「じゃあ、お母さんとお姉さんと仲直りできたんだ?」
「うん、音無くんのおかげでちゃんとじぶんの気持ち話せたよ」
 朝。
 教室で私は、音無くんと恒例の朝勉をしていた。
「いや、べつに俺は関係ないでしょ。清水が勇気出したからできたことだよ」
「ううん、そんなことない。音無くんがいなかったらきっと、私は話そうとすら思わなかったもん」
 ひとりで考え込んで、勝手な解釈で結論付けて、お姉ちゃんとだけでなく、お母さんともずっとすれ違ったままだっただろう。
 お母さんが私のことをどう思ってるのかも、きっと知らないままだった。
「……私ね、これまでちょっと、お母さんの喋り方苦手だったんだ。感情がこもってなくて威圧的っていうか……ちょっと責められてるような気がして。でも、今はそんなに気にならなくなった」
 きっと、お母さんの本音を垣間見たからだ。
 正直な胸の内を話すと、私のほうへ身体を向けていた音無くんが嬉しそうに口角を上げた。
「そっか」
「本当にありがとう」
「どういたしまして。てかそれよりこれ、本当にもらっていいの?」
  私があげたクラゲのチャームを顔の前に翳して、ご機嫌な様子で訊く。
「うん。昨日、お姉ちゃんと水族館行ったから、そのお土産。えのすいって初めて行ったけど、すごく楽しいね!」
 興奮気味に伝えると、音無くんはすうっと目を細めた。
「水族館かぁ。俺は小学校の遠足以来行ってないなぁ」
「えっ、ほんと? じゃあ行こうよ! 今度ふたりでとか……」
 流れるように、自然と口から飛び出していた。
 音無くんが「えっ」と驚いた顔をする。
 その顔を見て、我に返った。一気に顔が熱くなる。
「あっ……いや、ごめん。ふたりでとか付き合ってもないのにおかしいよね! ごめんごめん、今のは忘れて!」
 なんとか笑って誤魔化そうと試みるが、音無くんは本気に捉えたようで、ぽりぽりと恥ずかしそうに頬をかいていた。
「いや……まぁ、たしかにふたりでってのは、ちょっと緊張するよな」
 それは、遠回しな拒絶だった。
 沸騰寸前だった心臓が、一転、氷水の中に突き落とされたような気分になる。
「……だ、だよね……はは」
 いたたまれなくなって、私は勢いよく立ち上がった。
「私、ちょっと飲み物買いに行ってくる! 今日はもう解散にしよっ」
 私は早口でそう言うと、逃げるように教室を出た。
「えっ、ちょっと清水!?」
 背中に音無くんの声がしたけれど、私は立ち止まることなく、教室を飛び出した。
 その勢いのまま、階段を駆け下りる。静かな廊下にどこまでも響くひとつの足音が、虚しさを増幅させる。
 階段の踊り場のところまで来ると、私の足は途端に勢いを失った。
 階段の手すりに掴まったまま、項垂れるようによろよろとしゃがみ込んだ。
 切れる息を整えながら、ぎゅっと目を瞑る。
 ――どうしよう、言っちゃった。
 最後に見た音無くんの困った顔が、頭から離れない。
 きっと、ドン引きされた。一度告白を断っておきながら、水族館に誘うなんて無神経過ぎる。きっとそう思われたに違いない。
 朝勉は音無くんにとっても利益があるからいいけれど、休日に会うのは違う。
 好き合ってるひと同士がすることだ。
 私たちは、付き合ってるわけでもないのに。
「……はぁ。最悪」
 ……カフェオレでも飲んで気持ちを落ち着けよう、と立ち上がり、階段をとぼとぼ降りる。
 みんなが来た頃教室に戻って、なにごともなかったようにしていれば、きっと音無くんもそれ以上追求はして来ないだろう。
 私は、自動販売機がある渡り廊下へ向かった。
 自動販売機の前に立って、上から二段目にあるカフェオレのボタンを押した。
 ガコン、と音がして、私は取り出し口に落ちてきたカフェオレを手に取る。
 その場でストローを刺して一口飲むと、甘い液体が喉に絡みついた。
 久々に飲んだカフェオレの甘さに、一瞬ひるんで眉を寄せる。
 ……やっぱり、コーヒーにすればよかったかもしれない、なんて思いながらもちびちびカフェオレを飲んでいると、
「おっ、カフェオレか。いいなー、俺もそれにしよっかな」
 突然声がして、私はギクッと肩を揺らした。
 渡り廊下の先を見ると、開け放たれた扉の前に立つ音無くんがいた。
「……音無くん、なんで」
「なんでって、そりゃ追いかけるだろ。いきなり逃げるんだもん、清水」
「ご、ごめん……つい」
 小さく肩を竦めると、音無くんはしょうがないなというように笑った。
「あのさ、誤解してそうだから言うけど、緊張するって言ったのは、いやって意味じゃないからな?」
「え……そうなの?」
 ――じゃあ、どうして……?
 聞きたいけれど、聞くのが怖い。視線で問いかけるが、音無くんはこちらを見ない。
 音無くんはポケットから折りたたみ財布を取り出し、自動販売機にお金を投入しながら、ちらりとこちらを見た。
「ただ、恥ずかしかっただけ。好きなひととふたりきりって、緊張するじゃん」
「……好きな、ひと……?」
 見ると、音無くんは、見たことがないくらいに真っ赤な顔をしていた。耳まで赤くなっている。
 昨年、告白してくれたときよりずっと緊張しているように見える。
 ――どうしてだろう。
「……ねぇ、音無くん。ひとつ聞いてもいいかな」
「なに?」
「音無くんは、私のどこを好きになってくれたの?」
「えっ!?」
 突然の問いに、音無くんはさらに顔を赤くして驚いた。
「……いや、それは……」
 まじまじと見つめると、音無くんは観念したようにため息をついた。
「努力家なところとか、変に自信がないとことか。ひとのこと考え過ぎてから回っちゃう不器用さとか、知れば知るほど、好きになってったっていうか……」
「……っ……」
 目が合うと、音無くんは柔らかな笑みを浮かべる。思わず泣きそうになった。
 今、音無くんが好きだと言ってくれたのは、これまでずっと私が好きになれなかった私の一部だった。
 変えたいと思っていた、私の一部。
 音無くんはどうしてこんなに、ほしい言葉をくれるんだろう……。
 お姉ちゃんのように特別でありたかった。
 でも、私は凡人。
 天才のふりをして、背伸びばかりのじぶんがだいきらいで、変わりたくて仕方なかった。
 でも……。
 そんなダメなところすら、音無くんは受け入れてくれようとする。
 私ですら好きになれなかった私を。
 音無くんの言葉に、私はこれまでどれだけ救われただろう。
 葉乃とのいざこざのとき、どうしようもない孤独を感じた。音無くんにお昼に誘われたとき、泣きそうになるくらい嬉しかった。
 お姉ちゃんやお母さんと、ちゃんと向き合えたのも、音無くんの存在があったからだ。
 それに、だいきらいだった勉強も、今はやったぶんだけ返ってくると分かって好きになった。
 ――ぜんぶ、音無くんのおかげだ。
 私は音無くんに甘えてばかりで、まだなにも返せていない。 だから、これからひとつでも多く返せたらと思う。
「音無くん」
 そっと名前を呼ぶと、音無くんが顔を上げた。
「あのね、私……音無くんのことが好きだよ」
 あの日、音無くんが言ってくれたように、まっすぐに目を見て伝える。
「私、たぶんもうずっと前から、音無くんのこと好きだったと思う。ずっとじぶんに自信がなくて、音無くんの気持ちにもちゃんと向き合えてなかったけど……今ははっきり、音無くんのことが好きって言える」
 私は私が好きだ。
 音無くんといるときの私が、家族や、友達といるときの私が好きだ。
「……清水、この一ヶ月でめちゃくちゃ変わったよな」
 どくっと心臓が鳴る。
「そう、かな」
「うん。俺……」
 ――次、なんて言われるんだろう。
 怖いけれど、告白を断られたところで、じぶんを否定されたわけじゃない。
 音無くんが口を開く。次の言葉が紡がれる。
「俺も清水のこと、好きだよ。一年前、告白したときからずっと」
 ――あの日から、ずっと? 今も変わらずに?
 そんなに思ってもらえていたなんて、夢のようだった。
「……ほんと?」
 音無くんが発した言葉が信じられなくて、私はまじまじと彼を見上げる。
「うそつくわけないだろ」
 音無くんがふわっと笑う。
「やっと叶ったな、俺の夢」
「え、音無くんの夢……?」
 音無くんに夢があったなんて、初耳だった。
 それってなに、と聞くと、音無くんはしみじみと私を見つめて、言った。
「清水の特別になること」
 その言葉に、ようやく自覚する。
 私はずっと、だれかになりたいのだと思っていた。けれど、違った。
 私はただ、だれかの特別になりたかっただけなんだ。
 音無くんが、私の手をパッと掴む。
 触れた皮膚から伝わるぬくもりが、じわじわと私たちの新しい関係を示してくるようで落ち着かない。
 俯いて触れ合った手を見ていると、不意にきゅっと握られた。
 顔を上げると、音無くんと目が合う。
「清水、これからもよろしくな」
 唇の隙間から、ふっと吐息が漏れた。
 ずっと、じぶんじゃないだれかに憧れた。
 お姉ちゃんのようになれたら。
 あの子のように、素直になれたら。
 あの子みたいに、芯の強い子になれたら。
 でも本当は、ほかのだれかになる必要なんて、ないのだ。
 私たちは、だれもが主人公。
 物語の始まりは、主人公はなにかが足りない。
 完璧じゃない。
 天才でもない。
 私たちは欠けているからこそ、物語の主人公になれる。
 ずっと、なにかがつまっていたはずの喉が、滑らかに動く。
「こちらこそ、よろしくね」
 私はこれからも、私だけの物語を紡いでいく。