電車に乗った後、背中から夕日を浴びながら地図アプリを頼りに目的地に到着した。

 ここは、オフィス街に囲まれたコンクリートの五階建てのビル。
 自動ドアを通り抜けて中に入り二階でエレベーターを降りると、甘い香りが鼻をくすぐった。
 足を一歩一歩踏みしめる度に揺れる心臓。時よりすれ違う生徒によそよそしさを感じながら。

 目的の第四調理室の前で扉のガラス面を覗くと、白衣を着た星河の姿がオーブンの扉を開けていた。
 思わずドキンと胸が高鳴る。
 コンコンとノックして扉を開けると、スポンジケーキの香りがぶわっと身を包み込んだ。
 一度気合を入れ直すように息を飲んでから心を決めて声をかけた。


「星河……」


 教室の奥で六つ横並びになっている中央のオーブンからスポンジケーキを取り出していた彼は私の声に気づくと、ハッと驚いた目を向けた。
 驚くのも無理はない。私がここへ来ることを知らなかったのだから。
 

「まひろ……。どうしてここに」

「オーナーから聞いたの。星河がここにいるって」

「そっか……」


 まともに喋ったのはいつ以来かな……。最近は目も合わせてもらえないし、隣に住んでいても全然会えなかった。
 学校では毎日姿を見ていたけど、ぼたんと一緒にいたからそれが私たちのバリケードになっていた。
 でも、いまは二人きり。
 私たちに遮るものなんて一つもない。もし一つあるとするなら、それは私が乗り越えなきゃいけない幼なじみの壁かもしれない。

 私は教室内の六つほど作業スペースを通り抜けて、一番奥のオーブン前にいる星河の前で足を止めると、白いケーキの箱を前に突き出した。


「私、このケーキが好きじゃない」

「えっ、それは?」

「星河のコンテスト用のケーキ。オーナーから受け取って一口食べたの。でも、こんなケーキなんて……クレーム……そう! 大クレームだよ!」

「まひろ……」

「私が好きなケーキは二人で一緒にどんなケーキを作るか相談したり、フルーツの彩りにこだわったり、こんな味が理想だねとか意見をぶつけあったりしたもの。一人で勝手に仕上げたケーキなんて、心が全くこもってなくて世界一美味しくない!!」


 感情的に叫んだら、我慢が爆発して両目から涙が溢れた。
 泣くつもりなんてなかったのに、星河の顔を見たら緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。
 ケーキの箱を一旦作業台に置いてから、毎日お守りのように持っていた一枚の紙をカバンから出して彼に向けた。


「それに、お父さんと約束したならちゃんと守ってよ。こんなに長年想ってくれてるなら、渡すはずのマカロンをゴミ箱に捨てるくらいなら、小さなケガでも彼女を差し置いて飛んできちゃうくらいなら、素直に『好き』と言ってよ! じゃなきゃ、私は鈍感だからいつまで経っても気付けないよ」


 右手で突きつけるように見せた一枚の紙は、十歳の頃に星河が書いた父親への手紙。そこに書かれていた内容とは……、


『オレ、パティシエになったらまひろと結こんしたい。おかし作りもこいも一生けん命がんばるから、おじさんも長生きしていっぱいおうえんしてね。約束だよ』


 幼いながらに一生懸命書いた将来への誓いだった。
 私はこの手紙を見た瞬間、星河が想いを寄せ続けていたことを知った。
 結局お父さんは病に打ち勝てず約束を守ることができなかったけど、もう一つの誓いは今でも有効であることを願っている。


「それはおじさんが入院している時に渡した……」

「この手紙はお父さんの宝物だった。私が内容を見たのはつい先日。これを見て星河が長年想いを寄せていてくれたことを知ったの」

「……マジか」


 星河はそう言うと、顔を赤面させたまま口元を押さえた。


「……でも、そんなのは後から付け加えた言い訳。オーナーに言われて気づいたの。星河の夢を応援している時も、小さなことでケンカした時も、星河の隣にいることが私の最大のドラマチックなんだって」

「まひろ……」

「誰だって建前で話すことはあるし、冷やかされたら真に受けないでしょ? なのに、波瑠との会話を聞いただけで勝手に失恋しないでよ。お陰でマカロンを食べそびれちゃったじゃない」

「だって、”恋愛対象外”なんて言われたら、俺と恋愛する気がないと思うのが普通だろ」

「それなら素直にぶつかってきてよ。『どうしてそんなことを言ったの?』って。『それは本音なの?』って。そしたら、私も自分と向き合えたし、ぼたんにもヤキモチを妬かなくて済んだのに……」


 私たちは十三年来の幼なじみだけど、この時ばかりは緊張で体が震えた。
 何故ならここが幼なじみの境界線で今まで一度も触れてこなかったから。


「ちょっと待って! お前がぼたんにヤキモチって……」

「私だってヤキモチくらい妬くよ! 星河たちが一緒にいることがずっと嫌だった。星河が作ったスイーツだって一つたりとも渡して欲しくなかったし、二人がキスしていた所だって耐えられなかった。だって、私は星河のことが……」
「ちょちょちょ……っ、ごめんっっ!! ちょっとたんま!!」

「えっ……」

「無理……。その先をお前の口から言わせんのが……」


 このまま勢いに乗って告白しようと思っていた矢先、まさかの寸止めに。
 調子が狂ってキョトンとしていると、星河は顔を赤面させたまま頭をぐしゃぐしゃと掻いて私の前に来て足を止めた。


「何度も何度も言おうと思った。でも、言った途端に関係が崩れるのが怖かったからなかなか言えなかった。俺が夢を目指すキッカケになったのはお前だし、十三年間夢を応援し続けてくれたのもお前だから」

「うん……」

「でも、いま言うよ。…………俺は、まひろが好きだ。明日も、明後日も、何年も、何十年も。今日からは毎日お前だけを想って好きと言い続けるよ」

「……っっ!!」


 涙腺が崩壊するというのは、このことを言うのかな……。
 次々と喉の奥から込み上げてくる涙が止まんなくなった。
 プルプルと肩を震わせていると、彼は私の頬に両手を添えて親指で涙を拭った。
 その眼差しは春の麗らかな日差しのよう。
 一度その瞳の奥に吸い込まれたら、自分の気持ちをもっと大切にしたくなった。


「……私も約束する。星河の耳が痛くなるくらい好きと言い続けるから」


 ――これが、私の求めていたドラマチックな恋。
 今日まで恋について散々考えてきたけど、なかなか見つからなったのは星河が隣にいなかったから。いまこの瞬間に全身で感じている感情が恋だということがはっきりしている。

 だから私は、世界で一番幸せだ。