……ぺしょ……ぺしょ。

 聞いてはいけない音を聞いた。確か良菜(らな)は傘を差して出掛けたはずだ。長靴にレインコートで、手抜かりなどなかったはずだ。だけど、玄関を開けたときに「ただいま」の声もなければ、傘をたたむ音もしなかった。代わりに聞こえてきたのは、あの湿りきった……ぺしょ。

 二人で暮らすこの2DKに、玄関以外に逃げ道はない。袋小路。ベランダから飛び降りても無事では済まない。よしんば無傷でも今は雨が降っている。俺もぺしょぺしょになってしまう。
 正面突破しかない。瞬間ぺしょぺしょになった良菜に触られるかも知れないけれど、ここで待つよりはいい。

 部屋の仕切りを開けると、玄関で立ち尽くしていた彼女と目が合った。フードが外れた髪の毛はずぶ濡れで、いつもはふんわりと肩に乗っかる毛先もだらんと垂れてふくよかな胸の辺りまで伸びている。ぺっとりとした髪から落ちた雫はレインコートの内側を濡らし、肌全体が潤んで見えた。粉雪のようだったはずの肌が、今は牛乳寒天のようなぷるぷるさで。

 完全にぺしょぺしょだ。良菜はぺしょぺしょになった。しかし良菜は、変わらないあの、ハルジオンみたいな控えめな笑顔で、寂しげに俺を見つめたのだ。

 胸が締め付けられる。

 彼女を置いて出て行くなんて。そう思ったとき、俺は良菜を抱きしめていた。遅れてすぐにしまったと思ったが同時に、これで良かったのかも知れないと思った。いつものあの、超長綿《ちょうちょうめん》を100番手で織ったシャツのようにさらさらとした肌ではなかったが、わらび餅のような柔らかさが俺を包んでくれたから。

「お帰り、良菜」
 目を覚ますと見知らぬコンクリートの天井が広がっていた。

 どうやらベッドの上に居るようだ。上体を起こすと掛けられていたタオルケットがくたっと落ちて素肌が見える。視線がタオルを追うと頭痛が走った。骨の内側から緩く脳を押すような鈍い痛みが、どくどくと脈を打つ。

「動かない方がいい」

 春風のようにやわらかい声だった。
 声の方に目をやると、眼鏡の奥から真剣なまなざしを送る青年がパイプ椅子に座っていた。痛みが引いたことを視線で伝えると、彼の切れ長の一重瞼はホッとしたように優しげなまなざしに変わった。

「僕は善坂(ぜんざか)天人(あまと)。ここのリーダーをやっている。アマトでいい。君は?」
八戸庭(はこにわ)理都和(りとわ)です。ここはいったい……?」

 アマトはおもむろに立ち上がり、ブラインドカーテンを開けた。窓の向こうにはさらに大きな部屋が広がっており、人々は談笑したり読書をしたり、それぞれ思い思いの行動をしていた。多くの人は白無地の病院着を着ている。

「ここは“()()()”」

 目の前に映っている景色と噛み合っていない。幻聴だろうか。
 窓の前を通った女性が、お盆を持ってこの部屋の前で立ち止まった。アマトは扉を開けて彼女からお盆を受け取った。

「詳しい話に入る前に、これを」

 アマトが差し出したのはコッペパンとミルクだった。お盆に載ったままのそれらを受け取り、ベッドサイドテーブルに置いた。

 ミルクを飲んで、それからコッペパンを頬張った。やわらかい。そしてほんのり温かい。焼き立てだろうか。舌に触れるとそこから優しい甘さがじんわりと溶け出した。咀嚼(そしゃく)し、飲みくだす。

「それは君の中のぺしょぺしょを取り除く薬なんだ」
「……ぺしょぺしょ」

 オウム返しする。どう見てもパンだったけれど、薬なんだこれ。

「そう。ぺしょぺしょになって街を彷徨っていたんだよ、君は。だから僕たち“焼き立て屋”がコッペパンを撃ち込んだってわけさ」

 さっぱり意味がわからない。けれどこの人たちが俺を助けてくれたのは間違いなさそうだ。俺がぺしょぺしょになったのも事実だし——

「あ!」

 俺が大声を出すとアマトは目を見開いた。

「あの! 良菜(らな)は!?」
「ラナ?」
「水瀬木《みなせぎ》良菜! 俺の恋人なんです! ぺしょぺしょになっていて、そこから俺もぺしょぺしょに! だから! その! 俺を助けてくれたとき、近くに居ませんでしたか!?」

 言い終えたとき、アマトの眼鏡が眼前にあった。

「残念だが」

 彼は両手で俺の胸を(うやうや)しく押した。

「僕らが見つけたとき、君は集団からはぐれていてね。助けた人たちはみんなここに居るが、ラナと言う名前は聞いたことがない」
「そう……ですか」

 ベッドに座り直す。尻が深く沈む。

 この施設に居ないということは、良菜はいまだにぺしょぺしょってことだ。
 絶望と言う言葉を思い浮かべたとき、暗さを連想するのは正解かも知れない。今、明かりが一つ消えたような錯覚を覚えてしまうほどに、目の前が暗くなった。
 視線を彷徨(さまよ)わせ、サイドテーブルに置かれたプラスチックの皿を見つめた。先ほどコッペパンを載せていたものだ。

 コッペパン。

 あれ? さっきコッペパンを撃ち込んで俺を助けたって……。

「ぺしょぺしょって、治るんですか?」
「そのために僕らはコッペパンを焼いている」

 アマトの両腕を掴む。

「仲間に入れてください!」
 はじめに教わったのは、対ぺしょぺしょ用の武器の使い方だ。

 コンバットナイフ——の刃をコッペパンにぶっ刺したようなフォルムのパンコッペナイフ。
 ハンドガン——の銃口をコッペパンにぐりぐりと入れたようなフォルムのコッペガン。
 RPG(ルチノーイ・プラチヴァターンカヴィイ・グラナタミョート)―7——の弾頭をコッペパンに取り換えたようなフォルムのRPC(良薬パンコッペ)―7。

 どれもこれも出来の悪いおもちゃのように見えるが、実性能は確かなものだった。野外での戦闘を前提に置いているため、すべてのコッペパン部分には防水加工が施されている。これにより雨に濡れてもコッペパンの吸水力&ウィルス除去力を損なうことがない。ただこのままだと効果を発揮できないので、直前に先端をちぎって使う。

 パンコッペナイフは取り扱いが簡単だが、ぺしょぺしょに近付かないと使えないので覚悟がいる。
 コッペガンは離れた場所から使用可能だが、飛んでいくのがコッペパンのため空気抵抗が大きく、届く距離はせいぜい5メートル。照準もぶれやすいので正確に当てるためには2メートルまで近づく必要がある。
 RPC―7はホーミング機能があるのでかなり離れた場所から撃てるが、到達までに時間が掛かるため雨に濡れてコッペパンの威力(治癒力)が失われる。

 距離を取れば正確性と威力が失われ、近付けば危険度が増す。

 彼方(あちら)を立てれば此方(こちら)が立たずと言うわけだ。しかし一度ぺしょぺしょになった俺の体は抗体を獲得していて、少し触られた程度では問題ないし雨に濡れても平気なのだそうだ。

 数回の模擬戦を行ったあと、実戦へと繰り出した。

 アマトの立てる作戦は極めて保守的なものだ。少数の群れで移動するぺしょぺしょを見つけたら、広く高い屋根がある場所に移動し、距離を保ちつつ、3(もん)のRPC―7からコッペパンを撃ち込む。

 ——パシュッ。

 今回のターゲットは5人の集団だ。それぞれの弾頭が当たる。

 ——ぺしょ。

 水分を奪われたぺしょぺしょは倒れるか、逃げるか、向かってくるかに分かれる。5人のうち3人にヒットし、他2人は逃げだした。これを追ってはいけない。雨の中で対等に戦えるのは俺くらいのもので、他の戦闘員は付いて来られない。ぺしょぺしょがこちらに向かってくるようならば応戦と言うのが望ましい。今回は、廃屋と化したガソリンスタンドから撃ち込んだ次第だ。

 うち一人は逃げ、また一人は(くずお)れた。ここでむやみに倒れたぺしょぺしょに追撃のコッペパンを食らわせに行ったら、残ったもう一人のぺしょぺしょにやられてしまう。
 そいつは案の定こちらに向かってきた。
 俺のうしろに控えたコッペガン部隊がコッペパンを発射。放物線を描いて迫るが、ひらりと(かわ)されてしまう。

 一対一。俺はパンコッペナイフを構えた。

 ぺしょぺしょは武術の(たぐい)を使わない。つまり、愚直にナイフで迫ってもディスアームされる心配はない。手を伸ばしてきても顔面への強襲ではない限り、臆せず突くことが定石。間合いの都合上こちらの攻撃が先に当たるということ、またぺしょぺしょに触れられても俺はぺしょぺしょにならないことがその理由に当たる。

 想定通り切っ先が当たったぺしょぺしょはその場に倒れた。
 同時に、他の戦闘員が先ほど倒れたぺしょぺしょのもとへ向かい、追撃のコッペパンを食らわせた。

 こうして本日は2人を捕獲し、“焼き立て屋”へ連れて行くことが出来た。彼らも治療を受け、近いうちに正気を取り戻すことになるだろう。


 ※  ※  ※  ※


「リトワ。君が前線に立ってくれるおかげで、とても助かっているよ。ありがとう」

 前線に立って戦える者が居ない状態だと、前回のようにコッペガンが不発に終わった場合、退却する他なかったようだ。パンコッペナイフでの応戦は、本当に追い詰められたときにのみで、打って出るためには使わない。

「お役に立てて光栄です」

 助けてくれた“焼き立て屋”に貢献出来ると言うのは喜ばしいことだ。一方気掛かりなのは、まだ良菜に出会えていないと言うこと。このままの戦い方で、彼女に辿り着けるのだろうか。

「アマト」
「なんだい?」
「やっぱりその、新しく前線で戦える人間を募るって言うのは……?」

 アマトは首を横に振る。
 ダメか。前にも提案はしていた。前衛は多い方がいい。だから抗体を持っている患者たちから、戦いたい者を募ったらどうかと。

「前にも言ったけど、ここに居るみんなはあくまでも患者なんだ。抗体がしっかり働くかどうかは雨に打たれたりぺしょぺしょに触られたりして初めてわかる。もしもアナフィラキシーを起こしてしまったら命に係わる。君は、ラナを救いたいと言う強い思いから志願してきてくれたから覚悟の上と言うことで配属させたけど、それは特別なことなんだ」

 アマトの言っていることはもっともだ。
 結局、俺が一人でやるしかないってことか。

「君がラナを助けたくて、戦闘に効率性を求める気持ちもわかる。でも無理を打ってすべてを終わらせてしまってはいけないんだ。この“焼き立て屋”は、湿り切った人類のシリカゲルのような存在なんだ」

 わかってる。でも……くそ。

「もしも今無理をしているのなら、前線を退いてもらっても構わない」

 俺は良菜を救いたいだけだ。その願いが叶えられないなら、前線で戦う意味はない。だが、俺が退けば、(もと)木阿弥(もくあみ)。良菜救出の可能性が減ることになってしまう。

「いえ、やりますよ」
「リトワ。いったいどうして命令を聞かなかったんだ?」

 “()()()”のエントランスから食堂に通じる廊下でアマトに声を掛けられた。周りには他の戦闘員もいる。

 俺はこの日、独断で飛び出した。RPC―7を被弾したぺしょぺしょが、三人とも逃げ出したから。こっちに来ないのなら、壁役はいなくなっても問題ないはずだ。だから飛び出した。

「なにか問題でも? おかげで3人も連れ帰ることが出来たでしょう」

 パンコッペナイフで次々に切り伏せ、三人のぺしょぺしょを捕獲した。作戦通りではなかったにせよ、俺が貢献したことに間違いはない。

「がら空きだった左舷(さげん)から新しいぺしょぺしょが現れたらどうするつもりだったんだ」
「知りませんよ! そんな『かも知れない』ばかり気にしていたら、なにも出来なくなりますって! それよりも結果を見てくださいよ。俺の独断で、0が3になったんですよ? どっちが“焼き立て屋”にとってプラスですか?」

 アマトは目尻をグッと上げて睨んできた。

「君の言動は、我々のチームワークを乱す。前線から外れてもらうよ」
「はあ!? なんですかそれ! おかしいでしょう! 俺が一番コッペパンを上手く扱えるのに!」
自惚(うぬぼ)れないでくれ。コッペパンの焼き方もわからない君が、そんな言葉を口にする権利はない」

 言い争いのさなか、にわかにどよめきが起きた。声を出したのは戦闘員たちだった。
 そちらに目を向けると水溜りのようなものが床の上を移動していた。どこかから雨が染み出して床を濡らしているのかと思ったが、そうではない。水溜りが独立して移動している。床の上を滑るようにして。そしてそれが戦闘員の前で止まると、突然ゲル状の長い手のようなものが飛び出して足を掴み、彼をぺしょぺしょにしてしまった。

「な!?」

 隣に居た戦闘員が固まる。

「貸せ!」

 パンコッペナイフを奪いざまに投擲《とうてき》。水溜りに当たると、たちまち収縮。水の淵が中心に集まりだして、ゲル状に固まった。
 みんな驚きゲル状のものから距離を取る。アマトはぺしょぺしょになった戦闘員にコッペパンを食らわせて治療をしていた。

 俺はゲル状のそれに向かって、コッペガンを撃った。ヒットしたことで、さらに固形化が進む。他の面々も持っていた武器で次々にコッペパンをぶち込む。
 固形化が進むゲルは逃げるようにして出口へと向かう。俺はそれを追った。

「待て! リトワ!」

 声を背中に聞きながらゲルを追いかけ、さらにコッペパンを撃ち込む。
 徐々に人型に成っていく。水溜りのときはなにかと思ったが、触れた人間をぺしょぺしょにする特性や牛乳寒天のようなぷるぷるさを持った肌は、ぺしょぺしょに違いなかった。

 このままでは外に出てしまう。その前に片を付けなければ。

 追っていくうち、どこか見覚えのあるうしろ姿だと思ったが、今はぺしょぺしょに一発撃ち込むのが優先される。
 狙うなら外に通じるドアの前。扉を開ける都合確実に減速する。想定通りぺしょぺしょは立ち止った。俺はコッペガンを構える。ドアノブに手を掛けて振り返った彼女は、ハルジオンみたいに控えめな笑顔を零した。照準がぶれて、大きく狙いを外してしまう。

「ら、な……」

 俺の言葉を袖にするように、彼女は踵を返して雨の中に溶けて行った。
 彼女に撃ち込むコッペパンは、もうなかった。
 戦闘員たちで議論をした結果、あれは劇症化したぺしょぺしょだと言うことになった。なぜああなったかは想像の域を出なかったが、どうあれあの状態になってしまったら通常の倍以上のコッペパンが必要だと言うことだけはわかった。

「遭遇したときは最低限のコッペパンで牽制し、深追いはしないこと」
「救わないってことですか」
「コッペパンだって無限じゃあない。限られたコッペパンで出来るだけ多くの人を助けるためには、仕方のないことだよ」

 正論だが、仕方のないことで切り捨てて良い命などない。まして俺は、良菜(らな)を助けるためにずっと最前線で戦ってきたんだ。覚悟があるからと言って、ぺしょぺしょ化するリスクが低減されているわけではない。助けてもらった命を雨の中に放りだすのは、良菜を救いたい思いがあったからだ。

 アマトと二人になって廊下を歩いているとき、劇症化したぺしょぺしょのことを話した。

「あれは、良菜でした」
「君が探していたという女性かい」
「はい。今回だけでいいんです。どうか、良菜を助けさせてください」

 アマトは立ち止り、窓の向こう側を見つめた。そこにはたくさんの患者たちがくつろいでいた。

「気持ちはわかる。でも僕はここのリーダーだ。君が一番の功労者とは言え、特別扱いすることは出来ない。ましてや、大量のコッペパンを失うことが見えているのに、ゴーサインは出せないよ」

 また正論だ。つくづく人の気持ちを汲む気はないらしい。

「わかりましたよ。でも一つだけ。アマトは俺の気持ちなんてわからない。簡単にわかるだなんて言わないでもらえますか? むかつくんで」

 アマトは肩を(すく)めてため息を漏らした。それから壁にもたれかかると、天井に向かって語り掛けた。

「僕の恋人もぺしょぺしょになったんだ」

 思わず息を呑む。アマトも? 今までおくびにも出さなかったのに。

「僕は自分のリーダーの権限をフル活用して、彼女の救出に当たった。しかしどれだけのコッペパンを撃ち込んでも、彼女は乾かなかった」
「どういうことですか?」
「治療を施しても治らない人間もいると言うことだよ。ただそのときは、治ると信じてがむしゃらだった。だから、近くに他のぺしょぺしょが迫っていることにも気付けなかった。仲間は襲われてぺしょぺしょになった。だが、コッペパンは底を突いて、仲間を助けることは出来なかったんだ。結局彼女を治せないばかりか、仲間もぺしょぺしょになり、大量のコッペパンを失ってその日の作戦は終了した」

 アマトの視線がそろりとこちらに流れた。その目にはおよそ光と言えるものがなかった。

「失意のまま翌朝を迎えてそこで気付いた。僕は療養中の患者に施すためのコッペパンも作戦に投入してしまっていたんだ。彼女を救いたい気持ちが、僕から冷静さを奪って、そんな簡単なことにまで気が回らなかったんだよ。次のコッペパンが焼きあがるまでに3人もの犠牲者を出した」
「犠牲者? でもそのあとその3人は元に戻ったんですよね?」
「いや、戻らなかった。違うな。戻せるわけがなかった」

 アマトの瞳はまるで空洞だった。闇よりも黒い。

「殺したんだから。僕が、この手で——!」

 放たれた言葉は零度のまま俺の背中を抜けた。

 この施設内でぺしょぺしょになれば当然感染は拡大する。新たなぺしょぺしょが生まれる。あとは鼠算(ねずみざん)的に増え続け、“焼き立て屋”が機能しなくなってしまう。その最悪の事態を避けるためには、それしか方法がなかったのだろう。

「リトワ。君は間違えないでくれ」

 アマトの言葉が腹の奥底に重くのしかかった。


 ※  ※  ※  ※


 戦線を離脱して、施設内での時間が多くなると、必然的に患者とのコミュニケーションも増える。俺が良菜を助けるために無理をすれば、ここの人たちが迷惑を被るだろう。
 それに良菜は治らないかも知れない。アマトの恋人が治らなかったように。実際すでに劇症化しているのだから、素人目に見ても治らない公算の方が高い。

 屋内遊戯施設のベンチに座って、高い天井を仰ぐ。
 でも、このまま良菜を放っておいたら、病状がさらに悪化するかも知れない。それもまた事実だ。

「もしもあたしがわるものにねらわれたらどうする?」

 不意に女の子の声が聞こえた。それは俺じゃあなく、玉突きをしている男の子に向けられたものだった。

「おれがわるものをたおしてやるよ」
「ほんとに?」
「ほんと。いのちをかけてまもってやる」

 二人は笑顔で歩いていく。てくてくとバスケットゴールへ。
 男の子はボールをポイっと投げるが、ゴールに入らない。何度も何度も投げるが、入らない。
 ガンッ。と支柱に跳ね返ったボールが、足元までコロコロと転がって来た。
 俺はボールを取って一突き二突きして、シュートした。

 ——シュポッ。

「すげー!」

 二人は声を揃えて俺の方を見た。

「どうやってやるの?」

 俺は少年にシュートフォームなどを教えた。しかし彼の幼さでは、ボールをバスケットに届かせることも出来なかった。

「くやしいなあ」
「いつか出来るようになるさ」
「おにいちゃんはすごいね。わるいやつがきたらおにいちゃんがまもってね」
「なにー! おれがまもるっていっただろ!」
「だってシュートもはいらないじゃん。たよりないよ」
「くっそー!」

 したたかな女の子の言葉に地団駄を踏む男の子。

「おにいちゃんのこいびとさんはいいな。まもってもらえるんだろうな」

 女の子の言葉が心臓を穿つ。

 そうだ。俺のこの体は、心は、なんのためにあるんだ。バスケットにボールを届かせられないような子でも守ると言っている。守りたいと言っている。守れないことを悔しがっている。

「二人ともありがとう。これからなにかあったら、君は彼に守ってもらうんだ。絶対に。俺は、俺の恋人を守らなくちゃならないから」
 夕方には就寝し、真夜中に起きた。3時を回っている。

 部屋を出て格納庫へ。パンコッペナイフなどを持っていく。治療のための道具なので、この辺りの管理は緩い。バンドエイドを入れておく薬箱に鍵が付いていないのと同じだ。

 食堂に入り、療養中患者の朝食として用意されたコッペパンを次々に大きなビニール袋に入れた。

 俺は今、人の命を奪う行いをしている。ぺしょぺしょが発生し、施設が混乱に陥るかも知れない。そうなれば“焼き立て屋”——いや、世界の未来が終わることになるだろう。そこに言い訳をするつもりはない。俺は、助かるかどうかもわからない恋人のために、世界を陥れるつもりでいる。

「君は間違えないでくれ。か」

 アマト。俺はアンタがやったことを間違いだなんて思わない。その人を助けるためなら、世界の敵にだってなれる。それこそが愛だろう。アンタは間違いなく、恋人を愛していた。その気持ちを否定することの方が間違いだ。
 俺は大量のコッペパンを手に入れ、“焼き立て屋”をあとにした。



 黎明(れいめい)に景色の輪郭がおぼろげながら浮かび上がる。雨が降る中、良菜(らな)を探し回った。劇症化し直していないことを信じて。

 山間の空が竜胆(りんどう)色に染まる頃、ついに良菜を発見した。彼女は数人のぺしょぺしょと連れ立って歩いていた。
 良菜を狙える位置の旧ガソリンスタンドに回り込む。弾頭にコッペパンが付いたRPC―7を構えてロックオン。発射。

 ——ぺしょ。

 良菜の頭に着弾。彼女が向かってくればパンコッペナイフで応戦。逃げれば追う。とにかくこれで一対一になれる。

 取り巻きのぺしょぺしょは逃げていき、彼女はこちらに向かって走って来た。パンコッペナイフを構える。肉薄して何度も何度も打ち込むが、ぺしょ、ぺしょ、と一向に乾きそうにない。彼女はこのまま戻らないのだろうか。新しいブレードに切り替え、先端を齧《かじ》る。さらに何度も攻撃を加える。

「良菜」

 呼びかけには、わらび餅のような瞳がぷるぷると揺れるだけ。まるでおぼろ豆腐のよう。彼女との思い出が頭の中を駆け回る。
 良菜と初めて同棲した日。お祝いに湯豆腐をつついた。もう三月も下旬で暑くなるからやめようと言ったのに「じゃあ豆乳鍋にしたいの!?」と強引に湯豆腐を迫られたのだ。
 そう言えば告白をするために良菜を誘ったのもとうふ会席料理店だった。彼女の友達から良菜がとうふ好きだと言うのを聞いたものだから。緊張しすぎて味は覚えてないけれど、彼女の笑顔は今でも忘れられない。とうふが好きだと言うだけでなく、自分のためにリサーチをしてくれたのが嬉しかったと言ってくれた。

 武器に使うコッペパンは底を尽きた。

 あの笑顔を、思い出だけで終わらせたくないんだ。良菜。君の今が欲しいんだ。頼む。

「戻って来い! 良菜!」

 俺は大量のコッペパンが入った袋を広げ、良菜に被せた。
 コッペパンに包まれた良菜はじたばたと暴れていたが、やがて動きが止まり、どさりと崩れ落ちた。
 袋の中から出て来た彼女の肌に触れる。

 ——さら。

 超長綿(ちょうちょうめん)を100番手で織ったシャツのような触り心地だった。ついに戻った。
 だが彼女の意識は混濁している。他のぺしょぺしょに通りかかられたらまずい。

 死を覚悟して“焼き立て屋”に戻ることにした。俺のことを許してくれないとしても、治りそうな患者を見捨てるほどアマトは薄情者ではないはずだ。アマトの善意に賭ける。あまりに都合のいい考え方だが、彼女が治るなら、俺は悪者になる。
「この人がラナかい?」
「そうです。どうかお願いします! 俺はどんな罰でも受けますから!」

 俺が深々と頭を下げると、アマトは“焼き立て屋”のスタッフに向けて声を張った。

「この女性を治す。全員治療に最善を尽くしてほしい。彼女は劇症化ぺしょぺしょから戻った稀有な存在だ。特別な抗体を持っているかも知れない。それが見つかれば、今まで作ることのできなかった特効薬が出来る! 絶対に治すぞ!」

 スタッフは声を返して良菜の治療に取り掛かった。

 アマトが振り返り俺の肩を掴んだ。

「リトワ。どうやら君はこの施設内の患者の中でも治療が必要な患者の人数を知っていたようだね。大量のコッペパンがなくなったが、ピッタリその人数分だけは確保されていた」

 俺は頷きを返す。

「君は……ぎみば」

 アマトの上ずった声に思わず視線を上げた。

「ま、まぢがわながっだ、よう、だね、うっく……!」

 ボロボロと流れる大粒の涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていた。それからアマトは「これで僕の恋人も助けられるかも知れない」と呟いた。


※  ※  ※  ※


 俺に下った処分は「激務」だった。
 だが同時にそれは「破格」だった。

 アマトと“焼き立て屋”を裏切った。そのうえ、自分の都合で戻って来て恋人を治療してほしいと頼み込んだ。
 そんな俺にアマトは、
「彼女の意識が戻るまで、絶対に離れず看病をしろ。寝ずに、だ。相当な激務だが、やれないとは言わせないぞ」
 そう言った。

 三日ほど寝ていないが、全然苦ではない。彼女の粉雪を被ったような寝顔が美しすぎるから。

 ——ぴくっ。

 指先が動いた。

良菜(らな)?」

 俺が呼びかけると、彼女は強く瞼を閉ざすように顔を顰《しか》め、ゆっくりと目を覚ました。

理都和(りとわ)くん」

 ハープよりもやわらかな声が、やさしく鼓膜を撫ぜた。

 ああ、ああ……!

 俺が口を開けていると、良菜はハルジオンみたいに控えめな笑顔になった。
 堪らず体を抱き寄せる。

「お帰り、良菜」

 彼女の両腕が背中に回される。

「ただいま、理都和くん」

 あの日の続きが、今日から始まる。

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