その日の夜半。呉羽は、昼間に老人から聞いた話を、紙に書き残していた。
 あの話が、なにかセキと関係があると思ったからだ。
 ——厄災を呼ぶと言われた青年は、もしかしたらセキのことかもしれない。
 セキの口ぶりを聞くに、彼は相当長寿のようだから、きっと『永夜の民』が月にいたころから生きているはずだ。なら、あのお話の中に出てきた青年が、セキである可能性は十分にあり得る。
「もし、そうなのだとしたら……」
 呉羽とセキは、似た者同士だ。呉羽も、ずっと虐げられ、蔑まれてきたのだから。
「……呉羽、起きているのか」
 博士の声だ。
「うん、起きてるよ」
 答えると、ゆっくりと御簾の中に入ってくる。呉羽たちを逃がした後、博士は検非違使たちに追われたらしく、夕暮れ頃になって捨て犬のようになって帰ってきた。あちこちに怪我もしていたが、いまはすっかり元通りだ。
「傷、治ってるね。よかった」
「『永夜の民』だからな。あれぐらいなんともないさ」
 ふたりは、しばらく無言で見つめ合う。
「……博士は、セキの育ての親だったんだよね」
 博士は、一瞬、眉間にしわを寄せ、「セキ……?」とつぶやくが、すぐに「ああ、彼のことか」と納得したようだった。
「ああ。彼には、親がいなかったからな。私が拾って育てたんだ」
 お前のようにな。博士は、宙を見る。その瞳からは、これまでは感じられなかった色があるように見えた。
「博士……」呉羽は、博士に深々と頭を下げた。「ごめんなさい。わたし、だめだって言われてたのに、何度も市に行って、迷惑をかけて……」
「今更だな」
 博士は、息を吐く。どこか呆れたようにも見えた。
「だが、もとより、お前には難しいことだったのかもしれないな。わがままで、好奇心があり余ったお前に、この世界のことを隠し通すのは」
「……馬鹿にしているの?」
「まさか。そんなつもりはない」と、博士は言いながら、呉羽の正面に座る。
「……私は、むかしから永遠の歴史を調べてきた」
「永遠の歴史? それって、姫君が舞を舞ったら、『月の女神』から、永遠の祝福を受けたっていう、あの?」
「ああ、そうだ。私は、そのおこぼれをもらって、永遠になった。そして、一年もたたずに、老いが止まったわけだ」
 好奇心に駆られる呉羽の頭を撫でながら、博士は続ける。
「そして、その後地上に降りて来た『永夜の民』だが。思わぬ副作用が出始めた。それが——」
 ツキモノだったのだという。呉羽は、目を輝かせながら、続きを待つ。
「地上に降りたことが、ツキモノのきっかけかどうかはわからなかった。私は、なぜ、『永夜の民』がツキモノになるのか。私は、ずっと調べていたんだ。まあ、分かったことなんて、ほとんどないがな」
 自嘲気味にそういう博士に、呉羽は少しだけ微笑む。いま、初めて、博士に人のような何かを感じたからだ。
「……もう寝ろ。続きは今度すればいい」
 それだけ言い残し、博士は御簾をくぐる。
「まって!」と、呉羽は思わず、博士を呼び止めた。博士は、「なんだ、どうした」と訊いてくる。
「……おやすみなさい」
 ただ一言、そう言った。
 それに博士は、「ああ、おやすみ」と返した。



 暖かな(しとね)のなかで、呉羽はまどろんでいた。そこに、夜の冷たい空気があいまって、ひどく心地よかった。
「……はさん、呉羽さん」
 そんなまどろみを、一瞬にして覚ましたのは、青年の、ねっとりとした声音だった。
「わあ!」
 呉羽は飛び起きた。枕元で、セキがしゃがみ込んで呉羽の顔をのぞき込んでいた。
「な、なんでここにいるの?」
「なんでって、あなたと都を出るためですよ」
 あっけらかんと答えるセキに、呉羽はぽかんとする。
「い、いまから出るの……?」
「はい。善は急げと言いますから」
 意味をはき違えてはいないかと、呉羽は不安になる。
「それに、もしあなたが検非違使たちに見つかれば、殺されてしまいますから。逃げ出すならいまかと」
「……」セキの突拍子もない発想には、さすがの呉羽も驚いた。『永夜の民』にしたって、なにがなんでも行動力がすさまじいにもほどがある。
 ——でも、セキは正しい。
 いまの呉羽に、確実な明日なんて、存在していない。明日にでも捕まって、殺されてしまうかもしれない。そう考えると、いま逃げるのが得策だろう。
「……わかった。わたしを連れて行って」
「はい」
 セキは、着の身着のままの呉羽を抱きかかえ、外に飛び出した。そして、そのまま竹林の中に入り込む。いまの時期の空気は冷たく、触れるたびに、突き刺すような痛みが走る。だが、それ以上に、セキに掴まるのがやっとだった。尋常ではない速さで走るセキから、少しでも離れたら、そのまま振り落とされそうだった。
 しばらくして、やっと竹林を抜けた。
 ——ここが、都の外……。
 とはいえ夜中なので、何も見えない。だが、遠くのかなたに、ほのかな光があるのは見えた。
「セキ、あの光は何?」
 耳に届いているのか不安だったが、しっかりと拾っていたようで、「あの、遠くの方の光ですか?」と言葉を返した。
「あれは、ガス灯と呼ばれるものですよ。あれのおかげで、帝都は特に、夜でも明るいんです」
「へえ……」
 博士が、前に、都の外では、呉羽のように寿命を持つ人間たちが、ここでは考えられないほど、素晴らしい文明を築いていると言ったのを思い出した。——本当だったんだ。
「明日か明後日には、きっと気を失うほど美しいものがたくさん見れますから、楽しみにしていてくださいね」
 セキは呉羽を強く抱きしめ、暗がりでもわかるほど、明確な笑みを浮かべた。
「……うん! 楽しみにしてるね」
 それに応えるように、呉羽もまた、セキに強く抱き着いた。
 その頭上を、一羽の烏が飛んでいた。