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 昨日は結局、寝るのが遅かった。疲れていたこともあるけれど、僕は目覚ましかそれに準ずる彼女のメッセージがないと、やっぱり朝には弱いらしい。
 目が覚めて天井がすっかり明るいことに気が付く。障子越しに木目を揺らめく光の波紋は、どこか朝の海面を想起させる。
 徐々に思考が追い付いてきた。多分、日の出は過ぎている。背中を冷たい何かが走り抜け、勢いよく飛び起きた。心臓がうるさい。
 この旅の間はもう早く起きる必要は無いと、昨日知ったはずなのに。分かっていても、やけに胸がざわついた。

 それからようやく、隣の布団が綺麗にたたまれていることに気が付く。眠るまで握っていたはずの左手は、だらしなく半開きで畳の上に垂れていた。息がくっと詰まる。
 気が付くと、僕は部屋を飛び出していた。廊下を何人かの宿泊客とすれ違い、その全員が僕を振り返る気配がする。

 ――今、どんな顔をしているの?

 彼女の言葉が鮮明に思い返される。
 全員を一様に二度見させるって、僕はどんな顔をしているのだろう。きっと今にも泣きだしそうで、引きつった、醜い表情をしているに違いない。
 外出用の下駄がすごく走りずらかった。宿を飛び出し、外壁をつんのめりながら曲がる。
 急こう配な坂の途中に彼女はいた。ちょっとだけ驚いた顔をしている。その姿を見て、僕は大きく安堵の息を衝いた。まだ心臓がうるさくて、からからの下口に舌が引っ付く。

 彼女がコンビニ袋を揺らしながら、不思議そうに小走りで駆けよって来る。その身体を、僕は反射的に抱きしめていた。
 彼女の身体がびくっと震え、少しして温かい腕が僕の背にそっと触れる。彼女の体温が、匂いが、息遣いが、僕を包み込む。人に見られたってかまわなかった。そんなことより、僕は無意識に彼女を求めていた。

「どうしたの? 急に、びっくりするよ?」

「何でもない……。ごめんね?」

 心配は杞憂なものだった。もしかしたら彼女はどこかで飛び降りようとしていると、僕が早とちりしただけ。それだけのことだ。

「ふふっ、変なの」

 彼女が僕の背を優しく擦るから、僕は力いっぱい彼女を抱きしめた。
 たった一晩で、感情のコントロールの仕方が下手くそになったみたいだ。彼女を思う気持ちが止められない。
 こんなの僕らしくない。昨晩から、彼女には恥ずかしい姿ばかり見せている。情けなくて、女々しくて。だけど、彼女はそんな僕をしっかり受け止めてくれるから、余計に駄目だった。

「朝ご飯買ってきたんだよ。部屋戻ろう?」

「……うん」

 その日は一日中、部屋でごろごろ過ごした。会話をしている時も、暖かい日差しに微睡む時も、彼女と過ごす全てが心地よい。このまま、毎日ずっと同じ(とき)が流れればいいのに。本気でそう思った。
 彼女はどう思っているのだろう。
 この旅は、彼女の終着点を見つけるものだ。その意思は変わってないのだろうか。なんとなく、後悔する気がしたから引き留めていたのに、今では心の底から彼女には死んでほしくないと思っている。
 でも、そんなことを彼女に言えるはずがなかった。浅ましくて、傲慢な思いを押し殺し、ただただこの握った手が離れて行かないことを願うしかない。

 どうすれば、彼女の生きる希望になれるのだろうか。

 次の日、僕と彼女は新しい場所へと向かうことにした。もちろん、行き先も目的も決めていない。ただ、彼女が遊園地に行きたいと言ったから、大きな遊園地がある場所を目指した。
 何時間かかったってかまわない。時間はたくさんある。僕と彼女はまだ、大人じゃない。

 県を二つ跨ぎ、まだ太陽は高い位置にあったけれど、僕と彼女はネットカフェのカップルシートでその日を過ごした。遊園地は朝一からに限る。二人とも同じ意見だったからだ。
 ネットカフェの狭い空間は高級な旅館の一室よりも心地よかった。そう感じたのは、僕だけだろうか。出来れば、彼女も同じ想いだと嬉しい。そんなことを考えながら、彼女と肩を寄せ合い眠りにつく。

 全部のアトラクションに乗る、といういかにもな目標を掲げて挑んだ遊園地は、全然一日なんかじゃ回り切れなかった。西日に傾いた頃、二人して無理だと悟った時は顔を見合わせて大笑いした。
 僕と彼女は最後にお化け屋敷に入った。観覧車ではないのが僕と彼女らしい。案の定、僕の方がびびって、陽気な彼女に手を引かれるがまま出口までたどり着く。僕は情けなく感じたけれど、彼女はそんなことを歯牙にもかけなかった。

 次の日は僕の一言で再び移動に費やすことになった。好きな食べ物を聞かれた際、何気なしにたこ焼きと言ったのが元凶だ。
 どんどん、旅の出発地点から遠ざかっていく。僕と彼女はその行為が反逆の象徴のようで、嬉しくてたまらなかった。
 子供じみた考えだということは理解している。でも、こんなにも心が躍ったのは生まれて初めてだった。大人たちには若気の至りという言葉で片づけられてしまうのだろう。実際、その通りだ。それでも、僕たちの最後の悪足掻きには誰だって口を出す権利は無い。
 彼女は来週、僕は来月、誕生日を迎える。もう立派な成人で、世間から見れば大人の枠組みに入ってしまう。

 変わりたい、大人に劣らない人間性を持ちうる彼女のようになりたい。そう思いながらも、彼女と共に逃げ続ける僕がいた。
 ……いや、逃げているのは僕だけか。彼女はしっかりと前に進んでいるんだ。
 この旅には明確な終わりが存在する。僕はまだ死ねない。死にたいとはやっぱり一度たりとも思わないし、やり残したことだってある。それでも、彼女の気が済むまでは付き合おうと思う。その結末がどんなものであれ、僕は見届けなければならない。あの日、彼女を止めた僕にはその責務がある。

 大阪に来たのは人生で二回目だ。中学校の修学旅行で訪れて以来だったけれど、久しぶりという感じもしなくて、三年という月日はあっという間なんだなと思った。
 二年間が地獄のように長かった小学校の時とは大違いだ。大人になると、時間の進みが恐ろしいほど早くて怖くなるって、先生も言っていたっけ。それとはまた少し違う気がするけれど、きっとこれから先、僕の人生はもっと足を速めるのだろう。

「私、タコ苦手なんだよね」

 大阪に着いてから聞いた話だった。その何気ない一言が、僕をまた彼女に溺れさせる。
 きっと、着く前に言ってしまえば僕が遠慮することを分かっていただろう。その優しさも、僕に隠し事をしないでくれる姿勢も、全部伝わってしまった。

「やっぱり、優しいんだよなあ」

「ん? それ私の真似?」

「そうだよ」

「似せる気ないでしょ~」

 彼女の笑顔が眩しい。僕はしっかり笑えているだろうか。作りものじゃない、本物で。
 大阪のついでに、奈良と京都も数日かけて観光することにした。平日の昼間に修学旅行生に紛れて、私服で彼女と歩くのはどこか優越感に近いものがある。

「何だか、修学旅行でカップルが抜け出してるみたいだね」

 彼女に言われた時は、僕の思考が筒抜けなのかと心配した。

「じゃあ、沖縄行った時は本当に二人で班抜けて観光しようか」

「あっ、そっか。私たち修学旅行まだじゃん」

 僕たちの高校は修学旅行が九月だ。忘れていたのか、それとも考える必要が無いのか。話題のチョイスを間違えたかもしれない。

「じゃあ、沖縄でも二人っきりだね。でも、みんなにからかわれるよ?」

 バレないようにほっと胸をなでおろす。

「今さらでしょ」

「それもそうだね」

 そう言いながら、彼女は僕を撮る。

「またSNSに上げるの?」

「これは違うよ。私だけのもの」

 ちょっとずるいなと思った。だから、僕もスマホを取り出して彼女に向ける。それに気が付いた彼女は女子高生らしくポーズを取るのではなく、無邪気に笑って子供のようなピースサインを僕にくれた。

「どう? 私、可愛い?」

「令和版口裂け女か何か?」

「ふふんっ、私からすれば口裂け女ものっぺらぼうだよ」

 胸張って言うものだから、つい笑ってしまった。こんな取るに足らないやり取りが、ずっと続けばいいなと思う。

「ねえ、」

 雑踏の中、彼女が立ち止まって振り返る。猫のような双眸が、僕の輪郭を捉えていた。

「楽しいね!」

 屈託のない笑顔が、不意に僕の胸をざわつかせた。

「そうだね」

「幸せだね!」

「……そうだね」

 彼女が僕に手を差し出す。その意味が、僕には分かる。最後まで僕に付いてきてほしいと、手持ち無沙汰に虚空を撫でる小さな手が言っていた。
 未だに、何が彼女に希死念慮を抱かせるのか分からない。それでも――。

「だから、次で最後だよ」

 名残惜しそうに彼女が言う。
 僕は彼女の手を静かに取った。