ある、晴れた日だった。今日はたまたま、寝坊してしまった為、まだ空の色は暗いとはいえ、いつもよりも多くの小鳥が目覚めている。
「砌様、砌様?あれ、いない?また庭か?」
 庭に目をやると、はらはらと小雪が散っていた。
「いや、まだ寝てるのか」
 あの日、正式に想いを告げてからまたもや数日が過ぎた。俺も砌様も、特に変わらない関係を保っている。それがどこか砌様らしい。
 ふいに、鈴の音が聞こえた。
 ちりん、ちりん、ちりん
 凛々しく、鈴の音が鳴る。音が響かず速い速度で鳴るこの音は、何かの問題が生じた際の音だ。
 従来、鈴は魔除けとして御守や神社の鈴尾に付けられている。神社の鈴尾なんかは、祈る前に鳴らすことで魔を追い払ってから祈るのが役割だ。神前で奉納される神楽や舞の鈴も、その役割を担う。また、鈴の音は神の訪れの合図、とも言われる。意味が多い鈴だけど、だからこそ俺達はその意味を感覚で理解することが出来るのだ。

 ちりん、ちりん——………

 音が、近い。

「砌様、白菊です。入りますよ?」
 砌様のお部屋に、彼女を起こしに参る。心の臓が、いやなくらいに鼓動する。
「お寝坊さんですね。もう朝ですよ?」
 鈴の音が、この部屋の中から聞こえる。すぅっと、襖を開ける。
「ほら。小雪こそ振っていますが、今日も今日とていい天気で……砌様?」

 そこにあったのは、舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織。澄んだ空気に、酷く映える光景だった。
 砌様の口から咲く彼岸花は、彼女の白銀の御髪を紅く染め上げて、まるで彼岸花を咥えた鶴のようなお姿だった。



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「言わぬのか。格の事は」
 白菊から結婚の話が出て、それを了承した日。あの後、魄龍が白菊—正確には私—を訪ねてきた。
「言いませんよ。あの人は優しいから、悲しんでしまう。幸いあの人は貴方と友達で、何も言わないでおいてくれてるんでしょ?ただ、あの屋敷で二人で過ごすから。それだけで、」
「ほんに、幸せか?」
 魄龍は、眉間にしわを寄せた。この方は、私達が出会ったときから、陰ながら支えてくれていた。私が禁忌を犯した時も、荒魂神に成らぬように配慮してくれていた。神成した後も、白菊に探られるのを防ぐために、認識阻害の術をかけてくれた。
「かつて人の子であったことから変わらぬな、砌よ」
 私は人間だったから、欲深すぎたから、いろいろなものを欲してしまった。彼の傍に居る権利、彼と共に生きる権利、彼の隣で笑う権利。
 それら全部、本当は駄目だった。人間が神になり上がるなんて、おこがましいにも程がある。それらが代償になって、私の気を食い尽くして、消滅に追いやられてしまいそうになっている。
「嗚呼いやだ、ようやっと貴方を愛せるのに。まだ、愛しきれてないのに」
 当たり前か。人間であった私が、神様と幸せになるなんて、都合がいい、都合がよすぎるお話。ああして時代を、時空さえ超えて出会えただけでも、奇跡のような幸運なのに。
「我の、従神に成らんか」
「え、」
「案ずるな、何も命令はしない。ただ、我の神気で顕現を続ければ、処置はできる」
「魄龍様、私は、」
「分かって居るよ。お主が全て理解していて今の今まで過ごしていた事。しかし我はここを取りまとめる者。お主の消滅を、ただ見守ることは歯がゆい」
 沢山の花に囲まれて、私の隣で笑う貴方をそっと見つめるのが、一番楽しかった。何も覚えていないのなら、それでいい。もう一度、新しい記憶を作ればいい。漸く傍に居る権利を得たのだから、幸せをかみしめていたかっただけなの。だけど、
「申し訳、ございません」
「…どうしても、受け入れる気はないのか」
「…私は、この手で、私だけの実力で、彼を愛したいんです。私の存在が彼の全てを押さえつけてしまうのなら、私などいないほうがいい」
 思っていたよりもずっと、私達は互いに一途であったように感じる。私が彼から記憶を奪って、その所為で彼は苦しみ続けた。
 私がいると、彼はきっと()を思い出すことができない。
 大好きだ、と心が叫ぶ。
 愛してる、と魂が叫ぶ。
 身体を巡る暖かく淡い感情が、糸になって行き場を亡くしてしまった。
 ちりん、と根付の鈴が鳴る。帯に挟まったそれは、白菊が私に寄こした魔除けの御守。
 あの日から、私の願いはたった一つだけ。この根付を鳴らし続けたのは、魔を除ける為でもなく、顔も名前も知らない神の来訪を待っていたわけでもなく。優しくて過保護で、なんだかんだいつもそばにいてくれた、一柱の神様。
 ふと、自室より庭先を見る。光差すその空間は、風が季節を運び地を白く染めた。
 白菊に貰った櫛を見る。現世ではあまり見ない、プラスチックではない、つげの櫛。綺麗な宝石が埋め込まれていて、白菊が私の為に選んで、私の為に買ってくれた、プレゼント。雪景色に映える、優しい輝きを放った櫛を、庭に咲く菊の花と見比べる。
「愛があれば、立場なんて関係ない」
「神に成れば、一緒に生きていける」
「愛があれば運命を覆す事ができる」
 そんな事、無かった。現実は、そんなに優しくなんてなくって、そんなに甘くできてはいなかった。
 愛があっても、駄目なものは駄目なんだ。

「…冷えるぞ。今日は、雪が降るようでな」
「…そうですか」
 愛と、静かな欲で満ちた冬の庭。
 もう一度、あの頃に戻って、貴方と語らいたい。


 ちりん——……



——————————



「親しい間柄の者はいない。また、担当していた区域も、無い」
 あの後、朝餉を持ってきた燐が部屋に入ってきた。砌様とその傍に跪いた俺の姿を見て全てを悟ったようで、膳を床へと落とした。彼らしくもなく、酷く動揺していて、顔から血の気が引き、青白くなった。その後、俺よりも先に正気に戻った燐に呼ばれ、駆けつけてきた魄龍はそういった。いたとしても、俺に弔われる方がいいだろう、と。なんで、砌様がこんなことになったのかなんて、聞けなかった。

 魄龍は、すぐに砌様と関わりのある者を集め、神葬祭の準備をした。喪主は、魄龍の配慮からか俺が担当した。木製の棺桶の中、白い布団に寝かされた彼女の、色とりどりの花に埋まる姿は酷く美しかった。その顔は、まるで陶器の様に白かった。
「…帰幽奉告は我がやろう。白菊、砌の傍についていてやれ」
 魄龍が神前に頭を下げ、奉告を行った。一通りやった後に扉を閉め白紙を下げ封ずる。砌様のお部屋にはしめ縄が張られた。
 その後、椿さんを含めた女型の式神たちが、砌様の周りに集う。いつの間にか桃の着物の上から白い小袖を重ねて着せられたあの方は、北向きに寝かされていた。
「…椿さん」
「白菊様、如何されました?」
「それ、重ねないんじゃなかったか?」
「砌様の時代では、生前お気に召された着物の上から着せる様です」
「そっか」
 話している中、前面には祭壇を設け、玉串・榊・灯明・洗米・塩・水・御神酒、そして俺が彼女に贈った櫛を供え枕飾りが作られていた。
「白菊」
「どったの、魄龍」
「…枕飾りは終えた。共に祈るぞ」
 遺族にあたるらしい俺と、燐や椿さん、何かと気にかけてくれた友神に魄龍で故人を囲み、安らかに眠れるよう祈る。
「まだ、お若いのに…」
「人が神に成るという事は、そういう事ですわ」
「だとしても…こんなのってないわよ……」
 背後からは、人の子であった頃からの知り合いだという式神たちのすすり泣く声が聞こえた。その声に交じり、燐や椿さんもボロボロと涙を零し、泣いている。
「…っ…」
「ふぅッ…」
「……」
 どうしてか、俺は泣けなかった。心のどこかで、この結末を受け入れてしまっている気がした。
 それからしばらくの沈黙が続き、納棺の儀へ移る。棺に蓋をし、白い布で覆った後、全員で拝礼した。そして、棺を祭壇の前に安置する。蓋をするその最後に見えた彼女の顔は、やっぱり安らかで柔らかな顔をしていた。
「皆様、手水を」
 清い水で手を洗い、祭壇の前に座る。俺の後に続く様に一例をし、魄龍が祭詞を唱えた。
「掛巻くも恐き天理王命の宇豆の御前を遥かに拜み奉りて恐み恐みも白さく、今宵、砌の御霊を……」
 淡々とした魄龍の声が、沈黙に響く。未だ、この状況を理解できない。
 あの時、俺はいつもより少し遅くに目が覚めた。部屋に伺った時には既に遅かったようで、糸が切れた操り人形化の様に事切れていた。彼女の痩せ細った手を握り、自らの額に押し当てた事を覚えている。そっと傍に屈み、頬に指を滑らせる。穏やかに眠る彼女の顔は、声をかけても体を揺すっても瞳を開く気配はなかった。
(砌様は、こんなに痩せてしまっていただろうか)
 何も、知らなかった。彼女の事を、彼女の傍にいたのに、何も知らなかった。
 
 開け放たれた斎場の庭の方を見て、はらはらと散り落ちる雪を眺める。良く晴れた日なのに、酷く寒い。砌様が俺の屋敷に来た時も、このような天気だった。暖かいのに寒い、矛盾した日。よく砌様は「私もしかしたら雪の神なのかもしれない」と冗談のように言っていた事を思い出す。
「……御祭の式美わしく仕え奉らしめ給えと、恐み込みも白す」
 その後、部屋中の蝋燭の灯を消し、棺を仮霊舎へ収め、再び明かりを灯し、玉串奉奠を行う。
 魄龍から玉串を右手で根元を持ち左手を下から添えて受け取り、祭壇の前まで進み一礼をする。玉串を右に回し、根を祭壇に向ける。そしてそのまま捧げ、一歩下がって二礼二拍手一礼する。俺に続き、参列者も同じように玉串を捧げた。
—ああ、これで、終わってしまうのか。
 あの方と共に生活を過ごす度、共に食卓を囲う度。嬉しくも悲しい様な、矛盾した思いがあった。想いが通じて、恋仲になって、いずれは正式に夫婦になる予定であった女性との、今生の別れ。悲しくないはずが、ない。だというのに、一滴たりとも涙が零れないのは、何故なのだろう。あの燐でさえ、決壊した川の様に泣いているというのに、どうしても泣けない。
 燐が泣き崩れる。その傍にいた椿さんが隣に移動し、彼の背をさすった。
 身を寄せ合い、言葉もなくただ涙を流している式神がいる。着物の布を握りしめ俯く者がいる。魄龍でさえ、その雄々しい瞳から大粒の涙を流していた。
—俺はそれを、ただぼんやりと眺めていた。
 子どもは、立派に巫女としての務めを果たし、眠りについた。
 ぽっかりと、胸に風穴が空いてしまったようだった。なのに、涙は少しも出てこない。もう一度話がしたい。もう一度笑顔が見たい。もう一度、貴女に逢いたい。なのに、少しも涙は出てこない。
「…良く、やった…数十年だ。我らにとっては一瞬の事だが。人の子にとっては、とても長い時間であったろうな」
 数十年なんて、半永久的に生きる俺達にとってはほんの一瞬の時間だ。でも、あの方と共に過ごす時間は輝かしいもので、短いけれど幸福な日々だった。
「…白菊。お前が、その手で葬ってやれ。あれも、その方が嬉しかろう」
 言われるがまま、愛する人の眠る棺に、炎を放った。それは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光が、その棺を包み込んだ。
「…今日が、お主の眠る日なのだな」
 炎が止んで、残った灰の中には真っ白で小ぶりな骨だけが、残っていた。


 あの彼岸花は、あの人の命の色だった。雪がさんさんと降っていた日、ほんの少し起こしに行くのが遅かった。ただそれだけなのに、最期を看取ることは、出来なかった。白い布団の上で紅い花弁に包まれ、冷たく事切れたあの方は、酷く穏やかな顔で、薄く開かれた白い御手の中には、櫛と白菊の花が一輪、咲いていた。冬の輝く深い光が、静かに眠る人の子の魂を持った女神を囲んで、きらきらと煌めく氷の結晶に包まれたその一角が、まるで美しい物語の絵巻物のように思えてならなかった。
(そういえば、俺は砌様の事、少しも知らなかった)
 なぜ、神なのに消滅ではなく死と言う概念があったのだろう。なぜ、肉体が残ったままだったのだろう。何故、火葬しても骨が残ったのだろう。砌様は、俺の事を何もかも知り尽くしていたのに、俺は、あのお方の事を少しも知らない。
 外に目をやれば、未だに雪がしんしんと降っている。
 あの人の御髪と同じ、銀の大地。久方ぶりに一人で見た、銀世界の神域。そこに季節外れに咲き乱れる、菊。あの人が入る骨壺にほんの少し遺った神気で、まだその命を燃やしている。
——あの門の奥にも、神気は遺っているのだろうか。
 ふと、開かずの引き出しを思い出した。


(だぁめ、そこは開いちゃ)
 いつも、この引き出しを開けようとすると、砌様の声が聞こえた気がする。
 ぼんやりと、覚えている。叶うはずのないものを願ったあの不安。かつての俺はそれを無視し、顔も名前も声も覚えていない贄の後姿を、ただ眺めていた。その贄は、確か、俺と対照的な子だった。砌様のような、銀の髪の。
 そして、全ての伏線が繋がった。
——この戸を開けられなかったのは、砌様が術をかけていたからだ。
「もう、言い飽きたでしょう。疲れたでしょう?大丈夫です、大丈夫ですから。もう、ゆっくりお休みになって下さい」
 思い出を語れなくても、全て思い出した後、その痛みに苦しんだとしても。今まで積み上げてきたこの想いが、偽りであったとしても。
 俺は今、ここに居る。確かに今、ここで生きている。
 全部思い出したら、何から語ろう。物語は記録だ。他者によって書かれた人生禄で、本人の知りえない記録。人々の想いが織りなす、誰も知らない、それでも確かに存在した人の物語。何が、人を動かすのかを、俺は知っていたはずだ。
「あのまま貴女の何もかもを、白菊の名の下に隠してしまえたら、どんなに幸福だっただろうか」
 この台詞も、かつて口にした気がする。でもそれはまるで一夜の夢のようで、そしてどんなに願っても祈っても、その夢を再び見る事は叶わないだろう。あの人と笑い合ったあの日々は、もう戻らない。この引き出しを開けてしまえば、俺は砌様に恋した俺ではなくなってしまう。
—それでも、いつかまた、目が覚めた夢の先で、貴女を想えたら、と思う。
 しゃんと背を伸ばして。神様らしく前を向こう。その決意を胸に、引き出しを開けた。驚くことに、さっきまで開かなかった引き出しは、いとも簡単に開いてしまった。

 中には、鍵と手紙が入っていた。
 その文を読んだ瞬間、俺は反射的に骨壺を抱き、あの開かずの門に向かって走った。



 はぁ、はぁ、はぁ
 はっ、はっ、はっ

 件の門についた。相も変わらず大きくて、相も変わらず広い。
 錠に鍵を差し込み、開ける。重いそれをひと思いに開くと、そこには池があった。その池を見て、まるで「嗚呼池か」と認識したように、自分の事を、少しずつ思い出してきた。
 記憶と涙がとめどなく溢れてきた。俺が好きだと笑った君が、ずっと愛おしかったことを、なんで忘れていたんだろう。
「み、ぎり、さま」
 もっと笑った顔が見たい。沢山の書物を与えて、裳着の歳まで育てて、人間のように。
 白菊の咲き誇る庭先で、凛々しく立っている。その姿の、その薄桃の、何と美しい事か。あれから記憶が消えようとも、その美しい薄桃を、どうしても完全に忘れることができなかった。だから、あの女神を素直に受け入れられたんだ。
 季節は、巡る。神の感情は、人の子よりも驚くほど鈍いようで、なかなか気付けなかった。気付いても、気の所為だと蓋をしてしまっていた。人の子は、良くこのような焦がれる想いを抱えられる。炎なんか、比べ物にならないほど、熱くて苦しい。
 もう一度、足に力を込めて、池の傍まで走る。


 はじめはただの同情で。それが自然と自分の為になったのは、いつからだったろうか。
 彼女を見殺しにした村の者を、憎むことも嘆くこともせず、人の子の暗闇を受け入れ許してしまう程に純粋な君は、俺など比べ物にならぬほど、あまりにも綺麗だった。
 段々と近づく池を見て、ふと彼女との生活が脳裏に浮かんでは消える。
 愛おしくて、懐かしくて、残酷な、まるで美しい歌集の中にいるような。
 如何したら、守れた?俺はあの手を、あの、暖かく華奢な手を、如何したら離さずにいられただろう。
 あの静かな神域の中で、俺は確かに、君に叶わぬ恋をしたんだ。

(忘れてしまうだろうが、伝えておく。あれは、お前の贄は神成した。今日中に、記憶は消えるぞ)

 そうだ、あの時、あの子が魄龍の屋敷へ行った後、思念伝達で知らされたんだ。それさえも、俺は忘れてしまったのか。
 本当は、少しでよかった。少し、彼女と過ごせる時間が欲しかった。裳着の歳になったのなら、彼女を現世に返して、上から見守るつもりだった。だのに彼女は、別れの挨拶さえ言わせてくれないまま、突然その姿を消した——二度も。
 人の子の時間はあまりにも短くて、早い。永遠に一緒に過ごす事なんて出来ないと、分かっていた。人の子にあっても神にあの世などないと、分かっていた。だからこそせめて、あの子の為に、人の子としての幸せより俺を選んでくれた、あの子の為に泣きたかった。
嗚呼、あの日、君が泣きそうだったのは、そういう理由だったのか。


 池に、ついた。もう後数歩で水面に触れてしまう。
(白菊!)
 水面に、触れた。酷く冷たくて、その中は酷く暗い。それでも、太陽を反射してきらきらしていて、中には鯉が泳いでいて、その上に空が反射している。これを彼女は、二度も潜った。
(私は白菊の事、好きだよ)
「…あ、ぅあッ、あ゛ぁ“あ あ ぁ !!!」
 想ってはいけない。願ってはいけない。神と人の子では、どうしても釣り合わない。

「ッぎ、り……砌ぃ…ッ」

 それでも、君は、俺を想ってくれた。全てを、犠牲にして。


【貴方が覚えていなかったとしても、叶わぬ願いだと分かっていても、ずっとそばに居たかった。
ここは貴方の為の、貴方の為に整えた庭園。貴方の域に優しい四季があって、些細な驚きに笑ってくれて、いつもそばにいてくれた貴方の眼差しを守ろうって、思ったの。
運命は、偶然よりも必然である。私達もこれに尽きるみたい。出会いも、この結末も。だからさ、凛としたその背中を、しゃんと伸ばしてほしいんです。私との全てが白菊を白菊じゃなくさせちゃうんだったらさ、いっそ、忘れてくれて、構わないから】

「…あは、は。砌、どんな顔して、忘れて、なんて言ってんだよ」
 いつの間に、こんなものを書いていたんだろう。本当は、忘れて欲しくなんてないんだろう。それくらい理解している。それでも、俺の為に言ってくれたんだろう。目を閉じれば、その姿が鮮明に思い浮かぶのに。君はもう、どこにもいない。
 あれほどまでに欲した記憶が、君が消えなければ蘇らないなんて。分かってたはずなのに、理解はしていなかった。

「なぁんで、俺が、この俺が忘れちゃうかなぁ…ッ…」



——————————



 人とは、つくづく不思議なものだと思う。一度信じた事は最後まで信じぬき、新年を貫き通す。最期がどんな結末となろうと、運命が分かっていようと真っ直ぐに生きる。負けると分かっていながら、炎の中太刀を振り回した男がいた。己よりも城下の人々の為、己が命を投げ出した男がいた。夫の名誉の為、命を絶った女がいた。長い時を生きてきた中で、どうしてもその理由が理解できなかった。まだまだ、彼らについては知らない事ばかりだ。十を知れば、同時に百を知る事にも成り得る。知れば知るほど奥深く、知れば知るほど疑問は募るばかり。
 そして、知れば知るほどに、愛おしく思う。知れば知るほど、人が好きになる。
 無論、醜い悪行だって見てきた。親兄弟を、自分の欲を実現させるために殺した者。女子供を殺した者。態度が気に食わないと僧を斬った者。刀の試し切りで数十人を斬った者。何なら、頭蓋骨で盃を作った狂人もいる。なんで、こんな奴らを生かしておく必要があるのか、消してしまえばいいとさえ思ってきた。
 でも、その行動理念は何だろう。誰かは、今の家族よりも未来の家族を思い。誰かは、先人の思いを受け継いで、誰かは、他者の手に渡る前に純粋のまま終わらせる。多少の歪みはあれど、その行為には優しさと温もりがあった。それを知れば、どうしても嫌えなかった。理解はできないけれど、気持ちは分かる。だからこそ、今も変わらず彼らを愛おしく思ってきた。
 それでも、やっぱり彼らを完全に理解することは難しい。けれど、「こういうものなのだ」と言い切ってしまうのではなく、「どういうものなのか」と自身に問い続けている。これからも、きっと続ける。きっと正解なんてなくて、疑問が消える事はない。でも、きっとその事実こそが正しい事なのだと思う。
 自分が今、ここに居るのは、自分を信じてくれる者がいて、支えてくれる人がいるから。いつまでも、俺を愛してくれた子がいるから。いた、から。
 あの子との記憶も、あの子自身も、どちらも大切で、何事にも代えがたいもの。だから、もしもあの子が全て忘れて、他の誰かのもとに行ったとしても、彼女が幸せであるのであれば、俺はそれでよかった。
 だから、あの子が自信を犠牲にする必要はなかった。あの子が泣く必要など、露程もなかった。
 愛する人にそんな顔をされては、如何すればいいか分からなくなってしまう。
『————』
 嗚呼、まだ、そんな事を言ってくれるのか。まだ、そんな事を想ってくれるのか。
『——、————』
 俺も、だ。
 俺も、確かに幸せだった。まだ、そう言ってくれる事が、酷く嬉しい。
 もう、きっと遅い。今伝えたところで、彼女には届かない。それでも、言わずにはいられない。言わなければならない。
「いつまでも、愛しているよ、砌」

『…———!—————!?』
 うん、俺もそう思う。
 今更だけど、今なら、言えるんだよ。あの時じゃ、言えなかったんだよ。立場が、悪かった。言い訳だけど、それが規則だったんだよ。
 でも、今なら、遅いけれど、今からならいくらでも言える。
「…愛してる。もう、離れないよ」

『わたしも。もう、離れないでね』

 春を告げる暖かい風が、頬を撫でた。
「眠い…少し、寝ようかな…」




「白菊、白菊や。どこに居るのだ」
 ふわふわとした春がやってきた。この庭園は広い。白菊は、どうやら置手紙も置かずに庭に出ていたらしい。魄龍様が、困ったように小走りで白菊を探している——そうだ、今日は祈年祭があるから、招集の日だったんだね。なら、早く行かなきゃ駄目じゃない。
「嗚呼、ようやっと見つけたぞこの寝坊助。この域は広いのだから勝手に外に出ては行かぬとあれほど。せめて置手紙をだな」
 魄龍様、まるでお母さんのようだ。しかし、白菊はその声には応えず、じっと動かないまま、塚にもたれていた。
「……嗚呼、寝ておるのか」
 寝てるって、祈年祭、間に合わなくなるよ?
「——砌よ、未だそこに居るのか」
(仕方ないじゃない。この塚、気に入ったし。さすが白菊、良い感性してる)
 私達が出会ったあの池の傍に、小さな石と大きな石を組み合わせて作られたこのストーンサークルの様な石塚は、白菊がその暖かく大きな手で作ってくれた、私のお墓。両脇に立派な石灯籠が建っていて、隣には池がある。池の傍なんだから、二月にはちょっと寒くないかな?
「…全く、白菊から聞いていた通りだ」
 魄龍様は着物の袖に両の腕をしまい、塚に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。そして消えかかった石灯籠の燭台の炎を、霊力を注いで再び灯した。
「こんな時期に白菊を呼ぶなど……お転婆、結局治らなかったのだな」
(別に呼んでないよ?白菊が勝手に来たの、私だってこんな季節にまで外に居て欲しくないし)
 塚にやっていた目を、塚から見れば左、魄龍様から見れば右に寄りかかった白菊に移し、その後塚の傍に目をやった魄龍様は、そこにあるものを見て困ったように眉を下げ、少し口角を上げた。
「……もう少し、寝かせておくか」
 塚の傍には、大きな碑が立っている。そこには、長々とこう刻まれていた。

【これは、炎。名誉も栄華も地位も名声も、この身さえも焼き尽くしてしまう恐ろしい光。それに包まれて、貴女はけむりになる。そうすれば天高く舞い、いろいろな場所に散るだろう。大地の全てと一体となった貴女は、人々のすぐ傍で全てを受け止め、この世の行く末を見る】

 白菊の霊力で生きる菊の花園が、風に揺られて靡いていた。