茅葺き屋根の大きな屋敷の玄関先に、古い竹箒で庭掃除をしている冴えない女がいた。
 髪はほつれ髪の目立つ三つ編みで、着物は継ぎはぎだらけの雑巾色。
特色すべきは女の顔にかかった大きな丸眼鏡で、元は手持ちの鼻眼鏡だったのか、両端に紐を通し耳にかけている。眼鏡の度が強いためか、女の目が小さく見える。

一言でいうと、似合っていない。むしろ、似合っていないを通り越して、笑いを狙っているかのようにおかしな姿だ。
女の名前は、灰神楽(はいかぐら)琴禰(ことね)。今年で十八歳になるうら若き乙女であるのに、みすぼらしい見た目と、大きな丸眼鏡のため台無しだ。

「ちょっと琴禰! 玄関前に塵が溜っているじゃない、ちゃんと掃除してよ!」

小鳥のさえずりの下で静かに掃除していた琴禰は、耳をつんざくような金切り声に顔を上げる。
 するとそこには、蝶柄の刺繍が入った御所染の着物に鼈甲(べっこう)の帯留めをして、腰元まで届く艶やかな紺鼠色の髪をした、気の強そうな女が立っていた。

「す、すみません……」

 琴禰よりも一個下の実の妹である桃子(ももこ)に叱られ、慌てて玄関前に戻った。

「本当、鈍くさい女ね。なにやらせてもまともにできないのだから」

 桃子はこれみよがしに大きなため息をついた。

(おかしいな、ちゃんと綺麗に掃除したはずなのに)

 琴禰は小首を傾げながらも反論せずに塵を掃いていると、頭上から大量の塵くずが降ってきた。

「ついでにそれも掃除しておいて」

 桃子は哄笑しながら屋敷の中へ入っていく。頭から塵を被った琴禰は、急き込むような咳をした。
 すっかり汚れてしまったけれど、元から汚れていたので気にせずそのまま掃除を再開する。こんなことは日常茶飯事なのだ。

「大丈夫か? 頭が塵だらけだ」

 また声を掛けられたので顔を上げると、和装の上から外套を羽織って、山高帽を被った背の高い男の人が心配そうに琴禰の顔を覗き込んでいた。
 涼やかな眦に整った顔立ち。琴禰よりも六歳上のその青年は、澄八(すみや)という。
 祓魔(ふつま)一族の中でも五本の指に入るほど強力な術師でもある。
 澄八は琴禰の頭に積もった塵を手で一生懸命払った。

「ああ、そんなことをしたら手が汚れてしまいます」

 琴禰は慌てて澄八から離れようとするが、澄八は一向に気にすることなく眦を細めながら塵を払った。

「俺の手よりも、自分の頭を気にしなさい。もういい歳なのだから」

「はい、すみません……」

 たしかに頭に塵が積もったままではいけないだろう。どうでもいいやと放っておいたが、澄八に指摘されて反省する。

「どうしてこんなことになった」

 澄八に言われて、桃子の顔が浮かんだけれど口を噤んだ。代わりに間の抜けた返事をする。

「ぼうっとしておりましたゆえ」

「本当にお前ってやつは……」

 澄八は呆れたように苦笑いを浮かべる。
 桃子の言う通り、琴禰はなにをやらせても上手にできない。祓魔一族の元に生まれてきたのに、術力がまったくない無能だった。
さらに目が悪いため、よく何かにぶつかるし物も壊す。眼鏡をかけているが、これはごみの中から見つけた曾祖父が使っていたものらしいので度数が合っていないのだ。
両親は一族から無能が出たことを恥と思い、琴禰をまるで使用人のようにこき使い虐げていた。

(仕方ないわ、こんな無能。私は家族のお荷物ですもの)

 妹との扱いの違いを嘆くことは諦めた。なにをやっても失敗ばかりで、自分でも嫌になるのだ。

「手を出してごらん」

 俯いていた琴禰は、澄八の言葉にきょとんとした表情で顔を上げる。

「え?」

「いいから早く!」

 あたふたしながら、とりあえず右手を出す。爪先は黒く、あかぎれて痛んだ手の平の上に、透明の袋の中に入った色とりどりの金平糖が置かれた。

「甘いものでも食べて元気を出すといい」

「い、いただけるのですか⁉」

 目を見開いて驚く琴禰に、澄八は「内緒だぞ」と唇に人差し指をかざして妖艶な笑みを見せた。
 途端に、胸の奥が大きく高鳴る。澄八の整った顔は、色香を芳醇に引き立たせる。眩暈がするほど妖しい色気に、ただでさえ優しくされたことのない琴禰にはいっそ毒だった。
 澄八は桃子と同じように屋敷の中へ入っていく。その背中を見送ると、胸がひりつくように痛んだ。

(結婚の日取りでも決めるのかしら)

 近々、澄八と桃子は結婚する。親同士が決めたことではあるが、桃子は幼い時から澄八を慕っていたので大喜びだった。
 美しく、祓魔の力も強い二人は、絵に描いたようにお似合いの男女だ。そこに琴禰が立ち入る隙なんてあるはずもない。こうして胸を痛めることですら、分不相応でおこがましいことだと自嘲する。
 琴禰は祓魔一族の中でも指折りの名家の生まれだ。帝都から遠く離れた山村に祓魔一族は住んでいるが、それは自然多い中の方が力を使いやすいためで、国の中でも上位に入るほどの財閥だ。

 祓魔はあやかしに対抗する唯一の力を持っている。あやかしとは、奇怪で異形な姿をした人ならざるものだ。
 彩雲の上に住んでいて、天界から災いを振り落とすという。地震や干ばつ、火山や台風など、ありとあらゆる厄災をもたらす。
 魑魅魍魎の小さいあやかし程度なら祓魔の力で払えるが、あやかしの頂上に君臨する王だけは祓魔一族総出で戦っても勝つことはできない。
 あやかし王を倒し、人間界に平和と安穏をもたらすことが祓魔一族の宿望なのだ。
 そんな一族の中に、無能が生まれた。これは何百年と続く祓魔の歴史の中で初めてのことだった。
 長い歴史の中で祓魔一族は何百人もの大所帯となった。一族とはいえ、もう立派な村を形成している。その中で無能を生み出した家ということで、灰神楽家は名家の肩書を失墜しかけていた。
 そこで、同じく名家で、同年代の中で右に出る者がいないほど祓魔の力が強い澄八と、美人で祓魔の力もしっかりと持っている桃子の婚姻によって灰神楽家は再び栄華を取り戻そうとしているのだ。
 澄八は、出自は名家でもなんでもない祓魔の中でも庶民の出だが、その類まれな力によって、名家である御子柴(みこしば)家の養子となった。
 純潔な出ではないので、名家である灰神楽の桃子と結婚することは澄八にとっても利があることなのだ。

(私にも、ほんの少しでも力があれば……)

 ため息を吐いて、ずっしりと重くなった心を吐き出そうとするが上手くはいかなかった。
 暗い気持ちを振り払うように掃除に集中する。

「琴禰! いつまでそこで掃除をしているつもりだ。今日は裏山で隠れていろと言っただろうが。それとも折檻部屋に閉じ込められたいのか!」

 屋敷の中から父親と母親が玄関先に現われた。
 琴禰が外で掃除をしていることを桃子か澄八に聞いたのだろう。父親の顔は赤くなって烈火のごとく怒りを露わにしていた。

「すみません、すみません。折檻部屋は嫌です。すぐに裏山に引っ込みます」

 折檻部屋というのは、屋敷の地下にある座敷牢のことだ。
暗く湿った地獄のような場所で、琴禰がなにか粗相をすると父親に殴られてそこに放り込まれる。
 床は氷が張ったように冷たく、一晩そこで夜を明かすと体を病んでしまう恐ろしい牢獄なのである。
 琴禰はしきりに何度も頭を下げながら、屋敷のすぐ近くにある裏山へ走っていった。

「本当にあの子は、なにをやらせても鈍くさいのだから」

 母親の蔑むような物言いが、琴禰の背中に投げかけられる。
 胸が痛くなって、着物の衿をぎゅっと握った。

(私はいらない子。愛されない子。生まれてきてはいけなかった子)

 うす汚れた底が薄い草履に裸足なので、固い草や小石を踏みしめるたびに足先が傷つく。それでも必死に走って裏山へと逃げ込んだ。
 のろまに歩いていたら、怒った父親に殴られて、また折檻部屋に入れられるかもしれないからだ。
 無事に裏山に到着し、日当たりの良い場所を探して腰をかける。対岸にはつややかな若葉が潤い、陽射しを浴びた柔らかな土の中から初々しいふきのとうが顔を出している。
慌てて走ってきたので、足先は切り傷だらけだ。

(はあ、痛い。でも、殴られなかっただけ良い方だと思おう)

 今日は一体、何の日なのだろう。何も聞かされていないのでわからないが、琴禰を隠すということはお客様が来るのだろう。
 無能の娘なんて一族の恥だ。こうやって琴禰は、一生隠され続けるのだろう。
 まるで、元から琴禰という娘はいなかったかのように。
 琴禰は着物の袖に隠していた金平糖を取り出した。一つ摘まんで、太陽にかざすと煌めくように輝いて見えた。

「あなたは綺麗ねぇ」

 桃色に輝く金平糖をうっとりと見つめ、独り言を呟いた。煌めくように美しい桃色は、両親に愛され、そして澄八と結婚する妹と重なって見えた。
 妹は要領が良くて人気者だ。琴禰とは正反対の性格で、両親の自慢の娘。
 摘んだ金平糖を口に放り込むと、舌の上で甘い風味が広がっていく。

「美味しい……」

 世の中には、こんなに甘くて美味しいお菓子があるのか。いつも冷たくなった残り物を食べている琴禰にとっては、まるで異界の食べ物のようだ。
 こんなに美味しいお菓子を食べられて嬉しいはずなのに、胸が締め付けられるように、どんどん苦しくなってくる。
 琴禰に唯一優しく接してくれたのが澄八だった。淡い初恋が、とうとう終わる。
 大きなエンジン音が聞こえてきたので、琴禰は裏山から屋敷を見下ろした。
すると、ボンネットが長く突き出した黒の三輪自動車が屋敷の前に停車した。
琴禰の両親や桃子、澄八が玄関から出てきて恭しく頭を下げる。
自動車から介添えに手を引かれて出てきたのは、腰の曲がった老婆だった。
たんぽぽの綿毛のような白髪に、絹鼠色の市松模様の上質な着物が品位を醸し出している。

(大巫女様だわ!)

 祓魔一族の酋長(しゅうちょう)のような方である。
大巫女様は、占術を得意とし、その予言は必然だった。ゆえに、大巫女様の言は絶対で逆らう者はいない。
そして慶事の日取りや大きな決断を下す際は、大巫女様に占ってもらうことがある。ただ、大巫女様は滅多に占わないので、その大巫女様がわざわざ灰神楽家にお越しになられたのは大変珍しいことだった。

(結婚の日取りを大巫女様に決めてもらうなんて。どれだけお金を積んだのかしら)

 それだけ桃子と澄八の結婚が、家の繁栄に重要とみなされているということだろう。
 大巫女様が来るならば、琴禰の存在を隠しておきたい気持ちもわかる。無能が灰神楽家から出たなんて縁起が悪い。

(これは絶対に隠れ続けていなければならないわね)

 琴禰は膝を抱えてうずくまった。
 大巫女様がいつ帰るのかわからないけれど、たとえ夜中になって暗闇の中冷え込んだ山の中にいることになっても姿を現すわけにはいかない。
 もしも大巫女様と鉢合わせてしまったら、間違いなく殴られて折檻部屋行きだ。もしかしたら数日出てこられなくなるかもしれない。

(どうして私だけ無能なのだろう)

 幾度も抱いた疑問を、再び巡らす。考えても詮無いことなのに、どうしてもこの問いに打ち当たる。
 何かをしていれば気を紛らわすこともできるが、こうして暇な時間を消費するしかない時は思考から逃げる術がない。

「ニャー」

 足元から可愛らしい声が聞こえ顔を上げると、まるで琴禰を心配するかのように見上げている茶色の猫がいた。
 元は何色かもわからないほど汚れている野良猫だ。汚く臭いので、家族の者たちからは石を投げられて家の近くに寄ってこないように煙たがられているが、琴禰はこの猫がまるで自分のように見えて、こっそり餌を与えていた。

「茶々、久しぶりね」

 手を差し出すと、甘えるように鼻先を擦りつけてくる。
 最近は姿が見えなかったので心配していたのだ。

「すっかり痩せてしまったじゃない、どうしたの?」

 まるで琴禰の言葉に応えるかのように、茶々が後ろを振り返ると、そこには三匹の小さな猫がよちよち歩きで周辺を探索していた。

「茶々、お母さんになっていたの⁉」

 茶々は得意気な表情で「ニャー」と小さく鳴いた。
 茶白色の子猫たちは元気に遊びまわっていて、琴禰が一匹抱き抱えるも、まったくじっとしていないので、すぐ地面に下ろした。

「元気な子たちね」

 茶々を撫でながら、子猫たちを見つめる。一挙手一投足が可愛らしくて見ているだけで癒される。

「粉乳や食べ物をあげたいけれど、今は屋敷に戻れないの。私の夕飯を持ってきてあげるからね」

(夕飯までに戻れるといいけれど)

 いつ大巫女様はお帰りになるのだろうと、恨めしい目線を黒塗りの三輪自動車に投げる。
 琴禰の側で寛ぐ茶々を撫でながら、子猫たちの遊びを愛でていると、あっという間に日が暮れてきた。
 屋敷の軒先に松明の明かりが灯される。
 玄関が騒がしくなり、大巫女様がお帰りになるようだ。これでようやく屋敷に戻れると安堵したのも束の間、子猫が黒塗りの自動車の下にするりと入り込んでいったのが見えた。

(いつの間にあんなところに!)

 真っ青になって慌てて裏山を駆け下りる。大巫女様に見つかってはいけないけれど、このまま自動車が発車したら子猫が轢かれてしまう。
 玄関からは大巫女様とその介添えの方が出てきた。
 介添えの方は、女官のように厳格な雰囲気で、口を一文字に結び、献身的に大巫女様の付き添いをしている。
 茶々はいつの間にか屋敷の前にいて、玄関から出てきた大巫女様と介添えの方に背中を逆立ててシャーと威嚇した。

(茶々!)

 思わず叫びそうになった。

麻羅(まら)、なんとかせんか」

 大巫女様から麻羅と呼ばれた介添えの方は、眉を顰めながら猫と対峙する。
茶々は子猫を守るために威嚇しているのだが、そんなことは知らない介添えの方は、大巫女様を守るために、茶々を「しっしっ」と手で追い払おうとした。
何事かと思ったのか急いで外に出てきたのは父親だった。薄汚い猫が大巫女様を威嚇しているのを見た父親は、顔を真っ赤にさせて怒りのまま茶々を蹴り上げた。
悲痛な一鳴きが耳に届くと、考えるよりも先に体が動いていた。

大巫女様の前に姿を見せてはいけないと言われていたのに、気が付いたら駆け出していたのだ。
けれど、走り出して間もなく、突如として体が止まった。声を上げることも、指先一つ動かすこともできない。
不自然な体勢のまま、石のように固まったのである。
その姿勢のまま目が合ったのは母親だった。玄関から出てきた母親は、琴禰が駆け出してくるのを見つけ、体を硬直させる術をかけたのだ。
母親は指に印を結び、鬼のような形相で、静かに琴禰を睨み付けていた。
その時、琴禰の心に怒りの火が点じるのを感じた。
両親に対して、これほど大きな憤りをおぼえたことは初めてだった。あまりの理不尽さに悲しみを通り越して、胸の奥から抑えきれないほどの怒りが燃え上がる。
茶々は地面に横たわったまま動かない。
邪魔な猫がいなくなった大巫女様と介添えの方は自動車に乗り込んだ。

(発車しては駄目! 車の下には子猫が!)

 気持ちは焦るも体が動かない。エンジンをかける音が聞こえて、琴禰の中で糸が切れるように何かが弾けた。
 黒塗りの自動車が宙に上がる。
 あまりに不思議な光景に、両親は口を開けて呆気に取られていた。
 しかしながら自動車の中にいた人達は当事者なのでそうもいかない。身の危険を感じ、ドアを開けようとするが動かず、必死の形相で窓をどんどんと叩いた。
 澄八と桃子が自動車に駆け寄り、祓魔の術を使って自動車を降ろそうとするが、まったく下がる気配がない。
そもそも、薄くて軽い紙程度であれば祓魔の力で持ち上げることも可能だが、自動車のような重い物体を持ち上げることなんて祓魔師が何人かかっても不可能なことなのだ。
自動車の下にいた子猫は、隠れる場所を失って慌てて草むらに逃げていった。
地面に横たわっていた茶々も、無事に子猫が逃げ出したことがわかると、立ち上がって草むらに追いかけていった。

(良かった、生きていた……)

 琴禰は安堵して、人の高さまで持ち上がった自動車をゆっくりと降ろしていった。衝撃を与えないように地面に降ろすと、ほっとして力が抜けた。
 狐につままれたような顔で、大巫女様と介添えの方、そして運転手が車のドアを開け、腰に力が入らないのか崩れるように脱出した。
 皆が大巫女様の元に駆け寄り無事を確認するも、当の大巫女様だけが緊迫の表情を崩さなかった。

「禍々しい強大な力じゃ……恐ろしい呪われた力じゃ……」

 大巫女様の瞳孔は開き、皆が手を貸そうとしているのも振り払い、おぼつかない足取りで進み出た。
 そして、屋敷から離れた場所に佇んでいた琴禰と目が合う。
 琴禰は母親の術を解き、動けるようになっていた。すぐに逃げなかったことを後悔しても時すでに遅かった。
 皆が琴禰のことを信じられない者を見るような目で見つめていた。
 祓魔師が束になってもできないようなことを無能で虐げられた者が行ったのである。

「あ……あの、私……」

 祓魔の力が開花したのだ。それも並外れた強大な力。
震えながら戸惑っていると、大巫女様の目が光り、耳を疑うようなお告げを口にした。

「あの者が祓魔一族を滅亡に導くだろう」