――この瞬間の出来事が夢であって欲しいと思ったのは、生まれて初めてだった。


 今から遡ること、約一時間前。
 私は自宅で昼食をとった後に駅近くの雑貨屋さんへ向かった。
 長々と見ていたのはパーティーコーナー。買い物の目的は、明日のパティシエコンテストのお祝いのため。
 星河はきっと優勝する。
 私はそう信じて止まない。だから、コンテストが終わったら盛大にお祝いしようと思って、クラッカーや、”主役は私だ!”と印字されているたすきや、パーティー帽子や、ジュースやお菓子を買い込んだ。
 晴れ晴れしい一日になるなら思いっきりお祝いしてあげたいと思って、レジ袋をぶら下げたままマンションへ向かった。


 ところが、その帰り道。
 マンション内の公園の横を横切った時に人影が見えたので何気なく目を向けたら、ベンチのところで星河とぼたんがキスをしていた。
 それを見た瞬間、心臓が引き裂かれてるのではないかと思うくらい鋭い痛みが走った。
 一歩……そして、二歩…………。
 後退りした足はやがてマンションへ走り向かっていき、家の中に飛び込んだ後に扉に背中を叩きつけると、足の力が抜けてこすりつけるように腰が落下した。


 じわじわと腫れ上がっていく鼻腔に、ガタガタと震える肩。
 キス現場を目撃しただけなのに、感情が荒波に巻き込まれている。
 気づいたときには両手で顔を覆って咽び泣いていた。
 涙の理由がわからない。幼なじみだから幸せを喜んであげるのが正解なのに、何故か素直に喜べなかった。


 ――五分後、自宅のインターフォンが鳴った。
 私はぐしゃぐしゃの顔のまま扉越しに気配を感じとって立ち上がった。


「……はい」

「まひろ? ……俺、星河だけど」

「なに?」

「いま外に出てこれる?」

「…………無理」


 星河に泣いてることを知られたくない。
 でも、鼻声になってるから気づかれているかもしれない。


「……そっか。じゃあ、さっき公園に落としていった物をドアノブにぶらさげとくね」

「うん……、ありがと」

「シュースやお菓子。それにクラッカーとかパーティーグッズが入っているけど、これってもしかして……」
「勘違いしないで。自分の為に買ったから」


 こんなバレバレな嘘に気づかない訳がない。
 でも、そうやって反発しないと今にも自分が壊れちゃいそうな気がした。


「……そっか。わかった」

「……」

「俺、明日のコンテスト頑張ってくるから。一緒にケーキの案を考えてくれたり、『頑張って』って応援してくれたり、神社にお参りしに行ってくれたり。まひろがいっぱい応援してくれた分、明日は力を出し切ってくるから。絶対に優勝するから」

「うん……。頑張ってね。明日も応援してる」


 鼻声のまま背中越しに返事をすると、彼の足音は離れていく。
 そして、数秒程度で彼の家の扉の開閉音が耳に届た。


 私、なにやってんだろ……。
 扉を開けて素直に受け取ればよかったのに、それさえ勇気が出なかった。
 昨日は昨日で、バイト後に郁哉先輩と駅前のカフェで話している間に店にケーキを忘れたことに気づいて取りに行くことを伝えて店に戻ったら、厨房から煙が出ていて星河を助けること以外考えられなくなっていた。

 結局先輩を置き去りにしたことすら忘れて、家に帰ってから何度も連絡があったことに気づいた。今朝は直接会いにいって平謝りしたら先輩は許してくれたけど、本当のことは伝えられなかった。


 先輩と恋したいはずが、上手く行かない。

 いまも頭の中には二人のキスシーンが思い浮かんでいて息が止まりそうだし胸が苦しい。
 どうしてかな……。
 自分から星河に距離をとろうと言ったクセに、お祝いの為のパーティーグッズを買ったり、星河たちがキスしているところを目撃して落ち込んだりしている。
 恋人なんだからキスするのは当たり前だし見て見ぬふりをすればいいのに、あのときは何故か我慢が出来なかった。


 私、星河のことが好きなのかな。
 ……ううん、そんな訳ない。
 ただの幼なじみだし、ぼたんと恋人だし、昔から恋心なんて持ってないはず……。