――三月四日。
 夜、母親が婚約者を自宅に招いた。彼を写真で見たことがあったけど、実際に会うのは今日が初めて。年齢は四十代半ばで中肉中背のメガネをかけた人。ニコリと笑った時に見える八重歯が印象的だ。
 彼は玄関で私に頭を下げて挨拶を始めた。


「初めまして。三条力也と申します」

「真麻の娘のまひろです」


 お互い初見ということもあって玄関でよそよそしい態度で接していると、母は間に入った。


「二人とも堅苦しい挨拶はいいから、ダイニングでゆっくりお話しましょ」


 私たちは三人でダイニングに移動すると、母は彼の隣に座り、私は母の前へ座った。
 みんなの腰が落ち着いたところで母は口を開いた。


「今日、力也さんを紹介しようと思ったのは理由があるの」

「えっ、なに?」

「実は以前から伝えてた通り、私たち結婚することになったの」

「うそっ!! 二人ともおめでとう!」

「まひろちゃん、ありがとう」


 お母さんがこんなに幸せそうに微笑んでる姿を見るのは何年ぶりだろうか。
 そして、彼もホッとしたように目尻を下げる。
 結婚報告によって場は和やかムードになったのだが、ホッとしているのも束の間。母は次の話題へ。


「彼の父親が亡くなったばかりだから結婚は延期にしようと思ってたんだけど、彼が家業の農家を継ぐことになってね。お母さんの仕事はテレワークだし、土日は農業のお手伝いしたいから、彼と結婚して実家の九州に行こうと思ってるの」

「えっ……。ここを離れて九州へ?? いつ頃?」

「できれば来週中に」

「来週中って、そんなに早く……。だって、私。学校が……」

「急でごめんね。お義母さんが一人で畑を管理していくのは難しいから決断したの。婚姻関係や学校や引っ越しの手続きは今週中に終わらせるつもりよ」

「そんな……」


 正直にいうと二人の結婚は嬉しい。母は父が亡くなってから女手一つで育て上げてくれたし、これからの余生を幸せに過ごして欲しいから。
 でも、そこには私の人生も挟まっている。新しい父親を迎えることに加えて新天地で生活をしていくのだから簡単に頭は切り替えられない。

 ……ううん、一番重要なのはそこじゃない。
 星河とケンカしたままこの地を離れても平気なのだろうか。


 三条さんが帰宅してから部屋の中に閉じこもった。
 来週この地を離れるなら、三学期の終業式は迎えられない。それに加えて、心の準備が整わないまま大切な友達や仲間とお別れしなきゃいけなくなる。
 母の再婚は念頭にあったけど、まさかここを離れることになるなんて。
 いきなり言われても心が決まらない。まだ星河と仲直りすらしてないし、もう二度と手作りスイーツが食べられなくなるかもしれないというのに……。


「嘘でしょ……」


 私はベッドの上に寝転んだまま涙で枕をしめらせた。
 これが夢であって欲しいと願いながら……。


 ――一時間後。
 コンコンと扉のノック音がした。
 「はい」と返事をして涙を隠すように右手の甲で拭うと、母はそのまま扉を開けて私の横へ座った。
 布団に入ってうつ伏せで泣いてることに気づくと、私の髪をとかすように撫でてきた。


「もしかして、お母さんたちの結婚反対だった?」

「ううん、そうじゃない。お母さんの結婚は嬉しい。ただ、心の準備が出来ないままこの街を離れる自信がなくて」

「そうよね。十三年間暮らした家だし、急な話だから気持ちが追いつけないよね」

「うん……」


 三条さんが来る前までは、受験や星河のことで頭がいっぱいだったのに、いまはこの先の不安と戦っている。
 ここに残りたいと伝えるのも一つの手段だけど、そうすると親に経済的負担をかけてしまう。だから、切り出せなかった。

 すると、母はポケットから一通の手紙を出した。


「これ、お父さんが入院している時に星河くんから最後に受け取った手紙。さっき荷物を整理してたら出てきたの」

「えっ……」


 私は起き上がってから手紙を受け取った。
 すると、そこには驚くべき内容が書かれていて、思わず手紙を持つ手が震えた。


「星河くんの願いは叶えてあげれなかったけど、お父さんはこの手紙のお陰で頑張れたのよ。そして、お父さんも星河くんの夢を全力で応援してた。お母さんも二人のやりとりをずっと見てたから願いを叶えてあげたかったんだけどね」

「……っっ!!」

「でも、こんな形でお別れさせてしまうなんて本当にごめんね……」


 手紙を見た瞬間、両手で顔を覆わなきゃ辛くなるくらい胸に熱いものが込み上げてきた。
 すると、母は私の気持ちを察して肩をさすった後、部屋を出ていった。


 お父さんとの間でやりとりが行われていた手紙の内容。
 そこには、七年前の星河の想いが書かれていた。
 星河の気持ちを知った途端、まるでドラマでも観ているかのように十三年分のヒストリーが思い描かれていった。

 しかしその一方で、関係が悪化したままお別れのカウントダウンが始まっていた。