その日の夜、夕餉の片づけが一段落したころに、セキは帰ってきた。
「おかえりなさい。もうご飯食べ終わっちゃったよ」
 玄関まで迎えに行くと、
「私は食事を必要としませんから、安心してください」
 淡々とそう言った。
「まったく、食べないと元気が出ないでしょ。いくら死なないからって、食べないのは身体に悪いよ」
「はい、そうですね」
 分かってなさそうだ。呉羽は唇を尖らせる。博士は、文句を言いつつも食べてくれていたので、全く食事を摂ろううとしないセキには、不満が募る。
 ——明日こそは食べてもらわないと。
 もしかしたら、おいしさに目覚めて、自分から進んで食べてくれるようになるかもしれない——なんて、『永夜の民』である彼には、通用しない理論である。だが、呉羽は意地でも食事を摂ってもらう気満々なのだった。
 その日の夜、呉羽は昼間に貰った扇を眺めていた。呉羽に与えられた部屋は、文机と衣桁、押し入れの中に布団があるだけの、簡素な部屋——他も、大体そんな部屋ばかりだ——だったが、景色がよく、延々と続く竹林の先に、帝都の明かりがよく見えた。その障子戸からわずかに漏れる光に、扇の装飾を当てる。金砂銀砂が、星屑のように輝いている。その美しい意匠を見るたびに、奇妙な懐かしさが胸を貫き、息が詰まる。
 ——やっぱり、見たことがある。
 だが、頭に霞がかかったようで、思い出せない。だが、この懐かしさは、気のせいではない。まるで、胸中をかき混ぜられるように、気分が悪い。
 そんなことを思っていると、セキが部屋に入ってきた。声ぐらいかけてほしいのだが、何度言っても何度かに一回はそのことを忘れるそうで、もう諦めていると、雲母が言っていた。
「呉羽さん、気分はどうですか?」
「……あんまり良くないかも」
 誤魔化そうかとも思ったが、自分の嘘が壊滅的に下手なのは自覚しているので、正直に話した。セキは、目をしばたたく。
「何か、気にいらないことでもありましたか?」
「ううん、ただ……」手中の中にある扇に目線を移す。「これを見てると、なんだか不思議な気分になるの。その、うまく説明できないんだけど」
「そうですか」とつぶやき、セキは障子戸を開ける。冷たい風が、室内に流れ込む。今晩は一段と冷える。呉羽はそばに畳んでおいた羽織に袖を通した。
「月が、綺麗ですねえ……」
「うん、綺麗」
 月だけは、永夜の都でも、帝都でも変わらない。それ以外は、すべてが違う。
「帝都はどうですか」
 セキの問いに、
「とっても素敵だよ。綺麗なものも、おいしいものも、便利なものも、たくさんあるもん」
 と答えた。帝都の発展ぶりは、呉羽が思う何倍もすさまじいものだった。この発展を見れば、永夜の都が、いかに俗世から切り離されているかが分かるというもの。
「『永夜の民』は、悠久の時を生きます。そんな彼らには、文明の発展などという言葉は似合いませんよ」
 セキは、皮肉っぽく言う。「月にいたころから、ずっとそうでした」
「……ねえ、月ってどんなところだったの? 永夜の都みたいなところなの?」
「そうですねえ……いまはどうかわかりませんが、概ね呉羽さんの考え通りでしたね。ただ、『有夜の民』の発展の速さに、『永夜の民』は全く対応してませんでしたね。彼らは、地上の人間と大差ありませんから」
「そうなの?」
「ええ、月に住んでいるだけで、普通の人間と変わりません」
 なるほど、と思う。
「じゃあ、わたしもみんなと同じ、人間なんだね」
「そうですね。認識的にも、『有夜の民』は普通の人間ですよ。特別なことは何もありませんね」
 呉羽は、そこで思う。「ねえ、じゃあ『永夜の民』は?」
「え?」
「『永夜の民』は、やっぱり、人間じゃないの?」
その問いに、セキはしばしの間沈黙する。そして、「ええ、そうですね」と答えた。
「私たち『永夜の民』は、妖と呼ばれ、いまもむかしも揶揄されています。当然です。どれだけ痛めつけても、心の臓を撃ち抜いても、首を()ねられても、死なず、最後にはツキモノという化け物になってしまう。こんな存在を、妖と呼ばずして何と呼ぶのか……」
 気丈に振る舞ってはいるものの、セキが無理をしていることはすぐにわかった。きっと、悠久の時の中で、つらい経験を何度もしてきたのだろう。本人は、忘れているかもしれないが。
「……セキは、化け物じゃないよ」
 セキの手を取り、呉羽はそう言った。その手には、わずかなぬくもりがあった。
「ツキモノだって、化け物じゃない。あれは悲しい人だから」
 セキは、すべてを諦めきったようにうつむく。
「少なくとも、あなた以外には化け物ですよ、ツキモノは」
「信じられないな。でもたしか、ツキモノを祓うって言ってたもんね」
 やっぱり、みんなにとっては危ないから? 呉羽は問う。
「そうですね。都に住んでいる『永夜の民』は知らないようでしたが、ツキモノは人を襲うんです。怪我人も多く出ています」
 呉羽は息を呑んだ。
「あなたは本当に不思議な人です。ツキモノに襲われず、そして、私の凍りきった心も溶かしてくれる」
 呉羽の手を強く握り返し、ずいっと顔を近づけてくる。思わず、呉羽はたじろぐ。
「呉羽さんは……」握っていた手の力を緩め、セキは視線を障子戸の向こうに移す。「もし、私たちと同じ永遠になれるとしたら、あなたも永遠を望みますか?」
「……」その問いに、呉羽は答えない。ただ、セキの方をじっと見て、微笑むだけ。たったそれだけだったのに、セキには呉羽の思いが伝わったようだ。
「これからも、私とずっとずっと‥‥‥一緒にいてくださいね」
 にこやかに笑うセキの姿を見て、呉羽は胸が痺れたようになる。
 それと同時に、いてもたってもいられなくなるような胸騒ぎがした。


 夜も更け、静まり返った屋敷の台所で、呉羽はひとり、カステラに生地を作っていた。餅菓子は何度も作ったことがあるが、カステラのような菓子を作ったことはなかったので、とても新鮮な気分だった。リョクの話によると、カステラは、西洋の菓子が母体になってできたものらしいので、呉羽が見たことがなかったのも納得だ。
 卵、上白糖、蜂蜜、みりん、すべて初めて使うものばかり。帰りに買った本で作り方を何度も確認しながら、ひとつひとつ丁寧に工程を重ねていく。最初は感じていた緊張と不安は、作っていくうちに薄れていき、代わりにむくむくと好奇心が生まれてくる。このとろみのある生地が、果たしてあんな風に柔らかくなるのか。なるとしたら、どうやって柔らかくなるのか。気になってしょうがない。
 夢中になって調理を続けていると、背後から物音が聞こえ、振り返る。そこには、夜着の雲母と黒曜が扉の外から覗いていた。
「入っておいで」と促すと、顔を見合わせた後、戸をそっと開け、呉羽に駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんです」
「雲母にたたき起こされてきてみれば、台所に明かりがついてたから、消し忘れかと思って来た」
「ううん、気にしないで。こちらこそ、起こしちゃってごめんね」
「い、いえ、そんな!」と、雲母は慌てて頭を下げる。「邪魔したのはあたしたちの方です! すぐにお暇しますので」
「待て、そんなに慌てるんじゃあない」
 黒曜は、(たしな)めるように言う。「好意で入れてもらったのに、その言い方はよくないだろう。せめて何をしてるのかぐらい訊けばどうだ?」
 ひと息で言い切って、黒曜は呉羽に向き直り、「それで、こんなに遅くまで何をしてるんだ?」と尋ねる。
「ちょ、ちょっと、黒曜! そんな風に聞く方が失礼でしょう」
「知らん。それに、もう十分失礼なことはしただろう。今更だ」
 雲母を適当に言いくるめ、黒曜は、「で、なんなんだ?」と再度訊く。
「昼間に、喫茶店で食べたシベリアを作ってるの。できるようになったら、都にいたときみたいに街で売ろうと思って」
 ふたりは驚いた様子で呉羽を見る。何だろうと思い、呉羽は声をかける。「ね、ねえ、わたし、何か変なこと言っちゃった?」
「ええっ!? そ、そんなことありませんよ、ただ……」
「そんなことをして、なんになるんだ」雲母の言葉に被せるように、黒曜が言い放った。声が低いのも相まって、気圧されそうになる。
「黒曜……!」
「雲母は黙っておけ」
 黒曜の静止の声に、雲母は唇を引き結ぶ。
「……お前は何も知らないようだから、教えてやる。帝都は——いや、人間の世界ってのは、お前が思ってるほど甘い世界じゃあない。『永夜の民』にはない欲望と、醜い感情で溢れたやつらだ。そんな奴に菓子を売ったとして、何もいいことなんてない。売っている奴らは、生活のためにやってるんだ、お前みたいなお遊びじゃない」
「……」
「この世界で、お前が虐げられることは、たぶん、ない。だが、『永夜の民』は——」
「もうやめてっ!」
 もう耐えられないといったふうに、雲母が声を上げた。
「黒曜はいつもそう、心配してるなら、もっと言い方を考えてよ! そんなことを言ったって、相手を傷つけるだけなんだよ! そんなことしてたから、黒曜は捨てられたんでしょう! この馬鹿!」
 言いたいだけ言って、雲母は台所から飛び出した。
「待って!」呉羽はそれを追いかける。後ろで黒曜の声が聞こえたが、いまの呉羽には答える余裕なんてなかった。