「……ご冗談でしょう」
そう言うのがやっとだった。
「冗談かどうかは、君も見ての通りだ」
秀一さんはガラスの破片を握って砕いてみせた。また血が流れて、そしてすぐに止まった。
「不老不死でも腹は減る。生活には金が要る。今は男子に恵まれなかった橘家の養子として面倒を見てもらっているが、昔はこの体を活かして違法な仕事もたくさんしてきた。でも検非違使……今で言う警察に捕まったら面倒なことになるからね。人の道に外れていてもなるべく合法な仕事を選ぶようにしていた。その中の一つが見せ物小屋だ。今やったように自分の体を……」
「もう、結構です」
私は悲鳴のような声を出して秀一さんの話を遮った。
「……すまない。まあ、とにかく十年ほど前、君の叔父さんは僕が出演していた見せ物小屋を訪れたことがあるらしい。残念なことに叔父さんは何度目かの会食の時にその時のことを思い出してしまった。秘密を暴露された僕は耐えきれずに逃げ出した。それが真実だ」
私は叔父の言葉を思い出した。
(あの男は大罪人だ。人を殺めるよりも、ずっと重い大罪を犯したのだ)
人を殺めるよりも重い罪。それは人が故の定事に抗うことだ。
「……そんな秘密を抱えていても、私と結婚したかったのですか」
私が尋ねると、秀一さんは少し驚いたような顔した後で、「ああ」と微笑んだ。
「僕を拾ってくれた橘家の人たちは本当に良い人たちでね。お家存続のために橘家の人たちに報いたかったというのが半分。もう半分は、思いがけない幸福を得て気が大きくなってしまったのかもしれない。胸の奥に封印したはずの欲求が、急に首をもたげて姿を現したんだ。もしかしたら、僕も人並みの家庭を作れるのかもしれない……と」
ハネムーン。結婚指輪。
千年の孤独に耐えてきた秀一さんにとって、それらは人との繋がりの象徴だったのかもしれない。
「それからもう一つ」と、秀一さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「君の顔が好みだった」
「……こんな時に、冗談言わないでください」
「冗談じゃないよ。実際に会ってみて、やはり君は可愛い子だった。そんな子とハネムーンを体験できて、僕はすごく楽しかった」
私だって楽しかった。
パンケークは美味しかったし、リボンは大切な宝物になるだろう。
「あの……」と私は思わず秀一さんに呼びかけた。
「私なら構いません。結婚をしましょう」
口にした途端に、足がガクガクと震え始めた。私は何を言っているのだろう。
何の覚悟もない同情で、神へ反逆した大罪人を救えるとでも思ったのだろうか。
秀一さんは「ありがとう」と、帽子をとって頭を下げてみせた。
「嬉しいけれど、そういうわけにはいかないよ。今の仕事がひと段落したら、橘秀一という人間は消える。橘家の人たちは残ってもいいと言ってくれているけど、やはり無理な話だ」
「ですが……」
私はなおも食い下がったが、秀一さんは「いいんだ」と、それを制した。
「結局僕は、月に魅せられた千年前と同じ過ちを犯してしまったんだよ。咎人は罰を受け続けなければならない」
「そんな……そんなことって……」
一時の甘美な蜜月の代償として、一層寂しい孤独を背負う秀一さんのこれからを考えると、私は涙を止めることができなくなった。
秀一さんは、そんな私の頭をそっと撫でてくれた。
「希望がない訳じゃない。世界は凄まじい速さで進化を続けている。この街と同じさ。壊れては創られ、壊れては創られ……。あと百年もすれば不老不死を治す薬だって開発されるかもしれない。その時に僕の罰は終わる」
「……はい……」
何の保証もないその言葉に、私は、ただ頷くことしかできなかった。
「それじゃあ、さよならだ。僕が言える立場ではないけれど、それでも、君が幸せに生きていくことを祈っているよ」
そして、秀一さんは銀座の雑踏の中へ消えていった。私は別れの言葉をかけることすらできずに、その背中を見送った。
その後、秀一さんの行方は杳として知れない。
私の次の縁談の話は、気味が悪いくらいに順調だった。とんとん拍子に話が進み、私は叔父が勤める病院の医師と結婚することになった。
籍を入れて数日が経ったのち、私は夫に「ハネムーンを知っていますか」と尋ねてみた。
「よく知らないな。悪いが疲れているんだ。急ぎの話でないなら後にしてくれ」
「……失礼いたしました。お休みなさい」
しばらくすると、夫は大きないびきを立てて眠ってしまった。現実の結婚とは、こういうものなのかもしれない。
私は布団を抜け出すと、自室に戻り箪笥の引き出しをそっと開けた。
秀一さんに別れを告げられてから、私はそれまでのおさげ髪を辞めて、束髪にするようになっていた。
そのため、大きなリボンで髪を結ぶ機会は減っていたが、秀一さんから貰ったリボンは手放すことができずに、箪笥の奥に残してある。
秀一さんへの想いが、私の初めての恋だったのかはわからない。ただ、月の色によく似た菜花色のリボンを見ると、無性に寂しくなる。
寂しくて寂しくて、たまらないのだ。
そう言うのがやっとだった。
「冗談かどうかは、君も見ての通りだ」
秀一さんはガラスの破片を握って砕いてみせた。また血が流れて、そしてすぐに止まった。
「不老不死でも腹は減る。生活には金が要る。今は男子に恵まれなかった橘家の養子として面倒を見てもらっているが、昔はこの体を活かして違法な仕事もたくさんしてきた。でも検非違使……今で言う警察に捕まったら面倒なことになるからね。人の道に外れていてもなるべく合法な仕事を選ぶようにしていた。その中の一つが見せ物小屋だ。今やったように自分の体を……」
「もう、結構です」
私は悲鳴のような声を出して秀一さんの話を遮った。
「……すまない。まあ、とにかく十年ほど前、君の叔父さんは僕が出演していた見せ物小屋を訪れたことがあるらしい。残念なことに叔父さんは何度目かの会食の時にその時のことを思い出してしまった。秘密を暴露された僕は耐えきれずに逃げ出した。それが真実だ」
私は叔父の言葉を思い出した。
(あの男は大罪人だ。人を殺めるよりも、ずっと重い大罪を犯したのだ)
人を殺めるよりも重い罪。それは人が故の定事に抗うことだ。
「……そんな秘密を抱えていても、私と結婚したかったのですか」
私が尋ねると、秀一さんは少し驚いたような顔した後で、「ああ」と微笑んだ。
「僕を拾ってくれた橘家の人たちは本当に良い人たちでね。お家存続のために橘家の人たちに報いたかったというのが半分。もう半分は、思いがけない幸福を得て気が大きくなってしまったのかもしれない。胸の奥に封印したはずの欲求が、急に首をもたげて姿を現したんだ。もしかしたら、僕も人並みの家庭を作れるのかもしれない……と」
ハネムーン。結婚指輪。
千年の孤独に耐えてきた秀一さんにとって、それらは人との繋がりの象徴だったのかもしれない。
「それからもう一つ」と、秀一さんはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「君の顔が好みだった」
「……こんな時に、冗談言わないでください」
「冗談じゃないよ。実際に会ってみて、やはり君は可愛い子だった。そんな子とハネムーンを体験できて、僕はすごく楽しかった」
私だって楽しかった。
パンケークは美味しかったし、リボンは大切な宝物になるだろう。
「あの……」と私は思わず秀一さんに呼びかけた。
「私なら構いません。結婚をしましょう」
口にした途端に、足がガクガクと震え始めた。私は何を言っているのだろう。
何の覚悟もない同情で、神へ反逆した大罪人を救えるとでも思ったのだろうか。
秀一さんは「ありがとう」と、帽子をとって頭を下げてみせた。
「嬉しいけれど、そういうわけにはいかないよ。今の仕事がひと段落したら、橘秀一という人間は消える。橘家の人たちは残ってもいいと言ってくれているけど、やはり無理な話だ」
「ですが……」
私はなおも食い下がったが、秀一さんは「いいんだ」と、それを制した。
「結局僕は、月に魅せられた千年前と同じ過ちを犯してしまったんだよ。咎人は罰を受け続けなければならない」
「そんな……そんなことって……」
一時の甘美な蜜月の代償として、一層寂しい孤独を背負う秀一さんのこれからを考えると、私は涙を止めることができなくなった。
秀一さんは、そんな私の頭をそっと撫でてくれた。
「希望がない訳じゃない。世界は凄まじい速さで進化を続けている。この街と同じさ。壊れては創られ、壊れては創られ……。あと百年もすれば不老不死を治す薬だって開発されるかもしれない。その時に僕の罰は終わる」
「……はい……」
何の保証もないその言葉に、私は、ただ頷くことしかできなかった。
「それじゃあ、さよならだ。僕が言える立場ではないけれど、それでも、君が幸せに生きていくことを祈っているよ」
そして、秀一さんは銀座の雑踏の中へ消えていった。私は別れの言葉をかけることすらできずに、その背中を見送った。
その後、秀一さんの行方は杳として知れない。
私の次の縁談の話は、気味が悪いくらいに順調だった。とんとん拍子に話が進み、私は叔父が勤める病院の医師と結婚することになった。
籍を入れて数日が経ったのち、私は夫に「ハネムーンを知っていますか」と尋ねてみた。
「よく知らないな。悪いが疲れているんだ。急ぎの話でないなら後にしてくれ」
「……失礼いたしました。お休みなさい」
しばらくすると、夫は大きないびきを立てて眠ってしまった。現実の結婚とは、こういうものなのかもしれない。
私は布団を抜け出すと、自室に戻り箪笥の引き出しをそっと開けた。
秀一さんに別れを告げられてから、私はそれまでのおさげ髪を辞めて、束髪にするようになっていた。
そのため、大きなリボンで髪を結ぶ機会は減っていたが、秀一さんから貰ったリボンは手放すことができずに、箪笥の奥に残してある。
秀一さんへの想いが、私の初めての恋だったのかはわからない。ただ、月の色によく似た菜花色のリボンを見ると、無性に寂しくなる。
寂しくて寂しくて、たまらないのだ。