芹香が首を縦に振ったその日には、正式な婚儀の日取りが決められて世津も葉奈もなんだか忙しそうな日が続いた。
 そして、屋敷には霊狐の一族だという里の者たちが入れ替わり立ち代わりお祝いにやってきては、芹香と紫苑に捧げ物を置いていった。この一年、世津と葉奈と紫苑以外の狐を見たことなど一度たりともなかったというのに。
 驚きを隠せない芹香に、紫苑は「屋敷には近づくなと命じていたんだ」と気まずそうな顔をした。
 どこまでも用意周到なそれには、温厚な芹香もさすがに呆れてしまった。

 突然華狐として見知らぬところに連れてこられる人間を慮っての行動とわかった今でも、もうちょっと違うやり方があったのではと思わずにはいられない。後の祭りだが。

「世津、もう門を閉めてくれ」

 昼を少し過ぎたころ、紫苑が世津にそう命じた。

「え? でもまだ空は明るいですよ」と世津は首をかしげる。
「こうひっきりなしに来客があると少しも気が休まらない。芹香も疲れてしまうだろ」
「私なら大丈夫よ、紫苑。みんなとお話するのはとっても楽しいもの」

 芹香は目を細めて微笑んだ。挨拶に訪れる狐たちはみんな気さくで、突然あらわれた新参者の芹香にもとても優しくしてくれる。それに中には芹香の知らない紫苑のことも話してくれる狐もいて、楽しいのは本当だった。

「違うのですよ芹香さま。霊狐さまは、芹香さまとゆっくり過ごされたいのです」
「え? そう、なの?」

 確認の意を込めて紫苑を見遣ると、しぶしぶといった態度で「そうだ」と肯定の言葉が返ってきた。世津も葉奈も、そんな紫苑の姿に笑いが止まらないらしく肩を震わせていた。なんだか言わせてしまった感が否めなかったが、芹香は紫苑のその心遣いが嬉しくて「じゃぁ、午後は紫苑の毛づくろいしてあげるわ」と笑った。

 一時は紫苑を霊狐さまと呼び敬語を使った芹香だったが、紫苑からこれまで通りに話してほしいと頼まれて狐の紫苑の時と同じ言葉遣いで接している。正直、まだ人の姿の紫苑には慣れなくて、不意に触れられたりするとドキッとする。
 でも、怖いとか嫌いとか嫌悪感を抱くことはない。これまで、同年代の男性と接する機会がからっきしなかったのもあり、どう接していいのか戸惑いの方が大きい。

 そんな時は、紫苑に狐になってもらうのが一番簡単で気楽だった。

 芹香は、縁側に寝そべる紫苑の背中をイノシシの毛で作った紫苑専用のブラシで梳かしていく。他の狐たちと会って気付いたことは、紫苑の毛並みは特別だということだった。
 狐にしては細く長めの毛だと思っていたが、比べてみれば歴然の差だった。
 他の狐たちは割と太めの毛で短めで体の線がはっきりしているが、紫苑のそれはどちらかというとふわふわしているせいで輪郭は曖昧だ。それがまた高貴な雰囲気を醸し出して紫苑を美しく魅せている。

 優しく、絡まないように、芹香が丁寧にブラシを頭から首を通り背中まで撫でつけるように何度も梳いていると、紫苑は気持ちよさそうに目を閉じて床に顎をぴたりとつけて寝てしまった。

「あらあら、お疲れだったのは霊狐さまの方だったみたいですね」

 様子を見に来た葉奈と一緒にくすりと笑う。

「霊狐さまったら、芹香さまが居ないとよく眠れないと愚痴っていたんですよ」
「そ、それは……」

 思いもよらぬ所を突かれて、芹香はたじろぐ。それを言われれば、芹香だってそうだった。今まであったぬくもりが突然なくなったのだから、当然寂しさはある。だけど、それとこれとはまったくの別問題。
 紫苑が青年だと知ってしまった今、いくら狐の姿で寝ると言われても今度は芹香が眠れなくなってしまうのは目に見えている。

「まぁ、それももう少しの辛抱ですよって言っているんですけどね……」
「もう少しの辛抱……?」

 意味が分からずに聞き返すと、葉奈は「まぁまぁ」と口に手をやった。葉奈はとても育ちがよさそうだと芹香は前から思っていた。それとなく聞いてもいつもはぐらかされてしまう所も、淑女にしか見えない。

「婚儀を終えれば正式な番になるのですから、寝所を共にするのは当然では?」
「し、寝所!」

 石のように固まる芹香を尻目に、葉奈は気持ちよさそうに眠る紫苑を見て「それにしてもよく眠っていらっしゃるわ」としみじみとつぶやいた。

「よほど芹香さまのおそばが心地いいんでしょうね」
「そうなのかなぁ……」

 紫苑は、華狐なら誰でもいいんじゃないのだろうか……。
 自分以外の誰かが華狐に選ばれたとしても、紫苑はきっとその人のそばを心地よく感じるような気がして気分が暗くなった。そんなこと、たらればの話しでしかないのに。

「そうですよ。でなければ、芹香さまはきっと今頃村にお帰りになっていたことでしょう」

 実のところ、そうならずに済んでよかったと一番安堵しているのは他ならぬ自分ではないだろうか、と芹香は思う。
 あのまま紫苑が姿を見せなければ、きっと自分は用済みだと九宝嶽を下りて村に帰っていただろう。
 だけどどうだろうか。
 あの村に、自分の居場所などない。両親が生きていた頃は幸せで、芹香の周りはとても明るかったが、両親の死を境に全てが一転してしまい、いい思い出など一つもなかった。叔父夫婦が本家の当主に成り代わり、村の人たちも叔父夫婦の顔色を伺って芹香には冷たい視線と態度をとるようになってしまったから。

 あの村での辛い出来事を思い出し、もしまた帰ることになっていたら自分はどうなっていたのかと考えただけで身体が震えた。
 すると、いつの間にか目を覚ました紫苑が正座する芹香の肩に顎を乗せてきた。ふわふわな毛が、首や頬をくすぐる。その紫苑の狐姿の向こうで葉奈が一礼してどこかに去っていくのを視界に捉えつつ、そのこそばゆさに抗えずに首をすくめた。

「なにか、辛いことでもあったのか」
「し、おん?」
「芹香の霊力が不安定だ」

 そんなことまでわかるのか、と芹香は内心で驚くも、肩に乗った紫苑の首にそっと腕をまわした。

「ちょっと、昔のことを思い出してしまっただけ」

 モフモフを堪能していると、逆立った心があっという間に凪いで行く。

「抱きしめても、いいだろうか」
「え? ……えぇえっ⁉」

 一瞬にして触れていたモフモフは、上質な絹の羽織へと代わり、自分が腕に紫苑を抱いていたはずなのにいつの間にか紫苑の腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
 いいなんて一言も言っていないのに。
 突然の出来事に、芹香の胸が騒ぎ始める。
 今自分を抱きしめているのは、紫苑だけど芹香の知る狐の紫苑じゃない。
 そのことが、芹香を落ち着かない気持ちにさせるのだ。

「し、紫苑……」

 顔に熱が集まり、たまらず両手で紫苑の胸を押し返したが、びくともしなかった。それどころか、背中にまわった腕に力が増してしまう。

「心の色は霊力に現れるから、芹香の心が時折苦しんでることは気付いていた」
「……そうなの……。紫苑には隠し事ができないわね」
「気付いても、そばにいることしか出来ないのがやるせなかったが、これからは遠慮なく抱きしめられる」

 確かに、ここに来てからも、両親の死や村での辛い出来事を思い出して、悲しみに暮れていたことは何度かあった。思い返せば、そんな時には決まって紫苑がそばにいてくれた。
 紫苑がそれに気付いて寄り添ってくれていたと知って、胸に温かなものが広がっていく。

「気持ちは嬉しいけど……まだ人の姿の紫苑に慣れてないのよ私」

 だからお手柔らかにお願いね、と言えば「いやだ」と駄々っ子のような言葉が返ってきた。

「妻を慰めるのは夫の努めだ。悲しいときや辛いときは、どうか俺を頼ってほしい」

 夫の優しさを、どうして拒めようか。
 例えそれが、義務感からくる優しさだとしても構わない。
 芹香は紫苑の腕の中で、こくりと頷いた。