……ぺしょ……ぺしょ。

 聞いてはいけない音を聞いた。確か良菜(らな)は傘を差して出掛けたはずだ。長靴にレインコートで、手抜かりなどなかったはずだ。だけど、玄関を開けたときに「ただいま」の声もなければ、傘をたたむ音もしなかった。代わりに聞こえてきたのは、あの湿りきった……ぺしょ。

 二人で暮らすこの2DKに、玄関以外に逃げ道はない。袋小路。ベランダから飛び降りても無事では済まない。よしんば無傷でも今は雨が降っている。俺もぺしょぺしょになってしまう。
 正面突破しかない。瞬間ぺしょぺしょになった良菜に触られるかも知れないけれど、ここで待つよりはいい。

 部屋の仕切りを開けると、玄関で立ち尽くしていた彼女と目が合った。フードが外れた髪の毛はずぶ濡れで、いつもはふんわりと肩に乗っかる毛先もだらんと垂れてふくよかな胸の辺りまで伸びている。ぺっとりとした髪から落ちた雫はレインコートの内側を濡らし、肌全体が潤んで見えた。粉雪のようだったはずの肌が、今は牛乳寒天のようなぷるぷるさで。

 完全にぺしょぺしょだ。良菜はぺしょぺしょになった。しかし良菜は、変わらないあの、ハルジオンみたいな控えめな笑顔で、寂しげに俺を見つめたのだ。

 胸が締め付けられる。

 彼女を置いて出て行くなんて。そう思ったとき、俺は良菜を抱きしめていた。遅れてすぐにしまったと思ったが同時に、これで良かったのかも知れないと思った。いつものあの、超長綿《ちょうちょうめん》を100番手で織ったシャツのようにさらさらとした肌ではなかったが、わらび餅のような柔らかさが俺を包んでくれたから。

「お帰り、良菜」