「それから、大国主命の方ですが。こちらは『因幡(いなば)の白うさぎ』と『国づくり』のエピソードで有名ですね。心優しく有能な神様ですが、兄弟たちからは冷たい仕打ちを受けていたという可哀想な面もあるそうです」

「兄弟から冷たい仕打ち……」

 呟きながら、天満はちらりと隣の御琴を見る。彼女は窓の外を眺めているが、おそらくはこちらの会話に耳を澄ませている。
 兄弟から冷遇されたという点は、本家の人間と仲違いをした時治の境遇と重ね合わせているのだろうか。

「出雲の地に大国を築いた大国主命は、やがて天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その後は『幽世(かくりよ)』を司った、とありますね」

「幽世?」

「目には見えない世界、だそうです。幽世を司り、目には見えないご縁を結ぶ神様となった。……縁結びの神として有名になったのは、このあたりに由来がありそうですね」

「目には見えない世界、ねぇ」

 そのフレーズを耳にして、思い出されたのは時治の言葉だった。

 ——目に見えるものだけが、この世の全てだと思うな!

「わかった。また連絡する」

 天満はそう短く言って通話を切った。スマホを羽織の袂へ納め、改めて御琴の方へ顔を向ける。

「大国主命も大黒天も、どちらも『だいこくさま』だ。あんたは時治の爺さんのことを、その二人の神様に重ね合わせているのか?」

 御琴はちらりと運転席の方を確認して、女性の顔色を窺いながら言葉を選ぶ。

「お爺ちゃんは優しいの。たとえ自分が悪者になっても、大事なことをみんなに伝えようとする。そういう人なの」

 それから彼女は天満の方へ顔を戻すと、今度はじっと何かを探るように見つめてくる。

「どうした?」

「その瞳の色、ほんとにお爺ちゃんとそっくりなんだね」

「え? ああ」

 思わぬところを指摘されて、天満は調子を狂わされる。
 本家の血筋の人間だけが持つ、色素の薄い瞳。これは遺伝というよりも、呪いの力がそうさせているのではないか、と誰かが言っていた。三百年前に祟られたご先祖様も同じ色の瞳を持っていたという噂が、今でも残っている。

「お爺ちゃんはね、その瞳の色が嫌いじゃないって言ってたの。本家の人たちの中には、『呪いの象徴だ』って忌み嫌う人もいるみたいだけど。でも、お爺ちゃんは……」

 そこでまた、彼女は黙ってしまう。天満が見ると、運転席の女性が御琴を無言で睨んでいた。
 御琴から断片的に提供される時治の人物像だけでは、さすがにあの老人の全てを解明することはできない。けれど、彼がただの悪人ではなく、むしろその反対だと言いたげな御琴の強い気持ちだけは、天満にもしっかりと伝わっていた。

 やがて車は細い坂道を抜け、駐車場らしき開けた場所で停止した。辺りは街灯もなく真っ暗で、天満たちは車を降りると、それぞれ手にしたスマホのライトを頼りに歩を進める。

「こっち。狭い道だから気をつけて。奥に池があるから、落っこちないようにね」

 歩き慣れているのか、御琴は天満の手を取って誘導する。そうして舗装された小道をいくらか進んだところで、やっとそれらしき場所が見えてきた。
 道の左右に立つ二本の石柱を、細い注連縄が繋いでいる。その奥には砂利道が広がり、木々に囲まれた突き当たりには大きな岩が並んでいた。

「ここが黄泉比良坂。黄泉への入口だよ。普通はここからあの世へ行くことなんてできないんだけど、今回だけはお爺ちゃんが黄泉の国(あっち)側から引っ張ってくれるはずだから」

「ここからあの世に引きずり込まれるってことか。聞こえは良くないけど、まあ仕方ないよねぇ」

 やれやれ、と苦笑しながら天満は岩の前に立つ。それから御琴の指示に従って、岩に右手を当てた。

「あと、これ。お爺ちゃんが必要になるって言ってたから、あんたに預けとく」

 そう言って御琴が懐から取り出したのは、鞘に収められた小刀だった。

「って、おいおい。物騒なもの持ってるなぁ」

「あんたも普段から呪詛返しで物騒なことしてるんでしょ? 今さらでしょ」

 彼女は呆れた風に言いながら、小刀を天満の懐へと押し込んだ。

「これでよし、と。私ができるのはここまでだから。……最後に、一つだけ」

「なんだ?」

 天満がスマホの光を向けると、闇の中に浮かび上がった彼女の顔はどこか寂しげで、物憂げな瞳をこちらに向けていた。

「ここから黄泉の国へ行けば、お爺ちゃんと、あの兼嗣って人に会える。でも……一つだけ問題があるの」