こうして無事にあやかし国に帰った二人だが、人間界での出来事はすぐにあやかし達に知れ渡ることとなり、ちょっとした騒ぎになっていた。
なにせ、あやかし王が死にかけたのである。騒ぎにならない方がおかしい。
臣下たちにうるさく問い詰められた煉魁は、ちょっとだけ話を盛って彼らに伝えた。
――あやかし国を滅ぼそうと企んでいた祓魔一族は、あやかし国に強大な力を持つ琴禰を送り込んだ。しかし琴禰は、あやかし王とその国の素晴らしさに感動し、祓魔を裏切ってあやかし国を守ることを決意する。
そして祓魔の陰謀によって力を暴発させられた琴禰は、あやかし国を守るため人間界を犠牲にした。
自らの命を犠牲にし、故郷を捨ててまであやかし国を守ろうとした心意気に感動し、琴禰を守るために強大な力を使った。——
話自体はほとんど事実なのだが、噂とは尾ひれが付くものである。
いつの間にかどんどん話が大きくなっていき、あやかし国を命懸けで守った人間と、あやかし王の無敵な力と愛の奇跡という美談に仕立てあげられ、あやかし国でこの話を知らない者はいないほど広まった。
さらに琴禰は、人間でありながらも強大な力を有する者として一目置かれるようになった。あやかし国では、美しさと力の強さが何より尊ばれる。そして故郷を捨て去り、あやかし国を守ったという出来事は、あやかし達の心に深く響いた。
脆弱な人間と結婚したと落胆していた者達も、あやかし愛に満ちた絶大な力を持つ人間と結婚した見る目のあるあやかし王ともてはやすようになった。
最強無敵なあやかし王の逸話と相まって、結婚を歓迎する動きがどんどん広まっていった。
そんな時、大王から呼び出しを受けたのである。
「嫁と一緒に挨拶に来いだと?」
渡り廊下で、秋菊に呼び止められ、大王からの伝言を聞いた煉魁は眉を寄せて聞き返した。
「はい、結婚したのに挨拶に来ないとは何事だと怒っていらっしゃいます」
「内緒にしておけと言っただろうが」
「今やあかし国で二人のことを知らない人などおりませんよ! もう隠しておくことなど不可能です!」
秋菊の言葉に、それもそうかと納得して、顎に手を当てて考え込む。
「俺だけじゃ駄目か?」
「嫁と一緒に、と大王様はおっしゃっておられます」
「むむむ」
実の父親に内緒で結婚してしまった罪悪感と、なにより琴禰に酷い言葉を浴びせるのではないかという恐れがあった。
「一旦、保留にしておいてもらえないか?」
「駄目です」
秋菊は強い口調で言い切った。
(これは本気で無理な時だな)
「とりあえず琴禰にも意見を聞いてみないと……」
「本日の宵の口までにお越しくださいね」
「待て、行くと決まったわけでは……」
「決定事項でございます」
秋菊はお辞儀して、早々に背を向けて歩いていってしまった。
断固とした強い意思を感じる。
これはいつものように、のらりくらりとかわしてはいけない案件だと煉魁は悟った。
(はああ、気が重いな)
とりあえず、琴禰と話し合いをするために宮殿へと向かう。
しかし、最近の琴禰は宮殿に留まらず、宮中内を自由に出歩いているので、いるとは限らない。
あれから琴禰は、目に見えて明るくなった。
心配事や罪の意識が消えたこともあるだろうが、猫を連れてきたことも大きいと煉魁は見ている。
宮殿内に入ると、琴禰が猫に餌を与えているところだった。
愛情いっぱいの表情で猫たちを見つめる琴禰。とても美しい横顔だが、少し猫に嫉妬する心も生まれる。
「琴禰」
呼びかけて振り向いた琴禰は、煉魁の顔を見ると満開の笑顔になった。
『勝ったな』と煉魁は密かにほくそ笑む。
「どうしたのですか」
琴禰は小走りで近寄ってきた。可愛い。
「いや、実は……」
言い淀む煉魁を見て、琴禰は不安そうに小首を傾げた。
(さすがに、そろそろ言っておかなければいけないだろう)
煉魁は覚悟を決めて、大王の話をした。
「え、お父様がいらっしゃるのですか⁉」
琴禰はまずそこに驚いた。
「うん、まあ、病気で長いこと伏せっているが」
「じゃあ、お母様もいらっしゃるのですか⁉」
「いや、母は俺を産んですぐに亡くなった」
「そうだったのですか……。煉魁様も人間のようにご両親の元から産まれてきていたのですね」
感慨深げに呟く琴禰を見て、煉魁は『俺をなんだと思っていたのだ』と疑問が生まれる。
「あやかしも病気になるのですね」
「そりゃそうだろう、生老病死は生きるもの全てに訪れるものだ」
琴禰はまだあやかしについて知らないことが多すぎる。
あやかしを神か何かと誤解しているような所があるので、今度あやかし国を案内して説明しなければいけないなと煉魁は思った。
「それより、父が挨拶に来いとおっしゃっているらしいが、どうする?」
「どうするも何も、行かないといけないでしょう!」
琴禰は当然のことなので、驚いて言った。
「そうなのだが、何を言われるかわからないぞ」
煉魁が危惧していることの意味が分かり、琴禰はしょんぼりと項垂れた。
「確かに。あやかし王が人間と結婚するなんて、お父様からしたら悪い意味で衝撃でしょうね」
「驚愕しすぎて病が悪化しないか心配だったのだが、挨拶に来いと怒っている元気があるようだから少し安心した」
「私は何を言われても大丈夫です。反対されても、もう結婚してしまいましたし」
琴禰は薬指にはめられた指輪を見せて笑った。
「そうだな、もう何を言われてもどうすることもできないよな」
煉魁も歯を見せて豪快に笑った。
琴禰は気が弱そうに見えて、案外肝が座っているところがある。
琴禰に背中を押された気がした。
「いつ行くのですか?」
「今日の宵の口までに来いと言われている」
「わあ、早速ですね。急いで用意しますので待っていてください!」
そうして琴禰はすぐに扶久を呼び支度を始めた。
待っている間、暇だったので猫と遊ぼうかと近寄ってみたが、背を逆立てて威嚇されるので触ることもできない。
扶久にはすっかり慣れたのに、煉魁は今もなお警戒されているようだ。
琴禰は正絹に色鮮やかな様々な糸で美しく織られた花模様の着物に着替え、髪も上げている。薄い化粧を施し、華やかな簪をつけていた。
「綺麗だ」
煉魁は思わず本音が零れた。
「結婚のご挨拶に行くので、失礼のないようおめかししてみました」
琴禰は少し恥ずかしそうに下を向いた。
「まるで結納に行くみたいだな。俺達は色々と手順をすっ飛ばしたから」
「あやかし国にも結納という文化があるのですね」
琴禰は感心したように言う。
「言っておくが琴禰。あやかしの文化を真似して取り入れたのは人間界の方だからな」
「ええ、そうなのですか!」
「うん、まあ、今はいい。後々それらは教えるとして、挨拶が先だ」
「そうですね、行きましょう」
二人は仲良く手を繋ぎながら、大王が療養する殿舎へと向かった。
煉魁は少し緊張しながら、螺鈿細工の装飾が施された障子戸を開けた。
「失礼いたします」
煉魁の後に続いて中に入った琴禰は、部屋の造りの重厚さにまず圧倒された。
床の間の欄干には鳳凰や舞鶴が生き生きと描かれ、床柱は名品である黒柿が用いられていた。
そして畳には珍しく、寝台を使用していた。ずっと伏せっていると言っていたので、布団より寝台の方が、寝起きが楽なのだろう。
上半身だけ起き上がり、寝台の背もたれに寄りかかった老輩の男性の目には険があり、痩せているが上背が高いので威圧感がある。
「父上、起き上がっていなくても大丈夫です」
煉魁が駆け寄ると、大王は余裕のある笑みで制した。
「大丈夫。煉魁のお嫁さんが来ているのだ。見栄を張らせろ」
大王はとても嬉しそうな笑顔で琴禰を見据えた。
琴禰は、顔を赤らめながら慌てて頭を下げた。
「琴禰と申します。ご挨拶が遅れてしまい大変申し訳ありませんでした」
「悪いのは当然俺です。琴禰は今日まで俺に父上がいることすら知らなかったのです」
煉魁も琴禰の横に並んで頭を下げた。
すると大王は、愉快そうに目尻を下げた。
「煉魁が全て悪いことは知っている。どこで育て方を間違えたのか、傍若無人になってしまって、皆が振り回されている。すまないね、琴禰さんも苦労をしているだろう?」
「いいえ、とんでもないです。煉魁様はとても優しく仲間思いの男気のある御方です。恐縮してしまうほど私を大切にしてくれています」
琴禰は優しく微笑んだ。褒められた煉魁は満更でもないらしく嬉しそうだ。
「互いをとても思い合っているのが伝わってくるよ。煉魁は素晴らしい女性と結婚したのだね」
大王の言葉に、琴禰と煉魁は驚いて目を見開いた。
人間と結婚したことを怒っていると思っていたからだ。
怒鳴られるのを覚悟してきたので、まさかの好意的な反応に面食らってしまう。
「私は煉魁に幸せになってほしかったのだよ。これで安心して逝ける」
「父上、縁起でもないことを」
煉魁が諫めると、大王は口を大きく開けて豪快に笑った。
「ははは、いよいよもう駄目かと思っていたが、二人のことを知ったら自然と元気が湧いてきたのだよ。まだしぶとく生きられそうだ。琴禰さんのおかげだよ」
「勿体ないお言葉です」
いつもより快活で肌艶も良く機嫌がいい大王を見て、煉魁はほっと胸を撫でおろした。
「ところで」
大王はそれまでの柔和な雰囲気から一変して、鋭い眼光を際立たせた。
「琴禰さんのためにも、きちんと結婚式を行って国民に披露した方がいい」
「いえ、私は煉魁様と一緒にいられるだけで十分ですので……」
琴禰は恐縮して首を振った。すると、煉魁が思いのほか大王の提案に食いついてきた。
「そうですね、今なら好意的に受け入れてくれそうです。なにより、俺が琴禰の花嫁姿を見たい」
煉魁は魅惑的な笑みを浮かべ、琴禰を横目で見た。
琴禰は恥ずかしくなって咄嗟に俯く。
「国民もさぞ喜ぶだろう。こんなに可愛い方が、あやかし王の花嫁になってくれるのだから」
そうして結婚式と披露宴を行う話があれよ、あれよと決まっていき、長居をするのも体に障るので早々に部屋を下がった。
「まさかこんな展開になるとは思いませんでした」
宮殿へ戻る道すがら、琴禰は少し興奮した様子で言った。
人間界でもあやかし国でも疎まれ続けてきた忌み子である自分が、花嫁として歓迎される日がやってくるなど思いもしなかった。
幸せになってはいけないのだと全てを諦めていたのに、次から次へと幸せが降って来る。
幸せ慣れしていない琴禰にとっては、素直に嬉しいと思う感情の前に、戸惑いがやってくるのだ。
「俺もそうだ。だが、言われてみれば確かに必要なことだよな。俺達は二人で勝手に結婚してしまったから」
「あの結婚式も、私にとっては宝物のような思い出です」
満開の桜の木の下でした指輪交換を思い出し、琴禰はうっとりと顔を緩ませた。
「そんな思い出を、これからもたくさん作っていこう」
煉魁は琴禰の肩を抱いて引き寄せた。
「……はい」
この瞬間も琴禰にとっては幸せな思い出だ。
煉魁と共に過ごすひと時全てがご褒美だ。
胸の中から溢れ出る愛しさを感じて、思わず目を潤ませてしまうほど幸福な時間。
(幸せ過ぎると、泣きたくなるものなのね)
初めて知った感情だった。
辛く苦しい涙ばかり流していたのに、喜びの涙もあるのだと不思議な気持ちだった。
そして、閣議決定の末、結婚式と披露宴は約一ヵ月後に行われることとなった。
その間に、琴禰は専門の教師が数名つき、あやかしの文化や歴史、礼儀作法について学ぶこととなった。
あやかし国の実態は、祓魔で聞いていたこととまるで違っていた。
あやかし国が厄災を落としていると聞いていたが、実際は妖魔が人間界に入り込まないように見守っている役割をしていることを知った。
そしてあやかしは、天上(神々の住居と中つ国(人間の住居)と黄泉(妖魔の住居)から独立しながらも、それらを併せ持った中間的な存在なのだという。
だから、あやかし国は、淡くおぼろげな彩雲の上に建っているのである。何物にも染まらず、何者でもない。そんな不確かで神秘的な存在があやかしなのである。
異国の文化を学ぶのかと身構えていた琴禰だったが、ほとんど日本文化と変わらなかったので拍子抜けした。
というのも、はるか昔に大罪を犯して人間界に落とされたあやかしがいたのだという。そのあやかしが、農村地帯で未開発だった日本にあやかしの文化を取り入れて発展させたのだ。
そしてその者の子孫が祓魔であり、特別な力を持つことになった。また、祓魔があやかしを憎むのは、大罪を犯して迫害された恨みが残っているからだと言われている。
(真実というのは、自分の目で見るまで分からないものなのね)
知らなかったことを学ぶことは楽しい。祓魔では、あまり外に出してもらえなかったので、学ぶ機会が乏しかった。
読み書きはできるが、ほとんど独学に近い。琴禰は水を得た魚のようにどんどん吸収していった。
そんなある日のこと。
煉魁は、都の大路にある辻の市を探索してみないかと琴禰を誘った。
「行きたいです!」
琴禰は目を輝かせて返事をした。
「よし、では目立たないように平民の服装に着替えて出発しよう」
まるで変装してお忍びに行くようで、琴禰は胸を躍らせた。
実際のところ、その通りなのだが、煉魁はあえて言う必要はないだろうと思った。
気構えてしまって楽しめなくなるのは可哀想だと思ったからだ。
琴禰は麻の青緑色の着物に、髪を三つ編みに結んで上から領巾のような頭巾を被った。
そして煉魁は、黒の着物に黒の布で目から下を覆っていた。
「煉魁様、それ逆に目立ちませんか?」
全身黒ずくめで、明らかに怪しい人だ。
「そうだが、俺の顔は目立ちすぎる」
琴禰は内心で『確かに』と頷いた。あまりにも美しく整った顔で、内側から光が放たれているかのように肌も綺麗だ。
怪しい人と敬遠される方がまだましなのかもしれない。
とはいえ、煉魁はそういう意味で言ったのではなく、あやかし王だと気が付かれる方が厄介だという意味だった。
宮中を出るのは初めてではないものの、いつもあやかしのいない辺鄙で二人きりになれる場所しか行ったことがなかったので、琴禰は浮足立っていた。
煉魁と並んで歩くことも新鮮だ。
新婚夫婦というよりも、まるで交際したての恋人同士のお出かけのようだ。
ただ隣を歩いているだけで高揚する。
煉魁は、いつもは早歩きなのに、琴禰の歩幅に合わせて歩いてくれている。そんな見えない優しさを感じ、琴禰は密かに胸をときめかせているのである。
煉魁の大きな肩を見ていると、そっと触れたくなってきた。邪魔だと思われないか憂慮してしまう気持ちと戦いながら、琴禰は勇気を出して煉魁の着物の裾をそっと掴んだ。
すると、それに気が付いた煉魁が驚いたように琴禰を見る。
琴禰は急に恥ずかしくなって、手を離してしまった。すると、煉魁はすかさず離した手を握る。まるで離さないと言いたげに、指を絡めた。
煉魁は目を細めて微笑みを落とす。その笑顔があまりにも優しくて、琴禰は胸がいっぱいになった。
琴禰は少しだけ頬を赤らめながら、嬉しい気持ちを表すように、はにかんだ笑顔を向けた。
その笑顔がとても可愛くて、煉魁は目を見開いたまま固まる。
(俺の嫁は可愛すぎる)
(煉魁様、素敵)
二人は顔を染めながら、互いに直視できずに目を背けた。
しかしながら、繋いだ手はしっかりと握り合っていたのだった。
人々が集う市は、にぎやかで様々な品物が交換されていた。色鮮やかな織物や漆器。そして、あやかし達の風貌も華やかで、彩りに満ちている。
宮中のあやかししか接することがなかった琴禰にとって、庶民であるあやかしを見ることは新鮮な驚きだった。
まず、見た目が妖魔に近い。それに、感じる力も弱々しい。
宮中のあやかしは、精鋭の選ばれし者たちなのだとわかった。
しかしながら、怖いとか不快だとか、そういう気持ちは一切湧かなかった。むしろ、戻ってきたような肌に馴染む感覚がある。
「賑やかで楽しいところですね!」
琴禰は弾むような足取りで、目を輝かせながら通りを見ていた。
一方の煉魁は、黒い布を目元まで持ち上げて顔を隠しながら、ゆったりと歩いていた。先ほどから、あやかし達の目が刺すように煉魁に向けられていた。
恐らくだが、気付かれている。しかし、察しが良く良識のあるあやかし達は、これはお忍びで来ているのだなと思って、気付かないふりをしてくれている。
「わあ、色々なものがあるのですね。醤油の焦げたいい匂いがします」
琴禰はくんくんと鼻を鳴らす。
煉魁が匂いの元を探すと、穀物を薄く伸ばし円形の形にして、網の上でじっくり焼かれた煎餅が店頭の一角に並んでいる。
「食べてみるか?」
「いいのですか⁉」
琴禰の目が大きく見開かれる。
「もちろんだ」
煉魁は笑いながら焼き煎餅を二個注文し、小さな飾り玉と交換した。
よほど高価な物だったのか、店主は手の平に置かれた飾り玉を二度見して、
「毎度あり~!」
というご機嫌な声と共に、紙で半分包まれた焼き立ての煎餅を煉魁に手渡した。
歩きながら、熱々の煎餅を頬張る二人。
仲睦まじい姿を、あやかし達はこっそり観察して微笑み合うのだった。
それから琴禰と煉魁は、様々な品物を見て、最後には、朱塗りの櫛と飾り玉を物交し、楽しく過ごした。
あっという間に日が暮れて、店から暖簾が外されてきたので、琴禰達も帰ることにした。
「は~、今日はとても楽しかったです。連れてきてくださりありがとうございました」
「俺も楽しかったよ」
「こんな素敵なお櫛を買ってくださり、ありがとうございます。大切に使いますね」
琴禰は朱塗りの櫛を大事そうに両手で持ち、胸に当てた。
とても似合っているので、煉魁は眦を下げる。
「琴禰はまるで、初めて買い物に来た少女のように何を見ても興奮していたな」
「実際その通りです。人間界にいた時も都会に出ることなんてほとんどなかったですから」
煉魁は『そうだったのか』と驚きながらも腑に落ちる心持ちがした。
琴禰の置かれていた状況があまりにも不憫で心を痛める。
(これからは、俺がたくさん楽しい経験をさせてやる)
美味しい食べ物も、綺麗な着物も、特別な体験も何もかも。
(琴禰の初めては全て俺がもらう)
煉魁は密かに心に決めたのだった。
「それにしても、あやかしというのは様々な方がいらっしゃるのですね」
見た目にしても、力の強さにしても、色々だった。
「そうだ。庶民の寿命は人間より少し長いくらいじゃないか?」
「そうなのですか⁉」
琴禰は驚愕して聞き返した。
「力の強さによって寿命も変わる。例えるなら、木を想像してみてほしい。樹齢何百年も誇る大木もあれば、数十年で朽ちる木もある。場所によっても寿命は変わる。あやかし国の中で最も力が強い場所が宮中ゆえ、宮中にいるだけで寿命が延びる」
「肥料が違う、みたいなお話ですか?」
「土地の力の強さもあるし、強大な力を持つ者の側にいるだけで生命力が増す。だから、琴禰も人間ではあるが、宮中に住むあやかしと同様に長く生きられるだろう。そもそも、元から持っている力も強いしな」
「でも煉魁様。私は血の契約によって力が暴発した日からまったく力が使えなくなってしまったのです。失われたのではないでしょうか?」
琴禰は少し心配そうに言った。
「いや、眠っているだけだ。また必要な時が来れば力は戻るだろう」
煉魁の言葉は、まるで大巫女の予言のように聞こえた。
(どうして私は、こんなに力が強いのかしら。祓魔というより、まるであやかしのよう)
疑問に思いながらも、もう悩む必要のないことなので、すぐに気持ちを切り替えた。
人間だとしても、あやかしの方々は琴禰を受け入れてくれている。
それだけで十分だった。
宮中が近づいてくると、煉魁は顔半分を覆っていた黒布を、煩わしそうに外した。
「疲れましたね。久々にたくさん歩いたので、足が重たいです」
「ゆっくり湯に浸かるとしよう。もちろん二人で」
煉魁は悪戯な笑みを浮かべた。
「ふ、二人で、ですか?」
「もちろんだ。よく足を揉んでやる。他の場所も念入りに」
「大丈夫です! 自分でできます!」
「遠慮するな」
二人は相変わらず仲睦まじい様子で宮の大門に入っていったのだった。
なにせ、あやかし王が死にかけたのである。騒ぎにならない方がおかしい。
臣下たちにうるさく問い詰められた煉魁は、ちょっとだけ話を盛って彼らに伝えた。
――あやかし国を滅ぼそうと企んでいた祓魔一族は、あやかし国に強大な力を持つ琴禰を送り込んだ。しかし琴禰は、あやかし王とその国の素晴らしさに感動し、祓魔を裏切ってあやかし国を守ることを決意する。
そして祓魔の陰謀によって力を暴発させられた琴禰は、あやかし国を守るため人間界を犠牲にした。
自らの命を犠牲にし、故郷を捨ててまであやかし国を守ろうとした心意気に感動し、琴禰を守るために強大な力を使った。——
話自体はほとんど事実なのだが、噂とは尾ひれが付くものである。
いつの間にかどんどん話が大きくなっていき、あやかし国を命懸けで守った人間と、あやかし王の無敵な力と愛の奇跡という美談に仕立てあげられ、あやかし国でこの話を知らない者はいないほど広まった。
さらに琴禰は、人間でありながらも強大な力を有する者として一目置かれるようになった。あやかし国では、美しさと力の強さが何より尊ばれる。そして故郷を捨て去り、あやかし国を守ったという出来事は、あやかし達の心に深く響いた。
脆弱な人間と結婚したと落胆していた者達も、あやかし愛に満ちた絶大な力を持つ人間と結婚した見る目のあるあやかし王ともてはやすようになった。
最強無敵なあやかし王の逸話と相まって、結婚を歓迎する動きがどんどん広まっていった。
そんな時、大王から呼び出しを受けたのである。
「嫁と一緒に挨拶に来いだと?」
渡り廊下で、秋菊に呼び止められ、大王からの伝言を聞いた煉魁は眉を寄せて聞き返した。
「はい、結婚したのに挨拶に来ないとは何事だと怒っていらっしゃいます」
「内緒にしておけと言っただろうが」
「今やあかし国で二人のことを知らない人などおりませんよ! もう隠しておくことなど不可能です!」
秋菊の言葉に、それもそうかと納得して、顎に手を当てて考え込む。
「俺だけじゃ駄目か?」
「嫁と一緒に、と大王様はおっしゃっておられます」
「むむむ」
実の父親に内緒で結婚してしまった罪悪感と、なにより琴禰に酷い言葉を浴びせるのではないかという恐れがあった。
「一旦、保留にしておいてもらえないか?」
「駄目です」
秋菊は強い口調で言い切った。
(これは本気で無理な時だな)
「とりあえず琴禰にも意見を聞いてみないと……」
「本日の宵の口までにお越しくださいね」
「待て、行くと決まったわけでは……」
「決定事項でございます」
秋菊はお辞儀して、早々に背を向けて歩いていってしまった。
断固とした強い意思を感じる。
これはいつものように、のらりくらりとかわしてはいけない案件だと煉魁は悟った。
(はああ、気が重いな)
とりあえず、琴禰と話し合いをするために宮殿へと向かう。
しかし、最近の琴禰は宮殿に留まらず、宮中内を自由に出歩いているので、いるとは限らない。
あれから琴禰は、目に見えて明るくなった。
心配事や罪の意識が消えたこともあるだろうが、猫を連れてきたことも大きいと煉魁は見ている。
宮殿内に入ると、琴禰が猫に餌を与えているところだった。
愛情いっぱいの表情で猫たちを見つめる琴禰。とても美しい横顔だが、少し猫に嫉妬する心も生まれる。
「琴禰」
呼びかけて振り向いた琴禰は、煉魁の顔を見ると満開の笑顔になった。
『勝ったな』と煉魁は密かにほくそ笑む。
「どうしたのですか」
琴禰は小走りで近寄ってきた。可愛い。
「いや、実は……」
言い淀む煉魁を見て、琴禰は不安そうに小首を傾げた。
(さすがに、そろそろ言っておかなければいけないだろう)
煉魁は覚悟を決めて、大王の話をした。
「え、お父様がいらっしゃるのですか⁉」
琴禰はまずそこに驚いた。
「うん、まあ、病気で長いこと伏せっているが」
「じゃあ、お母様もいらっしゃるのですか⁉」
「いや、母は俺を産んですぐに亡くなった」
「そうだったのですか……。煉魁様も人間のようにご両親の元から産まれてきていたのですね」
感慨深げに呟く琴禰を見て、煉魁は『俺をなんだと思っていたのだ』と疑問が生まれる。
「あやかしも病気になるのですね」
「そりゃそうだろう、生老病死は生きるもの全てに訪れるものだ」
琴禰はまだあやかしについて知らないことが多すぎる。
あやかしを神か何かと誤解しているような所があるので、今度あやかし国を案内して説明しなければいけないなと煉魁は思った。
「それより、父が挨拶に来いとおっしゃっているらしいが、どうする?」
「どうするも何も、行かないといけないでしょう!」
琴禰は当然のことなので、驚いて言った。
「そうなのだが、何を言われるかわからないぞ」
煉魁が危惧していることの意味が分かり、琴禰はしょんぼりと項垂れた。
「確かに。あやかし王が人間と結婚するなんて、お父様からしたら悪い意味で衝撃でしょうね」
「驚愕しすぎて病が悪化しないか心配だったのだが、挨拶に来いと怒っている元気があるようだから少し安心した」
「私は何を言われても大丈夫です。反対されても、もう結婚してしまいましたし」
琴禰は薬指にはめられた指輪を見せて笑った。
「そうだな、もう何を言われてもどうすることもできないよな」
煉魁も歯を見せて豪快に笑った。
琴禰は気が弱そうに見えて、案外肝が座っているところがある。
琴禰に背中を押された気がした。
「いつ行くのですか?」
「今日の宵の口までに来いと言われている」
「わあ、早速ですね。急いで用意しますので待っていてください!」
そうして琴禰はすぐに扶久を呼び支度を始めた。
待っている間、暇だったので猫と遊ぼうかと近寄ってみたが、背を逆立てて威嚇されるので触ることもできない。
扶久にはすっかり慣れたのに、煉魁は今もなお警戒されているようだ。
琴禰は正絹に色鮮やかな様々な糸で美しく織られた花模様の着物に着替え、髪も上げている。薄い化粧を施し、華やかな簪をつけていた。
「綺麗だ」
煉魁は思わず本音が零れた。
「結婚のご挨拶に行くので、失礼のないようおめかししてみました」
琴禰は少し恥ずかしそうに下を向いた。
「まるで結納に行くみたいだな。俺達は色々と手順をすっ飛ばしたから」
「あやかし国にも結納という文化があるのですね」
琴禰は感心したように言う。
「言っておくが琴禰。あやかしの文化を真似して取り入れたのは人間界の方だからな」
「ええ、そうなのですか!」
「うん、まあ、今はいい。後々それらは教えるとして、挨拶が先だ」
「そうですね、行きましょう」
二人は仲良く手を繋ぎながら、大王が療養する殿舎へと向かった。
煉魁は少し緊張しながら、螺鈿細工の装飾が施された障子戸を開けた。
「失礼いたします」
煉魁の後に続いて中に入った琴禰は、部屋の造りの重厚さにまず圧倒された。
床の間の欄干には鳳凰や舞鶴が生き生きと描かれ、床柱は名品である黒柿が用いられていた。
そして畳には珍しく、寝台を使用していた。ずっと伏せっていると言っていたので、布団より寝台の方が、寝起きが楽なのだろう。
上半身だけ起き上がり、寝台の背もたれに寄りかかった老輩の男性の目には険があり、痩せているが上背が高いので威圧感がある。
「父上、起き上がっていなくても大丈夫です」
煉魁が駆け寄ると、大王は余裕のある笑みで制した。
「大丈夫。煉魁のお嫁さんが来ているのだ。見栄を張らせろ」
大王はとても嬉しそうな笑顔で琴禰を見据えた。
琴禰は、顔を赤らめながら慌てて頭を下げた。
「琴禰と申します。ご挨拶が遅れてしまい大変申し訳ありませんでした」
「悪いのは当然俺です。琴禰は今日まで俺に父上がいることすら知らなかったのです」
煉魁も琴禰の横に並んで頭を下げた。
すると大王は、愉快そうに目尻を下げた。
「煉魁が全て悪いことは知っている。どこで育て方を間違えたのか、傍若無人になってしまって、皆が振り回されている。すまないね、琴禰さんも苦労をしているだろう?」
「いいえ、とんでもないです。煉魁様はとても優しく仲間思いの男気のある御方です。恐縮してしまうほど私を大切にしてくれています」
琴禰は優しく微笑んだ。褒められた煉魁は満更でもないらしく嬉しそうだ。
「互いをとても思い合っているのが伝わってくるよ。煉魁は素晴らしい女性と結婚したのだね」
大王の言葉に、琴禰と煉魁は驚いて目を見開いた。
人間と結婚したことを怒っていると思っていたからだ。
怒鳴られるのを覚悟してきたので、まさかの好意的な反応に面食らってしまう。
「私は煉魁に幸せになってほしかったのだよ。これで安心して逝ける」
「父上、縁起でもないことを」
煉魁が諫めると、大王は口を大きく開けて豪快に笑った。
「ははは、いよいよもう駄目かと思っていたが、二人のことを知ったら自然と元気が湧いてきたのだよ。まだしぶとく生きられそうだ。琴禰さんのおかげだよ」
「勿体ないお言葉です」
いつもより快活で肌艶も良く機嫌がいい大王を見て、煉魁はほっと胸を撫でおろした。
「ところで」
大王はそれまでの柔和な雰囲気から一変して、鋭い眼光を際立たせた。
「琴禰さんのためにも、きちんと結婚式を行って国民に披露した方がいい」
「いえ、私は煉魁様と一緒にいられるだけで十分ですので……」
琴禰は恐縮して首を振った。すると、煉魁が思いのほか大王の提案に食いついてきた。
「そうですね、今なら好意的に受け入れてくれそうです。なにより、俺が琴禰の花嫁姿を見たい」
煉魁は魅惑的な笑みを浮かべ、琴禰を横目で見た。
琴禰は恥ずかしくなって咄嗟に俯く。
「国民もさぞ喜ぶだろう。こんなに可愛い方が、あやかし王の花嫁になってくれるのだから」
そうして結婚式と披露宴を行う話があれよ、あれよと決まっていき、長居をするのも体に障るので早々に部屋を下がった。
「まさかこんな展開になるとは思いませんでした」
宮殿へ戻る道すがら、琴禰は少し興奮した様子で言った。
人間界でもあやかし国でも疎まれ続けてきた忌み子である自分が、花嫁として歓迎される日がやってくるなど思いもしなかった。
幸せになってはいけないのだと全てを諦めていたのに、次から次へと幸せが降って来る。
幸せ慣れしていない琴禰にとっては、素直に嬉しいと思う感情の前に、戸惑いがやってくるのだ。
「俺もそうだ。だが、言われてみれば確かに必要なことだよな。俺達は二人で勝手に結婚してしまったから」
「あの結婚式も、私にとっては宝物のような思い出です」
満開の桜の木の下でした指輪交換を思い出し、琴禰はうっとりと顔を緩ませた。
「そんな思い出を、これからもたくさん作っていこう」
煉魁は琴禰の肩を抱いて引き寄せた。
「……はい」
この瞬間も琴禰にとっては幸せな思い出だ。
煉魁と共に過ごすひと時全てがご褒美だ。
胸の中から溢れ出る愛しさを感じて、思わず目を潤ませてしまうほど幸福な時間。
(幸せ過ぎると、泣きたくなるものなのね)
初めて知った感情だった。
辛く苦しい涙ばかり流していたのに、喜びの涙もあるのだと不思議な気持ちだった。
そして、閣議決定の末、結婚式と披露宴は約一ヵ月後に行われることとなった。
その間に、琴禰は専門の教師が数名つき、あやかしの文化や歴史、礼儀作法について学ぶこととなった。
あやかし国の実態は、祓魔で聞いていたこととまるで違っていた。
あやかし国が厄災を落としていると聞いていたが、実際は妖魔が人間界に入り込まないように見守っている役割をしていることを知った。
そしてあやかしは、天上(神々の住居と中つ国(人間の住居)と黄泉(妖魔の住居)から独立しながらも、それらを併せ持った中間的な存在なのだという。
だから、あやかし国は、淡くおぼろげな彩雲の上に建っているのである。何物にも染まらず、何者でもない。そんな不確かで神秘的な存在があやかしなのである。
異国の文化を学ぶのかと身構えていた琴禰だったが、ほとんど日本文化と変わらなかったので拍子抜けした。
というのも、はるか昔に大罪を犯して人間界に落とされたあやかしがいたのだという。そのあやかしが、農村地帯で未開発だった日本にあやかしの文化を取り入れて発展させたのだ。
そしてその者の子孫が祓魔であり、特別な力を持つことになった。また、祓魔があやかしを憎むのは、大罪を犯して迫害された恨みが残っているからだと言われている。
(真実というのは、自分の目で見るまで分からないものなのね)
知らなかったことを学ぶことは楽しい。祓魔では、あまり外に出してもらえなかったので、学ぶ機会が乏しかった。
読み書きはできるが、ほとんど独学に近い。琴禰は水を得た魚のようにどんどん吸収していった。
そんなある日のこと。
煉魁は、都の大路にある辻の市を探索してみないかと琴禰を誘った。
「行きたいです!」
琴禰は目を輝かせて返事をした。
「よし、では目立たないように平民の服装に着替えて出発しよう」
まるで変装してお忍びに行くようで、琴禰は胸を躍らせた。
実際のところ、その通りなのだが、煉魁はあえて言う必要はないだろうと思った。
気構えてしまって楽しめなくなるのは可哀想だと思ったからだ。
琴禰は麻の青緑色の着物に、髪を三つ編みに結んで上から領巾のような頭巾を被った。
そして煉魁は、黒の着物に黒の布で目から下を覆っていた。
「煉魁様、それ逆に目立ちませんか?」
全身黒ずくめで、明らかに怪しい人だ。
「そうだが、俺の顔は目立ちすぎる」
琴禰は内心で『確かに』と頷いた。あまりにも美しく整った顔で、内側から光が放たれているかのように肌も綺麗だ。
怪しい人と敬遠される方がまだましなのかもしれない。
とはいえ、煉魁はそういう意味で言ったのではなく、あやかし王だと気が付かれる方が厄介だという意味だった。
宮中を出るのは初めてではないものの、いつもあやかしのいない辺鄙で二人きりになれる場所しか行ったことがなかったので、琴禰は浮足立っていた。
煉魁と並んで歩くことも新鮮だ。
新婚夫婦というよりも、まるで交際したての恋人同士のお出かけのようだ。
ただ隣を歩いているだけで高揚する。
煉魁は、いつもは早歩きなのに、琴禰の歩幅に合わせて歩いてくれている。そんな見えない優しさを感じ、琴禰は密かに胸をときめかせているのである。
煉魁の大きな肩を見ていると、そっと触れたくなってきた。邪魔だと思われないか憂慮してしまう気持ちと戦いながら、琴禰は勇気を出して煉魁の着物の裾をそっと掴んだ。
すると、それに気が付いた煉魁が驚いたように琴禰を見る。
琴禰は急に恥ずかしくなって、手を離してしまった。すると、煉魁はすかさず離した手を握る。まるで離さないと言いたげに、指を絡めた。
煉魁は目を細めて微笑みを落とす。その笑顔があまりにも優しくて、琴禰は胸がいっぱいになった。
琴禰は少しだけ頬を赤らめながら、嬉しい気持ちを表すように、はにかんだ笑顔を向けた。
その笑顔がとても可愛くて、煉魁は目を見開いたまま固まる。
(俺の嫁は可愛すぎる)
(煉魁様、素敵)
二人は顔を染めながら、互いに直視できずに目を背けた。
しかしながら、繋いだ手はしっかりと握り合っていたのだった。
人々が集う市は、にぎやかで様々な品物が交換されていた。色鮮やかな織物や漆器。そして、あやかし達の風貌も華やかで、彩りに満ちている。
宮中のあやかししか接することがなかった琴禰にとって、庶民であるあやかしを見ることは新鮮な驚きだった。
まず、見た目が妖魔に近い。それに、感じる力も弱々しい。
宮中のあやかしは、精鋭の選ばれし者たちなのだとわかった。
しかしながら、怖いとか不快だとか、そういう気持ちは一切湧かなかった。むしろ、戻ってきたような肌に馴染む感覚がある。
「賑やかで楽しいところですね!」
琴禰は弾むような足取りで、目を輝かせながら通りを見ていた。
一方の煉魁は、黒い布を目元まで持ち上げて顔を隠しながら、ゆったりと歩いていた。先ほどから、あやかし達の目が刺すように煉魁に向けられていた。
恐らくだが、気付かれている。しかし、察しが良く良識のあるあやかし達は、これはお忍びで来ているのだなと思って、気付かないふりをしてくれている。
「わあ、色々なものがあるのですね。醤油の焦げたいい匂いがします」
琴禰はくんくんと鼻を鳴らす。
煉魁が匂いの元を探すと、穀物を薄く伸ばし円形の形にして、網の上でじっくり焼かれた煎餅が店頭の一角に並んでいる。
「食べてみるか?」
「いいのですか⁉」
琴禰の目が大きく見開かれる。
「もちろんだ」
煉魁は笑いながら焼き煎餅を二個注文し、小さな飾り玉と交換した。
よほど高価な物だったのか、店主は手の平に置かれた飾り玉を二度見して、
「毎度あり~!」
というご機嫌な声と共に、紙で半分包まれた焼き立ての煎餅を煉魁に手渡した。
歩きながら、熱々の煎餅を頬張る二人。
仲睦まじい姿を、あやかし達はこっそり観察して微笑み合うのだった。
それから琴禰と煉魁は、様々な品物を見て、最後には、朱塗りの櫛と飾り玉を物交し、楽しく過ごした。
あっという間に日が暮れて、店から暖簾が外されてきたので、琴禰達も帰ることにした。
「は~、今日はとても楽しかったです。連れてきてくださりありがとうございました」
「俺も楽しかったよ」
「こんな素敵なお櫛を買ってくださり、ありがとうございます。大切に使いますね」
琴禰は朱塗りの櫛を大事そうに両手で持ち、胸に当てた。
とても似合っているので、煉魁は眦を下げる。
「琴禰はまるで、初めて買い物に来た少女のように何を見ても興奮していたな」
「実際その通りです。人間界にいた時も都会に出ることなんてほとんどなかったですから」
煉魁は『そうだったのか』と驚きながらも腑に落ちる心持ちがした。
琴禰の置かれていた状況があまりにも不憫で心を痛める。
(これからは、俺がたくさん楽しい経験をさせてやる)
美味しい食べ物も、綺麗な着物も、特別な体験も何もかも。
(琴禰の初めては全て俺がもらう)
煉魁は密かに心に決めたのだった。
「それにしても、あやかしというのは様々な方がいらっしゃるのですね」
見た目にしても、力の強さにしても、色々だった。
「そうだ。庶民の寿命は人間より少し長いくらいじゃないか?」
「そうなのですか⁉」
琴禰は驚愕して聞き返した。
「力の強さによって寿命も変わる。例えるなら、木を想像してみてほしい。樹齢何百年も誇る大木もあれば、数十年で朽ちる木もある。場所によっても寿命は変わる。あやかし国の中で最も力が強い場所が宮中ゆえ、宮中にいるだけで寿命が延びる」
「肥料が違う、みたいなお話ですか?」
「土地の力の強さもあるし、強大な力を持つ者の側にいるだけで生命力が増す。だから、琴禰も人間ではあるが、宮中に住むあやかしと同様に長く生きられるだろう。そもそも、元から持っている力も強いしな」
「でも煉魁様。私は血の契約によって力が暴発した日からまったく力が使えなくなってしまったのです。失われたのではないでしょうか?」
琴禰は少し心配そうに言った。
「いや、眠っているだけだ。また必要な時が来れば力は戻るだろう」
煉魁の言葉は、まるで大巫女の予言のように聞こえた。
(どうして私は、こんなに力が強いのかしら。祓魔というより、まるであやかしのよう)
疑問に思いながらも、もう悩む必要のないことなので、すぐに気持ちを切り替えた。
人間だとしても、あやかしの方々は琴禰を受け入れてくれている。
それだけで十分だった。
宮中が近づいてくると、煉魁は顔半分を覆っていた黒布を、煩わしそうに外した。
「疲れましたね。久々にたくさん歩いたので、足が重たいです」
「ゆっくり湯に浸かるとしよう。もちろん二人で」
煉魁は悪戯な笑みを浮かべた。
「ふ、二人で、ですか?」
「もちろんだ。よく足を揉んでやる。他の場所も念入りに」
「大丈夫です! 自分でできます!」
「遠慮するな」
二人は相変わらず仲睦まじい様子で宮の大門に入っていったのだった。