逢魔時に出会う誰そ彼

『あたしは、あの子に返しきれない恩がある。』

あの日のことは忘れもしない。昔のあたしは今より臆病でずっとずっと弱かった。強い兄がいたから、女の子のあたしは守ってもらうものなのだと、そう思っていた。

まだ、あたしが小学生になったばかりの頃。
「朱音ちゃん、大丈夫?」
「あおちゃん!」
碧ちゃんがハンカチを出し、あたしの顔を拭く。
「ほら、これ。」
上級生の男の子に取られたあたしの手提げカバンを碧ちゃんは、あたしに渡した。
「ありがとう!」
「当然よ!朱音ちゃんはアタシのお姫様だもの!」
兄である碧ちゃんはいつもあたしを助けてくれた。
「…で、あんたらはなんなのよ。」
碧ちゃんは呆れた顔で振り返る。
「オレだってひとりならたおせた!あいつら、3人でずるいんだ!」
「びぇぇぇえん!いたいよぉ〜!」
龍哉と凛だ。龍哉はぶんぶんと木の枝を振り回し、凛はぴいぴい泣いている。
「龍哉、擦りむいてるんでしょう?弥太郎と傷洗ってきなさい。絆創膏あげるから。凛、あんたはなんで痛がってんのよ。あんた、怪我してないでしょうが……。」
碧ちゃんが呆れた声のまま、凛の泣き顔をティッシュで乱暴に拭った。
「だって、だって…たつやとあかねとあおちゃ、がいたいよぉ〜…」
あたしや龍哉より半年ほど遅く生まれた凛は、同級生のあたしたちより、一回り小さくて泣き虫な女の子だった。
「あんた、人の怪我で泣いて、本当泣き虫ね〜。すばしっこさは一丁前だからなんとか捕まらずに逃げてきたくせに。」
そう。上級生の男の子たちに突き飛ばされ、手提げカバンを取られたあたしは転けて擦り傷。龍哉は、その手提げカバンを取り返そうとして3人の上級生に対して殴りかかって喧嘩になり、怪我をした。凛はというと、追いかけられたけど、ちょこまかとなんとか避けて、碧ちゃんと弥太郎を引き連れて戻ってきたのだ。体力のない凛が長距離走るのは難しく、2人が近くにいたのが幸いだった。
「ほーら、あんまり泣くと目が溶けちゃうわよ。早く泣き止んで。」
「うぇぇん、あおちゃのおてていたいよぉ。」
「アタシの傷?噛みつかれたけど、これくらい痛くないわよ。噛んだやつ、投げ飛ばしたの見てたでしょ?」
「ほら、凛。こっちこい。ぐちゃぐちゃだから、龍哉の傷洗うついでに顔洗ってやる。」
「ほら、弥太郎と龍哉と行ってきなさい。」
「ん。やたろ、やたちく、だっこちて。」
「うっせー。運んでやるだけで優しいだろうが。」
凛はグジュグジュと顔をこすりながら、弥太郎に俵担ぎされ、運ばれていった。ふぅ、と碧ちゃんが一息つく。
「で?あの子たちは知り合い?」
「わからない…おはなししたことないとおもう…」
「なんなのかしらね。朱音ちゃんは可愛いからちょっかいかけたくなるのは分からなくはないけど…。」
眉を顰める碧ちゃん。言いたいことは分かる。あたしはあまりにもいじめられっ子すぎた。長い黒髪をおろし、少し長めのスカート。声も小さく、オドオドとしたその様子はいじめっ子のターゲットになりやすかった。ただ、それにしても異常。話したことない子や普段はそんなにやんちゃでないような子にもいじめられる。泣き虫な凛は、意外にもターゲットになりにくかった。理由は、泣き声が大きいし派手だ。いじめられていたらすぐ分かる。大人や自分を助けてくれる人が駆けつけてくれるくらいの声量で泣き叫ぶ。『火がついたように泣く』とはよく言ったもので、凛のはまさにそれだった。
「こんなに可愛いのにいじめるなんて…おかしいわよね〜。」
碧ちゃんは、うーんと考え込んだ。あたしが首を傾げると碧ちゃんはハッとした顔をした後に、笑った。
「まぁ、朱音ちゃんにはアタシがついてるから!」
あたしはホッとして笑った。碧ちゃんは強い。昔から喧嘩が強かったけど、弥太郎と友達になり、青山先生のところに通うようになってから更にだ。青山先生に「教えたことを喧嘩につかうんじゃない!」とよく怒られていたけど、護身術を覚えた碧ちゃんは相手になるべく怪我をさせずにあたしを守ってくれた。その日、あたしは碧ちゃんと家に帰り、碧ちゃんはその後、青山先生のところに稽古に行った。
次の日から、碧ちゃんは少し考え込むような時間が増えた。稽古から帰ると少しの間、部屋に籠る。何か悩みがあるのかと聞いても教えてはくれなかった。『大丈夫だから』碧ちゃんのその言葉に初めて不安を感じたのだった。

「今日は青山先生に呼ばれているから。先に帰っていて。」
碧ちゃんはそう言った。龍哉と碧ちゃんと弥太郎は、青山先生のところに帰ることになり、あたしと凛は2人で帰ることになった。ふんふん♪と鼻歌を歌ってご機嫌な凛を見ながら歩く。公園に差し掛かると急にランドセルを押された。
「きゃっ…」
どてんと転ける。
「あかね!」
凛が駆け寄ってくる。後ろを見ると、前に手提げカバンを取ってきた男の子。碧ちゃんに噛みついたから投げられた子だ。今日は1人。
「あかね〜!」
凛があたしの隣に座り込んだ。男の子が凛のランドセルも押した。小さい凛は、コロンと地面に転がった。
「んきゃ‼︎」
凛が声を上げるも、それを無視して男の子があたしの髪を掴んだ。
「この前はよくもやってくれたな!兄貴呼ぶなんて、卑怯だろ!」
「いたいっ…!」
思い切り引っ張られて悲鳴がこぼれる。その子は、碧ちゃんに投げられたことを恨んでいるようだった。
「やだ!いじめちゃ、だめ!」
凛が男の子の腕にしがみつく。男の子は、いとも簡単に凛を跳ね飛ばした。
「お前、邪魔なんだよ!」
「みぎゃ!」
じわりと凛の目に涙が浮かぶ。あ、とあたしは声を漏らした。凛が泣きそうだというのに、あたしは凛が泣けば大人が助けに来てくれる、と思い、ホッとしたのだ。
「びぇぇぇぇん‼︎」
凛が泣き叫ぶ。近くにいたあたしは、耳が痛くなった。男の子も嫌そうな顔をする。ただ、いつもと違い、助けが来ない。半端な時間のせいで公園の近くには、あたしたち以外いなかったのだ。
「お前、うるさい!」
男の子は、手に持っていた水筒を凛に投げつけようとした。それが当たれば凛は大怪我をするだろう。
「だ…だめ!」
あたしは男の子の腕を掴んだ。
「なんだよ!」
「だ、だめ…りんになにもしないで…」
ガタガタ震えながら男の子に言う。あたしの様子を見て、男の子の目の色が変わった……気がした。ゴソゴソと手提げカバンを漁り、あるものを手に取った。
「じゃー、これ。これでお前の髪切るから。」
男の子の手にはハサミがあった。あたしはサーっと血の気が引く。碧ちゃんにお姫様みたいだねって言ってもらっていた大切な髪。綺麗に伸びるように毎日櫛でといていた。
「や…。」
「お前、なんか気に入らねーんだよ。」
男の子の狂気を感じる。これまで、何度も色んな子にいじめられてきた。いつもおかしいと思っていた。いじめる子はなぜかあたしをいじめることに執着している。なんであたしなの。掴まれた髪。ハサミの刃があたしの髪に当たりそうになる。怖いよ、誰か助けて。泣いていた凛がこちらに気づき、目を見開く。その目に一瞬だけ見えたのは、揺らめく炎の色。
『…っ!!!あかねを、いじめちゃ、だめぇぇぇえ!!!』
吠えるように凛が叫んだ。目には見えない何かが燃え飛ぶような感覚。男の子はぐらりと揺らいで、あたしの髪から手を離した。
「あ、おいコラ‼︎お前…この前の‼︎」
弥太郎の声が聞こえた。その後、パァン‼︎と大きな音が聞こえる。弥太郎の横にいた碧ちゃんが、手を思い切り叩いた音だ。その音で、男の子は飛び上がり、逃げていった。2人が駆け寄ってくる。
「朱音ちゃん⁉︎大丈夫⁉︎」
「あおちゃん、いたい…」
「っ、ごめん!」
あたしの肩を掴んだ碧ちゃんが、力を緩める。
「……⁉︎おい‼︎凛‼︎」
弥太郎の焦った声が聞こえた。凛がぐったりしている。
「りん‼︎」
あたしは凛に駆け寄った。弥太郎に揺さぶられて、こてん、とこちらに向いた凛の顔を覗く。
「……こいつ寝てんのか?」
弥太郎が、もう一度凛を少し揺さぶった。すやすやと寝息をたてる凛。
「こいつ、まじかよ…」
弥太郎は、はぁ…と安堵と呆れのため息をついた。ひょいと凛をおぶる。手にはランドセル。
「とりあえず、じいちゃんの家行くぞ。碧も朱音も。」
「朱音ちゃん、歩ける?」
「うん…」
碧ちゃんがあたしの手を握る。碧ちゃんの手の平はじんじんと熱くて、指先は冷たく、少し震えていた。
「じいちゃん、帰った。」
ドタドタと廊下から音が聞こえた。
「やたにぃ〜‼︎なにそれ、りん、ねてんの?」
龍哉が玄関にくる。弥太郎が凛を背負ったまま、靴を脱ぎ捨てた。
「帰ったか。…ん?お前、その子は…?」
「こいつ、龍哉のダチの凛。あと碧の妹の朱音。」
弥太郎が、クイ、と顎であたしを指す。
「!」
青山先生は、凛とあたしを見て、ピクリと眉を動かした。
「そうか……そういうことか……うん、なるほど。」
青山先生が、凛をもう一度覗き込み、碧ちゃんを見てから、あたしの目の前でしゃがんだ。厳しさに滲む穏やかな目が少し細められる。
「朱音、だな?今日は怖い目にあっただろう。」
何が起きたか話していないのに、分かっているように青山先生は言う。
「今は何がどうなったか分からないだろう。でも、この子……凛には、お礼を言っておきなさい。君を守ろうとして必死だっただろうだから。」
「え……?」
凛を見る。すやすやと弥太郎の背中で寝る凛は、やっぱり小さくって。碧ちゃんが、頬を突いたら、ぷすぷすと口から息を漏らした。凛が叫んだあのとき、やっぱり何かが起きたんだ。近寄ると、弥太郎が少ししゃがんでくれた。
「りんがまもってくれたの?」
囁くように聞く。凛からは返事ではなく、すやすやと寝息が聞こえた。こんな小さな女の子が、体いっぱいに、あたしを守ろうとしてくれた。ぎゅぅぅぅう…と胸が締め付けられる。
「りん、ありがと。おきたら、もういっかい、いうからね。」
ちゅ、と絵本でみたお姫様と同じように、あたしは凛の頬にお礼のキスをした。
「なぁ⁉︎」
「お?」
「ほぉ。」
「え⁉︎おれの背中で、今、何が起きたの⁉︎」
碧ちゃん、龍哉、青山先生、弥太郎がそれぞれ反応する。その後、青山先生の家には碧ちゃんの「いやぁぁぁあ〜〜〜‼︎⁉︎」という絶叫が響いた。

桜舞う中、凛と龍哉と歩きながら、ふふ、と笑う。
「ん?思い出し笑い?」
「なんだよ?」
「ちょっとね。」
あの日から、あたしは変わった。あの後、あたしのいじめられっ子体質には不思議なものが関わっていたことが分かった。あたしは『悪いモノ』を惹きつけやすいらしい。碧ちゃんが男の子に噛まれた日、青山先生は異変に気づいた。『悪いモノ』の気が、強くついていた碧ちゃんを見て、青山先生は碧ちゃんが何か惹きつけやすい体質と思ったらしく、稽古の日に、『悪いモノ』から身を守る術を教え始めた。碧ちゃんは心当たりがなく、少し考え込んでいたらしい。けど、不審な点を考えて考えて、あたしに辿り着いた。あの日、それに気づいた瞬間、弥太郎と焦って迎えに来てくれたらしい。あたしの体質を気づいた青山先生は、あたしに「しゃんとしなさい。それだけで違うもんだ。」と言った。そんなことあるわけない、と思いながらも、次の日から髪を一つにまとめ、背筋を伸ばし、武道の稽古をつけてもらい、ハキハキと話すことを心がけた。すると、身の回りにいた『悪いモノ』が取れるように、あたしはいじめられなくなった。初めて髪をくくってきた日、凛はキョトンとしていたけど。まだ、意地悪されることもあるし、龍哉に守ってもらうことも多い。凛といると、なぜかそういうこともなくて心が安らいだ。凛も、なぜかあたしとよくいるようにしてくれた。
「よ、3人。入学おめでとう。」
「「弥太郎。」」
「弥太兄。」
最近会うことが少し減った弥太郎が声をかけてきた。弥太郎がじっとあたしたちを見る。
「んん〜?あ…?」
「なんだよ?弥太兄。」
「弥太郎、朱音のこと見過ぎ。」
怪しむように言って、龍哉と凛があたしの前に立つ。
「ちげぇって‼︎おれ、信用なさすぎだろ!」
ん〜…と頭をかく弥太郎。その仕草が龍哉に似ている。
「おい、朱音。ちょっと来い。」
「え。」
「弥太郎!朱音に何する気ぃぃい⁉︎」
「お前はおれのことなんだと思ってるわけ⁉︎」
あたし?と自分を指さすと、ぷくぅ〜っと凛が威嚇するように頬を膨らます。可愛い。弥太郎が凛の首根っこを掴む。間に割り入りながら、弥太郎に話しかける。
「分かった。凛と龍哉とちょっと教室に取りに行ってくるものあるから、その後でいい?」
「あぁ。」
弥太郎が頷いた。

「わり、ちょっと行ってくる。」
龍哉が男の先輩に呼ばれて、どこかへ行った。
「凛。あたしも弥太郎のところに行ってくるね。」
「ん〜。」
校舎の地図を見ながら、凛は返事した。
「後から連絡するから。遅かったら先帰っててもいいからね。」
「む〜ん。」
くるくると校舎の地図をまわしながら見ている。大丈夫だろうか。早く帰ってこよう、そう思い、駆け足で弥太郎の元に向かった。

「おっす。」
「ここ、高等部じゃないの。」
弥太郎が待っていたのは高等部の階段の踊り場。
「あたしに用事?…っ⁉︎」
目の前を人が通り過ぎ、角を曲がった。あたしと弥太郎だけになった、その瞬間、景色が変わる。何もない、平地。水平線に広がる草原は、なぜかこの世のものとは思えなかった。
「なっ⁉︎」
「はぁ…お前か〜。」
弥太郎がグシャグシャと頭をかき混ぜるようにかく。ふぅ〜と息をつき、一度閉じた目を、静かに目を開く。
「な、なに?」
「お前は選ばれた。」
「選ばれた?」
「お前、自分が変な体質なのは知ってるよな?」
「『悪いモノ』を惹きつけやすい、でしょ?不安そうで気が弱そうだから霊媒体質ってやつみたいな…。」
「ん〜、まあまあ、そういうこったな。」
「青山先生に昔言われたわよ。弥太郎もいたでしょ?」
「あぁ。でもあれは少し足りない。」
「足りない?」
何が?そういう顔をすると弥太郎は、ぎゅっと口を一瞬つぐみ、やんわり開いた。
「あれは『あやかし』だ。」
「『あやかし』?」
「そう。この土地には多くいる。じいちゃんやおれは、加護の力で『あやかし』からこの瑞桃を守ってきた。お前が惹きつけやすい『悪いモノ』の正体は『あやかし』だ。」
「待って。」
話し続ける弥太郎を手で制止する。
「仮にあたしが惹きつけやすかったモノが『あやかし』だとして、この状況は何?」
水平線を指さす。
「これは『加護の継承』。継承つってもおれは、新しく加護を授かるのを見守るだけだけどな。」
弥太郎の後ろから羽が見えた。バサリと羽ばたくそれは火のような鳥だった。
「おい、朱雀。本当にこいつなの?」
『間違いない。でないとここには来れぬ。』
「まじか〜…」
弥太郎は苦い顔をした。
「朱雀…?」
その神々しい鳥を見る。
『あぁ、新たな加護の子よ。我こそは朱雀。そなたは加護を受け入れるか?』
「え、加護…受け入れ…?」
「わぁぁ⁉︎朱雀やめろよ‼︎おれから説明すっから!」
ぐぬ…と弥太郎がもう一度苦い顔して、話す。
「瑞桃に現れる『あやかし』を退治するために加護を受けるかって話。4年ごとに選ばれるやつらがいて、受け入れる受け入れないは自由!…朱音はどうする?」
弥太郎はやけくそ気味に話して、あたしを見た。
「…守る…」
「そ。危ねぇこともあるし、怪我することもある。」
「そんなものがあるのね…。」
「ん、お前がやらなくても空き番にしてもいいんだよ。他のやつが、どうにかするだろ。」
「やるわ。」
「そうそう…無理やりするもんじゃねぇしさ……まぁ、最悪おれがこのまま…って、え⁉︎なに⁉︎お前『やる』って言った⁉︎」
弥太郎が目を見開く。
「うん、やる。瑞桃を守る。」
「おま、ちょ、おれはお前がさぁ……」
あわあわとする弥太郎をじっと見る。弥太郎があたしの視線に気付き、あたしの目を見つめた。あたしはずっと変わりたかった。あの日以来、変わろうとした。あたしはお姫様でいるのをやめたんだ。凛を守れる存在でいたい。凛が安心して、隣にいることができる存在でいたい。龍哉の後ろじゃなくて、龍哉の隣に並べる存在でいたい。凛に守ってもらったあの日から、ずっとそれを望んでいた。この場所を守ることは、凛を守ることだ。
「っ…はぁ〜。だってよ。朱音は宿星を受け入れるって。」
弥太郎がため息をついた。
『決めたか。加護の子よ。』
「えぇ。」
朱雀に返事をするあたし。弥太郎が小さく「碧、ごめぇん…」とつぶやいたのが聞こえた。
『ではそなたに授けよう。』
ふわりと朱雀があたしの近くにくる。淡い桃の花のような香りに包まれた。
『瑞桃に現れし誰そ彼 汝に この力 授けよう 平穏を脅かす誰そ彼 この力強い輝きに解かされよ』
その瞬間、朱雀が赤色の光を纏う。炎にも見えるそれにあたしは何故か手を伸ばした。何かに触れる、それを掴み胸に抱えた。
『では頼んだ。』
周りの景色が変わる。弥太郎といた高等部の階段の踊り場。
「お。朱音らしいな。」
手元を見た弥太郎が微笑んだ。自分の手に持つものを見る。普段、見慣れているものだった。あたしが弓道で使っている弓だ。ただ、普段と違うのは実践用だと感じる矢の質感。ずっしりとした神秘的な輝きがそれを感じさせた。朱色の弓がこの世とそうでない世界の狭間を思わせる。
「これ…」
「説明はあとで。」
弥太郎を見ると弥太郎はポンポンとあたしの頭を撫でた。
「んじゃ、あいつもそろそろいるだろうし。武道場の方、行くぞ。」
「あいつ?」
「そ。だーいじょうぶだって。朱音は1人じゃねぇよ。きっと。」
あと、それ仕舞えよ、こうやって、弥太郎があたしの手を握り、振った。すると不思議なことに弓矢が消えた。それを見た弥太郎がくるりと周り、歩き出した。あたしは自分の何かが変わったことを感じた。変わらなければいけない。心強いような心細いような。そんな気持ちで弥太郎の後ろを追った。