「良い天気だねぇ」
 想いが、通じたと思っていいのかよくわからないあの日から、しばらくの月日が経った。恋仲になったとて、未だに逢引もせず、これまで通りの関係が続いていた。
 お互いに仕事もあまり入らない日が続き、のんびりと茶でも飲んで談笑する。
 あと少しで秋に入る晩夏。少しずつ気温が下がっている様で、酷く穏やかな風が頬を撫でる。屋根の隙間から入ってくる日差しが廊下の木目を照らし、反射して目に入ってくる。
 暑い日差しは既に柔らかなものに変わり、これからは紅い葉に丸く太った木の実が庭を彩ることになるだろう。そして秋が去っていった後、冬が来て春が来て夏が来て、また秋がやってくる。俺達は神なのだから、季節は途切れることなく廻る。そしてその巡りを、己の想い人と共に見守る事ができる。
「そうですね、とてものどかだ」
「敬語なし」
「却下です」
 それを思うだけで、俺の心は酷く暖まる。花弁が降り積もる様に、少しずつ心が満たされていった。
 俺は砌様の言葉に頷いた。御傍にいられるだけでも天にも昇る心地であるというのに、このように四季を愛で共に時を過ごす事ができるという事は、何事にも代えがたい極上の幸せである様に思えた。
「こんなにいい天気なら、今からでも土をいじりに行こうかな」
「駄目です。砌様、俺が感づいていないとでも?」
「…おっと」
 しかし、いつまでものほほんとしているわけにはいかないのもまた事実。立ち上がろうとした砌様の手を引き、俺の隣に座らせた。
「砌様、最近お疲れでしょう?鈴の音が不安定でしたから。万が一にも何かあったらどうするんです」
「…そっか、音で分かるんだっけ。でも、植物のお世話はしておかなきゃ。あと敬語禁止」
「却下です。それに、体調が優れないのであれば養生しなさいと言っているのです」
「あ、もしかして私から離れるのが嫌で?」
「そういう話ではなくてですね…」
 外では小鳥が楽しげに囀っている。でも、その一方でなにか、どんよりとした感覚が俺の中にはあった。
「……なんとなく、不安で堪らないんです」
「不安?」
「はい」
 砌様は首を傾げた。と同時に、白銀の髪と黄金色の髪飾りが揺れる。
「何故かはわかりませんが…今、離れてはいけない気がして」
 俺はそのまま俯いた。砌様が顕現なされてから、砌様はずっと俺の傍にいてくれている。でも、神成とはいえ上位格の神なのだから、俺の傍に居続けるのは仕事柄にもよくないだろう。
「っ、ははは!」
 途端、いきなり砌様が口を大きく開けて笑った。冗談をよく言うとはいえ、常日頃から気品に溢れる彼女の、これほど大口を開けて笑う姿は見たことが無かった。
「み、砌様…?」
「ふふ、ぐふ、は、ごめ、あははっ!」
「わ、笑いすぎでは…?そんなにおかしなことを言いました?」
「ちが、ごめ、何ともまぁ、頑ななものだなって」
 笑いすぎにより目尻に浮かんだ涙を袖で拭った。そして反対の手で俺の頬を撫で、うっとりとした顔で微笑んできた。
「……ちっとも変わらないんだねぇ…」
「砌様?なんと仰いました?」
「折れても朽ちてもなお身を貫く一本の柱。枯れてもなお咲き続ける花。ホント変わってないね、白菊」

 最近、己の過去について思う事がある。最近と言うよりもともとなのだが、元人間であった砌様が、俺に送られた贄なのではないかと言う話。それが最近、予想の範疇から確信へと変わりつつある。
 想いを告げ、通じたあの日から、砌様の言動はより一層その考察を明確なものに誘導していっているように感じる。先程の発言もそうだが、発言の節々で記憶を失う前の俺を知っているのは確実。しかし俺は人の子の前に姿を現したことがない為、砌様が俺の贄で間違いないのだろう。証拠も無しに感じていた事が、証拠が出てきた事で確実なものに変わっている。
 二度とその想いが、光を見ることのない闇の底に消えてしまってもなお、砌様の根源はそこにあるのだろう。それがどうしようもないほどに滑稽で、愛おしくて仕方がない。でも、それでも一つだけ、もどかしい思いがある。
「砌様…しかし俺は…“貴女の求める白菊”では…」
 器は同じでも、贄と過ごした記憶を一掃された俺は、彼女と長い時を過ごした“白菊”とは違う。思い出せればいいのだろうが、理がある限りそれは叶わない。
「確かに、そうかもしれないけどさ。私に想いを告げてくれたのは貴方だし」
 砌様はそっと俺を見上げた。此方の顔を覗き見る瞳は酷く優しくて、腕を握る手は華奢なものなのに、他の何よりも頼りがいのあるもののように思えた。
「……そうで、ございますね」
 愛を惜しみなく与え、共に歩んでくれる方がいる。どこかで失くした欠片を代わりに埋めてくれる方がいる。ならばもう、それでいいのではないか。過去が思い出せなくとも、戻らなくても。その事実があるのなら、今があるのならば、それで。
「あ、もうこんな時間⁉」
「え、あ、もう昼餉ですか。ですが別に無理して食さなくとも…」
「駄目……あ~どっか食べに行く?レストランとかないのかな」
 …また唐突な……




 右足に重心を掛けて体を斜めに傾け、姿見の前で立つ。黒を基調にし、裾には金糸で透かしが入っている、俺の一張羅。遠目で見ると菊の大輪が描かれているのが分かる。
「おし、いいな」
 魄龍に押し付けられる形で貰った贈り物。もとより服装などにそこまでこだわりがない事、加えて着飾る時がない為、箪笥の肥やしとなっていたが、長年の時を経て腕を通すことに成るとは思わなかった。
「後は…夜桜柄の鉄扇もってっとこう。武器にもなるし」
 贄が神成し記憶が飛んでから早数年。誰かと外出する事自体が初めての事なので、俺の心は驚く程弾んでいる。
「白菊様。定刻が近付いて参りました」
「お、ありがとな燐。今行くよ」
 変なところは無いかともう一度鏡を見て、そして胸に手を置いた。いつもより少し早い鼓動に、小さく息を吐く。これではまるで乙女だ。実際は数百生きた爺なのだが。
「…なぁ燐」
「…如何なさいました」
「これ、逢引だよな?逢引でいいんだよな?」
 贄が神成した際、記憶を消されるのは主神だけであり、従神や式神からは消えない。つまり、燐は記憶があるという事。かといって、過去を聞こうとは思わないが。いかなる理由があろうと、彼女を拒絶した自分が居る事はちょっと受け入れがたい。
「はぁ……そうですね。逢引です」
「よっし。(白菊)ができなかった事を俺がやったんだな。勝った」
「貴方何過去の自分に嫉妬してるんですか」
 これは逢引と言っていい。逢引とは恋仲の男女が二人で出かける行為を言い、事実俺と砌様は恐れ多くも恋仲なのだから、これは逢引だ。
「べ、別に嫉妬なんかしてねぇよ。事実を言ったまで。じゃ、留守を頼む」
「…はぁ」
 燐が呆れたようにため息をついた。そんな彼を背に、俺と砌様の神域の混じる場所にある正面玄関へ向かって歩く。長い廊下の先には、待ち人が立っていた。
「申し訳ございません、お待たせしてしまって」
「そんなに待ってないわ。で、敬語なし」
「却下です。それに、男ともあろうものが、女性を待たせるわけにはいかないでしょう」
「…律儀だなぁ」
 砌様はくつくつと喉を鳴らした。
「…美しい着物ですね」
「そう?白菊の着物も綺麗」
 砌様の着物は、薄桃色の着物に銀糸で菊の大輪が描かれているものだった。菊と同じ銀糸の美しい髪は上部のみを団子のように結わい、赫に鶴が宿る蜻蛉玉の簪を刺していた。目元と唇には薄く紅が差されている。
「体調は如何です?悪くなったら仰ってくださいね」
「ん、元気元気。体を動かしたくて仕方ないくらい。後敬語」
「無理はしないで下さいって。後却下」
 今一度、彼女の姿を上から下まで眺め、ふと思った事を伝えた。
「俺の為に、着飾って下さったので?」
「…ぇ…?」
 此方を見て、真ん丸と開かれた瞳と目が合う。ぽかんとしたその顔が、いつも以上に可愛らしくて思わず笑ってしまう。
「た、多少はね……そりゃ、逢引みたいなものなんだし…」
「ふふ、可愛らしいですよ」
「それだと、いつもの私が可愛くないみたいだねぇ?」
 白菊の名を冠した俺にとって、その花がどれほど大切なものかは、俺を知る者は皆知っている事。その花が描かれた着物、しかも銀糸。勘違いしてしまうのも無理はないと思う。
「いつでも貴女は可愛らしいですよ。いつもより気合が入ってらっしゃるから、それがより一層磨かれているだけです」
 どうしても緩んでしまう口元に、持ってきた鉄扇を閉じたまま寄せる。口元を隠したとは言え、笑いで鳴る喉の音までは隠れない様だ。
「寝起きで不機嫌な貴女も、花々を愛でる貴女も、厨に立つ貴女も。いつの貴女も愛らしいですよ」
「……」
「はは、真っ赤。林檎みたい」
 手を伸ばし、真っ赤な顔を撫でる。当の御本人は何が起こっているのかわかっていないようだ。
「…からかってるね!?」
「本心本心。本当に思ってますよ。さ、行きましょ」
 俺は背を向けて歩き出す。勿論、彼女の手を引いて、
「えッちょッ……」
 長いようで短い一日が始まった。




「…ん…美味しい~」
「味が染みてていいですね」
 定食屋でご飯を食べる。焼き鮭の塩味と味噌特有の塩味が絶妙に合っていて食欲を増進させた。
「ここのご飯屋さん当たりだったね。ごはんが進む」
 箸を差し込んだ瞬間に溢れ出る魚汁が此方の食欲を煽り、その溢れ出た汁が味噌と絡み合っていい香りを醸し出す。ふわふわとした魚肉と絡め、白米と共に口に放る。焼き鮭の塩味と白米の甘みがこれまた絡み合い、極上の味へと変化する。
「白菊の鮭はどう?一口ちょーだい」
「ん?嗚呼、はいどうぞ」
 一口大に切った鮭を砌様の口に運び、入れた。当の彼女は鮭が口に入った瞬間に閉口したが、瞳を真ん丸と開けて固まっている。
「砌様?」
「…ぉ…そう来るか…お皿に盛ってくれるかと……」
「ん?」
 もぐもぐと口を動かしながら何かを呟いているが、聞こえないので気にしない事にした。
「砌様。あ」
「…え、なに?」
「俺は一口あげたんですよ?砌様のも下さい」
 頼んだ定食は同じ魚料理なのだが、砌様は鰤の照り焼きを頼まれていた。もとより料理を食べない体だったから、ほぼ全ての料理が初めましてなのだ。
「はいどうぞ」
「あー」
「……あー」
 口に運ばれた照り焼きを頬張る。香ばしく焼き上げられた鰤の切り身に、甘めの調味料が絶妙に絡まり、口の中でほどよい甘みと深い味わいを楽しめる。焼き加減もまた絶妙で、外側はキリッと焼きつつ中はしっとりとしており、食感も豊か。照り焼きの調味料の甘さだけでなく、鰤のうま味とも絶妙に調和し、食べ応えがある。ご飯との相性も抜群で、一口食べるとついつい箸が止まらなくなりそうな美味しさだ。
「ん、甘い」
 むぐむぐと咀嚼する間、ふと砌様を見れば何故か顔を手で覆い肘を机につけていた。
「ホント…そーゆーとこだよホント……」
「ん?」
「いや、うん…なんでもない」
「はぁ…」
 よくわからないが、砌様がいいというのならいいのだろう。



「おいしかったですね~」
「ウン、オイシカッタ」
 何故片言なのだろう。俺には良く分からなかった。
「次はどこに向かいます?体調も考慮して、もう帰りましょうか」
「…嫌!元気だってば。どっか行こどっか」
 彼女に掴まれた腕を掴み返し、手を繋いで歩く。一瞬驚いてしまったが、すぐに状況を理解し隣に並んだ。この区域には食事処だけでなく、甘味処や雑貨屋や呉服屋に、娯楽施設などもある。
「…っおし、あそこだ」
「ん?どっか面白いとこあるの⁈」
 喉を鳴らして、鉄扇で口元を隠す。
「行ってみたい店があるんですけど、どうです?」
 砌様はこてんと首を傾げた。途轍もなく愛らしかった。



「ひっ……」
 思わずと言った風に口元に手を当てる砌様。必死に声を押さえようとする彼女を横目に、ずんずんと暗闇の中を進む。右も左も東西南北でさえ分からない程の暗い空間には、どう考えても式神なヒトガタが血に似せた色水を頭からかぶり、鈍の刃物をわざと錆びさせてぶん回してくる。勿論、此方の居合に入ることは無い。
 俺が連れてきたのは所謂お化け屋敷。実を言うと俺は戦闘経験があるから、ちょっとやそっとじゃ恐怖を感じる事は無い。その為、この店の存在は知っていたが入った事はない。
「きゃっ!?うぅ……」
「大丈夫ですか?」
「無理ぃ……ヒッ」
 ギュッと目を瞑ってしがみついてくる彼女に、小声で問うた。しかし、此方に向けられた瞳は「大丈夫なわけないだろ巫山戯んな」と訴えかけてきている。外ツ国の怪談物であれば、悪魔やらなんやらで人間からかけ離れたモノが扱われるが、日本では「にんげんこわい」と思わせる様な演出が多い。幽霊やら呪いやらの根本的な原因は人間でした~と言うのが多い為、特に元人間だった砌様からすれば共感できてしまうのかもしれない。
 加えてもう一つ。思い出して頂きたいのが、俺達の住処は日本家屋と言う事。前に外ツ国の者と話した時、生活様式が大きく違う事が話題になった。外ツ国の衣服はふんわりと曲線を描き、日本の衣服は直線を描く。外ツ国の家屋はどちらかと言えば縦に大きく色とりどりで、日本の家屋は横に大きく同系色で統一されている。外ツ国の部屋は一つ一つが大きさやら形やらが違うそうだが、日本の部屋はほぼ同じ。即ち、此処のお化け屋敷の造形は俺達の神域の屋敷とほぼ同じと言う事。何なら俺は砌様より何百も年上の為、屋敷も変気が入っている。正に、このお化け屋敷の様に。
「…ぅぅ…帰れなくなるじゃん…ホラー苦手なのに…」
「ふふ、そこまで苦手だったとは……ふふっ」
「わ、笑わないでよ!?ッヒ!?」
 横から酷く美しい十二単を着た半透明の式神が通り抜けていった。
「あの子、六条御息所を基にしてるのかな」
「ろくじょう…?光源氏の話はいいからぁ……」
 着ていた羽織で彼女を包み込み、視界を遮る。
「も、外に出ましょうか?一応途中退場はできる仕様みたいですけど」
「ぃ、嫌!こ、此処で出たら負けだからッ…」
「貴女は何と戦ってらっしゃるんです?」
 最早恐怖を通り越して悟りの境地に入りつつある彼女に、バレない様に、文字通り目を光らせて見つめる。
(展開、構築、(せん)……?)
 「潜」とは、対象者の意識を探ったり魂を直視したりして、穢れを確認したり、或いは真偽を確認したりする際に使う術式だ。これを使えば、例え上位格だとしても関係なく使える(尚、不敬罪にあたる為それなりの神罰が下る)のだが……
(霞…?何も見えない…?)
 今回、此のお化け屋敷を選んだのは、彼女の体調不良の原因を探る為だ。幽霊の演出に砌様が集中して下されば、目が光ってしまうこの術式を使っても気付かれにくいからだ。勿論下心もあったのは否定できないが。
 しかし、術式を使っても彼女の中は見えなかった。霞が見えるだけで輪郭さえも認識できない。
(誰かから認識阻害の術でもかけられている…?)
「しらぎくぅ…?あそこ出口だよねぇ…?」
「ッあ、はい、そうですね。出ましょっか」
「出るぅ…」
 しかし、見る限りでは彼女に害のある術式ではないらしい。恐らく神成した際に起きうる弊害から彼女を守る為、上位格—例えば魄龍とか—にいい意味で目を付けられて、守護の意味で規制をかけられているのかもしれない。
「絶っっっっっ対行かない二度と行かない」
「ごめんなさいってば。そこまで無理だとは思わなかったんですよ」
 さっさと店外に出て、そっぽを向きながら速足に歩く彼女の後ろをついて歩く。かわいい。
「ん~なら、御詫びさせていただけません?」
「やだ。信用ならない」
「大丈夫です。次はただの雑貨屋ですから」
「雑貨屋ぁ?」
「ほら、行きましょう」
 彼女の手を引き、人混みの中をかき分けて、目的地まで足を進める。当の砌様は何が起こっているのかわかっていない様だ。
 あの店には行ったことがない。そもそも、男一人で行くような場所じゃないけど。
「えここどこ滅茶苦茶ジュエリーショップ」
「失礼する。ささ、砌様、入って入って」
「白菊様に砌様。いらっしゃいませ」
 店内から店員の式神が出てくる。未だに状況理解ができていないらしい砌様の背を押し、店内に入った。

「これはどうだろう……いや、こっちか?どうです砌様?似合いそうだ」
「ぇ、ん~?そう、なのかな……?いや、これどういう状況…?」
 小さな盆にのせられた櫛や首飾りや耳飾りなどの装身具。彼女を連れてきたのはこの辺りで大き目な宝石商。簪や櫛などだけでなく、宝石の埋め込まれた靴に羽織など、高価かつ希少な装身具が多く売られているこの店は、魄龍に何故か紹介された店だ。
「ん、微妙ですかね?」
「いや、えっと、」
「すまない、これも出してくれ」
「承知致しました」
「ねぇどういう状況なのこれ」
 棚の中にある別の装身具を出して貰う。砌様はどのようなものが好みなのだろう。御髪に似合うものや着物に似合うもの、豪華なものから控えめなものまで揃っているが、一つでもお気に召したものがあればいいのだが。
(駄目だ白菊の選ぶもの全部好み……)
「如何なさいました?好みのものありました?」
「えぇと、あっと…」
「あ、これとかどうでしょう?」
 俺が手に取ったのは、一つの櫛。手のひらに収まるほどの大きさでありながら、その小さな存在感が心を魅了する。その背景には、きっと繊細な手作りの技術と細やかな造形が隠されているだろう。
 まず、その櫛の身に目をやると、美しい菊と水流の彫刻が施された繊細な柄が目を引く。手に触れると、心地よい重みと共に、滑らかで手触りの良い素材が感じられる。そして、櫛の端には桜や雪の結晶の形に切り取られた瑪瑙や翡翠が埋め込まれている。その宝石は、まるで星空に輝く星のように、輝きを放ち、櫛の光沢と調和し、美しい輝きを生み出していた。光が当たるたびに、周囲にきらめく輝きが広がり、まるで魔法にかかったような美しい雰囲気を醸しだす。
「っ!可愛いッ!」
 どうやら、お気に召したようだ。幼子の様に目を輝かせて櫛を眺める彼女に、笑みを浮かべる。
「これで良さそうですね。これを頼む。支払いはこれで足りるか?」
「承知致しました…はい、十分で御座います」
「え、ちょ……っ、お金……!」
「お詫びだから良いんです。受け取って下さい、ね?」
 砌様はわたわたしながら焦っているが、それを横目に見ながら手早く支払いを済ませる。値段は決して安いとは言えないが、普段金を使わない俺からすればさほど気にならない。

 支払い後、再び彼女の手を引き屋敷へ戻る。夕餉の時間が近かったからか人が減り、その分早めに帰宅できた。
「砌様?も、もしかして、お気に召しませんでしたか…?」
 彼女は先程の顔とは打って変わって、少々青ざめた顔をして俯いていた。
「た、体調がよろしくないので…?」
「…がう……」
「ん?」
「違くて、今日は、白菊と沢山お出かけ出来てさ、嬉しくて楽しくって、それだけで十二分に幸せで…」
 そう言い、砌様は袖で口元を隠した。様子を伺う様に此方の顔を覗いては目を背ける。
「だ、だから、プレゼ、贈り物までされちゃうと…なんか、バチが当たる気が……」
「…ふふ」
「な、なに笑ってるの!?こっちは本気なんだよ!?」
「大丈夫ですよ。例え貴女にバチが当たろうと、俺が全て弾き返すので」

 何と言うか、今日…いや、最近の砌様は何かおかしい気がする。先程の使用した「潜」では特に問題がなかったが、やっぱり何かがおかしい。
 それが何なのか、それは言葉にするのがとても難しい。強いて言えば少し初心と言うか、甘えてくるようになった気がする。俺としては嬉しいが、いつも気丈な彼女にしては異常ともとれる気がした。もう恋仲だからなのか、それとも、本当に不調なのかはわからない。
「砌様、これを」
「…さっきの櫛、だよね……いいの?」
「えぇ。貴女の為に買ったんです。貰って下さい」
「……期待、していいって事?」
 櫛は、九と四と表現でき、それは「苦」と「死」を連想してしまうから贈り物には向かない。しかし、その意味をあえて持ちあげて、「苦しい時も乗り越え、死ぬまで一緒に寄り添う」と言う意味で贈られる場合がある。
—それは、主に男性が女性に結婚を申し込む時。
「…はい、勿論。今すぐに、とは、お互いの仕事柄出来ないでしょうが。現状が落ち着き次第」
「…ッ」
 何故か、今言わなければならない気がした。
 俺は、彼女の想う“俺”ではない。器や魂と言う意味では同じだが、記憶を失った今、彼女の知る“白菊”ではない事は事実だ。それを知ってなお、俺を想ってくれているのなら、後悔する前に伝えたい。

貴女()の一番傍で、四季の巡りを眺めたい」
「初めて知ったんです。この身を焦がす、炎なんかよりも熱いものがある事を」
砌様()。俺は、貴女()と共に生きていきたい。それが可能なら、叶うのならば、」
「そうしたら俺は、この世の中に生きる誰よりも幸せだと、胸を張って叫ぶから」

「……しら、ぎ、」
 瞳に涙を溜めて、此方に顔を向けてきた。
砌様()
 誰よりも愛おしい貴女()の名を呼ぶ。
「…な、ぁに…?」
「ずっと、貴女()に言えなかったことがあったんです。言いたいことが、あるんです」
「ぅ、ん、」
 彼女の綴る彼女の物語の片隅に、欲を言えばその中心に、俺がいたなら。彼女の言葉に、彼女の笑顔に、俺は何度も惹かれてきた。それはまるで、心が魔法にでもかかったような感覚。きっとこれは、前の俺(白菊)も同じだったのだろう。
 そして、今、この瞬間、俺はそれを隠すことができない。彼女に対する思いが、もう胸の奥で燃え盛っている。彼女の目を見つめながら、俺は言葉を選び、胸の内から溢れ出る気持ちを伝える準備をした。
貴女()への気持ちを言葉にするのは、簡単ではありません。でも、今、この瞬間に、俺はそれを伝えたくてたまらない。貴女()が俺の心の中で特別な存在だってこと、貴女()を想う気持ちがどれほど大きいか、伝えたいんです」
 彼女は静かに俺の言葉を聞き、その瞳には驚きと共に温かい光が宿っていた。
 彼女の手を取る。その手に櫛を握らせて、ちゃんと目を見て、短くも長いその言葉を放つ。

「…愛しております(愛してるよ)。俺と、正式に夫婦になって下さい」

 彼女の大きな瞳から、透明な宝石がぼろぼろと零れた。
「…ッ、よろ、こんでッ…」
 その言葉が、まるで心の中に花を咲かせるような感覚を与えた。俺たちの間には、言葉を超えた絆が生まれた。そして、彼女と共に歩む未来が、今、明るく広がっているように感じられた。