池の水面を見つめていた御蔭が、おもむろに葵を振り返る。
不意打ちに、どくん、と、胸を鳴らす葵に、御蔭が濡れた前髪の向こうで澄んだ青色の右目を細めてみせた。
「葵の言うように、このまま雨が降り続けるのもいいかもしれませんね」
「え……?」
すりっと草履を鳴らして半歩近付いてきた御蔭の指が葵の額に触れる。その指先で、乱れた前髪を掻き上げられて、葵の鼓動が速くなった。
「み、かげ……」
葵が戸惑いに瞳を揺らしていると、
「葵様っ……!」
雨音の向こうで誰かが呼ぶ声がした。
はっとして振り向けば、険しい顔のマキノが太鼓橋の袂に立っている。
「葵様! こんなところでなにをなさっているのです。早くお戻りください。章太郎様がお見えになっています」
「……章太郎様が?」
(何故……。あの方が迎えにくるのは、離縁の雨があがってからのはず……)
「葵様っ……!」
マキノに強い口調で呼ばれて、葵は小さくため息を吐いた。マキノの様子からして、お引き取りいただくわけにはいかないのだろう。
葵は少し迷った後に、傘ごと後ろを振り向いた。
「御蔭もいっしょに……」
葵の家で濡れた身体を拭けばいい。そう言いかけて、葵は息を飲み込む。
つい先ほどまでそばにいたはずの御蔭が、姿を消していたのだ。
こんな雨の中、物音ひとつ立てずに消えることがあるだろうか。
「御蔭……?」
呼びかけてみるも返事はない。傘を少し持ち上げて、葵が周囲を見回していると、橋を渡ってきたマキノが葵の腕をつかんだ。
「葵様。すぐにお戻りを」
「でも、御蔭が……。マキノも見たでしょう。わたしのそばに、銀の髪の着流しの男の人がいたのを……」
葵の言葉に、マキノが濡れて崩れた前髪をかきあげながら顔をしかめる。
「まだそのようなことをおっしゃっているのですか、葵様。マキノには、葵様以外にどなたも見えません」
マキノは不機嫌そうに葵の手から傘を取り上げると、それを差して葵の手を引いた。
「さあ、早く戻りますよ。濡れた着物も着替えなくては」
マキノがぶつぶつ小言を言って、葵を民家のほうへと連れ帰る。途中、葵は何度も振り返ったが、御蔭の姿はどこにも見当たらなかった。