お昼前、雲母に身支度を整えてもらう。
行燈袴を穿くことは決めていたが、単衣をどれにするかで、雲母は頭を悩ませていた。
「呉羽ちゃんには、きっと淡い色が似合いますよね。昨日の南天柄の単衣も素敵だったけど」
かれこれ四半時以上これなので、呉羽はいい加減飽きてきた。時間も迫ってきているのに、これでは間に合わない。
「この薄桃色の単衣がいいんじゃない? 可愛いよ」
しびれを切らして呉羽が言うと、雲母は手を打った。
「それがいいですね! じゃあ、それに合わせて袴はこの赤いのにしましょう」
そう言って雲母が取り出したのは、深紅色の行燈袴だった。
「素敵な色だね」
「呉羽ちゃんが着れば、もっと素敵に見えるはずですよ。ささ、早く着替えてしまいましょう。足袋も出しますね」
ささっと足袋を取り出し、それを呉羽に履かせる。単衣に腕を通させ、袴を穿かせれば完成だ。髪は、最近はやっているという半上げにしてもらって、レースのついたリボンをつけてもらった。
「はい。これで完成です」
鏡台の前には、昨日見たハイカラな女学生さながらの少女が立っていた。
「わああ……! 素敵! とっても素敵だよ。ありがとう、雲母ちゃん」
「喜んでもらえてうれしいです。もうすぐ、リョク様が迎えに来ますからね」
しばらくして、リョクが訪ねてきた。
昨日の軍服とは違い、深緑の無地の着物に、茶色い帯を締めた姿でやってきた。すらりとした体形と、涼やかなその容姿も相まって、昨日以上に美しさが増しているように思えた。
「おお、似合っとるやん。ほな行こか」
「うん!」
溌溂と返事をすると、リョクもつられて少し微笑んだ。
帝都までの道中、呉羽は、
「……昨日、結局セキは帰ってこなかったの」
と漏らした。
「帰ってくると思って遅くまで起きてたんだけど、全然帰ってこなくって……結局寝落ちしちゃったの」
リョクは、何も答えなかった。少しばつの悪そうな顔をして、うつむいていた。
「セキは昨日、屯所——昨日行ったとこやな——に泊まり込んどったで。帰ってくるん、結構遅かったけん」
「そっかあ……」呉羽は、宙を仰ぐ。「なら、しょうがないね」
「帰る前に、一回屯所に寄ってみる? 喜ぶかどうかは知らんけど」
屯所は、軍の駐在所の事らしい。対怪異小隊の場合は、そこが本拠地らしいが。
「軍の屯所なんて、わたしが行っていいの?」
「隊員のうちが許可しとるし、ええやろ」
からりと笑うリョクを、運転していた黒曜が少しだけ視線を向け、睨みつける。今日も彼は、帽子を深くかぶっている。どうやら、耳を隠すためらしい。
「そんなことよりや! 今日は目いっぱい楽しもな。これまで辛かった分、ぱーっと楽しんだらええわ」
自動車を走らせ、最初にやってきたのは喫茶店というところだ。リョクいわく、茶屋のようなものだと言われたが、永夜の都にもなかったものなので、結局よくわからなかった。
店内は客で賑わっており、談笑する声がそこらかしこから聞こえてくる。
ふたりは店の隅で、窓際の席に通された。リョクはソーダ水を、呉羽はシベリアと煎茶を注文し、ほどなくして、それらが運ばれてきた。
シベリアは、羊羹をカステラという和菓子に挟み込んだ菓子だ。しっとりとした生地に、舌触りが良い羊羹が違和感なく合わさって、絶品である。
「ほんま、美味しそうに食べるなあ。うちまで幸せになってまうわ」
ソーダ水を飲みながら、リョクは満足そうな笑みを浮かべる。ソーダ水は本来夏の飲み物のようだが、リョクは年中飲んでいるらしい。
「……」口に残ったシベリアの余韻を、しっかりと憶える。甘く、しっとりとした舌触り。甘さは、カステラも羊羹も控えめで、重くない。だからこそ、何個でも食べられそうな気がする。
「呉羽ちゃん?」
「これ、作れないかな」
「え?」
リョクが、きょとんとした表情で見つめてくる。「どういうことや?」
「あ、ごめんね」呉羽は匙を置き、リョクに向き直る。「このシベリアを、わたしも作れないかなと思ったの」
「ほう?」
リョクは身を乗り出し、呉羽に迫る。思わず、「ち、近いよ!」と口走る。指摘されたリョクは、「ああ、ごめんなあ」と言いながら、席に座り直した。あまり反省しているようには見えない。
「あんた、菓子作りの趣味があるんやな」
「うん。都でも、市に行って、お菓子をよく売ってたんだよ」
その言葉に、リョクは目を見張る。
「……それ、大丈夫やったん?」
心配されている。すぐにそう感じられる声音だった。
「……」
「うちは、永夜の都に行ったことがないけん、何も言えんけど、そんなことして、他の『永夜の民』は、何も言わんかったん?」
呉羽は、しばしの沈黙ののち、「ううん、蔑まれたし、いやな思いも、いっぱいしたよ」と告白した。
「陰口は当たり前、石を投げられたことだってあるもん。ほら」
呉羽は袖をまくって、腕を見せる。そこには、最近できたのであろう傷が、白い肌に痛々しく残っていた。
リョクは、眉をひそめる。
「それでも、いつか分かり合えるんだって、信じてたの。『永夜の民』も、『有夜の民』も……みんな一緒に」
でも、だめだったの。呉羽は続ける。
「わたしに石を投げて、暴言を吐いて……もう耐えられなくて、消えたくなった時、助けてくれたのが、セキだったの」
「セキが……?」
リョクは、驚いたような顔をしている。
「セキが、わたしに手を差し出してくれて、〝ともだち〟だって、言ってくれて……それが、すごくうれしかったの。わたしを、『有夜の民』であるわたしを、ともだちだって思ってくれる人がいるんだって……」
言葉にすると、あの時の感情があふれだし、目頭が熱くなる。あの時の感情を、きっと一生忘れることはない。そう断言できるほど、あの時の言葉は、呉羽の心を救ったのだ。
「……まさか、セキがそんなことをするなんてなあ」
リョクは、ソーダ水をストローでかき混ぜながら、しみじみとした様子でつぶやく。「うちのなかのあいつは、自分以外の生き物に興味がない、ある意味猟奇的な奴やと思っててんけど」
「え?」
今度は、呉羽がぽかんとする。人としての常識を疑う点はいくつもあったが、猟奇的だとか、そういったことを見受けられなかった。
「やっぱり、セキにとってあんたは、とくべつな存在なんやな。あいつの笑った顔、人生で一度も見たことなかったわ」
そう語るリョクの表情は柔らかい。次いで、「話してくれたんやし、うちもちょっと話そっかな」と言った。
「話すって、リョクのこと?」
「そうや。……不思議に思たやろ? 『永夜の民』のくせに、感情が豊かやけん」
それは、確かにその通りだ。呉羽の中の『永夜の民』は、いつだって、氷のように冷たい顔と、うつろな瞳をしている。だが、リョクはどうだ。瞳こそうつろだが、その表情は、『有夜の民』と大差ないではないか。
「うちな、母親は『永夜の民』やったんやけど、父親は——『有夜の民』やったんや」
呉羽は、息を呑んだ。
「父親言うても、顔は知らんで? あの人、口を割らんかったし」
「……お母さんは、どうなったの?」
「ツキモノになったわ。ほんで、いまもどっかで彷徨っとる」
あっけらかんと答えるが、顔は全く笑っていない。
「それでも、隊のみんなは何にも言わへん。うちを、ひとりの人として見てくれとる」
やから好きやねん、あそこが。リョクの言葉からは、その真意が読み取れる。
——わたしにとっての博士が、リョクにとっては隊のみんななんだ。
そう思うと、リョクにとって、隊員たちがどれだけ大切な存在なのかが分かる。
「……湿っぽい空気にして、ごめんなあ。そや、これが終わったら屯所に行って、帰りに菓子のことが載っとる本でも買うたらええわ」
「それはいい考えだね。いまから楽しみだなあ」
「できたらうちにも食べさせてな。辛口評価したるけん」
冗談っぽく言うリョクは、たしかに『永夜の民』とは思えない。だが、どんな彼女であろうと、呉羽の対応や気持ちが変わることはない。
——ここでは、『永夜の民』も『有夜の民』も、一緒に暮らしていけるんだ。
それが無性に嬉しくて、呉羽はいますぐにでも走り出したい気分だった。
屯所の敷地は、真昼間とは思えないほど静かで、閑散としていた。そもそも、帝都で暮らす『永夜の民』は、数えるほどしかいない。ゆえに、敷地は昼夜問わず閑散としているらしい。
隊員は、セキを含めて二十人程度しかおらず、そのうち四人が非番。なので、万年人手不足に頭を抱えているらしい。その証拠に、入り口には門があるだけで、警備員もいない。『永夜の民』は老いることも死ぬこともないので、多少の無茶ができるのが救いだった。いや、必須条件が『永夜の民』だから人手不足なわけなので、まったくもって救いではないのだが。
「セキは隊長やけんな、建物の二階にある、ひろーい執務室におるはずやで。さ、早く会いに行っといで」と、リョクは言った。
「え、ひとりで?」
「あかんの?」リョクは、ぽかんとしている。「やって、せっかくの非番に、上司の顔見たくないやん。階段上ってすぐのところにあるけん、すぐにわかるやろ。ドアプレートも掛かっとるし」
「ええ……」何がなんでも投げやりすぎやしないかと、呉羽は思う。こういうところが、『永夜の民』らしいとすら思える。
これ以上話しても無駄だろうし、腹も立ってきたので、だんだんと音を立て階段をのぼり、リョクと別れた。後ろから、「待っとるけんなあ」と聞こえてきたが、無視してやった。
リョクの言うとおり、執務室は、階段を上って正面にあった。金色の板——ドアプレートにも、『隊長・執務室』と書かれている。
扉をノックすると、「誰ですか?」と返ってくる。無論、セキの声だ。
「セキ、わたしだよ。入ってもいい?」
「……呉羽さん?」
扉の奥で、物音が聞こえて、扉が開けられる。セキはどこか嬉しそうな顔をして、呉羽を迎えた。
「来てくれたんですね、嬉しいです。さあ、どうぞ中へ」
執務室は、リョクの説明通り、広くて日当たりがいい。両側の壁には年季の入った書架が隙間なく設置され、同様に書物が詰められていた。書架の真ん中は、棚のようになっており、物を収納できる仕組みになっているらしい。その他には、大きくて横に長い机と椅子が一台ずつだけある、殺風景な部屋だった。だが、呉羽にとっては、あまり問題ではなかった。
「わああ! 書物がいっぱいある、すごい!」
永夜の都にいたころから、書物を読み、写本を作り続けていた呉羽にとっては、ここは魔性の空間であった。見たことない本の数々。きっとこれらには、呉羽が知らないことが山ほど書かれているのだろう。そう思うだけで、好奇心がとめどなく溢れてくる。溢れてくる胸の高鳴りに、身体が抑えきれず、左右にある書架を、走りながら往復する。
「ねえ、ここにある本、いくつか借りてもいい? 写したら返すから」
「構いませんよ、どうぞご自由に」
「本当!? やった! さーて、どれから借りようかなあ」
呉羽は上機嫌で、気になる題名のものをいくつか抜き取る。ふと、近くの棚が開いているのに気づく。奥の方に何かある。——なんだろう。
そっと棚を開けると、赤い紐が結ばれた、古ぼけた長方形の箱が入っていた。埃は被っていない。呉羽は好奇心に負け、紐をほどく。そして、そっと箱を開ける。入っていたのは、一本の扇だった。相当古そうだが、まだまだ使えそうだ。呉羽そっと取り出し、箱を床に置いた。ゆっくりと、扇を広げる。
「わ、あ……」
そこに描かれていたのは、美しい星空であった。金砂銀砂で創られた天の川は、光を当てると命が宿ったようにきらめく。まるで、夜をそのまま切り取ったような、美しい扇。だが、何か胸騒ぎがする。
——これ、どこかで……。
見たことがある。どこだったか、思い出せない。
「それがどうかしましたか?」
後ろから声をかけられ、呉羽は体をびくりと震わせる。セキが、口許にわずかな笑みを張り付けて、呉羽を見つめている。思わず、つばを飲んだ。
「え、っとね。この棚の中にあって、綺麗だなあって……」
「そうですか」セキは淡々と言う。「よければ差し上げますよ」
「え、いいの? だって、大切なものなんじゃ……」
呉羽の問いに、「構いません」と、セキは即答する。
「いまは、それよりも大事なものがありますから」
「大事なもの?」
呉羽は首をかしげる。セキは、笑みを返すだけで、何も言ってこない。
「……ありがとう。一生大事にするね」
「……はい、そうしてください」
そう言ったセキの表情が、愁いを帯びたのを、呉羽は見逃さなかった。「セキ、大丈夫?」
「はい、私は大丈夫ですよ」
先ほどの愁いなどなかったように、セキは抑揚なく言う。
「……そう」
それ以上何も言い返せずに、呉羽はうつむく。
手中の扇は、その美しさゆえか、呉羽の胸を貫き、息苦しさを催した。
♢
この泉は、『永夜の民』の始祖である姫君が、舞を舞ったとされる泉に似ている。
泉のほとりにひとり、博士は佇んでいる。
おかしなものだ。悠久の時の中、記憶のほとんどが消え失せる中、あの一時の記憶だけは、いまなお残っているのだから。
——巫女王は、何をしているんだ。
呉羽がいなくなった日。博士は、驚きとともに、安堵感を覚えた。ツキモノは、未だ増え続けている。農村地帯などは特に顕著で、ツキモノの数が、民の数を超えようとしていた。皆、ツキモノになることを恐れ、『月下大社』へと赴き、『月の女神』の加護を受けようとしている。不思議なことに、この泉や、屋敷の方にツキモノが現れたことは、二千年間、ただの一度もなかった。そもそも、『永夜の民』は、この辺に近づきたがらない。だからこそ、博士はあの屋敷で暮らしている。自分の使命を、全うするためだ。
その時、正面から、一羽の烏が飛んでくる。
「……慈鳥」腕を前に掲げると、慈鳥はそこに着地した。遠く離れた帝都から飛んできたとは思えないほど、ぴんぴんしている。大した烏である。
「久しいな、慈鳥。元気にしているか?」
慈鳥は何も答えず、ただじっとこちらを覗き込むだけ。——無駄な話は結構、という事か。
「……ツキモノの数が増え続けている。このままでは、都にいる『永夜の民』は、皆ツキモノになってしまう。無論、私も」
慈鳥が、控えめに鳴く。続けろ、という事だ。
「——巫女王が、ツキモノになりかけているんだ」
ふたりの間に、強い風が吹き込む。ただの烏と、人の会話だというのに、やけに重々しい。
「巫女王がツキモノになってしまえば、彼女が『永夜の民』にした者や、その子孫は皆ツキモノになってしまう。そうなってしまうのも、時間の問題だろうな」
ツキモノになる。それは、『永夜の民』がもつ神力が消失し、代わりに、忘れ去られていた感情を思い出すことだ。いまの『永夜の民』の永遠は、巫女王のもつ神力のおこぼれでしかない。そんな巫女王がツキモノになり、神力が消失すればどうなるのか。わからぬ者はいないだろう。
巫女王がツキモノになった暁には、すべての『永夜の民』が、ツキモノになってしまうだろう。
——ただひとり、例外を除いて……だが。
「慈鳥、頼みがある」博士は、腕に止まる慈鳥に頼む。「ないとは思うが、呉羽を都に入れるのはやめてくれ。そして——」
ひと拍おいて、
「あの子に、〝思い出させない〟でくれ。真実を知れば、あいつが何をするのか分かったもんじゃない」
と、言った。慈鳥が、博士を見つめ続けている。侠気を宿した瞳だと思った。
「……不思議か? 感情を失くした『永夜の民』のくせに、捨て子ごときに情を抱いて」
その瞬間、博士の瞳に、星屑のような光があふれ、まるで蛹が羽化し、中の蝶が羽を広げるように、表情が顔いっぱいに広がる。
そして、文字通り、微笑んだ。
「——愛しているんだ、あの娘を。我が子のように」
その日の夜、夕餉の片づけが一段落したころに、セキは帰ってきた。
「おかえりなさい。もうご飯食べ終わっちゃったよ」
玄関まで迎えに行くと、
「私は食事を必要としませんから、安心してください」
淡々とそう言った。
「まったく、食べないと元気が出ないでしょ。いくら死なないからって、食べないのは身体に悪いよ」
「はい、そうですね」
分かってなさそうだ。呉羽は唇を尖らせる。博士は、文句を言いつつも食べてくれていたので、全く食事を摂ろううとしないセキには、不満が募る。
——明日こそは食べてもらわないと。
もしかしたら、おいしさに目覚めて、自分から進んで食べてくれるようになるかもしれない——なんて、『永夜の民』である彼には、通用しない理論である。だが、呉羽は意地でも食事を摂ってもらう気満々なのだった。
その日の夜、呉羽は昼間に貰った扇を眺めていた。呉羽に与えられた部屋は、文机と衣桁、押し入れの中に布団があるだけの、簡素な部屋——他も、大体そんな部屋ばかりだ——だったが、景色がよく、延々と続く竹林の先に、帝都の明かりがよく見えた。その障子戸からわずかに漏れる光に、扇の装飾を当てる。金砂銀砂が、星屑のように輝いている。その美しい意匠を見るたびに、奇妙な懐かしさが胸を貫き、息が詰まる。
——やっぱり、見たことがある。
だが、頭に霞がかかったようで、思い出せない。だが、この懐かしさは、気のせいではない。まるで、胸中をかき混ぜられるように、気分が悪い。
そんなことを思っていると、セキが部屋に入ってきた。声ぐらいかけてほしいのだが、何度言っても何度かに一回はそのことを忘れるそうで、もう諦めていると、雲母が言っていた。
「呉羽さん、気分はどうですか?」
「……あんまり良くないかも」
誤魔化そうかとも思ったが、自分の嘘が壊滅的に下手なのは自覚しているので、正直に話した。セキは、目をしばたたく。
「何か、気にいらないことでもありましたか?」
「ううん、ただ……」手中の中にある扇に目線を移す。「これを見てると、なんだか不思議な気分になるの。その、うまく説明できないんだけど」
「そうですか」とつぶやき、セキは障子戸を開ける。冷たい風が、室内に流れ込む。今晩は一段と冷える。呉羽はそばに畳んでおいた羽織に袖を通した。
「月が、綺麗ですねえ……」
「うん、綺麗」
月だけは、永夜の都でも、帝都でも変わらない。それ以外は、すべてが違う。
「帝都はどうですか」
セキの問いに、
「とっても素敵だよ。綺麗なものも、おいしいものも、便利なものも、たくさんあるもん」
と答えた。帝都の発展ぶりは、呉羽が思う何倍もすさまじいものだった。この発展を見れば、永夜の都が、いかに俗世から切り離されているかが分かるというもの。
「『永夜の民』は、悠久の時を生きます。そんな彼らには、文明の発展などという言葉は似合いませんよ」
セキは、皮肉っぽく言う。「月にいたころから、ずっとそうでした」
「……ねえ、月ってどんなところだったの? 永夜の都みたいなところなの?」
「そうですねえ……いまはどうかわかりませんが、概ね呉羽さんの考え通りでしたね。ただ、『有夜の民』の発展の速さに、『永夜の民』は全く対応してませんでしたね。彼らは、地上の人間と大差ありませんから」
「そうなの?」
「ええ、月に住んでいるだけで、普通の人間と変わりません」
なるほど、と思う。
「じゃあ、わたしもみんなと同じ、人間なんだね」
「そうですね。認識的にも、『有夜の民』は普通の人間ですよ。特別なことは何もありませんね」
呉羽は、そこで思う。「ねえ、じゃあ『永夜の民』は?」
「え?」
「『永夜の民』は、やっぱり、人間じゃないの?」
その問いに、セキはしばしの間沈黙する。そして、「ええ、そうですね」と答えた。
「私たち『永夜の民』は、妖と呼ばれ、いまもむかしも揶揄されています。当然です。どれだけ痛めつけても、心の臓を撃ち抜いても、首を刎ねられても、死なず、最後にはツキモノという化け物になってしまう。こんな存在を、妖と呼ばずして何と呼ぶのか……」
気丈に振る舞ってはいるものの、セキが無理をしていることはすぐにわかった。きっと、悠久の時の中で、つらい経験を何度もしてきたのだろう。本人は、忘れているかもしれないが。
「……セキは、化け物じゃないよ」
セキの手を取り、呉羽はそう言った。その手には、わずかなぬくもりがあった。
「ツキモノだって、化け物じゃない。あれは悲しい人だから」
セキは、すべてを諦めきったようにうつむく。
「少なくとも、あなた以外には化け物ですよ、ツキモノは」
「信じられないな。でもたしか、ツキモノを祓うって言ってたもんね」
やっぱり、みんなにとっては危ないから? 呉羽は問う。
「そうですね。都に住んでいる『永夜の民』は知らないようでしたが、ツキモノは人を襲うんです。怪我人も多く出ています」
呉羽は息を呑んだ。
「あなたは本当に不思議な人です。ツキモノに襲われず、そして、私の凍りきった心も溶かしてくれる」
呉羽の手を強く握り返し、ずいっと顔を近づけてくる。思わず、呉羽はたじろぐ。
「呉羽さんは……」握っていた手の力を緩め、セキは視線を障子戸の向こうに移す。「もし、私たちと同じ永遠になれるとしたら、あなたも永遠を望みますか?」
「……」その問いに、呉羽は答えない。ただ、セキの方をじっと見て、微笑むだけ。たったそれだけだったのに、セキには呉羽の思いが伝わったようだ。
「これからも、私とずっとずっと‥‥‥一緒にいてくださいね」
にこやかに笑うセキの姿を見て、呉羽は胸が痺れたようになる。
それと同時に、いてもたってもいられなくなるような胸騒ぎがした。
夜も更け、静まり返った屋敷の台所で、呉羽はひとり、カステラに生地を作っていた。餅菓子は何度も作ったことがあるが、カステラのような菓子を作ったことはなかったので、とても新鮮な気分だった。リョクの話によると、カステラは、西洋の菓子が母体になってできたものらしいので、呉羽が見たことがなかったのも納得だ。
卵、上白糖、蜂蜜、みりん、すべて初めて使うものばかり。帰りに買った本で作り方を何度も確認しながら、ひとつひとつ丁寧に工程を重ねていく。最初は感じていた緊張と不安は、作っていくうちに薄れていき、代わりにむくむくと好奇心が生まれてくる。このとろみのある生地が、果たしてあんな風に柔らかくなるのか。なるとしたら、どうやって柔らかくなるのか。気になってしょうがない。
夢中になって調理を続けていると、背後から物音が聞こえ、振り返る。そこには、夜着の雲母と黒曜が扉の外から覗いていた。
「入っておいで」と促すと、顔を見合わせた後、戸をそっと開け、呉羽に駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんです」
「雲母にたたき起こされてきてみれば、台所に明かりがついてたから、消し忘れかと思って来た」
「ううん、気にしないで。こちらこそ、起こしちゃってごめんね」
「い、いえ、そんな!」と、雲母は慌てて頭を下げる。「邪魔したのはあたしたちの方です! すぐにお暇しますので」
「待て、そんなに慌てるんじゃあない」
黒曜は、窘めるように言う。「好意で入れてもらったのに、その言い方はよくないだろう。せめて何をしてるのかぐらい訊けばどうだ?」
ひと息で言い切って、黒曜は呉羽に向き直り、「それで、こんなに遅くまで何をしてるんだ?」と尋ねる。
「ちょ、ちょっと、黒曜! そんな風に聞く方が失礼でしょう」
「知らん。それに、もう十分失礼なことはしただろう。今更だ」
雲母を適当に言いくるめ、黒曜は、「で、なんなんだ?」と再度訊く。
「昼間に、喫茶店で食べたシベリアを作ってるの。できるようになったら、都にいたときみたいに街で売ろうと思って」
ふたりは驚いた様子で呉羽を見る。何だろうと思い、呉羽は声をかける。「ね、ねえ、わたし、何か変なこと言っちゃった?」
「ええっ!? そ、そんなことありませんよ、ただ……」
「そんなことをして、なんになるんだ」雲母の言葉に被せるように、黒曜が言い放った。声が低いのも相まって、気圧されそうになる。
「黒曜……!」
「雲母は黙っておけ」
黒曜の静止の声に、雲母は唇を引き結ぶ。
「……お前は何も知らないようだから、教えてやる。帝都は——いや、人間の世界ってのは、お前が思ってるほど甘い世界じゃあない。『永夜の民』にはない欲望と、醜い感情で溢れたやつらだ。そんな奴に菓子を売ったとして、何もいいことなんてない。売っている奴らは、生活のためにやってるんだ、お前みたいなお遊びじゃない」
「……」
「この世界で、お前が虐げられることは、たぶん、ない。だが、『永夜の民』は——」
「もうやめてっ!」
もう耐えられないといったふうに、雲母が声を上げた。
「黒曜はいつもそう、心配してるなら、もっと言い方を考えてよ! そんなことを言ったって、相手を傷つけるだけなんだよ! そんなことしてたから、黒曜は捨てられたんでしょう! この馬鹿!」
言いたいだけ言って、雲母は台所から飛び出した。
「待って!」呉羽はそれを追いかける。後ろで黒曜の声が聞こえたが、いまの呉羽には答える余裕なんてなかった。
夜の竹林は、本当に真っ暗で、何も見えない。星まで届きそうなほど高く、そのうえ葉までつけている竹は、月の姿を巧妙に隠し、光を遮っている。だが、竹林暮らしの呉羽にとっては、大した障害にはならなかった。今日ほど竹林育ちであることを感謝したことはない。竹林内に、道らしき道はない。竹と竹の間を何とか走って追いかける。
しばらく走って、呉羽はやっと開けた場所に出た。さして広くはないが、人ひとりなら広々とした場所だ。そこでは、今まで竹の葉によってさえぎられていた月光も入ってくる。
その場所に、雲母はうずくまっていた。呉羽が来たことに気づくと、雲母はこちらに顔を向けた。
「雲母ちゃん、迎えに来たよ。いっしょに帰ろう」
むっつりと黙り込んだまま、雲母は口を聞こうとしない。そんな雲母の隣に腰を下ろし、呉羽は空を眺める。丁度、月がきれいに見える場所だった。
「見て、月がきれいに見えるよ」
雲母は、黙って月を見つめる。その瞳には、郷里への哀愁の念が含まれているような気がした。
「……わたしね、さっきも言ったけど、永夜の都にいたころも、お菓子を作って、売りに行ってたんだ。誰も買ってくれなかったけど」
「……誰も買ってくれないなら、なんで売ってたの?」
やっと雲母が口を開いた。泣きじゃくったのか、少し鼻声で、機嫌が悪そうだった。
「だって、いつか分かり合えると思ってたもん。だから、誰に何と言われようと、わたしには関係なかった。誰に何と言われようとも、わたしはお菓子を作り続けるよ」
雲母は、呉羽の顔を見つめる。そして、すぐに視線をさらした。
「わたしね、都に友達がいたの。春ちゃんっていうんだけど……」
「友達って、『永夜の民』でしょう? ほんとに友達だったの?」
流石に失礼ではないかとも思ったが、セキの態度や都にいた他の『永夜の民』を見る限り、ごく自然な感情だと思い直した。
「友達だよ。春ちゃんは、わたしにとって、妹みたいな子だった」
呉羽は、正直気がかりだった。あの日、『永夜の民』に惨いほどの迫害を受けているところを見られ、『有夜の民』であることもばれた。そんな自分を見て、春がどう思ったのか。もう一度だけあって、話がしたかった。もう、叶わない願いだろうが。
「雲母ちゃんはね、春ちゃんに似てるの。だから、いろいろ思い出しちゃうんだ」
「……そう」
「で、その子が大好きだったお話があるんだけど、聞いてくれる? もしかしたら知ってるかもしれないけど」
「……はあ、別にいいけど」
言質は取れた呉羽は、書物を音読するように語り始める。
「——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話。あるところに、孤独な姫君がいた。姫君は、今上帝の娘という、高貴な姫君だったが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていた——」
♢
——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話。あるところに、孤独な姫君がいた。
姫君は、今上帝の娘という、高貴な姫君だったが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていた。
いつも同い年の従者の少年を連れ、まるで帝のように振る舞っていたのだ。
姫君のわがままは止まることを知らなかった。
ある時は、贅沢のために、民から財産を搾りとった。
ある時は、気にいらない臣下の首を刎ねた。
ある時は、罪人に殺し合いをさせた。
ある時は、隣国を手中に収めるために、戦争を起こし、多くの民を虐殺した。
帝は、娘の可愛らしさに目がくらみ、姫君の傍若無人な行いを止めなかった。
臣下は誰も姫君を止められなかった。止めれば、自身が首を刎ねられることになるからだ
民はいつ自分が殺されるのかもわからない恐怖と、いつ飢え死ぬかわからぬ恐怖とで、怯えて生きていた。
そんな人々を救うため、ひとりの青年が立ち上がる。青年は、姫君が手中に収めようとした国の王子だった。
王子は自国の兵士や民、さらには姫君の国の民衆や臣下たちをも抱き込んで、革命を起こしたのだ。
帝は、もはやこれまでかと、宮殿に火をつけ、自ら果てた。
姫君は捕まり、皆の前での公開処刑が決まった。
処刑当日、多くの民衆が罵詈雑言を飛ばす中、姫君は笑っていた。
そして、その首が落とされ、その首を旗の先端に突き刺した王子は、その旗を掲げ、
「この女が、この国を滅ぼしたのだ!」
そう民衆に向かって叫んだ。
この革命の一連の流れを、『悪星の変』という。
〝悪〟は、皆が姫君を悪と呼んでいたことから、〝星〟は、処刑された姫君の名からつけられたものだという。
この後、月はこの王子によって統一され、平和な世が訪れたという。
♢
一通り語り終えると、雲母は、深く息を吐き、唇を尖らせた。
「その春っていう子、このお話のどこが好きだったの? 全然いいお話じゃないよ」
「月に、そんないいお話なんてなかったと思うよ」
この話も、博士の部屋からくすねて読んだ本の中に入っていたものだ。
「……自業自得の話だね」
雲母は、月に視線を移す。呉羽は雲母の顔を見つめたまま、「そうだよね」と言って、月へと視線を移す。ふたりは、しばらく無言のまま、月を眺めた。
「そろそろ帰ろう。寒いよ」
「……黒曜に合わせる顔がない」
「そんなこと——」
ないと言おうとした時、背後から足音が聞こえてきて、反射的に振り返る。竹の緑の中に、よく目立つ赤と黒が見える。
「セキ、黒曜さん……」
「黒曜……」
セキと、黒曜だった。セキは相変わらず無表情だが、黒曜はばつの悪そうな顔をしている。
「ふたりとも、やっぱりここにいましたね」と、セキは黒曜に言う。当の本人は視線をすっとそらす。「私を同行させた意味、ありましたか?」
——そういうわけじゃないだろうに。
セキは、やはりどこか足りていないと、呉羽は思う。
「まあ、呉羽さんが見つかったので、私は先に戻りますね」
「え、でも……」
この状態のふたりを置いていくのか。
「大丈夫ですよ、私を信じてください」
セキが、優しく呉羽の手を取る。そして、否応なく手を引き、もと来た道を引き返した。
屋敷に戻った呉羽は、また台所に引っ込んで、菓子作りを再開したが、あのふたりのことを考えると気が気ではなく、集中できなかった。
しかし、翌日、多少ぎくしゃくはしていたものの、ふたりは喧嘩前と同じように仲良く仕事をしていた。
「玉兎は、番同士の意識が強いので、喧嘩してもすぐに仲直りしますよ。むしろあそこに私たちがいたら邪魔になっていましたよ」
というセキの言葉で、呉羽は納得すると同時に、あのふたり夫婦であることを知って、驚きを隠せなかったのだった。
菓子作りの特訓の甲斐あって、呉羽の菓子作りの腕は確実に上がっていた。
辛口評価をすると意気込んでいたリョクは、宣言通り駄目なところは駄目と指摘し、逆に、良いところはとことん褒めてくれた。その対応は、呉羽の向上心に火をつけ、その才覚を開花させた。
「ああ、慈鳥」
夜、カステラの焼き上がりを待っていると、窓枠に慈鳥が止まった。
「お、やっほーやで、慈鳥」とリョクが軽快に挨拶をする。しかし、慈鳥は無視して、呉羽のそばから離れない。毎回これなのだから、流石に気の毒だ。
「冷たい烏やで、慈鳥」
「はあ、リョク、お前もいい加減諦めろ。間違いなく嫌われているぞ」と、黒曜は横槍を入れる。
「やっぱり、『永夜の民』なのがあかんのかなあ……」
慈鳥は『永夜の民』によく虐められていたので、嫌われていても無理はないと、リョクは言う。
「さあ、どうなんだろうね」
呉羽も、その辺はよくわからない。リョクの言う通りなのか、はたまた単純な好みの問題か。
「……なあ、ずっと思ってたけどよ、その〝慈鳥〟って名前やめろよ」
慈鳥は、実は烏の別称だ。つまり、烏を慈鳥と呼ぶのは、烏に向かって、烏と呼んでいるのと大差ないのである。
「別にいいじゃん。だって、慈鳥も嫌がってないんだもん」
そう言う問題じゃないと言いたげな顔をしながら、黒曜は立ち上がり、「セキを迎えに行く」と台所を出て行った。
「素直じゃないやつやな」戸を見ながら、リョクはつぶやく。「うちも完成品味見したら帰るわ。もう遅いし」
「うん。今回のはうまくできる気がするよ」
今度こそ、おいしいに決まっている。売りに行くのが楽しみで楽しみで仕方がない。
「なあ、もしできたら、セキにも渡してくれんか? まあ、言わんでも渡すやろうけど」
リョクは、一瞬、愁いを帯びた表情を見せる。
「呉羽ちゃんなら、セキを変えられる。変えてくれると信じとるけん」
「……どういうこと?」
わけがわからず、呉羽は聞き返す。セキを変えるとは、一体どういうことだ。
「『永夜の民』ゆうても、感情のある人間と交流しとったら、多少の感情はあるはずなんや。他のみんなもそうや。やけど、セキにはそれがないんや、無かったんや、全く」
やけどな、とリョクは話を続ける。
「あんたとおる時だけは違うんや。普通の人間になったみたいに、幸せそうに見えるんや」
リョクは頭を下げ、呉羽に乞う。
「救ってほしいんや、セキを。永遠の夜の中から」
「……」縋りつくように訴えるリョクに、呉羽ゆっくりと近づき、その頭を撫でる。彼女の悲しみを払うように、慈しむように。
「大丈夫、約束するよ、絶対に。でもね、わたしは、セキだけじゃなくて、リョクも、みんなも救いたい」
はっとしたように、リョクは顔を上げる。
「みんなを幸せにしたいの。みんなを愛したいの、だから、セキだけなんて、言わないで」
その瞬間、リョクの瞳から、堰を切ったように涙があふれ、零れ落ちる。リョクの三百年分の涙は、止むことなく、彼女の頬と膝を濡らし続けた。
翌朝、切ったシベリアを並べ、思わず笑みがこぼれる。これから、このシベリアを売りに行くのだ。
——待ってて、すごくおいしいんだから。
呉羽は、シベリアと満面の笑みを引っさげて、屋敷を飛び出した。
その日は快晴だった。モダンな煉瓦造りの建物が並び、文明開化を謳歌する人々を守るようにそびえる。
そんな街の隅で、ひとりの少女が澄んだ声で宣伝をしていた。
「シベリアですよーっ! おいしいおいしいシベリアはどうですかーっ! 出来立てほやほやですよ!」
少女の声に惹かれ、道行く人々は、物珍しそうに、視線を向ける。
故郷では、見向きもされないどころか、蔑んで目で見られ、陰口をたたかれていたのに、ここにはそんな人いない。皆、自分を差別しないのだ。それだけで、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
「さあさあ皆さん! 出来立てが食べられるのはいまだけですよーっ! いかがですかーっ!」
少女は声を張り上げ、人々に呼びかける。その感覚は、まるで、自分もこの社会の一員として認められたような、そんな感覚だった。
時計の針が空高く蒼穹を指し示す頃、
「もし、もし、お嬢さん。そのお菓子、わたしにひとつ、買わせてくれませんか?」
女性の声に、呉羽はそちらを振り返る。声をかけてきたのは二十歳前後の女性で、背中を覆い隠すほど長い髪に、右目にガラスがはめられた飾り。
「あれ? もしかしてあなた……」
途端に、女性はぱっと表情を明るくする。
「覚えてくれていましたか? この前、わたしのお店に来ていましたよね、覚えていますか?」
帝都に来た最初の日、リョクと出会った仕立て屋にいた人だ。もちろん覚えている。帝都に来て初めて、人間だと認識した人なのだから。呉羽は「もちろん」と答えた。
「わたしのことも、覚えててくれてうれしいよ。ありがとう」
「いえ、とっても可愛らしい方だったので、覚えていただけです。それに——」
女性は少し言い淀んで、
「『永夜の民』と一緒にいる人は珍しいので、つい」
「……」
女性の言葉に、呉羽は内心動揺する。
——そういうものなの……?
たしかに、『永夜の民』は人との絆や関わりを重視しない。いまの言葉も、そういう意味なのだろうか。
「……それよりも、そのシベリアはいくらなの?」
沈んだ空気を振り払うように女性が尋ねる。金額を教えると、女性は巾着から代金を取り出し、呉羽に握らせる。
「はい、どうぞ」と、呉羽はシベリアを手渡した。お礼を言って受け取ると、女性はそれを齧る。
味わうように何度も咀嚼した後、女性は微笑んで、
「とってもおいしいわ」
そう言った。
その瞬間、女性の言葉で、呉羽の心は溢れ、目頭がかっと熱くなる。こぼれそうな涙をこらえ、呉羽は笑顔で「ありがとう!」と答えた。
女性は目をしばたたかせた後、彼女によく似合う、ふっと微笑むような表情を見せた。
女性は、華世という名で、三百年近く続く、仕立て屋、『ききょう』の十二代目の店主だと言った。
華世の好意で、仕立て屋に上がらせてもらった呉羽は、奥の部屋に通された。煎茶を出してもらい、それと一緒に、シベリアをいただく。食べながら、「本当は売り物だけど、まあいいよね」と言うと、華世はくすりと笑った。
「あ、そうだわ」
何かを思い出したように、華世は後ろの棚を漁る。——なんだろう。
「これを見て」と、華世は呉羽の横に、一枚の単衣を広げた。桜色と、空色が境界線でうまく溶け合った、美しい色合いのもので、四季草花の柄がとっても華やかだ。
「わああ! とっても可愛いね。これ、華世ちゃんが仕立てたものなの?」
「ええ、もちろん」
自信満々に答える。実際、それほど出来が良かった。
「これがどうかしたの?」
「これ、呉羽ちゃんに似合うと思って仕立てたの。よかったら貰ってくれない?」
「そんな……! こんな素敵なもの、受け取れないよ」
「あら、そう?」
「当たり前でしょ!」
こんな人だったのか、この華世という人物は。あの常識がない言動は、『永夜の民』特有と言うわけではなかったのか? 呉羽は困惑する。
「まあ、冗談は置いておいて。それなら、呉羽ちゃんにお願いがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」
♢
「みなさーん! 美味しいシベリアはいかがですかーっ!」
澄んだ呉羽の声が、仕立て屋『ききょう』周辺に響く。ここは、これまでの場所よりも人通りが多い。
「何だいお嬢ちゃん。菓子売りかい?」
店の前を通った中年の男性が、呉羽に声をかけた。背広姿が映える長身の男性だった。
「はい! 店主さんのご厚意で、売らせてもらって、ます!」
「ほう、そうかね。売っているのはシベリアかい? 妻の好物だ。どれ、味見してみよう。いくらだい?」
「わあ! ありがとうございます」
代金を受け取り、シベリアをひと切れ差し出す。
「おお、うまいじゃないか! 文句なしだ」
男性の賛辞に、呉羽は花が綻ぶような笑みを浮かべる。「本当ですか! ありがとう、ございます!」
「妻の分も買って帰りたい。あとふたつ買わせてもらうよ」
「はーい」
こみあげてくる笑みを堪えながら、準備をする。
「時に、君の来ている着物は美しいね。もしかして、この仕立て屋のものかい?」
「は、はい、そうなんです! 店主さんの仕立てる着物は、どんな着物よりも素敵だし、ずっと着ることができますよ」
「ほう」
「だから、今度はぜひ、奥さんと一緒に来てくださいね」
呉羽がそう伝えると、男性はにやりと笑う。
「なるほど、それが目的か。これはやられてしまったな」
「え、い、いやあ……そ、そんなことありませんよ! わたしはただ、すごいんだぞーってことを伝えたかっただけで……」
あいかわらず下手な誤魔化し方だと、自分を卑下したくなった。男性はその様子を見て、面白そうに笑い声をあげた。
「君の望み通り、今度は妻と一緒に来よう。ありがとう」
呉羽からシベリアを受け取り、男性はその場を後にした。
華世が提示した条件は、店の客寄せをしてもらうというものだった。
呉羽には、華世が仕立てた着物を着てもらい、店の目の前で、菓子を売ってもらう。そうすれば、自然と客の目が、仕立て屋にも向く。
「呉羽ちゃんは美人だし、良く通る声をしてるから、自然と人の目を惹きつけるの。だからお願いね」
そう語った華世は、呉羽に最低限の敬語と、立ち振舞いを叩き込んだ。もともと容量がいい呉羽は、たった一日でこれらを習得した。まれに言葉遣いに迷うこともあるが、誤差の範囲内だと言っていた。
——意味をはき違えているような気がするけれど……。
とやかく問い詰めたら拗らせそうなので、あえて口にしたりはしないが。
始めてから一週間がたつ頃には、呉羽に声をかけてくれるような人も増え、客足も増えだした。いまとなっては、みんなに愛される看板娘だ。
「呉羽ちゃんのおかげで、仕事がたくさん入って嬉しいわ。その分忙しくなるけれど」
「わたしも、そろそろ作れるお菓子を増やさないと」
ここでは、多くの人が呉羽を認めてくれる。もともとこの店の常連だったという人も、呉羽の作った菓子を買ってくれるようになったし、毎日新顔の客もやってくる。そして、客はみんな、呉羽に笑顔を向けてくれる。「おいしい」「また買いに来る」と。
どれも、永夜の都ではありえなかった光景だ。
「呉羽ちゃんは、みんなに愛されているわ」優し気な声色で、華世は言う。「常連さんも、みんな呉羽ちゃんを慕っているのよ」
「そうなの? 嬉しいなあ……」
自分なんて、死んでしまった方がいいと、あの時は思った。でも、それは間違いだったのだ。ここなら、たくさんの人が、呉羽を受け入れてくれる。愛してくれるのだ。
その多幸感に酔いしれながら、宙を仰ぐ。その時、
「おうおう、やっとるなあ、呉羽ちゃん」と、陽気に声をかけてきたのは、リョクである。見回りついでに寄ったのだという。
「うん! 大盛況だよ!」
満面の笑みで答えると、リョクは目を細めて、「そりゃよかったわ」と笑う。ふたりきりが良いと思ったのか、華世は店に戻った。
「それより、とんでもない量やなあ……」
とんでもない量。呉羽は、横に置いていたシベリアに目をやる。今日は、昨日の倍ほどの量を準備していた。
「しかしこの量は……本気で売らなあかんのちゃうか?」
「ううん、大丈夫だよ! 昨日だって、お昼ごろには全部売れたんだから!」
「おお、ほんまに大盛況やんけ」リョクは、しみじみといった様子で言う。「呉羽ちゃん、愛されてるんやなあ」
「えへへ、さっき華世ちゃんにも言われたの」
上機嫌で話していると、店から出てきた夫人が、明らかに嫌そうな顔をして、こちらをねめつけてきた。
「やだ、なんで『永夜の民』がいるのよ」
明らかな侮蔑を含んだその言葉に、リョクの顔から、表情が剥がれ落ちる。呉羽は、意味が分からず困惑する。その夫人は、よく呉羽に声をかけてくれる、気さくな女性だったからだ。
「……」リョクは、黙ったまま、夫人を見つめ続ける。その瞳は、呉羽が都で見てきた『永夜の民』と全く同じ、冷え切った瞳だった。
「ただでさえ不気味だというのに、まさかこんなところにも現れるだなんて……。気分が悪いわ」
夫人の表情が、人を蔑む醜悪な表情に変わってゆく。この光景、呉羽には見覚えがある。永夜の都で、『永夜の民』に蔑まれた時だ。あの時の人々は、心底呉羽を蔑み、虐げた。それと、まったく同じだ。
——なんで、なんで……。
そんな思いが、呉羽の胸中を渦巻く。
「……はあ、人に助けられとる身分で、よう言うなあ、華族サマ」
「ふん、自分たちの責務も全うできず、毎日のようにツキモノによる被害を出しているというのに、よく言えましたわね」
耐えきれなくなって、呉羽は視線をそらす。そこで、気づいた。周りにいた人々も、皆リョクに視線を向けていたこと。そして、そのまなざしには、夫人と同じ、侮蔑と軽蔑が含まれていることに。それに気づいた呉羽は、戦慄した。いままで大切だと、愛したいと思っていたすべての人々が、醜悪で、とてつもなく卑劣なものに思えたから。
夫人は、扇で口許を覆い、リョクを睨みつけ、
「永遠を生きる化け物。とっととこの帝都からいなくなりなさい」
と吐き捨てた。呉羽は、苦しくて苦しくて仕方がなかった。夫人の発する言葉全てが、都にいたころの迫害を思い出すものばかりだからだ。
「……そうか、ならいい。消えてやるわ」
リョクは立ち上がり、「ごめんなあ、呉羽ちゃん」と謝罪し、その場から立ち去った。
「ああ、呉羽さん。お可哀想に、あのような下賤な『永夜の民』に無理やり会話に付き合わされていただなんて……」
夫人の声は、いまの呉羽には届かない。ただ、彼女の香水の強い香りに、強烈な吐き気を催した。
その日の店じまいの準備中、華世が話を切り出した。
「……ねえ、呉羽ちゃん。ひとつ訊きたいことがあるんだけど」
どくりと、鼓動が嫌な音を立てる。「な、何?」
「今日、呉羽ちゃんのところに来てたのって、『永夜の民』よね。彼女だけじゃない。初めてこの店に来た時に、一緒にいた彼もよ」
セキのことだ。呉羽はうなずく。
「最初にこの店に一緒に来てた人は、『永夜の民』だったわよね? 呉羽ちゃんと彼は、どんな関係なの?」
「どういうって……」
セキと呉羽は〝ともだち〟だ。それ以上でも、以下でもない。だが、うまく言葉にできない。
「……。……た、助けてもらったの。だから、いっしょに」
やっとのことで、それだけ絞りだした。それについて華世は大して言及はせず、「そう」とだけ答えた。
——なんで、答えられなかったんだろう。
その答えが見つかる訳もなく、呉羽はうつむいた。
その光景を、見ている人物がいるとも知らずに。
♢
その日の夜、セキのために残しておいたシベリアを手に、彼の部屋へと向かう。
セキにも食べさせたかったのだが、ここ数日、彼も忙しかったようで、ゆっくりと会える時間がなかったのだ。
——セキ、喜んでくれるといいな。
どんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか、それとも驚くだろうか。いや、食事には興味がないと、文句を言うかもしれない。だが、そうは言いつつも、呉羽が作ったものならと、最後には食べてくれそうである。
期待で高鳴る鼓動を抑えつつ、呉羽はセキの部屋の前まで来て、声をかける。
「セキ、いる? 入っていい?」
「……呉羽さんですか。少し待っていてください」
ほどなくして、戸が開けられ、セキが顔を出す。どこか、やつれているように見えた。
「……大丈夫? 疲れてない?」
「はい。大丈夫です」
本人はそう言うが、大丈夫ではなさそうである。心配になって、呉羽は「そうは見えないよ。やつれて見える」と食い下がった。
「私は『永夜の民』です。疲れることはありませんよ」
セキの眉間に、しわが寄る。だが、いまのセキの状態を、気のせいだと片づけられるほど、呉羽は鈍感ではない。
「なんで、辛いならそう言えばいいのに。なんで言ってくれないの? わたしたちは〝ともだち〟なのに……」
その瞬間、セキの顔が歪んで、泣き出しそうな顔になる。その顔に、呉羽は息を呑んだ。そんな表情を、『永夜の民』である彼が作れるとは、到底思えなかったからだ。
「……じゃあ、あの時は何で、私を〝ともだち〟だって、言ってくれなかったんですか……っ!」
「え、あ……」
あの時。きっと、昼間の華世との会話だ。
——見られてたの……?
総身が冷える思いがした。
「……私は、もう必要ありませんか?」
セキの瞳が、哀しげに揺れる。呉羽は、胸が槍でえぐられるような苦しさを覚えた。
「あなたは、私とは違います。ここでなら、あなたはその優しい声と笑顔で、誰からも愛されます。でも、私は、私は……!」
「セキ……」
「私は、あなたが幸せならそれでいいんです。ねえ、呉羽さん」
いまにも泣きだしそうな顔をしながら、セキは呉羽の瞳を見る。どろりとした、汚泥のような光を宿した目だった。
「あなたは、幸せですか……?」
「……わたしは」
——幸せなわけがない。
先ほどまでの多幸感が、砂城のように崩れていく。セキがこんなにも苦しそうなのに、幸せなわけがないだろう。なぜそんなことも分からないのだ。
「……なんで、なんでそんなこと言うの?」
崩れ去った多幸感の代わりに、辛くて悲しい、複雑な感情が、呉羽の心に根を張る。
「やっぱり何にもわかってないじゃない! 出会ってからいままで、何にもよ! わたしはみんなに幸せになってほしいって思っているのに、セキがそんなので、わたしが本当に幸せだと、本気で思ってるの?」
その複雑な感情が、呉羽の熱を、目頭に集める。それを見て、セキがはっとした顔をする。
「あっ……、違います。私は、私は……」
「もういい。わかってくれるまで、セキにはお菓子を食べさせないから! ちゃんと自分の頭で考えて!」
言いたいだけ言って、呉羽は部屋の前から走り去る。
「あ、いやだ! 呉羽さん……!」後ろからセキが呼び止めてきたが、呉羽が振り返ることはついになかった。
♢
深夜、久方ぶりの睡眠は、その身を蝕む闇によって終わりを告げた。
布団から芋虫のように這いずり出て、力を振り絞って立ち上がる。『永夜の民』であるセキは、普通よりも夜目が利く。それと、今日は月がよく見えるので、明かりはいらなかった。
何とか姿見の前までたどり着いたセキは、帯を解き、夜着を脱ぐ。彼の、白皙で、細くしなやかな身体が露わになる。
しかし、その白い肌は、黒い靄に侵食されていた。左胸を中心に、左腕から腹までもが、もはや人としての原形を留めていなかった。無事なところも、いつ使い物にならなくなることか。考えるだけで恐ろしい。
——なりかけているのだ。ツキモノに。
当たり前だ。セキとてもう、二千年以上の時を生きているのだ。『有夜の民』だったころの限界なんて、とうのむかしに越えていたのだ。こうなってしまっては、いつツキモノになってもおかしくない。
——私でこれとは、なら、あいつはもっと……。
「うっ、ああ……!」そうする間にも、靄はセキの身体を蝕み続ける。それと同時に、かつては感じていた感情も、蘇る。
何がきっかけだったか。——ああ、そうだ。
「呉羽さんと、〝再会〟して……彼女を、助けて……」
あの瞬間、セキの中に、新しい何かが生まれた——いや違う。セキの中で眠っていたものが、蝶のように羽化したのだ。それと同時に、物憂げで、色褪せたこの世界も、鮮やかな色を持ったのだ。——それなのに。
「私は、呉羽さんを怒らせてしまった。嫌われたかも、しれない……」
その間も、セキの身体は、靄に犯されてゆく。その浸食は、耐え難い悲しみと苦しみが伴う。
——この苦しみは、私への……僕への罰ですね。
そう思えば、この感情に正当性がつくような気がして、いくらか気分が楽になった。
「……『生きていて、ごめんなさい』」
我が身を蝕む永遠の〝呪い〟を、セキはただ、じっと見つめることしかできなかった。
翌日、鬱々とした気分のまま、無理やり笑顔を作って、菓子作りに専念する。しかし、やはり思ったような笑顔は作れず、朝一番に会った黒曜にすら心配され、挙句の果てに休むように言われる始末。
セキと言い争いをした後、悔しさと苦しさで涙があふれ、一晩中泣きじゃくった。そのせいで、ほとんど眠れなかった。最悪の気分だった。こんな気分になったのは、『月下祭』の前日に、博士と言い争いをしてしまった時以来である。
——博士は、どうしてるんだろう。
いきなりいなくなった不良娘に憤りを感じているのか。それとも、どこをほっつき歩いているのかと、呆れて待っているのか……。果たしてどちらだろう。いまとなっては、知る由もない。
昨晩、『……私は、もう必要ありませんか?』と言った時の、セキのあの表情が忘れられない。きっと、セキは不安なのだ。呉羽が多くの人から愛され、自分のもとから離れていくのが。
——そんなこと、絶対にありえない。
呉羽は、心の底から、本心でそう言える。あの時、助けてもらえた瞬間から、ずっと一緒にいると決めているというのに。信じてもらえていないのか。そう考えると、寂しさが込み上げてくる。
「はあ、こんなんじゃだめだな」
呉羽は両頬をたたいて喝を入れ、出来上がった菓子を並べていった。
その時、戸がすっと開き、雲母と黒曜が入ってきた。
「呉羽ちゃん、大丈夫? 昨日はずっと泣いてたみたいだけど……」
「えっと……」なんと言い返せばいいのか、呉羽はたじろぐ。すると、見兼ねた黒曜が「リョクから聞いてんだよ、誤魔化すんじゃないぞ」と釘を刺してきた。そう言われてしまえば、もう何も言い返せない。
「呉羽ちゃんには言えなかったんだけど、もうこの際だから、言った方がいいかなって」
「……帝都での、『永夜の民』のこと?」
呉羽の問いに、黒曜がうなずき肯定する。
「『永夜の民』は、知っている通り、死ぬことはない。心の臓を引きずり出されても、四肢が切断されても、もちろん、首を刎ねられてもだ。それは、ツキモノだって同じだ」
呉羽は、脳裏に残る、黒い靄を思い出す。
「帝都にいる『永夜の民』は、ツキモノを祓う。だがそれは、この世から消してるんじゃない、あくまで追い払っているだけなんだ」
死なないから、それしかないんだ。黒曜の瞳が、どんどん暗くなっていく。
「だから、『永夜の民』の存在も、結局はその場しのぎにしかならないんだよ。追い払っているだけだから」
その話を聞いて、呉羽は、ツキモノが消されていないと知って、不謹慎と分かりつつも、ひどく安心した。
呉羽にとってツキモノは、悲しい存在なのだ。人としての形を失った、悲しい生き物。
——でも、それは救いではない。
「ツキモノは、人を襲う。なぜかは分からない。そんなやつらから人々を守るために存在している『永夜の民』が、ただ追い返しているだけ。そんな状況だ、『永夜の民』を、役立たずと言うやからも出てくる。そのうえどんな手を使っても殺すことができない存在……人間どもが、忌み嫌う理由もわからなくはない」
「みんなは、ツキモノが死なないことを知らないんじゃないの? それを知ったらきっと——」
「そんな単純じゃないに決まっているだろう。人々に甚大な被害を出しているツキモノの正体が、『永夜の民』だと知られても見ろ。いままで以上に迫害がひどくなることが目に見えてるだろうが」
呉羽は、呆然とした。あまりにひどすぎる。『永夜の民』は、毎日のようにツキモノと戦っているというのに、そんなのはあんまりではないか。『永夜の民』も、生きている時が違うだけで、みんなと何も変わらないのに。
「……不思議だね。永夜の都では、『有夜の民』だって、わたしは蔑まれたのに、こっちでは『永夜の民』が蔑まれてる」
「生き物ってのは、古今東西変わらないもんなんだよ。たとえそれが、永遠を生きる人ならざるものであってもな」
呉羽は、返す言葉が見つからず、黙り込む。黒曜も、言いたいことを言いきったのか、そのまま黙り込んだ。
「……セキは、あたしたちの恩人だよ」
長い沈黙を破ったのは、雲母だった。その声は、どこか震えていた。
「月の都で、つかえていた主人に毎日のように打擲されて、地上に捨てられたあたしたちを、拾ってくれたのはセキだった。あの人は、あたしたちにとっては、いくら感謝しても感謝しきれないぐらい、素敵な人なの……!」
「雲母ちゃん……」
「だからお願いします。セキを救ってほしいんです。彼はずっと、ずっと苦しみ続けてるんです。それを救えるのは、呉羽ちゃんしかいないんだよ」
藁にもすがるような声音の雲母の横で、黒曜も頭を下げ、「俺からも頼む」と頼み込んだ。
いつだったか、リョクにも同じことを言われた。セキを救ってほしいと。
呉羽の答えは、あの時と同じだ。
「大丈夫、約束するよ、絶対に。でもね、わたしは、セキだけじゃなくて、みんなも救いたい」
ふたりは、驚いたような、いや困惑したような表情をする。
「みんなを幸せにしたいの。みんなを愛したいの、だから、セキだけなんて、言わないで」
その言葉に、ふたりは顔を見合わせ、顔を紙のように崩して泣き始めた。
そんなふたりの頭を、呉羽は絶えずに撫で続けた。このふたりが、少しでも早く、笑顔になれるように。
♢
重い体を引きずるように歩きながら、セキは見回りをする。
気分が悪い。それが、この身を蝕む靄のせいだということは明確だ。こんな状態でツキモノなんかに出られたら、たまったもんじゃない。だが、だからといって、対処に応じなければ、人間たちに文句を言われることも、また明確なのだ。
あれから、呉羽とは顔を合わせていない。否、合わせないよう、彼女のことを避けていた。ただでさえ昨日のことでぎくしゃくしているというのに、こんな状態で顔を合わせたら、また要らぬ心配をかけてしまう。
——私は、呉羽さんに嫌われたのでしょうか。
嫌われたって、文句を言えないようなことをしてしまった自覚はある。怖かったのだ。帝都に来て、誰からも愛されるようになった呉羽が、いつか自分のもとから離れていくのではないかと。周りの人々のように、彼女もまた、自分を拒絶するのではないかと。そう考えただけで、生きるのをやめたくなるほど苦しいのだ。だから、あんなことを言ってしまった。
「私は、何も変わってませんね」
喧噪の中に消えるひとりごとに、セキはまた、重たい息を吐く。
その時、遠くから悲鳴が轟いた。
今日も、呉羽の菓子は、飛ぶように売れていく。新顔の客に挨拶と、店の宣伝をする。その奥では、華世がひっきりなしに動いている。
「今日もありがとう。明日もまた来るよ」
「呉羽さん、これからも頑張ってくださいね」
そんな言葉が、呉羽を励まし、活力へと変えてゆく。多くの人から愛されるのは、こんなにも幸せなのか。
——やっぱり、都を出てよかった。
だが、呉羽の心の隅には、セキへの心配が陣取っている。今日は日が昇らぬうちから仕事へ出てしまって、顔を合わせられなかった。会っても、気まずくなるだけ、そう考えればいいのかもしれないが、あいにく呉羽には、そんな楽観的な考え方はできなかった。
——帰ったら仲直りしよう、もちろんお菓子も持って行って……。
そんなことを考えていた時だった。
近くで、女性の悲鳴が轟く。あたりにいた人々は騒然としている。
——何かあったの……?
そう思っていると、ひとりの男性がこちらに走ってきた。
「ツキモノだあ! ツキモノが来たぞお! 早く逃げろ!」
男性の咆哮に、人々は一斉に逃げ出した。呉羽は、とっさのことで動くことができず、固まったまま。
「呉羽ちゃん、店の奥に避難しよう! ——呉羽ちゃん?」
「い、行かなきゃ……」華世の声は、いまの呉羽には届かない。自身の中にある使命感に身を委ね、呉羽はそのまま走り出した。後ろから華世の声が聞こえたが、振り返る暇はない。人の波に逆らって、呉羽はツキモノのもとへと走る。正確な場所なんてわからない。だが、この方角であることは分かるのだ。
何とか波を抜けると、呉羽はようやく、その姿を拝むことができた。
そのツキモノは、いままで見たことないほど、黒く、濃い。それが空を覆っているので、まるでこの世界全てが、真っ黒に染まったような錯覚に陥った。
「……ツキモノさん」呉羽は、ツキモノに語りかける。「どうして、人を傷つけるの? だめだよ」
ツキモノは、陽炎のようにぐにゃりと歪み、渦を巻くように動く。それを見ていた人々は、悲鳴にも似た声を上げた。
「だめだ! 逃げろ!」
「呉羽さん、逃げてください!」
呉羽を止める声。しかし、いまの呉羽に、そんなものは関係ないのだ。
いまこのツキモノを救えるのは、他でもない、呉羽だけなのだ。
ゆっくりと、呉羽はその腕を、ツキモノに伸ばす。原型がないそれは、呉羽の腕を優しく受け止める。
また、意識は遠のいていく。
♢
『どうせ、僕なんて、あなたの引き立て役でしょう?』
青年が、そんなことを言った。そんなことを言われて、驚きを隠せなかった。
『……どういうこと?』
しぼりだすように、それだけ訊いた。
『あなたは、僕なんかといなくても、誰かに愛してもらえるでしょう? なのに、こんな僕にまで優しくしてくれるだなんて……そんなの、僕を引き立て役だと思っているからに違いないって……』
『……違うよ』
その言葉を無視して、青年は、いまにも泣きだしそうな顔をして、
『でも、それでもいいんです。引き立て役でも、何でもいい。僕はずっと、あなたと一緒に居たいんです』
と、卑屈な言葉を吐く。
そしてまた、繰り返すのだ、『……生きていて、ごめんなさい』と。
そんな彼を、優しく腕の中に抱く。青年は、驚いたように固まる。
『わたし、あなたのことが大切だよ』
『あなたは、この世界で、誰よりも素敵な人だよ』
その言葉に、青年は堰を切ったように泣き始めた。
いままで流せなかった涙を、ここで流しきるように。
これまでの辛かった想いを、吐き出すように。
♢
我に返った呉羽は、ゆっくりと腕をツキモノから引き抜いた。
「ツキモノさん……あなたも、愛されたかったの?」
ツキモノが、何かを訴えるように、ぐにゃりと歪む。悲しんでいるように見えた。
呉羽は、先ほどまでツキモノに包まれていた手を、今度は伸ばす。あるかもわからない、ツキモノの顔に向かって。
「わたし、あなたのことも愛したいの。あなたも、わたしと同じ、孤独な人だから」
その瞬間、ツキモノが、濁った声を発する。いや、声ではなく、ただの音だ。だが、呉羽にとっては間違いなく声だった。
「……呉羽さん?」
その声に、呉羽の鼓動が早鐘を打ち始める。ねっとりとしていて、いやに耳に残る声。そして、呉羽の心の隅を陣取っていた人。
「セキ……」
あたりの人々が、再びざわつき始める。
ふたりは、しばらく見つめ合ったまま、ひと言も発さなかった。このひと時ですら、呉羽にとっては幸せだった。
しかし、そんなふたりの時間を打ち消すように、ツキモノが大きくうねる。
「く、呉羽さん、逃げてください……!」
セキの言葉もむなしく、呉羽の身体は、そのうねりによって跳ね飛ばされ、人混みのすぐ近くにたたきつけられる。
「呉羽さん!」
セキの、悲鳴にも似た声が響く。いますぐセキに駆け寄って、大丈夫だと伝えたいが、打ちつけたところが痛くて、起き上がることができない。着物も、砂ぼこりで汚れている。
「お、おい。何だあれは……!」
ふと、群衆のひとりが、ツキモノの方を指さした。指さす先では、ツキモノの身体が、砂のように消えかけていた。その動きも、どんどん鈍くなってゆき、最後にはほとんど動かなくなった。
完全に消えるその瞬間、呉羽の耳に、わずかに、
「……ありがとう」
という声が届いた。あれは、ツキモノの声、なのだろうか。あのツキモノは、救われたのか。
——どういたしまして。
そう、心の中でつぶやいた。
しかし、次の瞬間には、立錐の余地もないほどの人が、セキを取り囲んだ。呉羽の身を案じ駆け寄る人々の数よりも、そちらの方が圧倒的多い。
「お前! 『永夜の民』のくせに、なんで何もしなかったんだよ!」
「そうよ! おかげで呉羽さんが傷ついたのよ! もし大怪我をしてたらどうするつもりだったの!」
「そうだそうだ! この化け物! こんな役立たず、帝都からいなくなっちまえ!」
群衆のセキへの迫害は、徐々に苛烈さを増し、次第に石を投げるものまで現れた。セキは、黙ってそれを受け入れている。
「ああ……セキ、セキ……!」
その時、遅れて華世が、呉羽のもとへ駆け寄ってきた。呉羽を取り巻いていた人々は、華世がやってきたのを知ると、彼女が呉羽に近づけるよう、さっと距離をとる。
「呉羽ちゃん! 大丈夫? 大きな怪我とかしてない?」
「うん。あ、着物、汚しちゃった」
「そんなの、なんとでもなるからいいの。とにかく、呉羽ちゃんが無事でよかった……!」
安堵のため息をこぼす華世の横で、呉羽はセキの方を見つめる。
——助け、ないと。でも……。
呉羽の脳裏に、都での迫害の記憶がよぎる。あの時も、呉羽は石を投げられ、罵詈雑言を吐かれた。あの時の恐怖は、相当なものだった。もしいま、あの中に入ったら……。
そんなことを考えて、なかなか動けなかった。
その間も、セキへの迫害は苛烈を極め、しまいには背後から殴られ、その場に倒れた。
「……あ、ああ」かすれた声が、口からもれた。
——動いて、動いてよ……!
そう思っても、呉羽の身体は、その場に根を張ったように固まり、動かすことができない。
「……なんだよ、これ……!」
群衆のひとりが、震えた声で言う。よく見ると、セキの服が捲れ、脇腹が見えている。
その体は、靄となり、原形を留めていなかった。
その光景を見た群衆は、皆そろって、恐れ戦く。
その靄は、間違いなく、先ほどまで暴れていた、ツキモノのそれだった。
「おいおい、嘘だろ……」ひとりの男が、狼狽した様子で言う。「つまり、あのツキモノと『永夜の民』は、仲間、なのか?」
それは、ツキモノの正体が『永夜の民』だと、皆の前でさらされた瞬間だった。
「おい! どういうことなんだよ! じゃあ、いままでのは全部、茶番だったっていうのか!? お前らのせいで、いったいどれだけの人が不幸になったと思ってるんだ!」
「そうよ! わたしの夫を返してよ!」
「おらの仕事仲間もだ! 全員お前が殺したようなもんじゃないか!」
人々のつもりに積もった怒りが、尋常ではなかった迫害を、さらに加速させてゆく。セキは、先ほどまでの、すべてを受け入れるような顔ではなく、もう、この世のすべてに絶望したような顔をしていた。
呉羽もまた、絶望に近い何かを感じていた。
——セキが、ツキモノに……?
いつからだ。わからない。呉羽と出会う前から? 腹の底から気分が悪くて、何も考えられない。不安と、苦しみが綯い交ぜになって、胸中を渦巻いている。
不意に、セキの口元が動いているのに気づいた。そして、わずかに、いやかすかに、セキの声が聞こえてきた。
「……『生きていて、ごめんなさい』」
「……」呉羽は、周りの静止を振り切り、ゆっくりと立ち上がり、群衆の方へと近づく。人と人の合間をうまくすり抜けて、着実にセキの方へと近づく。
——いまのセキは、むかしのわたしと同じ。
人々からの迫害に耐え切れず、生きるのをやめたくなるほど絶望している。そんなセキに、いまの呉羽ができること。
それはもう、ひとつしかない。
呉羽がセキの前に立つと、いつかと同じように、怒号も罵詈雑言もぴたりと止む。
その場にしゃがみ込み、呉羽は、セキの青い瞳を見つめる。その瞳には、優しくて、でも、いまにも泣き出しそうな顔をした少女が映っている。
「あ、ああ……く、れは……さん」
セキは、信じられないといったような顔をして、こちらを見ている。
「セキ、昨日はごめんね。心にもないこと言っちゃって」
いま一番言いたかったことだった。セキは、わずかに首を横に振る。
「……ねえ、生きていてごめんなさいなんて、言わないでよ。考えないでよ」
そして、呉羽は、手を差し出した。あの時、セキがそうしてくれたように。セキが、涙を必死にこらえているのが分かる。いまはもう、それすら愛おしい。
——わたしはもう、セキが愛おしくてたまらない。
かける言葉は、もう決まっている。堪えきれなかった感情が、幾筋もの涙となって、呉羽の頬を伝う。
「だって、わたしたちは、〝ともだち〟なんだから」
その瞬間、セキの努力もむなしく、堪えていた涙が堰を切ったようにあふれ、彼の輪郭を描いて崩れ落ちた。
人々は、涙を流すセキを見て、ひどく困惑している。
「お、おい、『永夜の民』が泣いてるぞ……!」
「『永夜の民』に、感情なんてないんじゃ……」
「だ、騙されるな! きっと俺たちを欺こうとしてるに違いない!」
様々な憶測が飛び交う中、呉羽はセキの顔を見つめ続ける。絶望に染まり切った顔に、ぽっと灯がともったような、そんな表情だと思った。
「呉羽さん、なんで、私は、あなたにひどいことを……」
「……されたっけ? 覚えてないんだけど」
とぼけて見せると、セキは一瞬きょとんとして、すぐに微笑んだ。
「ああ、私の勘違いだったみたいです。ごめんなさい、呉羽さん」
「ううん、別にいいよ」
あまり意味のない会話をして、呉羽は、
「ねえ、とりあえず逃げた方がいいと思うんだけど、どう思う?」
と、セキに問うた。それに、セキは考えるようなしぐさをして、「はい、そうしましょう」と答え、呉羽の手を取った。
その瞬間、呉羽は、群衆めがけて走り出す。その勢いを利用して、セキは立ち上がり、ともに走り出す。
「お、おい! ちょっと待てよ!」
後ろから呼び止められるような声が聞こえたが、聞こえていないふりをした。いまはただ、セキの手のぬくもりを、感じていたかった。
「ねえ、これからどこに行きますか?」
「ん-、やっぱり、わたしたちの屋敷じゃない? 聞かなきゃいけないことが山ほどあるもの」
「おやおや、これは、帰ってからが怖いですねえ……」
くすくすと笑うセキは、なにやら楽し気だ。まったく怖そうではない。
「もうっ! 帰ったら覚悟しておいてよね! すぐにお説教してやるんだから!」
呉羽の澄んだ声と、セキのねっとりとした声が交互に響く。その声を辺りに溶かしながら、ふたりは屋敷まで走り続けた。
屋敷に帰ってすぐ、何があったのかと、雲母と黒曜に絶叫された。
それはそうだ。なにせ、いまの呉羽は土ぼこりにまみれ、セキも打擲されたせいで、ぼろ布のようになっているのだから。早急に風呂を沸かしてもらい、身体を洗い流した後、ようやく落ち着いたふたりは、呉羽の部屋で、障子戸の先に見える、手色の景色を眺めていた。
「……やっぱり、たまには都の自然が恋しくなるな。山がね、線を引いたみたいに綺麗に見えるんだよ」
「へえ、それはいいですねえ」
そんな世間話を交えた後、呉羽は、「わたしね、思ったの」と、セキに話を切り出した。
「はい、なんでしょう」
「わたしね、最低だったなって」
セキが、息を呑む気配がした。気にせず話を続ける。
「セキがみんなにひどいことをされてる時、すぐに助けられなかった。怖かったの。あの時——都にいたときのことを思い出して」
あの時の迫害は、それに匹敵する、いや、それ以上にひどいものだった。セキはずっと、あのような迫害を受け続けていたのだ。それも、呉羽よりもずっと、長い時間、悠久とも思えるような時の中で。
——それなのに、わたしはすぐに救えなかった。
「セキは……あんな辛い思いをずっとしていても、わたしを助けてくれたのに、わたしは、わたしは……」
「呉羽さん……」セキの手が、呉羽の手を優しく包み込む。「そんなに自分を責めちゃだめですよ。あなたは何も悪くないんですから。それに、私だって、同じでしたから」
「え……?」
「私だって、あの時、あなたを助けるのが、怖かった。これまでこの帝都で、幾度も傷つけられてきましたから。体には何も残らずとも、心にはいつまででも残るんです」
それは、呉羽だって同じだ。蔑まれてきた時の記憶は消えない。呉羽はこくりとうなずく。
「でも、助けずにはいられなかったんです。言ったでしょう? 私は、呉羽さんに呪われていると」
「わたしに……」
呪われている。初めていわれたときは、ぴんとこなかったこの言葉。だが——
「……そうだ。わたし、セキにもお菓子を食べてほしくて、とっておいた分があるの。食べてくれる?」
「はい、もちろんですよ」
呉羽は台所まで走り、セキのためにとっておいたシベリアを持って、部屋へと戻る。
「くふふ、知っていましたが、やはり呉羽さんの作った菓子は美しいですね」
菓子を受け取ったセキは、まじまじと見つめながら言う。それが気恥しくて、「た、食べないなら片づけちゃうよ!」と語尾を強くして言った。
「おっと、それは困りますね。では、盗られる前にいただきましょうかね」
匙でそっと切り分けると、それをゆっくりと口に運んだ。味わうように咀嚼した後、文字通り、満面の笑みを受けべて、
「……とっても、おいしいです」
そう言った。
——ああ、やっぱり。
誰に言われるよりも、セキに言われるのが、一番うれしい。
初めて呉羽の菓子を食べたのは、博士だった。しかし、味が分からないと、突っぱねられてしまった。それから数年がたって、春と出会って、彼女にも食べさせた。
まるで、この世の幸福をすべて感じたと思わせるほど喜んで、「おいしい」「ありがとう」と言ってくれた。あの時は、本当に嬉しくて、その後も菓子を作り続ける原動力になった。
だが、今回は、そのどれとも違う。
おいしい。そう言われた瞬間、その言葉で、呉羽の心は溢れたのだ。これまで感じたことがないほど胸が高鳴り、苦しいほどだった。でも、もっとそれを感じていたい。そんな感情。
いまなら、セキの放った、〝呪われている〟の意味も、なんとなく分かるような気がする。
——わたしも、セキに呪われている。
いまはもう、呉羽もセキと、同じ気持ちだから。
その時、下から、戸を激しくたたく音が響く。
「セキ! おるんやろ、一大事や! はよ開けえや!」
リョクの声だ。だだっという足音が聞こえ、次いで扉が開く音がする。おそらく、雲母だろう。
「な、なんですか! そんなに慌てて……」
「話はええけん、はようセキと呉羽ちゃんに会わせてくれや!」
ただ事ではない。ふたりは顔を見合わせ、急いで廊下に出て、階段を駆け下りる。
玄関には、困惑した様子の雲母と、あとから駆けつけてきたのであろう黒曜。顔を青くして、息を切らすリョク。そして、その後ろにもうひとつ、小さな影が。
「ふたりとも……」
息を切らしながら、リョクはふたりを交互に見る。そして、リョクは呉羽の双眸を見つめて、
「呉羽ちゃん、あんたに、会わせたい子がおんねんけど」
そう言うと、後ろにいた小さな影が、ゆっくりと姿を現した。
「……え」
それは、紛れもなく、永夜の都にいるはずの、春だった。普段から汚れていた頬や髪はいつのも増して汚れ、傷こそないが、着ていた藍染めの小袖は穴だらけになっている。
春は、呉羽の姿を見た瞬間、その瞳から、大粒の涙を流し始めた。そして、
「……助けて。とともかかも、他のみんなも、ツキモノになっちゃった……!」
呉羽は、困惑した。その場にいた全員が、言葉を失っていた。
「は、春ちゃん、みんながツキモノになったってどういうこと? そもそも、どうやってここまで来たの?」
「呉羽ちゃんがいなくなったって、博士さんから聞いて……あたし、いてもたってもいられなくなっちゃって、都を飛び出したの」
そして、帝都までたどり着いた、ということか。
「わかんないんだけどね、あたし、呉羽ちゃんがいなくなったって知って、すっごく心配で……黙ってられなくなっちゃって、それで都を飛び出したの」
とめどなく溢れる涙を拭いながら、春は訴える。呉羽は、着物が汚れるのも気にせず、春を抱きしめた。自分のために、こんなにぼろぼろになった春に、呉羽はただ、感謝したかった。『永夜の民』である春は、きっと都の外を恐れていたはずだ。だが、それでも春は、呉羽のために、帝都まで来てくれた。その事実が、とてもうれしかった。きょうだいのいない呉羽にとって、やはり春は、本当の妹のように、大切な存在なのだ。
「……呉羽ちゃん、あたしね、呉羽ちゃんが大好き」
呉羽にだけ聞こえるように、春はつぶやく。呉羽は目を細め、その背中を何度も撫でる。
「……あたし」
その瞬間、春の瞳に、美しい光が溢れ出す。そして、花がその花弁を広げるように、その顔に、暖かな表情が現れる。
「呉羽ちゃんを、ううん、〝呉羽お姉ちゃん〟を——愛してる」
♢
風呂で体の汚れを洗い流し、髪を整えた後、春は桃色の無地の着物に袖を通して、部屋に現れた。身なりを整えた春は、見違えるほど美しくなっていた。元の顔立ちと、美しい着物によって、いまの春は、まさに絶世の美少女である。
「うわ、別嬪さんやん。呉羽ちゃんと並んでも見劣りせんわ」と言ったのはリョクである。そのそばで、黒曜が苦そうな顔をしている。こんな状況で、呑気なことを言うな、とでも言いたそうな顔である。
「まず、都にいた『永夜の民』が、みんなツキモノになったというのは、一体どういう事でしょうか」と、セキが話を切りだす。
「そのままだよ。でも、あたしが都を出たときは、まだみんなってわけじゃなかった。でも、あたしの近所に住んでいる人たちは、みんな、ツキモノになって……!」
辛そうにする春の背中を、呉羽はさする。落ち着いたのか、春は説明を再開する。
「それで、呉羽ちゃんたちが心配になって、あの屋敷に行ったの。そしたら、博士さんが、『呉羽は一昨日、この都を出た』って教えてくれたの。そこからは、さっき話したでしょ? 走って走って、気づいたらここにたどり着いてたの」
「ほんで、うちに運良く拾ってもらえたと」リョクが、わざとらしく身を震わせる。「いや、うちが言えたことやないけど、『永夜の民』って、やっぱ怖いわ。死なんから。なんでもしてまうんやなって」
「……リョクの話は置いておいて、お前は、呉羽が『有夜の民』であることを知っているんだろう? なら、何が心配で、屋敷へ行った? もし心配なら、なぜその日のうちに行かなかったのだ?」
黒曜がまくしたてるように訊いても、春は動じない。本当に強い子である。
「博士さんは、『永夜の民』だから、もしツキモノになってたら、呉羽ちゃんはどうなっちゃうんだろうって思ったの。呉羽ちゃんにとって、博士さんは大切な人だから」
「ほう」
「すぐに行けなかったのは、最初の日は、ととたちが一緒にいろって言ったから、行けなかったの。次の日は……みんながツキモノになり始めてた。だから、『月下大社』にお祈りしに行ってたの」
だが、その効果もむなしく、増えたツキモノの気に触れ、春の両親を含む多くの人々が、ツキモノになっていったという。呉羽は、あの日見た光景を思い出す。ツキモノに触れられた少年は、最後は穏やかな表情をしていた。
だがそれは、救いではない。
「……やはり、私の予想は正しかったのですね」
セキは、ゆっくりと立ち上がり、窓際に腰かける。外の景色を、どこか愁いを帯びた瞳で見る。
「都の『永夜の民』がツキモノになり始めた理由……それは、巫女王がツキモノになりかけているからでしょうね」
その場の空気が、ぴんと張り詰める。玉兎であるふたりも、表情をこわばらせている。
「巫女王様が……? な、なんでわかるの?」
春が、震える声で問う。
「あなた達に永遠を与えた姫君——つまり、『永夜の民』の始祖が、あなたたちの言う巫女王だからですよ」
さらりと答えるセキに、呉羽は心のどこかでは納得していた。あの時見た巫女王の、他の『永夜の民』から一線を画すような気配。あれが、『永夜の民』の始祖だと言われれば、納得がいくのだ。
「あなたたちの永遠は、巫女王の神力のおこぼれです。そんな彼女がツキモノになれば、遅かれ早かれ、ほとんどの『永夜の民』がツキモノになるのは必然でしょう」
「……つまり、どうにもならないってこと? もうみんな、ツキモノになるしかないってこと?」
「そういうことです。そもそも、普通の人間が、永遠に生きること自体がおかしいんですよ。つまり、『永夜の民』のとって、ツキモノになるということは、〝与えられた永遠の代償を払う〟ということなんですよ」
セキは、淡々と語った。次いで、「『月の女神』も、一体何を考えたのやら」とぼやく。
「人間に勝手に永遠を与えておいて、そのうえ代償まで支払わせるなんて……とんだ迷惑者です」
たしかに、セキの話だけを聞くと、そう思わざるを得ない。だが、『月の女神』の本心が分からない以上、とやかく言うのは無礼なことだと、呉羽は思った。
なので、否定も肯定もせず、ただ黙って聞いていた。
「……うちもさ、ながーいこと生きてきたけどなあ、たしかにツキモノになるんは不本意やな」
リョクは唇を尖らせ、少しぼやいた。「別にうちは、望んで永遠になったわけやないし」
「くふふ、あなたは純粋な『永夜の民』ではないので、大丈夫だと思いますがね。ですが、他の皆さんが、危ないのは事実です」
セキがそう語る中、呉羽は、頭の中で、一つの疑問が浮かび上がった。
——どうして、あのツキモノは消えたんだろう。
帝都で暴れていたあのツキモノは、間違いなく消えた。
——死んだ、ってことなの?
それ以外に、形容の仕方があるのだろうか。ツキモノは死なない。だが、あれは、間違いなく〝死〟だった。
「……」
その瞬間、呉羽の胸中に、灯がともったような気がした。その灯は次第に大きくなり、呉羽の心を覆いつくした。
♢
夜、月が高く昇るころ、呉羽は起きだして、着替えを始める。今宵は、満月だ。
呉羽は、衣桁にかけていた単衣に手を伸ばす。これは、ついこの前、華世に譲ってもらった、あの桜色と、空色が境界線でうまく溶け合った、四季草花の柄があしらわれた着物だ。それに行燈袴を穿き、髪を櫛で梳かす。
そして、姿見の前で、その姿を確認する。侠気を秘めた瞳を持つ少女が、そこには立っていた。
——わたしは、行かなきゃいけない。
呉羽は、机の上に書置きを残し、部屋をゆっくりと抜け出す。皆寝静まっているので、屋敷は、幽鬼がいるのかと錯覚するほど、静まり返っていた。
呉羽は玄関で編み上げブーツを履き、そっと戸を開ける。その瞬間、冷たい風と共に、呉羽の視界に入ったのは、
「おや、早かったですね」
そう言って微笑む、セキだった。
「ええ、なんでこんなところに……?」
「なんでって……あなたと永夜の都に行くために決まっているじゃないですか」
「……え?」呉羽は、ぽかんとした。「な、なんでそれを……」
「この屋敷の人は、あなたの行動を読めないほど馬鹿ではないということですよ」
冗談っぽく笑った後、セキは呉羽に歩み寄り、その手を取った。思わず、それに身じろぎした。怒られると思ったからだ。勝手に屋敷を抜け出そうとして、そのうえ単独で都に戻ろうとして……。そんな呉羽を安心させるように、セキは取った手を、優しく包み込む。
「……私、言いましたよね。『死ぬまでずっと一緒にいてください』って」
包み込んでいた手を、あの日のように、セキは自身の頬にこすりつける。呉羽は、胸が痺れたような感覚になった。
「だから……〝また〟私を、置いていかないでください」
——また?
まるで、一度置いていったような言い方だ。そんなこと、あっただろうか。呉羽は、記憶をたどるが、そんな記憶は一度だってない。——そのはず、なのに。
なぜか、胸が張り裂けそうなほど苦しい。セキの悲しみを考えるだけで、それを追体験するように、呉羽もまた、悲しくなる。まるで、鏡のようだ。セキが悲しむなら、呉羽だって苦しいのだ。
——わたしは、やっぱりセキに呪われている。
「……うん、大丈夫だよ」呉羽は、セキに身を寄せ、優しく抱きしめる。「絶対に、セキをひとりぼっちにはさせないよ。約束する」
セキは、目を見開く。
「本当ですか? 本当に私から離れませんか?」と、また顔をぐいっと寄せてきた。
「だから近いよっ! もうっ! いい加減、距離感を覚えてよ!」
セキを引き離した呉羽は、高鳴る鼓動を抑えつつ、「さて、これからどうしようか」と尋ねた。
「黒曜と春さんは準備ができていますから、行けるところまでは自動車を使いましょうか。その方が早いです」
そう言って、にこりと笑った。
♢
煌々と燃える炎に照らされた室内に、何かが割れる音が響く。
それを聞いた巫女王は、発狂気味に叫ぶ。
「黙れ! 来るな化け物! ツキモノになり果てた化け物なぞが、わたくしのそばに侍るなぞ許さぬ! 出ていけえ!」
巫女王の言葉に、影に紛れていたツキモノは、声にもならぬ音を上げ、その場から逃げてゆく。
「くそっ! くそっ! なぜだ、なぜだ! なぜわたくしが、ツキモノなんかに、あんな下等生物に……!」
髪を振り乱し、かきむしり、そして暴れる。その姿は、人の形をした獣も同然であった。
「『有夜の民』、そう、あの『有夜の民』さえいれば、すべてがうまくゆくのだ……! あいつなぞ、わたくしの——いえ、我らが誇り高き『永夜の民』の生贄なってしかるべき存在だ」
巫女王の瞳が、まるで血のような、おぞましい色へと変わる。
「『月の女神』の刺客め、いまに見ておれ。わたくしが永遠を生きるための糧としてくれるわ」
巫女王の高笑いが響く。それはどこまでも広く、都全体に広がるほどであった。
もし、地獄をこの目で見ることができたのならば、きっとこのような景色なのだろうと、呉羽はこの時確信した。
静まり返った市。軒を連ねた屋台。そのいたるところに、ツキモノがはびこっていた。屋台の影、道の真ん中、屋台の屋根の上。そこらかしこで、虫のようにうごめいている。それらはひとつの大きな靄となり、空を覆いつくす。これではせっかくの満月で明るい夜も、意味をなさない。
その状態を見て、春は絶句していた。それもそうだ。最後に見た都とはかけ離れた姿、そのうえ同胞たちが、ひとり残らずツキモノになっているこの状況を、受け入れろという方が無理な話だ。
呉羽もまた、その場に立ち尽くしていた。セキは、険しい顔で、その様子を見ていた。
「……博士さんのところに、行こう」沈黙を破るように、春は言った。「ここにいたって何にもならないよ。とにかくいまは、博士さんがどうなっているのか見に行かないと」
「……うん、そうだね」
呆気に取られていたが、たしかに博士が心配だ。
——もしかしたら、もうツキモノに……。
そう思うと、不安で胸が押しつぶされそうだ。その時、セキが呉羽の手を握る。はっとして、呉羽は顔を上げ、セキの方を見る。こんな時でも、セキは無表情だ。あの時は、あんなに泣いていたというのに。
「大丈夫です。彼は、きっと無事です。長い時を生きている私が言うんですから、間違いないです」
そう言って、呉羽を安心させようとする。
「……わかってるよ。セキ、春ちゃん、行こう」
ふたりに声をかけ、呉羽たち三人は、屋敷の方へと走りだした。
市と、道中の農村地帯は、ありえないほどツキモノがあふれていたというのに、屋敷がある竹林にその姿は皆無だった。静かなその場所は、いま都で起こっていることを、すべて夢として終わらせてくれる、そんな儚い虚妄を抱かせた。
「もうすぐ着くよ!」
呉羽の声とともに、屋敷の屋根が見え始めた。その時だった。
「吐け! 『有夜の民』をどこに隠したんだ!」
耳をつんざくような怒号が響き渡る。それに次いで、何かが割れるような音が響く。
「遅かったですかね……」セキが、苦虫を噛み潰したような顔をしている。「どうやら呉羽さんを探しているようですね」
「そんな、博士は、博士は……!」
セキが言葉を返すよりも早く、男の怒号が続く。
「お前が『有夜の民』を匿っていることは知っているんだ! 早くそいつを出せ! そうすれば、このツキモノの騒動も終わるんだ!」
——ツキモノの騒動が終わる?
一体どういう事だろうか。呉羽の存在が、ツキモノの騒動と何か関係があるのだろうか。
「呉羽さん」考えていると、セキに声をかけられる。「大丈夫です。彼は聡い人ですから、きっとやり過ごせるはずです。それに、彼は子どもの姿をしています。その分、俊敏に動けるはずです」
セキの言葉に、呉羽はうなずく。その横で、春も「大丈夫だよ」と言って励ます。
弱気になっている場合ではない、そう思った直後、
「おい! あそこに誰かいるぞ!」
庭先に出ていた男が、目敏く三人の姿をとらえる。
「ふむ、やはりひとりではありませんでしたか……ここは一旦逃げた方がいいでしょうね」
「……わかった、行こう」
この状況では、そうせざるを得ないだろう。呉羽は素直に従うことにした。三人は踵を返し、もと来た道を走る。後ろから、追手が来ている。呉羽は、とにかく必死に足を動かし、追手から逃げる。
しばらく走って、竹林の入り口付近までたどり着いたところで、呉羽たちは足を止めた。
「一旦は、撒いたかな」
呉羽がそうつぶやき、肩を下した——まさにその時。
「……呉羽ちゃん、危ない!」
春の叫び声に、呉羽は反射的に振り返る。視界が、真っ赤に染まっている。それと同時に、胸元をざっくりと切られた春の姿が目に入る。
追手のうちのひとりが、呉羽を切ろうとしたのを、春が庇ったのだ。
「い、やだ! 春ちゃんっ!」
呉羽は叫ぶ。セキは、追手に襲い掛かろうとした。しかし、その身に触れる直前、男の身体が実態を完全になくし、漆黒の靄となる。ツキモノになったのだ。
「セキ、どうしよう……春ちゃんが、春ちゃんが……!」
「落ち着いてください。とにかく、竹林の中に逃げ込みましょう。そこでなら、確実に追っ手を撒き切れます」
いまの呉羽に、何かを考えられるような余裕はない。そんな呉羽には、セキの指示に従うという選択肢しか残っていない。
呉羽は春を抱き、竹林の中へと入っていった。
しばらく逃げたところで、呉羽は春を下した。そこで、呉羽は違和感に気づく。
——傷が、治ってない。
かなり深い傷ではあった。だが、あの程度の傷、『永夜の民』なら、もう止血ぐらいは済んでいるはずなのに、傷口からは、未だに血がしたたり落ちている。
「春ちゃん……?」
呉羽の問いかけに、春はわずかに反応を示す。そして、力を振り絞るように、
「く、れ、は、ちゃん……だあいすき……」
そうつぶやき、一筋の涙を流した。それを最後に、まるで糸が切れたように、春の身体から力がなくなる。瞳がぴたりと閉じ、涙も止まっている。
「……春ちゃん? 春ちゃん……どうしたの? ねえ、ねえ……」
呉羽は、春の身体を何度も揺らす。反応はない。呉羽の揺れに合わせて、春の身体もゆらゆらと揺れる。
「……呉羽さん」
「え、なんで、なんで、なんで……?」
もはや何がなんだかわからず、呉羽は春の名を呼び続ける。しかし、返事はない。当たり前だ、だってもう——
「呉羽さん、春さんはもう……」
セキは、瞳に愁いを映し、唇を噛む。呉羽の瞳から、大粒の涙が、幾筋も流れる。
「……死んでいます」
♢
竹林の、少し開けた場所。そこに、呉羽とセキは、春を埋葬した。相当苦しんだだろうに、その死に顔はとても穏やかなものだった。
埋葬が終わった後、呉羽は血まみれに着物を、泥だらけの手で握りしめ、堪え切れずに涙を流す。
「春ちゃん……やだ、やだよ……!」
『永夜の民』は、死なない。永夜の都に住む人間は、呉羽ひとりだけだった。つまり、これは呉羽が経験した、初めての〝死〟だった。書物の中で、何度も見聞きしてきた、死の概念。
——それが、こんなに悲しいものだっただなんて。
いまなら、むかし永遠を選んだ人の気持ちが、わかるような気がする。こんなつらい思いをせずに済むなら、なるほど永遠を望む者もいるであろう。
だが、それでも呉羽は、自身が永遠になりたいとは、微塵も思わなかった。もちろん、大切な人が死ぬのは辛い。でも、その〝死〟という概念があるからこそ、いま生きているこの時間を、大切にしたいと思えるのだ。
それだけで、呉羽にとって、永遠というものは、〝祝福〟ではなく〝呪い〟だと思えるのだ。
呉羽はつと、立ち上がる。「少し、散歩してきていい?」
「迷子になりませんか?」と、セキが心配そうに尋ねてくる。
「ううん、大丈夫。ここからすぐに道に出るから。道に出たら、もうわかるから」
ひとりになりたい。その意思をくみ取ったのか、セキはうなずき、「わかりました」と言った。
呉羽は竹林から道へ出て、ゆっくりと歩きだす。今日は、本当に月が綺麗だ。
「春ちゃん……春ちゃん……!」
呉羽は、友人を喪ったことに、気持ちの整理がついていなかった。つくはずがないことは、呉羽にだってわかる。だが、理解と納得は、別物なのだ。
しばらく歩いていくと、あの泉に出た。この竹林の道は、すべてこの泉につながっているのかもしれない。
「泉……」
呉羽は、ゆっくりと泉に近づき、その水に触れる。触れた個所が、ぴりりと痺れる。思わず、手を引っ込める。
「わたし……やっぱり、何かを忘れてるの?」
セキの発言も、ツキモノを通して見ることができる記憶も、すべて呉羽の中に焼き付いて、忘れられないのだ。
——気持ち悪い……。
腹の底と胸のあたりが、ぐちゃぐちゃになっているような不快感を感じる。この前はこんなに、いやな感じはしなかった。むしろ、いいものだと思ってた。
「……やだ、やだよ。わたし、何を忘れてるの……? セキ、セキ……」
耐えきれなくなって、その場にしゃがみ込む。水面に映る呉羽は、苦悶の表情を浮かべている。
そんな状況だ、
「知りたいか?」
最初、呉羽はそれを幻聴だと思った。だから、無視した。
「おいおい、せっかく声をかけてやってるってのに、無視かよ。ったく、ひでえやつだな」
そこまで言われて、はっと顔を上げる。頭上に、烏が一羽、旋回しているのが見えた。
「じ、慈鳥……?」
今度はなんだ。そう思っていると、慈鳥はゆっくりと、呉羽のそばに降り立つ。
「やっとおれの方を見たか。このおれを無視するなんて、いい度胸だな」
「……。……ええ!?」呉羽は、驚きのあまり、その場にしりもちをついた。「じ、慈鳥がしゃべった……?」
「ああ、しゃべるさ。なんせおれは、大事な役目を仰せつかってるんでな」
そう言って慈鳥は、羽の中から、ひとつの石を取り出した。平べったい、月のような輝きを放つ宝石だ。その石を、どのように羽の中にしまっていたのか、という疑問は残るが、呉羽はなぜか、それに強く惹かれた。
「この中には、お前が知りたいと思ってることが、山ほど入ってる。……知りたいか?」
慈鳥の問いかけに、呉羽は、うなずく。
「何も、何も覚えてないの。だから、知りたい。教えてよ、慈鳥」
「……ああ、わかった」
そう言った瞬間、慈鳥の持つ宝石が、玻璃が砕けるような音とともに、粉々になった。
その瞬間、呉羽はすべてを思い出した。