新たな縁談の話が舞い込んできた時、私が真っ先に思い浮かべたのは秀一(しゅういち)さんのことだった。

 浮かれている母にそのことを伝えると、「あの男のことは忘れろと言ったはずですよ」と、露骨に嫌な表情をされてしまった。

 「しかし、お母様。形式上であっても(たちばな)秀一さんと私は夫婦の契りを結びました。いくら彼の行方がわからないからと言って、一方的に関係を解消してしまうのはあまりにも義理を欠く行為に思えます」
 
 「結びかけた、が正しいでしょう。結納の直前にあの男は姿をくらましたのだから」

 母は苛々としながら訂正した。

 「それならば」と、私は続けた。

 「いただいたお金は返すべきではないでしょうか」

 聞くところによると、今回の件で橘家から小田桐(おだきり)家へは、結納金の三倍の額が支払われたそうだ。
 慰謝料の相場など、たかだか十八年しか生きたことのない私にわかるはずもないが、結納金の三倍というのはやや多すぎるのではないかと思う。

 「小田桐家の名に泥を塗る行為に対して、正当な要求をしたまでです。あれでも少ないくらいだわ」

 母はうんざりしたように言った後で、蛇のような目で私を睨みつけた。

 「早く結論を言いなさい。あなたは一体何がしたいのですか」

 「秀一さんのご家族に会ってきます」

 私の言葉に、母はこの世の終わりのような顔をしてため息をついた。

 「何を馬鹿なことを。どこの世界に、他所との縁談を控えた身で、関係の切れた男の実家に行く女がありますか」

 「ならばせめて、手紙を出すお許しをください。正式に離婚の手続きを踏まずに、次の縁談の話をすることに、私は強い違和感があるのです」

 「いい加減になさい。いつも言っているでしょう。あなたの一挙手一投足が小田桐家の品位を表すのです。常に小田桐家の女性として相応しい行動を心がけなさい」

 母は鬼の形相だった。
 大戦後の不景気に震災が重なり、小田桐家の威光に翳りが出始めた頃から、母は何かにつけて「品位」という言葉を口にする。

 過去の栄光を引き摺り、いつまでも現実を見ようとしないことは品位がある行動と言えるのだろうか。

 喉元まで出かかった言葉を無理矢理飲み込んでから、私は「……承知しました」と返事した。