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 次の日、もはや日課となった通知音で意識が覚醒する。
 金曜日くらい、ゆっくりと寝かせてほしいのに。今日を乗り切れば休みという日に、寝不足で学校を過ごすのは結構しんどい。
 二回目の通知音が鳴り、いつものように着替えて親を見送る。台所にあったバナナを一本手早く胃に流し込み、支度を済ませた。玄関の前でスマホを開く。彼女から送られてきた文章を見て、開けかけたドアを一度閉める。

『今日は制服で来て! 出来れば、お洒落して!』

 一体、彼女は何を言っているのだろうか。制服でお洒落ってどうしろというのだ。画面を眺め、思考を止めていると、ポンッという軽い音と共にトークが更新される。

『ちなみに今日の私は一段と可愛いです』

 続いて送られてきた画像は、彼女の自撮りだった。うっすらと化粧をしているようだ。
 彼女はメイクなんて野暮ったいことしなくても十分だと思っていた。しかし、実際にその姿を見ると、花も実もある彼女が一層色づいて見える。
 チャットを打つ画面を開き、やっぱり諦める。きっと、僕の反論は通らないだろう。
 部屋に戻り、制服に着替え直す。コートを羽織り、マフラーを付け、一応登校用の鞄も持った。制服にお洒落なんてやりようがない。仕方なく、洗面所でワックスを付ける。固定用のスプレーを一周。本当は一度、髪を濡らし、乾かしてから付けたいところだが、どうせ海風ですぐ乱れるのだ。あまりこだわらなくても大丈夫だろう。
 一体、どうして彼女の気まぐれにここまでしているのだか。

 べたつく手をお湯で乱暴に洗い流し、急いで家を出る。幸い、今日は海沿いでも風がほとんど吹いていない。髪が崩れることは無さそうだ。
 彼女の姿は既に暗がりの中に浮かんでいた。スマホの明るいライトが彼女の白磁の肌を照らす。

「お待たせ」

「おっ、来たね。おはよう」

 いつもよりじっくりと全身を下から上まで眺め、彼女は頷く。

「よし、いいでしょう。合格!」

 満足げな表情で親指を立てる彼女を見ても、その意図は掴めない。

「一体、何をするつもり? 制服ってコート着てても寒いんだけど」

「それを言うなら、私なんてスカートなんだよ? ま、慣れちゃったけどね」

 彼女は特に何かをするってわけでも無さそうだったから、いつも通り隣に腰かける。
 凍える空気を吸い込むたびに喉が張り付くように乾き、肺がちくっと痛む。耳鳴りのような鈍痛も結構不快だ。

「それにしても、やっぱりまだ寒いねえ」

 暗い視界の端で彼女の手が揺れた。僕との間をぽんぽんと叩く。もう少し近くに来いということらしい。恥ずかしさもありつつ、拒むのも違う気がして、彼女のすぐそばまで移動する。
 今日は風が無く、潮の香りが薄いせいか、彼女からふわっとした甘い香りが鼻腔をつく。
 彼女が僕をじっと見ていた。まだ辺りが暗くて良かったと少し思う。

「……どうした?」

 彼女がはっとしたように顔をそらす。

「なんでもないよ。ほら、寒いでしょ? おすそ分け」

 そう言って、彼女は腰に巻くようにしていた浅黄色のブランケットを広げて、僕の膝へかける。

「あと、これも半分ずっこね」

 ブランケットの中で彼女の手が触れる。じんわりと温もりが手を伝う。小さなホッカイロだった。

「あ、りがとう……?」

 多分、目に見えてどぎまぎしていたであろう僕に、彼女は小さな笑いを零す。

「どういたしまして」

 それから、やっぱりいつもみたいに他愛のないことを話した。今日の体育は持久走だから憂鬱だとか、テニスコートで煙草の吸殻が見つかって大騒ぎだったとか。きっと何日も経てばあまり思いだせなくなるような会話。
 不思議と退屈を感じない。そもそも、夜明け前は何かをするような時間ではないと思う。一日の始まりに備えて、ゆっくりと流れる合間の時間。何をしたって時間の無駄とか思わなくて、どうせすぐに忙しない朝が来るのだから。

「それでさ、野々宮ちゃん曰く、自分の彼氏がすごいイケメンらしくてね。画像送られてきたんだけど、どう思う?」

 見せられた画面には、二人の学生が写っている。観覧車の中で、互いに身を寄せ合って撮られたものだった。制服で隣町の高校だと分かる。

「どう? 同じ男の子の意見は」

「うーん、どうだろう……。何様だよって思われるかもだけど、とんでもないイケメンってわけじゃないと思う」

 別にブサイクってわけでもないし、特段整っているわけでもないように思える。頭一つ抜けた人って、同性から見ても満場一致になるわけで、写っている男性に関してはそこまでではないように感じた。言ってしまえば普通だ。

「そっか、やっぱり野々宮ちゃん盛ったなあ。校内一イケメンとか言うから気になったのに」

「秋永さん的にはどうなの?」

「ん? 何が?」

「いや、だからこの男性」

 妙な間の後、彼女はスマホを引っ込める。

「あー、うん、どうだろ。私、そこらへん疎いからなあ……。結局、大切なのは内面でしょ。そうだよね?」

 随分と曖昧な口ぶりだった。

「まあ、そうなんじゃない? 入りが顔からだとしても、性格とか合わなかったら続かないだろうし」

「だよね、だよね! そう言ったらさ、野々宮ちゃんってば顔が良かったら何でも許せるって言うんだもん。おまけに音子も早く彼氏つくりなとか言われた! マウントだよ! マウント!」

 彼女が膨らませた頬は、白みだした世界のおかげでほんのりと色づいている。

「秋永さんなら、すぐに恋人くらい出来るでしょ。この前も告白されたとか言ってたような」

「私、正直あんまり恋愛に興味ないんだ」

 冗談、というわけでは無さそうだった。少なくとも、僕から見れば彼女は本当にそう思っているように感じる。

「僕も興味ないから、分かる気がする」

「そっか、それは好都合」

「どういうこと?」

 彼女はおもむろにスマホのカメラアプリを起動させる。

「いやさ、ちょっとムキになっちゃてね。彼氏つくりなって言われた時に、いるもんって言っちゃったんだよ」

「……あぁ、なるほど。だから、制服着てお洒落してこいってね」

「理解が早くて助かるよ。こんなの頼める人が限られてくるからさ。それに、」

「それに……?」
 
 背景の海で、遠くの船が汽笛を鳴らす。画面に映った彼女が僕を横目で見る。

「多分、負けてないはずなんだよね。私には分からないけど、クラスのみんなが言ってるの聞くとさ」

「今、とんでもなく失礼なこと言ってるよ?」

 彼女がにっと笑う。そして、おもむろに僕の顎に手を添えて頬をつまむように押した。その瞬間、スマホが軽い音と共に瞬く。

「はい、真似して?」

「え、真似……?」

 何を真似しろというんだ。撮影ボタンの上をせわしなく彷徨わせる彼女の指を見て、余計に焦った。
 よく分からないまま、自分の頬を押し掴む。それを見て彼女が声をあげて笑う。その拍子に彼女の指がスマホに触れ、カシャッと軽快な音を鳴らす。瞬きの後、画面に写真が表示される。自分の変な顔より、彼女の自然な笑みに目が吸い寄せられた。

「そ、そうじゃないって、くふっ……ふふっ……」

「いや、だって真似しろって……」

「こうだよ、こう」

 彼女が僕の手を取り、そして自分の頬へと持っていく。彼女の顎先に手のひらが触れ、そのまま指が頬へと寄せられる。
 心臓が取れるかと思った。手を伝う彼女の熱に左腕が痺れる。真冬なのに背中にはじんわりと汗が滲んだ。

「ほい、ちーずっ!」

 スマホが二度、瞬く。画面に写し出される僕は、見事に引き攣った笑みを浮かべていた。おまけに半目だ。酷すぎて乾いた笑いが零れる。

「よし、これで朝の海デートってことに出来るでしょ!」

「あ、これでいいんだ……」

「え、気に入らなかった? 決め顔とかやっとく?」

「……いや、別にいい」

 まだ熱の残る左手を眺める。握って、閉じて、何度か繰り返した。

「いやらし~」

「な、何が!?」

 僕の左手を取って、彼女がごしごしと握った拳で擦る。

「はい、証拠隠滅! 安心してよ、学校の人たちには絶対に見せないからさ。というか、見せたら私も困る」

「当たり前だよ。僕だって色々と困る」

 彼女は僕を見て、何を浮かべたのか小さく笑う。まだ鼓動のうるさい僕は、必死に凪いだ波の行方を目で追っていた。
 スマホが震える。見ると、彼女からさっきの写真が送られてきていた。

「二人の秘密、また増えちゃったね」

 これが計算なら、末恐ろしい人だ。きっと、無自覚なんだろうけど。

「勝手に増やさないでもらえると助かるんだけど」

「まあまあ、いいじゃん。私は恋愛とかより、こういう方が楽しくて好きなんだけどなあ」

 僕も彼女も互いに隠している。誰しもが、全てを曝け出せるわけじゃない。親にだって隠し事をするくらいだ。それが当たり前。欺いて、欺かれて、自分すらも誤魔化して生きている。
 こうして毎朝彼女と過ごすことで、いつかは互いの秘密に触れてしまうのだろうか。それは堪らなく怖いことだし、恐ろしい。きっと気まずくなって、もしかしたらこの関係も無くなるかもしれない。そんなことになるくらいなら、僕らは隠し事を続けるべきだ。人はそうやって日々を生きているんだから。
 彼女の手帳を見てしまったのは、それから数日後の朝のことだった。