──これは単なる契約結婚のはずだった。
お互いの利害が一致したために手を組んだだけで、愛だの恋だのは一切絡まない、白い結婚。

しかし今、形だけの夫が蠱惑的に微笑み、そっと頬に触れてくる。

「君は私の妻だろう?」

頬に添えられた手が、視線を逸らすことを許さない。
彼の麗しい顔がゆっくりと近づき──……




李瀬(りせ)はそれ以上読んでいられなくなって、読みかけの本をぱたんと閉じた。

「……っ、八重(やえ)。これが本当に巷で流行っている恋愛小説なの?」

本を調達してきた侍女の八重は、掃除の手を止め、目をぱちくりとさせた。

「ええ、大人気だそうですよ。書店に大きく『売れ筋!』と掲げてありましたし、間違いないかと」
「……そう」

世間一般的に見れば、程よく現実離れしていて、だからこそ空想に浸ることができる魅力的な物語なのだろう。しかし、契約結婚の相手に熱烈に求められるという物語は、李瀬にとってはどうにももぞ痒く思える。

(……きっと、私自身の状況と半端に似ているからね)

李瀬と一応夫である人物は、当人たちの意思が介在しないまま、家長同士の取引によって婚姻が成立した。ある種、契約結婚と言えるかもしれない。

しかし、この小説と李瀬の境遇が重なることはないだろう。
なにせ、夫とは結婚以来──どころか、これまでただの一度も会ったことすらないのだから。

なお、結婚は昨日今日の話ではない。もう五年も前のことである。

(今日はどこで何をされているのかしらね)

ぼんやりと考えていた時、少々うるさい足音が聞こえてきて、李瀬の意識は現実に引き戻された。

足音がふすまの前で止まったかと思うと、カシャンと音が響く。
いつものことなので、なんの音かは嫌でもわかる。食器を乗せたお盆が、廊下へと乱雑に置かれた音だ。

朝餉(あさげ)です」

投げやりにそれだけ言うと、足音の主はさっさと廊下を引き返していった。
軽くため息をついて、八重がふすまを開ける。

「今日は何が来たのかしら」

李瀬も行って見てみると、平皿の上に煮干しが三匹と、欠けた湯呑みに水と見紛うような薄さの茶が少し入っていた。

「まあ、最低記録の更新ね。どこまで粗末になるか見ものだわ」

しみじみと呟く李瀬に対し、八重はご立腹だ。

「李瀬様! 呑気なことをおっしゃっていないで、今度という今度は旦那様に訴えましょう!」
「でも、旦那様はこの屋敷に滅多に戻らないでしょう? それに、食事なら八重が作ってくれているし、これ以上あの方に面倒をかけたくないの」
「面倒だなんて……」
「本当にいいのよ、八重。私が暮らすのに必要なお金は薬を売って賄えているから、贅沢さえしなければ困らない。莫大な結納金を払って娶った私を使う(・・)でもなく、こうして離れに置いてそっとしてくださっているのだもの。これ以上を私は望みません」

李瀬がきっぱり言うと、八重は眉尻を少し下げて「わかりました」と頷いた。

「でも……そうね。次に旦那様が屋敷に戻ることがあれば、一人で頑張ってくれている八重に報いてくださるようお願いするわ」
「私のことなどよいのです!」

ぷんすかする八重に笑いながら、李瀬は離れの庭へと出た。

そこには、李瀬が耕すところから手がけた畑がある。季節の野菜もあるが、面積の最も多くを占めているのは多種多様な薬草だ。
李瀬は小さくも充実した畑を眺め、花を摘んだり脇芽をかいたり雑草を抜いたりと、日課の世話を始めた。

「元は硬い土だったのに、本当によく育つものですね。李瀬様の育て方がよいのでしょうね」
「ふふ、ありがとう」

植物をうまく育てられるのは、李瀬の数少ない取り柄である。
離れの庭ではどうしても生育環境が整えられないものもあるが、この特技のおかげで、よく使う薬草類のうちそれなりの種類を自分で用意できている。

傷薬や風邪薬など、常用薬用にいくつか採取も済ませてから李瀬は離れの部屋に戻った。
畑いじり用の服から普段着に着替えて、八重が淹れてくれたお茶で一息ついていると、静かな足音が耳に届く。

(……誰かしら?)

この屋敷の使用人は、離れに立ち入るのは不本意だと主張するように、足音を高らかに響かせるのが常だ。
八重も気づいたのか、動きを止めて廊下の方をじっと見つめる。
足音はやがて、部屋の前でぴたりと止まった。

「失礼いたします、奥様。(かじ)でございます」

落ち着いた声音は、夫の侍従のものだ。李瀬は夫とは会ったことがないが、この侍従は夫との窓口として、何度か会ったことがある。と言っても、ちょっとした伝言を聞かされる程度のものだが。

八重に頷いてみせ、梶を中へと通す。彼は白い封筒を手にしていた。

「花崎家より使いが参りました。重要な知らせとのことです」

(花崎から? まさかとは思うけれど、金の無心なんかじゃないでしょうね)

花崎家は、李瀬の生家である。ろくなことが書いていなさそうだと思いつつ封筒を受け取り、李瀬は素早く検分した。

先に開けて中身を見たような形跡はない。しかし、読む際の李瀬の反応を見て、場合によっては探りを入れたいのだろう。わざわざ夫の侍従である梶がこうして持参し、すぐに退出することなく待っている。

封を切って便箋を開き、李瀬は目を瞬いた。綴られていたのが父ではなく、兄の手跡(しゅせき)だったからだ。


──先日父上が亡くなり、既に荼毘(だび)に付した。


簡単な挨拶のあとにずばりと書かれた知らせを見て、李瀬は再び目を瞬いた。

「……そう」

細く長く、ため息のような吐息が自ずと漏れ出た。
少しの間瞑目し、ゆっくりと目を開いて、梶を見据える。

「花崎家当主であった父が亡くなったわ」
「……!」

梶が目をみはるが、李瀬にとっての本題はここからだ。

「次に旦那様がお戻りになる時、お話しする時間をどうにか作っていただきたいと伝えてもらえるかしら」
「……どのようなご用向きでしょうか」
「それを今あなたに言うのは筋が違うわ」

十六歳になったその日に嫁ぎ、お互い顔も見ぬまま早五年が過ぎ去った。
夫婦とは到底言えないような夫婦だったが、今回ばかりは人を介することなく、直接当人同士で話すべきだろう。

「でも……旦那様がいらっしゃらねば話にならないもの。あなたにはなんとしても、旦那様を連れてきてもらいたいわ。そうね……」

李瀬は、小首をかしげて少し考える。

「最初で最後の夫婦の話、と言えば意図は伝わるかしら」

三年前、齢二十二にして祓魔師(ふつまし)界の頂点に立ち、今となっては雲の上の人と言っても過言ではないほどの圧倒的な存在となっている、まだ見ぬ旦那様。

それほどの人物に重用され、侍従を務めているからには優秀な人物なのだろう。梶は李瀬の用件を正確に察したようで、「それは……」と少し掠れた声で呟いた。


……そう。李瀬は離縁を切り出すつもりであった。