――ぼたんと電話を切ってから約一時間後の午後十五時。空は時計の針が進むと同時に雨雲を連れてきた。
 彼女は、俺がメッセージで送った住所を頼りにマンション下までやって来たので、そのまま敷地内の公園に連れて行ってベンチに腰をかけた。
 気温が一桁台ということもあって肩が震える。


「今日はこれからバイトだよね……」


 彼女の言うとおり、本来ならバイトの最終日だった。
 でも、嘘をつく意味がないから素直に首を横に振った。


「いや。実は昨日、俺が店でボヤ騒ぎを起こしてしまってそれどころじゃなくなった」

「ええっ!! 嘘でしょ……」

「言わなくてごめん。心配するかなと思って言えなかった」

「じゃあ、もしかしてその手のケガは……」

「寝ている時にぶつけたと嘘をついたけど、本当はやけどを追った。嘘ついてごめん……」


 今朝の嘘は一瞬で無駄になった。
 でも、本当の事を伝えたら少しだけ肩の荷が下りた。


「やけどの状態はどうなの? その状態だからコンテストに出られないんじゃ……」

「いや、明日はテーピングして参加するし、やけどの状態はあまり大したことないから心配しないで」

「そっか。でも、バイトがないなら今日はどこかに出かけられたんじゃないかな」

「でも、明日はパティシエコンテストだから練習しないと」


 ぼたんはクリスマスデートにこだわり続ける。
 何度も言われ続けていたせいか、それが重荷になり始めていたからこう言ったけど……。


「練習って言っても、ケーキを作るだけでしょ?」

「えっ。……作るだけ……って」

「さっきスポンジを焼いたみたいだから、後はデコレーションするだけなんだよね。それならあと二時間くらいあれば仕上がるんじゃない?」


 俺は彼女との価値観の違いに頭を抱えた。
 彼女の言う通り、スポンジケーキを作る工程だけならその時間だけで十分だ。
 でも、実際は装飾用のクッキーを焼いたり、チョコレートで文字を書いたり、細かいところを微調整したり、味見をしたり、時間ギリギリまで改善点を洗い出さなければならない。
 しかし、彼女はこの過程を知らない分読みが浅い。


「いや、二時間じゃ仕上がらないよ」

「どうして? 今まで散々練習したでしょ」

「優勝したいから」

「大丈夫だって。星河は心配性なんだよ。以前プレゼントしてくれたクッキーだってあんなに美味しかったし」

「あのクッキーはコンテスト用じゃない。それに、コンテストに出品するケーキを見たことがないくせに、どうしてそう言いきれるの?」


 確かにぼたんの彼氏として失格だ。彼女の願いを一つも叶えてやれないし、我慢ばかりさせている。
 しかも、一番問題なのは俺の気持ちが彷徨ってること。
 彼女からしたら史上最低な彼氏と言っても過言じゃないだろう。

 だけど、この時ばかりは俺の夢が軽視されてるような気になって少し腹が立った。
 すると、彼女うつむいたままスカートをぎゅっと握りしめた。


「ごめん……。少し言い過ぎた」

「……」

「でも、ケーキと同じくらい私を見てよ」

「ぼたん……」

「コンテストの件だけなら何も言わなかった。……でもね、まひろをおんぶして保健室に連れて行ったり、二人でいても目がまひろを追いかけてたり、ボヤ騒ぎを起こしてケガをしたのにそれを報告しなかったり。私は恋人なのに、何度も気持ちが置き去りにされたら悲しくなるんだよ」

「ごめん。そーゆーところに気づいてやれなくて。でも、今まで構ってやれなかった分、コンテストが終わったらもっと……っっ!!」


 彼女の目をしっかり見てそう言いかけている最中、彼女は俺の頬に両手を添えて唇を重ねてきた。

 俺は突然の事態に気持ちが追いけないまま彼女を瞳に映していた。
 ファーストキスは、ドキドキするとか、恥じらいとか、感慨深いものになるとか考える余裕さえないまま。
 
 しかし、頭の中が真っ白になるくらい呆然としていると……。

 ドサッ……。
 二秒も経たない間に少し距離があるとこころから何かの落下音が耳の届いた。
 すかさず音がした公園の入口方面に目を向けると、そこにはまひろの姿があった。
 地面には買い物袋が落ちている。どうやら音の原因はそれのようだ。

 ――ぼたんとキスしているところを見られた!

 そう思った瞬間、ぼたんの気持ちも考えずに両手で体を突き放した。
 顔面蒼白のままベンチから立ち上がると、まひろは表情が固まったまま後退りして、俺たちから逃げるように公園を離れていった。
 すかさず追いかけようと思って一歩踏み出すが、ぼたんは俺の手首をギュッと掴む。


「行っちゃだめっ!!」

「えっ……」

「まひろを追いかけたらなんて言うつもりなの?」

「それは……」

「私たちは恋人だからキスしても何も問題ないんだよ。それに、まひろに言うことなんて一つもないはず。それより、これ以上私を惨めにさせないでよ……」


 彼女の気持ちが再び届けられた瞬間足を止めた。
 ……そう、俺は自分でもこれが不正解だとわかっているはずなのに、再び理性一つで彼女を傷つけようとしている。