「なら、明日の朝一。魄龍邸に行ってくれ」
冷たく、突き放すように言われた。明日に成れば、互いに赤の他人となれるのだとでも言う様に。この屋敷、俺の神域から出ていけとでも言う様に。
「…うん、分かった」
やっぱり、駄目だ。私じゃ、駄目だ。
「人の子よ。現世に戻るか、幽世に留まるか。その心は定まったか」
私の十六の誕生日。昨日、白菊に言われた通り、私はここらを取り締まる神—魄龍と言うらしい—の下へ来ていた。流石は長といったところだ、白菊の神域より広く、美しく、そして空気が澄んでいる。ここに長くいれば、彼を忘れられるだろうか。
「……沢山、悩みました。ここに来て四年間、はっきりとした答えが出た事はありませんでした」
「…ほう」
「でも、先の戦いで、思い知ったんです。私は——彼の隣には、いられない」
一呼吸置き、魄龍様は口を開いた。その面持ちは、酷く辛そうな、酷く痛そうな顔だった。流石親友と言うべきか、その顔はかつての白菊と似ていた。まるで、申し訳ないとでも言う様に。
(貴方が、そんな顔する必要はないのに)
「…では、如何する」
一呼吸おいて、私が決めた決断を述べる。
愛があれば立場なんて関係ないとか、愛があれば運命を覆す事ができるとか。そんな事は、無いんだと思う。現実は、そんなに優しくなんてなくって、そんなに甘くできてはいないんだって、前の戦いで、ようやく気が付いた。
「私、帰ります。帰らせて、下さい」
愛があっても、駄目なものは駄目なんだ。人と神は、私と白菊は、きっと、否、絶対に釣り合わない。
「…そうか。それが、最後の決断と言う事で、よろしいか」
「…は、い。大丈夫、です」
視界が歪んで、畳が濡れて、肩が震えて、声が震えて、頭が真っ白になる。
—多分、記憶は消される。全部、忘れてしまう。
それは、嫌だ。忘れたくない、絶対に、忘れたくない。けど、世界はそんなに甘くない。私が何と言っても、理が変わる事は、無い。
「…帰るのならば、お主から、此処で過ごした全ての記憶が消される。それでも、構わぬか」
「……ッはい。分かって、ますから」
知っている。と言うか、そもそも神との生活の記憶がそのままある状態で現世に帰るなんて、危険でしかない。巷では、式神と結婚した神がいる。でも、人と結婚した神の話は、一度だって聞いた事がない。前例がないのだから、叶う可能性の方が、低いだろう。
「この想いがあればいいなんて、考えてた時期もあった。でも、愛してたって、どうしたって駄目なんだ。先日だって、守られてなきゃ、きっと死んでた。ここで残ったって、上手くいく保証なんて、ない、でしょう?」
「…お主、あれの事は、知っているか?」
「禁忌、犯した上位格、ですか」
魄龍様は、何かに気付いたように言葉を詰まらせる。外では、私が死んだときと同じ、雪がさんさんと降っていた。その真っ白なスクリーンみたいな景色の中に、ぼんやりと人影が見えた気がした。
「そ、うか」
「あれは、パラレルワールド…平行世界の私、だと思ってます。どうやったかは、分からないけれど」
「…過去の、どこかの時点で分岐した、可能性の世界、か。こんな半端な世だ、不可思議な事が起こっても不思議ではないな」
私にとって、此処にいる理由は、彼と共にいる為の手段の一つだというだけで、そこまで重要ではなかった。
長い夜が明けて、恋が終わるのを、冷めてしまうのを待っていた。その待ち時間で、知った。彼の視線の先には誰かがいる。いつからかは分からないけれど。庭先を見る時に。手紙を読む時に。そして、私の中に。私の中に、確かにいる。
「ここに留まってしまえば、人としての私は死んでしまう。この身を繋いだのは白菊だから、そんな簡単に、消したくない。忘れても、生きて、生きて生きて、生き抜きたい。それがきっと、恩返しになる」
「…花は散り、夢は覚め、露は落ちる。なぜなら、そういう運命だからだ」
「…はい」
「……酷な事ではあるが、受け入れるしかあるまい。時代が、環境が悪かった。お主は何も悪くない」
パラレルワールドの私は、きっとここで神に成る事を決めたのだろう。でも、きっとそれでも、いずれは崩れ去ってしまうのだと思う。それを知った上で、神に成って、どういうわけか私に会いにやってきた。
私には、その運命を受け入れる覚悟がない。同じ“私”だとは思えない、この決意の差。それは、いつも見ていた夢で、私が捨てた可能性。それを、ただ“あの人”が拾い上げただけ。ただ、それだけなんだ。
「…場所を移動しよう。決断が揺るがぬうちに、戻った方が良い」
「……はい、わかりました」
魄龍様のすぐ後ろについて、二人で移動する。どこかは分からないけれど、帰る為の儀式の場所まで移動する時、また同じ視線を感じた。しかしその先には誰も居ない。誰も居ないけど、誰かがいる。あの時と同じ、そして先の儀式に感じた気配と同じもの。それは、魄龍様も気が付いたらしい。
「話しても構わぬが…」
「……少しだけ」
魄龍様の言いかけたこと、少しだけ分かる気がする。けれど、もう決めた事。結末がどうなろうと、全て受け入れる心づもりだ。
「…阻止しに、来たの?」
無。
「何か、言いに来たの?」
無。
「分かってるでしょ。釣り合わないんだよ。釣り、合えないんだよ」
無。
「……ねぇ、覚えてる?あいつの事。幼馴染の男の子」
少しだけ、空気が震えた。
「…会えるか、分かんないけど。乗り換えるとか、そういう意味じゃないけど。私を支えてくれる人は、現世にもいるの。再会できなかったとしても、きっと出会えるから」
さぁっと、小雪が散った。それが、答えだ。
「私は、貴女を止める権利なんてない。貴女は私で、私は貴女だから、気持ちも分かるから……さようなら、お幸せに」
「……行くぞ、砌」
「現世に帰る為には、幽世の器を消さねばならん」
「つまり、ここで自殺しろ、と?」
「…選べ。自刃か、毒か、吊るか——俺に、飛ばされるか」
式神が、お盆に短刀と液体の入った盃と帯を乗せて持ってきた。その中には、椿さんも居た。そして、魄龍様はご自身の腰に下がった太刀の柄を撫でる。つまり、そういう事だ。
「…服毒を、勧める。苦しみは一瞬、眠る様に逝ける」
「…斬首は、魄龍様のお手を穢してしまうから、嫌です。吊るのは…私、水泳やってたので、呼吸が続いてしまうから、駄目」
そういうと、状況を察したのか帯を持った式が下がる。残りは、椿さんともう一人。
「……苦しいのは、嫌です」
「ならば、毒を」
「でも、安らかに終わるのも、嫌」
魄龍様は、混乱したように黙り込んだ。
きっと、神様にこの想いは理解できないだろう。だって、私だって理解できてない。
「長年、白菊と過ごしたあの日々を、静かに忘れるなんて、嫌です」
「何故。何故、わざわざ苦しむ方を、」
「だってっ!私だって忘れたくないっ!!」
再び、涙がとめどなく溢れる。でも、それを拭う気力が湧かなかった。
脳裏に浮かぶのは、愛おしくて、懐かしい、アニメの中みたいにありえない日常。何より大切で、何より幸せだったあの日々。
私はあの手を、あの、暖かく大きな手を、どうしたって守る事は、出来ない。
「忘れたくないから、これは私が身の程もわきまえずに行動したバチが当たっただけだから、楽になるのは、お門違いだって、思う」
「お主がそこまで気を遣うことは無い。お主とてまだ子供、過ちくらいいくらでも、」
「私が、そうしたいんです。自分で自分を許せないから、そうするんです。だから——短刀、下さい、椿さん」
「ッ…承知、致しました」
毒皿を持った式神が下がり、恐る恐るという感じで椿さんが前に出た。捧げられた短刀を手に取り、抜刀する。刃文が、素人でもわかるほど美しい。私の自刃に使うのが、勿体無い逸品だ。
「…分かった。砌、最期に何か、言い遺したい事は?」
「…夜もすがら 契しことを忘れずに 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき、と」
『私が死んだなら、貴方はあの夜の約束を覚えておいてくれるでしょうか。もし覚えておいてくれるのなら、貴方はどんな顔をして泣くのでしょう。その涙の色が見たいものです』
一条天皇の妻である定子が、二十四歳で亡くなる直前に遺した歌。定子が亡くなった後に発見され、一条天皇は生涯彼女を引きずったという。
「奴は、忘れんよ。それこそ、消滅するその瞬間まで引きずる。白菊とは、そういう男だ」
「分かってますよ。だからこそ、です。忘れて他の方と幸せになって欲しいとも思いますけど、やっぱり忘れて欲しくないから」
私は今、十六歳。同じ歳だったあの幼馴染は、きっともう村を出て高校に進学している事だろう。私も、高校生になったら上京して、都会の学校に進学すると約束していた。いち早くあの狂った村から、狂った村人から離れてしまいたかったからだ。それでも、此処に留まれたのなら、愛しい人といられて、大嫌いなあの村にも帰らなくて済むと、一瞬でも思ってしまった。どちらに転んだって、自分のエゴから生まれた判断には違いなかった。
『ごめんみきりっ!卒業したのに、部員のやつらがあいさつしたいって。悪いけど先に帰って。帰ったら、中学の予習、一緒にやろ!』
でも、ここで此処に留まると決意してしまえば、あの子との約束を破ってしまう事になる。もしかしたら、もうその約束を忘れてしまっているかもしれないけれど、白菊と恋人に成れないから代わりに、と言うわけでは決してないけれど。
「何故、白菊に好意を抱いた?結果は、分かって居ろうに」
「似てたんですよ。幼馴染と」
「…幼馴染?」
「はい。あの集落で、唯一の味方だった……多分私、彼に片思いしてたのかもしれない。だから、彼とそっくりな白菊を重ね、恋をしてしまった……クズですよね、私」
「…お主とてまだ子供。そのような事くらいよくある事さ……現世に帰ったなら、お主の人生の安定を保証する。何もできず、見ている事しかできない愚かな爺の償いだと、受け入れてくれ」
「……ありがとう、ございます」
魄龍様は、呆然と涙を流す椿さんを連れ、部屋を出た。
その場に正座して、目を閉じる。
(帰ったら、どうなるんだろ。記憶、消されるって言ってたし)
そもそも、同じ時代の同じ場所に戻れるかもわからない。何も知らない、自分の事も分からない様な場所で、生きて行けるだろうか。
(こんな思いするくらいなら、あの時、あいつに無理言ってクラブ終わるまで待ってたら良かったかなぁ)
後悔したって、もう遅い。あの時の私は幼くて、冷静な判断ができなかった。言い訳にしか、ならないけれど。間違いに気付くのはいつだって、全部失敗して、全部失って、たった一人で世界に取り残されたと気付いた時。全部終わった時に、後悔が、罪悪感が湧き水の様にとめどなく溢れる。
「……バイバイ、優しくて厳しい、矛盾した理想の世界」
喉に小さく冷たさが伝う。天高く手を掲げ、鉄に映る己を見る。思い切り手を引き寄せる。首に灼熱の如き熱が伝う。世界が揺れる。視界に、揺れる銀糸と散る紅が映る。世界が九十度曲がる。少しずつ視界が黒く染まる。意識がもうろうとする。空気が暖かい。空気が冷たい。体中が熱い。体中が寒い。
—————————————
私—和泉美輝は、真っ白な病室から外を眺めていた。特にこれと言った理由はない。
「…暇」
スマホはある。が、ほとんど触ったことが無いから使えない。SNSなんてもってのほかわからない。本も読んだ。しかしそれも一時の慰みにしかならなかった。退屈すぎて死にそうだ。
目が覚めてから、二ヶ月と少し。なんと私は、四年間もの間行方不明で、三ヶ月前に山道で、血塗れになった状態で見つかったらしい。しかし、私に外傷は一つもなく、でもその血は確かに私のDNAと一致したらしい。よく理解できないので忘れる事にした。
『…み、き?美輝、美輝ぃ!!分かるか、俺が、分かるかッ!?』
二ヶ月前に目が覚めて、一番に視界に入ったのは、四年前よりも大人になった幼馴染—菊池白羽—の姿だった。
『し、ら……』
『喋んな!ああと、ええと、ナースコールッ!』
ビックリするほど取り乱して、ナースコールを押しまくる幼馴染の姿に、酷く混乱したのを覚えている。
(あれ、白羽だよね?なんであんなに成長して…?それに、ここは…?)
暫くして、息を切らした看護師と医師が到着し、よくわからない検査を受け、その日は終わった。記憶よりも随分と老いた白羽のお父さんが、号泣する白羽の背を撫で、彼のお母さんが私の手を取り「良かった、良かった」と泣いていた。やっぱり理解できなかった。
その時に、白羽のお父さんから聞いた話だと、私は小学校の卒業式の下校中、村の老人たちに拉致されてそのまま生贄と称し池に突き落とされたそうだ。いや、そこまでなら覚えてる。問題はそこから先の一切の記憶がないという事。なんとなく、こう、イメージとしてなら分かるのだが、それを言語化できるまで鮮明なわけではない。まぁつまり覚えていない。
だけど、失踪前の記憶や、一般教養こそないものの年齢層の振る舞いはなぜか覚えていた。医者曰く、失踪中に何らかのショッキングな出来事があり、無意識下で自分の身を守るためにその四年間の記憶を抹消したのではないかと言われた。
「まぁ、あまり珍しい事でもないよ。消してしまいたいほどに辛い記憶だったのかもね」
「…そ、ですか」
「どうしたの?」
「先生…私、えぇっと、」
その時、病室に乾いた音が響いた。誰か来たみたいだ。
「みきり、今日も見舞いに…あ、診察中…」
「菊池君か。いいや、今日の問診はもう終わったよ」
「そーですか。ほれみきり、おはぎ」
「わぁ!おばさんのおはぎだぁ!」
でも、記憶を無くしてもあまり不安はなかった。そもそも何を失ったのか自体分からないのだから、不安も何もないだろう。それに私は、無に対して悲しみや喪失感なんかを抱けるほどのロマンチストでもない。目を覚ましてそれなりに動けるようになった今は、白羽と白羽の両親が傍でずっと支え続けてくれたからあるもの。記憶なんかよりそっちの方が大切だ。
「…そーいやさ、みきりってあの村の最期、聞いた?」
「ん、聞いた聞いた。みんな逮捕されたんだってね。ありがと、白羽」
「はは、俺は何もしてないよ。むしろ親父の功績な」
あの村は、私が見つかった後に白羽のお父さんが不審に思い、全てのいざこざを調べに調べつくして情報が十分に集まった上で警察に通報してくれたらしい。その時にほとんど顔も声も何なら名前さえ憶えていない両親と、その村の上層部の爺たちも仲良く檻にぶち込まれた、と。
「で?なんでまたいきなり」
「母さんと親父がさ、みきりを養子に迎えたいって。俺も、みきりと一緒にいたいし」
「…え?」
「だから、一緒に暮らそう?流石にさ、高校生で親いねぇのはやべぇし。一緒に暮らせば、俺がお前を守れる」
唐突に話されて、頭がまだ追い付いていない。四年間も会っていなかったから、初めの内は白羽との距離感がつかめなかった。それもここ数日で直ぐに取り戻し、今では四年前の時と同じように関わっている。のに、あいつ、そんな事言わないようなやつなのに。この四年間で、なんでこんなに変わったんだろう。
「別に、うち広いし。親父がさ、「もっと早く動くべきだった」って言って聞かねぇの」
「迷惑になるでしょ。退院したら施設に入るで良くない?」
「学校行く金は?四年もいなかったんだからさ、特別処置とか必要でしょ」
「……お願い、できますか」
「はい、お願いされます」
大きな口を開けて笑いながら、おはぎが入っているのであろう箱を開ける白羽。なんだが、この会話もどこか懐かしい気がしてならなかった。
「…それにさ、俺、お前の事好きなんだよね」
「…ん?」
もちもちとおはぎを頬張る口の動きが止まる。思考が追い付かなくて、目の前にいる白羽を見つめた。
「ガキの頃からさ、片思い。中学入ったら告ろうとか思ってたんだけど、あんなことになっちまったし」
「えぇっと?なんかの、罰ゲーム?」
キョトンとした顔をこちらにむけて、その後にふふっと笑った。
「ううん、本音。冗談抜きで、この四年間告られたこともあるけど、全部フッた。一生みきりだけ想って生きようって決めてたからさ」
「お、うん…?」
「返事、別に今じゃなくていいさ。ま、菊池家の養子になるんだし、これって実質同棲?」
大口を開けて笑う白羽に、まだまだ思考は追い付く気配がない。
(白羽が、私を好き…?)
多分、嬉しい、んだと思う。だけど、どこか心の中にわだかまりがあるような気がしてならなかった。
その違和感を拭うべく、白羽におはぎのおかわりを要求する。ん、と皿を突き出せば、はいはい、と言っておはぎをよそってくれた。
「はい、おはぎ」
「ん」
パクリと一口。小豆と砂糖の優しい甘さの後に、もち米のもちもちとした食感が来る。
『美味いな。甘味処で売ってんのが可哀想に思うくらいだ』
「ッ!?」
振り返っても、誰も居ない。聞こえた声は、白羽によく似て、白羽より少し大人びた、——の声だった。
—誰の?
「みきりッ!?どうした、気分悪くなったか!?ああ、俺が変な事言ったから、」
「ま、待って、大丈夫だから。ちょっと変なとこに入っちゃっただけだから」
「そ、そうか?なら、良いんだけど」
今、声が聞こえた気がした。音を認識できたのは一度のみ。しかし、脳内で、認識できない音で何度も何度も聞こえてきた。まるで、日常を思い出す様に。
「は、ぁ、れ…?」
(—は——の—と、——き—ょ)
(はは、———ぃ——な)
脳裏に映るのは、いつも優しい雰囲気の、———の姿。
—だれの、すがた?
知っている。私は、その姿を知っている。
クラリ、と一瞬めまいがする。頭に、優しい刺激が走る。思い出すな、とでも言う様に。
「みきり?美輝ッッ!!」
白羽が、叫んでいる。私に、叫んでいる。私の名前を、呼んでいる。
『———』
なのに、脳裏に浮かぶのは、私じゃない私の名前を呼ぶ、私の知らない、けれどどこか懐かしい、それなのに、顔も姿も何もかも思い出せない、辛うじて男性だと分かる誰かだった。
————————————
お、久しぶりだな。村から出て何年経った?今じゃ、ごぉるでんうぃーく?とか言うのじゃなきゃ帰ってこないだろ?御母堂が心配してるぞ?せめて文くらいは出してやれよ。
で?最近の調子はどう?こっちでも仕事熱心だったからね。あまり無理はしないように。まさか、「仕事は忙しいうちが華」とか言い出してはいないだろうね?
ん、そっか。いつの時代も、人の子っつーのは大変だなぁ。いっつもお上の顔色伺わなくちゃいけないなんてねぇ。かくいう俺も、最近じゃ人の子は火をあまり使わねぇから、そろそろ魄龍みたく隠居生活に入るかもしれないんだよなぁ。仕事は大変だけど、いざなくなると寂しいもんだよ。
そういえば、近場の甘味処の女将がな、お前のおはぎを再現して売ってたんだよ。これが美味いのなんの。ま、お前のには叶わないがな。しょっちゅう友神と一緒にいってるよ。燐も連れて、皆で駄弁りながら食べるの、良いぞ?
嗚呼、そういえば何の報告しに来たんだ?驚いたぜ?ご丁寧に神楽舞やら雅楽披露してくれて、祝詞まであげてくれてさ。大人数、しかも大勢って。一体全体何事だよ。
「この度、私、菊池白羽と、」
「私、和泉美輝が結婚しますことを、氏神様にお伝えしたく、馳せ参じました」
………え、あー結婚?おめでとさん。良かったなぁ、やっと幸せになれるのか。
いやぁ、あんなお転婆な悪戯娘が男の北の方になるのか。想像しずれぇなぁ。なんか、似合わないっつか、違和感?
「…なんか滅茶苦茶失礼な事言われた気がする」
「こら、美輝ちゃんッ!神様の御前でしょ!」
「お義母さん…だってぇ」
ははは、ごめんて。短い間だったけど、昔っから傍にいたからな。急に結婚って言われたって、想像できないのも仕方なくないか?仲の良い男子がいるってのは魄龍から聞いてたが、まっさか想い人だったとは!いやぁ、目出度い目出度い。娘を見送る父親さながらの気分だよ。
で?挙式はどこで?近年じゃ、基督のとこで挙げんのが一般的なんだっけ?俺も見に行けるかな~。
「つきましては、婚姻の儀を貴方様—白菊様の御膝元で挙行する事を、お許し頂きたく」
お!俺んとこでやんのか。そりゃそうだよな、お相手さんの父君、俺んとこの神主やってくれてるもんな。お祝い、盛大にっと。菊じゃあ、縁起悪いからな。確か外ツ国では、祝いの場で送る花は……これ、だったかな。
ぶわぁぁ
「きゃあ!?こ、これって…」
「白い、バラ…?」
当日は俺も参列しようか。友神と魄龍と椿さんに燐も連れて、日ノ本の国一幸せな夫婦となる様に加護も与えてやろう。ははっ、格下とは言え、俺とて神の末席に座す者だ。未来永劫、苦労もなく絶望もなく、最期の眠りまで笑顔の絶えない夫婦、否、家族に成れるように。
「ねぇ、白羽?神様ってお祝いに降りてくれないのかなぁ。御神体取り出したら来てくれる?」
「流石にそれは見切り発車すぎるって。それに罰当たりだろ」
……好いた女の前だ。多少の我儘くらい、聞いてやるのが筋ってもんだよな。
ちりん、ちりん——………
「ッ今度は何!?」
「鈴の音…まさか」
「お、親父?んで、頭下げて、」
「白羽、美輝ちゃん。お前たちも頭を下げなさい。白菊様が降臨なされ、」
『その必要はない』
「へ、?」
あの頃と変わらない顔で、此方を凝視する砌——美輝、だったかな。彼女に向けて、微笑む。と言っても、布があるから伝わらないだろうが。っつーか、仮にも神の前で真名を連呼するってどうなのよ……この辺りじゃ悪用する奴はいないけどさ。
『面を上げよ…嗚呼、まさか君が婚姻するとはな。心より祝福しよう』
「あ、貴方、一体…」
『俺の名は、白菊。ここで主神をしている』
「え、」
心拍数が乱れているのが感じられる。無論、俺の。一度、深呼吸をしよう。そして、なるべく直ぐに下がろう。
『時間がないのでな。手短に』
嘘だ。時間なんぞ吐いて捨てる程ある。でも、ここで長居してしまえば、抑えが効かなくなる気がした。
『———結婚おめでとう、砌。どうか、幸せに』
「…砌?ちょ、ちょっと待っ、」
ちりん——………
一言二言、言葉を交わして直ぐに帰った。あのまま、あの場にいれば、力ずくでも奪い返してしまうと思ったからだ。
「奪い返す、か。砌は、誰のものでもないのにな」
嗚呼いや、もうあの男のものになったのか。
「砌、—————」
その言葉は、心の奥底にしまっておく。出会ったその時から、こうなる事は決まっていたのだから。それに、俺が望んだ結末でも、あるのだから。
「俺、格下はいえど神だからなぁ。俺が特別に守護神にでもなってやろうか。俺はいつでも、お前の、お前たちの声が届く様に、すぐ傍にいてやるからな」
畳に零した液の正体には、気付かないふりをした。
冷たく、突き放すように言われた。明日に成れば、互いに赤の他人となれるのだとでも言う様に。この屋敷、俺の神域から出ていけとでも言う様に。
「…うん、分かった」
やっぱり、駄目だ。私じゃ、駄目だ。
「人の子よ。現世に戻るか、幽世に留まるか。その心は定まったか」
私の十六の誕生日。昨日、白菊に言われた通り、私はここらを取り締まる神—魄龍と言うらしい—の下へ来ていた。流石は長といったところだ、白菊の神域より広く、美しく、そして空気が澄んでいる。ここに長くいれば、彼を忘れられるだろうか。
「……沢山、悩みました。ここに来て四年間、はっきりとした答えが出た事はありませんでした」
「…ほう」
「でも、先の戦いで、思い知ったんです。私は——彼の隣には、いられない」
一呼吸置き、魄龍様は口を開いた。その面持ちは、酷く辛そうな、酷く痛そうな顔だった。流石親友と言うべきか、その顔はかつての白菊と似ていた。まるで、申し訳ないとでも言う様に。
(貴方が、そんな顔する必要はないのに)
「…では、如何する」
一呼吸おいて、私が決めた決断を述べる。
愛があれば立場なんて関係ないとか、愛があれば運命を覆す事ができるとか。そんな事は、無いんだと思う。現実は、そんなに優しくなんてなくって、そんなに甘くできてはいないんだって、前の戦いで、ようやく気が付いた。
「私、帰ります。帰らせて、下さい」
愛があっても、駄目なものは駄目なんだ。人と神は、私と白菊は、きっと、否、絶対に釣り合わない。
「…そうか。それが、最後の決断と言う事で、よろしいか」
「…は、い。大丈夫、です」
視界が歪んで、畳が濡れて、肩が震えて、声が震えて、頭が真っ白になる。
—多分、記憶は消される。全部、忘れてしまう。
それは、嫌だ。忘れたくない、絶対に、忘れたくない。けど、世界はそんなに甘くない。私が何と言っても、理が変わる事は、無い。
「…帰るのならば、お主から、此処で過ごした全ての記憶が消される。それでも、構わぬか」
「……ッはい。分かって、ますから」
知っている。と言うか、そもそも神との生活の記憶がそのままある状態で現世に帰るなんて、危険でしかない。巷では、式神と結婚した神がいる。でも、人と結婚した神の話は、一度だって聞いた事がない。前例がないのだから、叶う可能性の方が、低いだろう。
「この想いがあればいいなんて、考えてた時期もあった。でも、愛してたって、どうしたって駄目なんだ。先日だって、守られてなきゃ、きっと死んでた。ここで残ったって、上手くいく保証なんて、ない、でしょう?」
「…お主、あれの事は、知っているか?」
「禁忌、犯した上位格、ですか」
魄龍様は、何かに気付いたように言葉を詰まらせる。外では、私が死んだときと同じ、雪がさんさんと降っていた。その真っ白なスクリーンみたいな景色の中に、ぼんやりと人影が見えた気がした。
「そ、うか」
「あれは、パラレルワールド…平行世界の私、だと思ってます。どうやったかは、分からないけれど」
「…過去の、どこかの時点で分岐した、可能性の世界、か。こんな半端な世だ、不可思議な事が起こっても不思議ではないな」
私にとって、此処にいる理由は、彼と共にいる為の手段の一つだというだけで、そこまで重要ではなかった。
長い夜が明けて、恋が終わるのを、冷めてしまうのを待っていた。その待ち時間で、知った。彼の視線の先には誰かがいる。いつからかは分からないけれど。庭先を見る時に。手紙を読む時に。そして、私の中に。私の中に、確かにいる。
「ここに留まってしまえば、人としての私は死んでしまう。この身を繋いだのは白菊だから、そんな簡単に、消したくない。忘れても、生きて、生きて生きて、生き抜きたい。それがきっと、恩返しになる」
「…花は散り、夢は覚め、露は落ちる。なぜなら、そういう運命だからだ」
「…はい」
「……酷な事ではあるが、受け入れるしかあるまい。時代が、環境が悪かった。お主は何も悪くない」
パラレルワールドの私は、きっとここで神に成る事を決めたのだろう。でも、きっとそれでも、いずれは崩れ去ってしまうのだと思う。それを知った上で、神に成って、どういうわけか私に会いにやってきた。
私には、その運命を受け入れる覚悟がない。同じ“私”だとは思えない、この決意の差。それは、いつも見ていた夢で、私が捨てた可能性。それを、ただ“あの人”が拾い上げただけ。ただ、それだけなんだ。
「…場所を移動しよう。決断が揺るがぬうちに、戻った方が良い」
「……はい、わかりました」
魄龍様のすぐ後ろについて、二人で移動する。どこかは分からないけれど、帰る為の儀式の場所まで移動する時、また同じ視線を感じた。しかしその先には誰も居ない。誰も居ないけど、誰かがいる。あの時と同じ、そして先の儀式に感じた気配と同じもの。それは、魄龍様も気が付いたらしい。
「話しても構わぬが…」
「……少しだけ」
魄龍様の言いかけたこと、少しだけ分かる気がする。けれど、もう決めた事。結末がどうなろうと、全て受け入れる心づもりだ。
「…阻止しに、来たの?」
無。
「何か、言いに来たの?」
無。
「分かってるでしょ。釣り合わないんだよ。釣り、合えないんだよ」
無。
「……ねぇ、覚えてる?あいつの事。幼馴染の男の子」
少しだけ、空気が震えた。
「…会えるか、分かんないけど。乗り換えるとか、そういう意味じゃないけど。私を支えてくれる人は、現世にもいるの。再会できなかったとしても、きっと出会えるから」
さぁっと、小雪が散った。それが、答えだ。
「私は、貴女を止める権利なんてない。貴女は私で、私は貴女だから、気持ちも分かるから……さようなら、お幸せに」
「……行くぞ、砌」
「現世に帰る為には、幽世の器を消さねばならん」
「つまり、ここで自殺しろ、と?」
「…選べ。自刃か、毒か、吊るか——俺に、飛ばされるか」
式神が、お盆に短刀と液体の入った盃と帯を乗せて持ってきた。その中には、椿さんも居た。そして、魄龍様はご自身の腰に下がった太刀の柄を撫でる。つまり、そういう事だ。
「…服毒を、勧める。苦しみは一瞬、眠る様に逝ける」
「…斬首は、魄龍様のお手を穢してしまうから、嫌です。吊るのは…私、水泳やってたので、呼吸が続いてしまうから、駄目」
そういうと、状況を察したのか帯を持った式が下がる。残りは、椿さんともう一人。
「……苦しいのは、嫌です」
「ならば、毒を」
「でも、安らかに終わるのも、嫌」
魄龍様は、混乱したように黙り込んだ。
きっと、神様にこの想いは理解できないだろう。だって、私だって理解できてない。
「長年、白菊と過ごしたあの日々を、静かに忘れるなんて、嫌です」
「何故。何故、わざわざ苦しむ方を、」
「だってっ!私だって忘れたくないっ!!」
再び、涙がとめどなく溢れる。でも、それを拭う気力が湧かなかった。
脳裏に浮かぶのは、愛おしくて、懐かしい、アニメの中みたいにありえない日常。何より大切で、何より幸せだったあの日々。
私はあの手を、あの、暖かく大きな手を、どうしたって守る事は、出来ない。
「忘れたくないから、これは私が身の程もわきまえずに行動したバチが当たっただけだから、楽になるのは、お門違いだって、思う」
「お主がそこまで気を遣うことは無い。お主とてまだ子供、過ちくらいいくらでも、」
「私が、そうしたいんです。自分で自分を許せないから、そうするんです。だから——短刀、下さい、椿さん」
「ッ…承知、致しました」
毒皿を持った式神が下がり、恐る恐るという感じで椿さんが前に出た。捧げられた短刀を手に取り、抜刀する。刃文が、素人でもわかるほど美しい。私の自刃に使うのが、勿体無い逸品だ。
「…分かった。砌、最期に何か、言い遺したい事は?」
「…夜もすがら 契しことを忘れずに 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき、と」
『私が死んだなら、貴方はあの夜の約束を覚えておいてくれるでしょうか。もし覚えておいてくれるのなら、貴方はどんな顔をして泣くのでしょう。その涙の色が見たいものです』
一条天皇の妻である定子が、二十四歳で亡くなる直前に遺した歌。定子が亡くなった後に発見され、一条天皇は生涯彼女を引きずったという。
「奴は、忘れんよ。それこそ、消滅するその瞬間まで引きずる。白菊とは、そういう男だ」
「分かってますよ。だからこそ、です。忘れて他の方と幸せになって欲しいとも思いますけど、やっぱり忘れて欲しくないから」
私は今、十六歳。同じ歳だったあの幼馴染は、きっともう村を出て高校に進学している事だろう。私も、高校生になったら上京して、都会の学校に進学すると約束していた。いち早くあの狂った村から、狂った村人から離れてしまいたかったからだ。それでも、此処に留まれたのなら、愛しい人といられて、大嫌いなあの村にも帰らなくて済むと、一瞬でも思ってしまった。どちらに転んだって、自分のエゴから生まれた判断には違いなかった。
『ごめんみきりっ!卒業したのに、部員のやつらがあいさつしたいって。悪いけど先に帰って。帰ったら、中学の予習、一緒にやろ!』
でも、ここで此処に留まると決意してしまえば、あの子との約束を破ってしまう事になる。もしかしたら、もうその約束を忘れてしまっているかもしれないけれど、白菊と恋人に成れないから代わりに、と言うわけでは決してないけれど。
「何故、白菊に好意を抱いた?結果は、分かって居ろうに」
「似てたんですよ。幼馴染と」
「…幼馴染?」
「はい。あの集落で、唯一の味方だった……多分私、彼に片思いしてたのかもしれない。だから、彼とそっくりな白菊を重ね、恋をしてしまった……クズですよね、私」
「…お主とてまだ子供。そのような事くらいよくある事さ……現世に帰ったなら、お主の人生の安定を保証する。何もできず、見ている事しかできない愚かな爺の償いだと、受け入れてくれ」
「……ありがとう、ございます」
魄龍様は、呆然と涙を流す椿さんを連れ、部屋を出た。
その場に正座して、目を閉じる。
(帰ったら、どうなるんだろ。記憶、消されるって言ってたし)
そもそも、同じ時代の同じ場所に戻れるかもわからない。何も知らない、自分の事も分からない様な場所で、生きて行けるだろうか。
(こんな思いするくらいなら、あの時、あいつに無理言ってクラブ終わるまで待ってたら良かったかなぁ)
後悔したって、もう遅い。あの時の私は幼くて、冷静な判断ができなかった。言い訳にしか、ならないけれど。間違いに気付くのはいつだって、全部失敗して、全部失って、たった一人で世界に取り残されたと気付いた時。全部終わった時に、後悔が、罪悪感が湧き水の様にとめどなく溢れる。
「……バイバイ、優しくて厳しい、矛盾した理想の世界」
喉に小さく冷たさが伝う。天高く手を掲げ、鉄に映る己を見る。思い切り手を引き寄せる。首に灼熱の如き熱が伝う。世界が揺れる。視界に、揺れる銀糸と散る紅が映る。世界が九十度曲がる。少しずつ視界が黒く染まる。意識がもうろうとする。空気が暖かい。空気が冷たい。体中が熱い。体中が寒い。
—————————————
私—和泉美輝は、真っ白な病室から外を眺めていた。特にこれと言った理由はない。
「…暇」
スマホはある。が、ほとんど触ったことが無いから使えない。SNSなんてもってのほかわからない。本も読んだ。しかしそれも一時の慰みにしかならなかった。退屈すぎて死にそうだ。
目が覚めてから、二ヶ月と少し。なんと私は、四年間もの間行方不明で、三ヶ月前に山道で、血塗れになった状態で見つかったらしい。しかし、私に外傷は一つもなく、でもその血は確かに私のDNAと一致したらしい。よく理解できないので忘れる事にした。
『…み、き?美輝、美輝ぃ!!分かるか、俺が、分かるかッ!?』
二ヶ月前に目が覚めて、一番に視界に入ったのは、四年前よりも大人になった幼馴染—菊池白羽—の姿だった。
『し、ら……』
『喋んな!ああと、ええと、ナースコールッ!』
ビックリするほど取り乱して、ナースコールを押しまくる幼馴染の姿に、酷く混乱したのを覚えている。
(あれ、白羽だよね?なんであんなに成長して…?それに、ここは…?)
暫くして、息を切らした看護師と医師が到着し、よくわからない検査を受け、その日は終わった。記憶よりも随分と老いた白羽のお父さんが、号泣する白羽の背を撫で、彼のお母さんが私の手を取り「良かった、良かった」と泣いていた。やっぱり理解できなかった。
その時に、白羽のお父さんから聞いた話だと、私は小学校の卒業式の下校中、村の老人たちに拉致されてそのまま生贄と称し池に突き落とされたそうだ。いや、そこまでなら覚えてる。問題はそこから先の一切の記憶がないという事。なんとなく、こう、イメージとしてなら分かるのだが、それを言語化できるまで鮮明なわけではない。まぁつまり覚えていない。
だけど、失踪前の記憶や、一般教養こそないものの年齢層の振る舞いはなぜか覚えていた。医者曰く、失踪中に何らかのショッキングな出来事があり、無意識下で自分の身を守るためにその四年間の記憶を抹消したのではないかと言われた。
「まぁ、あまり珍しい事でもないよ。消してしまいたいほどに辛い記憶だったのかもね」
「…そ、ですか」
「どうしたの?」
「先生…私、えぇっと、」
その時、病室に乾いた音が響いた。誰か来たみたいだ。
「みきり、今日も見舞いに…あ、診察中…」
「菊池君か。いいや、今日の問診はもう終わったよ」
「そーですか。ほれみきり、おはぎ」
「わぁ!おばさんのおはぎだぁ!」
でも、記憶を無くしてもあまり不安はなかった。そもそも何を失ったのか自体分からないのだから、不安も何もないだろう。それに私は、無に対して悲しみや喪失感なんかを抱けるほどのロマンチストでもない。目を覚ましてそれなりに動けるようになった今は、白羽と白羽の両親が傍でずっと支え続けてくれたからあるもの。記憶なんかよりそっちの方が大切だ。
「…そーいやさ、みきりってあの村の最期、聞いた?」
「ん、聞いた聞いた。みんな逮捕されたんだってね。ありがと、白羽」
「はは、俺は何もしてないよ。むしろ親父の功績な」
あの村は、私が見つかった後に白羽のお父さんが不審に思い、全てのいざこざを調べに調べつくして情報が十分に集まった上で警察に通報してくれたらしい。その時にほとんど顔も声も何なら名前さえ憶えていない両親と、その村の上層部の爺たちも仲良く檻にぶち込まれた、と。
「で?なんでまたいきなり」
「母さんと親父がさ、みきりを養子に迎えたいって。俺も、みきりと一緒にいたいし」
「…え?」
「だから、一緒に暮らそう?流石にさ、高校生で親いねぇのはやべぇし。一緒に暮らせば、俺がお前を守れる」
唐突に話されて、頭がまだ追い付いていない。四年間も会っていなかったから、初めの内は白羽との距離感がつかめなかった。それもここ数日で直ぐに取り戻し、今では四年前の時と同じように関わっている。のに、あいつ、そんな事言わないようなやつなのに。この四年間で、なんでこんなに変わったんだろう。
「別に、うち広いし。親父がさ、「もっと早く動くべきだった」って言って聞かねぇの」
「迷惑になるでしょ。退院したら施設に入るで良くない?」
「学校行く金は?四年もいなかったんだからさ、特別処置とか必要でしょ」
「……お願い、できますか」
「はい、お願いされます」
大きな口を開けて笑いながら、おはぎが入っているのであろう箱を開ける白羽。なんだが、この会話もどこか懐かしい気がしてならなかった。
「…それにさ、俺、お前の事好きなんだよね」
「…ん?」
もちもちとおはぎを頬張る口の動きが止まる。思考が追い付かなくて、目の前にいる白羽を見つめた。
「ガキの頃からさ、片思い。中学入ったら告ろうとか思ってたんだけど、あんなことになっちまったし」
「えぇっと?なんかの、罰ゲーム?」
キョトンとした顔をこちらにむけて、その後にふふっと笑った。
「ううん、本音。冗談抜きで、この四年間告られたこともあるけど、全部フッた。一生みきりだけ想って生きようって決めてたからさ」
「お、うん…?」
「返事、別に今じゃなくていいさ。ま、菊池家の養子になるんだし、これって実質同棲?」
大口を開けて笑う白羽に、まだまだ思考は追い付く気配がない。
(白羽が、私を好き…?)
多分、嬉しい、んだと思う。だけど、どこか心の中にわだかまりがあるような気がしてならなかった。
その違和感を拭うべく、白羽におはぎのおかわりを要求する。ん、と皿を突き出せば、はいはい、と言っておはぎをよそってくれた。
「はい、おはぎ」
「ん」
パクリと一口。小豆と砂糖の優しい甘さの後に、もち米のもちもちとした食感が来る。
『美味いな。甘味処で売ってんのが可哀想に思うくらいだ』
「ッ!?」
振り返っても、誰も居ない。聞こえた声は、白羽によく似て、白羽より少し大人びた、——の声だった。
—誰の?
「みきりッ!?どうした、気分悪くなったか!?ああ、俺が変な事言ったから、」
「ま、待って、大丈夫だから。ちょっと変なとこに入っちゃっただけだから」
「そ、そうか?なら、良いんだけど」
今、声が聞こえた気がした。音を認識できたのは一度のみ。しかし、脳内で、認識できない音で何度も何度も聞こえてきた。まるで、日常を思い出す様に。
「は、ぁ、れ…?」
(—は——の—と、——き—ょ)
(はは、———ぃ——な)
脳裏に映るのは、いつも優しい雰囲気の、———の姿。
—だれの、すがた?
知っている。私は、その姿を知っている。
クラリ、と一瞬めまいがする。頭に、優しい刺激が走る。思い出すな、とでも言う様に。
「みきり?美輝ッッ!!」
白羽が、叫んでいる。私に、叫んでいる。私の名前を、呼んでいる。
『———』
なのに、脳裏に浮かぶのは、私じゃない私の名前を呼ぶ、私の知らない、けれどどこか懐かしい、それなのに、顔も姿も何もかも思い出せない、辛うじて男性だと分かる誰かだった。
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お、久しぶりだな。村から出て何年経った?今じゃ、ごぉるでんうぃーく?とか言うのじゃなきゃ帰ってこないだろ?御母堂が心配してるぞ?せめて文くらいは出してやれよ。
で?最近の調子はどう?こっちでも仕事熱心だったからね。あまり無理はしないように。まさか、「仕事は忙しいうちが華」とか言い出してはいないだろうね?
ん、そっか。いつの時代も、人の子っつーのは大変だなぁ。いっつもお上の顔色伺わなくちゃいけないなんてねぇ。かくいう俺も、最近じゃ人の子は火をあまり使わねぇから、そろそろ魄龍みたく隠居生活に入るかもしれないんだよなぁ。仕事は大変だけど、いざなくなると寂しいもんだよ。
そういえば、近場の甘味処の女将がな、お前のおはぎを再現して売ってたんだよ。これが美味いのなんの。ま、お前のには叶わないがな。しょっちゅう友神と一緒にいってるよ。燐も連れて、皆で駄弁りながら食べるの、良いぞ?
嗚呼、そういえば何の報告しに来たんだ?驚いたぜ?ご丁寧に神楽舞やら雅楽披露してくれて、祝詞まであげてくれてさ。大人数、しかも大勢って。一体全体何事だよ。
「この度、私、菊池白羽と、」
「私、和泉美輝が結婚しますことを、氏神様にお伝えしたく、馳せ参じました」
………え、あー結婚?おめでとさん。良かったなぁ、やっと幸せになれるのか。
いやぁ、あんなお転婆な悪戯娘が男の北の方になるのか。想像しずれぇなぁ。なんか、似合わないっつか、違和感?
「…なんか滅茶苦茶失礼な事言われた気がする」
「こら、美輝ちゃんッ!神様の御前でしょ!」
「お義母さん…だってぇ」
ははは、ごめんて。短い間だったけど、昔っから傍にいたからな。急に結婚って言われたって、想像できないのも仕方なくないか?仲の良い男子がいるってのは魄龍から聞いてたが、まっさか想い人だったとは!いやぁ、目出度い目出度い。娘を見送る父親さながらの気分だよ。
で?挙式はどこで?近年じゃ、基督のとこで挙げんのが一般的なんだっけ?俺も見に行けるかな~。
「つきましては、婚姻の儀を貴方様—白菊様の御膝元で挙行する事を、お許し頂きたく」
お!俺んとこでやんのか。そりゃそうだよな、お相手さんの父君、俺んとこの神主やってくれてるもんな。お祝い、盛大にっと。菊じゃあ、縁起悪いからな。確か外ツ国では、祝いの場で送る花は……これ、だったかな。
ぶわぁぁ
「きゃあ!?こ、これって…」
「白い、バラ…?」
当日は俺も参列しようか。友神と魄龍と椿さんに燐も連れて、日ノ本の国一幸せな夫婦となる様に加護も与えてやろう。ははっ、格下とは言え、俺とて神の末席に座す者だ。未来永劫、苦労もなく絶望もなく、最期の眠りまで笑顔の絶えない夫婦、否、家族に成れるように。
「ねぇ、白羽?神様ってお祝いに降りてくれないのかなぁ。御神体取り出したら来てくれる?」
「流石にそれは見切り発車すぎるって。それに罰当たりだろ」
……好いた女の前だ。多少の我儘くらい、聞いてやるのが筋ってもんだよな。
ちりん、ちりん——………
「ッ今度は何!?」
「鈴の音…まさか」
「お、親父?んで、頭下げて、」
「白羽、美輝ちゃん。お前たちも頭を下げなさい。白菊様が降臨なされ、」
『その必要はない』
「へ、?」
あの頃と変わらない顔で、此方を凝視する砌——美輝、だったかな。彼女に向けて、微笑む。と言っても、布があるから伝わらないだろうが。っつーか、仮にも神の前で真名を連呼するってどうなのよ……この辺りじゃ悪用する奴はいないけどさ。
『面を上げよ…嗚呼、まさか君が婚姻するとはな。心より祝福しよう』
「あ、貴方、一体…」
『俺の名は、白菊。ここで主神をしている』
「え、」
心拍数が乱れているのが感じられる。無論、俺の。一度、深呼吸をしよう。そして、なるべく直ぐに下がろう。
『時間がないのでな。手短に』
嘘だ。時間なんぞ吐いて捨てる程ある。でも、ここで長居してしまえば、抑えが効かなくなる気がした。
『———結婚おめでとう、砌。どうか、幸せに』
「…砌?ちょ、ちょっと待っ、」
ちりん——………
一言二言、言葉を交わして直ぐに帰った。あのまま、あの場にいれば、力ずくでも奪い返してしまうと思ったからだ。
「奪い返す、か。砌は、誰のものでもないのにな」
嗚呼いや、もうあの男のものになったのか。
「砌、—————」
その言葉は、心の奥底にしまっておく。出会ったその時から、こうなる事は決まっていたのだから。それに、俺が望んだ結末でも、あるのだから。
「俺、格下はいえど神だからなぁ。俺が特別に守護神にでもなってやろうか。俺はいつでも、お前の、お前たちの声が届く様に、すぐ傍にいてやるからな」
畳に零した液の正体には、気付かないふりをした。