エイトビートの雨が降る。
 鈍色《にびいろ》の雲から漏れ出した粒が、教室の窓を——ポツン、——ポツン、——ポ、ポツンと叩いている。そう言う時分だった。彼女——空科《そらしな》雛姫《ひなき》が転校してきたのは。

 蛍光灯の光を整えて反射する黒髪は肩に付かないところできれいに切りそろえられ、前髪も眉毛までを隠したところでぱっつんと切られていた。その前髪のひさしから覗くのは細くキリッとした双眸《そうぼう》。厚薄《こうはく》と言う点では薄く、濃《のう》薄《はく》と言う点では濃い唇は、紅《べに》を差したような艶《あで》やかさを孕んでいた。それでも妖艶《ようえん》ではなく怜悧《れいり》な雰囲気だと思うのは、彼女が瞼《まぶた》を使った形跡がなかったから。

 彼女の席がたまたま僕の前になってから、トゥルンとした、光を整える髪を一日中見つめるのが仕事になった。それは、緑のはずの黒板に記されたチョークの這《は》ったあとを目に焼き付けるよりは遥かに意味のある行為に思えたし、その時間の累積によって自分の人間性というやつが向上して行くようにすら感じていたから。決して恋に溺れて勉強が手に付かなくなったわけじゃあない。実際直近のテストは全部満点だったのだし。恋だとか惚《ほ》れただとかそういう俗っぽい安直な表現は当て嵌まらない、使命や義務に近い必然性と言うものを覚えていた。

 だけれどもそれは空科さんが登校したときのみの話だ。彼女は学校を休みがちだった。登校日数は月あたり10日間くらいで、半分は休んでいる。
 病気とかそんな感じはしない。辛そうなときがないから。ただ、曇りの日はどういうわけか窓ばかり気にしていた。傘を持ってきてないのかと言うと違う。空科さんはいつも傘を持ってきていた。
 傘に目が行くようになって気付いたのは、空科さんを太陽の下で見たことないと言うことだ。天候初日も雨の日だったし。
 なら、彼女が気にしているのは雨じゃあなくて、太陽なのかも知れない。
 でもこれはあくまで憶測で、彼女が晴れの日に来ないのはただの偶然かも知れない。とても曖昧なことだ。その曖昧が僕の中で膨らんでいく。

 ある日、僕は雨が降ると知っていながら傘を忘れてみた。空科さんは登校していたし傘も持ってきていた。僕は下校時刻に下駄箱で初めて声を掛けた。

「空科さん、傘忘れちゃったんだけど、入れて貰えないかな?」

 僕にしては勇気を出した方だと思う。と言うか、今まで人との関わりを積極的に取って来なかったものだから、こんなことをお願いしたのも初めてのことだ。
 しかし彼女からの返答はとても冷たいもので。

「濡れて帰った方がいいわ」

 雨季には感じることが出来ないほどの寒気が走り抜ける。その次の瞬間には顔が熱くなった。寒さと熱さをこんなに短い時間で覚えるなんて初めてのことだった。

「そんなこと言わずにさ」

 僕が食い下がると空科さんは苛立ち交じりにため息を吐いた。

「濡れた方が死ぬよりはマシだと言っているのよ」
「空科さんと一緒に居ると、死ぬの?」

 彼女は下駄箱から出したローファーを履くとチラッと一瞥《いちべつ》をくれて、「覚悟があるならいいわ」と言った。死ぬ覚悟があるかどうかはわからなかった。けれども彼女が死ぬような目に遭ったときに、僕が傍に居られたらなにかできるかもと思った。

 僕は笑って空科さんの傘に入った。背は大体同じくらいだったからちょうど良かった。
 彼女の傘は女性用の大きさだったので僕は片側の肩を犠牲にするつもりだった。しかし彼女は僕を濡らさないつもりなのか、グッと身を寄せてきた。ドキリとする。慌てて身を引くと、睨まれた。ぱっつんの奥から覗くそれはとてもキツイ、肉食獣の如き眼光だった。

「いい加減にして。本当に死にたいの?」

 心臓を鷲掴みにされた。僕は胸をドキドキさせながら彼女に身を寄せた。べったりとした汗がシャツを越えて彼女についてしまうのが申し訳ない。空科さんは僕に傘を持たせると、その腕に両手を絡ませてきた。僕はなんとなく彼女の腰に手を回した。言い訳をさせてもらうと、僕は決して下心があってそう言うことをしたのではない。そうしないと態勢が崩れそうだったし、まるで二人三脚のように密着した状態では、そうした方が歩きやすかったのだ。まあでも彼女と一緒に帰りたいがために傘を忘れている時点で、説得力は皆無なのだけれども。

 彼女に聞きたいことは色々あったのだけれども、その態勢のせいで思考がまとまらず、なにも言えないで駅に到着してしまった。そしてぼっとしているうちに自動的に足は動き出して、いつの間にか家に帰ってきていた。

 考えてみたらこれほど心臓が早く動くなんてこと、今まであっただろうか。シャワーを浴びながらそんなことを考えていた。