叔父と鵺の起こした事件から十日が経った。
 婚儀は芹香の心身の回復を優先して延期されていた。

 芹香は、葉奈と世津に甲斐甲斐しく世話をされて順調に回復していき、噛まれた首の傷も塞がって痛みももうない。
 芹香が療養している間も、紫苑は事件のことで忙しく屋敷を空けることが多かった。一日の中で顔を合わせるのは、朝食の時間だけという日が続いていた。

 そんなある日、久しぶりに夕食を共にした後「話がある」と言われ、芹香は紫苑を自室に招いた。座敷に向かい合って座る二人の間には、少しだけ重苦しい空気が漂っていた。
 毎日必ず朝食は一緒に取って顔を合わせていたが、こうして二人きりで話すのは久しぶりで、ほんの少し緊張しているせいだ。身の置き場がなく、視線を彷徨わせていると、紫苑が先に口を開いた。

「芹香の叔父たちと鵺の処遇が決まった」

 久しぶりに耳にしたその言葉に、芹香の体が強張る。それを見て「聞きたくなければ、無理には話さない」と紫苑が優しく言う。少し考えた後、芹香は「聞かせてほしい」と紫苑をまっすぐ見つめた。

 本当は、もう二度と考えたくなかった。だけど、両親の死を受け止めるためにも、きっと自分は聞かなければならない。自分で自分を奮い立たせ、膝の上で手を握りしめて紫苑の言葉に耳を傾けた。

 捕まえた鵺たちは、もう二度と人を襲わないよう血の盟約を交わさせて解放となった。血の盟約とは、お互いの血を以て交わす約束のことで、反故にすると死よりも苦しい制裁がその身に降りかかるものだという。
 亮二たちはというと、帰路の途中で妖怪に襲われて深手を負いながらもどうにか村にたどり着いたが、妖と手を組んで血縁者を殺した罪で亮二と道代は島流しとなり、娘の加代は商家の下働きに出された。
 そう紫苑から聞かされた時、芹香の心には彼らに対してなんの感情も浮かばなかった。然るべき罰を受けたなら、それ以上芹香が願うことはなにもない。

「継ぎ人の行方までは掴めなかった」

 継ぎ人、とは人と妖の間を取り持つ者のことだと教わった。国中を放ろうする商人の中にまぎれ、妖に願いを叶えてもらいたい人間と、願いを叶える代わりに対価を得たい妖の仲介をする者だという。

 五年前、亮二に鵺を紹介したのがその継ぎ人だった。さらに、霊狐の里にいる芹香に亮二からの手紙を渡した狐も、継ぎ人が関わっていた可能性が高いという。
 配下を使って継ぎ人の足取りを追っているが、まだ見つかっていないと紫苑は悔しそうに眉をしかめた。芹香は「いいの」と首を横に振る。これ以上、自分たちのような被害者が増えないことを願うばかりだ。

「いろいろと、ありがとう紫苑」

 感謝の気持ちを言葉にして伝える。芹香の思いを受け取り、紫苑は深く頷いた。

 紫苑には、感謝してもしきれない。
 紫苑は事件の後始末に奔走しながらも、芹香のことも気にかけてくれて、毎朝庭で摘んだ花を贈ってくれた。そのさりげない心遣いが、とても愛しく感じる。
 芹香はそれを栞にするために一輪ずつとって押し花にしている。

 それだけじゃない。
 霊狐として名乗る前の一年間、思えば紫苑はずっと芹香のそばにいてくれた。
 両親のことを思い出して一人悲しみに暮れているときも紫苑は静かにそばにいて、芹香が手を伸ばせばその身を摺り寄せて慰めてくれた。
 たとえそれが、受け継いだ霊力を馴染ませるためだとしても、結果として芹香の支えになったことは間違いないのだ。

「すまない芹香、辛いことを思い出させてしまったな……」

 紫苑が、申し訳なさそうに言った。それは芹香の頬を濡らす涙のせいだろう。
 芹香は、頬を伝う涙を手でごしごしと拭いながら「違うの……そうじゃないの……」と続ける。

「私……華狐として、紫苑の役にたてなくなっちゃって……ごめんなさい……」

 自分には、もう華狐としての資格がない。
 憎しみに支配されて、霊力を使い切ってしまった己の愚かさを謝った。

「だから、」
「──誰がなんと言おうが、俺の華狐は芹香しかいない」

 芹香の言葉を言わんとすることを察したように、厳しい顔つきで紫苑が言う。

「でも、私にはもう力が……」

 目の前の紫苑は、その整った顔を苦し気に歪めた。まるで傷ついたような顔をしていた。

「芹香は……ここに……俺のそばにいるのが嫌か?」

 嫌なはずがない。
 ここには、芹香が失ったものがあった。
 家族のように温かい紫苑たちと、絶えない笑顔と優しさ。同じ時を過ごす内に、いつしか彼らは芹香にとって失いたくないと思える、代えのきかない存在になっていた。

 しかし、それを素直に口にだすことはどうしても憚られた。

 浮かんでくるのは、屋敷に訪れた霊狐の一族の人たちの顔。
 みんな一心に、「霊狐を支えてくれ」と華狐の芹香(・・・・・)に願っていた。霊力を失った今、自分には紫苑を支えることはきっとできないだろう。それをわかった上で己の望みを口にするのは、裏切りではないだろうか。

 逡巡して言葉が出ないでいると、紫苑の手が伸びてきて芹香の手を包む。するりと触れる肌は滑らかで温かくて、思わず握り返したくなる。
 涙の溜まった目で見上げると、琥珀色の瞳と視線が合わさった。ふるふると揺れる視界の中でも、その瞳に悲痛な色が見て取れて苦しさが増す。
 紫苑を傷つけてしまった。

「俺の華狐は、もう芹香にしか務まらない」
「それは、どういうこと」
「霊力の高さは、二の次でしかない。一番大切なのは、霊狐と華狐が互いに心を交わすこと」
「心を、交わす……」
「想い想われ、互いに心を明け渡して初めて番が成立する。だから、いくら霊力が高い女子(おなご)がほかにいても、俺の華狐にはなれない」

 そこで、紫苑は自分を落ち着かせるように息を吐く。そして、まっすぐな瞳が芹香を射貫いた。

「なぜなら、俺の心は、もうずっと前から芹香のものだから」
「──っ」

 告げられた愛の告白に、芹香は息を呑んだ。
 洞窟で、紫苑が亮二に「お前の娘は華狐にはなれない」と言っていた理由はこれだったのだ。紫苑の想いに、芹香の胸には歓喜が込み上げてくる。

 芹香は、紫苑が霊狐だと知り、華狐としてそばにいて欲しいと乞われてから、ずっと考えていた。

 自分にとって、紫苑はどのような存在なのかと。

 鳥居をくぐって、初めて会った紫苑は小さくて可愛い子狐で、飼い猫みたいなそんな存在だった。
 あの頃の紫苑は、霊力が不安定で人の姿にはなりたくてもなれなかったんだと、後で伝えられた。葉奈と世津には、頭の中に直接話しかける念思という方法で会話ができていたみたいだけど、芹香はそれを聞くことができなかった。

 どんどん大きくなってからは、なんというか、守られてるような安心感があった。

 紫苑がいるから、安心できて温かかった。
 もちろん、葉奈と世津の存在も大きかった。
 それでも、紫苑のおかげで芹香は寂しい夜も一人にはならずに済んだ。

 離縁を申し出た日、紫苑が霊狐だと知らされた時は、驚いたし正直腹立たしさもあった。
 華狐として(・・・・・)そばにいてほしいと言われたときは、胸がずきりと痛んだ。

 けれども……、そんなことはどうでもよくなるくらい、紫苑と過ごす時間は芹香にとって大切で……芹香の心は、紫苑がそばにいるだけで満ち足りていた。

 たとえ、紫苑が望むのが自分ではなく華狐であっても、そばにいられるのなら構わないと思っていた。なのに、叔父に騙され鵺に力を吸われ、それすらも失ってしまったとき、芹香を襲ったのは、死を望んでしまうほどの絶望。

 紫苑のそばに、温かいみんなの元に帰れないのなら、いっそのこと死んでしまいたい。

 鵺に殺してと願ったのは、本心だった。

 だけど、

『ほかの華狐など要らない! 俺は、芹香を迎えにきた』

 紫苑の優しさは、いとも簡単に絶望を喜びに塗り替えてしまう。
 あのとき芹香は、自分にとって紫苑がどれほど大きな存在になっていたかを思い知ったのだ。

 あの絶望を知り、紫苑に心を明け渡された今、手にした存在を失うことなど芹香は考えられなかった。

 自分も、思いを伝えなければと思うのに、上手く言葉が出ない芹香に紫苑は優しいまなざしを向ける。

「俺の知る芹香は、いつもひたむきで、葉奈や世津たちにも優しく、感謝の気持ちを忘れない誠実で綺麗な心を持っていて……そんな芹香のそばは、霊狐の俺にいつも心の安らぎを与えてくれた」

 瞬きと共に、溜まっていた涙が落ちていく。濡れた頬を、紫苑の指がそっと拭う。細められた瞳から悲し気な色は消え、とても穏やかな表情をしていた。

「芹香が華狐だからじゃない。芹香だからそばにいたいし、そばにいてほしい」

 まっすぐな紫苑の思いは、ずたずたに傷つき疲れ果てた芹香の心を真綿のように優しく包み込んでいく。

「芹香じゃないと、だめなんだ。……──だから、俺のそばにいてくれるか?」

 穏やかに、けれども熱を孕んだ懇願に芹香は頷き、言葉を紡ぐ。

「私も、紫苑じゃなきゃ、だめ。紫苑と家族になりたい」
「芹香」

 重ねられていた紫苑の手を握り返した。途端に、もう片方の手が重なり、挟まれるようにぎゅっと閉じ込められる。
 恥ずかしさに耐えながら見上げた先には、優しさを宿した紫苑の顔があった。琥珀色の瞳に愛おし気にみつめられる。芹香のことが大切で仕方がないと訴えているのがその表情から見て取れて、胸が高鳴る。

 紫苑が自分に言葉を尽くして思いを伝えてくれたように、自分の思いを言葉でちゃんと伝えたかった。

「紫苑のことがすき。私の心も、とっくに紫苑のものだよ」

 大切なものを失う恐怖を芹香は知っていた。
 手に入れてしまえば、失う恐怖と隣り合わせになるとわかっていた。
 わかった上で、手に入れたいと思えるものが、今、この手の中にある。壊したくないから触れないのではなく、触れたいほど大切だから手を伸ばすのだ。その勇気を、芹香は紫苑からもらった。

「私を、選んでくれてありがとう、紫苑」

 笑顔でなんとか言い切ったけど、細まった目尻からは堪えきれずに涙が零れ落ちた。
 つぎの瞬間には、手を引かれて紫苑に抱きしめられ、甘く名前を呼ばれる。

「し、紫苑、苦しいよ」

 恥ずかしさを紛らすように苦笑しながら抗議する芹香の耳元で、紫苑が愛を囁いた。

 ──愛している、と。

 固まる芹香に、紫苑は何度も言葉を重ねる。

「愛しい俺のつま。もう二度と、離縁するなど言わないでくれ」

 抱きしめていた腕を緩めて、紫苑が芹香を下から覗き込む。紫苑の膝の上に半ば膝立ちの恰好になり、芹香が紫苑を見下ろす体勢になった。冗談半分、本気半分のその声音に、芹香は目を丸くして堪らず噴き出してしまう。

「笑いごとじゃない。約束してくれ、もう俺のそばから決して離れないと」

 真剣なまなざしに、胸が打たれる。

「約束するわ。この先、なにがあっても紫苑のそばから離れない。──紫苑のほうこそ覚悟して? 離縁してくれって頼まれても泣きつかれても、絶対離縁してやらないんだから」

 ふふんと茶目っ気に言うと、頬を両手で包みこまれた。まっすぐに見つめられて、芹香も見つめ返す。

「大丈夫だ。そんな日は、永遠に訪れない」

 琥珀色の瞳に見惚れているうちに芹香の視界は紫苑で一杯になり、どちらからともなく瞼を閉じると唇が重ねられた。
 甘く優しい口づけに、とてつもない幸福感が込み上げ、閉じたままの芹香の眦からは幸せの涙が溢れた。





ー終ー