「誰……って、冗談でしょ」

 怯えたように、本当になにも知らないような様子で、彼女は僕をみつめている。
 数秒前病室に響いていた僕の声が消えていく、彼女が言葉を返さないことで沈黙が生み出される。彼女が夜によく眠れるように買い替えた、秒針の静かな時計の音すらはっきり聞こえてしまうほどの沈黙。
 僕が彼女を間違えるなんてことはあるがない、僕と目が合っている相手は確かに彼女なのだから。それなのに、僕と彼女の間を理由のわからない距離と違和感が隔てている。

「千春……? 僕だよ、もう冗談はいいよ」

 机上に置かれていた彼女の手に向かって、僕の手を近づける。

「……辞めて、触らないで」

 そのまま彼女の手に触れようとした。彼女が治療に対して不安を抱いた時、僕は何度も彼女の手を握ってきたから。
 再入院という突然の事態に錯乱しているのだと思った、そんな彼女を今回も同じように手を握って安心させたかった。その僕の意図と反するように、彼女は容赦無く僕の手を振り払った。
 それと同時に僕へ向けられた言葉は冷たく鋭利で、視線の奥底からは誰かわからない人へ向けた恐怖からくる抵抗すら感じた。きっと彼女は本当に、僕のことを『文弥』だと認識していない。
 そしてそれが何故なのか、今の僕の頭の中にひとつだけ心当たりがある。これこそ、僕の心配性であってほしい。僕の勘はこういう時に限って冴えていて、よく当たる。
『忘れっぽい』先週の彼女が呟いた一言が、僕の中で繰り返される。
 きっとこれは彼女の悪ふざけだと言い聞かせる、明るい彼女の行き過ぎた冗談だと思いたかったから。

「どうしてそんな嘘つくの? わからないフリなんて、知らないフリなんてしなくても話すことなんてあるでしょ?」

「嘘じゃない、わからないフリでも、知らないフリでもない……私は本当に貴方を知らない」

「そんなわけない、ついこの間一緒にここでアルバムだって作ったんだよ? その後に通話だってした、そんな僕のことを忘れるわけがない」

「アルバムなんて作ってない、通話も……貴方と話した記憶はない。本当にわからないの、今初めて、私は貴方のことを知った」

「もういいよ……僕の名前、呼べるでしょ。知ってるでしょ? お願いだから呼んでよ……」

「だから、私は貴方のことを知らない。初めて会う相手の名前なんて言えるわけがないでしょう?」

「いつもの千春じゃないよ、おかしい。今日の千春は千春じゃないよ」

 吐き捨てるように、そう言ってしまった。幼馴染という距離の近さが裏目に出たような乱暴な口調を、僕は初めて使ってしまった。
 彼女の『わからない』『知らない』に嘘がないことなんてわかっていたのに、それでも僕はその言葉を受け入れたくなかった。
 覇気のない彼女の声が僕の耳には残っている。力のないその声で、彼女は僕に『知らない』と言い続けている。
 僕を初めて『貴方』と呼んだその声が、耳に残って剥がれてくれない。

「ごめん……すみません、人違いでした。隣の病室の方と勘違いしてました」

 ただ何事もなかったように、目すら合わせられず、他人のように病室を出ること。今の僕にとれる最善の行動は、それだけだと思った。人違いなはずがない、隣の病室には知り合いどころか最初から入院患者すらいない。何度も名前を呼んで、知っているはずだと問い詰めた僕が『人違い』なんて無理のある理由で通用わけがない。それでも混乱しきった僕の頭では、そんなわかりきった嘘しか思いつくことができなかった。
 僕は逃げるように病室の扉に手を掛ける。

「待って」

「え……」

「さっき、私の名前呼んでましたよね」

「名前、ですか」

「千春って、呼んでくれてましたよね。もし私の聞き間違いじゃなかったら、病室を出るの待ってください……少し貴方と話がしたい、確かめたいことがあるんです」

 生まれて初めて、彼女から敬語で話しかけられた。似合わない、と思った。
 他人行儀な声も、聞きなれない敬語も、僕をみる疑ったように怯えた目も、僕が知っている彼女ではない。僕が彼女に対して『誰』と問いたくなってしまうほど、その姿は別人に映る。
 それでも彼女が引き留めている理由を僕は知りたい。名前を呼んだだけで僕を引き留めた理由を知ればきっと、彼女に起きている違和感の答えも知れるはずだから。

「呼びましたよ、千春って。貴女の名前、僕はちゃんと呼びました」

「よかった、聞き間違いじゃなかった。最初にひとつ、私に教えてほしいことがあるんです」

「教えてほしいこと……?僕に答えられることなら、なんでも教えますけど」

「お名前、教えてほしいです」

「僕の名前ですか?」

「フルネームで、私にお兄さんの名前を教えてほしいんです」

 辿々しく僕へ頼んだ後、堅くなった雰囲気を砕くように彼女はベッド横の椅子の背を軽く叩き、僕を呼ぶ。
 ここまで緊張感に包まれた病室は僕にとって今日が初めて。彼女の怯えた表情が微笑みに変わっている、それでもいつもの笑った顔とは違う。違和感を埋めるために用意されたような表情、その表情がより僕の中の違和感を積み上げていく。

「……桜庭 文弥、それが僕の名前です」

「さくらば ふみや……ごめん、ちょっと待っててくださいね。あと敬語、違和感あったら外して大丈夫ですからね」

 そう言って僕の名前を呟きながら、掌ほどの大きさのノートを指で追って読んでいる。
 時々難しそうな顔をしながら、僕の容姿を凝視して頷きながら。彼女がなにをしているのか僕にはわからないけれど、なにかを照らし合わせているということだけはよくわかった。

「桜庭 文弥君……私と幼稚園から一緒にいる、っていうことは幼馴染。話し方はタメ口、高校三年間は同じクラスだった、家がほぼ隣で誕生日が隣の日付、ほぼ毎日お見舞いに来てくれる優しい人……」

 そのノートと僕を何度も見返して、他人事のように僕の存在を認識していく。
 彼女の声で、僕からみた彼女が読み上げられていく。僕の特徴、彼女からみた性格、彼女との関係性、きっとその全てがその手に握られたノートの中に明記されている。

「文弥君のことちょっとわかったよ、よくわからないけどわかった。この人なら私の話をしても大丈夫って、少し前までの私が言ってる気がする」

「少し前までの千春……それ、どういう意味?」

「すごくわかりやすい言い方もできるけど、それはきっと文弥君のことを傷つけちゃう。そして、きっと私にとっての文弥君は傷つけたくない人だから……だから今すごく、伝え方を迷ってる」

「僕はなにを言われても傷つかないよ、約束する。だから教えてほしい、その、わかりやすい言い方で」

 彼女が躊躇っていることがよくわかる。開きかけた唇を何度も閉じて、過剰なほどに瞬きを繰り返している。
 数秒後に告げられることへ大体の想像がついてしまっているからこそ、彼女からの確信的な言葉がほしい。正直なにを言われても動じずにいられる心なんて持ち合わせていないけれど、僕は『傷つかない』という単純すぎる言葉で覚悟を持った気でいるしかなかった。

「思い出せないの、文弥君のこと。私……今、文弥君がどういう人なのか、全くわかってない」

 彼女が震えた声で僕へあるままの事実を告げる、僕の頭はその言葉の意味を受け入れようとしない。
 申し訳なさそうに背を丸めながら僕へ謝る彼女の姿をみても、彼女がなにを言っているのか僕には理解できなかった。
 一週間前まで僕の前で笑っていた彼女が、三年間を振り返りながら過去を懐かしんでいた彼女が、誰よりも同じ時間を過ごしてきた僕のことを思い出せない。
 なにかのフィクションであってほしい、それこそ授業の居眠り中にみる中途半端な悪夢であってほしい。

「それって、つまりさ……」

 この僕からの問いは彼女からの言葉を理解するための問いではない、彼女からの言葉を受けた僕の嫌な解釈を否定するための問い。
 僕が待っている言葉は『そんなわけないじゃん!』という彼女らしい一言だけ。そこに希望を託している。
 言葉が喉に詰まっていく、言葉にすることを躊躇っている。数秒前の彼女の気持ちが痛いほどわかってしまう。

「僕のこと、忘れてるってことなのかな」

 その問いに対して、彼女から言葉が返ってくることはなかった。ただ小さく上下に動いた彼女の頭が、その答えを表しているだけ。
 十八年間隣にいた、誰よりも彼女を知ってきた僕が、彼女の記憶の中から消えた。
 一週間前の彼女の言葉の影が、今はっきりとみえてしまった。『最近忘れっぽい』そう言っていた彼女に、この結末がこんなにも早く訪れてしまうことを僕は想像できていなかった。
 忘れっぽいという言葉は薬を飲み忘れるだとか、置いたものの場所がわからなくなるだとか、そういう単純な日常の中の話だと思っていたから。


 __彼女の記憶から僕が消えた。


 何度もその事実が言葉になって頭の中を動き回る。一向に受け入れようとしていなかった僕の心が、その事実を理解し始めてしまっている。反応してはいけないと思っていた心が動いてしまっている。目の奥が鈍く痛くて、身体が強張って、呼吸が浅くなっていく。

「文弥君は、私が病気だってこと……知ってくれてるの?」

「……知ってるよ、きっと誰よりも千春のことは知ってるよ」

「そっかそっか、それじゃあ少し前までの私はずっと隠してきたんだね……こんなに大事なこと、隠したままでいたんだね」

「大事なこと、隠してるって……どういう意味」

「私の病状が悪化したら起こる変化を、ずっと伝えてなかったって意味だよ」

 彼女の声は妙に落ち着いていて、表情も数分前より遥かに穏やかだった。
 それでもその落ち着きすぎた雰囲気に僕は違和感を感じていて、今まで感じたことのない壁を感じている。みえない何かに隔てられているような感覚に襲われて、彼女が本当に遠くの存在のように感じた。
 誰よりもみてきたはずなのに、本当に初めて顔を合わせる人であるような感覚。誰より知っているはずなのに、知らない。そんなもどかしさを抱えながら、僕は彼女からの言葉を待ち続ける。彼女の言うずっと伝えてこたかったこと、を受け入れるために。

「初めにちゃんと謝らせてほしいんだ、こんなに大事なこと隠したままでごめんなさい」

 俯いたまま、彼女は顔をあげてくれない。
 彼女が謝罪する申し訳なさそうな姿も、俯いたまま戻らない姿勢もみたくない。僕はただ、僕が知っている彼女の姿と声と、聞き流せてしまうような言葉がほしい。
 今の僕には彼女が隠していたことを受け入れられる自信がない、傷つかないという取ってつけたような言葉が一瞬にして崩れ落ちそうになる。
 彼女が顔を上げると同時に僕も逸らしていた目を彼女へ戻す。受け入れられる自信がなくても、最後まで僕は彼女を受け入れたいと思ったから。

「記憶がなくなっていくの、病状が悪化するごとに」

「病状が悪化……それは、今の体調はどう? 頭が痛いとか、手が動かしづらいとか、そういうことはない?」

「足の感覚がほとんどなくて、移動に車椅子が必要になったくらい。他はなにも問題ないよ」

「問題ないなんてわけがない……話すことも辛かったら休むことを優先していいからね」

「ありがとう、文弥君は本当に優しい人みたいだね。でも大丈夫だよ、今はちょっと調子いいからさ」

「そっか、ごめん話を遮っちゃったね。続き、聴かせてくれないかな」

「腫瘍が大きくなって脳を圧迫することで、過去の記憶を整理する場所が機能しづらくなっていくんだよね」

「過去の記憶、それなら字を書いたり言葉を口に出したりすることも難しくなっていくんじゃ……」

「私の症状はちょっと特殊なんだよね、きっとこの紙に書いてあることを読んでもらった方がよくわかると思う」

 彼女が引き出しから一枚の紙を取り出し、僕へ差し出す。彼女の主治医の名前と印鑑の押された紙、ただの紙のはずなのにその一枚が僕には言い表せないほど重く感じた。
 そこには彼女の言葉の通りのことが記されていて、残酷なほどに間違いが見当たらない。
 腫瘍が脳を圧迫することによって過去の記憶が失われていくこと、それが彼女が患う大脳圧迫腫瘍という病に稀にみられる症状らしい。
 そして彼女の場合は人に関する記憶が局所的に抜け落ちていき、その人に関連した記憶も同時に失われてしまうという特徴を持っている。その人とどれだけ親密な関係であっても記憶から消し去られてしまう。
 そして、失われた記憶が戻ることはない。

「それじゃあ……ここに書いてある通り、一度忘れた人の記憶は無くなったままなの……?」

「一時的になくなるわけじゃなくて、そもそもの記憶から消えちゃうみたいなの。だから、文弥君のことも__」

「待って、それ以上は……それ以上は言わないでほしいな。きっと、理解できてると思うから」

 わかっている事実を、改めて彼女の口から突きつけられることは今の僕には受け止められそうにない。
 何度も聴いてきた彼女の声から『初めまして』のような口調で言葉が並べられていくたびに心が抉られるような感覚になる。
 彼女の中から僕との記憶が消えたという事実の反動からか、僕の頭の中には彼女との思い出が五月蝿(うるさ)いほどに鮮明に浮かび上がってくる。
 小学校の入学式前日、僕のランドセルについていたキーホルダーを羨ましいと泣いたこと。近道をしようと草の生えた狭い道を通って帰ったこと。中学生の頃、あまりの仲のよさに『付き合ってる』と冷やかされたこと。その冷やかしを否定しながらも、僕は少し嬉しさを感じていたこと。テストの点数を競ってアイスを奢りあったこと。彼女の通院日に合わせて一緒に高校の制服採寸に行った日のこと。いつか忘れてしまっても気づかないようなことばかりが、僕の頭の中に映し出されていく。苦しい、どうしようもなく。彼女の姿を、僕は初めてみたくないと思ってしまった。
 そしてもうひとつ、きっと『忘れてはいけないこと』に分類されるであろう言葉を思い出す。その言葉に僕は酷く申し訳なさを覚えた。

「ごめん千春、僕は僕が伝えた言葉に嘘をついてしまうかもしれない」

「それは……どういう意味?」

「知らないままでいいよ、知らないままでいてほしい。ただ、この僕からの『ごめん』だけは受け取ってほしい」

 今の彼女にとって何者でもない僕が言葉を押し付けている、とても無責任なことをしている。
 ただ僕の頭の中には謝るための言葉が溢れていて、彼女に向けた言葉が嘘になってしまったことへの罪悪感に駆られている。
 __生きてさえいてくれたら、僕は幸せだよ。
 彼女の病気がわかって初めての誕生日に、僕が彼女に告げた言葉。
 紛れもない本心だったその言葉が、嘘に変わってしまう。目の前の彼女は確かに生きているのに、それなのに今の僕の心は『病状が悪化してもなお生きてくれている彼女』を喜ぶ気持ちより先に『僕との記憶を失ってしまった彼女』への悲しみで埋まってしまっている。
 幸せなんて言葉を言える余裕は、残っていない。

「文弥君は、私の幼馴染なんだよね。だからきっと私にとっても、文弥君にとってもお互いが大切な存在だったのかな」

「大切なんて言葉じゃ足りないよ、僕にとって千春は__」

「千春は……?」

「ごめん、そうだね。僕にとって千春は大切な存在だったよ」

 大切だった、失いたくなかった。そこに間違いはないけれど僕の心が少しだけ嘘をついていることがわかる。
 僕にとっての千春は、好きな人だから。この世界でただひとり、僕が好意を抱いた人間だったから。ただそれは僕の中に隠されたままの気持ちで、彼女は思い出す以前に僕の気持ちを知らない。
 だから僕はなにも知らない彼女は空想で語ってしまえるような『大切』という言葉に全てを込めることしかできない。

「私が持ってるこのノートにね、いくつか文弥君のことが書いてあるんだ。ひとつずつ確認していってもいいかな」

「怖くないの?」

「え、なにを怖がる必要があるの?」

「急に手に触れようとした知らない僕が、ふたりきりで病室にいること。怖がってもおかしくないでしょ」

「怖くなんてないよ、知らないことは自分から知っていかないと。それに、文弥君がどんな人か私にはまだわからないけどすごくいい人だっていうことはなんとなく感じ取ってるからさ」

 ちょっと大雑把な考え方も、なぜか自信に満ちた声も、僕が知っている彼女と重なる。
 小さな頃からそうだった。一緒に公園に行って遊んでいても彼女は知らぬ間に数人の友達を作っていた。その日限りで次に会うことはないけれど、その瞬間を楽しむ相手を彼女は引き寄せていた。
 彼女が僕のことを忘れたとしても、彼女は彼女のままなのかもしれない。

「確認していこう。そして千春が感じてくれてる『すごくいい人』って印象が本当かどうか、今の千春が確かめてほしい」

「ありがとう、確かめさせてもらうね。私の勘は間違ってないと思うけど」

 冗談まじりに笑う彼女の表情が僕の記憶と結びつけられていく度に、心が苦しい。素直に懐かしむことができない、それがまっすぐな彼女に申し訳なくて心の奥が窮屈になっていくのを感じる。
 ベッド横にある引き出しの一段からペンを取り出した後、僕のことが書かれているページを広げる。幼い頃からの癖が残っている少し丸み帯びた彼女の字で、僕が記されている。十八年間の千春がみてきた桜庭 文弥がそこにはいた。

「なにから教えてもらおうかな……幼稚園も小学校も中学校も同じだったんだもんね、確かめたいことが多すぎてちょっと戸惑っちゃうよ」

「それほど長い時間の中で関わってきたってことだよ、少しずつ辿っていこう。焦る必要はないよ」

「そうだよね、私もそう思うんだ。ただ文弥君の性格はできるだけ早く知っておきたいって思うの」

「そのノートに僕の性格がわかるようなこと、なにか書いてないの?」

「書いてないわけじゃないんだけど……あまりにも頼りにならないんだよね、本当に少し前の私は能天気すぎて自分でも困っちゃう」

 そう言って少し呆れた表情の彼女は僕へノートを向ける。僕自身の情報が書かれているノートをみることに抵抗を感じながらも、彼女の文字に焦点を合わせていく。
 並べられている出来事の順序がバラバラなことから思い出す度に書き足してきたことがよくわかる。それでもそこに書かれていることに間違いはひとつもなく、すぐに僕の頭の中でその時の景色や会話が映像として流れていく。
 ただ見開き一ページにわたって書き記されたことの中に、僕の性格を書いているであろう場所が見当たらない。

「ねぇ、僕の性格ってどこに書いてある? ちょっとみつけられなくてさ」

「それがね、本当に一言しか書いてないんだ。ここ、こんな一言で語り切れるような人じゃないはずなのにね」

 僕の顔色を伺いながら、それでも笑いを堪えながら、彼女は再び僕へノートを差し出しそのひと部分を指先で示した。彼女が笑いを堪えている理由がよくわかった、本当にどこまでも彼女は可愛らしい性格をしている。
 いずれ記憶がなくなってしまうことを知っていた彼女が書き残した僕の性格、それは__。


 __ 桜庭 文弥は優しい! とにかく優しい、だから信じて、頼って、一緒にいて大丈夫。本当に優しいから!


 記憶をなくした状態でこの一言をみた時なにがわかるかと言われたら、きっとなにもわからない。
 この人は優しい人だ! となにもわからない状態で押し通されるのだから、受け入れることに時間がかかる。少し前の彼女はなにを自信にここまで大雑把な言葉だけを残したのだろう。

「ふふ、おかしいね、本当に不思議だよ」

「文弥君、怒らないの……? もっとちゃんと書いておいてよ、知れるために書き残しておいてよ! って怒ってもいいくらいなのに、なんで笑ってくれるの?」

「千春らしくてね、その気持ちと感覚を大切にしている感じが千春らしくて。ちょっとそれが、僕は嬉しかったから」

 確かに彼女が僕の性格を細かく書いてくれていたのなら、それはそれで嬉しかったのだと思う。
 それほど僕のことをみてくれていたのだと実感できる言葉が並べられているノート、それもそれでみてみたい。ただ今の僕は、彼女の取り繕わない言葉が残されていた事実がたまらなく嬉しい。
 怒るなんて感情は欠片も僕の中にない。きっとそれほど、僕は彼女のことが好きだから。

「千春は僕の性格よりも、思い出をたくさん書き残してくれてたんだね」

「そうみたいだね、このノートをみて私もそう思ったよ。もう少し性格も書いておけばよかったって後悔してるけど、思い出だけは取りこぼさずに書けてるね」

「それだけ思い出が書いてあれば、僕がどんな人だったかわかるんじゃないかな」

「どうして? 思い出から性格を知る方法、私は知らないよ」

「きっと人は、苦手な人との思い出を残そうとなんてしないと思うんだ。特別だったり大切だったり、そういう人との思い出を重ねていきたいと思う生き物なんだよね」

「思い出から文弥君が私にとっての特別だって、大切だってわかったとしても、性格までわかるのは難しい気がするけど……」

「その人となにをしたかの思い出があれば、きっとその人が好んでいたものがわかる。そうやってひとつずつ紐解いていけばいいんだよ。そうしたら最後には性格にたどり着けるはずだから」

 難しそうな彼女の顔が晴れていく、そしてノートの中の思い出を読み込んでいく。
 僕が言ったことは曖昧だけれど、我ながら割と正しい持論だと思っている。僕と彼女の趣味や性格は正反対で、残っているふたりの写真は大抵彼女の反対側にある表情を僕がしている。
 きっとそれは、言葉でも同じことが言える。

「例えばここ『一緒に美術館に行った。文弥は絵画に夢中だったけど、私は少し退屈でその近くにある体験型のオブジェで遊んでた』って書いてあるよね。ここで僕と千春の好きなものが違うってわかる、とか」

「本当だ……もしかして、文弥君って穏やかな性格なのかな? ってわかるね。本当かどうかは直接確かめればいいし、なにより少しずつ探っていくような感覚が新鮮で楽しい」

 ありがとう、と彼女は僕に言うけれどこの楽しさを感じられているのは、他でもない彼女が僕との記憶を鮮明に書き残していたからだと思う。
 当時の年齢、季節、天気、ふたりの服装、行った場所、食べたもの、交わした会話、その時の表情。意識すらできない間に過ぎ去ってしまうような一瞬を、彼女は言葉に起こしてきた。その一瞬をどこまでも続いていく時間にするために。僕が写真を撮っていたように、彼女なりの方法で僕達の日常を切り取り続けてきた。

「それに私、もうひとつ気づいちゃったよ。文弥君の性格を知る方法、というより唯一書いてた『優しい人』を確かめる方法」

「どんな方法か聴かせてほしいな」

「今だよ、今。話してる時の声色とか、私のことをみる目とか、それだけでも少し文弥君がどんな人かわかりそうなんだよね」

「なかなか難しい方法を思いついたね。声色とか目か、それを通して『僕はこんな人ですよ』ってわかりやすく伝えられたらいいんだけどね」

「確かに難しいけど……でも私、もうひとつわかっちゃったよ。文弥君がどんな人か、どんな優しさを持った人か」

 得意げなその声と視線に、僕は自然と意識を持っていかれてしまっている。
 彼女が僕のなにをみつけたのか、今の彼女が感じ取った一番最初の僕を知りたい。

「文弥君は、自然と一緒にいたいって思える優しさを持ってる人だと思った」

 自然と一緒にいたいと思える優しさ、そんな言葉が彼女から聴けるとは思っていなかった。
 実質初めて出会った僕に向けた言葉だから、きっと僕が思っているほど彼女はこの言葉を深く捉えていない。それでも嬉しかった、手を振り払われるというひとつの拒絶の形に触れた僕だからこそ、その直感的な一言に僕は過剰なほど安心している。

「ねぇ、文弥君。ちゃんと確かめたいことがひとつあるんだけど、訊いてもいい?」

 安心感に浸っていた僕へ、彼女の少し沈んだ声が届く。
 嘘みたいに泳いでいる目から、僕への問いを躊躇っていることがよくわかる。彼女の中の動揺が痛いほど伝わってくる。

「いいよ、なんでも。僕に答えられることならなんでも答えるからさ」

 僕の言葉でなにかを決意したように、彼女は開いていたノートを閉じる。
 深呼吸をして、一度目を瞑り、ゆっくり開いて僕をみつめる。今から僕は、それほど重大なことを尋ねられるらしい。

「私と文弥君、お付き合いはしてないよね」

 どうしてその問いが彼女の頭を過ったのか、僕はそこに行き着くまでの経緯が気になってしかたがないけれど今は事実をそのまま伝えることが僕の求められていることだとその疑問を押さえつけた。

「お付き合いはしてないよ。僕にも、千春にも、恋人はいない」

「そうだよね、ちょっと曖昧な書き方が……『ずっと隣にいてくれる人』って書いてあったから。もしお付き合いでもしていたら忘れてるなんて申し訳ないから、だから確認しておこうと思ってね」

 そっか、と一言呟いた僕の声でその会話は途絶えた。
 ここで『僕達は付き合っている』と嘘をついたら、僕と彼女の関係はどうなっていたのだろう。そんな不純な想像が僕の中で止まない。
 その嘘を彼女が答えとして受け入れた先で、恋人として接していく中で、僕は彼女の恋人らしくなっていけるのだろうか。
 きっと僕との記憶がなくなっている彼女に今どんな嘘をついたとしても、その嘘がバレることはない。彼女は全てを受け入れて、その嘘に従って本当を創り出していくことになる。
 それなら、彼女が僕の恋人になる未来が、僕の恋が叶う未来が自動的に訪れる。

「千春」

「なに?」

「さっきのことだけどさ、やっぱり__」

 そこから先の言葉が、僕の声になることはなかった。
 唇の動きが止まって、僕の口は開いたまま。彼女の状況を理由に未来を動かそうとした僕自身の欲を、彼女の純粋すぎる視線が断ち切った。
 僕が好意を隠し続けてきた理由に、僕自身が背くわけにはいかない。彼女の心を壊したくない、明日の保証がない彼女だからこそ一日でも長く心から僕にその笑顔をみせてほしい。
 記憶がなくなっても、彼女は彼女だから。僕はただの幼馴染で、これは叶わないままの、言えないままの片思い。
 そんなことは誰よりも、僕がわかっているはずだから。

「なんでもない、なに言おうとしたか忘れちゃったよ」

「そっか、忘れっぽいのはお互い様なのかもね」

 そう笑ってくれることが彼女の優しさであることもよくわかっている。
 優しいから、まっすぐだから、可愛らしいから、僕のことを忘れても変わらない彼女だったから。だから僕は、身勝手に好意を伝えてしまいそうになるほど彼女への好意を諦めきれずにいる。
 生きていてくれたらいいと思っていた。忘れられた数時間前は思い出してくれたいいと思った。思い出すことが不可能だと知ってからは新たに確かめていけばいいと思った。
 全てを受け入れたはずなのに、僕はまだ『好きになってほしい』という抑えていたはずの願い事を持ったままでいる。

「この後、少し用事があるから僕はここで帰るね。千春もゆっくり休むんだよ」

「ありがとう文弥君、またね」

 僕が僕の心を抑えきれなくなる前に、彼女に今日の別れを告げた。
 また明日も会えるはず、明日は僕達の卒業式だから。
 手には渡せずにしまったままのアルバムが残されている、これも明日渡せたらいい。
 彼女と時間を重ねていく度に僕の中の願い事が増えていく、だから今日はただひとつだけを願って病室の扉を閉めることにする。きっと僕達が、ずっと変わらずに願い続けているたったひとつのこと。

 __ 明日も千春が生きていますように。


 *


 翌日の卒業式、埋まるはずだった僕の隣の席だけが空いたまま式が始まった。

『卯月 千春』

 担任教師が彼女の名前を呼ぶ、返ってくる声はない。
 そしてなにひとつの違和感もなかったように、彼女の次の名前が呼ばれる。式が続いていく。
 普段涙とは結びつかないほど冷静な担任教師ですら涙を浮かべている空間で、僕だけがその埋まらない席に気を取られているままだった。
 最後の一年を過ごした教室の景色。
 在校生による装飾が施された非日常感に包まれた教室の中で、彼女の席だけが変わらない空席のまま終わったことに僕はその日初めて涙の感覚を覚えた。