夜の竹林は、本当に真っ暗で、何も見えない。星まで届きそうなほど高く、その上葉までつけている竹は、月の姿を巧妙に隠し、光を遮っている。だが、竹林暮らしの呉羽にとっては、大した障害にはならなかった。今日ほど竹林育ちであることを感謝したことはない。竹林内に、道らしき道はない。竹と竹の間を何とか走って追いかける。
 しばらく走って、呉羽はやっと開けた場所に出た。さして広くはないが、人ひとりなら広々とした場所だ。そこでは、今まで竹の葉によってさえぎられていた月光も入ってくる。
 その場所に、雲母はうずくまっていた。呉羽が来たことに気づくと、雲母はこちらに顔を向けた。
「雲母ちゃん、迎えに来たよ。いっしょに帰ろう」
 むっつりと黙り込んだまま、雲母は口を聞こうとしない。そんな雲母の隣に腰を下ろし、呉羽は空を眺める。丁度、月がきれいに見える場所だった。
「見て、月がきれいに見えるよ」
 雲母は、黙って月を見つめる。その瞳には、郷里への哀愁の念が含まれているような気がした。
「……わたしね、さっきも言ったけど、永夜の都にいたころも、お菓子を作って、売りに行ってたんだ。誰も買ってくれなかったけど」
「……誰も買ってくれないなら、なんで売ってたの?」
 やっと雲母が口を開いた。泣きじゃくったのか、少し鼻声で、機嫌が悪そうだった。
「だって、いつか分かり合えると思ってたもん。だから、誰に何と言われようと、わたしには関係なかった。誰に何と言われようとも、わたしはお菓子を作り続けるよ」
 雲母は、呉羽の顔を見つめる。そして、すぐに視線をさらした。
「わたしね、都に友達がいたの。春ちゃんっていうんだけど……」
「友達って、『永夜の民』でしょう? ほんとに友達だったの?」
 流石に失礼ではないかとも思ったが、セキの態度や都にいた他の『永夜の民』を見る限り、ごく自然な感情だと思い直した。
「友達だよ。春ちゃんは、わたしにとって、妹みたいな子だった」
 呉羽は、正直気がかりだった。あの日、『永夜の民』に(むご)いほどの迫害を受けているところを見られ、『有夜の民』であることもばれた。そんな自分を見て、春がどう思ったのか。もう一度だけあって、話がしたかった。もう、叶わない願いだろうが。
「雲母ちゃんはね、春ちゃんに似てるの。だから、いろいろ思い出しちゃうんだ」
「……そう」
「で、その子が大好きだったお話があるんだけど、聞いてくれる? もしかしたら知ってるかもしれないけど」
「……はあ、別にいいけど」
 言質は取れた呉羽は、書物を音読するように語り始める。
「——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話。あるところに、孤独な姫君がいた。姫君は、今上帝の娘という、高貴な姫君だったが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていた——」


 ——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話。あるところに、孤独な姫君がいた。
 姫君は、今上帝の娘という、高貴な姫君だったが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていた。
 いつも同い年の従者の少年を連れ、まるで帝のように振る舞っていたのだ。
 姫君のわがままは止まることを知らなかった。
 ある時は、贅沢のために、民から財産を搾りとった。
 ある時は、気にいらない臣下の首を刎ねた。
 ある時は、罪人に殺し合いをさせた。
 ある時は、隣国を手中に収めるために、戦争を起こし、多くの民を虐殺した。
 帝は、娘の可愛らしさに目がくらみ、姫君の傍若無人な行いを止めなかった。
 臣下は誰も姫君を止められなかった。止めれば、自身が首を刎ねられることになるからだ
 民はいつ自分が殺されるのかもわからない恐怖と、いつ飢え死ぬかわからぬ恐怖とで、怯えて生きていた。
 そんな人々を救うため、ひとりの青年が立ち上がる。青年は、姫君が手中に収めようとした国の王子だった。
 王子は自国の兵士や民、さらには姫君の国の民衆や臣下たちをも抱き込んで、革命を起こしたのだ。
 帝は、もはやこれまでかと、宮殿に火をつけ、自ら果てた。
 姫君は捕まり、皆の前での公開処刑が決まった。
 処刑当日、多くの民衆が罵詈雑言を飛ばす中、姫君は笑っていた。
 そして、その首が落とされ、その首を旗の先端に突き刺した王子は、その旗を掲げ、
「この女が、この国を滅ぼしたのだ!」
 そう民衆に向かって叫んだ。
 この革命の一連の流れを、『悪星(あくせい)の変』という。
〝悪〟は、皆が姫君を悪と呼んでいたことから、〝星〟は、処刑された姫君の名からつけられたものだという。
 この後、月はこの王子によって統一され、平和な世が訪れたという。



 一通り語り終えると、雲母は、深く息を吐き、唇を尖らせた。
「その春っていう子、このお話のどこが好きだったの? 全然いいお話じゃないよ」
「月に、そんないいお話なんてなかったと思うよ」
 この話も、博士の部屋からくすねて読んだ本の中に入っていたものだ。
「……自業自得の話だね」
 雲母は、月に視線を移す。呉羽は雲母の顔を見つめたまま、「そうだよね」と言って、月へと視線を移す。ふたりは、しばらく無言のまま、月を眺めた。
「そろそろ帰ろう。寒いよ」
「……黒曜に合わせる顔がない」
「そんなこと——」
 ないと言おうとした時、背後から足音が聞こえてきて、反射的に振り返る。竹の緑の中に、よく目立つ赤と黒が見える。
「セキ、黒曜さん……」
「黒曜……」
 セキと、黒曜だった。セキは相変わらず無表情だが、黒曜はばつの悪そうな顔をしている。
「ふたりとも、やっぱりここにいましたね」と、セキは黒曜に言う。当の本人は視線をすっとそらす。「私を同行させた意味、ありましたか?」
 ——そういうわけじゃないだろうに。
 セキは、やはりどこか足りていないと、呉羽は思う。
「まあ、呉羽さんが見つかったので、私は先に戻りますね」
「え、でも……」
 この状態のふたりを置いていくのか。
「大丈夫ですよ、私を信じてください」
 セキが、優しく呉羽の手を取る。そして、否応なく手を引き、もと来た道を引き返した。
 屋敷に戻った呉羽は、また台所に引っ込んで、菓子作りを再開したが、あのふたりのことを考えると気が気ではなく、集中できなかった。
 しかし、翌日、多少ぎくしゃくはしていたものの、ふたりは喧嘩前と同じように仲良く仕事をしていた。
「玉兎は、(つがい)同士の意識が強いので、喧嘩してもすぐに仲直りしますよ。むしろあそこに私たちがいたら邪魔になっていましたよ」
 というセキの言葉で、呉羽は納得すると同時に、あのふたり夫婦(めおと)であることを知って、驚きを隠せなかったのだった。


 菓子作りの特訓の甲斐あって、呉羽の菓子作りの腕は確実に上がっていた。
 辛口評価をすると意気込んでいたリョクは、宣言通り駄目なところは駄目と指摘し、逆に、良いところはとことん褒めてくれた。その対応は、呉羽の向上心に火をつけ、その才覚を開花させた。
「ああ、慈鳥」
 夜、カステラの焼き上がりを待っていると、窓枠に慈鳥が止まった。
「お、やっほーやで、慈鳥」とリョクが軽快に挨拶をする。しかし、慈鳥は無視して、呉羽のそばから離れない。毎回これなのだから、流石に気の毒だ。
「冷たい烏やで、慈鳥」
「はあ、リョク、お前もいい加減諦めろ。間違いなく嫌われているぞ」と、黒曜は横槍を入れる。
「やっぱり、『永夜の民』なのがあかんのかなあ……」
 慈鳥は『永夜の民』によく虐められていたので、嫌われていても無理はないと、リョクは言う。
「さあ、どうなんだろうね」
 呉羽も、その辺はよくわからない。リョクの言う通りなのか、はたまた単純な好みの問題か。
「……なあ、ずっと思ってたけどよ、その〝慈鳥〟って名前やめろよ」
 慈鳥は、実は烏の別称だ。つまり、烏を慈鳥と呼ぶのは、烏に向かって、烏と呼んでいるのと大差ないのである。
「別にいいじゃん。だって、慈鳥も嫌がってないんだもん」
 そう言う問題じゃないと言いたげな顔をしながら、黒曜は立ち上がり、「セキを迎えに行く」と台所を出て行った。
「素直じゃないやつやな」戸を見ながら、リョクはつぶやく。「うちも完成品味見したら帰るわ。もう遅いし」
「うん。今回のはうまくできる気がするよ」
 今度こそ、おいしいに決まっている。売りに行くのが楽しみで楽しみで仕方がない。
「なあ、もしできたら、セキにも渡してくれんか? まあ、言わんでも渡すやろうけど」
 リョクは、一瞬、愁いを帯びた表情を見せる。
「呉羽ちゃんなら、セキを変えられる。変えてくれると信じとるけん」
「……どういうこと?」
 わけがわからず、呉羽は聞き返す。セキを変えるとは、一体どういうことだ。
「『永夜の民』ゆうても、感情のある人間と交流しとったら、多少の感情はあるはずなんや。他のみんなもそうや。やけど、セキにはそれがないんや、無かったんや、全く」
 やけどな、とリョクは話を続ける。
「あんたとおる時だけは違うんや。普通の人間になったみたいに、幸せそうに見えるんや」
 リョクは頭を下げ、呉羽に乞う。
「救ってほしいんや、セキを。永遠の夜の中から」
「……」縋りつくように訴えるリョクに、呉羽ゆっくりと近づき、その頭を撫でる。彼女の悲しみを払うように、慈しむように。
「大丈夫、約束するよ、絶対に。でもね、わたしは、セキだけじゃなくて、リョクも、みんなも救いたい」
 はっとしたように、リョクは顔を上げる。
「みんなを幸せにしたいの。みんなを愛したいの、だから、セキだけなんて、言わないで」
 その瞬間、リョクの瞳から、堰を切ったように涙があふれ、零れ落ちる。リョクの三百年分の涙は、止むことなく、彼女の頬と膝を濡らし続けた。
 翌朝、切ったシベリアを並べ、思わず笑みがこぼれる。これから、このシベリアを売りに行くのだ。
 ——待ってて、すごくおいしいんだから。
 呉羽は、シベリアと満面の笑みを引っさげて、屋敷を飛び出した。