次の日は日曜日で学校が休みだった。
予定はなかったけれど、なんとなく目覚ましをかけてみた。鳥肌が立つような地獄のアラームを止め、スマホを見ると画面の眩しさに目の奥が痛む。同じ刺激のはずなのに、朝陽が海辺を照り返すそれを食らった時よりも、随分と身体に悪く思える。
五時十五分。ちょうど、日の出の一時間前だ。朝に弱い僕にとっては随分と早い起床だが、既に一階からは物音が聞こえていた。朝市へ向かう父と、それを起こす母からすれば、いつも通りの朝なのだろう。そう考えると、途端に布団から身体を出す気になれなくなった。
真っ暗な部屋にブルーライトの明かりが瞬く。
カーテンを開けると、ほんの少しだけましになった。そうは言っても一月の真冬。一年で一番日の出が遅い時期の外は思いのほか真っ暗で、星がまだわずかに瞬いて見えた。眼下に広がるはずの見飽きたオーシャンビューもまだ帳の奥に姿を隠し、道幅広い道路を走る車のヘッドライトが時折砂浜の輪郭を映す。
あと三十分もすれば、東の山向こうの空から今日が始まる。予定のない休みの日という、実に怠惰な一日の幕が開けるのだ。
窓から目を離し、枕に顔をうずめる。
目覚ましなんてかけなきゃよかった。このままもう一度眠れるわけがない。脳裏に昨日の出来事がチラつく。
あの後、彼女はちゃんと帰ったのだろうか。そのことを確認する術は、スマホの中のSNSでしか分からない。彼女の連絡先は交換してなかったし、そもそも僕の端末はつい先日変えたばかりで、データの引継ぎをしていなかったから、クラスのグループにもまだ参加していないままだった。
話を合わせるためにアカウントをつくったまま放置していたSNSを開く。見知った名前をとりあえず片っ端からフォローしておいた中に、彼女もいた。最後に更新された投稿の日時を見ると、昨日の夕方だった。クラスメートの中野さんと一緒に流行りのポーズを取っている写真だ。
ひとまず、昨日の忠告は通っていたらしい。彼女に死んでほしくない、なんて月並みな思いもあったかもしれない。でも、一番感情として大きいのは、少しでも僕が嫌な気持ちになりたくないという自己中心的な考えだった。その日に会話を交わした人間が死んだと分かれば、誰だって程度の差はあれど良い気分にはならない。それが見知った人物ならばなおのことだ。
僕は今日はやめてほしいとしか言っていない。それなら次の日……となるのだろうか。それほど意固地になってまで、とは思う。
想像してみた。漠然と、死にたいなぁと妄想してみる。……難しい。そりゃ、そうだ。死への願望を持ったことなんて、人生で一度も無いのだから。そんな人間に、彼女だって分かってほしくもないだろう。
感情をすっ飛ばして、灯台の手すりに手をかけてみた。昨日触れた感覚が蘇る。手がくっつくんじゃないかってくらい冷たい。ぐっと力を込めても、漫画のように突然ベキッと折れるなんてことはなさそうで、腰をかけてみる。手すりを握る力は強くなり、肩が自然と強張る。宙ぶらりんになった両足はぷらぷらと彷徨って落ち着かない。うるさい心臓の音が思考をさらに狭める。目の前に広がる百八十度の水平線。真下を覗く。自分の下半身越しに小さな地面が見える。平たいコンクリート。思いっきり飛んだとして、海面に落ちるのは到底無理そうだ。
不意に誰かに背中を押されるんじゃないかとそわそわし、振り向いてみる。そこには当たり前だが誰もいない。いたら、それこそ驚きでそのまま身体を滑らせてしまいそうだ。
せーのっ、と心の中で意気込む。そして、意を決して身体を放った。落下速度は想像よりもあまりに早く、走馬灯を浮かべる暇すらないまま、一瞬で灰色の地面へ――。
ゆっくりと目を開けた。ぼやける視界が、スマホの明かりを反射した天井の木目に焦点を合わせる。身体が軽く沈むマットレスと柔らかな枕の感触。重みを感じる厚めの羽毛布団。少し早くなった鼓動が、トクンッ、トクンッと聞こえてきた。
外に出るなり、強い浜風が横殴りに襲う。劈くような寒さに思わず足が回れ右をしかけた。
マフラーで口元まで隠し、コートのポケットに両手をつっこむ。灯台までは歩いて三分とかからない。何なら、もう既に見えていた。
途中、自販機で缶コーヒーを買う。釣り銭の返却レバーに手をかけ、やっぱりもう一本選ぶ。無難にペットボトルの紅茶にしておいた。あくまでも念のため。こんだけ寒ければ、別に一人で二本とも飲める。
両ポケットに一つずつ突っ込み、その温かさに手を痺れさせながら灯塔の内階段を登る。螺旋状になった薄暗い鉄筒に規則的なリズムで音が響く。真上を見上げると、ぽっかりと穴が開いて踊り場の天井が見える。まるで、異世界へと続く道のりに感じた。
いて欲しいのか、いて欲しくないのか。どちらかは分からないけれど、いない方がきっと何かと都合が良いのかもしれない。
でも、やっぱりと言うべきか、踊り場の手すりに撓垂れ掛かった彼女の背が見えた。声をかけるのも違う気がして、わざと強めに最後の一段を叩く。
彼女が振り向き、ぼんやりと足先から髪まで視線を上げた。
「おはよう、奏弟くん」
「……おはよう」
彼女はネイビーのウールコートの大きなボタンをきっちりと前で留め、薄桃色のマフラーを巻いていた。その隙間からは白地のセーターがちらっと覗いている。ゆるっとした長いパンツにモノクロのスニーカー。
同級生の見慣れない私服に思わず視線が泳ぐ。寝巻にコートを羽織るだけで来なくて正解かもしれない。
「奏弟くん、見すぎ~」
意地悪そうににやりと笑みを浮かべる彼女。ここに僕が来ることも、私服にどぎまぎすることも、全部が彼女に見透かされているような気分になった。
「ごめん……」
「謝ることじゃないよ。私が魅力的なのがいけないのです」
彼女は大袈裟に反らした胸をぽんっと叩く。今日はいつも通りの秋永音子だ。学校で見る、クラスの人気者の彼女がそこにいた。
外は寒そうだったから、内壁に沿ってぽつんと置かれたベンチに腰をかける。すると、彼女も倣って隣に座った。
だから、距離が近いんだよなあ、なんて思いながらもちゃっかりと左隣から伝わってくる熱を覚えた。
「来るんじゃないかって思ってたよ。待ってた甲斐があったね」
「僕も、まあ、いるんだろうなと思ったけど」
「そっか、じゃあ息ぴったりだ」
そう言いながら明るく笑う彼女。少し赤くなった鼻が、端正な顔立ちの彼女にどこか子供っぽさを覗かせた。
「どっちがいい?」
少しだけ熱の落ちた缶コーヒーとペットボトルの紅茶を取り出す。
「おぉっ、気遣いの鬼だ!」
「僕だけ飲んでたら、すごく嫌な奴でしょ?」
「私も飲み物を持参しているという考えは無かったのかね?」
確かに、と心の中で独り言ちた。
きっと、僕は見栄を張りたかったのだろう。飲み物を買っていったくらいでかっこいいとはならないだろうけど。
彼女は迷わず缶コーヒーを選んだ。ちょっと意外だった。教室で彼女がいつも紅茶を飲んでいたから、きっと好きなんだろうと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
もしかして、彼女も僕と同じなのだろうかと思った。だけど、多分本当に缶コーヒーの方が飲みたかっただけだ。自分で自分のことを魅力的だという人が、そんなつまらない見栄は張らないだろう。
「でも、ありがとうね。後少し遅かったら凍っていたかもしれないよ」
一月の海沿い、しかも高台で風に当たり続けていたら、それもある意味自殺行為だ。
震える指先でキャップを開ける。細い飲み口から白い湯気が微かに揺らめく。
「ねえ、」
「どうしたんだい? 悩める若者よ」
同い年じゃん、という返しはあまりにも陳腐に思えて、口をつぐんだ。
一口コーヒーを飲み、彼女が深く息を吐く。白い水蒸気が宙を舞う。まるで、少しでもたくさん出してやろうと思えるくらい、長い呼吸だった。
「明日は来ないからね」
「え、どうして?」
「昨日はその、たまたま寝つきが悪かっただけなんだよ。本当は早起きは苦手なんだ」
「でも、今日来てくれたじゃん。しかも、昨日よりも早かったし」
遠くの空が白み始めていた。不明瞭だった空と海の境目が今ではよく見える。
「僕は秋永さんの支えになるつもりは無いよ」
もっとも、なれるとも思わないけれど。
彼女がくすっと笑う。
「今日はそんなつもりで来たんじゃないよ。奏弟くんが来ないなら、すぐにどっか他の場所に行こうと思ってたし」
「そうだったんだ。じゃあ、無駄足だ」
「朝から可愛い子と密会しているというのに、なんだその言いぐさは」
腕に彼女の肘が触れる。つん、つんと僕を咎めるように何度か軽く突かれた。
「でも、それならなおさら明日からは来なくても大丈夫そうだね」
「大丈夫じゃありませーん。あーあ、なんだか悲しいなあ~。このままじゃ、衝動的に飛び降りちゃいそうだな~」
どんなに冗談だと分かる口調だとしても、少しだけ胸がざわついた。だというのに、当の本人はにやにやと僕の反応をうかがっている。昨日の彼女とはまるで違う。別人にすら思えた。それでも、秋永音子は秋永音子だし、彼女は誰にも真似が出来ない魅力が詰まっている。
誰かを真似るには、少なからず同等以上の人間でなくてはならない。その点、彼女になりきるためには相当な人間力が必要だ。月に何度も告白されるような容姿、誰が見ても完璧な内面、人を惹きつける所作。どれを取っても、他人が彼女になりきるのは不可能に思える。それくらい、秋永音子という存在は人間として優れていた。
「あのさ、どうしてそんなことをしようと思ったの?」
踏み込んだ発言を、言い切ってから後悔した。底なしの沼に自ら足を踏み入れたようなものだ。しかし、彼女の返答はあまりにも浅い底だった。
「え、なんとなくだよ」
「なんとなく?」
「そうだよ。最近はいつもあの公園にいるんだけどさ、」
彼女は立ち上がり、わざわざ風が吹き荒れる展望台へと軽やかな足取りで向かい、左下を指さした。僕には白い内壁しか見えなかったけれど、ここら辺で公園といえば一か所しかない。だから、そのまま壁に背を預け続けた。
彼女はそんな僕を見て、頬を膨らませる。そして、やはり風が冷たかったのか耳を真っ赤にしてすぐに元通りの位置へと戻って来た。
「誰もいない海辺の公園で芝生に身体を放り出してさ、白く明けていく空を見て思ったんだよ。あー、死んじゃおっかなってね」
はっきり〝死〟という言葉を口にした彼女は、あまりにもあっけからんとしていて、僕の中で昨日の彼女と大きな齟齬が生まれた。
「死にたい……じゃなくて?」
「まっさかぁ。私、死にたいと思ったことは一度も無いよ」
それでは僕と同じじゃないか。
あっけに取られる僕を見て、彼女は嫣然とした笑みで続けた。
「いい天気だし、今日かなってなんとなく思っただけ」
本当にそんな漠然とした理由で、彼女は希死念慮を抱いたとでも言うのだろうか。
興味が湧かないとは言えなかった。もっと彼女の人生観を聞いてみたかったけれど、そうすれば、今度こそ深い沼に飛び込むことになるのだろう。
少し残っていた紅茶を流し込み、立ち上がった。
「とにかく、用事が済んだし僕は帰るよ」
「えー、もう少しお話ししようよ」
「秋永さんも風邪引く前に帰りなよ」
会話をぶった切るように取り付けない態度をしたことに、ほんのちょっと心が痛んだ。けれど、これで良いんだと思う。
逃げるように歩き出した。
「あ、待って、待って!」
彼女が僕の袖を掴む。流石に振り切るのは人としてどうなのだろうと思い、仕方なく立ち止まる。
「連絡先、交換しようよ。本当は男の子にはあんまり教えないんだけどね、奏弟くんは大丈夫そう。だから、ねっ」
そう言って、彼女は僕にスマホの画面を向ける。メッセージアプリのQRコードがでかでかと表示されていた。
「大丈夫そうって何が?」
「ほら、しつこい人も多いじゃん? 私、文章でのやり取りって好きじゃないんだよ。あ、電話もね。その点、奏弟くんはどう考えても自分から私に連絡はしてこないでしょ?」
「そりゃ、用が無いからね」
「だから、大丈夫なんだよ。ほら、早く!」
きっと、彼女なりの自己防衛なのだろう。好意の押し付けは人を疲れさせるだけだ。人気者の彼女は特に多いことは容易に想像出来た。そして、その気持ちは僕にもよく分かる。
拒んでも彼女は食い下がりそうだから、仕方なくスマホを取り出す。
「ちょっと待って」
「もー、そんなに時間はかからないでしょ。もしかして、奏弟くんっておじいちゃん?」
「……スマホを変えたばかりで、操作がおぼつかないんだよ」
プロフィールを見直す。おかしなところが無いかしっかり確認してから、彼女のQRコードを読み取った。
「おっ、来た! ありがとうね!」
彼女のアイコンはこげ茶色の猫の画像だった。きっと、見る人全員が彼女らしいと思うのだろう。もしかしたら、そういう意図なのかもしれない。その実、僕も似合うなと思ってしまった。
「じゃ、また明日、学校でね」
「うん、また明日!」
外に出ると、すっかり視界が良くなっていた。星は姿を隠し、東の山が橙色に侵食されている。これでもまだ夜明けとは呼ばないことに、僕は疑問を抱いた。
明け方、彼は誰時、曙。どれも似合っていない。僕から見れば、もうとっくに朝が来たと言えるのに。
次の日、僕は予想通り彼女からのメッセージで目を覚ました。
空はまだ暗いままだった。
予定はなかったけれど、なんとなく目覚ましをかけてみた。鳥肌が立つような地獄のアラームを止め、スマホを見ると画面の眩しさに目の奥が痛む。同じ刺激のはずなのに、朝陽が海辺を照り返すそれを食らった時よりも、随分と身体に悪く思える。
五時十五分。ちょうど、日の出の一時間前だ。朝に弱い僕にとっては随分と早い起床だが、既に一階からは物音が聞こえていた。朝市へ向かう父と、それを起こす母からすれば、いつも通りの朝なのだろう。そう考えると、途端に布団から身体を出す気になれなくなった。
真っ暗な部屋にブルーライトの明かりが瞬く。
カーテンを開けると、ほんの少しだけましになった。そうは言っても一月の真冬。一年で一番日の出が遅い時期の外は思いのほか真っ暗で、星がまだわずかに瞬いて見えた。眼下に広がるはずの見飽きたオーシャンビューもまだ帳の奥に姿を隠し、道幅広い道路を走る車のヘッドライトが時折砂浜の輪郭を映す。
あと三十分もすれば、東の山向こうの空から今日が始まる。予定のない休みの日という、実に怠惰な一日の幕が開けるのだ。
窓から目を離し、枕に顔をうずめる。
目覚ましなんてかけなきゃよかった。このままもう一度眠れるわけがない。脳裏に昨日の出来事がチラつく。
あの後、彼女はちゃんと帰ったのだろうか。そのことを確認する術は、スマホの中のSNSでしか分からない。彼女の連絡先は交換してなかったし、そもそも僕の端末はつい先日変えたばかりで、データの引継ぎをしていなかったから、クラスのグループにもまだ参加していないままだった。
話を合わせるためにアカウントをつくったまま放置していたSNSを開く。見知った名前をとりあえず片っ端からフォローしておいた中に、彼女もいた。最後に更新された投稿の日時を見ると、昨日の夕方だった。クラスメートの中野さんと一緒に流行りのポーズを取っている写真だ。
ひとまず、昨日の忠告は通っていたらしい。彼女に死んでほしくない、なんて月並みな思いもあったかもしれない。でも、一番感情として大きいのは、少しでも僕が嫌な気持ちになりたくないという自己中心的な考えだった。その日に会話を交わした人間が死んだと分かれば、誰だって程度の差はあれど良い気分にはならない。それが見知った人物ならばなおのことだ。
僕は今日はやめてほしいとしか言っていない。それなら次の日……となるのだろうか。それほど意固地になってまで、とは思う。
想像してみた。漠然と、死にたいなぁと妄想してみる。……難しい。そりゃ、そうだ。死への願望を持ったことなんて、人生で一度も無いのだから。そんな人間に、彼女だって分かってほしくもないだろう。
感情をすっ飛ばして、灯台の手すりに手をかけてみた。昨日触れた感覚が蘇る。手がくっつくんじゃないかってくらい冷たい。ぐっと力を込めても、漫画のように突然ベキッと折れるなんてことはなさそうで、腰をかけてみる。手すりを握る力は強くなり、肩が自然と強張る。宙ぶらりんになった両足はぷらぷらと彷徨って落ち着かない。うるさい心臓の音が思考をさらに狭める。目の前に広がる百八十度の水平線。真下を覗く。自分の下半身越しに小さな地面が見える。平たいコンクリート。思いっきり飛んだとして、海面に落ちるのは到底無理そうだ。
不意に誰かに背中を押されるんじゃないかとそわそわし、振り向いてみる。そこには当たり前だが誰もいない。いたら、それこそ驚きでそのまま身体を滑らせてしまいそうだ。
せーのっ、と心の中で意気込む。そして、意を決して身体を放った。落下速度は想像よりもあまりに早く、走馬灯を浮かべる暇すらないまま、一瞬で灰色の地面へ――。
ゆっくりと目を開けた。ぼやける視界が、スマホの明かりを反射した天井の木目に焦点を合わせる。身体が軽く沈むマットレスと柔らかな枕の感触。重みを感じる厚めの羽毛布団。少し早くなった鼓動が、トクンッ、トクンッと聞こえてきた。
外に出るなり、強い浜風が横殴りに襲う。劈くような寒さに思わず足が回れ右をしかけた。
マフラーで口元まで隠し、コートのポケットに両手をつっこむ。灯台までは歩いて三分とかからない。何なら、もう既に見えていた。
途中、自販機で缶コーヒーを買う。釣り銭の返却レバーに手をかけ、やっぱりもう一本選ぶ。無難にペットボトルの紅茶にしておいた。あくまでも念のため。こんだけ寒ければ、別に一人で二本とも飲める。
両ポケットに一つずつ突っ込み、その温かさに手を痺れさせながら灯塔の内階段を登る。螺旋状になった薄暗い鉄筒に規則的なリズムで音が響く。真上を見上げると、ぽっかりと穴が開いて踊り場の天井が見える。まるで、異世界へと続く道のりに感じた。
いて欲しいのか、いて欲しくないのか。どちらかは分からないけれど、いない方がきっと何かと都合が良いのかもしれない。
でも、やっぱりと言うべきか、踊り場の手すりに撓垂れ掛かった彼女の背が見えた。声をかけるのも違う気がして、わざと強めに最後の一段を叩く。
彼女が振り向き、ぼんやりと足先から髪まで視線を上げた。
「おはよう、奏弟くん」
「……おはよう」
彼女はネイビーのウールコートの大きなボタンをきっちりと前で留め、薄桃色のマフラーを巻いていた。その隙間からは白地のセーターがちらっと覗いている。ゆるっとした長いパンツにモノクロのスニーカー。
同級生の見慣れない私服に思わず視線が泳ぐ。寝巻にコートを羽織るだけで来なくて正解かもしれない。
「奏弟くん、見すぎ~」
意地悪そうににやりと笑みを浮かべる彼女。ここに僕が来ることも、私服にどぎまぎすることも、全部が彼女に見透かされているような気分になった。
「ごめん……」
「謝ることじゃないよ。私が魅力的なのがいけないのです」
彼女は大袈裟に反らした胸をぽんっと叩く。今日はいつも通りの秋永音子だ。学校で見る、クラスの人気者の彼女がそこにいた。
外は寒そうだったから、内壁に沿ってぽつんと置かれたベンチに腰をかける。すると、彼女も倣って隣に座った。
だから、距離が近いんだよなあ、なんて思いながらもちゃっかりと左隣から伝わってくる熱を覚えた。
「来るんじゃないかって思ってたよ。待ってた甲斐があったね」
「僕も、まあ、いるんだろうなと思ったけど」
「そっか、じゃあ息ぴったりだ」
そう言いながら明るく笑う彼女。少し赤くなった鼻が、端正な顔立ちの彼女にどこか子供っぽさを覗かせた。
「どっちがいい?」
少しだけ熱の落ちた缶コーヒーとペットボトルの紅茶を取り出す。
「おぉっ、気遣いの鬼だ!」
「僕だけ飲んでたら、すごく嫌な奴でしょ?」
「私も飲み物を持参しているという考えは無かったのかね?」
確かに、と心の中で独り言ちた。
きっと、僕は見栄を張りたかったのだろう。飲み物を買っていったくらいでかっこいいとはならないだろうけど。
彼女は迷わず缶コーヒーを選んだ。ちょっと意外だった。教室で彼女がいつも紅茶を飲んでいたから、きっと好きなんだろうと思っていたけれど、どうやら違ったらしい。
もしかして、彼女も僕と同じなのだろうかと思った。だけど、多分本当に缶コーヒーの方が飲みたかっただけだ。自分で自分のことを魅力的だという人が、そんなつまらない見栄は張らないだろう。
「でも、ありがとうね。後少し遅かったら凍っていたかもしれないよ」
一月の海沿い、しかも高台で風に当たり続けていたら、それもある意味自殺行為だ。
震える指先でキャップを開ける。細い飲み口から白い湯気が微かに揺らめく。
「ねえ、」
「どうしたんだい? 悩める若者よ」
同い年じゃん、という返しはあまりにも陳腐に思えて、口をつぐんだ。
一口コーヒーを飲み、彼女が深く息を吐く。白い水蒸気が宙を舞う。まるで、少しでもたくさん出してやろうと思えるくらい、長い呼吸だった。
「明日は来ないからね」
「え、どうして?」
「昨日はその、たまたま寝つきが悪かっただけなんだよ。本当は早起きは苦手なんだ」
「でも、今日来てくれたじゃん。しかも、昨日よりも早かったし」
遠くの空が白み始めていた。不明瞭だった空と海の境目が今ではよく見える。
「僕は秋永さんの支えになるつもりは無いよ」
もっとも、なれるとも思わないけれど。
彼女がくすっと笑う。
「今日はそんなつもりで来たんじゃないよ。奏弟くんが来ないなら、すぐにどっか他の場所に行こうと思ってたし」
「そうだったんだ。じゃあ、無駄足だ」
「朝から可愛い子と密会しているというのに、なんだその言いぐさは」
腕に彼女の肘が触れる。つん、つんと僕を咎めるように何度か軽く突かれた。
「でも、それならなおさら明日からは来なくても大丈夫そうだね」
「大丈夫じゃありませーん。あーあ、なんだか悲しいなあ~。このままじゃ、衝動的に飛び降りちゃいそうだな~」
どんなに冗談だと分かる口調だとしても、少しだけ胸がざわついた。だというのに、当の本人はにやにやと僕の反応をうかがっている。昨日の彼女とはまるで違う。別人にすら思えた。それでも、秋永音子は秋永音子だし、彼女は誰にも真似が出来ない魅力が詰まっている。
誰かを真似るには、少なからず同等以上の人間でなくてはならない。その点、彼女になりきるためには相当な人間力が必要だ。月に何度も告白されるような容姿、誰が見ても完璧な内面、人を惹きつける所作。どれを取っても、他人が彼女になりきるのは不可能に思える。それくらい、秋永音子という存在は人間として優れていた。
「あのさ、どうしてそんなことをしようと思ったの?」
踏み込んだ発言を、言い切ってから後悔した。底なしの沼に自ら足を踏み入れたようなものだ。しかし、彼女の返答はあまりにも浅い底だった。
「え、なんとなくだよ」
「なんとなく?」
「そうだよ。最近はいつもあの公園にいるんだけどさ、」
彼女は立ち上がり、わざわざ風が吹き荒れる展望台へと軽やかな足取りで向かい、左下を指さした。僕には白い内壁しか見えなかったけれど、ここら辺で公園といえば一か所しかない。だから、そのまま壁に背を預け続けた。
彼女はそんな僕を見て、頬を膨らませる。そして、やはり風が冷たかったのか耳を真っ赤にしてすぐに元通りの位置へと戻って来た。
「誰もいない海辺の公園で芝生に身体を放り出してさ、白く明けていく空を見て思ったんだよ。あー、死んじゃおっかなってね」
はっきり〝死〟という言葉を口にした彼女は、あまりにもあっけからんとしていて、僕の中で昨日の彼女と大きな齟齬が生まれた。
「死にたい……じゃなくて?」
「まっさかぁ。私、死にたいと思ったことは一度も無いよ」
それでは僕と同じじゃないか。
あっけに取られる僕を見て、彼女は嫣然とした笑みで続けた。
「いい天気だし、今日かなってなんとなく思っただけ」
本当にそんな漠然とした理由で、彼女は希死念慮を抱いたとでも言うのだろうか。
興味が湧かないとは言えなかった。もっと彼女の人生観を聞いてみたかったけれど、そうすれば、今度こそ深い沼に飛び込むことになるのだろう。
少し残っていた紅茶を流し込み、立ち上がった。
「とにかく、用事が済んだし僕は帰るよ」
「えー、もう少しお話ししようよ」
「秋永さんも風邪引く前に帰りなよ」
会話をぶった切るように取り付けない態度をしたことに、ほんのちょっと心が痛んだ。けれど、これで良いんだと思う。
逃げるように歩き出した。
「あ、待って、待って!」
彼女が僕の袖を掴む。流石に振り切るのは人としてどうなのだろうと思い、仕方なく立ち止まる。
「連絡先、交換しようよ。本当は男の子にはあんまり教えないんだけどね、奏弟くんは大丈夫そう。だから、ねっ」
そう言って、彼女は僕にスマホの画面を向ける。メッセージアプリのQRコードがでかでかと表示されていた。
「大丈夫そうって何が?」
「ほら、しつこい人も多いじゃん? 私、文章でのやり取りって好きじゃないんだよ。あ、電話もね。その点、奏弟くんはどう考えても自分から私に連絡はしてこないでしょ?」
「そりゃ、用が無いからね」
「だから、大丈夫なんだよ。ほら、早く!」
きっと、彼女なりの自己防衛なのだろう。好意の押し付けは人を疲れさせるだけだ。人気者の彼女は特に多いことは容易に想像出来た。そして、その気持ちは僕にもよく分かる。
拒んでも彼女は食い下がりそうだから、仕方なくスマホを取り出す。
「ちょっと待って」
「もー、そんなに時間はかからないでしょ。もしかして、奏弟くんっておじいちゃん?」
「……スマホを変えたばかりで、操作がおぼつかないんだよ」
プロフィールを見直す。おかしなところが無いかしっかり確認してから、彼女のQRコードを読み取った。
「おっ、来た! ありがとうね!」
彼女のアイコンはこげ茶色の猫の画像だった。きっと、見る人全員が彼女らしいと思うのだろう。もしかしたら、そういう意図なのかもしれない。その実、僕も似合うなと思ってしまった。
「じゃ、また明日、学校でね」
「うん、また明日!」
外に出ると、すっかり視界が良くなっていた。星は姿を隠し、東の山が橙色に侵食されている。これでもまだ夜明けとは呼ばないことに、僕は疑問を抱いた。
明け方、彼は誰時、曙。どれも似合っていない。僕から見れば、もうとっくに朝が来たと言えるのに。
次の日、僕は予想通り彼女からのメッセージで目を覚ました。
空はまだ暗いままだった。