――夕方、台風並の強風に煽られながら帰宅すると、母はリビングでスーツケースを広げて衣服を収納していた。
ひと通り入れ終えると、洗面所から取り出してきた歯ブラシセットも内ファスナーに詰め込む。
その様子は今から夜逃げでもするかのように手早い。
「ただいま。ねぇ、お母さん。スーツケースなんて広げてどうしたの?」
母にそう訪ねたが、その顔は真っ青だった。
「彼の父親が危篤だって。お母さんは今からお手伝いに向かわなきゃいけなくて」
「ええっ!! まだ身内でもないのにお手伝いするの?」
「彼は一人っ子だから手が回らなくて」
「そっかぁ。スーツケースを持っていくってことは遠い所なの?」
「それが福岡なの。一週間くらい行ってくるから家の事をよろしくね。星河くんのお母さんにも頼んでおいたから」
「私なら一人でも大丈夫だって! もうほとんど大人だし」
「はぁ……。それが信用できないのよね。普段からお手伝いすらしない子だから」
「お手伝いしなくても頑張れるしっっ!」
「そう? じゃあ、行ってくるから、火の元と鍵には充分注意してね」
「はーい。行ってらっしゃい」
母は両手でスーツケースを抱えて玄関で下ろすと、ゴロゴロと引きながらマンションの廊下へと向かった。
ぽつんと取り残された私は、気持ちが置いてけぼりになって大きなため息をつく。
はぁぁ……。今日から一週間家に一人ぼっちか。寂しいな。……ま、何かあったら星河に頼ればいっか。
――それから、二時間後。
星河が「飯、持って来た」と言って、紙袋を持って玄関に現れた。
「うわぁ〜! ありがとう!! ご飯助かるよ〜っ。えへへっ、ちょうどお腹空いてたんだ」
「高校生なんだから飯くらい自分で作れよ」
「ご飯はおばさんのご厚意なんでしょ? だったら、ありがたく頂戴しないと」
呑気にそう言い紙袋を両手で受け取ると、玄関の照明がフッと落ちた。
そのせいで、私たちは同時のお互いの顔が見えなくなる。
「あれっ? 勝手に電気が落ちた。もしかして停電?」
「みたいだな……」
玄関のスイッチを何度も押しても反応しない。
それを見た星河はドアを開けて外を見ると、自宅近辺の照明が全て落ちていて辺りは暗闇に包まれている。
「停電は強風が原因かなぁ。すぐに復活するといいけど」
「停電になるのは久しぶりだな。家に戻ったら懐中電灯を探さないと」
「どうしよう、こんな時に限ってお母さんはいないのに」
「運とタイミング悪いな……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……じゃ」
「待って!!」
私は扉から出て行こうとしている星河の背中のシャツを引っ張って足を引き止めた。
すると、彼は振り返る。
「なに?」
「あの……さ……。申し訳ないんだけど……電気が点くまで一緒にいてくれないかな」
「どうして?」
「一人じゃ心細いから……」
「俺には関係ない」
「私には関係あるっ!! それに、今日はバイト先が定休日で二人とも休みでしょ。だから、ねっ! お願い〜〜っ!!」
せめて父親がきょうだいがいれば何ともないかもしれないけど、シンとした室内で一人きりでいるのは慣れてないから寂しい。
私が引き止めるのは不正解だけど、いつ電気が復活するかわからない分余計に不安が増している。
すると、星河は「しょうがねぇな」と言って、スマホのバックライトを点けて家に上がった。
その光を頼りにしながら二人でダイニングに向かう。
「飯、一緒に食う?」
「うん! お願い。いまご飯をよそうから座ってて」
「水は出ないだろうから、代わりに飲めそうなものはある?」
「冷蔵庫の中にミネラルウォーターが入ってる」
「オッケー」
お互いの家に行き来する機会が多かったから、食器棚の中身の配置とかきちんと把握している。
スマホのバックライト二つでも不自由はない。
星河と二人きりでご飯を食べるのはいつ以来かな。「好き嫌いはダメだよ」って、「食べ残しは禁止だからな」って、星河は昔から口うるさかったよなぁ。
炊飯器からご飯をよそった後、彼が持ってきてくれたタッパの蓋を開けて食べやすいようにテーブルに並べてから席についた。
星河は食べ始めると言った。
「お前さ、近所の神社で絵馬を書いてくれたんだ。昨日、行ったら偶然見つけて」
「あっ、気づいちゃった? いっぱいお願いしてきたからきっとコンテストで優勝すると思う」
「ばーか。……でも、そーゆーの嬉しい」
「実はあの時お守りも買ったんだ。タイミングが合わなかったからなかなか渡せなくて。いまちょっと持ってくるね」
「後でいいよ」
「いま渡さないとまたタイミングを逃して渡せなくなる気がするから!」
私は一旦席を立って、スマホのライトをかざしながら部屋にお守りを取りに行った。
思いの外、長い間手元にあったお守り。今日ようやく手渡せると思ったら嬉しくなった。
ダイニングに戻ると、真っ先にお守りを手渡した。
「はい、コレ。どうか優勝しますように」
「ありがとう。お守りも用意してくれたなんて……」
「星河のケーキをもっといろんな人に知ってもらいたいし、センスを認められて欲しいから。……あっ、そうだ! よかったら食後にジェンガでもして遊ばない? 久々に!」
「いいけど、暗闇の中で遊ぶの?」
「だから面白いんでしょ」
食事後、私は再び部屋へ戻ってジェンガを取りに行き、リビングのローテーブルに乗せた。
私たちは対面して座り、ジェンガの両端にお互いのスマホを置いて光を照らす。
「ジェンガをするのは何年ぶりかな」
「小学生以来じゃない?」
「星河は負けるといつも怒って帰っちゃったよね」
「……それ、お前だろ」
「うっ……、お互い様でしょ! ……あの頃は良かったなぁ。考える事が少なかったから素直に言いたいことをぶつけ合っててさ」
そう言いながら瞼の裏に映し出していたのは、私達の今の距離間。
言いたいことさえ気軽に言えなくなってしまった今は物足りなく感じている。
「今はどうなの?」
「人の目が気になって、言いたいことが言えなくなってるかも」
「ふーん。じゃあ、ジェンガで一個引っこ抜くたびにお互いの嫌いなところを一つ言っていこう」
「オッケー。星河の嫌いなことなら遠慮なく言えるね」
「……それ、どーゆー意味だよ」
「えへへっ。じゃあ、私からでいい?」
「いーよ」
私は床に直座りしたまま姿勢を低くして取れそうなブロックをさがした。
中央の端のブロックを一つ引っこ抜いてから星河の嫌いなところを言った。
「星河は足が臭い」
思っていることを率直に言うと、じーっと冷たい目線が届く。
「一番にそれかよ。サッカー部を引退してからそんな臭くないし」
「あ、そう? 最近嗅いでないからよくわかんないわ」
「相変わらず酷いな……。じゃあ、続けるよ」
星河は先ほど引っこ抜いたブロックの反対側を引き抜くと言った。
「まひろは異性への理想が高すぎる」
「ドラマチックな恋愛をしたいんだから、これだけは譲れない」
「男の顔でドラマチックが決まるとは思えないけどね。大体お前はドラマを見過ぎなんだよ」
「そうかなぁ……。普通だと思ってたけど。えっと、次は私の番ね」
私は二つ下の段の端のブロックを引き抜くと、タワーが少し右に傾いた。
「うわわっ! 始めたばかりなのにもうバランスが悪くなってきた。早くない?」
「三つ目だから仕方ないよ」
「そうだね。あー、ええっとぉ、星河は……怒りっぽい」
「あのなぁ〜〜っ!! 誰かさんが怒らせるからだろ」
「小さなことですぐ怒鳴るし。そんなに怒りっぽかったらいつかぼたんにフラれるよ」
「……っく!! 次は俺か」
「うん」
星河は更に二つ下の端のブロックを引っこ抜く。
「まひろは寂しがりや」
「……え? そう?」
「『そう?』じゃねーだろ。いまこの瞬間の話! 寂しくなければ俺を帰しただろ」
「あはは。そうだよね。お父さんが亡くなってから一人でいる時間が増えたんだけど、こうやって夜に家に一人きりだと心細くてね」
「おばさんはテレワークで常に家にいるから余計そうかもな」
「そうそう。あっ、次は私の番だよね」
幼なじみとはいえ、彼女がいる人を家に引き止めるのは間違ってる。でも、星河と一緒にいることが安心材料になっていることは確か。
今のままじゃダメだから自分から距離をとりたいって言ったくせに、全然守れていない自分がいる。
いまこの瞬間さえぼたんの悲しい瞳で私を見つめている顔が思い浮かんでいる。
そう思いつつも、無意識に言葉を吐いていた。
「星河に彼女ができたところ」
ハッと気づいた時には既に遅し。
暗闇でスマホのバックライトでほんのりと映し出されている星河の瞳は今まで見たことがないくらい動揺していた。
――が、次の瞬間。
ガッシャーーーーン…………。
星河が正面に手を伸ばした瞬間目の前のジェンガに当たり、そのまま私の手首を掴んだ。
と同時にブロックは上半分が崩れ落ちる。
「……それ、どういう意味?」
まるで一時停止したかのような眼差しに逃げられない。それどころか、彼は次の言葉を引き出そうとしている。
その間の一秒一秒が実際の時間以上に長く感じて、心臓がバクバクと暴れ始めた。
「えっ……」
「その言葉の真意を知りたい」
「…………」
「まひろ」
「……っっ!」
「まひろっ!!」
力強く催促される返事によって私の口は閉ざされた。
正直、自分でも驚いた。どうしてそんな事を口走ってしまったのかわからない。
額にブワッと冷や汗が浮かび、会話をとぎるように俯いた。
もちろん本意的に言った訳じゃない。自然と口から溢れていただけ。冗談だよって言えば済む話なのに、星河の表情を見ていたらそれすら言えなくなっていた。
――すると。
プルルルルル…… プルルルルル……。
この空気を一掃するかのように私のスマホの電話が鳴った。着信元は母親。「ごめん、電話に出るね」と言って現況から逃げるようにスマホを掴み取ると、星河はパッと手を離して「帰るわ……」と言って玄関へ消えていった。
私はその背中を目で置いながら通話ボタンに指を落とした。
返事を催促してきた時は、今まで見たことのない顔をしていた。
まるで、私の心の中を覗き込もうとしているかのように……。
――もし、あの時母親から電話がかかって来なかったら、私自身もなんて返事をしたらいいかわからなかった。