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 “いちばん大事なことに一番大事ないのちをかけてゆく”

 靴ひもを結びながら、相田みつをの言葉を思い出した。
 一体、彼女にとって大事なこととは何なんだろう。そのいのちを賭けるに値するものなのか。
 未だに彼女の行動原理が分からないまま、まだ真っ暗な外へと足を踏み出した。

 彼女が晴れやかな表情で僕を待っている。
 とてもじゃないけれど、今から幕引きをするとは思えない。生き生きとした雰囲気を漂わせ、彼女は僕に告げた。

「それじゃあ、行こうか」

 まだ星が顔を見せる最中、僕と彼女はささやかな反逆の締めくくりへと歩き出す。

 道中、自販機で飲み物を買った。彼女は缶コーヒー、僕はペットボトルの紅茶を。
 別に特別好きなわけじゃないけれど、決まって彼女と会うときは紅茶を買っていた。変わったことと言えば、取り出したそれはひんやりとしているということだけだ。
 凍えるような寒さなんて、すっかり昔のことのように思えた。今日は二人とも薄着だ。日中は暑くなるのだろうけれど、まだ陽の出ていない今は穏やかな気温だった。
 僕と彼女はいつも通り、何てことのない話をしながらゆっくりと歩いた。
 車も通らない道路を等間隔に街灯が照らす。前にも後ろにも長く続く一本道に、二人の声だけが響く。鳥の囀りも、虫の鳴き声も聞こえない。
 まるで、世界に僕と彼女しかいないみたいだ。
 それも別に悪くない。素直に思った。

 三叉路を抜けると、潮の香りが微かに鼻腔をくすぐる。すぐに清涼な軽い風が歓迎するように肌を撫でた。

「もうすぐだね」

 彼女の言葉に僕は意外にも胸中が穏やかだった。ホテルを出るまでざわついていた心が、まるで嘘のように凪いでいる。

「そうだ。ちゃんと言ってなかったや。……誕生日おめでとう」

 彼女がちらっと僕を見る。そして一瞬の間の後、嫣然とした笑みを浮かべた。

「ありがとう」

「十八歳か、もう成人だね」

 彼女からの返事は無かった。
 代わりに彼女が前方を指さす。

「見えてきたよ」

 木々の生い茂るハイキングコースの先に、一面の水平線が覗いていた。

「あちゃー、やっぱり人いるね」

 切り立った崖と崖を結ぶように橋がかかっている。高さ二十三メートル、長さ四十八メートルにも及ぶ長い吊り橋だ。上からはどこまでも続く海原を一望でき、真下を見れば白波が荒れ狂う溶岩の岬が姿を現す。

「観光名所だからね。仕方が無いよ」

 吊り橋の真ん中に数名の先客がいた。何でも、そこから見える日の出が有名らしい。

「ちょっと先に行けば、きっと誰もいないはずだよ。行こ!」

 二人で吊り橋を渡る。決して広くない横幅は並んで歩くのがやっとだ。
 憶病な僕は彼女の手を取る。すると、彼女は笑顔で握り返してくれた。

「初めて来たけど、すっごい景色だね」

「僕はちょっと怖いかな」

「そうかもしれないね」

 吊り橋の真ん中で朝日を待つ数名とすれ違う。彼らは僕と彼女を不思議そうに見ていたが、取り立てて何も言ってこなかった。子供に見られたからなのか、絶好の日の出スポットを素通りしたせいか、どちらにせよ話しかけられなくて良かったと思う。

 吊り橋を渡り切ると潮の香りを残して海は姿を隠す。石階段がなだらかに続き、再び木々に囲まれた。まだ暗い最中では少しだけ恐ろしい。しかし、右手に伝わる彼女の熱に僕の心はすぐに平常心を取り戻す。
 横目で彼女を見ると、随分と穏やかな表情をしていた。その表情から感情を読み取るのは難しい。

 彼女は今、何を考えているのだろう。
 僕は今すぐにでも、君の手を引いて逃げ出したいと思っているけれど。

 木々を抜けると、シャッターの閉まった土産屋が数軒立ち並び、その奥に灯台が見えた。白い筒が悠然と空へ伸びている。
 彼女が嬉しそうに顔を明るくし、僕の手を引いて駆け出す。そんな彼女を見ながら、僕はあの日を思い出していた。
 僕と彼女の出会いも、関係も、馴れ初めも、全てがこの白い塔の上から始まった。僕がそこにいなかったら、彼女はやっぱり飛び降りていたのだろうか。

「あちゃー、やっぱり開いてないか」

 灯台の入り口は大きな扉が閉まっていた。

「残念だね……」

「うん。でも、偶然灯台を見つけるなんて運命だなって思っちゃった」

 灯台の先は切り立った崖を前に、開けた空間が存在した。そこから見える視界を埋め尽くす水平線。むき出しの岩肌が細く切り取られた、まるでサスペンスドラマに出てくるような場所だった。

「ここが良さそうだね」

 彼女がそう言った時は、一体どちらの意味なのか分からなかった。だから、彼女が断崖の手前で腰を降ろしたのを見て、深く息を吐いた。
 しばらく二人で黒い海を眺めていると、水平線の先端がじわりと滲み始める。暗闇のフィルターがさっと一段階薄くなった。

「あー、もうすぐ今日になっちゃうね」

「……そうだね」

「そしたら、私も十八歳かぁ。……大人になっちゃうんだね」

 やけに悲しそうに聞こえたのは、多分気のせいじゃないと思う。
 徐々に世界が先駆けて色づいていく。

「まだ太陽が見えてないのにせっかちだよね」

 何度味わっても、やっぱり変だなと思う。
 夜と朝の境界は随分と曖昧だ。

 握った彼女の手がいつしか震えていた。

「どうしたの……?」

 彼女は微笑んでいたけれど、その焦点の定まらない瞳には覚えがある。だから、僕は思わず彼女の手を強く握った。
 その目は小学生の時の僕と同じだ。怖くて、怯えて、今にも崩れてしまいそうなぐらついた気配。

「…………怖いんだよ」

 彼女がぽつりと呟いた。
 白んでいく世界を拒絶するように、彼女がきつく目を閉じる。そこにもう張り付けたような笑みは残っていなかった。

「一体、何が怖いの……?」

 尻込みしている時間は無い気がした。もうタイムリミットがすぐそこまで来ている。
 彼女がゆっくりと目を開けて、僕を見る。握った手がするりと離れ、僕の頬を一度だけ優しく撫でた。

「あぁ……幸せだなぁ……」

 やっぱり、彼女はそう呟く。だからこそ、僕には彼女が何を恐れているのかが分からなかった。
 遠くの空が暁に燃える。色彩の薄い世界でやけに色濃く感じるそれは、一日の始まりを告げる焔のはずなのに、僕にはまるで彼女の終わりを知らせる最期の灯火に思えた。

「私は、大人になるのが怖い」

 ぽろっと彼女の頬を涙が転がった。

「この幸せな感情が薄れて無くなってしまうかもしれないと思うと、すごく恐ろしい。
 いつか、今見ている景色が美しいと思えなくなっちゃうのかな?
 この海が、空が、綺麗だと感じられなくなるのかもしれない。
 そんなの私には耐えられないよ……。
 君の顔だってちゃんと見てみたい。
 でも、そんな日は一生来ないかもしれない。
 見たい思いが強くなり続けて、どんどん辛くなっていくの。
 この先、楽しいことよりも辛いことの方が多いかもしれないって考えたら、生きるのが怖いんだよ……」

 感情を絞り出すように、彼女は曝け出した。その声はずっと震えていて、いつしか僕も共鳴するように口を震わせていた。
 彼女の感情が雪崩のように流れ込んでくる。ようやく、彼女の希死念慮に触れた気がした。
 彼女はいつも怯えていたんだ。灯台の上で出会った日も、明かる気に振舞う教室でも、僕だけを見てくれている今も――。

 彼女もずっと戦って、逃げ続けていた。未来への妄想を必死にかき消しながら、一足先に大人へとならざるを得ない環境に晒されながらも、彼女は子供であろうとした。
 奇しくも、大人になりたいと切望する僕とは真逆の想いだ。

「君主に先立たれて、日本が鎖国の気配をひたひたと感じさせる最中、用無しになった三浦按針は最期に何を思ったんだろうね」

「それは……」

 言葉が出てこなかった。
 不意に彼女は緩やかに笑みをつくる。それが、僕には諦めと決意の証に見えた。

「だから、私は彼のようにはなるまいって思っているんだよ」

 彼女は僕の手を離し、勢いよく立ち上がった。別れの合図だ。

「あっ……ま……っ……」

 足が震えて力が入らない。
 心臓が金切り声をあげている。
 力なく伸ばした手の先から彼女がどんどん遠ざかって行く様を、僕はただえずくように喉を鳴らして見ていた。

 細い崖の先端で彼女は立ち止まり、くるっとこちらを振り向く。
 全てが曖昧でぼやけた世界で、彼女だけが鮮烈に輝いていた。
 ただただ、美しい。有終の美という言葉があるけれど、まさにそう思えてしまった。

「だから、私は人生で最高に幸せな今、終わらせようと思う」

 彼女に魅入り、いつの間にか身体の震えは止まっていた。
 じりっと彼女がまた一歩、僕から遠ざかる。

 彼女のかかとが崖の輪郭を捉えた。

 僕はいつの間にか泣いていた。凍えてしまいそうなほど冷たい涙だった。

「一緒に死んでみる? って誘い、撤回するよ。私は君には死んでほしくないから。自分勝手でごめんね?」

 彼女が僕に背を向ける。その様に一切の躊躇は感じられなかった。
 彼女が迷わないことを僕が一番よく知っている。彼女はどんな時でも自分に素直だった。

「で、でも……」

「ここでお別れだよ。だから、早く行って? 大人になるなら、君はこっちを見ちゃ駄目なんだよ」

 彼女はどこまでも自分勝手で、そのくせ最後まで優しかった。
 その優しさに甘え続けたのが僕だ。
 ゆっくりと立ち上がる。遥か先まで広がる海原を前に、彼女の後ろ姿はとても小さかった。
 僕は彼女からたくさんのものを貰った。
 僕は彼女に何かあげられただろうか?
 彼女とは対等な関係でありたい。それなのにいつも僕が助けられてばかりで、背中を押されて。それならば、僕も彼女の背を押してあげるのが正解なのだろうか。

 歩き出す。
 先生の言っていた通りだ。一歩を踏み出すと、途端に身体が軽くなった。先のことばかり考えて踏ん切りのつかなかった気持ちが糸のようにちぎれる。

「……さよなら。かな――」

 前のめりに傾く彼女の身体を、僕は精一杯抱きしめた。
 吃驚を示すように彼女の身体がびくっと大きく波を打つ。
 彼女の肩越しにぱらりと小石が絶壁を転がり落ち、眼下で荒れ狂う白波が飲み込んでいく。
 抱きしめた身体はとても強張り、震えていた。
 微かに彼女が息を呑む気配がする。

「な……何、しているの?」

 随分と狼狽している声だ。
 その横顔が戸惑いを映す。まるで想定外だとでも言いたげに見えた。
 人として当然の行動。だけど、僕のことをよく知る彼女からすれば意外に思えたのだろう。

「来ちゃ、駄目だよ……」

 視界が一瞬、眩く瞬く。
 水平線の先端から、朝日が小さく顔を覗かせていた。

「音子は僕のこと、全然分かってないね。……違うか。音子は自分のことが全く分かってないよ」

「え……?」

 くるりと僕は音子を抱きかかえて反転する。背中を潮騒が撫でた。そして、そっと彼女を突き放す。
 目に見える全てが朝陽に燃え、世界の輪郭が鮮明になっていく。まるで、長い夢から覚めたみたいだ。

「音子は僕を変えたんだ。憶病で、弱虫で、こんなどうしようもない僕に勇気をくれた。おかげで、僕はこうして今ここに立っている。あの時、怖くて動けなかった一歩も、今なら踏み出せる気がする」

 あと一歩、足をずらすだけ。そんなの彼女がこの世界から居なくなることに比べたら、すごい簡単なことだ。

「駄目……だよ?」

 彼女が弱々しく首を振る。さっきまでの笑みは消え、ひどく怯えた顔をしていた。
 頼むから、そんな顔をしないでほしい。

「僕は変われたよ! 他でもない君のおかげだ。僕だって、音子には死んでほしくない。だから、音子が死ぬくらいなら、僕が代わりに死んでやる!」

 はったりなんかじゃない。彼女のために自分の命を投げ出すくらい、どうってことはなかった。
 彼女が辛い、幸せじゃないと感じるなら、それは世界の方が間違っている。

 刹那、彼女の顔がぐしゃりと歪んだ。大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。

「……っ、やだ……。そんなの、嫌だぁあ……っ!」

 その言葉を皮切りに、彼女は赤子のように声をあげて啼泣した。

「そんなのやだぁ……っ! 死なないでっ! ……ぅ、っ……!」

 悲痛な彼女の叫びに、さっきまで軽かった足が急に重たくなった。僕は彼女を泣かせるためにこんなことをしているんじゃないのに。
 彼女にはずっと笑顔でいて欲しい。その笑顔で、みんなを幸せにしてほしい。誰よりも幸せになってほしい。

「そ、それなら……! 僕が音子の分まで大人になってやる!
 もっと先の未来を見てみたいと思えるように、僕が道しるべになる!
 幸せにしてやるなんて言えないけれど、僕は音子がずっと笑っていられるようにたくさん努力する。
 僕に音子を変える力は無いかもしれないけれど、僕は君がいてくれさえすればいくらでも変われるんだ。だから、君がもう怯えなくてすむのなら何だってしてやる!」

 僕の本心。心からの叫びだった。

 よろよろと彼女が近寄って来る。いや、まだ僕から遠ざかろうとしていた。
 その道を塞ぐように彼女をせき止めた。

「でも、君は優しいからさ、私に付き合うじゃん……。そんなんだと、大人にはなれないんじゃない? 私は、人の足を引っ張ってまで生きたいとは思わないんだよ」

 彼女の目をじっと見つめる。
 彼女が見えなくたって、関係ない。伝えるんだ、僕の気持ちを最後まで。

「いいから、僕と一緒に生きて欲しい。僕を変えた責任を取ってよ。その代わり、僕も音子を止めた責任をこれからずっと取っていくから」

 僕を押しのけようとする彼女の手がすっと止まる。それが、彼女の答えだった。そして、ややあって僕へと撓垂れ掛かる。
 もう絶対に離さない。そう強く思いながら、彼女を抱きしめた。

「それなら、仕方ないね……。私は君と関わって前よりもずっと幸せになれた。これから先、私たちはもっともっと幸せになれるのかな?」

「うん……。絶対にそうしてみせるよ」

 彼女が僕を見上げる。そして、ゆっくりと破顔した。雨が燦々と降り注いだ後の虹のように晴れやかな表情だった。
 朝日が立ち昇り、今日がやってくる。
 しばらく、彼女と明け行く景色を眺めていた。

「綺麗だね……」

「うん。綺麗だ」

 それ以上、言葉は交わさなかった。ただひたすら、互いを離すまいと求め続けた。
 やがて、世界が音で満ちていく。また一日が始まった気配がした。

「もう一つ、済ませたいことがあるんだ……」

 彼女が僕からそっと離れ、向き直る。

「分かっているよ」

 やっぱり、彼女にはバレていたのか。でも、それで良かったと思う。もう、自分を偽るのはやめにしたのだから。
 次は僕の番だ。

 彼女が僕に手を差し出す。

「それじゃあ、行こうか。――()()くん」