「人の子よ。現世に戻るか、幽世に留まるか。その心は定まったか」
 私の十六の誕生日。昨日、白菊に言われた通り、私はここらを取り締まる神—魄龍と言うらしい—の下へ来ていた。流石は長といったところだ、白菊の神域より広く、美しく、そして空気が澄んでいる。
「…ここまで来てしまったのなら、もう戻れないと聞きました。ここで発した決断が、私の人生を左右し、二度と取り下げられないものとなるとも。そうであれば、話せない理由はありますか?」
「…どういう意味だ」
「意味も何も、何か、隠してらっしゃるでしょう?」
 一呼吸置き、魄龍様は口を開いた。その面持ちは、酷く辛そうな、酷く痛そうな顔だった。流石親友と言うべきか、その顔はかつての白菊と似ていた。
「……現世に戻るのならお主から、幽世に留まるのなら白菊から。どちらかの記憶が消える。もしお主があれから何か贈られたのならば、それさえ消えてしまうだろう」
 その言葉が、静かにこの身に落ち着いた。心のどこかで、分かっていた結末だった。
「…まぁ、そうでしょうね…そんなに簡単な事じゃないだろうし…」
「お主は、白菊との記憶がそんなにも大切なのか……なれば、白菊と魂結びをするか、眷属に成ればよかろうに。神と人の子では、どうしても釣り合わん」
「…ばぁか。釣り合う釣り合わないじゃないの」
 私は、一呼吸おいて言った。此奴にあったら、絶対に言ってやろうと思っていた言葉だ。神様じゃきっと、この気持ちは理解できないだろうから。

「それじゃ、対等じゃなきゃ、彼を愛しきれないじゃない」
 主従じゃ、その想いは偽りになってしまうだろうから。対等な立場で、彼と向き合いたいから。

「は、」
 魄龍様は、言葉を失った様に口を開いて固まった。その隙を逃さず、すかさず伝える。
「私は、現世を捨てる。幽世に、留まります」
 前々から、決めていた事だ。現世より、家族よりも私は、少しでも白菊と過ごせる可能性を取る、と。
「っま、待て、良いのか?人から神に成る場合、大半が末席に成り下がるか、荒魂神となり呪いと化す。人が神にのし上がるとは、そういう事だ。それは白菊よりもはるかに下、決して会う事の叶わぬ存在になるぞ」
 知っている。と言うか、そもそも人の子が上位格に収まれるなんて考えてすらいない。けれど、巷では式神と結婚した神がいるくらいだ、どんな位になったって、さほど問題ではない。それに、私を喰えば上位格に成れるというのであれば、そんな私が末席になる可能性の方が、低いだろう。
「それでも、この想いさえあれば、私は彼のもとに行ける。先日だって、守られてはいたけれど、生き延びた。きっと今回も上手くいく。上手く、やって見せる」
「お主…しかし、だからと言って、」
「私、思うの」
「……何?」
「…一度ね、白菊の御屋敷に、禁忌を犯した上位格が来たらしいんです」
「んな…っ」
 魄龍様は、何かに気付いたように言葉を詰まらせる。外では、私が死んだときと同じ、雪がさんさんと降っていた。その真っ白なスクリーンみたいな景色の中に、ぼんやりと人影が見えた気がした。
「神成ってことはさ、人間としての私は死ぬんでしょ?この身を繋いだのは白菊だ。白菊がいなければ、今の私はない。その恩を、私が神成して、彼の傍にいて、返したい」
 如何か、如何か届いて欲しい。この想いを、彼の友神である、多くの星々の輝きと消失を見つめてきたであろう、この方に。
 魄龍は、少し考えるそぶりを見せ、言った。
「お主、気付いて、おったのか」
「…魄龍様も?」
「嗚呼…気付いておるのならば、尚更何故、神成する?結末は、分かって居ろうに」
 私自身にとって、此処にいる理由はさほど重要ではなかった。長い夜が明けて、恋が終わるのを待っていた。その待ち時間で、知った。彼の視線の先には誰かがいる。いつからかは分からないけれど。庭先を見る時に。手紙を読む時に。そして、私の中に。私の中に、確かに“彼女”がいる。
「花は散り、夢は覚め、露は落ちる。なぜなら、そういう運命だからです」
「…嗚呼」
「だから、きっと何をしても無駄なんでしょう。分かってます」
「分かっているのなら、何故、」
「抗ってみたいんですよ。ほんの少しでいいから。それでも駄目なら、受け入れるから。少しでいいから、夢を見たいんです」
 それは、いつも見ていた夢。または、選ばれなかった方の未来。或いは、数多に分かれた道の先にあった、忘れ去られた可能性。それを捨てるくらいなら、拾い上げて試したい。人とは、そういうものではないだろうか。
「………承知した。成れば、社内で湯汲をせよ」
「…禊、ってこと?」
「嗚呼。お主かそこまで言うのならば、許可しよう。その代わり…」
「分かってる。格の事はどんなものになろうと文句なしよ」
「いや、そうではなく……」
 魄龍様はそこで押し黙った。しかし、ここで話しているのも時間の無駄だと考え、私はさっさと言われた湯汲をしに行った。魄龍様の言いかけたこと、少しだけ心当たりがある。けれど、もう決めた事。結末がどうなろうと、全て受け入れる心づもりだ。
 言われた場所まで移動する時、また同じ視線を感じた。しかしその先には誰も居ない。誰も居ないけど、誰かがいる。あの時と同じ、そして先の儀式に感じた気配と同じもの。
「阻止しに、来たの?」
 無。
「何か、言いに来たの?」
 無。
「失敗、しちゃう?」
 無。
「…後悔、してる?」
 無。
「ねぇ、会えるよね」
 さぁっと、小雪が散った。それが、答えだ。
「…行ってきます」
 最初で最後の、賭けに出よう。

 あの時と同じ、神社の中で湯汲をして身体を清める。その後は神社の中のご神体に向かって正座し、目を瞑って祈りを捧げた。しばらくすると障子の木を叩く音が聞こえてきた。
「もし、ご準備は済まされましたか」
「はい、大丈夫です」
 この屋敷に仕える式神が、私を外へ連れ出した。

 廊下を歩いている時、あの屋敷と似通った構造を見れば、彼との生活が脳裏に浮かんでは消えた。
 愛おしくて、懐かしくて、残酷な、まるで美しい歌集の中にいるような。何より大切で、何より幸せなあの日々。
 如何したら、守れる?私はあの手を、あの、暖かく大きな手を、如何したら離さずにいられるだろう。
 さんさんと降りしきる雪の中、あの屋敷の姿を思い出す。冬の輝く深い光が、屋敷に居る神様に纏って、きらきらと煌めく氷華の結晶に包まれたその一角が、まるで世界に、全てに見放された不可侵の聖域であるかのように思えてならなかった。事実、そこは神域で、基本は主神である白菊以外の者の侵入は禁止されている。そして、人間である私はきっと、そこに居座る権利などなかったように感じる。なのに、彼のご厚意で住まわせてもらえた。この決断は、これから先も私が彼の傍にあるために、必要不可欠なものなのだろう。
 本当なら、高校に通っているはずの年齢だ。私は、高校生になったら上京して、都会の学校に進学する予定だった。いち早くあの狂った村から、狂った村人から離れてしまいたかったからだ。それでも、此処に留まれたのなら、愛しい人といられて、大嫌いなあの村にも帰らなくて済む。どちらに転んだって、自分のエゴから生まれた判断には違いなかった。

「もし、砌様」
 ふいに、式神が私に声をかけた。感情の無いAIの様な、真っ直ぐな声だ。
「はい、何でしょうか?」
「その名は、砌と言う御名は、ご自分で?それとも、白菊様が?」
「自分で、付けました。彼、他人に付けてもらうなって言ってたので」
「左様で」
 そういい、式神は袖で口元を隠し笑った。しかし、魄龍様が余計な設定をしていないからだろう。その瞳は真っ黒で、感情を読み取ることができない。
「何か、良くない意味でもあったでしょうか」
「いいえ、いいえ」
 その方の話によれば、「みぎり」と言う言葉は平安時代頃から存在し、その頃は「水限」と書いたと言う。そしてその意味は、「雨滴の落ちる際」「頃合」そして、「場所」。
「砌様はお優しい方だ。もし白菊様が雨粒のように地へ堕ちて行ってしまわれたのなら、きっと優しく受け止め、そうして陽の光とともに空へ返して下さる」
 ほほほ、と笑い、私の頭をぎこちない動きで撫でた。
「どうか、白菊様の帰るべき場所におなりになって下さい。砌様という仲間がいて、砌様の傍という場所があるから、あの方は存在できるのです」
 話によれば、白菊の友神である魄龍は上位格の為になかなか会うことができないのだそうで、贄も百年に一度きり。ずっと一人ぼっちだったのを、式神たちも心配していたようだった。
 井戸端会議をしていた時も、同じような話を聞いた。やっぱり彼は、みんなから愛される存在なんだ、と再確認する。でも私は、その中の一人で居たくない。私は、私しかできないやり方で、彼を愛したい。
「さぁ、こちらです。左の鳥居をくぐり、楼門をお通り下さい。そこにある池にその御身を投げれば、人の器を捨て、神と成る」

 指示通り、左の鳥居をくぐる。すると目の前に、大きな楼門が現れた。京都の神社を思わせるような、豪華な造りをしている。私は、その扉に縋るように両手を伸ばした。そのまま、ぎぎぎと重い扉を押す。そこには、それは大きな池が存在していた。あの村の池なんか、比べ物にならない。
—ずっと、貴方に言いたいことがあるんだ。言えなかったことが、あるんだ。
 貴方に出会えた事で、私の世界は変わった。あんなに蒼い空も、華やかな色も、知らなかった感情も。たくさんたくさん、貴方から貰った。だから、私も返したい。
 ねぇ、知らないでしょう?
 この身を焦がす、炎なんかよりも熱いものがある事を。
 駄目だと分かっていても、諦められない時がある事を。
 今までの全てを否定してでも、欲しいものがある事を。
 お金なんていらないの。高い位も、綺麗な着物も、美しい宝物だっていらない。学校で友達ができなくたって、いい。全部をなげうってでも欲しいものがある事を、貴方は知らないでしょう?
 だから、私が教えてあげる。そして、貴方の本心を暴きだしてやる。それでも駄目なら、諦めるから。
「祓い給い、清め給え。(かむ)ながら守り給い、(さきわ)い給え」
 最期の祈りを捧げる。時代遅れなあの村で、唯一教わったまともな知識。
 そうして私は、流れるように池にこの身を投げうった。

(砌、)
 水の中で、白菊の声が聞こえた気がした。極寒の水に身を焼かれながら、ただあの人の事だけを考えた。
 ある一言を言ってほしい。謝罪よりも、懺悔よりも、その一言を貰えた方が、何倍も嬉しい。
 そうすれば私はきっと、私もあと一歩を進む事ができるから。貴方の為に用意したこの言葉を、伝えられるから。
 そうしたら私は、世界中の誰よりも幸せだと、幸せだったと、胸を張って叫ぶから。

 夢みたいな貴方。あの雪の日、貴方は確かに、私の水限(居場所)だった。貴方の声と、貴方の心音。そして、瞳に燃える命の灯。頬に感じる指先の脈に、水面に溶けた髪。
 雪に溶けたのは、白い菊の花。瞳に映るは、舞い散る紅に、戯れる銀糸と揺れる薄桃の羽織。
(そっか、やっぱり駄目か)

 幾多の祈りを受け入れし菊花に、今生の別れを。




——————————




 どんなに愛してくれたとしても、最後にはきっとこの手には残らないだろう。想いが残っても彼女はいない。彼女がいても想いは残らない。所詮記念のような関係にしかならないのだから、俺は何もしなかった。いや、何もできなかった、の方が正しいかもしれない。あの子の笑顔を見ると、己の無力さを痛感してしまっていた。
 隠してしまおう、とも思った。そうすれば、彼女は俺の神域の中で永遠の時を過ごすことができる。俺と共に永遠に生きる事ができる。真名を知らずとも、神気漬けにしてしまえば可能だった。それでも、隠してしまえば彼女は人でも妖でも神でもない、半端な存在になってしまう。それだけは、どうしても避けたかった。そんな矛盾した想いの所為で、結局最後まで彼女に想いを打ち明けることはできなかった。
 人とは、不思議なものだ。長い時を生きてきたが、俺は彼らについてまだまだ知らない事ばかりだ。
 人は知れば知るほど奥深い。そうして知れば知るほど、どうしようもないほど愛しく思う。
 むろん俺も、彼らの醜い心や憎い心、目を背けたいとさえ思う残酷さ。魄龍ほどではないが、たくさん見てきたつもりだ。時には彼らを守る必要性を見いだせず、いっそ滅ぼした方が良いとさえ思った。でも、そこに隠れる優しさや暖かさを知れば、そんな醜い側面でさえ愛おしく思う。愛くるしいと、想う。
 人の暗い部分の原因を知る度、その原因の原因を知る度、全ての原点を知る度、人の子の祈りを聞く度。
 彼らの傍にいる度に、愛おしいと思ってきた。

 でも、砌は違った。
 あれは、叶わぬと分かっていても俺に想いを告げてきた。一度は突き放したが、それでもなお諦めようとしないその姿勢に、並ならぬ感情を抱いた。
 俺を、信仰の対象である神として見るのではなく、ただ一つの個体として見るあの子が、酷く尊くて、恋焦がれてきた。
—ずっと、君に言いたいことがあった。言えなかったことが、あったんだ。
 叶わないと知りながら、あの子は傍にいてくれた。会いに、来てくれた。
 きっと俺は、失敗したんだ。その時、砌を振ったあの時。ここに来訪したナニカを見て、確信した。それなのに、失敗したというのに、何故、こんなにも嬉しいんだろう。あの子が、あの方が俺の為にしてくれたという事実が、悔やむべき事なのに、懺悔すべき事なのに、こんなにも、愛おしい。
(砌、)
「俺、格下はいえど神だからなぁ。戻った後、俺が特別に守護神にでもなってやるよ。俺はいつでも砌の声が届く様に、すぐ傍にいてやるからな」
(君との日々は、)
「未来の安定よりも、私は今、私の想いが通じた方が嬉しいんだけどな。さっさと私を北の方にしなさいよ」
「発言が若いなぁ年寄りには甘ったるくて胸が苦しい」
「貴方スイーツ好きでしょ。なんなら年寄りっつっても元服前後の姿してる癖に」
「翠…?まぁ、これでも数百年は生きてんだよ。だからこんな爺の事なんて諦めてくれないかなぁ。俺よりいい人、絶対いるって」
(確かに、短くはあった。が、)
「……もうすぐご飯できるよ」
「お、秋の味覚たっぷりだな。砌の作った料理は美味しいからね、楽しみだ」
(とても、とても)
 背後から、何者かの手が伸びる。その手が、俺の視界を奪った。とっさの事に、対応できなくて、だというのに、頭から彼女の笑顔が離れなかった。忘れられてしまうかもしれないし、忘れてしまうかもしれないのに。
 嗚呼、やっぱり、変えられなかったんだな、と、顔に触れた小さな手の暖かさを感じ、そう思った。

(幸せだった)



——暗転






「あ、白菊ゥ!!」
 某日。俺は神々の新年の集会に参加していた。この場は外部からの侵入が無いからだろう、気を抜いていたら、背後から友神が突進してきた。既視感しかない。
「っおいお前!新年の挨拶くらい普通にやってくれ、危ねぇだろぉが……」
「良いじゃんか俺らの仲だし。そういや、生贄ちゃんはどーなった?もう裳着迎えたろ?」
「生贄…?嗚呼、神成したらしい。だから、俺はその子の事何も覚えてないぞ、残念ながら」
「へ、」
 そう、まさかの神成だと。俺も驚いた。人の子から神に成るなんてことは、かなりの犠牲が必要になるし、神格だって分からないのに。そして生贄が神成した場合、生贄を得ていた神から記憶は抹消される事になっている。理由は明確ではないが、それが世の理なのだからいくら言ってもしょうがない事だ。
「えぇ…なんで危険な方を…わかんないもんだなぁ…」
「よほど現世が辛かったんだろうな。神成してまで帰りたくない様な場所に生まれたなんて、可哀想に」
「それは違うだろ絶対。いや、半分はあってるようなもんだがよ」
 そう食い気味で言い張る友神に、なんでだよ、と突っ込んだ。と同時に、生贄が俺にとって割と大切な存在であって、それをこの友神も知っていたという事を感づいた。
「きっと、忘れてしまえるくらい、どうでもいい事だったんだ。それに理通りでもあるし。だから、気にすんなよ」
なのに何故、こんなにも胸が痛むのか。神成したのなら、もう他人だ。気を配る必要なんてないのに。
「忘れてしまったことを、忘れられずにいるのは、きっと何かしら意味があるんじゃないのか?」
 そう友神は問う。でも、俺はそれに何も言い返せなかった。
 コイツの言う通り、意味はあるのだろう。そうでなければ、こんなにも悲しむ理由が分からない。だけれども、俺から消された記憶が、その意味を不透明なものにさせる。
「……そういや、今回招集された理由、なんだ?新年会にしては慌ただしすぎないか?」
「……あー、何でも数百年不動だった上位格が変動してんだってさ」
「だからか…魄龍がイラついて八つ当たりしてなきゃいいけど…」
 上位格ということは、俺は会うこともない相手だろう。縁もゆかりも何もない、珍しい話を新年にした。また集会の内容も、友神の言っていた通り上位格の変動についてだった。何でも、低格が贄を使ったわけではなく、人の子から神成した者が上位格の器だったのだそうだ。その話に、どこか既視感を覚えつつも、俺は自らの屋敷に戻ってきた。何故だかどうしても、俺のところに居た贄と神成した人の子の話だけ、脳裏に焼き付いて離れなかった。
 ふと、いつもは滅多に使わない厨が気になって、そこへ足を運ぶ。贄として捧げられた動物の餌を作る時しか来ないそこには、身に覚えのない調理器具やなんやらが置いてあった。しかし俺は物を食べずとも生きていけるしそもそも食べる必要がないため、処分してしまうことに決めた。きっとここに居た贄が使っていたのだろうが、覚えていないしいないのだからいらないだろう。元来綺麗好きな自覚があるから、さっさといつもの殺風景な部屋に戻したかった。今後再び俺の下に人の子が捧げられるなんてまずあり得ないし。


 ジジ…ジジジ……
 ちりん、ちりん——………


 厨を整理していると、いきなり野太く重い音が部屋に響き、鈴の音が聞こえた。——家主の許可なしで部屋が現れた。いや、どちらかといえば、どこかと繋がったようだ。
 基本他者の屋敷には干渉することはできないように結界が張ってあるはずだ。と言うかそもそも干渉すること自体が禁じられている。だから、可能性があるのならそれは悪意ある侵入者、荒魂神だろう。低格といえども俺とて神の末席に座す者。いつでも術式を使えるように警戒をすれば、中から俺とは真反対の白銀色の髪に、薄桃の羽織を靡かせた女神がこちらに近づいてきた。あまりの美しさに警戒を忘れていると、その袖の中から現れた手が、俺の瞳を撫でる。その小さな手の温もりに、何故か安堵した。
「……どちら様…?」
「…ふふふ、感動の再会だ!久しぶり~……って、え?」
 瞳がだんだんと大きく開かれる。その瞳には、並みならぬ苦い感情と、混乱の色が現れていた。少女とも言える幼い顔の瞳が、どうしてこれほど沈痛な眼差しで自分を見上げているのか、露程も分からなかった。かつて暖かな日差しの下、縁側で語り合った、顔も声も姿も思い出せない生贄に、何故か近しいものを感じた。
「はえ、?」
「白菊、だよね?」
「そ、そうですけども」
 現れた女神は、どんどん顔色を悪くしていって、首を絞められたかのようなか細い声で、言った。

「思い出せて、ない?」




——————————




 池に身を投げて、気が付いた時には見知らぬ屋敷―ここが私の神域らしい—に居た。想定通り、上位格に成れたらしい。過去の彼とのやり取りから、私の今後のやるべきことは既に決まっている。
 かつて現世で、何度か隠されかけたことがある。奴らは寄って集って言うんだ。「お前を喰えば上位格に成れる」と。そうして、神職が奴らを追い払う時、「せめて血の一滴だけでも」と懇願してくる。私が贄に選ばれた理由は、そんな私を鬱陶しく思った村の人たちによる口減らしだった。いや本当に何時代だよ。
「そんなに格が大切なの?神様なら、それだけで十分でしょうに」
 人間であり子供であった私には、そのこだわりがどうしても理解できなかった。位がどうであろうと、彼らは神なのだから、それだけで十分だろうに。人間では立場の違いで待遇が変わるものだが、神様にとって位の高低での差は特にないだろうに。
「上位格に成れば、現世に直接関与できるからね」
「直接関与?具体的には?」
「天変地異を起こしたり、死者を蘇らせたたり、或いは時間を操るとか?俺の炎なんか比べものになんねぇだろうな。ま、出来てもやらないってのが暗黙の了解だけどさ」
「…なんで?やっちゃった方がよくない?「俺はこんなに偉いんだぞー!」って」
「人の子には恩恵だとか加護を与えられるから、それだけで十分なんだよ。何て言うか、難しいけどさ。なりより、それを使おうものなら、」
 神格が落ちるか、文字通り堕ちるかのどちらかだからだ、と白菊は言う。当たり前だ。この世の理をひっくり返す事さえ可能なのなら、その能力を野放しにするわけにはいかないから。
 だからこそこの力を使って、過去に行き彼から私の記憶全てを奪おう。そして、未来でそれを与えればいい。どうせ私が神成をしたことで彼の中から私という存在は消えるんだ。私が奪ったって、いいだろう?上位格が天変地異なんかを起こせるならば、私が彼に記憶を与えることだって、不可能じゃないはずだ。あの時の“彼女”も、そう思ってあの場にいたのだろう。あの場にいたという事は、無事だった、という事だし。

「まさか、不動の上位格に新顔が現れるとはね。しかも元人間。物わかりの良い新神なら良いのだけれど」
 己の屋敷に、見知らぬ神が現れた。どうやら、魄龍様から遣わされた私の教育係らしい。これからしばらくは、幽世での振る舞いを、巫女であった時よりも厳しくたたき込まれるのだそうだ。
「…ま、その願いは聞けないけど」
「は?」
 ぽかんとした顔の教育係が面白くて、少し笑ってしまう。だって私は、このためだけに神成したんだから。与えられた己の神域と、彼の神域を繋げる。縁を辿ってやればいいんだから簡単な話だ。

 まずは記憶を奪うべく、過去に行った。陣を描き、術式を展開する。淡い光に包まれながら、目を閉じる。傍から見れば、普通に睡眠しているかのように見えるだろう。全て奪った後、白菊の屋敷へ向かおう。
 過去に行くといえども、飛ばすのは意識だけ。だから彼には私を認識することができない、はずだ。まぁ、一度だけ気付かれてしまう時があるらしいのだが。
 目を開いた先には、私が愛した、あの屋敷。
 あの日、あの冬の日。私の視線の先には、屋敷の裏に向かう一柱の神が見えた。
「…白、菊」
『…もう贄の時期か。って言うか、今回のは生きてる…?』
 そうだよ。生きてるんだよ。貴方に会うために、此処に来たんだ。
 白菊は、黒に金糸で菊があしらわれた羽織を着て、屋敷裏にある池―私が落ちた、あの池に向かって行った。私も、彼の後ろに憑いて行く。
 ついたそこは、木々に囲まれた静かな場所。屋敷からは少し距離があって、昼間でも暗い。太陽の光が届きにくい場所に位置しているから、水面も薄暗い。そんな場所に、真っ白の着物を着た、白銀の髪の少女が浮かんでいる。
—私だ。
『人の子…?なんで、こんなところに…』
 ここからが、始まりだった。終わりへと始まる瞬間だった。


 ぷかぷかと浮いているようだった。普通の子どもは親の腕に抱かれて眠るらしいけれど、それはきっとこのような心地なのだろうか。私は生まれた頃から一人で、人とのかかわりも最低限に育てられてきたので、その心地が分からない。でも、ひどく温かくて心地が良かった。
 揺られるばかりだった意識が段々と浮かび上がっていく。ゆっくりと水面に顔を出すように、私の意識も覚めて行った。

—闇。

 何処を見回しても一面の黒。星も月もなく、燭台の明かりもない。全身が漆黒の帳に覆われていて、上も下も左も右も分からない場所で、自分の身体だけが、水面に浮かぶ笹舟の様にぽっかりと浮かんでいる。
 暫くぼーっとして、それから白菊の記憶を奪いに来た事を思い出した。その瞬間、視界がいきなり開けて、大きな屋敷が現れる。

 本能が告げる。これは何処でもないあの場所だ。天上と地上と彼岸の狭間。人間が入る事の叶わぬ領域。一柱の神とその贄のみが入ることの許された、菊の狂い咲く迷宮。
 そんな中に人影が浮かび上がっているのが分かった。それは薄らとした中で確かな存在感を放ち、身じろぎ一つしないままにそこに立っている。どうして今まで気付かなかったのかと不思議になる程の視線を感じた。
「…あ」
 口から音が零れた。その音は風に攫われて消えた、意味のない音だった。言いたい事は山ほどある。しかしそのどれも言葉にならず、結局出たのはただの情けない空気だけだった。
『…———?』
「っ…!」
 暖かい、声だった。その声が六つの音を放ち、連なって三つの語になり、一つの意味ある単語に変わった。
 ぎゅっと唇を噛む。小走りで触れられる距離だった。でも縋り付く事は、しなかった。これが最期だと分かっていたから、せめて与えられた地位に相応しくあろうとした。
 此方を見る彼の瞳には、隠しきれないほどの悲痛が浮かんでいた。まるで「自分の所為だ」とでも言っているかの様な顔だ。
「…私が、望んだの。私が、私の為に」
 屋敷の奥に、もう一つの人影が見えた。それに向かって、私は指を指す。彼はそれに従い、後ろを振り返った。
『…やけに視線感じると思ったら、どうした?』
—もう、良いだろう。
 もういいだろう。もう帰ろう。
 不変など在りえない。永遠など存在しない。ならば私に、人間に出来ることは何なのだろう。それはやはり、愛しい人の傍にいる事であることだと思う。けれどもやはり、神と人の子は根本から相容れない。同じ人の姿を取っていても、流れる時間も考えも生き方も違う。人間は、きっと瞬きの間に死んでいく。人で在るとは、そういうことだ。だからこそ、その事実が覆る可能性があるのならば、と思ったんだ。

『……どちら様…?』

 なのに、手中に収まった記憶さえ、消えてしまうなんて、知らなかった。


「お、おはよう砌さん。いい夢、見れたかい……ん?」
「…悪夢でしたね…って、如何しました?」
「…っ何を!!何を、何ていう事を考えているんだ貴女はッ⁉」
 彼の神域から帰ってきた私—傍から見れば眠りから目覚めた私—に、教育係は怒号を浴びせた。
「うわうるさっ。寝起きだよこっちは」
「出来てもやらない、そもそも考えるんじゃないよッ!暗黙の了解だって聞いただろ、知ってるだろそんな事ッ!!」
 私だって、あの方法で彼の記憶を戻すことができないなんてわかってたら、やらなかったのに。その思いは、胸の中にしまっておいた。
 刹那、頭に小さな衝撃が走った。脳内に、魄龍様の声が響く。あの人テレパシーも使えるのね。
「……たった今、魄龍様から思念伝達来たと思うけど、君の神格は落ちた。つまり住む社も君の役割さえも変わった」
「…あれ、その程度で済んだんだ…思ったより軽…」
「…聞こえなかったのだが。今、何て言ったか今一度教えて頂けるか」
「すいません」
 この教育係、かなり圧が強い。そんな現実逃避をしても、心には何かぽっかりと穴が開いて、冷たい風が吹いているようだった。
「…時間を遡る、他領域への不法侵入は格落ち確定の禁忌だ。けれど、荒魂にまで堕ちなかったのは、それがこの世全体に与えるうる影響外のものだったからだろうね。勿論、魄龍様のお情けもあるだろうけど」
「あらみたま?」
 白菊と出会ったときと同じ、また小難しい話を持ち出してくる。私は生贄に選ばれたと言っても巫女の家系なわけではなかったので、あまり神様の知識に明るくない。
「堕ち神、或いは祟り神の事だよ。人々から信仰されなくなった神とか、怒りに身を任せた神、或いは荒々しい神。まぁ、和魂の反対だね」
「にぎみたま……」
「……やさしいかみさま、って事だよ」
「……すみません…」
「君よく神成しようと思えたよね……そういえばさ、どうして、こんなことしたんだい?」
「嗚呼、それは……」

『…私、砌っていうの。最近上位格に成ったんだ』
『え、あ、え!??上位格のお方が、何故、ここに?』
 なんで、こんなに他人行儀なんだろう。長年、一つ屋根の下で過ごしてきたというのに。
『……私、今日からここに住むから』
『はい…ん?』
 あんたが思い出すまで。ここに居座ってやる。思い出さなかったとしても、また新しく記憶を作ってやる。だけど、
『神域を繋げた事と、後のは…まぁ、どうにかなるでしょ。ここまで予定通りって事ね』
 何か招集があった時でさえ、会えるか会えないかわからないなんて、耐えられない。
『は?』

「…恋に、狂ってしまって。どうしても、手に入れたくって」
「あぁ…なら仕方ないね。ほら、新しいお屋敷に移動するよ、準備して」
「え、当事者の私が言うのもなんだけど、あの大騒動そんな簡単に片づけちゃっていいの?」
「ほんとは駄目なんだけどさ。人の子って恋路の為なら命をも絶つんだろ?何言っても意味ないさ」
 それは、ごく少数に限られた話だと思うんだけども。そもそも現代にそんなことする人いないけど。やるとしたら相当なヤンデレだよ。
「……大切にしてもらいなよ。白菊様、思い出して下さるといいね」
 そう言って、教育係は微笑んでくれた。私の想いを、認めてくれたみたいだった。
「はい、大切にしますよ」
「あ、する方なんだ…」
 ここまで応援してもらったんだ。絶対、思い出させてやるんだから。

 必ず、成し遂げて見せる。やってみないと、分からない事だってあるんだから。