農村地帯に通る、踏み慣らされた道を、ふたりの男女が並んで歩く。
すべての民が市で行われる祭りで不在の農村は、もとの雰囲気も相まって、長らく放置された廃村のようだった。夜になれば、井戸や家々の隙間から、幽鬼が姿を現しそうだ。
永遠と錯覚するような畑の景色が途切れ、それと同時に、人々の賑やかな声が鼓膜をじわじわと刺激する。
その声は、市に入ると、より一層大きくなって、呉羽の耳に届いた。
昨日まで、物憂げだった市は、まるで別世界のような変化を遂げていた。
平常通り、道の両側に軒を連ねる露店は、美しく装飾され、賑わう声と相まって華やかに、そして輝いて見えた。その道を、いつも通り行商人が通り、多くの祭りに来た人々がひっきりなしに行き交う。数日前よりも、人の数は格段に多い。市の中央には、円状の広場があり、そこでは雅楽が催されている。
菓子の甘い香り、雅楽から生み出される華やかさ。どれをとっても、いつもの『永夜の民』からは考えられないものだった。
「わああ! すごい! すごいよセキ」呉羽はセキの服の袖を強く引き、中央の広場の方を指さす。「こんなに素敵な音楽を聴いたの初めて! あの女の人たちの舞も、とっても素敵!」
呉羽が指さした先では、見物客に囲まれた四人の舞姫たちが、広場の中心で淑やかに舞っていた。
「もっと近くで見よう! ほら、早く早く!」
「わっ」
呉羽はセキの手を強く引き、人混みの中を器用にすり抜けていく。中央の広場にたどり着いたふたりは、見物客の間をすり抜け、一番前まで来た。
そこでやっと、お目当ての舞姫たちをはっきりと見ることができた。
舞姫たちは、白地の下り藤染めの裳とやや赤みを帯びた紫色に向蝶柄の唐衣を見にまとい、頭には宝髻を乗せ、日陰の鬘を下げている。手には金銀の鳳凰の絵の入った衵扇を持っている。四人の舞姫が舞うさまは、婉然としていて、この世のものとは思えぬ美しさを湛えていた。
「わあ……!」呉羽の口から、感嘆のため息がこぼれた。「本当に素敵。華やかで、とっても綺麗」
「ふむ、確かに華やかな舞ですねえ」セキもしみじみといった風に言う。「あれはおそらく、『月の女神』に捧げる舞ですね。舞姫たちは、巫女か何かでしょう」
「へえ、セキは物知りなのねー」
舞に夢中だった呉羽は、セキの説明に生返事をした。「でも、なんで舞を『月の女神』に捧げるの?」
「それは、『永夜の民』を永遠にしたのは、『月の女神』だからですね」
呉羽は驚く。「そ、そうなの?」
「はい、知りませんか?」とセキは問うてくるが、本当に知らなかった。博士の持つ書物の中に、『月の女神』のことが書かれたものはなかったからだ。
「えーっと、聞いたことあるような、無いような……」と曖昧にごまかすと、セキは語りだした。
「そのむかし、とある高貴な身分の姫君が、『月の女神』の憩いの場と言い伝えられる泉で、舞を——いま、舞姫たちが舞っている舞ですね——を舞いました。すると、舞っている姫君の身体を、薄花色の光が覆い、その光が消えたころには、その姫君は永遠に——つまり、『永夜の民』となっていたのです」
黙って話を聞き続ける呉羽に、セキは話を続ける。
「その後、姫君のように永遠の命を望んだ者たちは、彼女の舞によって、『永夜の民』となりました。確か、百人程度でしたかね。まあ、私も生まれていなかったので、詳しいことはわかりませんが」
「うーん、百人程度って、少なくない? 永遠になれるなら、もっとたくさんの人が『永夜の民』になりたがると思うけど……」
「ええ。ですが、すべての人が、同じだと思うのは間違っていますよ」
どこか諭すように、セキは言う。
「永遠になるということは、大切な人たちが死んでいくのを、ずっと見続けなければなりません。いつか死んだら会える、なんて希望も、永夜になってしまっては、潰えてしまいますから」
セキの声音が、ひどく悲しいものに変わる。呉羽は思わず、「ご、ごめんなさい」と謝ってしまった。
「いえ、謝ることではありませんよ。長くなりましたが、つまりは〝自分たちを永遠の存在にしてくれた『月の女神』に、感謝と崇拝の意味を込めて、舞をささげる〟というわけです」
呉羽は「なるほど」とつぶやいた後、手を打って、「だから、『永夜の民』にとって、『月の女神』は大切な存在なのね」と言った。
「……まあ、あの時もっと多くの人が『永夜の民』になっていたら、この地に『永夜の民』が降り立つことはなかったでしょうしね」
ふたりははぐれないように手をつなぎ、見物客の波をを抜け、先にある店の方へと歩いて行く。その時、
「おい、あそこに『有夜の民』もどきがいるぞ」
「やだ、なんで祭りの日にまであいつを見ないといけないの。汚らわしい」
「早くここからいなくなれ、『有夜の民』もどきが」
『永夜の民』から向けられる、蔑むような声。——お祭りの日にまで……。
いや、『月の女神』への服従を示す、大切な祭りに日だからか。呉羽は黙って歩き続ける。彼らも、呉羽を追いかけてまで罵声を浴びせてくることはない。
もうすぐ広場を抜けるという時、セキが不意に立ち止まり、呉羽の身体がつんのめりになる。
「セキ?」呉羽は振り返り、セキの顔を見る。「どうしたの?」
「……あれは、呉羽さんに向けての悪口ですよね。どうして、あんなことを言われているのですか?」
呉羽は、少しの間黙り込み、
「わたしが、いつもお菓子を宣伝しながら売っているから、それが『有夜の民』みたいに見えるって……」
と正直に答えた。
「そうなんですか」と、セキは答えた。
「ふむ……なら、なぜお菓子を売ろうと思うのですか? 売れば売るほど、肩身が狭くなっていくのに。私はそこまで気にしませんが、あなたはそうではないでしょう? なぜ、そんなに必死に?」
「……」呉羽はうつむき、黙り込む。呉羽がお菓子を売り続けるのは、いつか『永夜の民』と『有夜の民』が、分かり合えると信じているからに他ならない。しかし、そのまま言ってしまえば、自身が『有夜の民』と自白しているようなものだ。
長考した末、考えついた答えは、「わからない」だった。
「理由なんて忘れたよ。きっかけが何だったのかも」
「……そうですか。まあ、よくあることですもんね」
セキはそう答えて、再び歩き出す。それにつられて、呉羽も黙って歩き出す。
無言だったが、セキの隣で歩くのは、いい気分だった。
中央の広場から『月下大社』への道を歩いていると、聞いたことのある声が聞こえてきた。
「んん? お前さんは、この前会った椿餅の……」
黒髪を高く結い上げた男性。いつぞやの行商人の男性だった。今日は、売り物は持っていない。純粋に祭りの見物人としてやってきたらしい。
「あら、いつぞやの行商人のおじさん。偶然ね」
「ああ、そうだな」
「覚えていたの?」
「あんなに必死に宣伝をするやつなんて、久方ぶりだったからな。印象に残っただけだ。すぐに忘れるさ」
蚊帳の外に追いやられていたセキが、呉羽に「誰ですか?」と耳打ちする。
「前に会った人だよ。知り合いってほどでもないけど」と、呉羽は答えた。それは知って知らずか、行商人はふたりを品定めするように見ている。
居心地が悪くなって、呉羽は、
「おじさんはこれからどうするの? わたしたちはさっき、舞を見てきたところだけど」
と、再び会話を切り出した。
「それなら、俺もさっき見たさ。これから『月下大社』で、巫女王様——『月の女神』のお声を、唯一聞ける、ただひとりのお人——その訓示があるからな。それを聞くんだ。四年前も聞いただろう?」
「そ、そういえばあったわね、そんなものも」
呉羽は、曖昧にごまかす。巫女王は、行商人の言うとおり、『月の女神』の声を唯一聞くことができる存在で、言うならば、『月の女神』信仰の、最高者である存在だ。
「巫女王の声と姿を拝めるのは祭りの日だけだからな。じゃあ、俺はこれで」
そう言い残して、行商人はその場を後にした。
「じゃあ、わたしたちも行こうか、セキ」
そう言ってセキの腕を引くが、彼は黙ったままうつむき、微動だにしない。
「セキ、どうかしたの?」
呉羽が声をかけると、顔を上げ、「大丈夫ですよ、呉羽さん」と答えた。
「さて、私たちもその巫女王の訓示とやらを聞きに行きましょう」
セキは呉羽の手を引き、『月下大社』へと歩きだす。
呉羽の手を握る力は強い。それとは裏腹に、その背中は少し寂し気だった。
『月下大社』の、決して広いとは言えない境内の中に、都に住むすべての民が集まっている。それゆえ、ひどい混雑であり、ひとり転んだだけで、すべての人が道連れになって転んでしまいそうだ。
「わかってたけど、すごい人だね」
「ええ、はぐれないようにしましょう」
呉羽の手を強く握っていたセキは、どこか不安そうに彼女に注意する。「言っておきますが、探し出せる自信はありませんよ。自分で言うのもあれですが、私は自分勝手なので」
「それなら問題ないよ。わたしも、普段から自分勝手だから!」
呉羽は胸をたたいて答えた。
不意に、人々がざわめきだし、視線を一点に向ける。釣られてふたりも、皆の視線の先に目を向ける。
皆の目線の先にあるのは、本殿である。本殿から扉までには段があり、扉の左右の回廊に巫女が数人ずつ並び、段の左右には神主が同じように並んでいる。扉の先は、曇っていてよく見えないが、きっと、あの中に巫女王がいる。
呉羽は、つばを飲んだ。——あそこに、巫女王様が……。
ふと、セキの表情が気になって、彼の方を見る。複雑そうな、それでいて異質なまなざしを、巫女王に向けていた。怒りも、悲しみも、憎しみも、辛さも、寂しささえも、燃え尽きたようなまなざし。『永夜の民』らしい、生気のないまなざしなのに、明らかに他の『永夜の民』とは違う、異質さがあった。
「セキ、どうしたの——」
「——静まれ!」
呉羽の言葉に被せるように、とろみのある女性の声が轟く。慌てて本殿に視線を戻すと、先ほどまで、すべてを拒むように閉まっていた扉が開き、その奥で御簾が揺れている。その隙間から、遠目でもわかるほど、白く細い手が伸びていた。その手は、ゆっくりと御簾をどかすと、持ち主の姿を露わにした。
布帛を被っており、その顔を見えないが、すらりとした体形の女性であった。夜をそのまま切り取ったような十二単を身に着け、垂髪の髪は、新月の夜さえもかすむような漆黒であった。
——綺麗、でも……。
なぜか、胸中が落ち着かなくなる。他の『永夜の民』とは、一線を画す存在だからだろうか。
「最近、わが都では、ツキモノの被害が絶えぬ。それはすべて、この世に蔓延る『有夜の民』のせいに他ならない!」
鼓動が、どくりと、いやな音を立てた。
「しかし! 『月の女神』は、我ら『永夜の民』を、必ずしや護ってくれるであろう! 我らに永遠の〝祝福〟をお与えになった『月の女神』のため、今日は存分に楽しんでくれ!」
巫女王の言葉に、観客たちは歓声を上げた。
そんな中、呉羽とセキは歓声を上げずに、巫女王をじっと見つめていた。呉羽は、未だに胸中を渦巻く感情が分からず、当惑していた。
セキは、変わらず、巫女王に対して、複雑そうなまなざしを向けていた。感情で例えれば、軽蔑、だろうか。
ただひとつ、わかることといえば、その視線が、巫女王に対する、嫌悪に近い何かだという事だけだった。
「セキーっ!」
呉羽の叫びは、広場の人混みの中であってもよく響くが、今日ばかりは甲斐がなかった。
中央の広場で、呉羽はひとり肩を落とす。
はぐれないようにしよう。そう約束したというのに、結局はぐれてしまった。途中まではよかったのだ。ただ、訓示が終わり、人々が境内の外に向かって流れ出してしまい、その際にはぐれてしまったのだ。なので、いまセキが、境内にいるのか、市に出ているのかさえも、分からない状態であった。
「はあ、約束したのに、はぐれちゃうなんて……」
途方に暮れていると、広場の隅で、琵琶を弾く老人を見つけた。周りに人はいない。どうやらひとりのようだ。
「ねえ、おじいさん。こんなところで何をしているの?」呉羽は老人に声をかける。みすぼらしい格好で、無精ひげを蓄えた彼は、ゆっくりと呉羽の方を見る。
「なんだ、お嬢ちゃん。何か用か?」
老人のわりに、明朗で聞き心地の良い声だった。
「ううん、用ってほどではないけれど、何をしてるのかなって……」
あ、琵琶を弾いているのは分かりますよ。呉羽は慌てて付け足した。
「これか、これはな、弾き語りだよ。物語の」
「へえ」呉羽はつぶやく。「どんな物語なの?」
「とある『永夜の民』の話さ。わしがまだ老いが止まってなかった頃に、とある人に聞いた、悲しい話だ」
説得力のない、虚空のような表情で答えた。
「……おじいさん、『永夜の民』なのに、悲しみが分かるの?」
「もうわからないさ。だが、昔の名残か、たまにわかるんだ。『ああ、むかしは、これを悲しみと呼んでいたのか』とね」
「……そう、なんだね」驚いた。老いが止まった『永夜の民』が、感情の一部を思い出せるだなんて。
「ねえ、よかったら聞かせてよ」
老人は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、目をしょぼつかせる。「構わんが、つまらんかもしれんぞ」
「ううん、それでもいいの。わたし、待っている人がいるし、いい退屈しのぎになるでしょう?」
呉羽がそう言うと、老人は琵琶を構えなおす。
「じゃあ、聴いてもらおう。これは、とある孤独な『永夜の民』と、ひとりの少女の物語——」
♢
『生きていてごめんなさい』
とある青年は、毎日のようにそう言って、弱音ばかり吐いていた。
青年は、『永夜の民』でありながら、災いを呼ぶ存在と巫女王様に予言されてしまい、『有夜の民』からも、同じ『永夜の民』からさえも蔑まれ、石を投げられ、笑われた。
いつしか青年は、『生きていてごめんなさい』が口癖になって、月で一番の卑屈者になっていた。
青年は、泉へと赴いた。そう、舞を舞った姫君が、『永夜の民』となった泉。
そこで青年はひとり、『月の女神』に願いをかけた。
『孤独でいることは、もういやだ。だれでもいいから、僕の友達になってください……!』
そんな青年が、少女と出会ったのは、その泉のすぐそば。
従者の服を着て生き倒れていたところを、青年が助けたのが始まりだった。
少女もまた、孤独だった。
そんなふたりは、いつの間にかとても仲の良い関係になっていた。
だが、少女は人ではないという方が、納得してしまうほどの美貌の持ち主。そのうえ、無邪気な性格と、優しい声と笑顔で、多くの人から愛された。
どうして、こんな自分とも仲良くしてくれるのだろう。自分を引き立て役にしているのだろうか。
不安に思う青年を、少女は優しく抱きしめた。
『わたしは、あなたのことが大切だよ』
『あなたは、この世界で、誰よりも素敵な人だよ』
青年は、少女の腕の中で涙をこぼした。
いつしか青年は、少女のことをすきになっていた。
『ねえ、もし永遠になれるのなら、君は、永遠を選ぶ?』
少女とずっと一緒に居たいと思った青年は、彼女に訊ねた。
だが、少女は、
『わたしは、罪を犯したから』
そう悲し気に言うだけで、答えてくれない。
青年は、わかっていた。少女に断られてしまうことぐらい。
なら、いまこの瞬間を大切にすればいいと、青年は誓った。
しかし、悲劇は起こった。
少女は、ひとりでいるところを、襲われ、殺されてしまった。
災いをもたらす青年が、幸せになることがおもしろくない『永夜の民』の仕業だった。
青年が見つけたときにはもう、少女は事切れていた。
少女の傍らには、一本の扇があった。それは、少女が生前、大切な人からもらったものだと言って、大事にしていたものだった。
その扇を抱え、青年は泣き叫んだ。月が、彼の涙で沈んでしまうほど。
そして、青年はいまでも待っている。
少女がまた、この世に生まれ変わるのを。
♢
老人は最後の一言を歌い終え、締めくくるように弦を弾いた。
「……とっても、悲しいですね」
その余韻が喧騒に掻き消え、完全になくなって、やっと呉羽は声を出すことができた。老人が語った素晴らしい物語に、拍手を贈りたかったが、手放しに賛辞を贈れるような内容ではない気がした。
「ああ、そうだな」老人は頭を乱暴に掻く。「わしも、初めて聞いたときは、そう感じたさ。いまは何も感じんがな」
「それ、本当のお話なの?」
呉羽は身を乗り出す。
「多分な」老人はぶっきらぼうに答えた。「いまとなっちゃ、誰も覚えてないさ。この話をしてくれたあの人も、いま生きてるのかもわからねえ」
「え? でも……」
『永夜の民』は死なないんじゃ。そう言いかけたところで、
「おい! いたぞ、あいつだ!」
少年の怒号が、中央の広場に響き渡り、その場のすべての視線を集めた。
どけ、どけ、と、声の主であろう少年が、検非違使を引き連れてやってきた。その後ろには、老齢の祭祀官の男もいた。
彼らを引き連れてきた少年に、呉羽は見覚えがあった。誰だったか、思い出せない。
「な、なんでしょうか?」
「とぼけるな! お前、ツキモノに触れたのに、なんでツキモノになっていないんだ!」
「……」
思い出した。この少年は、昨日、慈鳥を虐めていた少年のひとりだ。
胃のあたりが熱を失い、総身が冷える思いがした。それと同時に、周りにいた人々がどよめく。
「ツキモノに触れた?」
「やつらの気に触れたのに、なぜあいつは人の姿のままなんだ」
「ま、まさか……」
——こやつは、『有夜の民』だ!
祭祀官の声が轟く。
それは、呉羽の正体がばれた瞬間だった。
人々は、ある者は逃げ出し、ある者は気を失い、ある者は呉羽に石を投げつけ、ある者は呉羽に罵詈雑言を吐いた。その視線はいずれも軽蔑と恐怖を孕んでいた。
いつもの比ではない迫害に、呉羽はひどく困惑すると同時に、戦慄した。
——いやだ、いやだ。やめて、やめて……。
「やっぱりそうだった! ツキモノに話しかけ、その気に触れた化け物が!」
少年はまた、呉羽に罵声を浴びせる。しかしそれも、周りの人々からの罵詈雑言の一部となり、掻き消えた。隣で話を聞かせてくれた老人は、驚いたまま固まっていた。その場から這うように移動して、老人から距離を取る。このままでは、老人にも石が当たってしまうかもしれない。
「やだ、やめてよ!」力一杯叫ぶが、迫害は止まらない。「どうしてこんなに『有夜の民』を虐げてくるの? わたしも、あなたたちも、もとは同じ寿命を持つ人間だったのに! いまが特別だとか、完璧だとか、そんなの関係ない。これじゃあ、あなたたちを『永夜の民』にした『月の女神』も可哀そうよ!」
呉羽の、こんな時でも澄み切った声は、怒号と罵詈雑言で溢れた広場を埋め尽くした。
それに気圧され、辺りは一瞬静まり返った。だが、ひとつ、ふたつとまた、罵詈雑言が重なり、大きな怪物と化す。
「どうしたもこうしたもあるものか!」
叫んだのは、呉羽を『有夜の民』と言った祭祀官だった。ほとんどしわがれた声で、祭祀官は罵声を浴びせる。
「『月の女神』が可哀想だと? 知ったような口をききおって。いいか? 『有夜の民』と言うのは——」
その時、祭祀官は初めて呉羽の目を見た。祭祀官の目は、洞のように黒く、からっぽだった。
「我ら『永夜の民』から、永遠を剥奪し、ツキモノに変えてしまう化け物だ!」
「……え……?」
呉羽は、深く絶望した。
——永遠の、剥奪……?
それは、本当なのか。だとしたら、あの時あの少年がツキモノになったのは。——わたしのせい?
そうだ、そうに決まっている。だって、『有夜の民』は永遠を剥奪し、『永夜の民』をツキモノに変えてしまう、化け物なのだから。
呉羽の純粋で爛漫な思考と心が、一気に黒く塗りつぶされてゆく。石を投げつけられ、傷口からは血が流れる。そこから流れる血とともに、呉羽の中の、人としての自尊心が流れ出し、消失する。
途切れることなく浴びせ続けられる罵詈雑言がうるさい。まるで、耳の中に蝉が卵を産みつけ、それが一気に羽化したように、脳内に響く。
人々の方に目を向けると、見知った少女を見つけた。春だった。呉羽を軽蔑するでもなく、驚いた様子で、その場に立ち尽くしている。ひどく狼狽しているように見える。
——あの子はいま、何を思っているのだろう。
失望しただろうか。自分が慕っていた人が、永遠を剥奪する化け物だと知って。真意は読み取れないが、当たらずしも遠からずなことを思っているのだろう。
呉羽はうつむき、罵詈雑言と投げつけられる石を、当然のもののように受け入れる。まるで、寿命ある生物が、死を受け入れるように。
消えてしまいたい。このまま泡沫のように、透明になって、消え去ってしまいたい。
——こんなわたしなんて、いっそ死んでしまった方がいいんじゃ……。
呉羽の胸中を渦巻く絶望が、彼女を飲み込みかけた。その時だった。
「おや、こんなところにいたんですね」
ひとりの青年の声が、呉羽の意識を呼び覚ました。その声を合図に、怒号も罵詈雑言も、ぴたりと止んだ。
青年は、人混みをかき分け、呉羽の前にしゃがみ込む。そして、彼女の左右不揃いの瞳を見つめる。生気はなく、だがどこか純粋そうな瞳に、ぼろ布のようになった呉羽が写っている。
「セ、キ……?」
赤い髪に、青い瞳。間違いなく、セキだった。
「まったく、はぐれないと約束したというのに、結局はぐれてしまいましたね。まあ、人が多かったので、しょうがないですが」
まるで、この状況を、すべてなかったことのように話すセキに、呉羽はぽかんとする。
「さて、では行きましょうか。ここは何だか居心地が悪いです」
流れるように手を取り、セキは立ち上がるが、当の呉羽は座り込んだまま。
「どうかしましたか?」
「なんで、なんで……」
——わたしといたら、セキもツキモノに……。
涙を必死にこらえる呉羽に、セキは、文字通り少し微笑んで、
「くふふ、だって、私たちは〝ともだち〟でしょう?」
そう答えた。
その瞬間、いままで泡沫のように曖昧だった呉羽の輪郭が、その瞳から零れ落ちる涙によって描かれ、はっきりと形作られた。
「お、おい! お前、どういうつもりだ! 『有夜の民』に触れるなんて」
祭祀官は、ひどく狼狽した様子だった。セキは、彼をきっと睨みつける。それにさえ、他の『永夜の民』はひどく困惑している。
「はあ、まったく、これだから懐古厨どもは困ります。永遠の剥奪だのなんだのと言っていますが、結局、あなたたちの永遠なんて、巫女王の神力のおこぼれにすぎないじゃあないですか」
祭祀官は、ぐっと言葉を詰まらせる。
「そのおこぼれに、醜く執着し、求め続けるだなんて」セキは、満面の笑みを浮かべる。「まるで、卑しい豚さんみたいじゃあないですか。誇り高き『永夜の民』が聞いて呆れますよ」
「貴様!」耐えきれなくなった祭祀官は、鼻息を荒くして、セキを指さす。セキは少しも動揺せず、祭祀官をねめつける。
「巫女王から、災いを呼ぶと予言された汚らわしい奴め! やはりお前は、我ら『永夜の民』に災いをもたらす化け物なんだ!」
——災いを呼ぶ……?
どこかで聞いた話だと、呉羽は黙考する。
——そうだ、おじいさんがしてくれたお話だ。
その話と、セキにどんな関係があるのだろうか。
「‥‥‥その話を知っている人なんて、この都に何人残っていますか?」
「‥‥‥」
「もう、ほとんどいないでしょう。現にいま、ここにいる皆さんは、私を違う意味で恐れているようですし」
周りにいた人々は、〝『有夜の民』に触れたセキ〟に、恐れ慄き、悲鳴にも似た声音でざわついている。
「私を知っている人は、みんなツキモノになってしまったでしょう? もう、二千年は前の話ですから」
祭祀官とセキのふたりの間に、沈黙が降りる。無言のまま、ふたりは睨み合っていた。
「せ、セキ‥‥‥」
「呉羽さん、話は後でしますから。いまは逃げましょう。走れますか?」
呉羽は涙を拭って、うなずく。そして、差し出された手を取る。冬の陽だまりのように、ほのかに温かい手だった。
それを合図に、セキは群衆めがけて走り出す。その勢いを利用し、呉羽も立ち上がり、全力で走る。
「おい! 何をぼーっとしている。『有夜の民』が逃げるぞ! 早く追え! 追えぇ!」
祭祀官の喝により、我に帰った検非違使は、別当を中心に呉羽たちを追いかけてくる。
「セキ‥‥‥!」
「大丈夫です。私はこの数日で、都の構造を完璧に把握しましたから」セキは答える。「このまま市を抜けましょう。その後竹林に入ります。そこまで行けば、さすがに追ってこれないはずです」
竹林は、都の三分の一を占めるほど広大だ。土地勘のない者が、ひとりで入るなど自殺行為に等しい。場合によっては、人間たちが住む俗世へ出てしまう可能性もある。たしかに、そこまで行けば、検非違使から逃げ切るのは容易だろう。
——そんな場所に、ひとりで入ってたなんて‥‥‥。
命知らずにも程がある。いや、『永夜の民』だから、死なないのか。普通なら、『永夜の民』は都の外を恐れるが、外から来たセキは、そんなこと気にならないだろう。——それでも、馬鹿だと思うけれど。
「でも、その後はどうしよう……」
「わかっています。なので、竹林で潜伏するんです」
追っ手はすぐそこまできている。ふたりは、風を切り、地面を強く蹴り、とにかく走り続けた。
そして、もうすぐ市を抜けるという時だった。
「もう終わりだ! 『有夜の民』め!」
呉羽の長い髪が、放免によって乱暴に掴まれる。
呉羽は悲鳴を上げ、後ろに倒れ込む。そして、掴んでいたセキの手を離す。
「呉羽さん!」
セキが、悲鳴にも似た声音で、呉羽の名を呼ぶ。
「『有夜の民』を庇い、そのうえ逃がそうとするなんて、お前は一体何者だ! お前も、処罰の対象になるのだぞ!」
「何者、ですか‥‥‥」セキは、男を睨みつけて言った。「‥‥‥『永夜の民』ですよ。人間が妖だと揶揄する、『永夜の民』」
セキは形の良い顎に指を添え、話を続ける。
「あなたが何年生きたのかは知りませんが、人間ならば考えられないほど生きているでしょう? それなのに、未だに醜くも生にすがる。生きる目的なんてないくせに——」
「黙れ! この裏切り者が!」
セキの言葉を遮るように、放免は叫ぶ。
「『有夜の民』が、俺たち『永夜の民』にしてきたことを忘れたのか! こいつさえ、こいつさえいなければ——俺たち『永夜の民』の憂いが、無くなるんだ!」
放免は持っていた棍棒を高く振り上げる。日が隠れ、呉羽の顔に影がさす。反射的に、呉羽は目を瞑った——まさにその時。
「やめろっ!」
少年の咆哮が響き渡る。はっとして目を開いた時には、放免は何者かに突き飛ばされ、倒れ込んでいた。
呉羽は、驚きのあまり、目を大きく見開く。
「は、かせ‥‥‥?」
呉羽やセキよりも、小柄な少年——博士が、息を切らして立っていた。右手には、放免から奪ったのだろう棍棒が握られていた。
「この、親不孝者が‥‥‥!」
博士が、呉羽を睨みつける。先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返ったそこで、博士は見た目にそぐわず、悠然と立っている。呉羽は思わず、「ごめんなさいっ!」と謝った。
「俺のことはいい! 早く呉羽を遠くへ連れていけ!」
「‥‥‥はい」
互いにうなずき合うふたりに、呉羽は困惑した。
——セキは、博士を知っているの?
そう思っていると、セキはその思いを察したのか、
「それもすべてお話しします」
と言って、呉羽の手を再び引き、市を抜ける。
不安、疑問、混乱、この全てが混ざり、呉羽は胃の中身をひっくり返したように気持ち悪くなった。
——でも、セキといると、心が温かい。
そう思わずにはいられず、呉羽はさらに混乱せずにはいられなかった。
♢
竹は、『月の女神』の眷属なのだと、セキは語る。
「なので、ここにいれば安全ですよ。あなたには、『月の女神』の加護がありますから」
「……」
——そんなもの、あるとは思えない。
『月の女神』が与えた永遠を剥奪し、そのうえツキモノに変えてしまう自分に。そんな考えを読んだのか、セキは念を押すように、
「大丈夫です。あなたは、女神に愛されています。長く生きている私が言うのですから、間違いありません」
どんな根拠があって、そんなことが言えるのだろうか。呉羽には全く理解できなかった。
——いや、そんなことよりも。
「……セキは、わたしから離れた方がいいよ」
セキは、きょとんとした顔で、呉羽の顔を見る。「どうしてですか? 私は、呉羽さんから離れたくないのですが」
呉羽は、沈痛な表情でうつむく。
「だって、わたしといたら、セキまで……」
「『有夜の民』といるくらいでは、永遠はなくなりません」
セキは、はっきりと言い切った。呉羽ははっと顔を上げる。セキの顔が、思ったよりも近くにあって、小さく悲鳴を上げる。
「もうっ、近いよ!」
「すみません」謝りはしたものの、大して反省してなさそうである。「呉羽さんの顔を、よく見ていたいので」
あっけらかんと答えるセキに、呉羽はことさら恥ずかしくなる。
「……〝永遠はなくならない〟という話の途中でしたね」
逸れていた話題を引き戻し、セキは話始めた。
「たしかに、『有夜の民』は、私たち『永夜の民』の永遠を解くきっかけにはなりえます。ですが、〝ただ一緒にいるだけで〟永遠が解けることはありません」
だってそうでしょう。と、セキは話を進める。
「仮にそうだとしたら、あなたを育てた彼は、とっくのむかしにツキモノになっているはずですから」
言われてみればその通りだ、と呉羽は思う。たしかに、呉羽を十年以上も育てているのに、ツキモノになっていないのはおかしいのか。
——じゃあ、どうやったら永遠は解けるのだろう。
ふたりの間に、冷たい風が好き抜け、長い髪を揺らす。乾燥した風だった。
「……セキは、博士と知り合いなの?」
意を決したように、セキに訊ねた。先ほどの会話を見る限り、赤の他人とは思えなかった
「博士……ああ、あなたの育ての親ですね。もちろん知っていますよ。だって、彼は私の育ての親でもありますから」
「……。……ええ!? そうだったの?」
呉羽は身を乗り出し、セキを問い詰める。
「はい。見た目からは想像できないでしょうが、彼は私よりもずっと年上ですよ」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。博士は、セキの恩人でもあったのか。
それを知って、思わず、笑みがこぼれた。それを見たセキが、「どうかしましたか?」と訊いてきた。
「……なんだか、不思議な縁を感じたの」
セキは、目をしばたたく。「どういうことですか?」
「だって、わたしをわたしにしてくれたのは、博士だったの。セキもそうだったんだと思うと、不思議だなって感じたの」
「……そうですか」
感傷に浸る呉羽を慮って、セキはしばらく黙り込み、「初めて会った時、私がかけた言葉を覚えていますか?」と話を切り出した。
「……一緒に都を出ようって話?」
呉羽の答えに、セキは「はい」と肯定する。
「あの時の言葉を、少し訂正させてほしいです」
「訂正?」
呉羽が聞き返すと、セキは数歩先に踏み出して、振り返る。
「……私と、死ぬまでずっと一緒にいてください。そのために、一緒に都を出ましょう」
セキの言葉で、呉羽の心が一気に溢れた。それと同時に、こうも思った。
——わたしも、セキと何年先も、何十年先も、ずっと一緒にいたい。
なぜ、急にこう思ったのかは分からない。だが、心の底から、いまの自分は、彼に惹かれている気がした。
「……行っちゃおうかな」
セキは、目を見張る。そして、ぐいっと呉羽に顔を寄せる。
「本当ですか? 本当に、私とずっと一緒にいてくれますか?」
「うん、わたしが死ぬまで、ずっと」
セキは、文字通り、顔をぱっと明るくして、呉羽の手を取る。そしてその手を、自身の頬に擦り付ける。
「くふふ、こんな感情になったのは、いつぶりでしょうか。もう、思い出せないぐらいむかしの話です」
「せ、セキ……?」
擦り付けていた手を離し、セキは恍惚とした笑みを浮かべる。先ほどから、セキの表情は、『永夜の民』とは思えないほど豊かに変化している。——なんでだろう。
これは、呉羽が『有夜の民』であることと何か関係しているのだろうか。
「あの時聞きそびれてしまったから、聞かせてほしいんだけど……」
セキは、何の事だろうといった風に、首をかしげる。
「どうして、わたしと都を出たいって言ってくれたの? どうして、さっき、わたしを助けてくれたの?」
ここで聞いておかないと、もう二度と訊けないような気がして、思わず訊いてしまった。セキは、そんなことかと言った風に微笑んで、
「……私が、あなたに呪われているから——ですかね」
と答えた。
「呪われてる……?」
呉羽の問いに、セキは黙って微笑むだけであった。
呉羽は一度、屋敷に戻された。
『迎えに行くから、待っていてほしい』
そんな伝言だけを残されて。
その日の夜半。呉羽は、昼間に老人から聞いた話を、紙に書き残していた。
あの話が、なにかセキと関係があると思ったからだ。
——厄災を呼ぶと言われた青年は、もしかしたらセキのことかもしれない。
セキの口ぶりを聞くに、彼は相当長寿のようだから、きっと『永夜の民』が月にいたころから生きているはずだ。なら、あのお話の中に出てきた青年が、セキである可能性は十分にあり得る。
「もし、そうなのだとしたら……」
呉羽とセキは、似た者同士だ。呉羽も、ずっと虐げられ、蔑まれてきたのだから。
「……呉羽、起きているのか」
博士の声だ。
「うん、起きてるよ」
答えると、ゆっくりと御簾の中に入ってくる。呉羽たちを逃がした後、博士は検非違使たちに追われたらしく、夕暮れ頃になって捨て犬のようになって帰ってきた。あちこちに怪我もしていたが、いまはすっかり元通りだ。
「傷、治ってるね。よかった」
「『永夜の民』だからな。あれぐらいなんともないさ」
ふたりは、しばらく無言で見つめ合う。
「……博士は、セキの育ての親だったんだよね」
博士は、一瞬、眉間にしわを寄せ、「セキ……?」とつぶやくが、すぐに「ああ、彼のことか」と納得したようだった。
「ああ。彼には、親がいなかったからな。私が拾って育てたんだ」
お前のようにな。博士は、宙を見る。その瞳からは、これまでは感じられなかった色があるように見えた。
「博士……」呉羽は、博士に深々と頭を下げた。「ごめんなさい。わたし、だめだって言われてたのに、何度も市に行って、迷惑をかけて……」
「今更だな」
博士は、息を吐く。どこか呆れたようにも見えた。
「だが、もとより、お前には難しいことだったのかもしれないな。わがままで、好奇心があり余ったお前に、この世界のことを隠し通すのは」
「……馬鹿にしているの?」
「まさか。そんなつもりはない」と、博士は言いながら、呉羽の正面に座る。
「……私は、むかしから永遠の歴史を調べてきた」
「永遠の歴史? それって、姫君が舞を舞ったら、『月の女神』から、永遠の祝福を受けたっていう、あの?」
「ああ、そうだ。私はそのおこぼれをもらって、永遠になった。そして、一年もたたずに老いが止まったわけだ」
好奇心に駆られる呉羽の頭を撫でながら、博士は続ける。
「そして、その後地上に降りて来た『永夜の民』だが。思わぬ副作用が出始めた。それが——」
ツキモノだったのだという。呉羽は、目を輝かせながら、続きを待つ。
「地上に降りたことが、ツキモノのきっかけかどうかはわからなかった。私は、なぜ、『永夜の民』がツキモノになるのか。私は、ずっと調べていたんだ。まあ、分かったことなんて、ほとんどないがな」
自嘲気味にそういう博士に、呉羽は少しだけ微笑む。いま、初めて、博士に人のような何かを感じたからだ。
「……もう寝ろ。続きは今度すればいい」
それだけ言い残し、博士は御簾をくぐる。
「まって!」と、呉羽は思わず、博士を呼び止めた。博士は、「なんだ、どうした」と訊いてくる。
「……おやすみなさい」
ただ一言、そう言った。
それに博士は、「ああ、おやすみ」と返した。
♢
暖かな褥のなかで、呉羽はまどろんでいた。そこに、夜の冷たい空気があいまって、ひどく心地よかった。
「……はさん、呉羽さん」
そんなまどろみを、一瞬にして覚ましたのは、青年の、ねっとりとした声音だった。
「わあ!」
呉羽は飛び起きた。枕元で、セキがしゃがみ込んで呉羽の顔をのぞき込んでいた。
「な、なんでここにいるの?」
「なんでって、あなたと都を出るためですよ」
あっけらかんと答えるセキに、呉羽はぽかんとする。
「い、いまから出るの……?」
「はい。善は急げと言いますから」
意味をはき違えてはいないかと、呉羽は不安になる。
「それに、もしあなたが検非違使たちに見つかれば、殺されてしまいますから。逃げ出すならいまかと」
「……」セキの突拍子もない発想には、さすがの呉羽も驚いた。『永夜の民』にしたって、なにがなんでも行動力がすさまじいにもほどがある。
——でも、セキは正しい。
いまの呉羽に、確実な明日なんて、存在していない。明日にでも捕まって、殺されてしまうかもしれない。そう考えると、いま逃げるのが得策だろう。
「……わかった。わたしを連れて行って」
「はい」
セキは、着の身着のままの呉羽を抱きかかえ、外に飛び出した。そして、そのまま竹林の中に入り込む。いまの時期の空気は冷たく、触れるたびに、突き刺すような痛みが走る。だが、それ以上に、セキに掴まるのがやっとだった。尋常ではない速さで走るセキから、少しでも離れたら、そのまま振り落とされそうだった。
しばらくして、やっと竹林を抜けた。
——ここが、都の外……。
とはいえ夜中なので、何も見えない。だが、遠くのかなたに、ほのかな光があるのは見えた。
「セキ、あの光は何?」
耳に届いているのか不安だったが、しっかりと拾っていたようで、「あの、遠くの方の光ですか?」と言葉を返した。
「あれは、ガス灯と呼ばれるものですよ。あれのおかげで、帝都は特に、夜でも明るいんです」
「へえ……」
博士が、前に、都の外では、呉羽のように寿命を持つ人間たちが、ここでは考えられないほど、素晴らしい文明を築いていると言ったのを思い出した。——本当だったんだ。
「明日か明後日には、きっと気を失うほど美しいものがたくさん見れますから、楽しみにしていてくださいね」
セキは呉羽を強く抱きしめ、暗がりでもわかるほど、明確な笑みを浮かべた。
「……うん! 楽しみにしてるね」
それに応えるように、呉羽もまた、セキに強く抱き着いた。
その頭上を、一羽の烏が飛んでいた。
帝都は、帝の住まう宮殿を中心に、華やかで豪奢な都会の風景が広がっている。社会の中心が、権力者の住まう場所である点は、『永夜の民』が住む都と大差ないように思える。
時の帝は、刹那女王という、約一千年ぶりの女帝で、まだ成人して間もない方だ。しかし、高い政治手腕を持つ、敏腕な帝だ。そのうえ人を思いやる気持ちもある、人としてもよくできた女性であった。
女性の帝など、少し前までは考えられなかったというのが嘘のように、人々は彼女に心酔していた。一千年もたてば、人間の気持ちも変わるものなのだろうか。
——この数十年で、人間は本当に様変わりした。
セキはつくづく思う。西欧諸国が開国を迫ったかと思えば、次の瞬間には、暦が変わり、建物が変わり、さらには衣食や文化まで、すべてが早変わりした。街にはガス灯が数多く設置され、道には路面電車や、自動車が通る。少し前まで、牛車で移動していたのが嘘のようだ。人間の変化の速さには、永遠についていけないのだろうと、セキは感じていた。
——まあ、追いつく気なんて、さらさらありませんが。
だが、こうも長い間生きていると、急速な政変なんかにもいずれ適応できるようになるのだ。無論、その〝急速〟というのも、『永夜の民』である、セキの感覚だが。
——ですが、呉羽さんは違います。
彼女は『有夜の民』だ。急激に変わった世界に、困惑することは目に見えている。そうなったとき、なんとかするのが自分の役目でもある。
——彼女には、絶対に幸せになってほしい。
そう思う。それも、自分の隣で。我ながら、傲慢な考えである。
だが、そんなセキの懸念は、すべて杞憂に終わることになる。
♢
「わああ! すごい! すごいよセキ!」
呉羽は瞳を輝かせながら、落ち着きのない様子であたりを見渡す。そんな呉羽を、人々は奇異の目で見ている。
「呉羽さん、落ち着いてください」
こんな時でも落ち着いているセキの声も、いまの呉羽には届かない。
「見て! あの女の人が来ている装束、とっても華やかで素敵! あ! あの男の人の帽子、とっても格好いいわ!」
呉羽はたまらず走り出し、近くの甘味処へと走る。しかし、店内外を仕切る窓に、透明な何かがあって、入ることができない。
「セキ、何か見えない壁みたいなのがあるよ。これは何?」
「ああ、玻璃ですよ。最近はガラスと言いますが」
セキが説明する。
「へえ! ここの人たちは、玻璃——ガラスを窓にはめてるんだね。うん、確かにそっちの方がおしゃれだね」
くすりと笑って、呉羽は言う。セキも、つられてわずかに微笑んだ。
「ねえ、まずはどこに行くの? ここ? この建物?」
「いえ、まずは服の調達ですかね」
呉羽は、そこで初めて、自身が寝間着姿であることを思い出した。ようやく我に返った呉羽は、顔を真っ赤にして、両手で覆い隠した。
セキに連れられ、やってきたのは『ききょう』と書かれた看板を掲げた仕立て屋だった。呉羽の住んでいた屋敷ほどではないが、帝都の中ではそれなりに大きな建物で、まとう雰囲気からして、老舗という言葉が似合う。そんな佇まいだ。
店に入ると、嗅ぎなれない爽やかな植物の香りが、呉羽を優しく抱き込む。衣桁には、見たことないほど華やかな装飾がなされた着物がかけられ、奥の棚には、華やかさを抑えた色合いの反物が重ねられていて、呉羽の心が躍る。
「わかってるからね、セキ。ちゃんと静かにするから」
セキに言われるよりも先に言うと、
「……まだ何も言っていませんが」
と呆れたような声音で返される。
「んん? なんや、セキやん」
急に声をかけられ、呉羽は咄嗟にセキの背後に身を隠した。
声をかけてきたのは、うら若い女性だった。すらりと背が高く、右胸には、緑色の飾りがついている。後頭部で束ねられた腰まで伸びる髪は、動くたびにゆるやかに揺れる。完成されたばかりの彫刻のような美しい顔立ちは、声を聞かなければ、男性と間違えてしまうほど中性的な美しさを湛えている。涼しげな目もとに、生気が感じられない瞳。——『永夜の民』……?
だが、先ほどの声音と言い、表情と言い、『永夜の民』らしくないと思った。
「あんた、仕事ですとかなんやゆうて、一週間帰ってこんかったやん。どこ行ってたん?」
女性は、セキに詰め寄ってくる。
「あなたには理解できないほど、難解なこと、ですかね」と、セキが曖昧に返すと、女性は深くため息をついた。呆れてものも言えないような様子だった。
「いつまでもうちを子ども扱いすんなや。うちももう三百歳のいい大人なんやけん」
「さ、三百……」
やはり、この女性も『永夜の民』のようだ。都の外にも、『永夜の民』が普通に暮らしているとは驚きだった。
「時にセキ、さっきから後ろに隠れとるんは誰や?」
急に矛先が向いて、呉羽はびくりと身体を震わせる。
——もしまた、自分が『有夜の民』と言われたら……。
寿命を持つ者が大半を占める帝都で暮らしている『永夜の民』である以上、いらぬ心配だとわかってはいる。だが、ついこの前の迫害の恐怖が、呉羽の中に深く根を張っており、身体が震えてしまう。
「呉羽さん」肩越しに、セキは呉羽の顔を覗き込む。「大丈夫です。彼女は……リョクは、あいつらのように、あなたを虐げるようなことはしませんから」
リョク。それがこの女性の名前らしい。なるほどたしかに、彼女にはリョクという名が似合う。呉羽は、おそるおそるセキの背中から離れ、リョクの前に立つ。目の前に立ってみて、改めて彼女の背の高さに驚く。おそらく、男性のセキよりも頭ひとつ分ほど大きい。都には、リョクほど背の高い女性はいなかったので、呉羽はたじろいだ。
「ちょっと! なんでこの時期にそんな薄着なんよ! しかも裸足やし! セキ、あんたには女子に対してすべき配慮ってもんがないんか!」
呉羽を見るなり、リョクは血相を変えて声を荒らげる。あまりの声の大きさに、呉羽は頭が痛くなった。いまはちょうどお昼時で、店内に客が少ないのが幸いだった。
「……だから、着物を見繕いに来たのですが」
「頼んだその日に出来上がる訳ないやん! なんで長生きやのにそういうことには無知なんよ!」
リョクの言い分はもっともだが、早急にこの言い争いをやめさせた方がよいと、呉羽は感じていた。事実、店主らしき女性が困惑した様子でこちらを見ている。背中を覆い隠すほど長い髪が美しい、二十歳前後の娘だ。右目にガラスがはめられた飾りをつけており、その奥にある瞳には、呉羽が見たことないほどの色が溢れていた。
——この人は、わたしと同じ……。
おそらく、寿命を持つ人間だ。初めて間近で見る人間に、呉羽の心は温かい何かで満たされていく。ここではもう、『有夜の民』だからと蔑まれることはないのだ。
「……まあええわ。今日引き取る予定やった着物を貸したるけん、それを着せたらええわ」
そんなことを考えていると、ようやく落ち着いたのか、リョクはそうつぶやいた。
「宿舎になら、あんたのサイズに合ったものもあるやろうし、それでええな」
「さいず……?」
呉羽の言葉に、リョクは訝しむように見つめてくる。呉羽は、思わず後退する。
「……セキ、話はあとで聞かせてもらうで」と言い残し、リョクは店主を伴って店の奥へ入っていった。
残されたふたりは、その場に立ち尽くしていた。
ただ一言、セキが、
「はあ、何年たっても、彼女は変わりませんねえ……」
とつぶやいた。
リョクが荷物を受け取った後、呉羽たちは足早にリョクの住む宿舎へと向かった。貸してもらった着物は、菊の花があしらわれた落ち着いた色合いのものだったが、やはり、小柄な呉羽には少し大きかったのだ。
ほどなくして、呉羽たちがたどり着いたのは、宮殿の近くに設置された、大きな建物だった。宮殿の近くと言っても、ここは自然豊かな場所で、緑が生い茂っている。建物は、この辺りに多くある洋館と同じ造りで、これまでずっと都で生きてきた呉羽には、目が飛び出るほどの華やかさを纏っていた。
「わああ! とっても綺麗な建物ね! 都では見たことないわ」
「まあ、そうでしょうね」と、セキは答える。「宿舎は、この裏手にありますよ」
「あんたが言わんでもええやろ。あんたは住んでないんやけん」
唇を尖らせながら、リョクはため息をつく。彼女は、呉羽と同様、子どもっぽい性分らしい。
「ちなみに、この建物が、うちらが働いとる対怪異小隊の本部な。ここに所属しとるもんは、大体があっちの宿舎で暮らしとる。といっても、あんまり人はおらんけどな」
「へえ」
呉羽は相槌を打つが、建物に気を取られており、大して聞いていなさそうである。
「……人の話を聞いとらんところ、セキにそっくりやな」
悪意がないだけましやけどな。そう吐き捨てて、リョクはセキを睨みつける。
セキは、あっけらかんとしていて、リョクの嫌味に何も感じていないように見える。——いや、『永夜の民』なのだから、普通なのだが。
リョクが、『永夜の民』らしくないので、混乱してしまいそうだ。
「着いたで」と言って、リョクは立ち止まる。
目の前の宿舎は、先ほどの洋館とは違い、木造建築だった。屋根は薄花色、壁は白く塗られ、しゃれた雰囲気を醸し出す、美しい建物だった。
「わああ……!」
「あんた、さっきからそればっかりやな」
リョクの指摘に、呉羽は苦笑した。
宿舎は二階建てで、一階が隊員の部屋として使われているらしい。セキとは宿舎の前でいったん別れ、リョクの部屋へと向かう。リョクの部屋は、隅の方にあった。室内は呉羽の局の二倍ほどの大きさがあり、小綺麗に片付いていた。ガラスの窓からは日が差し込み、明るい雰囲気があった。
「ちょっと待っとき。いま、使っとらん単衣とか引っ張り出すけん」
リョクに促され、呉羽は寝台に腰かけた。感じたことないほど柔らかい布団に、呉羽は疲労感も相まって眠ってしまいそうだ。
「……」呉羽はそのまま横になる。そうすると、否応なしに、まぶたが重くなってくる。
——寝ちゃいけないのに……。
そう思っても、まぶたはどんどん重くなる。やがて、抵抗する力もなくなって、呉羽はまぶたを閉じた。
目を覚ますと、呉羽の身体には、上着がかけられていた。リョクが着ていたものだ。気を遣って、かけてくれたのだろう。部屋には誰もいない。日が傾いているのか、部屋は少し薄暗い。——どのくらい寝ていたんだろう。
呉羽は上着を手に、部屋を出た。廊下にも誰もおらず、呉羽は胃のあたりが冷たくなった。
「りょ、リョク……?」
呉羽はそのまま外に出る。その瞬間、冷たい風が、呉羽の身体に吹きつけた。その風に身震いしながら、呉羽はリョクを探す。
「リョクーっ! どこにいるのー……」
不意に、背後から、がさがさと物音がした。はっとして、そちらを振り返る。
「だ、誰……? リョク? それとも——」
言い切るよりも先に、それは姿を現した。どろどろとした、汚泥のような靄。
「——ツキモノ」
ツキモノは、じわじわと呉羽に距離を詰めてくる。だが、前と違って、呉羽に恐怖心はなかった。
——これは、悲しい存在だから。
人として生きることも、死ぬことさえも許されない。『永夜の民』の成れの果て。
「……あなたは、誰だったの?」
呉羽は、ツキモノに触れる。もちろん、実体がないので、霧に手を突っ込むような感覚だが。やはり、ツキモノは温かい。実体がないのに、そう感じる。
そしてまた、呉羽の意識は遠のいていく。
♢
『ねえ、もし永遠になれるのなら、君は、永遠を選ぶ?』
そんなことを、隣で横になっていた青年は問う。彼の青い目は、赤く腫れていた。泣いていたのかもしれない。
その問いの返事に、困ってしまった。そんな資格がないと思ったからだ。
『わたしは、罪を犯したから』
かろうじて、それだけ言えた。
『私は、何年先でも、何十年先でも……いえ、何億年先でも、何十億年も、あなたと一緒にいたいです』
青年は言う。『このまま、この時が永遠になればいいのに』とも言った。
『それは無理だよ。だって、みんないつか死ぬもの。わたしも、あなたも』
そう答えると、青年は悲しそうな顔をして『そう、なんですかね』とつぶやいた。
その顔が、あまりにも辛そうだったので、胸が苦しくなった。
その後も、ふたりで寝ころんだまま、空を見続けた。
♢
「危ない!」
その声で、呉羽は我に返った。リョクの声だった。リョクは剣を抜き、ツキモノに襲い掛かる。
「だ、だめ! 切らないで!」
呉羽の必死の訴えに、リョクの動きがぴたりと止まる。その隙に、ツキモノは素早い動きで逃げて行った。
安堵する呉羽を、リョクは、
「あんた、一体何者や……?」
とつぶやき、信じられないものを見るような目で見た。
「ツキモノに触れても、何にもならんなんて……」
その目には、これまで向けられ続けてきた蔑んだ色はなく、果てしなく純粋な、困惑があるのみだった。
永夜の都に住む『永夜の民』は、寿命のあるものを、例外なく『有夜の民』と呼ぶが、実際は少し違う。
『有夜の民』は、寿命を持つ『月の民』を指す言葉であって、もともとこの星に住んでいた人間を指す言葉ではない。
ただ、いかんせん『永夜の民』が地上に降りてから、二千年以上たっている。そのうえ、この地上世界は、よく流刑地として使われるため、はるか昔から、『月の民』もこの地に降りてくるので、誰に『月の民』の血が混じっているのかなど、もうだれにも分からない。なら、『有夜の民』を忌み嫌う彼らとしては、寿命ある者すべてを、『有夜の民』と、ひと括りにしてもよいのかもしれない。
リョクは、呉羽の着替えを手伝いながら説明した。南天が施された、落ち着いた色合いの単衣は、植物の色が少なくなるこの時期によく合った華やかさを抑えた色合いだ。それに、紫色の袴を合わせた。そして、最近はやっているという編み上げのブーツをはかせてもらった。
「やっぱり、編み上げブーツはハイカラって感じがしてええなあ。着物も似合っとったけど、袴も似合うわ。素材がええけんかな」
ソファに腰かけている呉羽に、リョクは言った。
「ハイカラ……?」
聞いたことがない言葉である。というか、ここに来てから、聞いたことがない言葉ばかりである。
「西洋風でおしゃれってことや。最近はハイカラなもんがいっぱいやけん、明日セキと見に行ってき」
「うん! 楽しみにしておくね」
そういえば、セキはどこに行ったんだろう。あの時別れてから、彼を一度も見ていない。そんな考えを察したのか、リョクは、
「あいつなら、呼び出しを受けて、帝に会いにいっとるで」
「帝って……」
言わずもがな、この帝国を治めている人物だ。そんな大物に会いに行っているのか。
「セキはこの隊の隊長やけんな。それに」
リョクは、呉羽の隣に座る。
「セキは長い間、それこそ、人間が何度生まれ変わっても足りひんぐらい、この国を守り続けてきとるけんな。帝にもずっと仕え続けとる」
だから、必然的に頼られてまうんやな。どこか、皮肉交じりに、リョクは言った。
「……リョク?」
「そんなわけで、セキは遅くなると思うけん、うちがあんたをセキの家まで送る約束をしとるんや。行こっ!」
「う、うん」
呉羽は、若干の引っ掛かりを感じつつ、立ち上がり、リョクについて行く。編み上げブーツのせいか、少し視線が高い。
——セキに会いたい。
なぜか、無性にそう思って、呉羽の心は落ち着かないままだった。
セキの住む屋敷は、華族たちの屋敷が並ぶ地域ではなく、自然の多い、竹林の中にあった。人生二度目の自動車に乗り、四半時ほど走った場所で、閑静な農村地帯のすぐそばだった。
運転をしていた青年は、帽子を深く被っており、顔はよく見えなかった。あまりにも深く被っているので、本当に前が見えているのか、いささか疑問に思った。
目的地に着くと、辺りとは一線を画す雰囲気を醸し出す木造の屋敷に、呉羽は圧倒される。
敷地に対して、屋敷は広くないが、どこか懐かしさを感じる、趣のある家屋だった。二階建てで、よく手入れが行き届いている。それでも、どこか物憂げに見えてしまうのは、広い庭に、池だけがぽつんとあるからか。それとも、屋敷の主人が、感情を失った『永夜の民』だからだろうか。
その屋敷に圧倒されていると、竹林から一羽の烏が飛んでくる。他の個体よりも、小柄な烏。慈鳥だった。
「慈鳥」
驚いた。呉羽の近くによく現れるとは思っていたが、まさか、俗世である帝都にまでついてくるとは。
「また会えて嬉しいよ。よくついて来れたね」
呉羽は、慈鳥の頭を指で優しく撫でる。
「ほーう。烏に名前をつけとるんか」
リョクが、物珍しそうにつぶやく。
「やっぱり、烏は苦手なの?」
帝都で暮らしているとはいえ、リョクも『永夜の民』。もしかしたら、死の象徵である烏を、好いていないかもしれない。
だが、「いや? そんなことはないで」とリョクは一蹴した。
「珍しいやん。鳥に名前付けてるの」
飼ってるわけやないやろ。その問いに、呉羽はうなずいた。慈鳥は、あくまで友達だ。「慈鳥は、わたしの友達なの」
「友達か。ええやん、それ」
リョクはからりと笑ってみせる。本当に、『永夜の民』とは思えないほど、彼女は表情が大げさだ。
「おい」
そう話していると、急に声をかけられる。声をかけてきたのは、運転手の青年だ。粗暴そうな声だった。
「いつまで立ち話をしてんだ。するなら中に入れ。俺が叱られる」
「あんたなあ‥‥‥」リョクは呆れたようにつぶやき、青年を睨みつける。青年の表情は、帽子で隠れていてよく見えない。どうしようかと思っていると、
「あらら? 帰ってきたー?」
柔らかな少女の声が、ふたりの間に割って入った。
声の持ち主は、玄関から戸を少しだけ開け、こちらを覗き込んでいる。
「え?」
呉羽は、ぽかんとした。声の持ち主は、声音からも想像できる通り、幼い少女だった。色素の薄い髪をおさげにして、無地の着物を着て、たすきと前掛けをしていた。おそらく、この屋敷の使用人だろう。だが、特筆すべき点は、そこではない。
少女の頭には、匙のようにぴんと伸びた白い耳が生えていた。兎の耳だった。
——もしかして、あれって‥‥‥。
「もー、また喧嘩してるの? いい加減にしてよねー。あたしたち玉兎が、『永夜の民』に勝てるわけないんだから」
玉兎。月の都の民族の一派である彼らは、兎の耳と尾を持っている。数も多いため、よく『月の民』に仕えていたという。
呉羽も、文献でその名を見聞きいてはいたが、実際に見たのは初めてだった。玉兎を好んで使役していた『有夜の民』と同じことをしたくないと、『永夜の民』が、彼らを目の敵にしていたからだ。
「あらら? ところでそちらのお嬢さんは?」
ふたりに悪態をついていた少女は、呉羽の方を見て、とてとてと近づいてくる。その愛くるしい見た目に、思わず見とれてしまう。
「ああ、この子が今日から世話になるっちゅう子や。セキから聞いとるやろ?」
「まあ!」少女は大げさに口許を手で覆う。「噂には聞いていましたが、こんなに可愛らしい人だなんて」
可愛らしい、と言われ、呉羽はまんざらでもなさそうに微笑む。
「ささ、中にお入りください。夕食の準備が整っていますよ」
少女は、言葉遣いこそ丁寧だが、声色や声量から、感情がくみ取りやすい。子どもっぽい性格なのかもしれない。
「ほな、うちは宿舎に戻るわ。明日、昼前に迎えに来るけん、腹空かせときなね」
リョクがからりと言うと、運転手の青年が、「歩いて帰れよ」と横槍を入れる。
「わかっとるわ。相変わらず性格悪いなあ」と言いながら、リョクは後ろ手に手を振りながら、来た道を戻っていった。
「帝都まで遠いけど、大丈夫かな……」
呉羽がつぶやくと、青年は「大丈夫だろ。『永夜の民』だし」と吐き捨てる。
「黒曜、そんなこと言わないの。性格が合わないだけでしょう」
黒曜と呼ばれた青年は、むっつりと押し黙る。
どうやら、青年は黒曜という名らしい。たしかに、彼は黒い装束を身にまとっている。
「あ、すみません。名乗っていませんでしたね」
少女は、こちらを向き直す。「あたしは雲母と申します。こちらは黒曜、あたしと同じ玉兎で、運転手をしてます」
「雲母ちゃん、それから、黒曜さん。これからよろしくね」
雲母は嬉しそうに歯を見せて笑い、黒曜はふんっ、と鼻で笑うだけだった。
——春ちゃんと、博士みたい。
意外な共通点を見出した呉羽は、これからの生活に、胸を膨らませるのだった。
♢
宮殿の奥にある、六畳ほどの畳敷きの部屋。そこは、対怪異小隊の隊長であるセキと帝が会うためだけの、封鎖された空間であった。窓はひとつもなく、明かりも最低限。何か恐ろしい化け物がひっそりと暮らしているような雰囲気を醸し出す空間。壁には、月と、そこから降り立つツキモノと、髪の長いひとりの女性が描かれていた。
刹那女王は、西洋のドレスではなく、十二単姿で、その絵を背にして腰かけた。女王の服装は、帝がセキに会う時の伝統のようなもので、暗黙の了解ではあったが、帝の一族は、粛々と守り続けていた。なんとも義理堅いことだと、セキはいつも感心していた。
「よく来てくれたな、セキ。急に呼び立ててすまなかった」
「本当ですよ。あなた、私がこの宮殿が嫌いなの知っていますよね」
セキがためらいなく言うと、刹那女王は噴き出す。
「はは、お主は変わらぬのう。態度も、それから姿も」
それをいうなら、彼女も変わらない。変わったのは、姿ぐらいのものだ。
「お主は、わらわが男児ではないからと、臣下たちから蔑まれても、わらわを見捨てなかった」
「男か女かで、蔑むなんておかしいですから」
「そして、わらわを唯一叱ってくれる、対等に話せる、兄のような存在じゃ」
まあ、いずれわらわも、兄とは呼べない姿になってしまうだろうが。刹那女王は、寂しげに瞳を揺らす。
「……私は、慣れていますよ。共に過ごした者たちが、次々に年を取って死んでゆく。よくあることじゃあないですか」
あっけらかんと言うと、刹那女王は、ため息交じりに、「それは、本来慣れてはいけないものだ」と言った。
「まあ、永遠を生きられるお前には、要らぬものなのかも知らぬが」
しばらく黙り込んだ後、「話がそれてしまったな」と刹那女王は仕切り直す。
「先日、宮殿にもツキモノが侵入してきた」
刹那女王の声色が、明らかに変わる。統治者としての、威厳ある声であった。
「それだけではない。報告によると、一般人らへの被害も増えていると聞く。被害にあった者の数は、これまでとは段違いだ」
ツキモノは、街に現れては人を襲う。なぜそんなことをするのかは、よくわかっていない。生への執着か、『有夜の民』への敵愾心か。結局のところは分からない。ツキモノになったことがないからだ
「何か、心当たりはないのか。このままでは、民の命が危うい」
セキは沈黙を貫き、刹那女王をただ見つめる。
「わらわは、民を守る責務がある。彼らが幸せに暮らせる国を守らねばならぬ。だが、わらわには、ツキモノと戦う力はおろか、近づくことさえままならぬ」
「……」
「頼む。何かあるなら教えてくれ」
刹那女王は、額を床にこすりつける。帝が、たかが軍の一部隊の隊長であるセキに、である。
——それほど、いまのこの国は、ツキモノの危険にさらされている。
そして、この国を、民を、守りたいと思っているのだ。本当に、よくできた女王だ。
「……はあ、あなたは本当に馬鹿真面目ですねえ」
セキが呆れたように言えば、「それがわらわの取り柄だろう?」と、優美に微笑む。
「……あるとすれば、巫女王でしょう」
刹那女王は、訝しむようにセキの顔を覗き込む。「巫女王。たしか、永夜の都を支配し、『月の女神』信仰の最高権力者、だったか?」
「はい、そうです」
「なぜだ。なぜ、そう思うのだ」
「それは——」
セキの言葉に、刹那女王は、目を大きく見開いた。
帝への報告を終えたセキは、宮殿の庭園を横断していた。庭園の横断は、帝の許しがあれば可能だが、わざわざ実行する人間はいない。そんなことをすれば、他の華族らの顰蹙を買いかねないからだ。
しかし、そんなものには微塵も興味がないセキは、気にすることなく、悠々自適に庭園を横断していた。
「おい、また来ていたのか。あの化け物」
遠くから、そんな声が聞こえてきた。
「ああ。なんでも、陛下から呼び出しがあったそうだ」
「こう何度も来られると、気分が悪くてかなわないな」
「しかも、何をしても死なない化け物だなんて……! そんなものに媚びへつらわなければならない陛下の、なんと哀れなことか……」
「おい、誰かに聞かれたらまずいだろう」
——ばっちり聞こえてますけどねえ。
セキは、いつも思う。いまの声は、おそらく華族だろう。あんなに醜く『永夜の民』の悪口をいう人間など、華族ぐらいだ。実際に手を汚していないからと、自身は何も悪いと思っていない、傲慢な人間。
——まあ、なんとも思いませんけどね。
こんなの、呉羽が受けていた迫害に比べれば、無いも同然だ。
そのまま庭園を抜け、屯所へと歩を進める。だいぶ日が傾いている。そろそろ日没だ。
——呉羽さんは、雲母や黒曜と仲良くやれているでしょうか。
雲母は社交的だが、黒曜は、あまり人と打ち解ける性分ではない。だが、呉羽のことだ、すぐにふたりとも打ち解けるだろう。
そんなことを考えていると、背後から何者かに殴られ、押し倒される。とっさのことに受け身が取れず、そのまま倒れこむ。見上げると、そこにはふたりの男が立っていた。細身の男と、ふくよかな男性だ。逆光のせいで顔はよく見えないが、明らかな殺意を感じた。
「……なんでしょうか」セキが尋ねると、男のひとりが、セキの腹を思い切り蹴り上げる。つぶれた蛙のような声を上げ、セキは壁にたたきつけられる。痛みはない。だが、苦しい。
「『なんでしょうか』じゃない! お前たちが仕事をしなかったせいで、母ちゃんは一生歩けない体になっちまったんだ! お前たちがもっと必死に戦ってたら、こんなことにはならなかったんだ!」
「おらの同僚だって、大怪我したんだぞ! お前のせいだ」
セキへの暴力と迫害は、徐々に勢いを増してゆく。お門違いにもほどがある。セキはいつもそう思う。このふたりの知人を傷つけたのは、セキではない。ツキモノだ。だが、人間は弱い生き物だ。だからこそ、手が出せる『永夜の民』を、ツキモノによる被害を防げなかった『永夜の民』に、怒りを向けるのだ。『永夜の民』は、死ぬことはない。だからこそ、人々は気がすむまで痛めつけることをいとわないのだ。
こういった経験は、初めてではない。過去千年以上、続いてきたことだった。痛みはない、だが、その代わりに、遠い昔の記憶が、溢れて止まらなくなる。
『有夜の民』からも、『永夜の民』からも嫌われ、差別され続けた、あの日常が。こうなってしまったら、セキはもう、嵐が過ぎ去るのを待つほかない。当然のもののように、受け入れるしかない。
警察もあてにはならない。皆、相手が『永夜の民』だと分かれば、知らぬふりをするのだ。
それからしばらくして、ようやく満足したのか、男たちは手を止めた。
「ふん、次は覚悟しておけよ、化け物!」
「そうだそうだ! お前なんて消えちまえ、呪われた化け物!」
捨て台詞を吐き、彼らはその場を去る。セキは、動くことができず、その場で倒れこんだまま。かなり激しく殴られてたので、骨ぐらいは折れているかもしれない。
——これでは、今日は帰れそうにありませんね。
ここまでひどいと、傷もなかなか治らない。少なくとも、一晩はかかるだろう。
セキは気を奮い立たせ、なんとか立ち上がると、屯所まで、身体を引きずるようにして歩いた。
傷は、もうすでに治りかけていた。
お昼前、雲母に身支度を整えてもらう。
行燈袴を穿くことは決めていたが、単衣をどれにするかで、雲母は頭を悩ませていた。
「呉羽ちゃんには、きっと淡い色が似合いますよね。昨日の南天柄の単衣も素敵だったけど」
かれこれ四半時以上これなので、呉羽はいい加減飽きてきた。時間も迫ってきているのに、これでは間に合わない。
「この薄桃色の単衣がいいんじゃない? 可愛いよ」
しびれを切らして呉羽が言うと、雲母は手を打った。
「それがいいですね! じゃあ、それに合わせて袴はこの赤いのにしましょう」
そう言って雲母が取り出したのは、深紅色の行燈袴だった。
「素敵な色だね」
「呉羽ちゃんが着れば、もっと素敵に見えるはずですよ。ささ、早く着替えてしまいましょう。足袋も出しますね」
ささっと足袋を取り出し、それを呉羽に履かせる。単衣に腕を通させ、袴を穿かせれば完成だ。髪は、最近はやっているという半上げにしてもらって、レースのついたリボンをつけてもらった。
「はい。これで完成です」
鏡台の前には、昨日見たハイカラな女学生さながらの少女が立っていた。
「わああ……! 素敵! とっても素敵だよ。ありがとう、雲母ちゃん」
「喜んでもらえてうれしいです。もうすぐ、リョク様が迎えに来ますからね」
しばらくして、リョクが訪ねてきた。
昨日の軍服とは違い、深緑の無地の着物に、茶色い帯を締めた姿でやってきた。すらりとした体形と、涼やかなその容姿も相まって、昨日以上に美しさが増しているように思えた。
「おお、似合っとるやん。ほな行こか」
「うん!」
溌溂と返事をすると、リョクもつられて少し微笑んだ。
帝都までの道中、呉羽は、
「……昨日、結局セキは帰ってこなかったの」
と漏らした。
「帰ってくると思って遅くまで起きてたんだけど、全然帰ってこなくって……結局寝落ちしちゃったの」
リョクは、何も答えなかった。少しばつの悪そうな顔をして、うつむいていた。
「セキは昨日、屯所——昨日行ったとこやな——に泊まり込んどったで。帰ってくるん、結構遅かったけん」
「そっかあ……」呉羽は、宙を仰ぐ。「なら、しょうがないね」
「帰る前に、一回屯所に寄ってみる? 喜ぶかどうかは知らんけど」
屯所は、軍の駐在所の事らしい。対怪異小隊の場合は、そこが本拠地らしいが。
「軍の屯所なんて、わたしが行っていいの?」
「隊員のうちが許可しとるし、ええやろ」
からりと笑うリョクを、運転していた黒曜が少しだけ視線を向け、睨みつける。今日も彼は、帽子を深くかぶっている。どうやら、耳を隠すためらしい。
「そんなことよりや! 今日は目いっぱい楽しもな。これまで辛かった分、ぱーっと楽しんだらええわ」
自動車を走らせ、最初にやってきたのは喫茶店というところだ。リョクいわく、茶屋のようなものだと言われたが、永夜の都にもなかったものなので、結局よくわからなかった。
店内は客で賑わっており、談笑する声がそこらかしこから聞こえてくる。
ふたりは店の隅で、窓際の席に通された。リョクはソーダ水を、呉羽はシベリアと煎茶を注文し、ほどなくして、それらが運ばれてきた。
シベリアは、羊羹をカステラという和菓子に挟み込んだ菓子だ。しっとりとした生地に、舌触りが良い羊羹が違和感なく合わさって、絶品である。
「ほんま、美味しそうに食べるなあ。うちまで幸せになってまうわ」
ソーダ水を飲みながら、リョクは満足そうな笑みを浮かべる。ソーダ水は本来夏の飲み物のようだが、リョクは年中飲んでいるらしい。
「……」口に残ったシベリアの余韻を、しっかりと憶える。甘く、しっとりとした舌触り。甘さは、カステラも羊羹も控えめで、重くない。だからこそ、何個でも食べられそうな気がする。
「呉羽ちゃん?」
「これ、作れないかな」
「え?」
リョクが、きょとんとした表情で見つめてくる。「どういうことや?」
「あ、ごめんね」呉羽は匙を置き、リョクに向き直る。「このシベリアを、わたしも作れないかなと思ったの」
「ほう?」
リョクは身を乗り出し、呉羽に迫る。思わず、「ち、近いよ!」と口走る。指摘されたリョクは、「ああ、ごめんなあ」と言いながら、席に座り直した。あまり反省しているようには見えない。
「あんた、菓子作りの趣味があるんやな」
「うん。都でも、市に行って、お菓子をよく売ってたんだよ」
その言葉に、リョクは目を見張る。
「……それ、大丈夫やったん?」
心配されている。すぐにそう感じられる声音だった。
「……」
「うちは、永夜の都に行ったことがないけん、何も言えんけど、そんなことして、他の『永夜の民』は、何も言わんかったん?」
呉羽は、しばしの沈黙ののち、「ううん、蔑まれたし、いやな思いも、いっぱいしたよ」と告白した。
「陰口は当たり前、石を投げられたことだってあるもん。ほら」
呉羽は袖をまくって、腕を見せる。そこには、最近できたのであろう傷が、白い肌に痛々しく残っていた。
リョクは、眉をひそめる。
「それでも、いつか分かり合えるんだって、信じてたの。『永夜の民』も、『有夜の民』も……みんな一緒に」
でも、だめだったの。呉羽は続ける。
「わたしに石を投げて、暴言を吐いて……もう耐えられなくて、消えたくなった時、助けてくれたのが、セキだったの」
「セキが……?」
リョクは、驚いたような顔をしている。
「セキが、わたしに手を差し出してくれて、〝ともだち〟だって、言ってくれて……それが、すごくうれしかったの。わたしを、『有夜の民』であるわたしを、ともだちだって思ってくれる人がいるんだって……」
言葉にすると、あの時の感情があふれだし、目頭が熱くなる。あの時の感情を、きっと一生忘れることはない。そう断言できるほど、あの時の言葉は、呉羽の心を救ったのだ。
「……まさか、セキがそんなことをするなんてなあ」
リョクは、ソーダ水をストローでかき混ぜながら、しみじみとした様子でつぶやく。「うちのなかのあいつは、自分以外の生き物に興味がない、ある意味猟奇的な奴やと思っててんけど」
「え?」
今度は、呉羽がぽかんとする。人としての常識を疑う点はいくつもあったが、猟奇的だとか、そういったことを見受けられなかった。
「やっぱり、セキにとってあんたは、とくべつな存在なんやな。あいつの笑った顔、人生で一度も見たことなかったわ」
そう語るリョクの表情は柔らかい。次いで、「話してくれたんやし、うちもちょっと話そっかな」と言った。
「話すって、リョクのこと?」
「そうや。……不思議に思たやろ? 『永夜の民』のくせに、感情が豊かやけん」
それは、確かにその通りだ。呉羽の中の『永夜の民』は、いつだって、氷のように冷たい顔と、うつろな瞳をしている。だが、リョクはどうだ。瞳こそうつろだが、その表情は、『有夜の民』と大差ないではないか。
「うちな、母親は『永夜の民』やったんやけど、父親は——『有夜の民』やったんや」
呉羽は、息を呑んだ。
「父親言うても、顔は知らんで? あの人、口を割らんかったし」
「……お母さんは、どうなったの?」
「ツキモノになったわ。ほんで、いまもどっかで彷徨っとる」
あっけらかんと答えるが、顔は全く笑っていない。
「それでも、隊のみんなは何にも言わへん。うちを、ひとりの人として見てくれとる」
やから好きやねん、あそこが。リョクの言葉からは、その真意が読み取れる。
——わたしにとっての博士が、リョクにとっては隊のみんななんだ。
そう思うと、リョクにとって、隊員たちがどれだけ大切な存在なのかが分かる。
「……湿っぽい空気にして、ごめんなあ。そや、これが終わったら屯所に行って、帰りに菓子のことが載っとる本でも買うたらええわ」
「それはいい考えだね。いまから楽しみだなあ」
「できたらうちにも食べさせてな。辛口評価したるけん」
冗談っぽく言うリョクは、たしかに『永夜の民』とは思えない。だが、どんな彼女であろうと、呉羽の対応や気持ちが変わることはない。
——ここでは、『永夜の民』も『有夜の民』も、一緒に暮らしていけるんだ。
それが無性に嬉しくて、呉羽はいますぐにでも走り出したい気分だった。
屯所の敷地は、真昼間とは思えないほど静かで、閑散としていた。そもそも、帝都で暮らす『永夜の民』は、数えるほどしかいない。ゆえに、敷地は昼夜問わず閑散としているらしい。
隊員は、セキを含めて二十人程度しかおらず、そのうち四人が非番。なので、万年人手不足に頭を抱えているらしい。その証拠に、入り口には門があるだけで、警備員もいない。『永夜の民』は老いることも死ぬこともないので、多少の無茶ができるのが救いだった。いや、必須条件が『永夜の民』だから人手不足なわけなので、まったくもって救いではないのだが。
「セキは隊長やけんな、建物の二階にある、ひろーい執務室におるはずやで。さ、早く会いに行っといで」と、リョクは言った。
「え、ひとりで?」
「あかんの?」リョクは、ぽかんとしている。「やって、せっかくの非番に、上司の顔見たくないやん。階段上ってすぐのところにあるけん、すぐにわかるやろ。ドアプレートも掛かっとるし」
「ええ……」何がなんでも投げやりすぎやしないかと、呉羽は思う。こういうところが、『永夜の民』らしいとすら思える。
これ以上話しても無駄だろうし、腹も立ってきたので、だんだんと音を立て階段をのぼり、リョクと別れた。後ろから、「待っとるけんなあ」と聞こえてきたが、無視してやった。
リョクの言うとおり、執務室は、階段を上って正面にあった。金色の板——ドアプレートにも、『隊長・執務室』と書かれている。
扉をノックすると、「誰ですか?」と返ってくる。無論、セキの声だ。
「セキ、わたしだよ。入ってもいい?」
「……呉羽さん?」
扉の奥で、物音が聞こえて、扉が開けられる。セキはどこか嬉しそうな顔をして、呉羽を迎えた。
「来てくれたんですね、嬉しいです。さあ、どうぞ中へ」
執務室は、リョクの説明通り、広くて日当たりがいい。両側の壁には年季の入った書架が隙間なく設置され、同様に書物が詰められていた。書架の真ん中は、棚のようになっており、物を収納できる仕組みになっているらしい。その他には、大きくて横に長い机と椅子が一台ずつだけある、殺風景な部屋だった。だが、呉羽にとっては、あまり問題ではなかった。
「わああ! 書物がいっぱいある、すごい!」
永夜の都にいたころから、書物を読み、写本を作り続けていた呉羽にとっては、ここは魔性の空間であった。見たことない本の数々。きっとこれらには、呉羽が知らないことが山ほど書かれているのだろう。そう思うだけで、好奇心がとめどなく溢れてくる。溢れてくる胸の高鳴りに、身体が抑えきれず、左右にある書架を、走りながら往復する。
「ねえ、ここにある本、いくつか借りてもいい? 写したら返すから」
「構いませんよ、どうぞご自由に」
「本当!? やった! さーて、どれから借りようかなあ」
呉羽は上機嫌で、気になる題名のものをいくつか抜き取る。ふと、近くの棚が開いているのに気づく。奥の方に何かある。——なんだろう。
そっと棚を開けると、赤い紐が結ばれた、古ぼけた長方形の箱が入っていた。埃は被っていない。呉羽は好奇心に負け、紐をほどく。そして、そっと箱を開ける。入っていたのは、一本の扇だった。相当古そうだが、まだまだ使えそうだ。呉羽そっと取り出し、箱を床に置いた。ゆっくりと、扇を広げる。
「わ、あ……」
そこに描かれていたのは、美しい星空であった。金砂銀砂で創られた天の川は、光を当てると命が宿ったようにきらめく。まるで、夜をそのまま切り取ったような、美しい扇。だが、何か胸騒ぎがする。
——これ、どこかで……。
見たことがある。どこだったか、思い出せない。
「それがどうかしましたか?」
後ろから声をかけられ、呉羽は体をびくりと震わせる。セキが、口許にわずかな笑みを張り付けて、呉羽を見つめている。思わず、つばを飲んだ。
「え、っとね。この棚の中にあって、綺麗だなあって……」
「そうですか」セキは淡々と言う。「よければ差し上げますよ」
「え、いいの? だって、大切なものなんじゃ……」
呉羽の問いに、「構いません」と、セキは即答する。
「いまは、それよりも大事なものがありますから」
「大事なもの?」
呉羽は首をかしげる。セキは、笑みを返すだけで、何も言ってこない。
「……ありがとう。一生大事にするね」
「……はい、そうしてください」
そう言ったセキの表情が、愁いを帯びたのを、呉羽は見逃さなかった。「セキ、大丈夫?」
「はい、私は大丈夫ですよ」
先ほどの愁いなどなかったように、セキは抑揚なく言う。
「……そう」
それ以上何も言い返せずに、呉羽はうつむく。
手中の扇は、その美しさゆえか、呉羽の胸を貫き、息苦しさを催した。
♢
この泉は、『永夜の民』の始祖である姫君が、舞を舞ったとされる泉に似ている。
泉のほとりにひとり、博士は佇んでいる。
おかしなものだ。悠久の時の中、記憶のほとんどが消え失せる中、あの一時の記憶だけは、いまなお残っているのだから。
——巫女王は、何をしているんだ。
呉羽がいなくなった日。博士は、驚きとともに、安堵感を覚えた。ツキモノは、未だ増え続けている。農村地帯などは特に顕著で、ツキモノの数が、民の数を超えようとしていた。皆、ツキモノになることを恐れ、『月下大社』へと赴き、『月の女神』の加護を受けようとしている。不思議なことに、この泉や、屋敷の方にツキモノが現れたことは、二千年間、ただの一度もなかった。そもそも、『永夜の民』は、この辺に近づきたがらない。だからこそ、博士はあの屋敷で暮らしている。自分の使命を、全うするためだ。
その時、正面から、一羽の烏が飛んでくる。
「……慈鳥」腕を前に掲げると、慈鳥はそこに着地した。遠く離れた帝都から飛んできたとは思えないほど、ぴんぴんしている。大した烏である。
「久しいな、慈鳥。元気にしているか?」
慈鳥は何も答えず、ただじっとこちらを覗き込むだけ。——無駄な話は結構、という事か。
「……ツキモノの数が増え続けている。このままでは、都にいる『永夜の民』は、皆ツキモノになってしまう。無論、私も」
慈鳥が、控えめに鳴く。続けろ、という事だ。
「——巫女王が、ツキモノになりかけているんだ」
ふたりの間に、強い風が吹き込む。ただの烏と、人の会話だというのに、やけに重々しい。
「巫女王がツキモノになってしまえば、彼女が『永夜の民』にした者や、その子孫は皆ツキモノになってしまう。そうなってしまうのも、時間の問題だろうな」
ツキモノになる。それは、『永夜の民』がもつ神力が消失し、代わりに、忘れ去られていた感情を思い出すことだ。いまの『永夜の民』の永遠は、巫女王のもつ神力のおこぼれでしかない。そんな巫女王がツキモノになり、神力が消失すればどうなるのか。わからぬ者はいないだろう。
巫女王がツキモノになった暁には、すべての『永夜の民』が、ツキモノになってしまうだろう。
——ただひとり、例外を除いて……だが。
「慈鳥、頼みがある」博士は、腕に止まる慈鳥に頼む。「ないとは思うが、呉羽を都に入れるのはやめてくれ。そして——」
ひと拍おいて、
「あの子に、〝思い出させない〟でくれ。真実を知れば、あいつが何をするのか分かったもんじゃない」
と、言った。慈鳥が、博士を見つめ続けている。侠気を宿した瞳だと思った。
「……不思議か? 感情を失くした『永夜の民』のくせに、捨て子ごときに情を抱いて」
その瞬間、博士の瞳に、星屑のような光があふれ、まるで蛹が羽化し、中の蝶が羽を広げるように、表情が顔いっぱいに広がる。
そして、文字通り、微笑んだ。
「——愛しているんだ、あの娘を。我が子のように」
その日の夜、夕餉の片づけが一段落したころに、セキは帰ってきた。
「おかえりなさい。もうご飯食べ終わっちゃったよ」
玄関まで迎えに行くと、
「私は食事を必要としませんから、安心してください」
淡々とそう言った。
「まったく、食べないと元気が出ないでしょ。いくら死なないからって、食べないのは身体に悪いよ」
「はい、そうですね」
分かってなさそうだ。呉羽は唇を尖らせる。博士は、文句を言いつつも食べてくれていたので、全く食事を摂ろううとしないセキには、不満が募る。
——明日こそは食べてもらわないと。
もしかしたら、おいしさに目覚めて、自分から進んで食べてくれるようになるかもしれない——なんて、『永夜の民』である彼には、通用しない理論である。だが、呉羽は意地でも食事を摂ってもらう気満々なのだった。
その日の夜、呉羽は昼間に貰った扇を眺めていた。呉羽に与えられた部屋は、文机と衣桁、押し入れの中に布団があるだけの、簡素な部屋——他も、大体そんな部屋ばかりだ——だったが、景色がよく、延々と続く竹林の先に、帝都の明かりがよく見えた。その障子戸からわずかに漏れる光に、扇の装飾を当てる。金砂銀砂が、星屑のように輝いている。その美しい意匠を見るたびに、奇妙な懐かしさが胸を貫き、息が詰まる。
——やっぱり、見たことがある。
だが、頭に霞がかかったようで、思い出せない。だが、この懐かしさは、気のせいではない。まるで、胸中をかき混ぜられるように、気分が悪い。
そんなことを思っていると、セキが部屋に入ってきた。声ぐらいかけてほしいのだが、何度言っても何度かに一回はそのことを忘れるそうで、もう諦めていると、雲母が言っていた。
「呉羽さん、気分はどうですか?」
「……あんまり良くないかも」
誤魔化そうかとも思ったが、自分の嘘が壊滅的に下手なのは自覚しているので、正直に話した。セキは、目をしばたたく。
「何か、気にいらないことでもありましたか?」
「ううん、ただ……」手中の中にある扇に目線を移す。「これを見てると、なんだか不思議な気分になるの。その、うまく説明できないんだけど」
「そうですか」とつぶやき、セキは障子戸を開ける。冷たい風が、室内に流れ込む。今晩は一段と冷える。呉羽はそばに畳んでおいた羽織に袖を通した。
「月が、綺麗ですねえ……」
「うん、綺麗」
月だけは、永夜の都でも、帝都でも変わらない。それ以外は、すべてが違う。
「帝都はどうですか」
セキの問いに、
「とっても素敵だよ。綺麗なものも、おいしいものも、便利なものも、たくさんあるもん」
と答えた。帝都の発展ぶりは、呉羽が思う何倍もすさまじいものだった。この発展を見れば、永夜の都が、いかに俗世から切り離されているかが分かるというもの。
「『永夜の民』は、悠久の時を生きます。そんな彼らには、文明の発展などという言葉は似合いませんよ」
セキは、皮肉っぽく言う。「月にいたころから、ずっとそうでした」
「……ねえ、月ってどんなところだったの? 永夜の都みたいなところなの?」
「そうですねえ……いまはどうかわかりませんが、概ね呉羽さんの考え通りでしたね。ただ、『有夜の民』の発展の速さに、『永夜の民』は全く対応してませんでしたね。彼らは、地上の人間と大差ありませんから」
「そうなの?」
「ええ、月に住んでいるだけで、普通の人間と変わりません」
なるほど、と思う。
「じゃあ、わたしもみんなと同じ、人間なんだね」
「そうですね。認識的にも、『有夜の民』は普通の人間ですよ。特別なことは何もありませんね」
呉羽は、そこで思う。「ねえ、じゃあ『永夜の民』は?」
「え?」
「『永夜の民』は、やっぱり、人間じゃないの?」
その問いに、セキはしばしの間沈黙する。そして、「ええ、そうですね」と答えた。
「私たち『永夜の民』は、妖と呼ばれ、いまもむかしも揶揄されています。当然です。どれだけ痛めつけても、心の臓を撃ち抜いても、首を刎ねられても、死なず、最後にはツキモノという化け物になってしまう。こんな存在を、妖と呼ばずして何と呼ぶのか……」
気丈に振る舞ってはいるものの、セキが無理をしていることはすぐにわかった。きっと、悠久の時の中で、つらい経験を何度もしてきたのだろう。本人は、忘れているかもしれないが。
「……セキは、化け物じゃないよ」
セキの手を取り、呉羽はそう言った。その手には、わずかなぬくもりがあった。
「ツキモノだって、化け物じゃない。あれは悲しい人だから」
セキは、すべてを諦めきったようにうつむく。
「少なくとも、あなた以外には化け物ですよ、ツキモノは」
「信じられないな。でもたしか、ツキモノを祓うって言ってたもんね」
やっぱり、みんなにとっては危ないから? 呉羽は問う。
「そうですね。都に住んでいる『永夜の民』は知らないようでしたが、ツキモノは人を襲うんです。怪我人も多く出ています」
呉羽は息を呑んだ。
「あなたは本当に不思議な人です。ツキモノに襲われず、そして、私の凍りきった心も溶かしてくれる」
呉羽の手を強く握り返し、ずいっと顔を近づけてくる。思わず、呉羽はたじろぐ。
「呉羽さんは……」握っていた手の力を緩め、セキは視線を障子戸の向こうに移す。「もし、私たちと同じ永遠になれるとしたら、あなたも永遠を望みますか?」
「……」その問いに、呉羽は答えない。ただ、セキの方をじっと見て、微笑むだけ。たったそれだけだったのに、セキには呉羽の思いが伝わったようだ。
「これからも、私とずっとずっと‥‥‥一緒にいてくださいね」
にこやかに笑うセキの姿を見て、呉羽は胸が痺れたようになる。
それと同時に、いてもたってもいられなくなるような胸騒ぎがした。
夜も更け、静まり返った屋敷の台所で、呉羽はひとり、カステラに生地を作っていた。餅菓子は何度も作ったことがあるが、カステラのような菓子を作ったことはなかったので、とても新鮮な気分だった。リョクの話によると、カステラは、西洋の菓子が母体になってできたものらしいので、呉羽が見たことがなかったのも納得だ。
卵、上白糖、蜂蜜、みりん、すべて初めて使うものばかり。帰りに買った本で作り方を何度も確認しながら、ひとつひとつ丁寧に工程を重ねていく。最初は感じていた緊張と不安は、作っていくうちに薄れていき、代わりにむくむくと好奇心が生まれてくる。このとろみのある生地が、果たしてあんな風に柔らかくなるのか。なるとしたら、どうやって柔らかくなるのか。気になってしょうがない。
夢中になって調理を続けていると、背後から物音が聞こえ、振り返る。そこには、夜着の雲母と黒曜が扉の外から覗いていた。
「入っておいで」と促すと、顔を見合わせた後、戸をそっと開け、呉羽に駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんです」
「雲母にたたき起こされてきてみれば、台所に明かりがついてたから、消し忘れかと思って来た」
「ううん、気にしないで。こちらこそ、起こしちゃってごめんね」
「い、いえ、そんな!」と、雲母は慌てて頭を下げる。「邪魔したのはあたしたちの方です! すぐにお暇しますので」
「待て、そんなに慌てるんじゃあない」
黒曜は、窘めるように言う。「好意で入れてもらったのに、その言い方はよくないだろう。せめて何をしてるのかぐらい訊けばどうだ?」
ひと息で言い切って、黒曜は呉羽に向き直り、「それで、こんなに遅くまで何をしてるんだ?」と尋ねる。
「ちょ、ちょっと、黒曜! そんな風に聞く方が失礼でしょう」
「知らん。それに、もう十分失礼なことはしただろう。今更だ」
雲母を適当に言いくるめ、黒曜は、「で、なんなんだ?」と再度訊く。
「昼間に、喫茶店で食べたシベリアを作ってるの。できるようになったら、都にいたときみたいに街で売ろうと思って」
ふたりは驚いた様子で呉羽を見る。何だろうと思い、呉羽は声をかける。「ね、ねえ、わたし、何か変なこと言っちゃった?」
「ええっ!? そ、そんなことありませんよ、ただ……」
「そんなことをして、なんになるんだ」雲母の言葉に被せるように、黒曜が言い放った。声が低いのも相まって、気圧されそうになる。
「黒曜……!」
「雲母は黙っておけ」
黒曜の静止の声に、雲母は唇を引き結ぶ。
「……お前は何も知らないようだから、教えてやる。帝都は——いや、人間の世界ってのは、お前が思ってるほど甘い世界じゃあない。『永夜の民』にはない欲望と、醜い感情で溢れたやつらだ。そんな奴に菓子を売ったとして、何もいいことなんてない。売っている奴らは、生活のためにやってるんだ、お前みたいなお遊びじゃない」
「……」
「この世界で、お前が虐げられることは、たぶん、ない。だが、『永夜の民』は——」
「もうやめてっ!」
もう耐えられないといったふうに、雲母が声を上げた。
「黒曜はいつもそう、心配してるなら、もっと言い方を考えてよ! そんなことを言ったって、相手を傷つけるだけなんだよ! そんなことしてたから、黒曜は捨てられたんでしょう! この馬鹿!」
言いたいだけ言って、雲母は台所から飛び出した。
「待って!」呉羽はそれを追いかける。後ろで黒曜の声が聞こえたが、いまの呉羽には答える余裕なんてなかった。