三大霊峰の一つ、九宝嶽(くほうだけ)の麓にある一宝村(いっぽうむら)に激震が走った。
 季節外れの曼珠沙華が一夜にして村のいたるところに咲き乱れたのだ。
 それを最初に発見した村の男は目を見開き慄いた。

「こ、これはまさか……お、御身替(おみか)わり……⁉」

 ここ、一宝村には古くからの習わしがある。

 ──妖狐の御身替(おみか)わりには、花紋を持った娘を献上しなければならない。

 数百年に一度、九宝嶽の頂きに住まう妖狐の代替わりが行われる。そしてその際、麓にある一宝村から花紋を持った娘・華狐(はなぎつね)を献上するのが習わしだった。

 献上しなければ、怒り狂った妖狐に村は潰されるとも伝えられている。これは、裏を返せば、生贄を捧げれば村には安寧が訪れるという、謂わば村と妖狐との契約でもあった。

 人と人ならざるものが共存する時代。人々は村に結界を張り、妖の侵入を防いで安寧の地を守っていたが、それも完全ではない。
 村の安寧のためには、多少の犠牲を厭わない風潮が当たり前だった。

 その御身替わりと華狐の選定を知らせるのが、曼珠沙華だ。
 一夜にして異様なまでに咲き乱れる曼珠沙華により、その事実が村中を巡る。

 そしてこの日、一日がかりで行われた検分によって、一人の少女のうなじにその花紋が見つかった。
 華狐となった少女の名は、如月芹香(きさらぎせりか)

 幸か不幸か、家族のない十七になったばかりの少女だった。
 習わしでは華狐となった者には三日三晩家族と過ごす時間が与えられる。しかし、家族の居ない芹香にそんな時間は必要ないだろう、と一晩しか時間をもらえなかった。
 翌日には村を出立し、逃げないようにと男衆たちに囲まれて山の中腹にある祠へと連れてこられてしまう。

「一年妖狐が姿を見せなければ、お前は村に戻ってこれるんだとよ」
「まぁ、戻ってきた華狐なんざ聞いたことねえけどなぁ」

 ガハハハッと笑いが起こる中、芹香だけは前を見て一言も喋らず歩を進めた。

 ──もし、一年が経っても華狐の前に妖狐が現れなければ、村に帰ってきてもよい。

 それは、村を発つ際に村長から伝えられていたことでもあった。だけど、生贄として行った先で、当の本人が現れないなどあるのだろうか。芹香は不思議に思ったが、聞いたところで村長も知らないだろうと聞き返すことはしなかった。

 そして山を登ること数刻。祠に着くと、芹香は男衆に「お世話になりました」と頭を下げ、踵を返して祠に向かう。祠の少し前にある朱塗りの剥げた鳥居をくぐったその瞬間、芹香の姿は消えた。

「っ⁉」
「なっ……」

 跡形もなく消えた光景を目の当たりにした男衆たちは、恐怖に満ちた顔を見合わせた後、一目散に下山していった。あまりの出来事に、一言も発することはできなかった。

 消えた芹香はといえば、鳥居を一歩過ぎた瞬間ガラリと変わった景色に瞠目していた。
 九宝嶽は、山の中腹から頂上にかけて岩肌がむき出しになっている。まるで人の侵入を拒むように絶壁が聳え、未だかつて頂きにたどり着いた者はいないほどだ。

 それが、一体どういうことか。
 目の前に広がるのは、緑に溢れた自然豊かな森の中ではないか。
 思わず振り返ったが、さっきまでの殺伐とした岩肌の山道は見当たらない。どこを見渡しても、草木に満ちた森だった。

 ここが、妖狐の世界なのだろうか?

 村の言い伝えは、子どもの頃から耳にタコができるくらい聞かせられるものだったが、妖狐など見たこともなかった芹香には御伽噺でしかなかった。だから、本当に村に曼珠沙華が咲き乱れるとも、まさかまさか自分が華狐に選ばれるとも夢にも思わなかった。
 だけどそれらは全て現実に起こったことで、自分のうなじには今もくっきりと曼珠沙華が咲いているのを感じる。ここに近づくにつれて、うなじがほんのりと温かくなるのを芹香は気付いていた。
 村の習わしであるのだから従うしかないのだ。
 生まれも育ちも一宝村の芹香にとって、それに抗うことなどできやしない。
 そこに追い打ちをかけるように、自分には家族と呼べる家族もすでにいなかった。
 一緒に暮らしていた叔父夫婦は、芹香のことなど召使程度にしか思っておらず手ひどい扱いを受けてきた。
 五年前、元々名家の当主だった芹香の両親が亡くなった途端屋敷に上がり込み、芹香を離れにある納屋に追いやった。
 口を開けば、親を亡くした芹香に情けをかけてやっているのだ、と恩着せがましいことしか言わない。
 昨日、芹香が華狐に選ばれたと知った時ですら、自分達の娘の加代(かよ)が選ばれなくてよかった、と心の底から安堵するばかりか、村から支払われる見舞金の額がいくらなのかと気を揉んでいたくらいだ。
 金と欲と見栄にまみれたあの者たちを、芹香は一度たりとも家族だと思ったことはなかった。

 村に未練のない自分が選ばれたのは、本当によかった。
 自分と同じ年ごろの志乃は、つい先日幼なじみと婚約をしたところだったし、舞子は名家の次男とお見合いするのだと喜んでいた。
 だから、自分でよかった。
 それは意地でも強がりでもなく、心の底からの思いだった。五年前、愛する両親と共に、生きる意味も失ったから。

 ──カサッ

 草の擦れる音に思考が戻される。立ち尽くしていた芹香の前方に、子狐が佇んでこちらを見ていた。限りなく白に近い淡い黄色に、琥珀のような透き通った瞳のそれは、とても神秘的な気配をまとっていて、ただの狐ではないことが芹香にもわかった。

「あっ……」

 あまりにも美しいその姿に魅入っていると、子狐が唐突に駆け出した。
 行ってしまう。とても自分の足では追い付かない。
 そうがっかりした矢先、狐は立ち止まり振り返った。
 ついてこい、と言っているように見えて、芹香は一歩二歩と踏み出す。それを見て狐はまたすたすたと小走りに進んだ。
 進んでは振り返り、芹香が追いつくのを待ってまた進むのを繰り返しているうちにいつの間にか森を抜けていた。青空が視界一杯に広がり、その開けた平地には大きな屋敷が鎮座していた。
 子狐は屋敷を囲む塀をたどり、開け放たれていた門扉から中へと入っていく。
 恐る恐るそこを覗いた芹香は、びくっと肩を弾ませて壁に隠れた。

 ──誰か、いる……!

 着物を着た人が二人、そこに並んで立っていたのが一瞬だったけれど見えて驚いて隠れてしまった。屋敷なのだから、そこに人が住んでいるのは想像がつくはずなのに。子狐を追うことに気を取られていてそれどころではなかった。

「──お待ちしておりました!」
「ひっ」

 威勢のよいその声と、門扉からひょっこりと顔を覗かせた人物に、芹香は悲鳴を上げ身体を強張らせた。
 振り向くと、あどけなさの残る少年と、四十路を過ぎたくらいの落ち着いた女性がこちらを見ていた。その顔は、とても穏やかで優しさに溢れているのがぱっと見でもわかるほどで、張りつめた緊張が和らいでいくが、芹香は彼らの頭を見て目を丸くした。不思議なことに、頭の上には三角の獣の耳がぴんと立ち上がっているではないか。

「ようこそ、霊狐さまのお屋敷にいらっしゃいました! お嫁さま!」
「お、お嫁、さま……?」

 放たれた言葉に、芹香は小首を傾げたのだった。