彼女は言った。

「本当は、ずっとずっと、ずぅーっと! 君とこうやって色んなところに行きたい!」

「じゃあ、なんで……」

 その先の言葉がどうしても出てこない。
 彼女は静かに首を振る。だから、僕もそれ以上は聞けなかった。

 どこへ向かうのかと思えば、彼女は僕の手を引いて東京行きの新幹線に乗り込んだ。

「行き先くらい、教えてくれてもいいんじゃない?」

「いつもの公園は朝日が山向こうから昇って来るから、全然見えないじゃん? だから、ちゃんとした夜明けを見に行こうと思ってね」

 最後、と宣言したのにも関わらず、彼女はずっといつも通りだった。どこで覚えたのか分からない雑学を鼻高らかに披露したり、隙あらば写真を撮ったり、まるで今が平凡な旅の続きだと僕に伝えているみたいだ。
 見届けると決めたのに、あの手を取ったのに、気を抜けば「嫌だ」と言ってしまいそうで、僕は上手く話せなかった。

「次、降りるよ」

「え? 次って……」

 それは僕と彼女がこの旅の初日に初めて新幹線に乗った駅だ。もしかして、彼女は帰ろうとしているのだろうか。
 駅を降りると、見慣れた景観がとても怖かった。まるで今までがずっと夢の中で、急に現実へと引き戻された錯覚に陥る。
 僕の手を引いて、彼女が電車に乗る。やっぱり、それは旅の出発地点へと向かうものだった。
 一週間ぶりの地元の海が車窓から覗く。夕焼けが反射し、一面が燃えていた。
 たったの一週間なのに、随分と久しぶりに思える。それくらい、僕にとっては刺激的で、開放感があって、何より自分の気持ちに変化があった旅だった。

 だからこそ、足取りが重たい。彼女が言ったように、僕だって出来ることならば、ずっと彼女と二人きりでいたい。でも、彼女も僕もそれは出来ない。いつか、絶対に終わりが来るのだと理解していた。
 分かっていたつもりなのに、それはあまりにも急で、いざとなると足が震えてしまう。
 人が変わるのは一瞬だけれど、戻るのだって一瞬だ。だから、僕は彼女にバレないように必死に歯を食いしばって震える身体を押さえつけ続けた。こんな時まで彼女に頼っていたら、いつまで経っても彼女の横を歩けない。
 変わると決めたんだ。

 そして、旅の出発地点。僕と彼女の最寄り駅に到着する。しかし、隣の彼女はぼんやりと海を眺めたまま席を立とうとしなかった。

「降りないの?」

「まだだよ。……まだ、旅は終わってないんだよ」

 ゆっくりと景色が動きだす。この先はしばらく南下して、三十分もすれば終点だ。路線図を頭の中に浮かべて、彼女の目的の場所が分かった。

「なるほど、あそこなら確かに綺麗に日の出が見れるね」

「まあ、別に見れるならどこだって良かったんだけど。知らない場所が最後って何か嫌じゃん」

 電車はさらに五つの駅を経由し、僕と彼女は電車を降りる。
 既に外は薄暗く、人はほとんどいない。一応、リゾート地としてそこそこ名が知れているらしいのだけれど、言ってしまえば田舎だ。僕たちの住む町と同じ市だが、ここはその端っこ。少し歩けば田んぼだって見えてくる。

「とりあえず、泊まるところ探そうか」

 スマホを取り出そうとする僕を彼女が止める。

「いいよ、面倒だしあそこでいいじゃん」

 彼女がすっと指を差す。ネオンな明かりをぼんやりと浮かべたホテルだった。

「いや、駄目でしょ……」

「何を今さら。それに、私は極力君以外の人と会いたくないんだよ。今から全部、君との記憶だけで埋めたい。だから、ね?」

「……分かったよ」

 別に彼女となら、どこだって関係ない。それに僕も今は一秒でも長く、二人きりでいたかった。
 中に入ると、フロントと呼べる場所には誰もいなかった。僕にとっては噂話程度だったけれど、本当にそういうものなんだなと思いつつ、端のドアから急に人が出てこないか冷や冷やした。

「おぉー、本当にタッチパネルなんだ」

 もっと色んな種類の部屋があると思ったけれど、数種類しかなかった。彼女がぎこちなく画面を操作する。

「ちょっと緊張するね」

 何故か小声で彼女が言うから、黙って頷いておく。
 部屋は思ったより広く、想像していたよりも地味でちょっと安心した。それでもどこか落ち着かないのは僕の先入観のせいなのか、部屋全体の赤い主張がどことなく強いせいなのか。
 何だか色々あった気がして、部屋に入った瞬間どっと疲れが押し寄せた。

「お風呂広い!」

 はしゃぐ彼女の声が浴室から聞こえてくる。

「せっかくだし、一緒に入る?」

 その言葉にちょっとだけ一日目を思いだした。長かったようで、短い。

「早く入ってきなよ」

「ちぇーっ、私ってそんなに魅力ないかな?」

「僕からすれば世界一魅力的な人だよ」

 だからこそ、大切にしたい。
 彼女は軽く頬を染め、それを隠すように微笑む。

「言うようになったじゃん。私はね、君の素直な気持ちを全部知りたいんだよ?」

「努力はするよ。僕だって、秋永さんには知ってもらいたいと思ってる」

「そうなんだ。似た者同士だね」

 僕は彼女を追いかけているのだから、似ていくのは必然なように思える。それでも、彼女に言われるとむず痒くて、嬉しいというより誇らしかった。

 彼女を待つ時間はすごく長く思える。端々に顔を見せる大人の気配と、色々と考えて設計されているであろう室内の色調があまり好きにはなれなかった。
 やっぱり、一緒に入るべきだったかなとか、ちょっと思ってみたりして。でも、それも違う。自暴自棄みたいで後悔の念が残るのは明白だ。
 一緒に居られる。それだけで心の底から幸せなんだから、それ以上に望むことは何もない。

 彼女と交替で風呂に入る。いつもより少し熱めのお湯に打たれると、身体中がじんじんと痺れた。
 色々なものが剝がれ落ちていく。ずっとざわついていた胸中が静かになってしまった時は、すごく焦った。
 同時に疑問に思う。僕はどうしたいのだろうか。今さら考える時間なんて無いし、もったいない。無駄に先の事ばかり考える癖はまだ抜けそうもない。

 風呂を上がり部屋に戻ると、やけに静かだった。
 大きなベッドで静かに寝息を立てる彼女の姿。照明を薄暗くしてベッドサイドランプを付けると、急に眠気が押し寄せてきた。緊張の糸が切れたらしく、身体が重い。
 彼女の隣に横になった。思ったよりも沈むベッドに、彼女がうっすらと瞼を開ける。何度かゆっくりと瞬きをして僕を認識すると、満足そうに笑みを零す。

「ごめん。起こしちゃった」

「ううん。もったいないから、良かった」

「もったいない?」

「だって、もっとおしゃべりしたい。少しでも長く君の声を聞いていたいから」

 彼女の手が僕の頬を優しく撫でる。優しすぎて、歯がゆかった。そのまま、ゆっくりと鼻先、目元、そして唇へと彼女の手がなぞる。

「もしかして、私よりも睫毛長い?」

「そうかな? 確かによく言われるけど」

「いいな~、羨ましい」

 言葉とは裏腹に彼女が嬉しそうに笑う。

「どうしたの?」

「ふふっ、見えなくても、君のことちゃんと分かったのが嬉しくて」

 何度も彼女は僕の顔を撫でる。まるで、必死に覚えようとしているみたいだった。
 彼女が僕を知ろうとしてくれていることがたまらなく嬉しい。

「君は心がイケメンだね」

「それ、男子的にはあんまり嬉しくない台詞。でも、秋永さんに……ね、音子に言われるなら、えっと……すごく嬉しい」

 彼女の手が背中に回る。ぎゅっとくっ付いた彼女の熱が、たまらなく熱い。溶けてしまわないか心配なくらいだ。

「私にとって、最高の誉め言葉だからね。私がこんなこと言うの、君だけだよ」

 首元にかかる彼女の吐息が少しくすぐったかった。
 軽く抱きしめると、彼女は強く抱きしめ返す。
 長いこと、言葉も交わさずに互いに熱を感じ合った。
 このまま世界が止まってほしい。あれだけ憎らしかった神様に初めて本気で願った。

「ごめんね、ここまで付いてきてもらっちゃって」

 不意に彼女が呟く。

「違うよ。僕は自分の意思で音子と一緒にいるんだ」

 ぐりぐりと彼女が額を僕の肩へと押し当てる。

「じゃあ、ありがとうだね」

「うん……」

 責務だとか、自分のためとか、そんな言い訳はもう必要ない。僕は彼女と一緒にいたい。だから、彼女の手を取ったんだ。

 身体を起こし、鞄を漁る。彼女が不思議そうに肩越しに覗き込む。
 ラッピングの施された小包を取り出し、彼女に手渡す。

「明日、誕生日でしょ? だから、プレゼント」

 彼女は驚きの表情を隠すことなく、僕を見上げた。

「えっ!? うそっ、くれるの?」

 照れくさくて、ぎこちなく頷く。すると、彼女の表情が一気に明るくなった。

「全く、君は良い男すぎるよー。嬉しいなぁ、何だろ?」

 彼女がラッピングをほどいてる間、僕は落ち着かずにそわそわと視線を左右に意味もなく揺らす。人にプレゼントを渡したことなんて無いし、喜んでもらえるのかが凄く不安だった。

 包装紙が解かれ、小さな入れ物が姿を見せる。彼女がちらっと僕を見て、その入れ物を開けた。僕が彼女のために選んだ物、それは猫の模様が彫り込まれたつげ(くし)だった。

「えっと、海沿いって風が強いじゃん。いつも乱れた髪を手で整えてたから、櫛あれば便利かなって……」

 聞かれてもいないことをつらつらと喋ってしまうのは、きっと緊張のせいだ。
 気に入ってもらえなかったら、どうしよう。それに櫛をプレゼントするのは〝苦〟や〝死〟を連想させるからあまり良くないと見たことがある。でも、僕はそんなの関係なくて、とにかく彼女のために何が良いのか必死に考えた結果だった。
 怖くて見れなかった彼女の表情を恐る恐る確認する。彼女はそっと涙を零し、身体を小刻みに震わせていた。

「ど、どうした……?」

 彼女が震える手で櫛を大事そうに取る。

「嬉しくて、すごく幸せで……。幸せ過ぎて困っちゃう」

「そんな大層な物じゃないよ」

 彼女がゆっくり首を振る。

「私のために、君が選んでくれたことがたまらなく嬉しいの」

「そっか、喜んでくれたなら良かった」

「うん、ありがとう!」

 彼女が笑うと、瞼に堪った雫がはらりと頬を伝う。柔らかな明かりが、彼女の儚い笑顔を優しく映す。まるでいつまでも沈まない夕空の元にいるみたいだった。

 僕と彼女はいつまでも抱きしめ合った。嚙み締めるように求め、互いの熱をずっと感じていた。
 一度だけ、キスもした。
 幸せ過ぎて、どうにかなりそうだ。今日で僕の人生が終わりと言われても、すんなりと納得できてしまいそう。
 いつの間にか微睡んでいた意識のすぐ側で、彼女が声を漏らす。

「幸せだなぁ。ほんっとうに、幸せ……」

 何度も彼女は独り言のように繰り返し、僕はその優し気な言葉にいつしか眠りについた。