよね? だって私の唯一の幼馴染だもん。だから私は一週間後に手術することを決めた。腫瘍を無くす手術でも直接病気を治せる魔法みたいな手術でもない、これから少しだけでもこの世界で生きられる時間を延ばす希望を懸けた手術」
なにかが吹っ切れたように彼女は前を向いた。
希望を懸けた手術、彼女らしい言葉だと思う。ここまで奇跡を紡いできた彼女だからこそ口にできるような言葉。
僕よりも遥かに恐怖と不安を背負っているはずの彼女の前で涙を止められずにいる、せめてもと思い彼女の頬を伝っている涙を指で拭う。お揃いだねと笑いながら、彼女が僕の頬を指で拭う。この時間が永遠に続いてほしい。
「その手術は、成功するの?」
「わからない。でも私だから、成功させてみせるよ。もしうまくいかなかったらこれが最後の会話になっちゃうからね、最後の会話が泣き顔なんて嫌でしょ?」
「縁起でもないことを言わないでよ」
「でも本当のことだから、それに私なら大丈夫。信じて待ってて?」
彼女の身体は頼りない、それでもその言葉と表情は僕の心をどこまでも安心させてくれる。
千春なら大丈夫だと、根拠のない信じ方をしてしまいそうになるけれどきっと今はその信じ方がなによりの正解なのかもしれないと思った。言葉はない、時々を目を合わせて頷くだけで通じ合える想いがある。
「私にひとつ、願い事を言ってみてよ」
「願い事?」
「そう、願い事。なんでもいいよ?」
「千春の手術が成功して、一日でも長く一緒に生きていたい。それ以外はなにも望まないよ」
「よくぞ言ってくれた! 文弥君が私の願いを今日叶えてくれたでしょ? だから今度は私が文弥君の願いを叶えるよ」
彼女が僕の願いを叶えてくれたら、僕はその先に待っている時間の全てを彼女に捧げたい。
生きたいという大きな願いの前に霞んでしまっている小さな願いすらも、全て隣で叶えるのは僕がいい。
彼女が言うに、次に会えるのは四月二十日。手術が成功すればという条件はこの際、揺らぐことのない前提として置いておく。
その日は彼女の十九度目の誕生日であり、僕達の約束が果たされる日。
希望に満ち溢れた表情の彼女の容姿が、再入院が決まった数ヶ月前より確かに弱々しくなっていることに改めて気付かされる。僕は信じていたい、彼女がこの先も生き続けられる未来をなくさずにいたい。
「必ず会おうね、千春」
そんなことしか言えない僕を、彼女はあるだけの力で抱きしめてくれた。
四月二十日。なにも持たずに、病院への道を辿る。
彼女の声が朝に聴ければよかった。彼女から一言『会いにきて』と、そう通話越しに呼び出される朝を僕は待っていた。
実際に眠れないまま迎えた朝に僕の元へ届いた着信は病院からの番号で、それでも少しだけ期待をして応じた通話の相手は彼女の主治医の声だった。『準備ができたら病院に来てほしい』と、それだけ言い渡され妙に落ち着いた声の通話は途切れた。
「千春は__」
彼女は十九歳になれたのだろうか、散りゆく桜を見送りながら漠然とそんな問いが頭に浮かぶ。
病院へ近づくたびに動悸が酷くなっていく。心臓が喉の辺りまで上がってきているような感覚に陥る。足は重くて、視線は自然と足元ばかりに向いてしまう。
今から僕が受け入れるべき現実は、大抵想像がついてしまっている。
何度も『生きる』を繰り返してきた彼女も、最後は死という当たり前を避けられないのだから。
それなのに僕は、そんな当たり前を受け入れられそうにない。頭ではわかっているのに、時々無意識に止まってしまう足が僕の心を表していた。僕は初めて彼女の『今』を知りたくないと思ってしまった。
「今日が千春の誕生日、そして明日は__」
明日は、僕の誕生日。
彼女が病気じゃなかったら、僕達はこの歳になっても懲りずにどちらかの家で誕生日パーティーを開いていたのかもしれない。その場合、関係性は幼馴染のままか、それとも見事に僕の気持ちが叶って恋人同士になっているのか。そのどの選択肢にも僕の中の揺らがない前提である『ふたり』の姿があった。
でも今は違う、僕の嫌な勘の良さが的中してしまっていたら僕は生まれて初めて独りの誕生日を過ごすことになる。
僕だけが、十九歳になる未来なんて望んでいない。
明日を望み続けた彼女には申し訳ないけれど、僕は今、明日が来ることを望めていない。
そんなことを考えながら、到着してしまった病院の自動ドアを通過する。
受付で名前を告げようとした瞬間、背後から誰かに肩を叩かれた。その手の大きさから彼女ではないことだけはわかる。それなら誰だと疑うように振り返ると、朝の声の張本人が立っていた。
「……先生」
「文弥君、朝から驚かせてしまってごめんね」
「いえ、それで千春は」
「そのことなんだけどね、まずは千春の病室に行ってほしいんだ」
「わかりました、ありがとうございます」
彼の声は通話で聴いたままの落ち着いたトーンをしていて、こころなしか表情や態度まで異様に穏やかに思えた。
僕の問いに対して『病室に行ってほしい』と答えが返ってきたことが僕の中にある不安をより騒がしくさせた。
朝の病院は静かで、僕は吐き出して叫んでしまいそうになる思いを抑え込むように彼女の病室の扉に手を掛けた。
数秒後に、全てがわかることへの覚悟を僕自身に突きつけて。
「千春、おはよう」
無意識に瞑っていた目を開いて僕がみた景色は、見慣れた病室だった。
彼女の生活用品が並べられていて、クローゼットには服が掛けられている。
なにも変わらない、そこに彼女の姿がないこと以外は、僕にとってなにも変わらない空間だった。
言葉にされずとも察した。
彼女の時間は、きっと十八歳のまま止まってしまった。
「これ、僕が持ってきた便箋……」
最後に少しでも彼女の痕跡に触れようと近寄ったベッドに付属されている机の上に、見覚えのある便箋が二枚。
三年間を振り返るためのアルバムを一緒に作った日の最後、彼女から『担任教師と主治医へ手紙を書きたいから』と頼まれ、それに応じるように手渡した封筒と同じものが並んでいる。
記憶をなくしたことで渡しそびれてしまったのだろうか、でも彼女は主治医の記憶を失ってはいない。少しだけ罪の意識に駆られながら、僕は宛名だけを確認しようと封筒を裏返す。
__ 文弥君へ
僕の名前、そしてもう一枚は。
__ 文弥へ
もう一枚もまた、僕へ宛てられた手紙だった。
その『君』一文字の違いに込められた意味を、僕はなんとなくわかった気がした。
きっと数日前まで彼女が眠っていたベッドに腰掛けようとしたけれど、やっぱりどこか気が引けていつも通りすぐそばの椅子へ腰を下ろす。そして最初に『文弥へ』と書かれた手紙の封を開ける。
**
文弥へ
ありきたりな書き出しになっちゃうけど、これを文弥が読んでるってことは私が文弥のことを忘れちゃったか、死んじゃったか、あるいはそのどちらもかってことになるね。
こんな手紙を読ませちゃうなんて申し訳ないけど、私からの最後の言葉を受け取れるってことだから、そう悲しまないで?
忘れちゃう前に伝えられていたらよかったんだけど、今から書くことを直接口に出すと私は泣いちゃいそうだから。だからこうやって手紙に書くことにしたの。
読む立場の文弥からしたらきっと苦しいだろうけど、それでもここまで読んだなら最後まで読んで! 私が忘れちゃう最後の最後まで秘密にしてたこと、文弥には知ってほしいから。
私ね、この世界の唯一の幼馴染が文弥でよかったなって思ってる。
年齢が上がっていくにつれてお互い好きな人ができたりして関係性が変わっちゃうのかなとか、私の病状が進んでいくと離れられちゃうのかなとか怖かったこともあったけど、今になってわかったよ、文弥にはそんな心配する必要なかったね。
ほぼ毎日病室に来てくれて、笑わせてくれて、普通の女子高生と同じように接してくれて、それでも私の身体のことちゃんとわかっててくれてさ。
こういう人のことを『優しい』っていうんだろうなって、思ったよ。
私の病気が進行して、いずれ過去の記憶がなくなっていくって知った時のことをここに書いて残そうかな。
いつか記憶がなくなることを知ったのは再入院が決まった日だった。その時は怖いっていう気持ちより『私なら忘れない』って希望を強く抱いたの。
文弥と過ごした幼稚園、小学校、中学校、高校、全部にちゃんと思い出があって、忘れたくないことがあって、きっと他人から見たらどうでもいいことだって私の記憶にはちゃんと刻まれてる。
そんな大事なこと、私は忘れるわけないって初めて主治医言葉を跳ね除けちゃったんだ。
でもね、私気づいたの。
私が知らない間に、私の脳にある腫瘍が大きくなって、なんの予告もなく私は『忘れるわけない』って思ってたことすら忘れちゃうんだって気づいた。
忘れたくないって思ったことも、死ぬことが怖いって思ったことも、私はいつか忘れちゃう。
文弥とのことも、名前すらも忘れちゃうかもしれない。
そう思った瞬間ね、いっそ全ての記憶を持ったこのまま死んでしまいたいって思ったよ。
文弥と一緒に生きたいって、まだまだ笑っていたいって思ってたはずなのに、それすら諦めたくなっちゃった。
だからあの日、便箋を買ってきてって頼んだの。
あれは担任の先生に、主治医に手紙を書くためなんかじゃない。私の遺書を書くための便箋だった。
それくらい、私にとって忘れることは怖いことだった。
身体が痛むことより、動かなくなっていくことより、大切な人が私の中から消えていくことが遙かに怖いって思った。
そんな怖さを、文弥には背負わせたくなかった。だからずっと隠してたんだ
**
記憶を失う前の彼女は僕の前で笑顔を絶やしたことがなかった。
最近は弱音を零す姿も、涙を伝わせる姿もみるようになったけれど、それは全て『文弥の前での千春』を忘れてからのこと。彼女は十八年間、僕の前で笑い続けた。
その内側に病気と、そして忘れてしまうという恐怖を隠しながら『今』を生きようとしてきた。
彼女からの手紙はまだ半分ほど残っている。
この先に書かれていることが気になって、また一枚捲る。
**
私、結構文弥のこと知ってるんだよ? だってずっと隣にいたんだもん。
文弥ってね、私のことになるとすごく優しく、そして弱くなるの。不思議だよね。
私の面会時間に合わせて学校がないふりをしてくれたことも、あえて行事の話をせずに『僕は行事とかそういうことに興味ないから』って冷たく流してくれたことも、お見舞いに来てくれた時に私が寝ちゃってたら病室の片付けだけして帰ってくれてたことも、全部全部知ってる。
きっと言ったら文弥は恥ずかしがって私からの言葉をまっすぐ受け取ってくれないと思ったから言えてなかったけど、ここでは伝えさせて。
私に、たくさん優しさをくれてありがとう。
それと文弥、私の前でずっと前向きでいてくれたでしょ?
それもすごく心強かったんだよ。
心配することはあっても、私の身体に対して不安がるような素振りはみせないでいてくれたよね。
怖かったと思うんだ。ずっと一緒にいた幼馴染が明日生きていられるかわからないなんて。特に心配性の文弥ならね。
それなのにその怖さすら隠して、私と一緒に前を向いていてくれてありがとう。
そんな文弥が隣にいてくれてよかった。
文弥、私ずっと言ってなかったことがまだひとつだけあるの。
すごく長い手紙だけど、これが最後だからちゃんと受け取って。
それは、文弥のことが好きだよってこと。
文弥より遥かに早く死んじゃうってわかってたから言えずにいたんだ。自分に好意を向けた相手が死んじゃうなんて、仮に文弥が私のことを好きじゃなくても意識して必要以上に悲しくなっちゃうでしょ?
それでもここでは伝えるね、忘れる前の私は文弥のことが好きでした。
私が普通の女子高生だったら、きっと私から告白してたと思うんだよね。
そして朝から一緒に登校したり、放課後の教室で二人きりになったり、手繋いで帰ったり、遠くまで遊びにいったり、いろんなことをしてたと思う。
でもいずれ大切なことすら忘れちゃう私は、文弥を悲しませるってわかってたから。だからずっと隠してたの、ごめんね。
私の人生で一番長く時間を過ごした人、それは文弥だと思う。
十八年間、四つの季節を同じように繰り返してきたけどさ、文弥が隣に居てくれる季節はどの瞬間も生きてることが嬉しくなった。
特に春はそれを感じるよ。
私達が生まれた季節。四月二十日が私で、二十一日が文弥の誕生日。
一緒に死ねない私達が、ほぼ一緒に生まれてきたって意地悪な偶然だよね。
でも私は、そんな意地悪を忘れさせちゃうくらいその偶然が好きだった。
『十八歳が終わる春』の約束、私はちゃんと守れたかな。
絶対に忘れない自信があったから、どこかに書き残すことをしなかったんだ。
でもそれ以上に書き置きなんかに頼らなくてもずっと覚えていたいって想いが強かったんだよね。
私にとっての約束は生きる希望そのものだった、文弥にとってもそれほど大事なものであったらいいな。
でももし私がその約束すら忘れちゃったら、その時は本当にごめんね。
だからその時には手段を選ばないで私にその約束を守らせてほしいの。
絶対に忘れたままになんてさせないで! 私は最期を迎える時、その約束を守れたことを思い出しながら眠りたい。
ここから先は記憶をなくす前の私からのお願い。
私は、文弥のことが好きだよ。
文弥が同じ気持ちを私に対して抱いてくれていたら、もう一つの手紙を読んでほしい。
そうじゃなかったら、私のことはここで忘れてほしいです。
これは私のわがまま。
私はなかったものとして、文弥の人生を、恋をしてほしい。
相手は記憶をなくした私だから、文弥から忘れられたとしても悲しいなんて思えない。ちょっとくらい『忘れないで』って言えるような私でいたかったな。
だからこの選択は、文弥にまかせるね。
私はどちらの選択も受け入れる、受け入れるしか選択肢がないから。
もう一つの手紙を読んでくれるのなら覚悟して読んでね。記憶をなくした私が何を書くか、正直私にも見当がつかないけど、もしかしたら文弥を傷つけてしまうことが書いてあるかもしれない。
それでも読んでくれるなら、全てを受け入れる覚悟で読んでほしいと思う。
そして、忘れることを選んでくれるのなら心から幸せになってね。
私の人生で唯一、心から好きになった文弥にはどうか幸せになってほしい。
忘れられることは悲しいよ、寂しいし、今の私は忘れないでって思っちゃう。
でもね、私を忘れた先で文弥が幸せになってくれたら、私は心から『忘れてくれてありがとう』って思えると思うんだ。
最後に、私と出逢ってくれて、幼馴染として出逢ってくれて、好きの感情を覚えさせてくれて、心の底からありがとう。
一緒に生きれた時間が、私のなによりの幸せでした。
**
彼女は痛々しいほど優しくて、どこまでも素敵な人だった。
手紙の最後の一言の文字は震えていて、なにかで滲んだ跡がある。逞しくて、器用に強いふりをする彼女の言葉のない弱さだと思った。
彼女から『誰』と問われた瞬間を思い出す。
誰かの記憶から消える経験なんてしたことがなかった僕は名前すらつかないような感情の渦に呑まれたけれど、おそらく一番近い感情の名前は『恐怖』だと今になって思う。
好きな人の記憶から消されてしまった恐怖、息が詰まって視界が回って、その事実だけで死んでしまいそうになるような感覚。
少し思い出すだけで、全てを追体験できてしまいそうなほど僕の中に深く刻まれている。
「でもやっぱり、千春は千春なんだね。全てが予想外だよ」
予告もなく記憶をなくした彼女の当時の言葉を聴けることはないと思っていた。
彼女はそれにすら抗うように、僕に全てを伝えようと手紙に書き残していたのだ。
もうこの世界にはいないと思っていた『僕の記憶をなくす前の千春』を、言葉にして生かし続けている。
彼女の優しさで、僕は再会を果たせた。
「それなら、お願いされた通りにさせてもらうね」
考える間も無く、僕の中で二択の答えは出ていた。
僕はなにがあっても、彼女のことが好きらしい。
もう一枚の封筒を手に取り、封を開ける。
好きな人から忘れられることの怖さを、悲しさを知っている僕だ。そんな僕が彼女に『忘れてくれてありがとう』なんて残酷なことを、思わせるわけがない。
**
文弥君へ
なにから書こうか迷うね、私は十八年間一緒にいるはずなのに語れることなんて本当に少しの時間のことしかないから。
それでもその少しの時間の中で、私は溢れちゃうくらいの思い出を文弥君からもらったよ。
でも最初に、伝えないといけないことがあるね。
あの日『誰』って怯えた態度を取っちゃってごめん。
そして、それでも離れずに隣にい続けることを選んでくれてありがとう。
最初に文弥君を知った時、正直ちょっと怖かった。
急に知らない人が来て、私の名前を呼んでることが怖かったんじゃなくて『この人のことを、忘れちゃったのかもしれない』って予感が怖くて、私はそれを認めたくなかったの。
忘れたんじゃない、最初から知らない人って思い込みたかったんだと思う。
すごく自分勝手だよね。
でもそんな自分勝手な私に何度も懲りずに名前を呼ぶなんて、よっぽど特別な存在なのかもしれないって思ったの。
だからあの時、病室を出て行こうとした文弥君を呼び止めたんだ。
一瞬でわかったの、この人はきっと忘れちゃいけない人だった。って。
それがね、少しして確信に変わるんだ。
その日、文弥君との話が終わって病室にひとりになった時、引き出しを開けたら手紙が入ってたの。
文弥君の記憶をなくす前の私が書いた手紙ってメモが添えられてた。
忘れる前の私が書いた手紙を私は読み返してないからなにを書いたのか、なにを思っていたのかはわからないんだ。
でも、この便箋に忘れる前の私が付箋でメモを残しててくれたの。
『忘れちゃう前の私は『桜庭 文弥』が大好きなんだよ。だからもし病室に幼馴染を名乗る男子がきたら、その人は私の好きな人だから! だから忘れた後の私がその人を好きになるかはわからないけど、絶対に傷つけるようなことはしないで』ってね。
私はすでに一回『忘れる』っていう事実で文弥君を傷つけちゃってる。
だから、私は私の命が尽きるまでこの人と一緒にいようって決めたの。もう二度と忘れたくないって思った。
最初は忘れる前の私から課された義務のような感覚で一緒にいたんだ。
でもね、その感覚はすぐに崩れたよ。
『一緒にいないといけない』は『一緒にいたい』に変わっていった。
思い出すことのできない私に、文弥君は希望を持って過去を教えてくれたよね。
その優しさと掛けてくれる想いに泣きそうになっちゃったよ。
身体のことを気に掛けてくれながらも、普通の女子高校生と接するように関わってくれて嬉しかった。
きっと複雑な思いもあっただろうに素直に笑ってくれる暖かさが心地よかった。
そして叶うはずもなかった私のわがまま『一緒に卒業式に出席すること』、叶えてくれてありがとう。
文弥君のおかげで、私はこの世界への未練のひとつがなくなったよ。
でもね、私は文弥君のせいで今までにないくらいおおきな未練を抱えるようになっちゃったの。
卒業式の日、恋人同士でもないのに私は文弥君に抱きついた。
その順序を間違えたことは、記憶がなくなっちゃったことに免じて許してね。
だから改めて、ここでちゃんと伝えさせて。
私はもう一度、文弥君を好きになったよ。
好きな人ができたこと、恋に落ちてしまったこと。
この人と一緒に生きていたいって、この人より先に死にたくないって思ちゃった。
これが、私が文弥君のせいで抱えるようになった未練。
手術を受けることを決めたのは、文弥君がいたから。
成功するか失敗するかも怖かった。それに、どちらにせよ私は死んじゃう。本当は手術なんて、受ける気はなかったの。
それでも、私の中にある怖さは『好き』と『一緒に生きたい』って想いには勝てなかった。
私をこの世界に生きさせているのは、医療でも薬でもない、たったひとりの好きな人だった。
この手紙を読んでる文弥君は『千春はもうこの世にいない』って思っていることでしょう。
だからここでひとつ! 文弥君にとっていいことを教えてあげる。
私がこの手紙を書いてる今は、手術が終わった二日後だよ。
そう、つまり、卯月 千春は生きてる。
この世界で生きる時間を延ばすための手術は、成功したよ。
弄ぶようなことをしてごめんね、でも伝え方がわからなかったんだ。
これは生きてることに免じて許してね。
そして、これが本当に最後のお願い。
卯月 千春。文弥君の世界で唯一の幼馴染からの最後のお願い。
会いにきて。
私は、文弥君のことが好き。
付き合ってなんてことは言わない、私は先が長くないからね。
だから文弥君が私のことをどう思ってるか、教えてほしいの。
今年の誕生日プレゼントは文弥君からの答えがほしい。
私にどんな気持ちを抱いてもいいけど、ひとつだけ忘れないでほしいこと。これは注意事項。
私は、もうすぐ死んじゃうからね。
そこだけ、文弥君が傷つかないために忘れないでいてほしい。
病院の中庭の桜。
私達が十九度目の春が始まる場所で待ってるね。
**
情けない嗚咽が響く病室で、僕は崩れ落ちた。
本当に、全てが予想外な幼馴染だ。
僕は十八年も隣にいながら、そんなわかりきっている彼女の性質に驚いては救われた。
__ 彼女は、僕と一緒に十九歳になれるらしい。
文弥と僕を呼ぶ彼女も、文弥君と呼ぶ彼女も、素敵なところはなにひとつ変わっていない。
僕はそのどちらもを好きになって、そして彼女もまた僕を二度、好きになった。
僕の答えは決まっている。
ふたつの手紙を持って病室を出る、階段を駆け降りて彼女の待つ桜の元へ向かう。
*
「千春」
「来てくれるの待ってたよ、文弥君」
整った横顔、綺麗に風に靡く髪、白く細い指、柔らかく上がる口角。
車椅子に座っている彼女が振り向くと見慣れた姿が確認できた。それでも、病衣の隙間からみえる腕に残っている無数の点滴の痕や、力のない背筋から弱っている様子は痛いほどに伝わってくる。
「手術、本当にお疲れ様」
「数時間眠ってるだけだけどね、でもありがと」
「今は身体はどうなの……?」
「なにも変わってないよ。ただ少しだけ腫瘍が大きくなる早さを抑えられるようにしただけ、もちろん完治したわけでもない、その見込みもない。それでも、手術をしないより生きられる時間が長くなったってだけ」
「そっか……」
「大丈夫! 私はまだまだ生きるから! 明日どうなっているかすらわからないのは、もうずっと前からのことだし。だから私はまだまだ生きるよ? たとえ文弥君から『もういいよ』って言われたとしてもね」
冗談まじりにも笑い飛ばす彼女へ『そんなこと冗談でも言わないよ』とできる限りの笑顔を貼り付けて返す。
彼女の言う通り、明日すらわからないのは彼女の病気がわかってから続いてきた日常に過ぎない。最近はそれがより突きつけられているというだけなのに。
「私がいなくて寂しかった? 高校も卒業しちゃって暇な時間が多かったんじゃない?」
「揶揄わないで、僕も僕でちょっとくらい忙しくしてたんだから」
「そっかそっか、それならよかった。私は文弥君と会えなくて寂しかったけどね」
本当は忙しいなんてことはない。彼女のことが頭から離れなくてしかたがなかった。
それに唐突に『会えなくて寂しかった』なんて素直なことを言われて、返す言葉に戸惑う。
あの手紙を読んだ後では、言葉の重みも意味も違ってくる。
「千春は、生きている時間でなにがしたい?」
「生きている時間でか、曖昧だけど……綺麗な景色を観て、楽しいことし尽くして、美味しいものたくさん食べて、とにかくずっと笑っていたいなぁ。痛い思いも苦しい思いもしたくない」
「具体的なことがなにひとつないけど、でもなんとなくわかるよ。千春が言ってること」
「具体的なことあるよ? 教えてあげよっか?」
「含みのある言い方だね、教えてよ」
「文弥君からの答えが聴きたい」
切り出し方に迷っていた議題を、彼女はさも当然かのように言ってみせた。
彼女が生きている時間でしたいこと、そのひとつが僕にかかっている。
今にも消えてしまいそうな彼女を前に、僕が躊躇っている余裕なんてない。
「好きだよ、この世界の誰よりも隣にいたいと思ってる」
彼女は一瞬俯いて、そしてすぐに顔をあげ潤んだ瞳で僕をみた。
言葉を口することはなく、こっちにきてと言うように手招きをしてただでさえ近くにいる僕を呼ぶ。
そして僕の手を握って、彼女の頬に当てる。
彼女が生きていることを肌で感じながら、これがいつまで続いてくれるだろうと彼女との未来を考えてしまう。
「文弥君はどこまでも私の未練を消していっちゃうね」
「どういう意味?」
「私ね、手紙を書きながら思ったの『もし両想いだったら、きっと未練がひとつなくなる』って。好きな人と同じ気持ちになりたいっていう密かな願いが叶うことになるからね」
「……」
「でも、それなら私は、その好きな人といつまでも一緒に生きていたいから。だから、私の隣にいて」
彼女の手を離さずに、僕は視線を合わせるためその場にしゃがんだ。
泣き顔を隠したがる素振りをみせる彼女を無視して、僕はまっすぐその姿をみつめる。彼女のこの表情は、今しかみれないのだから。
僕がずっと隠し秘めていた好意を明かした瞬間の表情を、僕はずっと忘れずにいたい。
「千春」
「……なに?」
「僕の恋人に、なってくれないかな」
「どうしてそんなこと言うの? だって私は__」
「わかってるよ、わかってるから……それでも僕は、千春の恋人になりたい。明日終わったっていい、それでもいいから僕達が好きを抱きあったことに名前をつけたいんだ」
彼女は、もうすぐ死ぬ。
それでも今を生きていることに変わりはない。
僕は彼女が好きで、彼女は僕が好き。
僕が彼女の未練を消してしまうような人なのだとしたら、僕は最後までその役をまっとうしたい。
彼女が望んでいる全てを叶えて、最後まで一緒にいると誓いたい。
「私は、文弥君の恋人になりたい」
彼女のからの言葉が、心からの願い事のように思えた。
力のないその声で、必死に叫んでいるような気さえした。
僕達は今、恋人同士になった。
十八歳の終わりを告げるように咲きながら舞い散る桜を、僕は世界で一番好きな恋人の隣で観ている。
「約束、果たせたね。私、恋人の隣で果たすことになるなんて思ってもなかったよ」
「それは僕も同じだよ、こんなに愛おしい人と一緒に約束の瞬間を迎えられるとは思ってなかった」
桜が舞っている、彼女は無邪気に降りてくる花びらを掴もうと腕を伸ばす。
その姿は僕が彼女への恋を自覚したあの日の影と重なった。
桜を見上げている彼女と僕の間を舞い落ちていく桜の中で、ただひとつだけ他とは違う美しさを放っている桜をみつけた。それが彼女のようだった、他の誰とも違う美しさを持つ様子が僕の中の彼女と重なった。
その桜が落下するであろう方向へ僕は掌を向けた、掴もうなんて追うことをせずとも乗ってくれるような気がした。
そしてその予感は正しく、僕の掌のちょうど真ん中に小さく桃色が宿った。
「千春、これ」
あの時と同じだ。
あの時と同じ「どうして桜?」と問う不思議そうな無垢な瞳、それでも受け取ってくれる優しい掌。
「千春に似合うと思ってね」
そして不思議そうな表情を残したまま、ありがとうと彼女は笑う。
僕はもう一度桜を見上げた、風に吹かれながら散っていく様子をみて『綺麗』と純粋に思えないのは今日が初めてだった。
僕の隣の彼女に、その様子を重ねてしまったから。
刻一刻と迫っている残りの時間、綺麗に儚く彼女は命を舞い散らしていく。
そして予定では遥かに長く続いていく命を抱えている僕はそんな彼女に、人生最後の恋をしている。
「__」
「文弥、今なんて言ったの……?」
「なんでもないよ、ただ感じたことを言っただけ」
数分前、僕は彼女の恋人になったわけだけれど特にこれと言った変化は起こっていない。
いつも通り彼女の車椅子を押しているから手を繋いで病室へ帰ってくるわけでも、付き合ったという事実を前に恥じらいながら気まずくなるような空気感もない。
いい意味でなにも変わらない、十八年間の僕達のままだった。
「そうだ文弥君、私ふたつ知りたいことがあるんだけど訊いてもいい?」
「僕にわかることなら答えたいよ」
「文弥君じゃないとわからないことなんだよねぇ」
病室の扉を閉めた瞬間、彼女は振り向いて僕へ企んだような表情をみせる。
おかしそうに笑っているけれど、僕にはなにがおかしいのかわからず戸惑う反応しかできない。
ひとつだけ頭に浮かんだ彼女からの問いの候補は『私のどこを好きになったの?』というカップルなら一度は交わし合うような台詞。けれど彼女はどこまでも予想外だ、きっとそんなありふれた言葉にこんな可愛らしく企んだ表情を使ってはくれない。
「いいよ、なんでも答えてあげる。それで、なにが知りたいの?」
「それなら遠慮なく! 私からの手紙、二通あったと思うけど、どっちから読んだ?」
「それは『文弥』宛ての手紙から読んだよ、なんとなくその違いの意味を察したからね」
「さすが! 私の恋人はなかなかに勘が鋭いね、これは嘘がつけなくなるなぁ」
呑気そうにそう呟いて、彼女は一度口を噤んだ。
ふたつある質問の、もうひとつを躊躇っているようにも思える。
彼女が口を開かない数秒間に僕自身も助けられている。彼女が何気なしに口にした『私の恋人』という言葉に動揺してしまった、きっと間を置かずに質問をされたら冷静に答えられる自信がない。
僕の中の騒がしさが鎮まってきた頃、彼女が口を開いた。
「二通目の最後を読むまで、私は死んだものだと思ってたでしょ」
彼女からのあまりに直球な問いに、鎮まったはずの騒がしさが再び襲う。
ここで『いや、僕は信じてたよ』なんてことが言えればいいのだけれど、そんな嘘をつくことは僕自信が許せなかった。
それに彼女がいなくなってしまったと思った瞬間の喪失感も絶望も、なかったことにしたくない。
「思ったよ。千春はもう、この世界にいないって思った」
「その時、文弥君はなにを思った?」
「質問はふたつのはずだよ」
「最初の質問はただの確認事項だからカウントしないの! 教えて、これは文弥君にしか答えられないことだから」
彼女の言う通り、この問いの正解は僕しか知らない。
そしてきっと今この問いへの答えを誤魔化してしまったら、僕のあの数分間の気持ちは彼女に伝わらないまま終わることとなる。
彼女が知りたがっているのなら、僕は無数に湧き上がった気持ちの根底にある想いを告げよう。
悲しいでも寂しいでも、後悔でもない。
僕がひとつ、望んでしまったこと。
「明日が来なければいいと思った」
「それって__」
「僕は千春がいなくなったと思った瞬間に『一緒にいたい』なんて前向きな思いじゃなくて『千春がいない明日なんて来ないでほしい』って思った」
僕自身の答えに『もっと綺麗なことが言えたらよかった』という情けなさから発した瞬間に目を伏せてしまう。
数秒の沈黙の後、僕は伺うように彼女の表情に目を向ける。
彼女は安心したように微笑んでいる、そして僕の答えを求めていたと言わんばかりに満足そうな雰囲気を含んでいる。
「よかった、やっぱり文弥君の恋人になって大正解だったね」
「え……嘘」
「嘘なんてつくわけないよ、私は文弥君からその言葉を聴けて安心してる」
「どうして、僕の答えは前向きな言葉でも綺麗な言葉でもないのに」
「だからだよ。前向きでも綺麗でもないから、私はよかったって思えてるの」
彼女の言葉の意味も、異様なほどに晴れた表情の真意も僕にはわからなかった。
なにに安心しているのか。僕が彼女の立場で、恋人から『貴方のいない明日なんて来ないでほしいと思った』なんて言葉を掛けられてしまった時には頼りなさで崩れてしまいそうになる。
「文弥君は、きっと私がいないと生きていけない人だってわかって安心した」
彼女らしい表情で、彼女らしくない言葉を溢す。
それでも僕はその言葉を否定することができない。
何よりも大切な彼女が望まない終わり方をしてしまったと脳裏をよぎった瞬間、僕自身の明日すら消してしまいたいと思ってしまった僕は、きっと彼女の言葉の通りの人だ。
「病気がわかってからずっと誰かに頼りきりだった私が、たったひとりの恋人の生きていくために必要な存在になれた。それって、すっごく素敵なことだと思わない?」
間違いない、その言葉と彼女の誇り高そうな態度が噛み合って輝いてみえる。
彼女はこうやって誰かに光を与える付けてきた。誰かに頼りきりなんかじゃない、その分誰かに生きる希望を与え続けてきたのだ。
「そうだね、すごく素敵なことだと思うよ」
「だよね、それなら私とひとつ約束してほしいことがあるの」
「約束してほしいこと? なに?」
「訊いたからには絶対守ってね? この約束に限っては文弥君に拒否権なんて与えないから」
珍しく真剣さを含んだ声色で、彼女は僕へ選択肢のない選択を迫った。
きっと最初から僕の中に彼女の願いを拒むという選択肢はなかった。それに、躊躇っていられるほどの時間はない。
ずっと一緒にいてと言われたら、僕は片時も彼女のそばを離れない。好きになった気持ちを忘れないでと言われたら、この気持ちを全て書き起こして残していたっていい。
その覚悟を持って、僕は彼女の声に頷いた。
彼女の唇が動く、その約束は僕の安直な予想を遥かに超える言葉で紡がれた。
__ 千度目の春まで、一緒に生きて。
その言葉に、僕は彼女を抱きしめることで答えを告げた。
十九年前の今日と明日、僕と彼女は別々の命を宿して生まれてきた。
そして今、僕達は同じ春を宿して千度目のその瞬間まで同じ瞬間を生きることを誓う。